いのちの水 2021 年 5月号 723号
ああ、幸いだ、霊において貧しき者たちは! 天の国はそのような人たちのものだからである。 (マタイ福音書5の3) |
目次
・神の国はあなた方のただ 中にあり |
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神の国とは何かを考えるとき、国という言葉から連想するものはといえば、一般的には、日本の国、中国、アメリカの国、というとまずその地図上の場所、広がり、形、そしてその国の現状…豊かさ、また強圧的な政治や人口の多さ…等々であろう。
また、国という漢字の元の形は、國 であり、これはもと、囗+戈(矛)から成り、矛(武器、武力)で守られた領域を意味していた。
しかし、聖書においては、国を意味する原語のギリシャ語では、国のことは、バシレイアという。これは、 「王の支配」という意味である。
バシレイア(basileia )は、バシレウス(王)という語に由来するゆえ、「王の支配、その権力、力」などを意味する。
そして、キリスト教信仰の世界においては、王とは、神であり、聖霊でもあるキリストである。
その神の本質は、すでに旧約聖書のはじめの部分に次のように記されている。
…「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、真実の豊かなる神… 」(出エジプト34)
それゆえ、そのような神の支配とは、愛と真実によってであり、これまた「支配」というイメージとは大きく異なっている。
日本の古代からの支配を見ても、信長、秀吉、徳川などの支配は、対立者を残酷な刑罰にしたり、身分差別を徹底的に行なったり、憐れみや真実とはかけ離れた実態があった。
明治以降も政治家や軍部の支配によって、国民を戦争に駆り立て、朝鮮を植民地とし、名前も言葉も日本語に強制、中国への侵略から太平洋戦争となり、中国をはじめとして東南アジアの数知れない人たちの命を奪い、自国も空襲、沖縄、原爆…で数々の悲劇を生み出した。
さらに現代の自民党の支配、あるいは中国共産党の支配など、愛や真実などとは、ほど遠い「支配」の実態がある。
しかし、聖書における神の御支配とは、愛と真実、そしてそこからくる正義による支配であり、いかなる汚れもなく完全な清い本質がある。
このように、日本語のイメージや理解だけで聖書の内容に正しく近づくことは、「国」や「支配」という簡単な言葉だけをみても、難しいことがしばしばである。
「神の国」に関して、ここでは次のよく用いられる聖句についてみてみたい。
1、まず、神の国と神の義を求めよ。(マタイ6の33)
人間は幼少のときより、さまざまのものを求め続けている。衣食住という基本的なものはあらゆる民族や年齢などにかかわらず、最も強く本能的に求めてやまない。
さらに、親や友人、異性…といった周囲の人間からの愛や真実、そして衣食住のすべてにわたって強い力を持つカネをも求めているし、その他ほめられること、認められること、他人より優位に立つこと…、また、さまざまの遊び、娯楽…等々を求めている。
そうしたありとあらゆる種類の求めるもののなかで、最も深いもの、神からの祝福を最も受けるのが、神の国を求めることである。(神の義ということも神の国に含まれる。)
2、「御国が来ますように」(「主の祈り」)
(マタイ6の10)
御国を来らせたまえ、との主の祈りは、すでに述べた「神の国を求める」こととは同じ内容である。
キリストの支配がなされるようにーすなわち、キリストが万物の上にある王であられるゆえに、その愛と真実、そして完全な正義によって、導き、愛し、支え、悪しきを裁いてください、と祈ることである。
3、「神の国はあなた方のただ中にある」(ルカ17の21)。
この個所について、新共同訳では、「神の国はあなたがたの間にある」と訳されているが、新たに出版された聖書教会共同訳では、「神の国はあなた方の中にある。」と改訳された。
あとで述べるように原語からはこの双方の訳語が可能となる。
しかし、イエスが語られた状況を知ると、この言葉は、強い調子で言われているのであって、それは、原文には「見よ」(イドゥーidou ιδου)」 という言葉が最初にあることからもうかがえる。
その本来の強い調子を訳文に入れた次のような訳文がよりふさわしいと言える。
・見よ、神の国は、君たちのただ中にある。
(岩隈直訳「福音書」山本書店刊)
・神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。 (口語訳)
・いいですか、神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。(新改訳)
・見よ、神の国は汝らの内にあり (文語訳)
・Behold, the kingdom of God is in the midst of you. (RSV)
(見よ、神の王国は、あなた方のただ中にある)
ここで、あなた方のただ中にある、という意味は何か。
その「間、内、ただ中」などと訳される原語は、エントス entos (*)であり、これは、英訳でわかるように、
「〜の内に」、とか「〜の間」に といった意味を持つ。
例えば、「あなた方の杯の内側を清めよ」 という個所では 内側 と訳されている。それは英語では、within と訳される。
・because the kingdom of God is within you. (「神の国はあなた方の内にある」 (NIV)
神の国は、あなた方の内に(心の内に、生活の内に などを含む表現) (20種ほどの英訳聖書が採用している訳語)
さらに、この entos というギリシャ語は、「〜の内に」 というだけでなく、「〜の間」、すなわち 人々の間、その生活や社会の動きのなかにある という意味をももっているので、次のように among とも訳される。
(*)このギリシャ語についての英訳がどのようになされているか、補足しておく。
・the kingdom of God is among you.
(NEB(*)ーThe New English Bible 1961年この訳は、イギリスの10ほどの教派による共同訳であった。) (約8種類の英訳が採用) among とは「〜の間に、…の中で、…に囲まれて」
この英訳では、「神の国は、あなた方の生活しているその中に、人々の間、社会のなかに ある、」といった意味になる。
さらに、この entos というギリシャ語は、in the midst of you (あなた方のただ中に)とも訳されている。
それと、ほぼ同じ意味である in your midst も含めると、この訳は 10種類ほどの英訳聖書が採用している。
なお、上述の英訳 NEBの欄外注に別訳が次のように記されている。
・the kingdom of God is within you.
・the kingdom of God is within your grasp.(「神の王国は、あなた方の手の内にある」このうち二つ目の別訳が、新しく出た聖書協会共同訳の欄外注に 「あなた方の手中にある」として取り入れられているが、このように この訳語は、60年ほど前に すでにこのNEBによって用いられていたのを採用しているのがわかる。)
神の国はいつ来るのかという問いに対して、主イエスが、「神の国はあなた方のただ中にある」と言われたことは、現代の私たちにも重要な意味を持っている。 いかに不正や闇が満ちていて、サタンが支配していると思われるこの世にあっても、そのただ中に、神の愛と真実が支配している。
それと共に、神の国、神の愛の御支配は、私たちの心の内にもある。
主イエスの言葉はこの双方を含めて言われているのである。
いつかわからないこの世の終わり、そしてそれがどのような状況なのか想像をはるかに超えているような世の終わりに初めて神の御支配が実現する というのではなく、いまもその神の御支配は厳然として存在している。
私たちの日常用いる言葉は、霊的な世界や霊的な内容を表すのには、不十分なことがしばしばである。
もともと言葉は目にみえるものからはじまったからである。例えば、美しい音楽や真実な愛に触れたときの感動は、とても言葉では言い表せない。それは言葉を超えたものだからである。
世の終わりとか復活したからだなどがどのようなものなのか、そもそも言葉をはるかに超えた内容であるから、いかに表現しようとしても 到底表現できないのである。
それゆえに、世の終わりに神の国は来る、という表現もあれば、他方では、いま信じるだけで神の国はそこにある、心のうちにある、人間社会の闇や腐敗、混乱のただ中にある、ということも言われている。真実はいずれか一つということでなく、その双方の言葉での表現をも含むものであるということになる。
それは、世の終わりに初めて復活するという表現もある一方で、ただイエスを信じるだけで、永遠の命が与えられる。復活の命が与えられる。それゆえ死なない者にしていただけるということとも共通している。
私たちは死んでいた、しかしキリストを信じる信仰によって復活させていただき、神の座におらせてくださっている。 神の御支配の力を分かちいただいている、ということである。
狭い人間の判断力からみれは矛盾しているようにみえるが、神は全能であり、無限の内容を含んださまざまの現象、真理をこの世界にもたらしているゆえに、そうした二面性をも包含しているのである。
世の終わりという言葉がそもそも、通常の私たちの観念や言葉ではあらわせない無限の深みがある。
時間についても、主の霊のうちにあるときには、千年も一日のごとく、一日も千年のごとしと言われている。 神の国は、私たちのただなかにいま存在しているとともに、世の終わりという表現のなかにもある。
私たちは世の終わりに復活するということができるとともに、いま復活させていただいているのである。
キリストは、世の終わりに再臨するとともに、いますでに聖霊というかたちで臨んでおられるのである。
それは、じっさいにこの世にあって、この不正ばかりのような世にあって、なお神という光と愛の御方を信じることができているということのなかに、神の愛と真実の御支配があるからそのように私たちは信じることができているのである。
神の国は、私たちのただなかに、心の中にも、私たちの生きているこの世界にもある。社会のただなかにある。戦争のただなかにもある。飢餓や貧困のただなかにもある。
ヨブが苦痛と悩みの激しい叫びのなかで、生まれないほうがよかった、と激しい苦悶の叫びをあげたときにも、イエスが十字架で、わが神、わが神、なぜ私を捨てたのか!と、絶望的な叫びをあげたときにも、神の御支配は変ることなく存在していた。
神の国は、その叫びのただなかにあった。
それゆえに、そのような十字架の苦悶のただなかにあっても、同じように十字架で処刑されていた重罪人の心を悔い改めに導き、その者は弟子たちですら信じられなかったイエスの復活を信じ、御国に行くときには私を思いだしてください、と真実な告白をなした。
最初の殉教者、ステファノにおいても周囲の者から激しい憎しみをもって石を投げつけられて死に至ったが、その最期の時に天が開けて復活のキリストと神が見え、「彼等の罪を赦したまえ」と祈りつつ命を終えたのだった。
そこに、たしかに神の愛と真実の御支配があった。
いかなる闇や深い空虚もすべてつつんで神のそうした御支配はある。
あの大空の太陽、莫大なエネルギーを放出しつつ、地上のすべての生き物をそだて支えている。 そこにも神の愛の真実がある。
一つ一つの植物のこまかな仕組み、葉の形、色合い、また光沢や細毛などの有無、その茎、幹のさまざまの変化、多様性…すべてそれは全能であるゆえに無限の多様性を生み出す神の力がある。そうした自然の存在、多様性のなかにも、神の御支配がある。
神の国ということをその言葉、文字から想像するのでなく、その本来の意味ー神の愛と真実によるしかも全能の御支配、その力の働きという意味によって考えるとき、私たちのからだの仕組み、一瞬一瞬もあらゆる細胞の内に複雑な化学反応が生じて生きているが、そのような複雑な生化学反応をなすさまざまの物質も、その化学的特性も、もとはといえば、人間が創造したのでなく、神の創造による。宇宙を支配するその法則もすべてその神の全能により、その愛から生み出されたものにほかならない。
すなわち私たちの体内の一瞬一瞬になされている化学反応をみても、そこにも神の国はある。
「野の花を見よ!」とのイエスの言葉、至るところにある野の花、さらにそうした植物の葉や茎の成長、実り…等々のなかにも、神の国が働いていると言おうとされたのだった。
神の国は、苦しみや悲しみ、そして絶望的状況のなかであっても、そのただ中に神の国はある。
これは大いなる慰めであり、励ましである。
以前は、ハンセン病によって重度となれば、失明、手足の麻痺または切断、郷里との離別、一般社会との交流も断絶した悲しみと闇、苦しみ…その悲劇はたとえようもないものであったであろう。
しかし、そのただ中にあっても、神の国は存在していたのは、私自身も青森や熊本、岡山のハンセン病療養所を訪れた際に実際に出会ったキリスト者の方々からはっきりと知らされたことであったし、熊本に年に一度、10年余訪れて御言葉を語らせていただいていた集会にもハンセン病の方が二名参加しておられたこともあり、また、幼くしてハンセン病となり、療養所に入ったが、失明、足の切断、手の麻痺などの重い症状のなかでキリスト者となった玉木愛子といったの方々の書かれた文章によっても知ることができる。
そのような神の国がただ、信じるだけで与えられるゆえに、キリスト教は二千年のありとあらゆる病気、戦乱、飢饉…等々にうち勝って世界に伝わってきたのであった。その長い歴史の歩みのただ中にも、神の国ーその愛と真実による御支配ーが存在してきたのが証しされている。
打ち寄せる波の姿にも、そのおびただしい水の音が合わさって生まれる重々しい音、また小さな波のときには、涼しげな音…そこにも神の国がある。
「万物はキリストによって支えられている。」
(ヘブル書1の2〜3参照)
キリストは神の国そのものであるゆえ、万物は神の国(神の万物支配の力)によって支えられているということができる。
黙示録には、この世の終わりには、「新しい天と地」となる。古き天地は過ぎ去った。この新しい天と地のことはすでにイザヤ書にて預言されていた。
それは、私たちの通常考えるような天地とは全くことなる。
太陽はなく、神とキリストが太陽であり、海という闇のシンボルもなく、そこには神のおられる場が天から下ってきた。そして、いのちの水が流れている。
このような新しい天と地は、どのようなものか全く人間の想像を遥かに越えている。
しかし、神は、そのような無限に奥深い新たな天地を、私たちの魂の深みにおいて、その程度は小さくとも実感できるようにしてくださった。
聖霊はすべてのことを教える、といわれているとおりである。
新しい天と地が訪れるとき、また私たちが完全なかたちでの復活が与えられたとき、 私たちの魂の内には、かつての古い自分はない。自分という太陽、あるいは特定の人間が太陽のように光っているとか中心にあるのではない。
キリストが内にあって大いなる太陽として輝き、愛の熱と光をつねに放っている。そしてイエスもいわれたように、命の水が泉のようにあふれて流れだしている。
そこには、宝石のような強固な霊的なものに満ちていると記されている。
「絵画作品は見る人によって初めて生命を与えられる。」とは、ピカソの言葉である。
私たちを取り巻く自然のさまざまのものー野草、その花々、樹木やその姿、一つ一つの葉や茎、幹の形状…そして夜空の星々、大空の青い広がりや赤い夕日と紅く輝く雲等々、それらは神がその愛によって命を吹き込んでそだてておられる。
私たちがそれを神の愛と私たちへの真実によって創造されたものだと信じて向うとき、それらの沈黙のうちにある植物や自然が、新たに生命が与えられたように見るものの心に語りかけ、入ってくる。
…闇は光にうち勝つことはできなかった。(ヨハネ1の5)
…あなた方にはこの世では苦しみや悲しみがある。しかし、勇気を出しなさい。 私はすでにこの世に勝利している。(ヨハネ16の33)
この世には、人間の不正や嘘、また虚偽や憎しみ、カネの力に翻弄される政治や人間社会がある。
しかし、そのようなただなかに、神の勝利、神の国は存在しているーこれは聖書全体を貫くメッセージである。
こうしたキリストの言葉は、そうした闇と混乱、むなしさのただなかにも、神の愛や真実がたゆみなく働いているということを霊の目ではっきりと見据えたゆえの言葉だった。
私たちのこの世での歩みもまた、そのような主の深遠なまなざしの一端を与えられて、つねに神の国が私たちの心のうちにも、また人間社会のただ中に存在していることを読みとって、さらなる御国の完成を祈り願って歩ませていただきたいと願うものである。
4月4日(日) イースター(復活祭)特別集会でのメッセージの要約より
ルカ十五・21・24 ヨハネ十一・26参加者64名 (会場14名、スカイプ50名)
イエスは復活された。復活し、聖霊となったから、その聖霊の力によって、万里を超えて、どんな目にあってもキリストを伝えて行こうと言う人が起こされた。聖霊こそ、復活されたキリストの姿である。キリストを礼拝するために集まる。そのことは全世界で今も絶えることはない。それは、聖霊が働きかけたからである。
放蕩息子は、放蕩の限りを行い、お金もなくなり困り果てて父のところに帰ってきた。そのときこの息子は「天に対して、あなたにむかって罪を犯しました」と言った。
神に対して罪を犯した、このような気持ちは、神を知らなければ生まれない。
神を信じてはじめて、神に対する罪が知らされるのである。
人は、常に天(神)に対しても、人に対しても罪を犯している。それが人間である。人間は、敵対する人、悪意を持って対する人…等々のさまざまの人に対する愛などはなく、自分中心である。
人間はだれもが「死んでいた」状態である。古い自分に死ぬと言うことが一番大事であると聖書には記されている。
聖書では人は「死んでいた」ということが、いろいろな個所で示されている。
弟子の一人がイエスに、『主よ、まず、父を葬りに行かせてください』と言った。イエスは言われた。『わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。』(マタイ八・19〜22)
死者を弔う形だけの儀式は死んでいるものに任せたらいいとイエスは言われたのである。すべての人が「死んでいる状態」であると言える。神に対する罪がわからない。それが死んでいる状態である。
「あなたがたは、以前は自分の罪のために死んでいた。…しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、ーあなたがたの救われたのは恵みによるーキリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださった。(エペソ二・1〜6より)
神という無限の愛や真実の存在の前では、確かに人はみんな罪深く、霊的に死んでいる状態である。
けれども、憐れみ豊かな神は愛によって、死んでいたわたしたちをただ信じるだけで復活させてくださった。
それゆえに、信仰が続けられてきたのである。
このように見るとき、復活とは死後のあと生き返るというありえないようなことでなく、復活と死は日常のことである。
キリスト者であっても、油断していると心が迷い霊的に死んでしまう。しかし、また神に立ち返ると復活させていただける。イエスが殺される直前まで命がけでイエスについていくといっていたペテロもすぐに、イエスを知らないと言ってしまった。そのような弱さがある。
しかし、そこで、主をしっかりと仰ぐならば、復活し、生きたものにさせていただける。
「復活」とは原語のギリシャ語では「立つ、立ち上がる」という言葉である。聖書の中にも単に「立つ」という意味で多くつかわれている言葉である。それが「復活する、よみがえる」とも訳されている。
「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。」(使途言行録・二・32)
放蕩息子は立ち上がったのである。神の前に立ち上がって進んでいったのである。
使途言行録とルカによる福音書27回、ルカが書いた。ルカはとくにこの「立ち上がる」という言葉を多く用いた。(*)
(*)ルカ福音書では27回、ルカの書いた使徒言行録では45回と合計72回も使われている。マタイでは4回、ヨハネは8回、マルコ17回と比べてもとくに目立って多く用いられている。
「息子は死んでいたのに生き返ったのだ」と放蕩息子の父親はいった。人は誰もすぐに自分中心になる。何かができたら人を見下す。できなければ妬む。何も感じないと怠惰という罪を犯す。そんな弱さが人間にはある。
しかし、気が付くたびに、神を仰ぐ。そのとき立ち返ることができる。罪に死ぬ、そして復活して生きる、このことは日常におこることなのでである。今、春が来ると死んで枯れたものが芽を出している。わたしたちも神によって、死んだ状態から日々生きたものにさせてくださるという恵みを受けている。
すべてのものは死に向かっていると言える。キリストを知らないとき、神抜きで多くの知識を、科学技術などの知識であっても、それを知れば知るほど、現在の知識の行き着く果ては、核兵器や原発の増大、拡散であり、また、今後はそのうえに、宇宙兵器の増大で、それらがひとたび戦争に大規模に用いられるときには文字通り人類の滅びにつながりかねない。
また、人工知能が人間をも支配しかねない状況にあり、自然は次々と破壊されて動物界のウイルスが人間に入り込んで今回のような全世界的な困難を引き起こすことにもなる。
このように、単なる知識、科学技術的知識も含め、知れば知るほど死に向かうという傾向にあるのを知らされる。
それが聖書の巻頭の書、創世記に「知識の木の実を食べる者は死に至る」の意味するところである。(*)
(*)通常「善悪」と訳される原語は、トーブとラァ であるが、前者のトーブはあらゆるよいこと、このましいことを意味し、後者は病気や悪事、災害など害悪のことなど広く意味する言葉で、いずれも数十種類の言葉に訳される言葉。トーブとラァを重ねるとき、それはあらゆることを意味することになり、単に道徳的な善悪の知識でなく、あらゆることを神ぬきに知る知識を意味する。
そのような現代の状況を見据えるとき、キリストによって死ではなく新しい命を日々与えられるということは、何にもまして重要なことであり、それらの危険を受けなくとも必ず人は死ぬのであって、その死からも復活が与えられて、神の完全な清さや愛のうちに永遠に生きるようにしてくださるということは、いかなる科学技術や学問、知識も与えることのできない幸いなことである。
このように、聖書は、いかなる事態になろうとも、滅びることのない命に向かう方向性を示している。
どんなに悲惨なことが起ころうとも、神は、そこから立ち上がる力、命、そして最終的にすべての人を呑み込んでいく死の力から復活する道がある。
それをこの混沌とした世界に、とくに日本に伝えることが、キリスト者一人一人に与えられた使命である。
復活とはキリスト教信仰において、その出発点でもあり、また根本となる重要な言葉なので、その原語のニュアンスをより深く知って、聖書における復活のことをより深く知るための一助となればと思う。
「死者からの復活」というと、一般的にはほとんど関心を持たれないし、私たちの日常では、まず耳にしない言葉である。これは、キリスト教だけのことだと受けとられている。
しかし、このギリシャ語の原語は、この前の文でも触れたが、「立ち上がる」というごく普通の言葉である。
復活と訳されている原語(ギリシャ語)にはいくつかある。
@アニステーミ anistemi これは、アン an(強調語)と ヒステーミ histemi(立つ、起きる)(*)から成る言葉であって、旧約、新約において647回と数多く用いられている。旧約聖書においては、これらはほとんどごく普通の、「立つ、起きる」などの意味で使われている。
それらのうち、「復活」と訳されているのは、新約聖書の一部である。(旧約はその70人訳ギリシャ語訳)
(*)ギリシャ語の ヒステーミ(立つ) は、インド・ヨーロッパ語族に共通の staー は、英語の stand、 post、ドイツ語のstehenなどに見られる。
・新しい王が、エジプトに起った。 (出エジプト1の8)
・ヤコブは立って、子らと妻たちをらくだに乗せ (創世記31の17)
・あくる朝ラバンは早く起き (創世記31の55)
・イエスは朝早く起きて (マルコ1の35)
・マタイは立ち上がってイエスに従った (マタイ9の9)
・マリヤは立って山里に向かい (ルカ1の39)
・聖書を朗読しようと立った(ルカ4の18)
・その人を終わりの日に復活させる(ヨハネ6の44)
・ペテロはその人たちの中に立って言った(使徒1の15)
・イエスを、神は復活させた。 (使徒2の32)
・神はイエスを死の苦しみから復活させた。(使徒2の24)
・死人のなかから、立ち上がれ。そうすれば、キリストがあなたを照す」。
(エペソ5の14)
・人の子は三日目に復活する。(マルコ10の34)
このように、復活と訳されるギリシャ語そのものは、「復活」と訳されるのは一部であって、多数はごく普通に使われる立つ、起きる などと用いられているごく普通の言葉だとわかる。
つぎにもう一つ新約聖書で 「復活」と訳されているギリシャ語は、エゲイロー egeiro である。この語も新旧約聖書で224回と多く使われている。
この旧約聖書のギリシャ語訳での用例の一部を次に記す。この語は、次のように、目覚める、起こす、起きる、立つ、奮い立つ といった種々の意味に訳されている。
・パロは、目が覚めた (創世記41の4)
・主はイスラエルの人々のために、ひとりの救助者を起して彼らを救われた。 (士師記3の9)
・怠け者よ、いつ起きるのか(箴言6の9)
・彼らは朝早く起きて
(イザヤ5の11)
・王たちの霊を 奮い立たせられた。 (エレミヤ51の11)
・その日に、あなたは立ちあがり、 (エゼキエル書38の14)
新約聖書においての用例は次のように、旧約聖書と同様に「立つ、目覚める、起きる」などとともに、「復活する、よみがえる」という意味で用いられている。
・ヨセフは眠りからさめた後に(マタイ1の24)
・ヨセフは立って、夜のうちに (マタイ2の14)
・南の女王が、さばきのときに、立って (マタイ12の42)
・おとめたちはみな起きて (マタイ25の7)
・お前はそれを、三日で建てるのか。」 (ヨハネ2の20)
・私は復活してから、あなたがたより先にガリラヤへ (マタイ26の32)
・もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、復活したのだ。 (マタイ28の6)
このように、復活(よみがえる)という意味で用いられる重要な言葉、アニステーミも、エゲイローも、もともとは、目覚める、立つ、というごく普通の日常的に使われる言葉であった。
それが、新約聖書になって、キリストの復活、信徒の復活というきわめて重要なことに用いられるようになったのがわかる。
復活という言葉は、もとは現在も使われている中国語であり、中国語(漢字)が伝わる以前からあったもともとの日本語(やまとことば)は、「よみがえり」であり、陰府(よみ)から、帰るー よみがえり という意味であった。
それに対して、ギリシャ語では、目覚める、立つ、立ち上がる といった意味がもとにあり、それは、死の世界、死の力にうち勝って目覚める、立ち上がる ということにつながった。
現在の日本語で「眠る」とは「死ぬ」ことの婉曲表現として用いられる。死者が眠っているなどというのは、死んだということの言い換えにすぎないのであって、じっさいに眠ってなどいないのは明らかなことである。眠る とは生きているものが、夜間や休息時に その活動を停止した状態を言う言葉だからである。
以上のように、聖書における、またキリスト教における復活は、その原語からも、使われている意味からも、肉体の死後の復活ということ以外にも、日常的に生じていることをも含んでいる。
すなわち、霊的に死んだ状態、あるいは眠った状態からの目覚めであり、むなしさや自分の罪、他者からの差別やいじめ、迫害によって立ち上がれない状態から、神への魂の方向転換をすることにより、新たな力、命を得て、生き生きした状態へと変えられることであり、私たち一人一人の日毎の大切な課題であるのがわかる。
…見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ! (ヨハネ1の29)
「見よ!」このひと言は現代の私たちに、重要な意味を持っている。
私たちは日々刻々、何かを見ている。
しかし、何を見ているだろうか。
以前、夕方、自宅へと帰っているとき、たまたま西の夕空に、宵の明星が強い光をもって輝いていた。
そこに通り掛かった近所の80歳を越えるご婦人に、その星に気付いていないようだったので、あの星、とても大きな星ですね、と話しかけた。するとその人は、驚いたように、「えっ、私は星など 見たことないから気付かなかった」と言われたのだった。
ごく素朴に言われたので、ほんとうに毎日の生活で星を見つめるとか夜空の美しさに感じるといったことは経験してこなかったようだった。
毎日、家の周囲の景色やテレビ、空模様などは自然に見ていても、夕方の夕食支度に忙しいときでは、西空の美しい夕焼けや夕日、そこに輝く宵の明星なども目には入らなかったのだろう。
しかし、私たちはこの例のように、見るべきものがあっても、ついつい何の必要もないものを見ているばかりで、本当に見るべきものを見過ごしているということがいくらでもある。
その意味で、この聖書にあるひと言、「見よ!」は何を見つめるべきか、その究極的なものを指し示すものである。
それは、「私たちの罪を取り除く神の小羊」こそ、その見るべき最も価値あるものなのである。
人は誰もが自分中心という罪を持っている。自分の内に宿る罪さえまったく取り除いたりできない。
それゆえ、世の罪、世界の人間の罪を取り除くなどおよそ不可能事で、人間には到底できない。
しかし、そんなことのできる唯一の御方キリストがおられるゆえに、「見よ!」と言われている。
それは、昔の話だとか思って見過ごすのでなく、現代の私たち一人一人へのメッセージなのである。聖書の言葉の不思議さ、神秘は、数千年も昔に、私たちから数千qをも越えるはるかに離れたところで語られた言葉であっても、現代の私たち一人一人にあてはまる生きたメッセージとなっているのである。
私たちが本当に日々の生活で見るべき、見つめていくべきものとは、神の小羊たるキリストであると言われている。
なぜ、「小羊」と言われているのか。それは、キリストの時代、昔から人々の罪の赦しのためのいけにえとして用いられたからである。小羊は、ユダヤ人の宗教的儀式のなかで、殺されて、血を流して、捧げられ、人々の罪を取り除くことに用いられるてきた。
キリストがまさに、その小羊となって、十字架にかかって、血を流して私たちの罪を清めてくださった。
このことを幼な子のように信じるだけで、私たちは救われる。それは、キリスト教の福音の中心ともなっていることである。
そのキリストが神とともに創造にかかわったのが私たちの周囲のあらゆる自然である。
それゆえに、本当に見るべきものの内には、身近な自然も含まれる。それは、すぐ近くにあり、費用も時間もかからないでも見ることができる。
この「見よ」という呼びかけは、たとえ目が見えなくても霊の目で見ることができ、聞こえない人でも、霊の耳で聞くことができる。そして、神、キリストを見上げるとき、もっとも良きことが与えられる。
「仰ぎ見よ、そうすれば救われる」キリストを仰ぎ見るだけで、本当の平安が与えられるのである。
イエスは「野の花を見よ」と言われた。すべてのもの、万物はキリストによって造られた。神のゆるしなく一羽の鳥も落ちることはない。キリストがすべてを支えているのである。
根本はイエスを見つめることである。罪を取り除いてくださるイエスを見る。 わたしたちは、この世の情報の洪水の中で、さまざまなものを「見よ」と毎日言われている。
しかし、本当に見るべきことはキリストである。
小羊であるキリストは罪を取り除いてくださり、「聖霊」という神と同じ力をもつ存在を注いてくださる。そのためにキリストがこられたのである。罪を取り除かれたと実感できるのは聖霊が与えられたからである。
創世記のはじめ、闇と混沌(空虚)の中に神からの風が吹いていたとある。これが聖霊である。そして光あれ、といわれた。この光がキリストである。
闇と虚しさの中で人は壊れていく。しかし、そこに光あれ、わたしのところに来なさいと言われる方がいる。弱いところにこそ、力が与えられるのである。
イエスを見る。そして罪赦され、聖霊が与えられる。それだけが人に必要なことである。(まとめは K.K 4月5日(月)小羊集会)
4月9(金) 天宝堂集会
マルコ十四・43〜50
ユダは、イエスに接吻という愛情の表現をして、計画的にイエスを裏切った。 今まで師と仰いでいた人を計画的に金で売り渡し裏切ったのである。その罪は重いのが聖書の記述でも明らかである。
…祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。
十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。
ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。
彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。
ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。(ルカ22の2〜6)
このように、ユダは事前に機会をねらい、イエスを殺そうと考えるような闇の力にとらわれた者たちと共謀して、彼等を喜ばせ、金をも受けてイエスを殺す共同計画をしたのだった。
聖書の記述者であるルカも、ユダにサタンが入ったと記している。サタンが入るのでなければこのようなことは到底考えられないことである。
そして、いよいよイエスが逮捕される夜がきたとき、ユダは、祭司長、長老、その他の群衆たちの先頭にたってイエスに近づき、
「私が接吻するのがその人だ。つかまえて逃さないようにして連れて行け」と前もって合図を決めていた。 ユダはやってくるとすぐにイエスに「先生」と言って接吻した。」(マルコ14の44)
イエスはそのようなユダに対しても最後まで語りかけることを止めずに、次のようにひと言語りかけた。
…「ユダ、お前は、接吻で人の子(イエス)を裏切るのか」
接吻とはギリシャ語では、フィレーマ philema であり、フィレオー(愛する)に由来する。接吻をもって裏切るとは、愛の尊いしるしをもって裏切るということなのである。キリスト者は、聖なる接吻をもって挨拶を交わしなさい、という言葉が、新約聖書のなかにも、5個所ほどある。
(Tコリント16の20、Uコリント13の12、Tペテロ5の14他)
このように、聖なる愛のしるしを、金で裏切るしるしとした罪も含め、ユダの全体としての行動の罪がいかに重いかを示すものともなっており、その受ける裁きも必然的だったのが 次の記述によっても示されている。
…「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言している。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。"
ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていた。
しかし、このユダは不正をして得た報酬で土地を買ったが、その地面にさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、内臓出てしまった。
(使徒1の16〜18より)
このことは、いかにイエスに従っていた者であろうとも、サタンが入って全く変質してしまい、サタンの道具とさえ成り果てることさえある、という闇の力の深さをも警告する記述となっている。
使徒言行録には、アナニヤとサフィラ夫妻が、土地を売った代金をごまかして、その一部を使徒たちのもとに持ってきた。それをペテロが見抜いて、「なぜあなた方はサタンに心奪われて土地代金をごまかしたのか。それは、聖霊を欺いたことであり、神を欺いたのだ」 アナニアはこの言葉をきいて倒れて息絶えた。
このことをきいて人々は皆、非常に恐れた (使徒5の1〜6より)
このように、意図的、計画的に神を欺く行為というのはきびしい裁きがくだされることが記されている。
これも人々はこうした生きた神のなされることに非常な恐れを抱き、そのような神を欺くことは決してしてはいけないのだと深く心に刻まれたことがうかがえる。
ユダのことは、イエスを事前に計画して、イエスの命をねらっている人たちに、捕らえさせ、殺させようとするなど、このアナニアなどよりはるかに重い罪であり、そのようなことをすれば、魂は破滅するということを人々に深く思い知らせるためでもあったであろう。
主を畏れ、恐れることの重要性がここにも見られる。
主イエスは、赦されない罪があるとしていわれたがユダが聖書において赦されずにきびしい裁きを受けたという記述からみるとき、ユダはその赦されない罪を犯したということになる。
…あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。
しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。 (マタイ12の31)
人のどのような罪がじっさいに聖霊を汚すという重い罪になるのか、その正確なことはだれもわからない。
人を殺すような通常はもっとも重いと考えられる罪を犯しても、悔い改めによってゆるされる。パウロさえ迫害に力を入れているときキリスト者を殺したことがあったと記されている。
…わたしはこの道(キリスト教)を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。(使徒22の4)
すべてを見通す神だけが、何が聖霊を汚す罪なのか、そのことを見抜かれ、適切な裁きをなされるのであろう。
人はだれでも、神の御前にあっては、死んでいるとされているほどに罪深いのであって(エペソ書2の1〜5)
他者の罪を知ってそれが赦されない罪だなどと、仮にも思ったりしてはいけないことは明らかである。
イエスが捕らわれるとき、ユダ以外の他の弟子たちの動向はどうであっただろうか。
イエスが捕らえられた時には、弟子たちもみな逃げてしまうという裏切りだった。
しかし、それはイエスに心ならずも「つまづいた」のであった。ペテロたちは、むざむざとイエスが捕えられて行くのを見て、信じられなくなったのである。
それは、計画的に裏切ろうとしたのではない。
ペテロたちは、殺されてもイエスについていく気持ちがあり、それができると思っていた。それは次の言葉からもうかがえる。
…ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。
弟子たちも皆、同じように言った。(マタイ26の35)
イエスが捕らえられそうになったとき、ペテロは剣を抜いて、相手に向かっていった。
…ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」
(ヨハネ18の10〜11)
漁師であったペテロが、剣を抜いてまで、大勢の相手にかかっていったのである。それは命がけであった。
そのような気持ちがありながらも、イエスが捕らえられていくのを見て、信じられなくなってしまい「イエスなど知らない」とペテロは言ってしまった。
ゲッセマネで眠ってしまった弟子たちは、霊的に眠ってしまい、そのあとのつまづきも、見えなかったのである。
ペテロはイエスが逮捕されたあとで、女中などから問われて三度までも、イエスを知らないと言ったことも裏切りといえる。
しかし、こうした言動は、最初から計画的にイエスを裏切り、愛情表現をもってお金で売り渡すと言ったユダとは本質的に異なっている。
人間の弱さから、心ならずもイエスを裏切る、あるいはイエスの真実、愛に反することをしてしまう、それは誰にでも日常的に起こることである。
この世の強大な闇の力に、イエスのことを知らないという、また、知らないかのようにふるまってしまう。心ならずも、イエスに従おうと思っても、背を向けることがある。
憎しみは真理に反する。不真実な言動は誰でも起こってしまう。しかし、そこで、神はいないと離れていくか、それとも罪をイエスが負って赦してくれたことを思い、神は愛であるとあくまで信じていくか。そしてそこから、イエスに背く言動をしたことを心から悔いて赦していただき、心から神に立ち帰るとき、必ず霊的な子供として、神は私たちを正しいものとしてくださる。
現実の厳しさに会い、神の真実とは別の方向に逃げていくことは誰にでもある。 あなたがたは、眠っているとイエスがいわれたように、わたしたちは霊的に眠っている弱さをつねに持っているような存在でしかないし、自分の身が少しでも危なくなると、イエスを告白することから簡単に逃げてしまう罪深いものである。
その、霊的なまずしさを知り、そこから神を見上げるとき「心の貧しいものは幸いである」とイエスは言って下さる。
〇去年の5月には、春期四国聖書集会が徳島聖書キリスト集会と独立伝道会の共催でオンラインで開催されましたが、今回はキリスト教独立伝道会の主催で、春期聖書集会という名称で次のようなプログラムで開催されました。
北海道から九州までの参加者によって、ネットでの再会を、またはじめての出会いも与えられ、準備委員の方々の御愛労が祝福されて、印象深い集会が与えられて感謝でした。
5月8日(土)10〜14時
9日(日)10時〜12時20分参加者は約73名。
(なお、右の日程終了後、希望者が三つのグループに別れてオンラインのティータイムがなされ14時30分まで続けられた)
・8日
証し
木村恵(東京)、
本間勝「復讐から償いへ」 (神奈川)
・聖書講話 土屋聡(千葉)「神の国は愛の波動」
・一日目の感想
島崎英一郎(愛媛)、戸川恭子(徳島)、加納貞彦(東京)、織田祐三郎(静岡)、那須佳子(大阪)
◇9日(日)主日礼拝
・オンラインで集まった方々と、徳島聖書キリスト集会場に集まった方々の合同集会。
・聖書講話
鎌田厚志(福岡)
「小さな群れと神の国」
吉村孝雄(徳島)
「神の国はあなた方のただ中にあり」(今月号に掲載)
・二日目の感想
小林典子、対馬秀夫、大塚正子
・春期聖書集会全体の感想松内邦博(香川)、高橋ルツ子(徳島)
・ほかに楽器演奏としてトランペット、オカリナ、ハーモニカなどもなされ、それを伴奏としてオンラインで賛美を捧げました。
二日間の集会録音CD(MP3)を希望の方は、左記の吉村まで申込ください。
〇「集会だより」の作成が、私の時間がとれないために、その内容の一部は今月号に掲載。
また、校正が十分できなくて今月号も入力ミスなどもあろうかと思います。お気づきになったところは、お知らせくださればと願います。ホームページにおいては、修正したものを掲載しています。
〇オンライン集会
私どもの徳島聖書キリスト集会においては、インターネット(スカイプ)を用いるオンライン集会は、今から10年ほど前、2010年3月に、大学病院で入院中の勝浦良明さんの病室での集会に初めて取り入れて以来、主日礼拝や家庭集会にも、集会場に集まる方々と、オンライン参加の併用で、ずっと続けられてきました。 そのため、コロナの状況となってもスムーズにオンライン集会として続けることができて、大きな恵みを受けています。
これは勝浦さんという寝たきりの方がおられたゆえのことで、今は天に帰った勝浦兄を思い起こすたびにこのことをも感謝しています。
なお、徳島聖書キリスト集会では日曜日の主日礼拝以外にも、毎月第二と第四月曜、第一〜第四火曜、第二金曜、第一月曜など、スカイプでのオンライン集会があり、これらに参加希望の方は左記の吉村まで申込下さい。