いのちの水 2021 年 6月号 724号
ああ、幸いだ、霊において貧しき者たちは! 天の国はそのような人たちのものだからである。 (マタイ福音書5の3) |
目次
この一年半ほど、世界で新型のコロナウイルスのことが語られない日がないほどであり、その間、多くの方々が命を失い、あるいは現在も苦しみ、また一部にはその後遺症で苦しみ、家族関係も代わり、職業さえも失われ…という多大な影響が世界を覆っている。
私たちはだれもがこのような災いがはやくなくなるようにと願ってやまない。
自分がこのウイルスにかかると、家族にも勤務先などにも知らず識らずに感染させ、相手の人に場合によっては多大な災いも起こしてしまうことになる。
これは一種の戦争のようなもので、アメリカでは戦争による死者以上に多くの人々が死に至った。
しかし、他方で、細胞に入り込むウイルスでなく、人間の心に入り込むウイルスというべきものの恐ろしさを看過してはならないと思う。
それは、目に見えない悪の力である。そのような悪の力、サタンの力は、いかなる医学的なワクチン、科学技術によっても解決することができない。
そして、それは遥か昔、人類の最初から入り込んでいる。
そしていかに科学技術や教育、経済、各国の交流などが盛んとなっても、そのような悪の力は弱まることはない。
むしろ、そうしたことが盛んになるほどにサタンの力はいっそう広がっていくという側面がある。
だからこそ、原始時代から今日にいたってそうした科学や教育、経済など飛躍的に変化しても、悪そのもののさまざまの働きは途絶えることがない。
昔から現在に至るまで、世界はどの国であっても、人間同士の憎しみや争い、それが大きくなると戦争という悲劇が繰り返し生じてきた。
そしてその闇の力ーどうしても自分中心に考えてしまうという罪に感染していない、という人は一人もいない。
文字通りのパンデミックである。(pan すべて、demos
人々)
こうした根源的な闇の力に対して唯一のワクチンともいうべきものは、何か、それこそが、永遠の存在であり全能、かつ愛と真実の神である。
そしてその神が二千年前に、地上に送り、人間の罪をになって十字架にて処刑され、復活して現在も聖なる霊として生きて働いておられるキリストである。
そしてその最強のワクチンともいうべきキリストの力は、この二千年間、全世界に広がって浸透していった。 現在も、そのキリストを信じて自分の過去のさまざまの罪、そして現在も犯してしまう自分中心という罪をもただ、十字架にかけられたキリストが担って死んでくださったと、単純に幼な子のような心で信じて受けとるだけで、赦しを与えられ、それまでになかった神からの力を実感するように導かれる。
私自身、50年あまり前に、そのキリストの力を受けて、それまで闇が社会にも自分の心のなかにも広がっていた状況にあって光が与えられ、一生の方向が変えられて今日に至っている。
この十字架の福音、そして万人が陥る死に勝利する復活の力こそが、あらゆる悪、罪をいやすワクチンなのである。
そしてこのキリストの福音というワクチンは、手遅れになるということがない。
もう死が近いという人にも、またさまざまの障がいを持って生きるのが苦しい状況にある方々、あるいは、人を殺害するほどの悪事を犯して死刑が確定したような人にも、また子供や差別され、孤独に苦しみ死を日々思っているような人、あるいは、かつてのハンセン病のような恐るべき苦しみや差別と孤独にある人にもー一人としてこのキリストというワクチンが効かないという人はいないのである。
さらに、その霊的ワクチンのためには 費用もまったくいらない。
このキリストという万能のワクチンに関しては、すでにキリストより数百年も昔に、言われている。
「さあ、かわいている者はみな水にきたれ。
金のない者もきたれ。
来て買い求めて食べよ。
あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。
"なぜ、あなたがたは、かてにもならぬもののために金を費し、飽きることもできぬもののために労するのか。わたしによく聞き従え。そうすれば、良い物を食べることができ、最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる。(イザヤ書55の1〜2)
このイザヤ書のメッセージは、この世の悪、みずからの罪によって苦しみ、悲しむもの、すべてに呼びかけられている。
キリストこそは、あらゆる魂の渇き、苦しみ…等々いっさいに対しての豊かな霊的飲み物であり、食物なのだということである。
その預言通りにキリストが現れ、ただ幼な子のように求めるだけでそれが与えられるということは、この差別と権力や金の力の支配に満ちたこの世にあって、大いなる祝福であり、変ることなき喜ばしい知らせー福音となっている。
私たちが目を閉じてしばし静まるとき、そして耳をすますときには、何か常に音が聞こえてくる。
ふだん意識しないようなさまざまの音、それは都会であれ、自動車も走ることなき田舎や山中であっても同様である。
さらに、私たちが主を仰ぎつつ、長く静まりつづけるとき、私たちの心深きところに、そうした物理的音声ではない、ある響きのようなもの、あるいは私たちに語りかける「静かなる細き声」(列王紀上19の12)のようなものが聞こえてくる、あるいは山中の渓流のような流れが魂に流れてくる。
そして、たとえ暗く苦しい状況であっても、その闇のなかに小さいながらも光を感じるという経験をされてきた方々も多いであろう。
旧約聖書の詩集である詩篇19篇には、そのような耳で聞き取れる普通の音や響きではない言葉、響きがそうした個人的な経験をはるかに越えて、宇宙に響いているという壮大な世界が記されていて、私たちをさらなる大いなる霊的な世界へと招く御言葉が記されている。
ここでは、そうした神からのメッセージの一端をその詩篇から少しでも汲み取りたい。
そのとき、旧約聖書の詩の部分ー詩篇や預言書に多く見られる詩には、聖書独自の表現方法があり、そのことを常に念頭において読むことが重要となる。それは、並行法(*)といわれる。これは、詩文の1行目と2行目にほぼよく似た言葉(文)を配置するもので、これは多くの詩で用いられている。
(*)この並行法には他に、次のように1行目と2行目が対照的な内容を併置して、それぞれの意味を浮かび上がらせることもある。
…主は正しい者の道を知られる。
悪しき者の道は滅びる。
(詩篇1の6)
なお、日本では五七五七七と五と七の言葉を並べる形式によって詩的表現とするのが、長い伝統となっている。 その形式で表現されると、そのわずかの言葉がより意味深く、余韻をもって相手に伝わる。
ヨーロッパの詩や中国の詩では音の強弱、脚韻や頭韻など韻を踏む。同じ音を響かせながら一つの言葉、文章を表現することで、よりいっそう読む人の魂の深いところに響いていく。
旧約聖書における詩は、音の響きでなく、意味の響きあうほぼ同じようなことを表現を少し変えて、たたみかけるように表現することによって、より深く聞く者、読む者の心にその内容を浮かび上がらせる力がある。
…天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向う(詩篇19の2〜5)
これらの詩句を見てすぐにわかるが、この並行法は、ほぼ同じことを言い換えている。このような表現によって、天、大空が大いなる神の壮大なわざであり、私たちに神の本質を語りかけているという真理が、波が打ち寄せるように、魂に響いてくる。
3節
昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
知識と言っても今の百科事典的な知識ではない。神の愛や真実、その全能などに関する霊的知識を意味している
奥深い昼夜を分かたず、発しつづけられる神の国からのメッセージがあるということが表現されている。
昼であっても夜の闇であっても、たえず真理にかかわることが発せられつづけている。これは、私たちの心臓のように、気付かないがつねに血液を体内全体におくり続けている働きを連想させる。
神は宇宙の心臓のように、永遠の真理にかかわることを語り、おくりつづけているという躍動的な世界が浮かび上がってくる。
それは何のためなのか、聖書に記されている神は「憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち憐れみ深く、真実であり…」(出エジプト34の6)、それゆえに、そのなさるわざもすべていかに表面的には不可解なことがあろうとも、その根底には神の慈しみ(愛)、憐れみと真実を知らせるためなのである。
黙示録にも、次のようにあり、神がその慈しみのゆえに、繰り返し背き続ける人間に語りかけておられることが記されている。
…見よ、私は戸口に立って、たたいている。
だれか私の声を聞いて戸を開ける者があれば、
私は中に入ってその者と共に食事をし、
彼もまた、私と共に食事をする。(黙示録3の20)
4節〜5節
話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向う
こうした詩句もそれぞれの1行目と2行目で、ほぼ同じことを言い換えて表現している。
天からの響きは、物理的な音声、機械でとらえられる音声ではない。しかし、この昼は昼に語り、夜は夜に、絶えず二十四時間。昼も夜も絶えず語られているものがある。声は聞こえないのになぜ聞こえるのか、霊的な耳に聞こえるということになる。
この点は普段の一般的な人でも、夢の中で、誰かが実際にこう言った。あたかも物理的な音声は何も発せられていないのに、確かに過去の人や今の人が誰か夢に現れ語りかけてくる。大きな音がしたり、いろんな風景が見える。そういうおそらくは多くの人が経験したことがあること、夢の中もとくに物理的な音声はないのに、その人にとっては脳神経の働きでそういうことがある。
さらには生活の中でも、ときに、亡くなった人ー母親、父親、あるいは兄弟といった身近な人が、何か語りかけるように感じることがある。それも物理的な音声は何もなくても何か語りかけてくると感じる場合がある。そういうことは長い人生のなかでは、多くの人々に大なり小なり経験されることであろう。
これは精神的な病にあっても、そこに居ない人が居るように感じたり、特に病ということでなくても、睡眠不足や何らかの異常な疲れとか、特別な体験によってそういうことが起こったりする。
そうしたさまざまの声、語りかけが人間にはなされているが、それらの中には、良い語りかけもあるし、悪しき語りかけもある。悪しき語りかけに従うときには、人の命を奪うなど大変な事件となる。 話すこと語ることの声が聞こえなくとも、病気や特別な状況にある人たちには、実際にそのように聞こえてくることがあり、現実に行動に出てしまうと言うことは多くあると考えられる。
戦争においては、何百万という膨大な人たちが殺し合うような状況となる。普段なら「殺すなど大罪悪だ」との声が響いてくるであろうが、戦争という大量殺人を国家が命令するとき、そのような声は、無視されていく。
上官の命令「敵を殺せ、さもないとお前を厳罰に処する」などの声が頭の奥にずっと鳴り響き、ふだんの善悪の感覚が失われてしまい多くの敵の人たちを殺害するようになってしまう。
また、小さな時に誰かからいじめられたとか、こっぴどく叱られたとか殴られたとか、その時の異常な恐怖とか脅かす声はずっと長くとどまってしまうこともあろう。
それと逆に非常に困った時や辛い時に愛のある語りかけや実際の行動を受けた時にはずっとその語りかけの余韻が残る。さまざまな人間の生活の中で話すこともなく語ることもなく声が聞こえなくてもその響きは全地でなくても、その響きは自分の中にどこか響いている。残っている。
良い響きもあれば、それ以上に闇の世界からの響きもあったりする。
しかし、今回取り上げた詩篇19篇において記されていることは、そうしたさまざまのこととは本質的に異なる。
この詩篇19篇で言われている、日夜絶やすことなく送られている言葉、あるいは響きといったものは、そのような人間的なものでなく、人間がいかなる状況にあっても、百年前、千年前であってもまた、現在であっても戦乱の中であっても、また喜ばしい時であっても、そういう状況にかかわらず響いているものがあると、それが神からの語りかけ、神の言葉である。
全能であり愛であり真実な神の語りかけというものが絶えず語りかけられてあって、聞く人には聞く耳をもっている者には聞こえる。
この詩篇で言われている「霊的な響き」は、特別に霊の耳の感度というべきものが鋭くされていなければ全く聞こえない。天からの声が夜も昼も響いていると記されているとはいえ、キリスト者であってもそんなことは経験したこともないし、考えたこともないというような人がいるかもしれない。
しかし、多くのキリスト者は大なり小なり何らかのこういう経験をしているからこそ、キリスト者であり続けていると言えよう。
非常な苦しみや悲しみの時に、天からの「私がそばにいる」という語りかけを聞く人は多くいるであろうし、もう取り返しのつかないような罪を過去において犯してしまったとか、また現在においても何か罪を犯してしまうとき、これはどうすればいいのかと思うような時にも十字架のキリストが、「そのような罪をすべて私が担って受けてあげたのだ。その私のこの十字架の罪の赦しを信じさえすれば、お前の罪は赦されたのだ」「汝の罪赦されたり」という静かな細い声で語りかけてくださるのを感じてきた人たちも多いであろう。
そういう体験を与えられているからこそ信仰が続く。そういうことが全くない場合には単にキリスト教というものは「隣人を愛しなさい。神を愛しなさい。何々しなさい。」という教えのようなものだと思っている場合には到底続かない。
「このようにせよ、こうすべきだ。」ということは福音ではない。これは戒めである。そうした戒めは、喜ばしいおとずれとは全く異なる。〜するべきだといくら言われても出来ない。
例えば、「隣人を愛せよ」と言っても、隣人とはだれかを考えるとき、それは限界がない。つねにともにいる家族、近所の人ももちろん、親族やキリスト教の集会関係の人、あるいは隣と言っても、主にあれば距離は関係なくなる。時間も千年も一日のごとし。千キロも一キロのごとし。すぐそばのごとしとなれば、遠くの人も一種の隣人である。この地上というと非常に広いけれども、遥か遠くといってもほんの一点のよう。人間だれも兄弟姉妹と言ったりするが、みんな隣人だということになる。
電車に乗り合わせたたくさんの人たちもみな隣人。その人たち一人一人が本当に良くなるようにと祈りつつ生きている状態が、隣人を愛しつつ生きているということになる。
また、敵対してくる人もまた 隣人である。
このように、隣人を愛せよというただひと言の持つ意味は限りなく広く深い。
私たちの通常の感覚では、隣人とは、私たちの狭い生活の中でかかわる人という限られた人を思いだす。隣人という言葉の意味するところは非常に広いと思っても、実際には到底そこには及びもつかないほどわずかしか隣人を愛していない。
「隣人を愛せよ」という一言の戒め(律法)、それは、限りない広がりがあり、深く高い意味を持っている。そのことを知らされていくとき、自分の現実とは、あまりにもかけ離れていてその罪深さを知らされる。
しかし、パウロが言ったように、私たちは、罪深くとも、そこからキリストの十字架を仰いで赦しを受けるゆえに、恵みはますます深まる。(ローマ5の20)
この世からは、じつにさまざまな言葉が聞こえてくるけれど、キリスト者は十字架からの赦しの静かなる細き声を聞くことが赦されているし、生活の中でも、さまざまの弱さや苦しみのただ中での祈りに対して、静かに個人的に語りかけられることが経験される。そういう声を聞き取る恵みは、これは誰でもキリスト者であれば大なり小なり与えられている。
この詩篇において、「その響きは全地に…」(5節)とあるが、この「響き」と訳された原語は、英訳では、voice(NIV、NRS他)、music(NEB(*))echo 等々と訳されている。
(*)New English Bible 今から六十年ほど前にイギリスで多数の教派が合同して勢力を結集して訳した共同訳。その改訂版Revised English Bibleも出版されている。music ミュージックと言っても、普通の通常の音楽の意味でなく、楽の音といった意味。
5節「その響きは全地にその言葉は世界の果てに向かう。」この響きと訳された言葉の意味するものは、何らかのメッセージを伝えた霊的な響きであり、神の声のひとつの表現である。
例えば風の音も何らかのメッセージが込められているし、大風のときには、無数の樹木の葉による壮大な合奏となり、そこには ときには、人間の言葉よりはるかに重々しい力と美がある。
神は愛であり全能だから、そういう単純に見える音の響きのなかにも、深いメッセージを折り込むことが可能なのである。
また神は愛だからこそ、それを聞き取る霊的な聴力というべきものが敏感であるほどに、神の愛のメッセージを聞き取ることができるようになされている。
すでに述べたように、神は数千年も昔から、「愛と真実、憐れみ深い神」と聖書に記されているように、その神が絶えず送り出す言葉や響きのなかには、おのずから愛が根底にある。
葉の触れ合う音、あるいは波の音、それらは単なる自然音で終わるものではない。その自然音に託して、神が何らかの真実や愛に関わるメッセージをそこに込めておられる。
そのような事も神が全能であり、愛だからできる。そしてそれが、全世界に向けられているということ驚くべきことである。
この聖書は、このように、広大な視野を持っている。自分だけ分かったらいい、自分の国だけ自分の家族だけ良かったらいいーといっただれしも人間が陥ってしまう自分中心の狭い視野とは根本的に異なる世界が示されている。
こうした無限に大いなる神ー真実や正義、そして愛においてもーそのようなか信じる人たちは、全世界にいるが、日本はいまだにわずか1%程度という世界のなかでも例外的に少ない状況となっている。
こうした視野の狭さ、また永遠的なものへの信仰を欠いているということは、今後の日本にとっても根本的な問題として浮かび上がってくるであろう。
現在の日本の指導的立場にある政治家たちの言うことも実に狭いと感じる。今の首相もまずしようとしたことのひとつは、携帯電話の料金引き下げであった。これは、一般大衆のとくに若い人々の関心を引こうとするためであったのが明らかである。
一国の首相であれば、世界における日本の使命、とくに貴重な平和憲法の精神を守り、東南アジア全体の現状と将来を展望し、とくに、わが国と密接な関わりがあり、過去の歴史において非常な損害や苦しみや悲しみをもたらしてしまった中国や朝鮮半島の人にいかになすべきかということが第一でなければならないはずである。そういう大きなビジョンからの方針とかがまるで感じられない。
首相になって、まず強い意欲を示したのが、携帯電話料金を安くするといったことだった。若者が日夜取り込まれているスマートホンなど、その料金を安くしたら自分の評価が高くなるだろうという思惑が感じられる。このような精神の狭さが、国会で、また国民に対して、明らかな嘘をも繰り返し言ってはばからないという事態ともなっている。
それゆえにこそ、私たちは、この聖書の世界の広大さ、無限大の視野を少しでも汲み取り、聖書の精神が日本の人たちに浸透していくことを何より願っている。
家庭集会のひとつで、旧約聖書のイザヤ書を学び始めている。そのイザヤ書は、キリストの預言が多く見られることもあり、とくに重要な預言書であるが、その冒頭に「天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。」(1章2節)とある。
イザヤ書全体のその巻頭に、このような宇宙的な広がりをもって語られていることに驚かされる。
それは、この詩篇19篇にて言われていることと響きあうものがある。
神からの響き、その言葉は世界の果てに絶えず及んでいる。だから聞かねばならない。聞こうと耳を傾けるならば、聞くことができる。
全く人間が聞けないのならば、これは意味がない。求めよさらば与えられん。聞くことを求めるならば聞こえてくる。そういうような響きである。聞こえないといってもさらに諦めないで求め続ける。
そうすれば、苦しみや悲しみに打ち倒されそうになっているときに、「私のもとに来なさい。その苦しみと涙をを私は知っている」との静かな語りかけを聞くことができる。
主イエスは、「重荷を負うものは私のところへきなさい。その荷を軽くしてあげよう」と言われた。その聖書に記されている言葉が、静まって祈るときにはじっさいに小さな声として聞き取ることができるし、それによって私たちは重荷を軽くしていただける。
しかし、そういう御声が聞こえなくても、何かそうした過去に語られた神の言葉に心を向けているときには、現在の闇のかなたにある光が感じられるようになってくる。闇のなかにも光があり、ある種の言葉が響いているのを感じるようにしてくださる。
神はまた自然をその御言葉でもって愛をもって支えているから、その自然を通して、その響く言葉を我々に向かって語りかける。美しい夕空がまた特別な言葉を語りかけてくる。耳を澄ましたら語りかけが聞こえてくる。あるいは風の樹木に吹きつのる。どんな管弦楽よりも深い意味が崇高な響きがある。
私は山に登るから、いっそう子供のときから、昔は松風というのは本当にとても心引くものであった。低山であったが、わが家の裏山の頂上(標高200メートル弱)まで登り、台風とか風の強い日に一人聞きいったりしたことは何度もあるが、未だにその音の景色、音楽が忘れられない。
一般の樹木の葉や小枝なども、強い風の音で独特の響き、音もあるが、松の大木たちの無数の葉、小枝の奏でる音は、独特の重々しさがある。このことは、古くから中国にもそういう松風、あるいは日本の古来の和歌なんかにもしばしば詠まれている。
そういう音、小鳥の鳴き声にしても小川の音にしても、あの雨の降る音にしても、さまざまの草花にしても、それらはみな、この世界に送られている響きを視覚的に表して、それを視覚を通して、その神の言葉を私たちに語りかけているのである。
世界に向かう。単に地球の裏側そういった世界だけでなくて、この世界の中の、例えば一枚の葉の中にも向かっている。樹木の中にもそこに向かっている。その樹木を通して、私たちにその響きの言葉が語りかけている。
私たちはそれを聞き取りなさいと。天よ聞け、地よ耳を傾けよ。一切のものはそういうもの響きを聞き取るようにという。
そして以前にも何度か触れたこと、申命記には「聞けイスラエル。」と繰り返し言われている。耳を澄まし聞こうとしなければ、神の語りかけは入っていかない。暗記はできる。ところが、魂には入って行かない。神の言葉が魂に入って行かないと、力にならない。知識はいくらでも増えるがそのような知識だけでは、霊的な神の言葉の響きや自然のうちにたたえられて響く楽の音は聞こえてはこない。
ここで、聖霊がうちにとどまることの重要性が浮かび上がってくる。
主イエスが「わたしのうちにとどまれ。そうすればわたしはあなたがたのうちにとどまる。」と言われた。
イエスがわたしたちのうちにとどまってくださるならば、イエスは全能であり愛であるから造り主であるから、いろんなことが語りかけられている。わたしたちも、その霊の目が敏感になっていく。この響きはさまざまな身近な植物や木や樹木の中からも、そこから語りかける。
樹木も年齢を重ねた大木になると、独特の風格と重みがあって、徳島県は山が大部分であるが、そのなかの標高は、1500メートルに満たないほどであるが、そこにブナの大木の群れがあった。私がかつて、東北や北海道にて見た多くのブナの木以上に静かで重々しい語りかけを忘れることができない。
まっすぐに直立する太い幹、その大木のもとに一人たたずむとき、ずっとそこでいたいような気持ちとなったのを今も覚えている。
かなり時間そこで佇んでじっとその大木に向かっていた。その樹木はいままでの、数百年のうちに風雪も浴び、猛烈な風も受け、いろんなことがありながら、すべてそれを飲み込んできた。その長い歳月のなかをじっと立ち続けてきた、ありとあらゆるものを受けてきたっていう感じで、神はそこに深いものをこめていると感じた。
そのような特別な大木でなくとも、身近ないろんな草の葉やそういう樹木、雨風。そういったものからも主の言葉は私たちに向かっていると言える。
こうした言葉は、神が愛であるからこそ、喜ばしい訪れ、福音の語りかけでもある。これはパウロも触れている。ローマ信徒の手紙10章18節。この詩編の言葉をパウロが引用している。17節「実に信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まる。」
私の唯一の神とキリストへの信仰も、ローマ書3章21節頃からの数行を読む(心に聞く)ことによって始まった。「それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。」ここでこの詩編19編の箇所が引用されている。「その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」。
だからパウロはこの19編のこの響きということは、まさに福音の響き、声。そういうものが響き渡っているというように啓示されたのがわかる。
福音、すなわち喜びのおとずれ。さまざまな自然の現象の中から、私たちはさまざまな喜び美しい世界。風は神の無限の力、太陽はこんなに神は大きいのだと知らせる。これも一種の喜びのおとずれである。
私たちの頼る神はこんなに壮大な美しさ、深さを持っている。そういう様々な意味での喜ばしい訪れを確かに伝えている。
そうした神からの語りかけ、天来の響きに深く込められていののは、人間の根本問題にかんするメッセージである。それこそは、キリストよりはるかに昔から預言されていたことである。私たちの罪深い本質、その罪を担って死んでくださったキリストを預言しているイザヤ53章を書いた人もそれを聞き取ったのであった。
苦しめられ、辱められ、ついに死に至った人のこと、その人は、周囲の人々からは自分が罪犯したからそのさばきを受けたのだと思い込んでいた。しかし、その人は数知れない人々の罪を担って、身代わりとなり、そして自ら苦痛を受けられた。
そのような数千年にわたる長い時の流れにも消えることのない真理の言葉を、実際にあのイザヤ書53章を書いた著者は聞き取ったのであった。
それゆえに、聞き取る耳があるなら、そしてそのような霊的な耳を神から与えられるときには、さまざまのことが、時間を越え、場所を越えて、そして大空や身近な自然現象等々、また私たちの遭遇する事故、病気や人間関係。さまざまな社会現象からも聞き取ることができるように導かれるのを信じることができる。
私たちも数千年前に書かれたこの詩篇19篇の言葉は今に生きているのを覚え、日々のさまざまの困難ななかにあって、そこから天来の喜ばしい知らせー福音を汲み取りたいと願うし、そのような福音の響きが、この日本にもまた世界にも、とくにふるさとを追われ、食物もなく医療も受けられないような人々にも聞こえるようになりますようにと願っている。
この世界にどんなことが生じようとも、たとえ暗い雲が覆っても、その彼方の夜空には必ず星の輝きはあるように、いかなるときであっても、絶えず世界には、福音が語りかけられていることを信じて歩ませていただきたいと思う。聖書に記されている神は永遠であり、その愛や真実もまた永遠だからである。
聖書や御言葉を学ぶという言い方をするが、聖書や御言葉の本質は学ぶということだけではわからない。
聖書それ自身がそのことを証ししている。
使徒パウロは、次のように生い立ちについて語っている。
…「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。
そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。
わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。(使徒22の3〜4)
このように、パウロは、知的能力も優れており、教育としては最善のものを受け、神に仕える姿勢も真剣で、大祭司や長老会全体もそのことを知っていた。
それほど学問的に旧約聖書を学び、かつ実践的でもあったにもかかわらず、キリストの真理には不思議なほどに、閉じられていた。
ステファノをユダヤ人たちが石で撃ち殺したときも、パウロは、そのような殺害に賛成していたほどであった。(使徒8の1)
使徒パウロにとって、学問はキリストに通じてはいなかったことがこれらの記述でもはっきりと示されている。
現在は、大学の数は、短大も合わせると1100校を越えている。いまから150年ほど前には、大学など存在しなかったことから考えると、わずか150年で、一千を越える大学数となるのは、驚くべき増加である。
しかし、だからといって、若い人たちが、キリストの真理を知るようになっているかというと、まったくそのようなことはない。むしろ、この世界の重要問題に関心を持たず、自分の遊び、飲食等々の楽しみ、娯楽、イベント等々に関心を示し、キリストから遠ざかっていると感じられる状況である。
大学とは、イベントや娯楽をするためのものでなく、真理の探求であるはずだが、そのようなことは一向に報道もされない。
電子ブックや、さらにはインターネット時代のさまざまの高度な器械等々によって学ぶことはますます選択肢が多くなっているが、だからといってキリストの真理に目が開かれることは増えない。
じっさい学ぶとはどういうことであろうか。
…1 勉強する。学問をする。
2 教えを受けたり見習ったりして、知識や技芸を身につける。
3 経験することによって知る。
日本語の学ぶは、まねぶ、まねするということに由来しており、誰かが多くかつ深く知っている、正しいことをしている…そうしたことと同じようにすること、まねすることだ。
しかし、そうした学びを、いくら重ねたところで聖書の真理は分からない。
そもそも、主イエスが選ばれた弟子たちのうち、ペテロ、ヤコブ、ヨハネなどの主要弟子たちを含め、半数近くが漁師であり、彼らは二千年前の状況からいっても、到底書物などでは学ぶことはなかったが、それでもすでにあげた三人など、二千年にわたって残りつづけるほどである。
聖書は神の啓示を受けた人が、その啓示を記したものであるゆえ、御言葉というものは、神の啓示であり、聖霊により魂の深いところに直接教えられる。
すでに述べたようにパウロも聖書を律法の教師であるガマリエルから学んだが、真理に達するどころか、かえって真理そのものであるキリストを信じる人たちを迫害し、殺すことまでしたと語っている。
聖霊が働かないと、学ぶことでかえって真理を否定するようなことにもなってしまう。聖霊の光を常に受け、聖霊は啓示を与える。そういう意味で、目的は各々が、御言葉を神から直接教えられる、啓示を受けるということである。
12弟子は、3年間もイエスから直接言葉で教えられ、多くの奇跡もその目で見た。時が近づき、イエスが、自分は長老たち祭司長たちに捕えられて十字架で処刑されてから復活すると、福音の最も重要な真理を話した。すると、ペテロはそんなことを言ってはいけない、殺されたら何にもならないと、引き寄せて叱りつけるまでした。
そのとき、主イエスは、「サタン、引き下がれ。」と言われた。神の方を向いていない、啓示を受けようとしていない、この世の考えをサタンが入って言わせていることを鋭く見抜かれた。12弟子の筆頭であるペテロであっても、十字架の死、復活という真理の啓示は受けていなかった。
それに対して、イエスと一緒に十字架にはりつけにされた二人のうち、一人は最後までイエスをののしったが、もう一人は「あなたが御国に入る時には私を覚えてください」と、イエスが御国に入る、復活するということを信じた。自分たちが十字架にかかるのは当然だというほどの罪を犯した人でも、啓示を受ければ真理が一瞬にして分かったのである。
それに対して、弟子たちはどうだったか。
イエスは、自分の最期のときが近づいているのを知って、12人の弟子たちを呼び寄せて次のように言われた。
…人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。
彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」
十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。(ルカ18の32〜34)
このように、3年間もイエスと共にあらゆる奇跡や、力あるイエスの言葉、弱者への愛、不正や権力に対してもいかなる場合にあっても言うべきことをいう勇気、その力…等々に直接に触れてじっさいに教育を受けてきたはずの弟子たちは、イエスの十字架の死と復活という最大の真理、福音に関してまったくわからなかったと記されている。
それは、そうした究極的な真理は、ベールによって覆われているからである。そのベールは、直接的な教えやその奇跡をも起こす力に触れてもなお、取り去られなかった。
「彼らにはこの言葉の意味はかくされていて、イエスの言葉が理解できなかった」という。
それなら、彼らは、いつどのようなときに、こうした真理を覆っているベールは取り去られたのだろうか。
イエスの復活に接しても、なお彼らは、キリストの復活を命がけで証しする力を与えられなかった。
復活したキリストが、弟子たちに示し、40日にもわたって彼らに現れて、神の国についてはなされたという。
それでも、まだ弟子たちはわからなかった。
復活のキリストが言われたのは、「約束された聖霊が注がれるまで、待て」 ということだった。(使徒1の5)
そして、弟子たちや一部の人たちはあつまって心をひとつにして真剣に祈り続けていた。
そして聖霊が、大いなる力をもって注がれた。そうして初めて命がけでイエスの復活を証しすることができるようになったのだった。 (使徒2の24以降)
聖霊を注がれたからである。大いなる天来の風が、彼らの魂の奥深くに吹き込んだからであった。
あるいは、道端で物乞いをしていた生まれつき全盲の人は、目が見えないゆえに自分でイエスの教えを聞こうとして自由にイエスのところに行くこともできなかった。それゆえに、イエスから直接に学ぶことはできなかったであろう。
しかし、弟子たちがどんなに叱っても、周りの人がうるさいからやめろと言っても、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスが、ダビデの子孫として生まれるメシアであるから、医者も祭司もいかなる人も持っていない癒しの力を持っていると確信していたのである。
道端で乞食をしていた全盲の人、そのような状況に置かれた人は、人々から憐れまれることは少しはあっても、一日の大部分は本もなく、また読むこともできず、律法学者などのところに行くこともできない。
しかし、その乞食をしていた盲人は、イエスを単なる特別な力ある人としてでてく、ユダヤ人において遥か昔ーイエスより千年ほども昔のダビデの子孫として生まれるメシアなのだ、と確信していた。
彼は、盲目のために乞食をするというじつにみじめな境遇にあってほとんどの人たちから見下されていただろうと思われる苦しい状況にあっても、神の恵みによってイエスは、ダビデの子と言われるメシアなのだ、究極的な救い主なのだと確信が与えられていたのだった。
これは、まさしく、書物や他者から学んで知ったのではなく、特別な啓示によって知ったのである。
そのメシアとはイエスより700年ほども昔から、預言者などによってその出現が預言されていた。
このように聖書の記述から、単に人間や書物によって学べば、聖書の根本的真理が分かるのではないことは明らかである。
全く学んでいない、本も持ってない、悪の限りを尽くしたような人であっても、御心・御意志によって、啓示が与えられ聖霊の風が吹き込めば、どのような学者よりも深い、信仰の真実・神秘・奥義を知らされる。
こうしたことを見ても、神の国ー言い換えると、愛と真実の神の御支配、この世の導き方は、人間のあらゆる想像を超えているということが分かる。
究極的真理を体得するには、幼な子のような心でなければならないーと主イエスは言われた。
…「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできない。
この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。
(マタイ18の3〜4)
黒川 芳子(千葉)
(これは、礼拝前の毎週5分以内の証しとして語られたものです。)
千葉県千葉市の黒川でございます。書いたものを読ませていただきますので、頂いた5分を超えてしまうといけませんので、少々早口になりまして、お聞き苦しいとは存じますがよろしくお願いいたします。
わたくしは今、このオンラインのスカイプ集会に約7年ほどになりますが参加させていただきまして、皆様と共に御礼拝ができ、聖書の学び讃美感話などに、より多くの恵みをいただいておりますこと、本当にありがたく感謝するばかりです。
どのようにして今この恵みの座に自分が居らせていただいているかということを思いますとき、本当に神様の導きというよりほかなく「求めよさらば与えられん」の御言葉のとおりと思わされております。特別なことは何もありませんが、今までの道のりを簡単に振り返り、感謝してお証しとさせていただきます。
私の父は会社員でしたが、浄土真宗のお寺に生まれていて、私は折あるごとに熱心にお経を上げるような仏教ホームに育ち、私の親戚には伯父や従兄弟など僧侶は多くても、キリスト教徒は一人もいませんでしたので、キリスト教とは大人になるまで全くご縁がありませんでした。
しかし長じて日本史や世界史を学び、特に西洋の文学や音楽、絵画、映画などに触れるようになり、キリスト教のことを知らなくては理解が出来ないと思い、一般教養をキリスト教として聖書や解説書などを学ぼうとしておりました。
そうこうしておりますうちに中年となって。熱心なクリスチャンのママ友に地元のプロテスタント教会に誘われるままに主日礼拝や集会に参加するようになりました。ちょうど50歳の時、受洗を勧められました。
聖書の学びも充分出来ていないし、まだイエスさまを完全に信じられないからとお断りしたのですが、なかなか学びきれないものではないし、受洗してから学べばよいではないかと言われましてそれもそうだな、残り少ない人生だから、これからは何事も神様にお委ねして生きていこう、と素直に従うことにいたしました。
ところが受洗をしたのちも本当の悔い改めも祈りもできないままですので、この世的な思いばかりで求める平安は一向に得られませんでした。聖書の通読を繰り返してみましても、理解ができず、かえって信じられないようなことがいろいろ書かれていて…。
でも信じることにしたのだからと自分に言い聞かせていました。まもなくその母教会は教会生活を続ける事が喜んではできないことを感じて離れました。
その後、幸いなことに誘われたある家庭集会で毎月来られる牧師先生のメッセージにより福音を学ばせていただきまして、それはとてもありがたく7年通いました。しかし、その牧師先生は突然召天されてしまったのです。
その後もキリスト教の奥義が分かりたい神様を心底信じられるようになりたいとの思いから、いろいろなプロテスタントの教会を訪れましたが、心が定まらずにおりますうちに、ふと家庭集会の牧師先生がよく内村鑑三の話をされていたのを思い出しまして、千葉市にも無教会の集会がないものかなとネットで探しまして、市川聖書集会に、次いで現在所属の千葉聖書集会へと導かれました。
その後70歳代には足かけ10年ばかりの夫の介護の為ブランクがありましたが、東京での無教会の全国集会に参加したあと、講師の吉村孝雄様から思いがけなく冊子が送られてきました。
拝読させていただいていますうちにキリスト教独立伝道会関係の特別集会にも参加するようになり、吉村様の講話によって、かつていただけなかった、それこそ命の水が与えられ、お送りいただいた徳島聖書キリスト集会の主日礼拝や夕拝の録音CD(MP3)の学びを経て、このスカイプ集会に導かれたという次第です。
私のような、小さなものをもお見捨てなく救われましたこと、誠に神様の奇しい御愛の御業と感謝しております。
天と地を創造され、「わたしが道であり、真理であり、命なのです。」と仰せられる神様イエス様御聖霊様を心から信じて祈ることができるものとしていただきまして、本当に大いなる恵みに感謝しております。
私の人生もはや日暮れて80歳代となりましたが、生涯あらたに悔い改めて神様に愛されている子供として、少しでも神様に倣う者としていただけますように祈っていきたいと思うこの頃です。
どうぞ今後ともスカイプ集会での交わりをお世話になるばかりですが、どうぞよろしくお願い申し上げます。
〇使徒言行録の聖書講話CD(MP3)
一部、欠けている部分もありますが、徳島聖書キリスト集会での吉村 孝雄による聖書講話の録音です。希望の方は左記の吉村まで申込ください。価格は、送料込で500円です。
〇ダンテの神曲のうち、煉獄篇の講話CD
これは、以前、集会での読書会での講話録音です。これも一部欠けているところがあり、内容的にも不十分なものですが、煉獄篇の深淵な内容の一部でも理解するための参考となればと思っています。
これも価格は、(送料込)で500円です。
神曲のうち、最も私たちの現実の生活と近くに感じられるのがこの煉獄篇だと言えますし、この世のさまざまの問題、そしてそこに射し込む光や讃美音楽などの記述が、いまの私たちにもさまざまの示唆を与えてくれます。
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〇私のその後の体調のことを心にかけてくださっている方々からにも、なかなか返信もできずに、申し訳なく思っています。まだ以前のような元通りというわけではないので、生活の仕方にも注意していないと再発することがあると、医者からも言われているので、気をつけています。
妻も介助が必要となって、生活が以前とはだいぶ変わってきていますが、これも多くの高齢の方々の現実がどうなっていくかの、生きた学びだと感じています。
〇現在、日曜日の主日礼拝は集会場とスカイプの併用です。その他、夕拝、家庭集会は、オンラインでの集会です。
〇 夕拝…第一、第三、第四火曜日、午後7時30分〜
〇家庭集会は、すべてオンライン(一部は家庭での集会と併用)
・北島集会…毎月第二、第四月曜日午後1時〜
・天宝堂集会…第二金曜日午後8時〜 (綱野宅)
・小羊集会…毎月第一月曜日午後一時〜(鈴木宅)
・海陽集会…毎月第二火曜日午前10時〜
・毎週第二水曜日は、集会場にてショートメッセージと讃美のあと発送作業