いのちの水 202110月号 第728

求めよ、そうすれば与えられる。

 門をたたけ、そうすれば開かれる。(マタイ福音書7の7)

 

 目次

新しく生れる

老年の苦しみと恵み

・石の心と肉の心

「祈りの友 合同集会」に参加して  西澤 正文

集会だより  

 ・報告   「祈りの友 合同集会」   お知らせ  北海道  瀬棚聖書集会

 

〇以下はテキスト版のみのコメント

  目次横のイラスト (イワギキョウ) この花は、2009721日に 瀬棚聖書集会を終えて、旭川の信仰の友を訪ねた折に、層雲峡から大雪山系の黒岳(1984m)に登り、その頂上付近で見いだした花。北海道や中部地方の高山にのみ咲くキキョウの仲間です。冷たい小雨のなかをようやく頂上に着いたとき、そこに雨に濡れた美しいキキョウの花、それがこの イワギキョウだったので、初めて出会った花でもあり、いまも心に残っています。

 

リストボタン新しく生れること

 

「闇は光に勝利しなかった」 ヨハネ福音書の最初の部分にこの言葉がある。(一の5) 二千年前にこの世に来たキリストという光は闇の中で輝いている。これはどんな深い闇の中でもいかなる状況の中でも輝いているということである。

 そしてその暗闇は光に勝利しなかった(*)とある。

 

*) この 勝利する と訳される原語は カタランバノー 。ランバノー(取る)の強調形。この言葉は、つかみ取る、という意味にも使われる。それで「理解する」とも訳されることがある。 掴み取るということから「打ち勝つ 」(overcome)ということになった。

 

 最初の1節から5節まではこの世界全体の真理を書いてあり、そこで光は、闇にうち勝っていることが強調されている。

  これは、キリストが逮捕前の最後の夕食時の一番最後に言われたのが「私は世に勝っている」であり、キリストは、サタン、闇の力そのものに勝利しているという言葉であり、それに対応している。

 この11節から、ロゴスが繰り返されているが 私たちにとっては「キリスト」と置き換えて読むとよくわかる。 この世界、その人々は、キリストによって創造されたのにこの世はその創造主を認めなかった。(知らなかった )(*

 キリストは自分の民のところに来たのに神の民であるユダヤ人は受け入れことしなかった。闇は光に打ち勝たなかった、勝利しなかったという意味で 多くの訳もそうしておりますが、一方では 闇は光を理解しなかったと訳されることもあるのは、この原語が二通りの意味を含んでいるからである。

  神の民は 真理であるキリストを受けれなかったが、現代もまさにそうなわけです。最初ローマ帝国も全体が受け入れなかった。ローマ帝国でも南アメリカに入っても迫害され 日本においても三〇〇年ほどにも及ぶ期間、迫害されたという歴史的な事実がある。

 そして、これを単にこの時のことだけではなくって歴史的に見ても人々はこの世はキリストを認めようとしない その真理を認めようとしない、受け入れようとしないという法則のようなものがある。そのような闇のただなかで全く別のことが生じた、それが12節から書いてある。

 

神の子供

 しかし、キリストを受け入れた人、信じた人ー十字架にかかってあがなってくださった、そして復活をされて今 神と同じ形になってるそれをことを信じて受け入れた人には、どんな人でも罪の赦しという主の平安を与えられ、また病気や災害、事件、戦争…等々さまざまなことで殺されてしまうということもあるがどのような死に方であっても信じただけで 永遠の命を与えることー復活をさせていただける、言い換えれば神の愛と全能の力を信じる人は、神の子供となる力(**)を与えてくださる。

 その力を与えれられて神様の子供としていただくことが、神によって新しく生まれる、ということである。  イエスを単に歴史上の人物としてではなくて神と同じ存在であり、今も働いて居る聖霊であり、活けるキリストとして働いておられるのだと、それを信じることはできたら、その人は、もはや古い人ではなく新しい人である。

 信じるだけでそのように新しい人とされて新しいいろんなことが見えてくるので、次のように記されている。

 

…だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。

古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。(Uコリント5の17

 

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 *)世は彼を理解しなかった

 この原語は、ギノースコー であり、「知る」という一般的な言葉である。口語訳、新改訳も「世は彼を知らなかった」と訳している。

the world did not know Him  (NKJ)

the world did not recognize him (NIV)

t the world did not know him.  (NRS)

**)「力」原語は、エクスーシアで、「力、権威、権能、資格」などと訳される言葉。口語訳では力 と訳しているし、英訳も多くが power(力)と訳している。

・キリストを信じた者は、神の子となる 資格 を与えた。(新共同訳)

「資格」と訳された原語は、エクスーシア であり、力(口語訳、また多くの英訳)、権威、権能(聖書協会共同訳)、資格(新共同訳) などと訳されるが、私たちの日常生活で、「権能 」などという言葉をほとんど使わない。 それゆえ、このような訳語になると、

極めて重要な 神の子どもにしていただける という大いなる恵みを 何か身近なこととして受けとりにくいニュアンスとなる。やはりここは、次頁のカトリック、プロテスタントの重要な訳のように、 power (力)と訳するのがだれにでもわかりやすい訳語となる。

He gave power to become                      (NJB)

He gave power to become children of God, ( NRS)

He gave the right to become children of God--  (NIV)

彼は神の子となる力を与えたのである。 (口語訳)、

神の子どもとされる特権をお与えになった。 (新改訳)

 

この「資格」と訳された エクスーシアは、新共同訳でも別の箇所では、次のように力と訳されている。

 

…父なる神は、私達を闇の力から救いだして、御子の支配下に移して下さった。(コロサイ1の13

 

 神の子となる力を与えてくださった と訳されているが 、原文では、teknon(子供)の複数形であって、神の子供たち、ということになり、イエスが「神の子」 だというのとは 別の原語である。

 イエスは神の子であると信じるのはきわめて重要なことは、ヨハネ福音書の最後に、イエスがこの世に来てくださったのは 「イエスは神の子であると信じるためである」と記されているほどである。

 それは原語では、ヒュイオス  である。 神の子 (ヒュイオス   ツー  セウー )

 それゆえ、さきに 引用した英訳でも、すべて  children of God  神の子供たち  と訳されている。日本語には複数形がないので、神の子 と訳されるとキリストと同じ 神の子だとまちがって受けとってしまう。

 イエスが神の子であるというとき、神とイエスはひとつである、その本質が同じであるという意味で用いられている。

 しかし、神の子供とされるということは、お父様(神)の言われることがよくわかり、親に子供が従うように、神(キリスト)に従うという新たな道を備えられることである。

 


 

リストボタン老年の苦しみとめぐみ

 年寄ることは孤独、仕事がなくなること、病気が多くなり、死も近づく…等々、好ましいことは何もなくなっていく。次々と失われていくことである。

 とくに、病気が重くなるとき、配偶者の一方がその介護に心身をすり減らし、ともに病気となって倒れるということ、ときには、介護のあまりの困難に長年つれそった配偶者を殺害するというような悲劇さえ、折々にみられる。

 そのように、老年は夫婦ともに健康で長寿となるという場合とはまったく異なる状況となることも多い。人生の最後の段階で、かつて経験したことのない厳しい試練が日々生じるということになっている人たちもある。

 聖書においては、老年の重要性についてどのようなことが示されているか、ここでは、その一つを取り上げたい。

 イエスの誕生後、初めて幼児のイエスを神殿に連れて行ったときに、長く信仰の歩みをしていた老人、それと祈りに集中していた84歳にもなる老齢の女預言者が、マリアが連れてきた乳児を見て、ただちに神からの啓示で、その乳児がメシアだと分った。

 メシアに出会うという特別な恵みは、長く待ち続け、祈り続けた老齢の人に与えられた。

 神からの啓示は、年齢によらないことが示されている。

 この宇宙を愛と正義をもって支配し、真実をもって導かれる神を信じること、そしてその神が送られたキリストを信じることは、聖霊によらねばできない。そのような神を目には見えないにもかかわらず、「天のお父様」といって祈ることができるのは、聖書に記されているように、聖霊が与えられているからである。

 そしてその聖霊をさらに豊かに与えられるためにはどうすればよいのか。それは、絶えず目を覚まして、主を仰ぎ、祈りの生活を続けることである。

 ルカ福音書の2章に現れる二人の老人は、そのような人であった。

 当時には旧約聖書を研究する律法学者や祭司たちも多くいた。しかし、そうした学者や地位ある人たちには、イエスの誕生は知らされず、イエスがメシアとして生れたことも分からなかった。

 そのなかで、老齢となってさらに祈りを深くし、真実に歩んできた人にイエスこそはメシアであると啓示された。

 ここに、老齢の意味がある。旧約聖書の続編にも、本当の長寿とは、霊的なものであり、

「老年の誉れは長寿にあるのではなく、年数によって測られるものでもない。

人の思慮深さ、汚れのない生涯こそ、本当の意味の長寿である」と記されている。(知恵の書4の8〜9)

 ヨハネによる福音書を書いたと伝えられてきた使徒ヨハネは、福音書を書くころには高齢となっていて、絶えず繰り返して教えていたのは、「互いに愛し合いなさい」という言葉であったという。それはたしかに、ヨハネによる福音書でも繰り返されている。

 愛とは、また祈りである。主イエスは、敵を愛し、迫害するもののために祈れ と言われた。

 これは、詩編によく見られる並行法である。同じこと、表現を変えて重ねて言うことであり、敵を愛せよと、迫害する者(敵)のために祈れ とは、同じことが言われている。

 このように、老年の重要な意義は、老いてなお可能である祈りに深くなることである。

 老齢となった者にも、重要な仕事がある。それは、祈りであり、祈りによって神の力を受けつつ、キリストの証しを続けていくことである。

 しかし、人によっては、人生の最後の高齢の日々が、病気の苦しみや痛みでさいなまれつつ、しかも一人で耐えていかねばならない状況に置かれる人たちもいる。

 そうしたとき、何が、その最後の日々の杖となり、支えとなるだろうか。

 それはただ、あの十字架で恐ろしい苦しみや痛みを受けられたキリストを思い、そのキリストに耐える力を求め、叫び祈ることであるだろう。

 ヨブ記には、神を信じうやまって生きてきたのに、突然の大きな災いで子供も死に、財産も奪われ、重い病気となり、妻からさえも捨てられる人の姿が記されている。彼は、なぜうまれてきたのか、生れてこないほうがよかったと、激しい叫びをあげる。

 このヨブ記の記述は、人間世界にはいかに神を信じていても謎のような、はげしい痛みや苦しみ、また祈りが聞かれないと思える長い苦しみが続くことがあるのを示している。

 それでもなお、残されているのは、神に向って叫ぶほどの祈りだった。

 そうして長いときがすぎたときようやく神からの語りかけがあり、最終的にヨブは救われ、みずからの傲慢、罪を深く知らされたのだった。

 そのような恐ろしいばかりの苦しみでなくとも、病気、入院、配偶者の病気やその介護、その死などのとき、ようやく、自分がいかに多くのことを感謝せずして受けとってきたかに気付かされていく。

 夫や妻の日々のはたらきの一つ一つにどれほど互いに感謝してきただろうか。また事故や災害、国難にあって家すらなく、食物さえなく、国からさえ脱出せねばならないひとたちのいるなかで、家も食事も、また国から逃げていくこともないーそのような状況に本当に感謝してきただろうか。

 朝起きて、指が動く、手足も動く、目で見ることもできる、食べ物も与えられている、一つ一つが与えられていることに気付かされるのも、老齢になって病気となったときにいっそう思い知らされる。

 長い人生ーそれはまた、感謝して受けとるべきたくさんのものをあまりにも忘れて当然のことのようにうけとってきた歩みでもあったことを知らされる。

 身近な者が、記憶するという基本的な機能をも失っていくのに接して、その記憶できる、ということに感謝したことがなかったことに気付かされた。

 忘れるというのでなく、そもそも記憶できないのであるが、そうなると、以前には、思いもよらないさまざまの問題が生じてくる。文字もわからなくなり、言葉も次第にうしなっていく。

 そこから、文字が読める、文が理解できる、また話すことができる、ーそうした一つ一つのこと、また食べるとき歯で噛める、それがちゃんと胃に流れていく、といった基本的なことも一つ一つ感謝すべきことであったのに気付かされる。

 大空の美しさ、雨風についてもそこにも深い霊的な意味がかくされていること、草木の一つ一つも、秋の虫たちの声のひとつひとつ…なにをみても、そこに何かを与えようとする神のお心がある。それにも感謝をどれほどしてきただろうか。

 そうした一つ一つに気付かされていき、苦しいながらも生活のさまざまのところで、感謝できるようになることが また老年の恵みである。

 


 

リストボタン石の心から肉の心へ ー真理に反応しない心と生きて反応する心

  私たちは、おそらくだれでも、新しい心になれば、という思いを持っているであろう。

 あと二カ月余りでなされる一連の行事、除夜の鐘、初日の出を拝む、お正月の初詣 などに現在でも多くの人が関心を持つのも、こうしたことで、悩みや心の汚れなどから離れて、新たな心をーと願う心あるからであろう。

 新学期、入社、入学…等々もみな、そうした新しい心、生き生きした心や力を求めている表れである。

 このような、新たな生きた心ー本当の神を真実な心で求める心を、聖書では、最初から一貫して語り続けている希有の書である。

 聖書巻頭の一言、闇と空虚、荒廃のただなかに、響きわたった「光あれ!」との言葉も、闇と空しさのなかに閉じ込められる人間の魂の世界に、神がその愛ゆえにくださった霊的な光が象徴的に言われており、その光を受けたときには、その生きた心に転換されるというメッセージがこめられている。(創世記1の1〜3)

 また、創世記の二章にも、砂漠地帯の渇ききったところに、泉が湧きあふれているという記述があり、これも人間の魂のいつもかわらない本質ーそれは真実や愛に渇ききっているその状況のただなかに生きた水があふれ、流れているという描写である。

 これも、そのような 渇いてみな死んだ状態にあったところにあふれだす水が与えられることこそが、生きた新しい心だと示すものとなっている。(創世記2の5〜6)

 ここでは、あまり知られていない旧約聖書のひとつの書の中の言葉からのメッセージの一端に耳を傾けたい。

 それは、今から二千六百年近く昔に記された預言書といわれるもののひとつである。

 そこでは、この生きた心を「肉の心」と表している。「石の心」と対比してのことである。

 

…私が、あなた方の上に清い水を降りかけると、あなた方は清められる。

そして、私は、新しい心を与え、新しい霊を置く。

あなた方の中から石の心を取り除き、肉の心を与える。(エゼキエル書362526より)

 

 こういう単純な言葉の中にこの世の考え方と全く違ったことがあるし、私たちが何を求めるべきかいうことも示されてきている。

 私たちの心が清められるためにどうしたらいいか、一般的に言ったら おそらく多くの人はここに記されているような神からの清い水、新しい霊など、こんなことは思いもよらないであろう。私自身も、聖書の世界を知るまで、キリスト教信仰が与えられるまで、まったく考えたことも、読んだことも、話したこともなかった。

 人間の決意では出来なくて、そしてこの古代においては科学技術が自然を破壊したりもしないから、清い自然というものもたくさん見られるが、自然に触れると私たちは、何らの形で清められる。それは誰しもある。それは神様が創った直接的なもので人間的な意図が入らないからである。これは、信仰を持つ持たないに関係がない。

 どんな人でも、大きな海の前の綺麗な浜で白い波が神秘的な力強い音をたてて打ち寄せる景観や、あるいは(徳島市近傍に住む人なら)四国一の大河である吉野川の堤防から降りて、川辺に立って静かに流れる時に吉野川の西側に日が沈んでいく、それはしばし見とれるような雄大な光景である。

 特に秋分の時に、吉野川は西から東へと80キロぐらいもほぼ東に向って流れているので、その川に美しい夕日が沈んでいくと広い川面にその赤い日が映え、非常に美しい光景で、そういうのに接すると誰しも何か清められる。

 それは私たちは身近なところで神様はいつもそういう清めを受けるように、広大な自然、それを用いてこのような清いものを創った神様の清いものを受け取りなさいと、そういうことがあると思われる。

 

山の世界との出会い

 私は、大学に入学して、徳島での高校生活とまったく異なって、当時のベトナム戦争や、安保問題などに激しい情熱をもってそうした政府のやりかたに抗議し、学内のさまざまの場所、講義前の教室なども頻繁に用いられて、そのためのビラなども毎日たくさんまかれていたことで、そのような日本や世界の政治、社会的問題にも初めて目を開かれていった。

 しかし、それらのこの世の様々な問題と自分自身も罪の問題や健康の問題、暗い家庭の問題…等々に心の世界はどこに道を見いだしたらいいのかまったくわからなくなっていった。そうして悩み苦しみはますますつのって、ある晩秋の夕刻近い時刻、下宿でじっとしていられなくなり、京都市北部の大原、三千院方向に向って自転車であてどもなく走り続けていった。

 そして大原付近で、とある山の指導標があり、そこから登り始めて、その山の世界に引き込まれて 冬の近い頃、かつ夕刻であったためか、途中誰にも会わず、頂上まで登ったのが、天が岳という山だった。京都市三条大橋からも北方見れば正面にみえる山である。地味な山であるにもかかわらず、 そこで私は山の雄大さ、奥深さ、清さなどに初めて開眼され、それ以後、京都から、日本海まで広がる広大な京都北山、丹波高原、さらに、琵琶湖岸にそびえる比良山系一帯を繰り返し訪れるきっかけとなり、それ以後、キリスト者となって徳島に帰ってからも、四国の山々ー剣山、三嶺、石槌山系から、自宅の前方に山なみをみせる四国山系などの縦走等々、その山の良いさを生徒たちにも知らせたく、単独で引率して山に登ることもたびたびあり…さらに、北海道の瀬棚聖書集会のあと、各地の集会を訪れる途中で車でもかなりの高さまで登れる山、時間的に可能な山などに登ったりして現在に至っている。

 

哲学、社会問題からキリスト教へ

 自分の家庭の暗かった雰囲気で大学に入学し、当時は学生たちの社会や政治についての関心が非常に大きくて、そのような国や世界の前途にかかわる問題に関して、デモや集会など、印刷物の配布など実に積極的にかかわっていた。内外共に騒然としていた。現在では考えられないほどである。

 今は多くの学生たちは彼ら同士の遊び、交流、イベント、スポーツ等々に 力を入れている。それらに関することは、時間もエネルギーもかけてやるけれども、原発や安保問題、嘘の横行する政治の世界、また、世界の現状ー内乱、戦争などのため、飢えや貧困に苦しむ人々への関心も少なく、そうした問題には概して不思議なほど無関心であり、日本の国や、最も近い韓国や北朝鮮、中国といった国々との関係がどうあるべきか、過去のそれらの国々との関係の歴史を踏まえて、日本とアジア、また世界の前途がどうあるべきなのか、そうした広い視野からの学生たちの意見や議論、集会など、ほとんど耳にしない。

 

 私自身は、山に登り、歩くことによって、この世の悪の力、汚れから逃れて清められる思いを与えられてきたが、そうした清めを受けても現実の世界に戻ると次々に問題が生じて、そして新たな様々な悩み、苦しみがあった、その度によく山に行ったりしていが、山だけでは、到底解決されなかった。

 その後、ギリシャの哲学の世界に初めて触れ、それからさらに1年後にキリスト教信仰が与えられ、キリストの十字架による罪の赦しを信じて平安を与えられるという人生の決定的な方向転換が与えられた。

 そのキリスト教によって、聖書に記されている真理によって、現代の私たちが今も清い水を与えられ、新たな心とされる永遠的な道があることを知らされた。

 ただ、幼な子のような心もて、神様の愛と全能を信じ、神がこの地上にかつての私のような迷える羊を救いだすために、イエスを世界に送り出されて、万人の罪を担って死んでくださったと信じて、その罪の赦しの象徴である十字架を仰ぐときに、霊的な清い水が注がれるのを体験してきた。同時に、何人からも与えられない、魂の平安への道もここにあることを知らされた。

 讃美歌にもそのような賛美があり、戦前から愛唱されてきた。

 

…十字架の血に 清めぬれば

 来よ」との御声を われは聞けり

 主よ われは 今ぞ行く

 十字架の血にて清め給え             (讃美歌515

 

 キリストの十字架を信じるとそのイエス様の聖なる霊、命が私たちに注がれる。そういうことで、私たちを清め、清めは神様から、今日ではキリストから来る。そうして初めてそうしたけがれ、偶像からの清め、赦しと清めを受ける。そしてヨハネ福音書ではよく引用される「私を信じるものの内には泉がわきあふれる。」(ヨハネ 414、同7の38)という箇所もよく知られている。

 

… わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。

わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。

 

 その命の水が湧きあふれる、その水とは聖霊だというふうにヨハネ福音書では記されている。

 新しい心が与えられる道ーそれは、例えば優れた人の講演で新しい世界が開かれていく、音楽とか思想とか、学問の世界の人とか、或いはスポーツの世界にしても だれかのその道を深く究めた人の話しを聞くことで新しい心が与えられ、道が開かれることもある。

 よき書物、音楽、美術作品 いろんなものも私たちに新しい心を与えてくれるであろう。しかし、私の経験では、日本の文学、漱石、鴎外、島崎藤村、なども中学、高校、大学にかけてと読んでいったけれども、一時的にこんな考え方があると思っても、その根底に、宇宙のすべてを創造された全能の神を信じる信仰がないゆえに、その新しい心というのもごく表面的、一時的なものにすぎず、迷い悩める心はまったく変えられることはなかった。

 ところがこの聖書、神の言葉に触れてからは、21歳の5月の下旬に初めて知ってから今日に至るまで50年以上にわたって、ずっと一貫して変わらない。

 これは山の世界ですらもそのような永続した一貫したものを与えらることは難しかった。そもそも山の世界は健康でなければそこに直接行けない。しかし、神のところには、祈りによって、病気となっても、しばしば更に深く神のお心に近づけるということが与えられる。

 このことを、イエスも強調している。

 ユダヤ人の重要な宗教的な祭りのひとつが最も盛大な最も終わりの日に立ち上がって、大声で言ったと記されていることがある。とくに非常に強調して記されている。イエスは、静かに語られるというイメージが強いが、ここでは、イエスが立ち上がって、しかも大声で言ったと記されている。

 

…祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲め。

 わたしを信じるものは、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。(ヨハネ7の3738

 

 現在では、マイク、スピーカーがあるからたくさんの人を前にするときでも大きな声で叫ぶやいうことは全く必要がなくなった。しかし、以前は、電気が使えるようになるまでは、何万年となく続いてきた人類は、何かを遠くの人、たくさんの人たちに伝えるには、大声を張り上げなければならない。

 ところがこのイエスの大声には象徴的な意味があって、まさにこれは世紀を通じて、世紀を超え、地域を超えて、時間を超え、空間を超えて伝わる。そいう霊的な大声だった。

 それから二千年間、今日に至るまでも、また今も世界には、霊的な大声で、「乾いているものは誰でも私のもとに来たれ」という呼び掛けがなされ続けてきた。

 しかも、ただ信じるだけで、いのちの水が、生きた水が、川の水が流れるように生じるのだと。 それまではあなたは死んでいるるようなものだー「かつては あなた方は罪のために死んでいた」と記されているほどである。        (エペソ書2の1、5)

 心がまったく渇ききっていて、枯れていたような状態。そこに不思議なことにいのちの水が流れ出ると言われるほどに変えられる。たしかに、この二千年前のイエスの言葉は、その後無数の人々によって体験されてきた。キリストを真に信じてその福音を信じた人からは、本当に「いのちの水」というべきものが流れ出す。

 私も様々なことがあっても50年を超えて、このイエス様と触れて、み言葉に触れた時から心の深いところで、小さくともいのちの水が湧いてくるということが続いてきた。そして更に私から流れ出て少数ではあっても、私以外の人たちにも、このことが与えられてきた。

 大学4年の5月末に、一冊の本の立ち読みで信仰が与えられて、ちょうど 1年後に最初に教員として赴任した高校で「希望の方は、聖書や人間の生き方に関する本の読書会をしますから希望の者は放課後に私のいる理科室に来てください」と、読書会開設のことを話したらすぐに十数人の生徒が集まり、4年間その高校で勤務したが、それから50年を経た今日でもその最初の高校で聖書を知って、信仰を続けている人たちは、5人の方たちが県外を含めるとおられる。

 私は、信仰を与えられてからちょうど一年しか経たず、当時私は、大学の理学部4年であって聖書関係の勉強などするなどほとんどなかった。それでも信仰は伝わった。それはまさに神のなされた働きだったと実感している。

 イエスは聖霊について言われた。その聖霊とはまた、いのちの水であり、イエス様から与えられる水であると記され、さらに、聖なる風でもあり、どこからか吹いて来て、求める者に力を与えていく。

 今日、引用したエゼキエル書の箇所では、特に清めということで、新しい心と新しい霊、それを言い換えて「石の心を取り除いて、肉の心を与える」とある。

 重要なことは、強調するために、似た表現でさらに言い換える。そして「新しい心や新しい霊」を「肉の心」と言い換えている。

 偶像しか知らない石のような心でも、信じるだけで、生きた心、肉の心を神様は与えてくださる。

 キリスト教を信じて、或いは聖書を読んできた人でも、エゼキエル書も読んだことがないという人も相当数いるであろう。心を込めて読んだ、通読はしたから、石の心 という意味は解るであろうが、「肉の心」という表現は、これだけとしたらおそらく一般の人々にとっては、よくわからない表現だと言えよう。

 これを「生きた心」と言い換え、新しい心、新しい霊とも言っている。次々と似た表現をたたみ掛けるように強調して浮かび上がらせる。

 そのことを知って読むと、「肉の心とは、神様が清い水を注がれたその心であり、新しい心であり、根本的に新しい霊のことなのだ」とわかる。

 

生きて反応する心(*

    responsive heart

  肉の心ー神から与えられる生きた心とは、神のご意志にかなう、優しく、生きた反応をする心と言えよう。 神が創造された自然のさまざまの日常的な現象、そして、人間世界の日々起きている 災害、事件、政治、社会的なできごと …そうしたことに 敏感に反応する心である。

 

*)このことに関しては、次の英訳がわかりやすいと思われる。

 I will take out your stony, stubborn heart and give you a tender, responsive heart.(レスポンシブ ハート)  responsive heart とは、応答、反応する心。

 

 すでに、数千年昔の旧約聖書の預言者たちは、深いまなざしで、人々の魂の堕落とその結果の裁きを見つめ、全身全霊をあげて反応していたのがうかがえる。

 

…あなたたちが聞かなければ、わたしの魂は隠れた所であなた方の傲慢に泣く。

涙が溢れ、わたしの目は涙を流す。主の群れなる人々が捕らえられて行くからだ。

・「わたしの目は夜も昼も涙を流し、とどまることがない。

娘なるわが民は破滅し、その傷はあまりにも重いからだ。(エレミヤ書 13171417より)

 

 今日のエゼキエル書の箇所では、直接的には「石の心」というのは偶像崇拝をする心であり、本当の神様の心を解ろうとしない、自分の罪のことも解らない。形式的な宗教に固まってしまっているということである。

 それは現代の私たちにとっても、あてはまる。 人間の作ったものを、神として崇めることからは何もよいことはうまれない。狐や蛇や大木、神話上の人間、あるいは残虐なことをして多数の民を殺害などした豊臣秀吉や信長などを神として崇めることからは、神というものはそんな人間と同じような性質なのだと思いかねない。

 古事記にみられるスサノオノミコトの乱行を読めば、それを神として拝むなら、そうした悪行を肯定することになってしまう。

 また靖国神社では、戦争で他国の罪なき人たちの命を奪い、しばしば非人間的な行動をした軍人たち、あるいは、あの無謀な戦争を推進して中国など東南アジア諸国の人々や日本人も含め、一千万を越える人たちを死にいたらせるようなことになったその戦争の責任者さえも神として祀られている。そのような悪行をかさねた人を一律に神として拝むことは、そのような悪事をも正しいとすることにつながる。それは、固くなった石の心というべきものである。

 それに対して、原語に直訳だと「肉の心」が置かれている。けれども、この表現では、現代の私たちには意味不明で、違和感があるだけではないかと思われる。

 肉の心とは、石という命のない存在に対して、血の通っている肉体、その生きた体にあるべき生きた心、といった意味で使われている。

 そのような心の重要性は、いろいろなところで見られる。誰か人と対する時でも、また「祈りの友」の祈りの課題集に短く書いてあるが、その人々の短い記述の中にどれだけ日々の悩みや、痛みや苦しみや忍耐などさまざまのことが、凝縮されてあるかということを思うとき、私たちに石の心でなく、肉の心があるほど、そこから伝わってくる実態を受け止めることができることになる。

  私たちをとりまく自然に関しても、空を見ても、一枚の葉を見ても、さまざまの昆虫を見てもどのように私たちが神様と結び付けて、神様は全部を取り仕切ってなさているのだから、この例えば気持ち悪いような昆虫、或いはきれいな昆虫、蝶とか、それぞれに意味を持たせてある。

 自然というのはそれらを含めて自然なのだから、自然を愛するといえば、たいがいは普通、美しいものだけを自然を愛するということに使うが、自然というのはなにも人間だけが美しいと思うのではなくて、自然は怖いものや、醜いもの、気持ちが悪い様なものみんな含めて自然なので、それを愛するというのは、ちょっと気持ちが悪いようなものも、神様は背後でどのような意味を持って創られているのか、今の私にとってどのような意味があるのか、と神のご意志、御計画に思いを馳せつつ、見つめることが肉の心だと言えよう。

 それに対して、「この虫は悪い、嫌いだ」ということに終わるなら、それはその虫に対して、「石の心」をもって対応したということになる。

 花が好きといっても園芸の草花しか関心がなくて、道端に生えているような雑草といわれるものー最近は雑多な草というイメージになるので、それより、野生で咲いている草ということで野草というほうがイメージがよいので、その野草の花でも、その小さく地味な花一つを見ても、また小鳥の鳴くのやセミの鳴き声にしても、また、嫌な虫、動物の類に関しては、昨日の夜には10時ごろには、私がパソコンのマイクに向って話していますこの部屋の南側の窓の直ぐ下に石の大きな石、縁石があり、そこに1匹のマムシがとぐろを巻いていて、近寄ろうとしていた私に噛みつこうと待ち構えているのに出会った。

 懐中電灯をもってなかったら、噛まれていた可能性が高かった。

 それらの存在のひとつの意味は、神様は、私たちに警告の意味を持ってそういう風なものを存在させているということである。聖書にもペテロの手紙にも「サタンはライオンのように吠え猛って、私たちを飲みつくそうと構えておる」と。

 そういう毒虫や毒蛇に会う度に、やはり神様は警告を与えてくださっていると感じる。

 懐中電灯を持っていなかったら、傍を通ったらじっと待って、パッと飛びつかれて咬まれていた可能性が高い。私たちも神様の光がなかったらサタンに咬みつかれる。そういう身近な生きた問題になる。

 聖書に対してもうっかりすると私たちは、石の心になって、ある人が「私は、聖書のことは読んだからわかってる」と言ったのに驚いたことがある。表面的に読んだらわかった気持ちになる。石の心になる。集会に参加していないと、聖書の深い意味について知らないままとなり、聖書をさーっと読んだだけでわかった気になってしまう。

 このように、石の心でなく、生きた心、絶えず生きて反応する心、この一言でもさまざまの意味がある。 いろんな人、日本全体も長い歴史を見たら本当に固い石の心が宿っておって、だから本当にに生きた神の心を大多数の人々が拒んでいると言えよう。

  新型コロナウイルスの感染拡大によって、医者とともに、看護師の働きがクローズアップされ、頻繁にコロナ対策にかかわる医療従事者の激務のことが報道されてきたが、そもそもその看護師という職業は、日本においてどのようなことからはじまったのかということは、ほとんど全くテレビや新聞でも報道されない。

 そのため、ここで、少し日本の看護師、その教育の歴史をふりかえってみたい。

 

 日本における看護師教育

 日本において看護師を養成する学校の最初のものは、一八八四年(明治17年)に現在の慈恵医科大学(*)のもとになった病院長が、イギリスの医学校に留学し、そこで学んだ、ナイチンゲールの看護師養成学校を模範として作ったものであった。その後まもなく、新島襄の医学校設立の目的もあり、アメリカ人宣教医ジョン・ベリーや、同じくアメリカの宣教師リンダ・リチャーズ、そしてアメリカの教会から日本に派遣されたアビィ・マリア・コルビー女史などによって、京都の同志社に看病婦学校が作られた。さらに、東京ではアメリカの宣教師、メアリ・ツルー女史が、桜井女学校(**)に看護学校を設立した。

 その後、一九二一年に、東京の聖路加(せいるか)病院(***)で、当時の女学校を卒業した女子を入学させ、三年間教育する高等看護婦学校が作られて、その後日本で最初の看護教育の専門学校の認定を受けた。(「ナイチンゲール」伝記の日野原重明による解説などによる)

 このように、イギリスやアメリカのキリスト教精神が、日本の看護教育の歴史の最初において、きわめて重要な役割を果たしているのがわかる。

 

*)慈恵医科大学の名称にある 「慈恵」ー慈しみと恵み は、当時のイギリスにおいて広く浸透していたキリスト教で最も重要な、神の愛と罪の赦しの恵みを反映したものとなっている。

**)この桜井女学校は、やはりキリスト教の宣教を目的とした、東京のミッションスクール、新栄女学校と合併して現在の女子学院となった。後に、この女子学院の高等科(現在の大学にあたる)は、東京女子大学に統合された。 この女子学院の初代院長となったのが矢島楫子(かじこ)。その後、1927年から1945年に召されるまでの19年間、女子学院長をつとめたのが、三谷民子。この民子は、無教会のキリスト者として知られる三谷隆正の異母姉。

 なお、女子学院は現在では、東京大学に毎年30人ほども合格するとして有名であるが、現在も一日を讃美歌301番の「山辺に」のチャイムから始る毎朝の礼拝(黙祷、讃美歌、聖書の話)がなされている。

***)聖路加病院の名称となっている「路加」、これは、ルカ福音書の著者であり医者でもあったルカの中国語訳であり、当て字ではない。中国語では 「路加」は、(ルー チャー)と読む。

 

目を覚ましていないと

  すでにキリスト教信仰を与えられている私たちにおいても、霊的に目覚めていないと、再び石の心に戻ってしまう危険性をつねにはらんでいる。例えばペテロのように聖霊を豊かに注がれてもなお油断していたら割礼をしていない人たちと食事をしなくなった。割礼していない者は汚れているという誤った信仰に引っ張り込まれたからであった。それを知ったパウロから面と向かって叱責された。

…ところが、ケパ(ペテロ)がアンテオケにきたとき、彼に非難すべきことがあったので、わたしパウロは面とむかって彼を非難した。というのは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、彼は異邦人と食を共にしていたのに、彼らがきてからは、割礼の者どもを恐れ、しだいに身を引いて離れて行ったからである。(ガラテヤ書2の1112

 

 ペテロの様に豊かに注がれた人であっても油断したら割礼をしていない人と食事をしたら汚れるという、「石の心」に戻ってしまった。

「割礼を受けていないから、汚れているなどと思ってはいけない」このことは、ペテロにとっては、夢にまで出てきて、神からの命令としてありありと見た。それにもかかわらず、ユダヤ人の古い宗教的言い伝えに引き込まれたのだった。

  それにもかかわらず、石の心になってしまった。これを見抜いたパウロは面と向かってペテロを叱責した。真理からの明白の離反に接したときには、そういう風に面と向かって相手を叱責しなければいけないと知らされる。 批判というのも神様の真理と、正義、真実のために、福音のために言わなければならないということがある。

 私たちは、日々の生活において、たえず、周囲のできごとに関して 生きた反応、リスポンシブな反応をしているのか、それとも、石の心なのかが問われている。

 例えば、知り合いの人が、或いはキリスト者の友人が病気になるとか召されたということに接したとき、その病気の人には、何がいま最も必要としているだろうか、あるいは召された人には、何をこの世に残しただろうか、私たちが受け継ぐべきものは何なのか…等々と、生きた心で反応するのか、それとも、そのうち治るだろうと祈りも見舞いもなく過ごすのか、また死に際しても、ああ、死んだのかと、ただそれだけで何も思わないか、或いはその家族の人たちが40年、50年、60年と長い夫婦の生活があったから、深い喪失感の中にあるだろうかと。

 私たちの心のあるべき道は、いくらでも別れ道、選択すべき道がある。

 その人を知っていれば知っているほど、その喪失感の中に神の聖なる霊がそこに注がれるようにと、どれだけ本気で祈ろうとするだろうかと、そういう風に私たちも生活に一つ一つは、新しい霊、新しい心をたえず受けているのかどうかが問われることになる。

 

清い水、神からの風

 聖書の言葉、聖書そのものがそういう風に、私たちがみ言葉にいつも生きた心、リスポンシブな心、であるようにと、そのように語りかけてくる。清い水を与えられるほどに、私たちの心はいろんなことに、美しいこと、良いことに、闇のことにも耐えず反応して、闇のことであればそこに神の御国が来るように祈りを促される。

 この清い水のことは、37章では聖霊の風という形で出てくる。

 37章は徹底して枯れてしまったものが神様の息、風、5節には「お前たちの中に、死んだ徹底して枯れた骨の中に霊(ルーアハ)、風を吹き込むと訳している。

 神が息を吹き込む、そしたら生き返る。

 その後9節も「霊よ、中央から吹き来たれ。」。霊よ吹いてこい、これは勿論、原語のヘブル語では、 ルーアハですが風と訳している英訳も当然あります。

「その風よ、ルーアハよ、吹き来たれ、風よ、聖なる神の風よ、これらの死んだ者に吹き付けよ、そうすれば生き返る。」

 今日の箇所では、「清い水を注ぐ」とありますが、すぐ後の37章では、聖なる風、神様から吹く風、神の息、風としての聖霊 というように、命を与える風(神の息)という側面からも書かれている。

 聖書でも様々な表現ー生きた反応をする魂になるようにといろんな表現を通して神様が迫ってきて下さる。

 私たちは、聖書の無限の奥深い世界に接して絶えず新しい霊を受け取っていきたい。絶えず固まろうとする石の心を取り除いていただきたいということを願いつつ、それが御国を来たらしたまえ、ということでもある。(2021.9.14 の徳島県海陽町  海陽集会での講話に加筆)

 


 

リストボタン「祈りの友 合同集会」に参加して

            M・N(静岡)  

 多くの刺激を受けました。感謝です。

 以前、徳島で開催された全国集会あるいは四国集会であったか、一日目の夜、「祈りの友」の集いがあり、大きな輪を作り、示された人が順番に祈ることがありました。

 あの時の印象が強く心に残っています。困難に直面している兄弟姉妹のために具体的に祈ることの大切さを示されました。

 そして昨日の「祈りの友」合同集会に参加しておられた 福井県のN姉 O姉の夫の介護、YN姉の高齢独居者宅訪問・交わり等の話を伺い、もっともっと祈らなければならない気持をもちました。

 その一方において、 鹿児島のF兄の病院や施設訪問し、小さな人たちと交わりを持ち、祈りの友の方々を順に祈られる献身的な愛の姿、以前から知っていましたが昨日改めて参加者から感謝の言葉をお聞きし、本当に頭が下がりました。

 また、京都のK兄、大阪のS兄、福岡のK兄、青森のT兄等とも繋がりを持て、祈りの友の奥行きの深さを感じました。最近伝道会に入会されたM兄も参加され、K兄(茨木)、H兄(神奈川)(私はこのお二人と面識有りません)も参加され、祈りの友との繋がりの大切さを改めて認識した次第です。

 今後、もっと「祈りの友」の存在が知られ、新しい兄弟姉妹が増えば、と思いました。今後、周りの人を誘ってみようと思います。

 

〇 ナイチンゲールが語ったエピソード。

「ある非常に有名な優れた医師が、肺炎をどう治療するかと尋ねられたとき、「私は肺炎を治療しません。私は肺炎にかかっている人を治療するのです。」と答えたという。

 それにもかかわらず 病気でなく、病人を看護するということは、看護そのものと医術との違いのひとつなのである。」(「ナイチンゲールの看護論」58頁)

・ここで引用している優れた医師は、病人に向うとき、その体の病気を癒すだけでなく、全体としての人間を癒そうとしてきたのがうかがえる。 そしてナイチンゲールは、医術は、病気をなおそうするが、看護は、病人を癒そうとすることなのだと。

 キリストは、ナイチンゲールの引用した優れた医師の方針を完全な形で実現してきたのであり、 病気そのものをも癒すことができ、さらに魂の病、人間全体がかかっている自分中心という病を癒すために来られたのだった。


 

リストボタン報告

 

第9回「祈りの友」合同集会

 二〇二一年九月二十三日(秋分の日)11時から16

 オンライン集会 

             参加者56

プログラム

 開会礼拝 司会 貝出久美子 賛美@「天の神祈ります」讃美歌21354

1、開会  吉村孝雄 祈りの友の祈り 「真珠の歌」より

2、祈りに関する聖書講話

 @「父の約束された聖霊が来るまで熱心に祈って待っていた」 西澤正文(清水聖書集会代表)A 「レアとラケルに対する 神の愛ー創世記より」 小舘知子 (春風学寮母)B 「主イ エスの御名によって」秀村弦一郎(福岡聖書研究会代表)

 賛美A 「ちいさなかごに」讃美歌第2編263

3、12時〜1240分 休憩昼食

4、自己紹介・近況報告 5、祈りに関する証、感話              司会 土屋 聡

 @ 「罪の赦しの十字架」浅井慎也 (東京)A「祈られ、助 けられ」冨永尚(松山市)B「どんな時にも神に信頼せよ」 田嶋恵子(仙台)C那須佳子(大阪府高槻市)「祈りつつの歩み」D「信仰と祈りの友への導き」栗栖陽子 (島根)、E「祈りに応えてくださる神さま」綱野悦子(徳島市、全盲)、F「祈りの友の祝福」対馬秀夫(青森)、G「中途失聴者の困難の中の恵み」奥住芙美子 (徳島市、聴覚障がい者)、 H清水 勝「日毎の糧を」(大阪市)

6、午後三時の祈り  司会 古川 静(鹿児島)賛美B「祈りの友の歌」 参加者による祈り

7、閉会集会 司会 香西 信(京都)感想(1人5分以内) 大塚正子(北海道)、峰原 順子(茨城)、 鎌田厚志(福岡)祈り(司会者)

賛美C「神共にいまして」新聖歌508

 

〇北海道から九州までの各地の「祈りの友」が、インターネットのスカイプという手段によって集められ、ともに祈り、御言葉により祈りを学び、さまざまの方々からの証言を聞く恵みのときが与えらて感謝。

 なお、この「祈りの友 合同集会」の内容の全録音CDの希望者は、左記の吉村まで申込ください。価格は送料共 1枚五〇〇円。

 さらに、祈りに関する聖書講話、証しなどは、「祈りの友」会報の二〇二一年度「祈りの風」に掲載されています。

 「祈りの風」は、53頁、B5版。この送付を希望される方も、同様に左記の吉村まで。送料ともで、二〇〇円。

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リストボタン集会だより(8月分)

 

 以前には、別刷で作成していた「集会だより」を、ここに掲載しておきます。家庭集会は、天宝堂集会(綱野悦子宅)と小羊集会(鈴木益美宅)。この二つはいずれも全盲の方の治療院が会場。

 ほかには、板野郡の北島集会(戸川宅)海部郡の海陽集会(数度宅)があります。

 

〇8月1日(日)主日礼拝「神の国のために共に働く」コロサイ四・9〜11

 会場11名 スカイプ49

「神の国のために共に働く」とある。ともに働く、ということは人間社会の中ではよくあることである。しかし、からだを使って働くことは、病気や障がいが重くなると難しい。しかし、神の国のためには、どのような状態でもはたらくことができる。それは一番大事な仕事、祈りである。集中して祈るとき、不思議な道が開かれる。

 叫ぶような真剣な祈りを神は聞かれる。さまざまな困難も祈るために与えられている。祈りは離れていても、会ったことがなくても聞かれる。聖霊が注がれるようにと祈る。病もみこころならば癒され力も与えられる。 そのような祈りをもって、それぞれが 悪の力が個々の人から、また人々の集まりであるさまざまの会社、学校、お店、役所…から除かれて良き力が臨みますようにと祈ることはともに御国のために働くことになる。

 病気だから働けないのではない。自分の心のこと、集会の人、災害にあった人、難民という苦しい状態の人、そのような人でも福音のためには祈りという働きが与えられている。

 

 〇8月2日(月)小羊集会  鈴木治療院にて(オンラインと併用)

「見ることの大切さ」ヨハネ一・4046

 ヨハネ福音書では、特に「見る」ということが繰り返し書かれている。この個所にも「見る」、「出会う」「みつめる」といった言葉が何度も記されている。肉眼で「見る」ということは一般の動物にも見られる。しかし、人間は心で見る、さらに聖霊によって見るということが与えられている。心の中を見る。目に見えないものを見る。愛情があるかどうか、それは目を見たらわかる場合もある。

 そのまなざしを完全にもっているのが神である。神のまなざしは、すべてを見通される。「見る」ということに、力を神は与えている。そして、この神のまなざしがわたしたちに注がれている。

 

…彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、わたしたちはメシア(救い主)に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて ケファと呼ぶことにする」と言われた。(ヨハネ)

 「ケファ」とは「岩」である。本当の岩は神であり、キリストである。詩編では神はわが岩、という表現がある。それをイエスが受け継ぎ、イエスは岩であり変わることがない。

 ナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。

 イエスの所にきてみたら、世界の見方がかわり価値観がかわる。

 

〇8月8日(日)主日礼拝 「祈りにおける戦い」

コロサイ書四・1218 会場11名 スカイプ44

 人間は三つの戦いがある。自然との戦い、人間同士の戦い、心の中の戦いがある。目に見えない戦いは、地位や権力、お金があってもそれは関係がない。神を知るとき、心の中で戦いが起こる。安易な道を選ぶのか、難しい道を選ぶのか。

 命がけで福音を日本に伝えてくれた。それらの人は、祈りの戦いによって苦しみながら戦ってきた。それらの人は世に知られていなくても神に名前を知られている。人に知られたい、褒められたいと思うとき、それはすでに戦いに負けているといえる。神はすべてご存じである。

 安心、安全だけを求めると、福音は伝わらない。命がけで、働いてくれた人によって福音は伝わってきたのである。

「神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています」とある。この「熱心に」と訳されている原語は「アゴーニゾマイ」で、「戦う」という意味であり、苦闘する、格闘するという意味がある。英訳では、battlewrestle 等も用いられている。

「つねに、あなた方のために、祈りのうちに、炎のような情熱をもって働いている」

「彼はあなたがたのために、祈りつつ、決して戦うことをやめない」

「彼は祈りの中であなたがたのために格闘している」

He is always wrestling in his prayers NRS

 

 のようにも訳されている。わたしたちは祈りにおいて戦いが必要であることを常にみつめる必要がある。

 終戦を記念する8月。過去の歴史を正しく知り、日本の犯した罪を学び、正しく考えることができるようにすべきである。 先人の悲痛な苦労を思い、日本に神の国が来るようにと祈るものでありたい。そして、今の生活の中で何をするにしても、神の国のために行うものでありたい。

 

813日(金)天宝堂集会(はり治療院、綱野悦子宅にて)「キリストが再び来られること」 マルコ十四・62〜65

 「人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」キリストが再び来て下さる。この日は「主の日」として預言されている。

 この地球も太陽でさえも、最終的には消える。この世界のすべてが最終的にどうなるのか。その解決がキリストの再臨にある。ヨエル書には以下のように記されている。

「その前に、地はおののき、天は震える。太陽も月も暗くなり、星も光を失う。主はその軍勢の前で声をとどろかされる。その陣営は甚だ大きく御言葉を実現される方は力強い。主の日は大いなる日で、甚だ恐ろしい。誰がその日に耐ええよう。」(ヨエル二・1011

 このような恐るべきことが示されている。しかしそれは、以下のように続く。

「あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く忍耐強く、慈しみに富みくだした災いを悔いられるからだ。」(ヨエル二・12

 自分の犯した罪の重さを知って、方向転換をする。そのとき神は救いの手を伸べられる。世界に途方もない変革が起こっても、キリストの言葉は永遠に変わることはない。神に立ち返るとき、神は罪を赦してくださる。

 「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。」(ヨエル三・1〜2)

 キリストはどんな大混乱があっても、そのただ中に来られて、新しい天と地を下される。

 そして、わたしたちの姿はキリストの栄光の姿に変えられる。世界が滅びても、いかなることがあっても、キリストは再び神の力に包まれてこられる。そして、 それは聖霊によって知らされる。

 「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」(ヨハネ十六・13

 科学技術や社会変革、医学、人間の思想などの力では、魂の救い、究極的な希望は与えられない。キリストを信じることによってのみいかなることにも揺るがない希望が与えられる。

 

〇8月15日(日)主日礼拝 「ロゴスなるキリスト」

 ヨハネ一・1〜5   会場11名 スカイプ39名 

 初めに「言(言語ではロゴス)」があった、と聖書は記している。その「ロゴスは神と共にあり、神であった」とある。これは「ことば」と訳されているが、当然人間が話す言葉ではない。神の言葉である。

 神の言葉がどれだけ重要であるか。聖書のはじめからそれは記されている。聖書は人間の思想ではない。神が人に啓示して書かせたのである。だから、全世界に通じ、広がっている。

 神がはじめに言われた言葉。それは「光あれ」である。初めにロゴスがあった、ということと同じである。そして、神の言葉によって、すべては創造された。自然もすべて神が造られた。

 信仰の父と言われる、アブラハムが突然変わったのは、神が言われたからである。神に行きなさい、といわれて、不思議な力に導かれて進んでいった。アブラハムの信仰も神の言葉から始まったのである。

 キリストが生まれる700年前に、イザヤは神の言葉によってキリストが来られることを預言された。

キリストの弟子たちは、キリストに「わたしに従って来なさい」という言葉をかけられて従った。パウロも復活したキリストに「サウロよ」という言葉をかけられて、目が開かれた。初めにキリストからの言葉があったのである。

 どんな弱い人、寝たきりの人であっても、神の言葉が与えられるとそこから導かれていく。

 今、一番必要なのは、神のことばである。コロナ感染が広がり、また災害が次々と起こっているこの世界で、わたしたちはコロナの終息、また災害からの復興を祈るだけではなく、人々がそこから人がキリストに立ち返るように、真実の神を信じるようにと祈るべきである。

 とくに敗戦記念の日であるきょう、日本人は戦争を始めて、他の国に大きな罪を犯した。しかしその罪の歴史をほとんど知らない。日本に神の言葉が与えられ、罪を知り、真実の神に立ち帰るようにと祈り願う

 

〇8月22日(日)主日礼拝

・主題「神の愛そのものとしての三位一体」ヨハネ一の1〜3

・参加者  会場 9名  スカイプ 48名

 神とキリスト、聖霊が同じである。それは特に大事であるからヨハネ福音書の最初から示されている。

 初めにロゴスがあった。神と共にあった。ロゴスが万物の創造者であると記されている。神だけがはじめからあるのではなく、ロゴスと共に初めからあった。ロゴスはイエス・キリストのことである。ヨハネはキリストが神であることを啓示された。それは学問や科学ではわからない。

 キリストがなぜ生まれたか。イエスとして、人間として生まれ、本当に貧しい人、弱い人、汚れた人のところに行って、癒された。強いものが勝つという、この世の中で、弱いものを見出し、探して、救いに来てくださる。それが神のご意志でありキリストなのである。

 聖霊は、戸をかたく閉じているところにも来られる。聖霊は、風のようにこられる。

「霊」とは原語は「ルーアハ」であり、意味は風、息、という意味がある。

「初めに、神は天地を創造された。地は混沌(形なく空虚)であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。(神からの風が水の上を吹き続けている。) 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。」(創世記一・1〜3)

これは人間の状態を示している。闇の中、空しく、すがるものもない。そこに神からの風が吹いていた。

 キリストが神である。それは聖書のいくつかの個所にも記されている。

へブル書一章では「御子によって世界は創造され、万物を支えている」とある

コロサイ一章には「キリストは見えない神の形であり、万物は御子によって創造された」とある。

神とキリストは同じであると言うことは繰り返し記されている。

 この真理を受け取らない人に対しても、その人のために祈ることが必要である。

「主」という言葉は、旧約聖書では神に対して使われていた。しかし、「主」とは神とキリストを指す。

トマスが「イエスの傷に触れなければ信じられない」と言っていたが、啓示を受け「わが主、わが神」と告白した。疑い深いトマスと言われているがトマスに与えられた啓示が大事なのである。

キリストが神と同じであるから、万人の罪を負い死んで罪をあがなうことができた。神が愛であるからである。

 

829日(日)主日礼拝 

「命、光、水、聖霊」ヨハネ一・4〜5 会場11名 スカイプ52

 「言のうちに命があった」とある。「言」とは原語では「ロゴス」であり、それは生まれる前のキリストをさしている。そのロゴスなるキリストに、まず「命」があった。これは生物学的な命を指すのではない。キリストを信じる者は死んでも、そのあと神のもとで復活の命が与えられる。この命のことをさす。

 人間に必要なのは、体の命ではなく、復活の命であり、それを受けるために必要な罪の赦しである。その命をうけて苦しんでいる人のことを思う。大事なのは、罪からの救いなのである。

 命なる言葉とは何か。騒々しい今の時代、いっそうこの、命の言葉が必要となる。そして、どのように混乱した時代が来ても、この神の言葉を受けとる人を神が起こされる。

 ヨハネの福音書が書かれた目的は何か。

「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(ヨハネ2031

 


リストボタンお知らせ

 

〇北海道 瀬棚聖書集会

 例年は、夏に開催されているのですが、コロナのために、昨年そして今年もオンラインでの集会となりました。どなたでも参加できます。

・日時…112220時〜24日(水)15時 オンライン集会

・主題…恵みと感謝

・講師 吉村孝雄(徳島聖書キリスト集会代表) 

 石橋 隆広(日本基督教団利別教会牧師)

・申込先 野中 信成

 

〇「野の花」文集原稿募集

・字数…2000字以内。

・原稿提出期限…10月末日

・送付先 :770-0868 徳島市福島一丁目6-42 林晴美気付 吉村孝雄宛て


 

〇集会案内

1、主日礼拝…徳島市の集会場と、オンライン(スカイプ)の併用集会。

2、夕拝…毎月第1、第3火曜日 午後7時30分〜9時。

3、家庭集会(小羊集会だけは、現在のところ鈴木宅とオンライン併用、ほかの家庭集会は、現在のところコロナのためにオンラインのみの集会)

・海陽集会…毎月第2火曜日 午前10時〜12時 海部郡海陽町 (はり、あんまマッサージ治療院 数度宅)

・北島集会…板野郡北島町の戸川宅にて。毎月第2月曜日の午後1時〜2時半、 毎月第4火曜日の午後1時〜2時半。

・天宝堂集会…毎月第2金曜日の午後8時〜9時半 徳島市応神町(天宝堂 はり治療院 綱野宅)

・小羊集会…毎月第1月曜日 午後1時〜3時 徳島市の南島田町のはり治療院(鈴木宅 オンライン併用)

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 これらの集会に参加希望の方は、以下の吉村孝雄まで申込ください。