いのちの水 2021年 1月 号 719号
だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者 である。古いものは過ぎ去った、 見よ、すべてが新しくなったのである。 (Ⅱコリント5の17) |
目次
現在は、世界の感染確認者は 1月中に1億人を越えると見込まれている。現在の世界人口は77億人ほどなので、世界では平均すると 70~80人に一人は、コロナ感染確認されたということになる。
しかし、貧しい国々では感染確認もなかなかできないから実際は、これよりずっと多くの割合でコロナの感染が広がっていると考えられる。
こうした時代のなか、リモート(*)とステイホームということが繰り返し言われるようになっている。
(*) remote とは、「遠い」、例えば、リモートコントロール(リモコン)
① 距離的に遠い a village remote from the town 町から遠く離れた村.
②(時間的に)遠い,遠い昔[未来]の.in the remote past [future] 遠い過去[未来]に.
ここで、ステイホームとリモートということは、キリスト者にとってどのような意味を持っているのか、その言葉そのものの意味から考えてみたい。
ステイ stay は、「留まる」、例えば、ホームステイ という言葉は、外国で、ある家庭での宿泊食事などを受けて滞在しつつ語学など学ぶことである。
私たちキリスト者にとっては、キリストの内にとどまることこそが重要である。他者のために祈るとき、神に、キリストのうちにとどまっていることになる。
けれども、人は、何らかの苦しいこと、悲しいことがなければ、真剣に神様のうちにとどまろうとしない。
詩篇にある多くの詩も、苦難からの叫びであり、それゆえにたえず主のうちにとどまることになっている。
ステイホームは、現在のコロナの状況で繰り返し言われているが、それは単に「自宅にとどまっていること」であり、子供でも容易にわかる意味で用いられている。
しかし、私たちキリスト者にとっては、ホーム home というのは 全く別の意味を持っている。
home は、辞書には、「(生活の場としての)家、わが家、自宅」の他に、「家庭生活、生まれ故郷、郷里、本国」等々のより広く深い意味がある。(*)
(*)例えば、 Where's your home? あなたのお国はどちらですか. のようにつかわれる。
さらに、
a〔動物の〕生息地; 原産地,といった意味もあり、the home of tigers (トラの生息地).
b〔思想・制度などの〕発祥地,本家,本元 〔of〕.the home of democracy 民主主義の本家
キリスト者にとっては、このステイホームということは、はるか昔、二千年前から、常になされていることである。ステイホーム、それは私たちにとっては、ホームとは、キリストだからである。
私たちの国籍は天にあり、とあるように、本当のホームは、天、すなわち神、キリストのところである。
主イエスは、言われた。
… 我に 居れ、さらば 我なんぢらに 居らん。
わが内にとどまれ、そうすれば、私もあなた方の内にいよう。(ヨハネ15の4)
Remain in me, and I will remain in you (NIV)
現在繰り返し言われているのは、単に コロナの一時的な感染対策としての、ステイホームであり、単に自分の家でいることであるが、キリスト者にとっては、ホームはキリストであるので、キリストの内にとどまる
Stay in Christ ステイ イン クライスト ということになってきわめて重要なことになる。
そして、この世での ステイホームは、家庭内暴力などを増大させ、また、仕事がなくなったことからのストレス、圧迫感が積み重なって、心の病気となったりみずから命を断つ人がかなり例年より増大した。
単なるステイホームは、夫婦や親子の双方が、うんざりするという人も多い。
しかし、霊的なステイホーム(キリストの内に留まること)は、いつまでもその内にとどまり続けても決して飽きることがなく、留まりつづけるほどに主の平安が与えられ、そこにあらゆる祝福のもとがある。
また、リモートということについて。
現在の日本の状況において、リモートワークとは、会社に出勤すると、電車、バス、会社などでの感染の危険性が高まるゆえに、自宅など会社から離れたところで、インターネットを用いつつ、仕事をすることを意味している。
しかし、キリスト者にとっての リモートワークとは、遠くにいる友のことを主にあって思い起こすこと、祈ることである。キリスト者にとって最も重要な仕事は、祈りである。祈りなくては主とつながることがなく、主につながっていなければ、何をしても自分の考え、周囲の人間的な圧力や命令、風潮、また他人からの賛辞を期待してするということになってしまう。
祈りなくしては、最も大切なものー愛や真実、清い心、苦しみに耐える力等々ば受けられない。
「求めよ、そうすれば与えられる」と主イエスが言われたとおりである。
それは主は愛であり、全能であるゆえに、その祈り、ある人を真実に祈りのうちで、思い起こすことは相手に届いていると信じることができる。
相手の人がそれに気付くかどうかではない。
キリストもつねに私たちのそばにきていてくださって、心の扉をたたいてくださっているが、それは気付かないことが圧倒的に多いのと同様であり、また、大空や白い雲、星々、樹木や草花…等々の自然の深い語りかけもたえずなされていても私たちが心を開かないかぎり、その自然のさまざまのものからのメッセージに気付かないことと同じである。
新しい一年を迎えるにあたって、ステイホームと、リモート ということーすなわち主の内にとどまりつづけること、そして遠くにあってもいろいろな人々のことを祈りつづけること …そしてそこから示されることを主の力によってそれぞれが可能なことをどんな小さなことでも行なっていく一年でありたい。
旧約聖書を通じて、神が特定の人間に対して、「友と語るように」語ったのは、モーセに対する一カ所のみである。
…人がその友と語るように、主はモーセと顔を合わせて語られた。(出エジプト記33の11)
顔と顔をあわせて神が友と語るように、モーセと語ったという。旧約聖書における神とは、正義の神、裁きの神であるから、到底「友」というような関係になることは考えられないほどのことである。
また、預言者イザヤについて聖書の記すところを見てみよう。
イザヤは、その生涯において、天が開けて神を見るという特別な経験を与えられた。
それは大いなる神の特別な賜物であり、恵みであったから、本来なら、おおいに喜び、神に感謝すると思われるが、それとは全くことなり、次のように言った。
…「ああ、私は滅ぼされてしまう。
私は汚れた民の中に住み、汚れたことを言う者なのに、わが目は、すべてを支配されている主なる神を見たからだ。(イザヤ書6の5より)
それほど、当時のユダヤ人たちも神を見ることはできない、もし見るなら滅ぼされてしまうーという考えが深く浸透していた。それにもかかわらず、イザヤには、神を見るという特別な体験が与えられたし、モーセには神と顔と顔を合わせて見て、神の言葉を受けたのだった。
(*)友と訳された原語(ヘブル語)は、レーア(rea)であり、ギリシャ語は、フィロス(philos)である。フィロスは10数回新約聖書で「友」という訳語で用いられている。この語は、phileo フィレオー(愛する)に由来する。
なお、「友」を意味する英語 friend 、ドイツ語のFreund(フロイント)の語源は、古くさかのぼると、 *priy-ont-,すなわち、 loving(愛している) を意味する語に由来する。これは、語根が *pri- (愛する)という語の現在分詞の形である。(英語語源辞書による)
さらに、アブラハムについても、彼が神の言葉を聞いてそれに従い、息子イサクを神に捧げようとまでしたことによって、「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた という聖書の言葉が成就し、彼は神の友と呼ばれた。」と記されている。(ヤコブ2の23)
こうしたいずれの場合にも、神の友とは、神の言葉を受けてそれを信じて受けとる者に対して言われている。
この世の友は、世間話をする友、酒をのみ交わす友、釣りなどの娯楽、スポーツなどをする友である。
それに対して、最も高くて深い友とは、神であり、そこから、神の友というべき人がそれは、神の真理を信じて受けとった人のことである。聖書に記されている真理こそは、無限に偉大、深淵な存在である神と人を友のようになし、人間同士の友も神の言葉を仲立ちとする関係こそが、真の友ということになる。
さらに、書かれた文字の書である旧約聖書は、万人の書であっても、言葉の壁があり、同じように理解できるとは限らない。
しかし、神の直接の言葉は、私たちだれでもが、受けることができ、それゆえに、神の友となれるような道が開けている。
旧約聖書続編には、神の友について次のように記されている。
…叡知は人間にとって無尽蔵の宝、それを手に入れる人は神の友とされ、知恵のもたらす教訓によって高められる。
…叡知はひとりであってもすべてができ、自らは変わらずにすべてを新たにし、世々にわたって清い魂に移り住み、神の友と預言者とを育成する。(知恵の書(「ソロモンの知恵」) 7の14、27より)
神の友とは、神の叡知を与えられた人である。 神の叡知、それは新約聖書においては、キリストこそが、完全な叡知の存在であり、キリストを与えられた人、聖霊を注がれた人を意味する。
信じて、その程度の差はあれ、聖霊を受けた人は、みな神の友なのである。
また、自然のさまざまの事物に関しても同様なことが言われる。
詩編の最後の部分に、次のような天地の万物が神を賛美することが記されている。
日よ、月よ、主を賛美せよ 。
輝く星よ、主を賛美せよ 。
主は命じられ、すべてのものは創造された。
地において 主を賛美せよ 。
海に住む竜よ、深淵よ、火よ、雹よ、雪よ、霧よ
御言葉を成し遂げる嵐よ、山々よ、すべての丘よ
実を結ぶ木よ、杉の林よ、野の獣よ、すべての家畜よ
地を這うものよ、翼ある鳥よ、
地上の王よ、諸国の民よ、君主よ、地上の支配者よ
若者よ、おとめよ、老人よ、幼子よ。
主の御名を賛美せよ。
主の御名はひとり高く
威光は天地に満ちている。(詩編148篇より)
このように、天地万物ー星々から、雪や霧、雲、そし天地乗の嵐や山々、樹木、動物たち、鳥たち、そしてさまざまの国々の王からその民族、そして若きも老いたひとも、…
この宇宙の広大な空間に存在するすべては、じっさいに聞く耳ある人には、その賛美の声が聞こえてくる。 自然のさまざまのものは、一見、沈黙しているようにみえるが、実は神の直接の創造物ゆえに純粋に神への賛美ができる存在であり、じっさいそれらは神への賛美の言葉を発し続けている。
それゆえ、それらもまた神の友であるということになる。
神の友、それは神のご意志を信じて受け、それに従っていく者である。
このことは、本当の父母、兄弟、姉妹とはだれか、という新約聖書でイエスが言われたことにつながる。
主イエスは、次のように言われた。
… だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(マタイ12の50)
真の友たることは、共に神の言葉を信じて受けとることであったが、真の兄弟姉妹、父、母というのも、神のご意志ー言い換えると神の言葉を知らされて、それを行なう人だと言われている。
神のご意志をはっきりと知らされて、それを行なうということは、御言葉を信じて受け取り、そこから聖霊を与えられて、小さきレベルであっても、その聖霊に導かれ、必要な力を与えられてなすべきことをやっていくことである。
このようにして、私たちは、生きて働いておられる神の友とされ、また友であるにとどまらず、キリストの兄弟、姉妹、また母となるという驚くべきことが言われている。
キリストは、二千年前の十字架で処刑されてのち復活し、それ以後は、聖霊として、私たちのあらゆるところにいてくださっている。このように、キリストは、神や聖霊と同じ本質の存在であり、そのような無限の存在たるキリストが、私たちが兄弟、姉妹ともなってくださる道が指し示されており、それは不可能のようにみえるが、私たちにとって不可能なことをキリストは言われることはない。人間にはできないが、神にできないことはないのである。
そこに愛がある。私たちは実に卑小な存在であり、罪にもまれる身であり、主の赦しをつねに願い求めていく弱い存在でしかない。そのようなゼロに等しいような存在であるものを、キリストの友、そして兄弟姉妹とまで言ってくださる。
小さきもの、とるに足らないものを、かくまで引き上げてくださるキリストは、ほかのいかなる存在にもまして、比類のない存在であるのをあらためて感じさせられる。
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友の重要性は、古代中国の代表的思想家であった孔子も、それについて深く思うところがあったと考えられる。それゆえ、その孔子の論語の巻頭にそのことが記されている。
学びて時にこれを習う
また悦ばしからずや
朋(友)あり、遠方より来る
また楽しからずや(「論語 学而第一」)
学び、繰り返し習う、経験を通して
それは喜ばしいことだ (悦ばしからずや→ 強くやさしく語りかける表現、「や」は詠嘆の心をあらわす、何と喜ばしいことか!)
学びの友が、遠くから来て ともに学びあい深めることは
楽しきことだ。
(悦は、自分一人で喜ぶ、楽は、その喜びがあふれて周囲にも伝わるほど)(新釈漢文体系 「論語」明治書院刊より」)
友という言葉でまず思い出すことは 語り合うということである。この孔子の言葉も、共に語り合い学びあうことの幸いを記している。
人は、一人でも書物で学ぶことはできる。しかし、その場合にもその著者との対話によって学んでいるのである。全く一人では、学びを深めることはできない。
信仰も同様で、主イエスがふたり,三人主の名によって集まるところには私も共にそこにいる、と言われたように、また12弟子をつねに伴っておられ、ともに歩むことの重要性をみずから示されたのだった。
言葉というのは心から出ることであるから 心が一致する時にはおのずから言葉が出されてその言葉によってより深くまた喜ばしいことに繋がっていく。
語り合おうということは人間同士ならごく当たり前のことであるが、 しかし動物においても 人間と語り合うこともできるようにみえる動物もいる。 例えば馬や犬は最も人間の気持ちがわかる人間の目を見て話すとも言われたりする。
確かに昔から馬や犬は人間にとても親しく犬に関する実際の物語例えば愛犬ラッシーとか馬であれば黒馬物語といったものもある。それらを見ると本当に得に賢い犬は、どことなく人間と語り合い人間の心がわかるような場面がある。
私の家でも、子供のときから犬、ネコ、ニワトリ、兎など多様な動物を飼っていたが、こちらが愛をもって接すると、 そうした普通の動物でも人間の感情を一部ではあっても感じ取っていたのを思いだす。
しかしながらそれらの動物は、せいぜい目に見えるものとしか、しかも、非常に不十分な形でしか語り合うことはできない。
けれども人間にはそうした他の動物には決してできないこと、目に見えない存在と語り合うことができるという能力を与えられている。人間は、霊的存在である神のかたちに似せて創造されたからであり、それゆえに、すなわち目に見えない存在と語り合うことができるように造られている。
そのような目に見えないものとの語り合いにおいて、目には見えないけれども本当に存在していて、しかも愛であり真実でありさらに全能でもある神様との語り合いということが一貫して書かれてあるのが聖書である。
創世記の最初から真理そのものである神は人間を創造し、その人間に語りかけること、その神と対話するということが記されている。
それは自然科学における数学的、物理的な真理とは全く異なっている。
そうした科学的な真理、それは人格的な語りかけは決してすることはない。人間の悲しみや苦しみと全く無関係にそうした法則は存在している。
聖書で記されている神様は、生きて働く人間のように、悲しみや苦しみまた喜びといったことを全て分かった上で私達人間と会話をされる存在である。
そして人間同士の会話と根本的に異なるのは人間同士の語り合いは、政治や社会問題など、あるいは、他人のこと、自分のこと、病気のこと…等々。それらは、人間の考えを交わすことであり、政治や社会に関する批判的、評論的な会話の場合もあれば、単に一時的な気晴らし、遊び、雑談…そのような会話である場合も多い。
しかし、聖書に記されている神との対話、それは、真理にかかわる内容であり、また生きるか死ぬかという差し迫った苦難や悲しみのおりに発せられた叫びであり、切実な祈りである。
そのことは、そうした神との語り合いが最も深くなされている旧約聖書の詩編を見るとよくわかる。
そのような語り合い、会話は、最もこの世では魂に響く対話であり、生きる力の根源となる言葉の交流となる。そしてうまく言葉に出すことのできない聴覚障害の方々においても、言葉にならない言葉をもって神に向かい、祈ることはできる。
私たちが、真剣に神様との語り合いをしようとするときには、何も妨げはない。 ベッドで動かない状態になったとしても神様との対話だけは可能である。神様の方から何も語りかけてくださらないように見えても、精一杯の真実を込めて語りかけるあるいは叫ぶことはできる。十字架上のキリストが激しい死に至る苦しみの中から、「神様、神様、どうして私を捨てたのか」と叫ばれたことを思い出す。
そのように生きた語りかけや叫びを投げかけることができ、かつそれに生きた応答をしてくださる神との会話こそ、地上で与えられる最も深い語り合いとなる。
そのような語り合いがなされるとき、それこそが真の友だと言える。聖書において特別に深く、神との対話をすることが与えられたのがモーセであった。
それゆえに、つぎのように、記されている。
…人がその友と語るように、主はモーセと顔を合わせて語られた。(出エジプト記33の11)
そして、このような神の友としていただいた人間はどのような生活となるであろうか。その一端は詩編にある次の言葉に現れている。
…私は床の上であなたを思い出し、 夜ふけて私はあなたを思う。 (詩編63の6)(*)
(*)新共同訳では、「あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします」とあるが、 口ずさむとは、「何となく心に浮かんだ(詩歌の)文句を、軽く声に出す。」ということで、この詩の前後を見ればわかるように、この詩の作者は、神への助けを求めて渇ききった大地のように衰え、敵対者に命をねらわれているという状況であって、軽く口ずさむといったことは異質のことである。
これは、つぎの英訳に見られるように、「深く心に思う、瞑想する、黙して祈る」というのが本来の意味であると考えられる。
・ When I remember You on my bed, I meditate on You in the night watches.(KJV)
・ I lie awake thinking of you, meditating on you through the night.(NLT)
・when I think of you on my bed, and meditate on you in the night;(NRS)
また、次のように、夜においても、神への祈り、賛美がおのずから生まれるという状況になる。
・昼には、主が恵みを施し、 夜には、その歌が私とともにある。
私のいのち、神への、祈りが。 (新改訳)
真実かつ愛に満ちた神を信じ、魂の深いところからの神への祈り、語りかけがなされるとき、神の友となる。
聖書に記されている神は、天地宇宙を創造した神であり、その創造の力や、洞察、美、永遠性や純粋性、その高さ、広さ、深さ…等々あらゆる点で無限大の存在である。
そのような神が私たちの友となってくださるなどということは考えられないことである。
しかし、神は全能でかつ計り知れない愛の御方であるゆえに、私たちの罪を赦し、信じるだけで、あたかも罪なきかのように扱ってくださる御方であるゆえに、そのような通常不可能なことをも可能として、現実にしてくださる。
神をひとたび友とするとき、神の創造物ー天地にひろがる大空や雲、太陽、星々、そしてあらゆる動植物の一つ一つさえ、友としていただくことになる。
この世にもそうした神など存在しないと思うときには、何も本当に信じるものがなく、自分を追い詰めるような状況ばかりが取り囲んでくるように思える。この世が闇であり、汚れていて悪が支配しているように思えて人間とも会うのを恐れるようにもなってくる。 そして最後は死という闇、得体な知れないものに呑み込まれていくということになる。
そのような、重く暗い見通ししか立たなくなる状況から解放され、いかなることが生じようとも 神が友となってくださっている、そして、その全能と愛の力によって私たちをそうした絶望的な状況から救いだしてくださると信じることによって、そこから解放されることにつながっていく。
それは,数千年にわたって無数の人たちが経験してきたことである。
そうした生きて働いてくださる神を友とすることー、互いに霊的な言葉を語り合い、その力を受けるために必要なことはただ一つ、それは、すでにいまから二千五百年ほども昔に言われたことがそのまま現代の私たちにもあてはまる。
…地の果てのすべての人たちよ、
私を仰ぎ望め、
そうすれば、救いを得る。(イザヤ書45の22)
人間は、さまざまの理由で人を差別する。この世は至るところで、差別に満ちている。
差別とは、地位や男女、民族、生まれ、知的能力、経済的能力、健康、病弱、体の障がい、年齢、学歴…等々によって人をより低くみなしたり、見下し、地位や待遇等々においても、不当な対処、言動をすることである。
区別は、男女の衣服、肉体労働において女性は重い物を扱う仕事は避けて男性にまかせる、出産手当て、障がい者への年金、保障制度など、また健康者と障がい者、病者では仕事においては、その病気や障がいの状況において区別されるし、仕事の能力においても賃金も違ってくる。重いものを運んだりすることは、病者や下肢障がいの人にも難しいことである。
また、耳の聞こえない人には、電話での応対の仕事ができないし、目の見えない人には、観光ガイドやホテルや商店などでの客の応対の仕事は難しいから、そのような仕事を任せることはできない。これは差別でなく、区別である。
聖書に記されている神は、差別でなく区別される神である。
人間のように、差別するー何かにおいて少ない能力しか与えられていない者を冷たく見放す、見下したり、踏みつけるような言動をすることはない。
ある人は、知的学習やスポーツに、また音楽や絵画などの特別な才能あり、また運動能力あり、数千メートルの山々をも重いリュックを背負って踏破できる体力があり…実に千差万別の違いがある。
これは、神様の御計画の違いによって生じた区別である。それぞれが、別々の仕事、なすべきことを神が御計画されているからである。
このように、人間には実にさまざまの状況にある人たちが存在し、限りなく違いがある。それは、神が差別するためでなく、それぞれの状況に置かれた人たちに、神のわざを証しさせるためのできごとだと言える。
神がなさるそうした区別を、選びということができる。健康な人、病弱な人、目の見えない人、…等々は、神様がそのように選びとったのである。
こうしたことを現実のできごととして記されているのが、次のよく知られた個所である。
…イエスは通りがかりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
弟子たちがイエスに尋ねた。
「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。
神の業がこの人に現れるためである。(ヨハネ9の1~3)
生まれつきに全盲というきわめて苦しい状況でさえも、それはマイナスのことでなく、神がその大いなる働きを世の人々に証しするためなのだと言われた。
これは、おどろくべき発想の転換であった。
それまでは、生まれつき全盲とか ろう唖であること、足が立たない、などということは、本人、または先祖の罪の罰、あるいはたたりだとみなされ、不吉なことだというのが、どこの世界においても一般的な考えであったであろう。
とくに、世界的に恐れられていたのが、ハンセン病であった。日本の江戸時代において、ハンセン病のことを、「業病」「天刑の病」、さらにその病気にかかった人を、「三千の仏神人に憎まれたる業人」とまで言われ、このような言葉が、浄瑠璃の中で用いられるようになったという。
そのような時代に、ハンセン病に冒された人たち、その親族の人たちの苦悩や悲しみ、絶望はいかばかりであったろうと思われる。
新約聖書のマタイ福音書においても、イエスの「敵を愛せよ、迫害する者のために祈れ」というような崇高な教えが5章から7章まで、長く記されたあとに、まず記されているのが、一人のハンセン病(らい病 *)をわずらっている人にイエスが近づかれた記述である。
そのハンセン病の人は、イエスに対し、「主よ、御心ならば、私を清くすることがおできになります。」と告白し、当時の医者、宗教者などいかなる人もできないことを、イエスだけはできるとの確信を告げた。
そのる信仰ゆえに、イエスは、その病人に手を差し伸べてその人に触れて、「よろしい、清くなれ!」との言葉を発せられた。
ただそれだけで、そのハンセン病はたちまちいやされて清くされた。(マタイ福音書8章1~3)
この記述は、イエスはさまざまの病気ー盲目や、聾唖、精神の病気、また肢体の障がい等々、あらゆる病気をいやされたという記事の第一に記されている。
それは、この lepra (レプラ)と表記された病気がそれほど重大であり、旧約聖書以来、その病人には触れてはならない、隔離するのだ、とのきびしい戒めがあったことが背景にある。
このレプラにかかると、悪化すると耐えがたい悪臭を伴い、皮膚がさまざまに変形変質し、顔面にも現れるこめに正視できないほどとなるので顔を布で覆うようになったり、さらに失明、手足などの切断など、そして皮膚の全体に感覚がなくなっていく…、そのうえに、家族や近くに生活する人に感染させるということで、一家の破滅となるーそのような恐るべき病気であった。
主イエスは、旧約聖書がきびしく禁じていたそのようならい病にみずから手を触れ、いやされたということは、旧約聖書の戒律のなかで生きてきた当時の人にとっては、目を見張る驚くべきことだったのである。
そして、その癒しによって、神と同質のキリストがどのような御方であるのかが、明確にわかるように証しされたのであった。失われた一匹の羊を探し出して救うためにこの世に来られたキリストのじっさいの生きる姿が浮かび上がってくる。
どんなに恐るべき病気であっても、なおそれをも神のわざのあらわれるためだとされていたのがこの例でうかがえる。
(*)原語は、lepra(レプラ)。このギリシャ語は、ヘブル語のツァラートの訳として70人訳聖書(ギリシャ語訳聖書)に取り入れられ、新約聖書でも用いられている。そこから、ラテン語や英語、フランス語(l・preux)、スペイン語(leproso )など各国語にも用いられるようになった。
旧約聖書での原語は、ツァラートで、人間以外の物にも特異なカビのような変色腐敗が生じることにも使われているし、人間でもこのツァラートだとされても治る人もあったから、ある種の皮膚病にも使われた用語だと言える。それゆえに、この後は、後のらい病とはかならずしも一致しない。
そのようなこともあって、新改訳聖書では、日本語に訳することをせず、このツァラートという原語のままにした。
しかし、そのようにツァラートというヘブル語のままにすることによって、聖書を読む人が何の病気のことなのか意味不明となってしまい、じっさいにハンセン病であった人の苦しみがいかに深刻なものであったのかがわからなくなる。新共同訳や若干の英訳のように「重い皮膚病」などと訳されると、人間の重篤な病は、皮膚病よりはるかに、ほかの内臓の心臓や脳、肺…等々の重い病気はいくらでもあるから、なぜ聖書で、皮膚病というそれほど致死的ではない病気を 旧約聖書から新約聖書のマタイ8章の冒頭も含め、きわめて重大視しているのかが説明できなくなる。
さらに、二〇一八年に発行の、聖書協会共同訳では、「規定の病」と訳したが、これでは何のことか、だれがわかるであろうか。
なお、英語訳の大多数は、らい病人 lepra (レプラ)と訳されており(一部は A man with leprosy らい病にかかった人)、一九九五年岩波書店から発行された新約聖書でも従来からレプラの訳語として用いられてきた「らい病人」と訳されている。
また、聖書においては、そうした特別に重荷をになった病気や障がいのある人たちとは別に、アブラハム、モーセ、ダビデ、サムエル…のさまざまの預言者たち、それらの一人一人を選んで、特別に歴史における大切な存在として区別され、その生きた証しは世界の歴史に刻まれている。
しかし、そのように無数の人たちに影響を及ぼすように選ばれ、区別して取り扱われた人たちはごく一部である。大多数はそのような目立った働きなどできない。
しかし、すべての人間は、何らかの能力が多く与えられている人、少ない人、全くないような人、それぞれにかけがえのないものとして区別して創造されている。
神は、愛であり、全能であるゆえに、そのような小さな存在をも選んで、それぞれに区別して性格や容姿、体力、能力をも与えておられる。それぞれが世界で唯一の存在として区別され、それによってそれぞれが独自に神に創造された証しをしていくためである。
それは自然界にも見られる。小さな木、クスノキやエノキ、松、杉…等々の堂々たる大木もあれば、わずか10㎝ほどの木ー例えば東北や北海道の高山に生えるエゾツツジ…じつにさまざまである。
それらの違いは背丈が大きいから尊いのでなく、神がそれぞれに神のわざを現わしていくために、そのように千差万別の姿をとっている。
植物や動物などの世界では神様の創造の多様性の意味が理解できる。しかし、人間世界では理解できないという人たちも多い。
それがわからないときには、神の愛と全能、そのはかりしれない叡知のゆえだと信じるのである。頭でわかった、というのなら信じる必要ない。わからないからこそ、信じるのである。
…信仰とは、望むことを確信し、まだ見えていない事実を確認することである。信じることによって神はその褒美として、信じたことが事実であることを確認できるように導いてくださる。(ヘブル書11の1~2)
差別とは愛なきあり方である。選びは深い愛によってなされることである。
ハンセン病の人を差別する。感染する危険がある、感染すれば治らない、生涯の恐ろしい不幸となるーそれゆえに、普通の人間とは別扱いとし、家族から、地域からも隔離していく。
差別とは根拠なき区別であり、愛なき区別である。
しかし、選びはかえってそうしたハンセン病や全盲、ろうあ者といった世間から差別され見下されていた人たちを選んでそこにキリストは近づき、癒された。
神の愛は、そうした人たちをかえって選んで区別して心を注がれたのである。
放蕩息子、失われた一匹の羊のたとえ話しは、そのことを表している。きちんと仕事をしていた兄にはしなかったほどのふるまいを放蕩息子が帰ったときにはしてやった。
また迷っていない99匹の羊をそのままにしておいて、失われた一匹の羊を探し求めて救いだす、それは驚くべき仕方で、そのような人間をまず救われるべき存在として区別し、救うために選び取られたのだった。
差別であるか、区別であるかーそれは愛をもってされるときには区別であり、選びである。
愛なく区別することは差別である。
この世界には至るところで無関心や憎しみ、敵意、無理解、自分中心主義、カネや地位、学歴、生まれ等々、目にみえるものを重視する考えがある。それは愛のない世界ゆえに、いたるところで、差別が生じる。
しかし、そのような世界であっても全く差別のない領域は、二千年前から存在していた。
それは、キリストの福音の世界であり、真実の救いの道に関してであり、次のような個所に示されている。
…そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。
… 不正を行う者は、自分の行った不正に対して報いを受ける。それには差別扱いはない。(コロサイ3の11、25)
…それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。
…ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。 (ローマ3の22、10の12)
唯一の主であるキリストこそは、万民の主である。奴隷もその主人もまた政治家や底辺にいる弱い人たち、また金持ち、貧しい人もみな、同じ主がおられて、語りかけておられる。その万民の主からの呼びかけを信じて心開き、受けいれるときには、だれでもあらゆる学者や権力、カネの地を超えた、神の国の祝福を受けるようになる。
聖書には、奴隷たちもキリストに従うように、キリストの奴隷として、心から神のご意志を行い、人に仕えるのでなく、キリストに仕えるように、喜びをもって仕えよ、と言われている。
また主人たちも、同じように主に仕える心をもって奴隷と対処せよといわれている。それは、主人たち、奴隷たちも共通の主人が天におられ、人間を差別しないからだと言われている。(エフェソ書6の9)
このような奴隷に対する心は、新約聖書で唯一の個人に宛てた手紙(フィレモン書)にも見られる。
この手紙に見られる奴隷、オネシモは、キリスト者のフィレモンが主人であったが、そこから逃げ出した奴隷だった。フィレモンはパウロの親しきキリスト者の仲間だった。
オネシモはパウロのところにてキリスト教信仰を与えられた。フィレモンのところでは与えられなかった信仰が、パウロのところで与えられたのは、奴隷が多くいたであろう状況では、フィレモンも福音を語りにくかったのであろうと考えられる。しかしオネシモはパウロのことを、フィレモンから聞いて知っていたとみえる。そのため、逃げ出してパウロのところに行ったと考えられる。
そこで神の御手がパウロを通して働いて奴隷のオネシモはキリスト者となった。
そのオネシモは、奴隷であったのに、パウロは兄弟とみなすと言っている。(フィレモン書)
…
信仰による祝福された世界、罪の赦し、死の力にさえ勝利する永遠の命への復活の恵み…等々のこの世で最も価値あるものは、地位や経済的状況、民族や生まれ、能力等々の差別なく与えられる。
このように、ありとあらゆる差別が存在するこの世界において、はるか数千年の昔から、差別のまったくない領域があるとの確言が人間に与えられているのは驚くべきことである。
いまから、二千五百年ほども昔からそのことは次のように言われている。
…地の果なるすべての人よ、わたしを仰ぎのぞめ。
そうすれば救われる。わたしは神であって、ほかに神はないからだ。(イザヤ45の22)
このような、あらゆる時代を通じて、差別のあふれるこの世のただなかにあって、闇のなかの光として、いかなる人でも差別なく、ただ神を、キリストを信じて仰ぐだけで、救いへと導かれ、ほかの何ものも与えることのできない魂の平安や希望が与えられる。
現代の新型コロナウイルスという、並外れた感染力をもって世界中にひろまっている状況にあっても、その光を失うことなく輝いているのが、この聖書に記されている真理である。
いかなる事態にも動かされることなき天の国から、「この命の道に来れ!」との呼び声が 世界の人々になされている。
去年からの一年、世界の誰もが予想していなかったであろう新しい事態が生じた。新型コロナウイルスの世界的蔓延である。
ウイルスは、細菌よりさらに小さくその10分の1~100分の1程度の大きさである。細菌の例えば大腸菌は千分の一ミリ程度なので、ウイルスがいかに微少なものかがわかる。
一般的には、小さいものは弱いような感覚がある。例えば、百獣の王といわれるライオンは、その姿、体格、ほかのいろいろの動物を襲って餌食とするなど、堂々として力強くみえる。
しかし、現在は、保護せねば次々と世界の各地に生息していたライオンたちも滅びてゆき、現在では、保護が必要となっている。アリとライオンのいずれが強いのかー子供でもライオンだと言うだろう。
たしかに、アリはライオンよりはるかに小さいし、子供の指でも簡単に殺されてしまうほど、弱い存在である。しかし、アリは保護する必要なく、現代でも至るところに存在している。
細菌もアリよりはるかに小さく、その本質は強くないゆえに、太陽紫外線で簡単に死んでしまう。
しかし、細菌は世界大戦があろうと、科学技術による自然破壊が進んでも、滅びることはない。保護してやらねば滅ぶということはなく、そういう点では、いかなる動物よりも強固な力を持っている。
さらに、細菌のさらに10分の1~100分の1程度のウイルス(1万分の1ミリ~10万分の1ミリm)も、紫外線によってそのDNAが部分的に破壊されて死ぬということがわかっている。
そのような微細な生物とも無生物とも言われるウイルスが、世界中の国々、人々を苦しめている。そしてワクチンができることを待望しているが、通常の従来のタイプのワクチンなら、開発から実用化まで10年ほども要するということであるが、今回の新型コロナウイルスに対するワクチンは RNAワクチン(m-RNAワクチン(*)であり、短期に増産ができる。
そうなれば、オリンピックまでに何とか防げるのでは…?? と政府やオリンピック委員会などは特別な期待を持っている。
しかし、変化した新型コロナウイルスも つぎつぎと見いだされている。
(*)RNAワクチンに関しては次のようなことが言われている。
mRNAワクチン(メッセンジャーRNAワクチン)は、メッセンジャーRNA(mRNA)と呼ばれる天然化学物質の人工複製物を使用して免疫反応を起こすワクチンの一種。ワクチンは合成RNAの分子をヒトの細胞に導入し、細胞内に入ると、ワクチンのRNAはmRNAとして機能し、細胞は通常、病原体(ウイルスなど)やがん細胞によって産生されるはずの外来タンパク質を作る。これらのタンパク質分子は、宿主細胞を傷つけることなく、対応する病原体やがん細胞を特定して破壊する方法を記憶する獲得免疫を刺激する。 従来のタンパク質ワクチンに対するRNAワクチンの利点は、生産速度、生産コストの低減などいろいろある。従来のワクチンなら、実用化には10年ほども要していたというのに、今回のワクチンは1年も立たないうちに実用化されつつある。 欠点としては、mRNA分子が化学的に不安定であるため、大量の冷凍保存設備やその運搬の手段が必要であり、そこに欠陥が生じて注射前に分子が分解すると、効力が損なわれることが考えられている。 また、一部には、どのような副作用があるのかも、明確ではないし、自己免疫反応を起こしやすい人はRNAワクチンに対して副作用を起こす可能性がある。
こうした極微の生物とも物質とも言えるものによってかくまで混乱させられ、死者も多く出るというのは考えられただろうか。
自然に帰れ! との深いメッセージがその背後に隠されている。
アフリカでのデボラ出血熱、マーズ、サーズなども、人間が本来生活する場でない森林を切り開き、自然を破壊していくなかで、動物が持っていたウイルスが人間に感染するということが根本にある。
そしてワクチンを造っても新たな新型コロナウイルスが生じてその感染力、致死率、後遺症などが強く、力があるのが発生するなら、ワクチンが効かなくなってしまう。
ここに至って、人間が自然、そして自然が私たちに語りかけているものに注目することが期待されている。
自然的なことと逆の映像、いろいろな爆発物や存在しない反自然の人間を造り出し、その人間が破壊行為、殺人や爆発等々、流血、破壊、炎上等々の 反生命的な行動によって観客の表面的な目を惹こうとする。
そのようなアニメのマンガ、映画に2千万人もの人が見に行く、わずかの期間に300億円もの興行収入を得たということのなかに、過激な映像によって快楽をえようとする方向が、現代の人間に浸透しているのを感じさせる。
こうした状況、方向性は、今後の人間にとって暗いものを予見させる。自然のうるわしい美しさ、静けさ、樹木の風にゆられる音、自然のそよぎ、小川の流れる音、大きい河の雄大な力、海のその深い色と大波の力、破壊力、また青く澄んだ大海原の豊かな青い広がり…等々、海は実にさまざまの深い世界を私たちに告げている。
また、海がない地方では、山々の雄大な不動の力、そしてその緑の、遠くの青い色合いの山なみの沈黙せる姿…、大空の青く澄んだ広がりとそこに描かれた、日替わり、刻々とかわる青と白、また灰色や赤、黄色、橙色、…の大空に刻々と描かれる立体的絵画、それは無限の美と力を持った神ご自身の製作であるゆえに、無限の奥行きとそこからのメッセージが、神の言葉がそこに秘められている。
アニメの世界の騒々しさとさまざまの破壊や攻撃等々と 沈黙せる自然の世界は実に対照的である。
そうした自然のただなかにあって、種や苗から大いなる野菜などが収穫されるようになり、食物を生み出すー等々、これらすべては自然の持つ無限の力を私たちに日毎に新たに示していきる力にほかならない。
私たちは、生きるのに不可欠な食物生産も自然の力によっているし、自然の持つ静けさや美、雄大さや清さ、力強さといったものが目にみえるかたちで日々私たちの眼前に提供されているのであって、それも私たちの心の栄養として不可欠なものである。
今日のウイルスの蔓延とその力は、私たちに自然の力の根強さを思い知らされるものであるが、それはまた、すでに述べた自然の持つその無限大のさまざまの良き力が神の創造のゆえであり、その根源である神の力へと立ち返るようにとの深いメッセージがこめられている。
〇元旦礼拝
例年は、徳島聖書キリスト集会にて、午前六時半から開会でしたが、今回はオンラインで、会場に集えない県内外の方々、二十名を越える方々が参加し、新年の最初の日を御言葉を中心としてはじめることが与えられたことが感謝でした。
〇冬季聖書集会
1月9~10日に開催された冬季聖書集会は、キリスト教独立伝道会主催で、例年は、横浜市の郊外の山地にある森の家での開催でしたが、今年はオンラインでの開催となりました。
従来とは大きく運営も変化しましたが、オンラインのゆえに、参加者も部分参加を含め、80名を越える方々が、北海道から九州まで日本の各地からとなり、それまで未知であった方々とも主にあるよき学び、祈り、賛美の交流となりました。
一年前までは、誰一人このような形での開催を予想していなかったのですが、神のなされることは、常に人間の予想を越えるものであることをあらためて知らされたことでした。
コロナで苦しみ、困難に陥っているたくさんの方々が世界に増え続けています。
そのような方々が、いかなる人にも真剣に求めさえすれば与えられる真実の助けー唯一の神からの助けを受けてその困難から導き出されますようにと願っています。