いのちの水  20214 月 号 第722

私は復活であり、命である。私を信じるものは、死んでも生きる。

生きていて私を信じる者はだれも決して死ぬことはない。

このことを信じるか。(ヨハネ福音書112526

目次

・イエスは女に顔を拭われ

死と復活

他者のための祈り

お知らせ  (キリスト教独立伝道会の公開講演会、春期聖書集会のお知らせ

報告

 

---------------------------------

 

リストボタンイエスは女に顔を拭われ

 「ヴェロニカ」というルオー(*)の名画は広く知られている。ヴェロニカは、聖書には出てこないが、古くからキリスト者の姿と深くかかわることとして受け継がれてきた。

 それは、ゴルゴタの丘に向って、十字架を背負って苦しみながら歩むイエスの血と汗を,みずからかぶっていた布でぬぐったところ,その布にイエスの顔が残ったという伝承。

 

 *)ジョルジュ・ルオー (18711958年)20世紀最大の  宗教画家とも言われ、ヴェロニカはその代表作の一つ

 

 この絵は、私にとっても不思議な余韻ある印象を残している。

 初めて接したのはもう50年ほども昔になるが、その描かれたヴェロニカの表情、全体を包むブルーの色調、それらの雰囲気が画家の魂にあったキリストへの深い心情の反映したものとして感じられたからである。

 ヴェロニカの伝説、それは単に昔の出来事の言い伝え、ということでなく、すべてのキリスト者にあてはまることとして受け止められたゆえに、伝えられてきた。

 それは、キリストの限りない苦しみと悲しみを見つめていたヴェロニカ、それは後のキリスト者においてもその程度の差はさまざまであるが、イエスの苦しみを受け止め、私たちの罪の赦しのためにそうした耐えがたい苦しみ、痛みをうけてくださっているイエスに対して、少しなりともの苦しみを共有しようとしてなすささやかな祈りや行動に対して、キリストはみずからの本質をうつし出そうとされるーということである。

 このことと関連して、主イエスは次のように言われたのを思い起こす。

「…わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、あなた方に真実を告げよう。その人は必ずそのよき報いを受ける。」

          (マタイ1042

 イエスが十字架への歩みをされたのは、ご自身が鞭打たれ、重い十字架を背負って血と汗を流しつつ、人々のあざけりや好奇のまなざしを浴び、よろめきつつ歩むという、最も小さくされた状態であった。

 そのような小さき者となったイエスに布一つを差し出したヴェロニカの主イエスへの愛と信仰は、イエスの御顔がその布に刻印されるー彼女自身の魂にも刻まれるという恵みを受けたのだった。

 このことは、私たちが古い自分に死して歩むとき、私たちの魂の深いところに、キリストのかたちが刻まれ、キリストが内に住んでくださるようになることを指し示している。

 これは、キリストに対するだけでなく、愛する者の苦しみのために何か小さきことをも心を込めて為さんとするときには、私たちの魂にキリストの形が小さくとも記されていく。

 使徒パウロは、そのことを最も深く体得した人であった。

 それゆえに、次の言葉が聖書に記されている。

 

…私は、いつもイエスの死を、この身に負っている。

それはまたイエスの命が この身に現れるためである。       (第2コリント4の10

 このヴェロニカのことをもとにした、タイトルにあげた本の著者の祈りの詩を次に引用する。

 

…主よ、長い間 彼女はあなたを見つめていました

彼女はあなたが苦しまれるのを見て苦しんでいました

もはや耐えきれなくなって彼女は 警備の兵士を押しのけ

あなたのそばへ近寄り、麻布であなたの顔を拭きました

その布に、あなたの血にそまった顔がついたという

たしかにそれは、彼女の心に焼き付けられました

 

主よ、小さな弟が頼もしい兄を心からより頼むように

私もまたあなたのことを 思いつづけていたいのです

あなたに似たものになるために、まずあなたを見つめ、

あなたのように、いと小さき者になりたいのです

けれども主よ

幾度 私は、あなたの前を黙って通り通りすぎようとしたことか

たとえとどまってあなたを見ても、すぐにやめてしまいます

主よ、お赦しください

楽しみを求めることだけに熱心なこの身を

あなたの輝きをうつし出さない、私の濁った目を

あなたの愛の深さを示さない、私の閉じた心を

主よ、お赦しください

主よ、私のところに来てください。

私の心の扉は開いていますから。

(ミシェル・クオスト著 「祈り ーすべての生活が祈りとなるとき」より。 原題  prire quand toute la vie devient prire

 


 

リストボタン死と復活

 

 春、それはいたるところで植物に新芽が生じ、若々しい命に満ちた姿が現れている。こうしたすべても、復活、命を指し示そうとするものである。

 この世界は、闇と光で満ちている。

 それは、死と復活で満ちていると言い換えることができる。

 聖書にも それが全体の主題であり、それゆえに全巻がそれを現している。

 巻頭から、闇、空虚、何もない、その状況のなかに、聖なる風が吹き、神は、光あれ! とのひと言で、光が存在するようになったと記されている。

 これは、闇と空しさの満ちた世界ー死の世界のただなかにあって、神は命の光を創造されたという宣言であり、現代の私たちがいかなる状況にあろうとも、全能の神のひと言で、命の光が存在するようになるという預言であり、約束である。

 アブラハムにおいては、光なき生活をしていたただなかに、神からの呼びかけの言葉があり、それは命ある世界への招きだった。

 そして、その言葉に従って、いまだ見たことのない約束の地へとはるかな旅に出た。途中にどんなことがあるかもわからない。それでも、出発しようとする決意を神が起こさせたのだった。

 長い日々の後、到達した。そしてある夜、神はアブラハムをテントの外へと呼び出し、夜空を見て、星々を見よと言われた。

 そして、あの星のように子孫が増えるとの驚くべき約束がなされた。

  そして、死んだも同然のアブラハムから、神の復活の力によって無数の人たちが生まれ出ることになった。

…ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天に星のように、また海ベの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれた。

           (ヘブル 1112

 そのことは、現代の私たちにもいえることであって、この世界はすべてが死んでいくのが必然であるが、そのただなかにあって、いまも無数の人たちがキリストによって生きる希望が与えられ、いかなる状況にあっても、信仰・希望・愛はいつまでも続くと記されているように、永遠の命の世界へと招かれ、じっさいに復活の命を与えられている。

 復活は世の終わりにようやくなされると思っている人が多い。

 しかし、神は全能であり、愛であるゆえに、死んでからいつかわからないはるかな未来であるかもしれないそのような期間に、ずっと死んだままでいるということは、つねに生きて働く神の愛のなさることとは思えない。

 じっさい、聖書において、キリストご自身が、次のように言われて、アブラハム、イサク、ヤコブといった遠い昔にもう滅んでしまったとおもわれていた人たちが、生きているということを示されたのだった。

 

…死人がよみがえることについては、モーセの書の柴の篇で、神がモーセに仰せられた言葉を読んだことがないのか。

『私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。

 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。

        (マルコ 122627

 そして、イエスはじっさいに死が近づいたとき、三人の弟子たちだけを連れて高い山に登り、そこで、モーセとエリヤがイエスに語りかけたことが記されている。

 これは、まさに旧約聖書の人が死んで、滅んだとか陰府の暗い世界で影のようにいるのでなく、御使いのように生きているのを示すことである。

 さらに、信仰によって義とされるー救いを得るということは言い換えると、信じるだけで復活の命を与えられるということである。

 

…イエスは彼女に言われた、

「私がよみがえりであり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる。

また、生きていて、私を信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。(ヨハネ112526

 ここには、世の終わりという

いつのことか分からないときに復活するのでなく、信じたときに罪ゆえに死んだ状態から、すでに復活したのだ、ということが言われている。

 死んだような状況からの復活、再生ということは、聖書全体の主題であり、それゆえに聖書はその巻頭からさまざまの形でそのことを示している。

 出エジプト記にあるイスラエルの人々の死に瀕した状況から、神が遣わしたモーセによる復活、再生もそのことを意味している。

 さらには、出エジプトの後、ただちに生じたエジプト軍の追撃で死の世界を目前とした人々の前途に海が開けて命の世界へと移されたこと。

 ダビデのことも、重い罪を犯して本来は死ぬべきであったが、そこから深く悔い改めて、イエスの先祖となった。

 イスラエル民族自体、バビロンからの大軍の攻撃によってエルサレムの町は徹底的に破壊され、貧しい民は残ったが、多くははるか千数百キロもの遠い外国に捕囚となってしまい、民族は滅んでしまったものとみなされました。

 しかし、そのような死せる状態となった民に、天からの風(聖なる風)が吹き渡り、人々は徹底的に枯れていたにもかかわらず、ふたたび神の力によって復活した状況が一人の預言者エゼキエルに啓示され、じっさいその啓示の通りに、民族はさまざまの不思議な助けも与えられて、滅びからよみがえったのであった。

 

…枯れた骨よ、主の言葉を聞け。見よ、私はお前たちの骨に霊(神からの風)を吹き込む。

するとお前たちは生き返る。

 霊よ(神からの風よ)、四方から吹きつけよ。これらの死んだものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。(エゼキエル書37章より)

 

 現代の私たちにおいても、このことは同様に成り立つ。

 人間は、神からみれば、自分中心であり、不正であり、真実の愛もなく、私たちは枯れた骨のような状態である。

 しかし、復活のキリストである聖霊が私たちの魂に吹き込まれるときには、私たちは新たな命に復活する。それは過去二千年の間で無数の人々が経験してきたところである。

 このことは次のようにも記されている。

…あなた方は、以前には自分の罪のために死んでいた。

しかし、憐れみ深い神は、私たちをこの上なく愛してくださり、その愛によって罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かし、キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださった。   (エフェソ書2の1〜6より)

 

 死と復活、それは霊的に見るときには、ただの一回きり、死んだときに生じることでなく、日常的に生じていることなのである。

 


 

リストボタン他者のために祈ること

 

 祈りというと、まず自分の苦しみや悲しみ、病気などから救ってください、と祈るのが普通だと思います。

 他方、身近な者、家族、友人たちの苦しみなどに接してもその人へのいやしや平安を祈ることもまたごく自然なことです。

 聖書にもその双方が、いろいろな形で随所に見られます。

 ここでは、他者への祈りについてその一端をみたいと思います。

 

…モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレク(*)が勝った。

しかしモーセの手が重くなったので、アロンとホルが石を取って、モーセの足元に置くと、彼はその上に座した。そしてひとりはこちらに、ひとりはあちらにいて、モーセの手をささえたので、彼の手は日没までさがらなかった。(出エジプト記十七・1112

  *)イスラエルと敵対関係に    あった民族。

 旧約聖書における戦いの記述は、キリスト以降は、悪との戦いの象徴として受けとることができます。この個所は、戦いにおけるモーセの役割がうかがえるとともに、いかに祈りが重要であるかが示されている箇所です。これは単に戦いにおける祈りの重要性を示すにとどまらず、祈りに関してーとくに他者のための祈りの重要なあり方を指し示しています。

 モーセが手を上げているとは、祈りを持続していることを意味しています。

 モーセの手が重くなったとは自分だけでは祈りが続かなくなったということであり、そのような時には他者によって支えられる必要をこの個所は示している。

 このことは現代の私たちにおいても当てはまります。キリスト者とはキリストによって救いを与えられたと実感できるようになった人であり、おのずからキリストや神への願いや感謝、苦しみを訴える…等々、さまざまの心の思いを注ぎだすように変えられていきます。

 それによって悪の霊との戦いに勝利が与えられることを期待できます。しかし自分自身が疲れや苦しみに遭ったときには祈れなくなることもありましょう。そんな時でも誰かが祈りを続けていくことが重要なのです。

 み心にかなった祈りとは、私たちの自我中心の心が砕かれてなされる祈りであり、聖霊にうながされてなされる祈りであり、それはまた幼な子のような心でなされる祈りといえます。

 そのような祈りはまっすぐに神のもとに届くのです。

 そしてそのように幼な子のような心をもって祈る者の周りには、天使がいる、しかもその天使は神の御顔を仰いでいるほどに最も近くにいる天使であると主イエスは言われたのです。

 

…これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。

言っておくが、彼らの天使たちは天でいつも私の天の父の御顔を仰いでいるのである。(マタイ福音書十八・10

 

 このような祈りは主の祝福を受けるゆえに、続けられていく、そしてそれは互いに支え合う祈りとなります。それはそのような祈りを主イエスが支えられるからです。

 主イエスは弟子のために次のように祈られました。イエスによって力を与えられた者は、他者のためにもまた力が与えられるように祈ることが勧められている。

 

…私はあなたのために、信仰が無くならないように祈った。

 だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。

    (ルカ福音書二十二・32

 主イエスは、自分自身が十字架上で釘付けになるというこの上もない苦しみに会いながらも、次のように祈ったのでした。

 

…そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。

 自分が何をしているのか知らないのです。」          (ルカ福音書2334

 使徒の働きを記録した文書(使徒行伝)においても、最初の殉教者となったステパノという人は、やはり殺されるとき、つぎのように祈ったのです。

 

…それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。         (使徒言行録七・60

 

 このような死を前にした時ですら、自分を殺そうとしている憎しみにあふれた人々のために祈ることができる魂は、当然、日頃のさまざまの状況におかれた人々のために祈り続けていたのがうかがえます。

 自分のためだけなく他人のためにも絶えず祈る心、そこにとくに主はともにいて下さるのです。

 主ご自身が、私たちのために祈ってくださっている。それは主イエスは愛であるから。そして主は真実なお方であるから。

 敵のために祈れ、苦しみを与えようとするもののために祈れと言われた主御自身は私たちのために祈りを続けていて下さる。モーセの手は疲れることがあったが、主イエスの手は決して疲れることはない。それは神の御手だからです。

 キリスト者は本質的に祈りで結ばれた人たちだと言えます。キリスト者とは、キリストのからだであり、苦しみをある部分が味わうとき、他の部分もともに苦しむとあります。そうした心は祈りの心の現れです。絶えることのない主にある祈りの心だけがそのように他者の痛みを、程度は少しであるにしてもわがもののように感じるからです。私たちの苦しみを御自分の苦しみとして感じてくださってご自身をも捧げられた主が共にいて下さるとき、初めて私たちも少しでもそのようにしていただけるのです。

 私たちの精神が十分に発達していないときには、祈りも自分中心となり、困ったときの神頼みという言葉のように、自分が病気とか家族の問題、あるいは仕事の上での困難など、なにかの事情で困ったことが生じたときだけ祈るということになります。

 旧約聖書に見られる祈りは、とくに詩篇に集中的に記されています。

 

…呼び求める私に答えてください

私の正しさを認めてくださる神様。

苦難から解き放ってください

憐れんで、祈りを聞いてください。(詩篇四・2

 

神さま、私を憐れんでください

御慈しみをもって。深い御憐れみをもって

背きの罪をぬぐってください。(詩篇五十一・3

 

 このように、何よりもまず自分が置かれている苦しみや悲しみの中からの叫びとしての祈りがあります。これは現代の私たちにとっても同様で、さまざまのこの世の問題に苦しみ悩みが生じるのは誰にとっても同様です。そうした中から、神を信じる者は神にむかって力を求め、救いを祈るのは最も自然なこと、そこに力の源があるのです。

 こうした出発点に立って祈るとき、神は何らかの力や救いを与えて下さる。そこから他者への祈りも芽生えてきます。

 旧約聖書の詩編にも、そうした他者への祈りは見られます。

 

…救って下さい、あなたの民を。

祝福して下さい、あなたの民を。

とこしえに彼らを導き養ってください。(詩篇二十八・9

 

 また、つぎの詩は、神のはたらきを後の世まで宣べ伝えさせて下さいとの祈りです。

 

…私の口は恵みの御業を

御救いを絶えることなく語り

なお、決して語り尽くすことはできない。

しかし主よ、私の主よ

私は力を奮い起こして進みいで

ひたすら恵みの御業を讃えよう。

神よ、私の若いときから

あなた御自身が常に教えてくださるので

今に至るまで私は

驚くべき御業を語り伝えて来ました。

私が老いて白髪になっても

神よ、どうか捨て去らないでください。

御腕の業を、力強い御業を

来るべき世代に語り伝えさせてください。

        (詩篇七十一・1518

 ここに切実な心で祈っている心にあるのは、神の驚くべき愛と正義のわざを、まだ知らない人たち、後の世の人たちにも知らせることができるように、との深い愛の気持ちです。

 まだ、見てもいない、自分とは直接に何の関係もない人々に対して、神のわざを伝えさせて欲しい、彼らが何としてもこの大いなる神のわざを知ってその力を受けて欲しいというあふれるような愛の心があります。

 このような他者への祈りは、すでに創世記においてアブラハムが滅び行くソドムとゴモラの町々のために真剣に祈っている姿のなかに見られます。

 さらに、そうした他者への祈りは、旧約聖書では預言者といわれる人たちによって深い祈りとなって後の世に流れていきます。

 現実の世界はさまざまの支配者が、武力、権力を用いて支配してきました。

 しかし、神の人(預言者)たちは、研究や博識、思索によってでなく、直接に神からの啓示をうけて、数千年を通して真理でありつづける言葉を聞いたのです。

 預言者はそうした真理を知らされるとともに、そのような状況が実現するようにとの深い祈りをもって生きました。

 神からの直接的な言葉を受ける人ー啓示を受けるほどの人は、祈りの深い人であり、それゆえに荒れ果てた世の中にあって、その啓示が実現するのを待ち続け、祈り続けた人でした。

 エレミヤなどは、繰り返し涙を流して祈り続けた様子がその書からうかがえます。

 

…私の目は夜も昼も涙を流し、とどまることがない。娘なるわが民は破滅し、その傷はあまりにも重い。

         (エレミヤ書1417

…ああ、私の頭が水となり、私の目が涙の泉となればよいのに。そうすれば、私は民の娘の殺された者のために昼も夜も嘆くことができる。(同9の1)

 

 このように、昼も夜も深い悲しみゆえの涙を流す」という記述が繰り返されているほどに、エレミヤは、自分の民が正しい道からそれてしまった状況を魂の深みから悲しんでいるのです。

 いったいだれがこのような深い共感をもって滅びゆく民のために、いたみ悲しむことがあるだろうか…。

 また、詩編はしばしば預言となっていますので、詩編作者も、広い意味では預言者に含まれるのですが、その祈りの深さ、広さは、次のような詩がそのことを暗示しています。

 

…王権は主にあり、主は国々を治められる。

命にあふれてこの地に住む者はことごとく主にひれ伏し、

死せる者たちもすべて御前に礼拝する。

私の魂は必ず命を得、

子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、

成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせる。(詩編222931

 

 自分だけの祈りから少し成長すると、私たちは身近な家族や友人、同じキリスト集会の人たちへの祈り、知人への祈り、ほかの様々の関わりある人々への祈りと広がっていきます。

 この詩では、そこから世界の支配権や未来の人々にも与えられる大いなる恵み、祝福へと視野が広がり、それらを包含した祈りとなり、未来の世代に告げ知らされるようにとの祈りが込められています。

 はるかな将来の子孫たち、広く受けとれば数千年もの期間にわたる、世界の人々をも視野に入れた祈りということです。

 実際、こうした預言とその祈りは実現して神がキリストによって成し遂げられた大いなる福音は、現在も生きて働いています。

 これは、神が詩編作者に臨んでこのように、み言を預かる者(預言者)として、このようなスケールの大きい、しかも深い祈りをさせるようにうながしたからだと思われます。

 預言者とは、神に背き続けている当時の人たちのために祈り、神の言葉を命がけで伝えた人々のことです。 預言者が語った言葉は、その当時の時代への言葉であって、現代の私たちにはたいして関係はないと思っている人も多いようです。しかし、預言者たちが神から受けた言葉は、そこからあふれ出て世界の人々への祈りとなっているのです。

 現実の王のような支配権はさまざまの人間が持っています。ときにはヒトラーのような、あるいは日本においても太平洋戦争を敗戦が濃厚となっているのになおも国民の犠牲を強行して行なったような不正な支配は、いくらでもみられます。

 その現実を見据えつつ、そこに神からの啓示のような状況が成りますようにとの祈りが生じ、さらに 自分の時代だけでなく、はるか未来の子孫の時代にまで、神の御業が宣べ伝えられますようにとの祈りがこの詩編の言葉にみられます。

 

…闇の中を歩む民は、大いなる光を見

死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。(イザヤ書九・1

 

 このようなイザヤの言葉は、まさに、預言です。とくにこの言葉はキリストが現れる預言となっていて、未来に救い主が現れる、それをこの言葉は預言しているのだと。その通りです。  こうした言葉は、預言者に多くありますが、それは単に未来に起こることを予告しているといっただけのものでは決してありません。

 現実の世の中の根底にある問題を聖霊によって見抜いた者は、その現実がどうかその啓示のようになるようにとの強い願い、祈りがおのずから生じてきます。

 神の言葉を受けた者は、必然的に祈りが生まれるからです。

 多くの混乱と苦しみに置かれている人々に対して、それがなぜ生じているのかその原因を指摘し、裁きを告げることもみなその奥には同じ目的があります。

 それは、深いところで流れている他者への祈りです。どうか人々がよくなって欲しい、間違った道を歩いて裁きを受けて滅びることになってはいけない、神の道を正しく知って歩いて欲しい、間違っているところに気付いて悔い改め、神の道に立ち返ってもらいたい、神とともに歩む幸いを知って欲しい…という切実な祈りが背後にあるのです。

 だからこそ、間違った道を歩んでいく人々はそのようなことでは必ず滅びる、神の裁きの手によって大いなる苦しみや悲しみが生じると警告し、またいかに弱い者たちであっても、罪を犯してしまった者であっても、悔い改めることによって神は大いなる救いの道、幸いの道へと導かれるのだということを知らせるために、このように随所で希望の光が存在していること、決定的な希望が訪れることを予告しているのです。

 そむく者にもそのようにして愛を注がれ、何とかして救いを与えようとされる神の愛を知って、立ち返って欲しい、との願いがあります。

 闇の中を歩む民、死の蔭の地に住む人々が大いなる光を見たというのは、そのような光が臨むのだから、あなた方、罪を犯した者、裁きを受けた者も希望を捨てるな、あなた方も救われるのだ、ただ神を仰ぎ、立ち返るだけでよいのだ、との祈りの込められた呼びかけとなっているのです。

 預言者の言葉それ自体が、当時の人々への、そして後の幾千万という人々へのとりなしの祈りなのです。 こうした深い他者への祈り、人々が真理を知って罪を赦され、神の平和と神の国の幸いを与えられるようにと、キリストを神はこの世界に送って下さった。

 そしてキリストが来られてからこの他者への祈りは、旧約聖書のときのように、特別なきわめて少数の預言者といわれる人々だけでなく、キリストを信じた人すべてがこのような他者への祈り、とりなしの祈りができるようにして下さったのです。

 それが信じる者に与えられる聖霊のはたらきです。つぎにあげる使徒パウロの言葉にあるように、私たちの不十分な祈りをも、私たちに与えられる聖霊がとりなしてくださって、最善の祈りとしてくださるというのです。

 私たちの祈りの心が不十分でさまよいがちであっても、小さな祈りの芽を持っている限り、そこに聖霊が注がれてその小さな祈りに水を注ぎ、正しい祈りへと導いて下さる。

 

…同様に、霊(聖霊)も弱い私たちを助けて下さる。

私たちはどう祈るべきかを知らないが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからである。…

 霊は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからである。

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っている。

 もし神が私たちの味方であるならば、だれが私たちに敵対できようか。

私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないはずがあろうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるのか。…

だれが私たちを罪に定めることができようか。

死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成してくださるのである。(ローマ八章より)

 

 私たちも自分の信仰が小さいとか祈りが弱いといって祈りをしないのでなく、私たちの祈りをとりなして導いて下さる神と聖霊を信じて祈りを続けたいと思います。

 

…あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。…

 信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。

 だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。

正しい人の祈りは大きな力があり、効果をもたらします。 (ヤコブ五・1316より)

 このように使徒ヤコブが教えています。パウロは互いに祈り合うということについてもその重要性を繰り返し私たちに告げています。

 

…兄弟たち、私たちのために祈ってください。

主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、

 また、私たちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。

 主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。

 (Uテサロニケ三・13より)

 キリストを信じる者とは、このように互いに祈り合う間柄だと言えます。

 それは、単独で悟りを開くのでなく、また精緻な思索で孤高の存在となるのでなく、また特定の指導者が命令通りに動かすのでもなく、組織の歯車のように機械的に動かされるのでもない、また信仰箇条だけを信じているとか聖書を研究するのが中心となってしまった知的集団でもありません。

 キリスト者とは、キリスト(聖霊)に導かれ、ともにいて下さるキリストにあって互いに祈り合い、そこで示されたことを各人が自発的になしていく人たちのことです。

 私たちがこのように日々互いに覚えて、祈り合って生きること、それがキリストのからだとして生きるということだと言えます。

 

「主の祈り」

天におられる私たちの父よ、

御名が聖とされますように。

御国が来ますように。

ご意志が行われますように、

天におけるように地の上にも。

私たちに必要な糧を今日も与えてください。

私たちの罪を赦して下さい、

私たちに罪ある人を

赦しましたように。

私たちを誘惑(試み)に遭わせず、

悪から救ってください。

 

 祈りの文で最も広く知られているのは、「主の祈り」です。弟子たちが自分たちにもいかに祈るべきか、どんな祈りが最も神の御心にかなった祈りなのかと尋ねたときに、答えられた祈りで多くの教会では礼拝のときに毎回この主の祈りがなされています。

 主の祈り、それはこうした他者への祈りが最も簡潔に、また広くそして深い内容をもっているものです。「御国が来ますように」とは、神様の真実で愛の御支配が自分や他人、そしてこの世界全体に来ますようにとの願いです。壊れた心をかかえて苦しむ人間や家庭や社会に神様の御支配が来ますように、神の愛と真実が注がれますようにとの願いです。だからそれはあらゆる他者への祈りとなることができます。

 本来なら罪ゆえに滅びてしまうはずの自分がこのように生かされ、救われたことは何にも変えることができない、だからこそそのような神の力がこの世のすべてに及ぶようにとの願いです。

「ご意志が、天に行われるように、地上でも行われますように。」

 この祈りも同様で、地上では悪の意思が至るところではびこっているのが感じられます。

 しかし、そのようなただ中で、神のご意志が行われますようにとの願いがこの祈りです。

 ここにも、自分も含め、周囲のさまざまの人々の心が、絶えず変化してやまない人間の意志によって動かされている、だからこそ、真実そのものの神のご意志が為されますようにということも、他者へのとりなしの祈りであり、他人の前途をいつも心にかけていることを示すものとなっています。

 このように、他者への祈りということは、旧約聖書にはまだごく一部の内容にしか載っていないのですが、新約聖書の時代、キリストが来られてから、全く違ってきて、それが中心的な内容になっています。

 それは「隣人を愛せよ、敵を愛せよ(敵対する者のために祈れ)」と言われた主イエスのお心に従うことであり、また実際そのようにして前に進んでいこうとするとき、神は必ず救いの御手を差し伸べられると信じることができます。

 


 

リストボタンお知らせ

  次はいずれもキリスト教独立伝道会主催の集会です。

〇公開講演会(オンライン)

・講師…秀村 弦一郎

   (福岡聖書研究会代表)

・日時…4月29日(木、休日) 1445分〜16

・参加費 …無料

・参加方法…スカイプ

 

〇春期聖書集会(スカイプ)

・主題…「神の国」

・日時…5月8日(土)13時〜16

5月9日(日)9時30分〜1230

希望者は、オンラインティータイム(13時〜14時)に参加できます。

・証し…関真理子(長野)

松内邦博(香川)本間勝(神奈川)

・聖書講話… 土屋聡(千葉)、鎌田厚志(福岡)、吉村孝雄(徳島)

・申込先…キリスト教独立伝道会事務局  小舘 知子

 

 なお、申込締切りは4月1415日ですが、その後であっても、オンラインなので参加できる場合もあるとおもわれますので、申込先の小舘さんに問い合わせてください。

 

リストボタン報告

〇4月4日のイースター集会

・イースターメッセージの内容は今月号に掲載しました。・参加者…会場に14名、オンラインで44名、計58名が参加でき、コロナのためにいろいろ妨げはありますが、オンラインによって各地より多くの方々の参加があり、主の導きに感謝。