いのちの水 2021年 7月 725号
ああ、幸いだ、霊において貧しき者たちは! 天の国はそのような人たちのものだからである。 (マタイ福音書5の3) |
目次
お知らせ |
私たちは日々、思い、考え、悩み、またときには迷いつつ何かをしている。そのようなときの指針が聖書に記されている。
「何かを話すときでも、何かを為すときでも、いつも主イエスの名によって行い、父なる神に感謝せよ。」(コロサイ書3の17より)
主の名とは、主ご自身のことであり、主の名によって、というとき「よって」は、原語では en 、英語では in であるから、「主によって」は 「主にあって」とも訳されることが多い。
主にあって為す、とは、主イエスの愛や真実、清さの内にあってすることである。
それは内なるキリストの教え、示し、導きにより、主の力により、主の静かな細き声を聞きつつ、語り、為すことであり、私たちの日々の究極的なあり方だということになる。
キリスト者の生活の生命線ともいうべきは祈りである。その祈りとは主の霊にうながされて為すことであり、主にあって為すことである。それは常に主を思いつつなすことであり、主のみもとに近づくことにもなる。
私たちの毎日は、主と無関係に生きるか、主をときどき思いだして生きるか、それとも、この聖書の個所が教えているように、話すこと、為すことにはじまり、日常のすべてを主の名により、主にあって為す、そしてイエスという人間に神性のすべてを与えて、十字架で私たちの罪を担って死んでくださったことを感謝する。
すべてを主の名にあって、行なう、これは日常のどんな小さなことでも、主を思い起こし、その背後に主からのメッセージが込められていると受けとっていくことである。
例えば、今朝は久しぶりの晴れわたる青空であった。それも、主にあって見る、そうするとその大空一面に広がる青い空が、心にある種のハーモニーのようなものを響かせてくれる。そして、神様はこの青い空全体を用いて、何を私たちへのメッセージとして込めておられるのだろう、とそのメッセージを少しでも受けとる気持ちで見る。
また、災害地のことを見たり読んだりするときも、主にあってこのような突然の苦しみをうけている人たちのうえに神様の光と力が与えられますようにとの祈りの心で見る。
コロナ感染が新たに広がり、このような緊急事態なのに、オリンピックなどという莫大な金を使った事業を強行しようとするような政治に対しても、主からの正しい力が臨み、変革されますようにとの祈りをもって見る。
身近な私たち自身や家族、そして集会関係の方々の病気や苦しい状況についても、主の力によって強められ、弱きところにその力が臨みますようにと祈る。
また、小さな自然のいとなみにも、主が込められた無数の配慮、その葉や茎、花の色彩や形などからも主の全能の一端をかんじとろうとする。気持ち悪い虫、害虫などにも、そこにこの世の悪の害や醜さへの警戒の心を呼び覚まそうとすることや、他方、そのような虫にも神の驚くべき創造の不思議さをも感じ取る。
聖書も、人間が書いたというように考えるのでなく、主にあって書かれたものだと信じて受けとる。わからないところも、主にあってわからせてくださることを待ち望む。…
このように、主の名によってすべてを為す、ということを文字通りに少しでも受けとっていくとき、生活のいたるところで主を思い起こしていくことにつながり、それが主のみもとに近づくための歩みとなる。
「何をするにも 主に対してするように、しなさい」とある。23節
これは、すべてを主の名によって、主にあって 為す ということと通じるものがある。主の名、その愛や真実によってさまざまの問題に対処しようとするとき、よき人にもそのよい心は主が与えているのだと受けとってその主に感謝する気持ちでその人に対する。
また悪しき人には、その背後で主がその人をも支配されているので、主の力が注がれるなら その悪しき人も変えられるという気持ちで対する。
貧しく汚い身なりをしている人にも、その背後にキリストがおられることを信じ、あるいはその人はキリストの別の現れなのだとまで信じて対処する。これはマザー・テレサがしばしば言っていたことである。
なにを見ても聞いても、また語ること、為すことでも、主にあって為す。それによってイエスはいっそう私たちの内に住んでくださるようになり、私たちはその内なるキリストによって新たな力を日々うけていくことができる。
このコロサイ書の短い一節は、私たちの毎日の生活を大きく変えることにつながる。
今から二千七百年ほども昔の、旧約聖書の預言書に、驚くべき記述がある。
それは、日本の平和憲法の源流にあるものとして引用されることが多いし、ニューヨークの国連本部のビル前の広場にある壁に刻まれているので有名でもある。
しかし、ここに記されているのは、いつかわからない遥かな未来の社会的な問題だということではない。
現代の私たちの一人一人に対する預言であり、あるべき道が示されている。
… 終わりの日に 主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
どの峰よりも高くそびえる。
国々はこぞって川のようにそこに向かい
多くの民が来て言う。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。
主の教えはシオンから
御言葉はエルサレムから出る。
主は国々の争いを裁き、
多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。
ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。
(イザヤ書2の2〜8)
旧約聖書の預言書において、「終わりの日」あるいは、「主の日」、「その日」などと記される世の終わりー それはいつか分からない。その日は、ただ神のみ知っておられる時である。
しかし、それは私たちに関係ない遠い日のことだけを述べているのでなく、私たちが聖なる霊を受けるときには、時間を越えていくことができるのであって、千年は一日のごとく、一日は千年のごとし(Uペテロ 3の8)となる。
人間の世界は、常に剣、槍というもので表されているように武力の支配がはるかな昔から続いてきた。
しかし、それは必ず終わる時が来る。
しかも、それは、何千年も先のいつか…でなく、今もこのイザヤの受けた啓示は私たちにおいて働いている。
終わりの日、主の神殿の山が山々の頭となる…これも初めて読む場合には、現代の私たちとはまったく関係のないこととして感じるであろう。神殿など、日本にはないし、それが山々の頭? どこかの国の山が ヒマラヤなどを越えて一番高くなるなど ありえない…と読み過ごされてしまうのではないかと思われる。
聖書で言われている神殿とはその中心には、神の言葉が置かれている特別な建物である。それゆえに、終わりの日には、真実そのものの神の言葉こそが、あらゆるこの世の山々ーさまざまの富、権力、武力等々などにもはるかに高くそびえるという意味を持っているのがわかる。
神の言葉の力こそは、高く力強いものとなる。
そして現代は、多くの人々が、金や権力、武力のあるほうに惹かれていく傾向があるが、終わりの日とは、神の霊が注がれる日だと、預言書には記されている。(ヨエル3の1〜2)
それゆえに、私たちにおいても、聖霊が注がれるときには、終わりの日に生じることを部分的にであっても霊的に体験できる恵みが与えられている。
国々は滅びに向っていくのでなく、川のように、主の神殿の山、言い換えると神の言葉に向って流れていくという。人々は言うようになる。
…主は私たちに道を示された。
私たちはその道を歩もう。 (イザヤ2の3)
神の言葉に向って行くときに、主は歩むべき道を示される。
どんな人でも、比類のない高い霊的な山に向って登り行くことができる。
それは、神の山であり、神の言葉の山である。
このイザヤ書の言葉は、そのまま新約聖書におけるイエスの言葉を指し示す。
…わたしは道であり、真理であり、命である。
(ヨハネ14の6)
たしかに、イエスに従っていくときには、私たちは比類なき高き峰ー天の国へと登り行くことが許される。
たとえ、私たちの弱さ、罪ゆえにたどたどしくとも、その高き峰をはるかに見つめて歩むことはできよう。それは、イエスは真理、真実そのものであり、私たちが自分たちの弱さ、罪を知って幼な子のように仰ぐときには、罪を赦し、主に引き寄せてくださるからである。
そのキリストの命の一端を与えられて力がとなり、狭く細い道であっても登りゆくことができる。
…「狭き門から入れ。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。(マタイ7の13)
「主の教えは、シオンから、その言葉はエルサレムから出る」
シオンとは、もともとは、エルサレムにある丘であるが、イスラエルの地全体をも示し、神を信じる民をも、また神が民とともに住む新しい天と地、神の天の住まいなどいろいろに用いられるようになった。
イザヤ書のこの2章においても、神の言葉は、神の住まいから出るという意味で用いられている。
その神の言葉のメッセージは、この箇所においては、人間の自分中心の本性から生じる絶えることなき争いの結果物である戦争がなくなるということが言われている。
主がさまざまの国の争いに裁きを下し、その結果人々は、まったく新しい啓示を与えられる。
それが、剣や槍を放棄して、農耕具の鋤や鎌に変えるーすなわち人を傷つけ、殺し合って権力、武力の戦いを止めて、生きるのに不可欠な農耕の生活へと方向転換する。
… 剣を鋤に打ち直し、
槍を打ち直して鎌とする(イザヤ2の4)
ここで、この世界は、世の終わりには、神の言葉(キリスト)へと流れる大いなる川のごときものとなり、そこでは、たえず霊的な真実な教えを示される。そして、その教えにしたがって、戦いの武器から、生きるのに不可欠な農作物を生み出す生活へと方向転換する。
現代の私たちに対しても、地位や豊かさ、物質消費の競争社会から、 本当に生きるために不可欠な、いのちのパン(神の言葉)のために生きるようになる道が指し示されている。
そのように生きていくために、締めくくりとして次の言葉が記されている。
これはそのままこの言葉が記されてから二七〇〇年も後の現代の私たちに言われているメッセージとなっている。
…来れ(*)、ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。
(イザヤ2の5)
(*)原文には、レクー(来れ)(ハーラクの命令形)があるので、外国語訳のほとんどは、みなそれを訳している。例えば下記の訳。しかし新共同訳ではこの「来れ」が訳されていない。
Come, O house of Jacob, let us walk in the light of the LORD.
この記述も、次の主イエスの言葉を指し示すものとなっている。
…わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。(ヨハネ8の12)
神はたえず、私たち弱きもの、苦しみや悲しみに打ち倒されそうになる私たちに呼びかけてくださっている。
ほかにもこのような「来れ!」との呼びかけは見られる。
…渇いている者は、皆 水のもとに来れ!
金を持たぬ者も来れ
お金を払うことなく、ぶどう酒とミルクを得よ!
(イザヤ書55の1)
最もよきものとしてのぶどう酒、ミルクはただで与えられるのだーそれは、霊的な飲み物、食物などは、神の愛を信じて求めるだけで与えられるということを強調している。
この言葉もまた、キリストの預言となっている。
主イエスは、次のように言われた。
…渇いている者はだれでも、
私のところに来たりて(いのちの水を)飲め。
(ヨハネ7の37)
また、次のよく知られた主イエスの言葉もまた、「私のところへ来れ!」との強い愛の込められた呼びかけである。
…疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイ11の28)
イエスのもとに、いのちの水を求め、またさまざまの重荷を軽くしてもらうため、心の自由を得るために行くことは、だれにでも与えられている。
これらすべては、つぎのイエスの言葉の精神に沿うものである。
…求めよ、そうすれば与えられる
門をたたけ、そうすれば開かれる(マタイ7の7より)
この闇に満ちた世界にあって、永遠の主の光、いかなる事件や災害、また人間の罪にも揺らぐことなく輝き続けているその光を与えられ、その内にあって歩みたく思う。
そのためにも、日々 心から求め、門をたたきつづけることー祈りつづけていくことの重要性が私たちに示されている。
ヨハネ福音書には、その最後の部分に、復活したイエスが弟子たちに現れた記述がある。そこには、復活に関してさまざまのことが暗示されている。
鍵をかけた部屋に入るキリスト
…その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。
そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネ福音書20の19〜23)
ここでは、週のはじめの日、すなわち現在では日曜日の夕方、復活したキリストは、弟子たちに現れた。
そしてそれは、野外でも普通の家の自由に出入りできるところでもなく、鍵をかけた部屋に弟子たちがユダヤ人から逮捕されるかも知れないと恐れてこもっていた。
自分たちが3年間も親しくつねに生活をともにしていた者たちであったゆえに、彼らの師匠であるキリストが逮捕されて無惨にも十字架刑で処刑されたのだから、自分たちも捕らえられるかもしれないと恐れたのは自然なことだった。
ここでは、鍵をかけていた部屋に入ってくるという普通にはありえないと思われることが記されている。このことは、比喩的に受け止めることで本当の意味も明らかになっていく。
誰でも心の中には鍵が閉まっていて、なかなか神様のことも入ってこないし、人間の忠告とか助言とかいうこともなかなか入ってこない。自分は自分と言うことで、何かがっちり戸を閉めてしまっているとかいうことも、これはたくさんあるはずです。
子供でもそういうことが沢山あります。小さな子供でも、心に深い傷を受けると、もうなにも言わなくなる。非常にこう苦しいこととか、悲しいこととか、いじめとかにあった場合には親にもそのことを言おうとしない。言えなくなる。
中には本当に自分の部屋で閉じこもってしまって、鍵を閉めてしまって出てこないということも実際にあるわけです。
そういうふうに、人の心の戸に鍵がかかってしまうということは珍しいことではなくて、どこにでもあることです。
人間の心っていうのは大なり小なり、ある部分は鍵をかけてある、誰も入ってこないようにしてあるということが非常に多いですね。どんなに人が言ってなぐさめてもきれいごとを言ったところで、そんなものは役に立たないと思って跳ね返す。
自分だけが分かることなのだと、そういう気持ちがある。
苦しいこととか悲しいこととか悩みとかいうものは、それが深い場合には誰にも言えない。鍵を閉めておくしか仕方がない。
そういうふうにこの世の中も人間も社会も、みんな何らかの鍵が閉まっている。
政治の世界、あるいは会社や学校、その他いろいろの場所にあって、さまざまの不正をやっていることはよく見られる。そのために、外部の者には事実を知らせてはならない、ぴったりと戸を閉めて密室でという感じです。
この世にあっては、人間の心は子供から老人から病人から、いたるところに戸が閉まっている状態であり、本当の交流は出来ていない。
たとえ同じ家でいて家族であっても、互いにその心に鍵がかかっているということは多い。人間の
小さな集まり、大きな集団の中でも、互いに心の鍵が閉まっていることが多いが、そのようなところにイエス・キリストだけは入ってくることができる。
そういう重要なメッセージがここに込められています。
こういうことも表面だけ読んで、鍵が閉まっているのに、どのようにして入ってくるのかと、そんなことばかり考えたら、まったくこれは意味が分からなくなる。ここで言おうとしていることは、イエス・キリストは確かに死人から復活もできるような方で、本当に不思議な方法で入ることができる。
どんな方法で入ってこれたのか…と考えてもわからない。
たった一人の人間の心の中であっても、そこには誰も入っていくことができない、どんなにしても、その人の心の扉を開けることはできない。しかし、復活したキリストは、そこにも入ってくることができる。
私自身、大学4年の春までは、仏教、神道、あるいはキリスト教など、まったく宗教全般にわたって無関心であって、神様だとか、キリストのことなど、ほとんど考えたこともなかった。
私は宗教的なものに対して、鍵をかけていた状態だった。
しかし、そのような私の心の部屋に、復活のキリストはどこからともなく入ってきてくださった。 わずか一冊の小さな本のその一ページを用いて私の心にキリストは入ってきてくださった。
使徒パウロは、キリスト教徒を迫害して国外にまででかけて、キリスト教徒を捕らえて連行し、殺すことさえしていた。それほどキリスト教の真理に対して固く鍵をかけていた状況であったが、その迫害にのさなかに、復活のキリストの光が望み、キリストからの「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」との語りかけを聞いて、迫害の指導者から、キリストの福音の宣教者の代表的人物となった。
このように、心に鍵がかかっている場合でも、神、あるいは復活のキリストの言葉、光を受けるときには、福音はその人の魂の中心に届いていく。
この世が固く戸に鍵を締めていても、そこにも入ってこられる。
ローマ帝国のきびしい迫害が波状にキリスト者に押し寄せての数百年、キリスト教に固く鍵をかけておこうとしたローマの皇帝たちの権力にもかかわらず、復活したキリストは、ローマ帝国の全域にわたって、わずか数十年で広がっていった。
日本においても、1587年の「バテレン追放令」以来、キリスト教への敵視政策は徐々に強められ、以後徳川幕府支配となって、その迫害はさらに徹底的となって、キリスト者の根絶のためには、きびしい拷問も次々となされていった。
そのために、オランダ、中国など一部の国以外とは、それまで交流していた外国とも遮断するという鎖国が行なわれ、ごく一部の国を除いて、海外への渡航、入国を禁じるという、国家に鍵をかけるという状況となった。
このような鍵のかけられた日本においても、神の力は流れ込むのを止めず、根絶されたと思われたほどのきびしい迫害にもかかわらず、江戸時代末期に、信仰の形には、迫害をさけるために変化を生じたが、それでもキリスト教信仰を表明する人たちが長崎には多数存在していて、これは奇跡的なことだと受け止められた。
このように、キリスト教の真理は、個人のレベルから、広大な国家にまで、いかに強固な鍵がかけられたところにも、入っていくという驚くべき力を証ししてきたのだった。
それは、神は全能であり、神のご意志にかなうときには、いかなる強固な鍵がかけられようとも、それを越えてその力は入っていくからである。
信じる人々の中にいてくださるキリスト
このヨハネ福音書において、鍵をかけた部屋に復活のキリストは入り、「真ん中に立つ」と、わざわざ書いてある。(19節)
さらに、26節にも「イエスが来て真ん中に立つ」と重ねて記しています。これはイエスの弟子たちというのは、誰かある一人の人だけのところに近寄ってくるのでなくて、集まっていた人のただ中におられるっていう、そういう意味があるわけです。
イエス様が生きていたときに言われた有名な言葉、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる。」(*)(マタイ18章20節)ということなんです。
(*)真ん中に、中に と訳されている原語(ギリシャ語)は、いずれも メソス mesos
また、別のところで、主イエスは、次のようにも語っておられます。
…『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17の21)
それはキリストは、私たちの今の礼拝の集まりのただ中におられるということです。どこか端にいるのではなくて、真ん中にいる。復活したイエスというのは、信じている人たちの集まりの中にいるという言いかたなのです。それは確かにヨハネが実感をしてたところです。
どこか隅っこのほうでちいさくなって、うかがい見ているというのでは全然ない。人間だったら、そういうことはありますね。何か前に出てくるのが遠慮がちだった、これはよくあるわけです。イエス様はいつも信じる人たちのただ中におられる。そのイエス様は、目には見えないけど主人公だと、そういった意味合いがあるわけです。
シャーローム!(平安・平和あれ!)
そしてここで言われたのが、これも前に言われた重要なことで、「あなたがたに平和があるように。」この短い言葉、これは原文でたった2語です。これはギリシャ語の元の表現でも見ていただいたほうが良い。日本語では、「あなたがたに平和があるように」ちょっと長くなりますね。
しかし、ギリシャ語の原文では、「エイレーネー ヒュミーン」。たった2語ですね。復活したイエスが鍵がかかったところに入ってこられて言った一言、エイレーネー ヒュミーン。エイレーネーは平和、平安。ヒュミーンは汝ら、あなたがたに。という意味です。( ヘブル語でも同様で、シャーローム ラーケムの二語) この簡潔な言葉にいろんな意味がこもってるわけです。
これは、すでに主イエスが、十字架につけられる前夜の夕食のメッセージの締めくくりとして、「これらのことを話したのは、あなた方が私によって平和(平安)を得るためである。」(ヨハネ16の33)ということを思いださせるものです。
そして、その主の平和については、同じ最後のメッセージのなかでもすでに言われていたことです。
…わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。
わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。 (ヨハネ14の27)
キリストが、最後に遺言のように繰り返し言われたのは、主の平和(平安)をあなた方に残す。私の平和(平安)を与える、ということだった。
その平和(平安)というのは、この世が会議や話合いなどでもたらそうとする平和ではなく、主の平和、神の国の平和だったのです。
神様の国だけにある完全な平安(平和)、それがあなたがたに残すというわけですね。これは英語で、 Peace be with you. あるいは、Peace be to you.などと訳されています。
復活したイエス様が2回繰り返して、平和(平安)があるように、との祈りが記されている。これがイエス様からの最大の贈り物でもある。
一番私たちが必要としているのは、そういう意味の心の深い、神の国にあるような、神様と共にある平安だからです。それがあれば、貧しくとも、友達がいなくても、心の深いところで平安がある。
近年、ますます老人は増大し、その多くが孤独に悩むようになっています。こどもたちはみな別の場所、しばしば遠いところに、住んでいて年に1〜2度しか帰ってこないので、生活のほとんどは、老夫婦となるけれども、いずれかが先に施設や病院に入ることになり、そこから人生で初めての、老年になっての孤独な生活となっていく人が多い。
老人の一人住まいというと、以前なら田舎、農山村のことを連想されていたが、現在では大都会のただなかに、老人の一人住まいが増大しつつあります。
東京では、65歳以上の高齢者は、4人に1人がひとり住まいというほどに 大都会のただなかで、高齢者は単独で住んでいるのがわかります。
単身世帯の比率は東京全体では、半数近くにもなり、23区では半数を超え、新宿区、渋谷区、豊島区では6割を超えているということです。
このような状況にあって、体調も悪化し、戸外に出ることも難しくなっている高齢者は増えているのが推察できますが、そのような孤独な、室内という狭いところでの日々を持つ人たちが増大しつつあるのが現状です。
そのようなとき、自分の子供やヘルパーのような人たちもそれぞれに忙しく高齢者の心の相手にはならない方々もたくさんいると思われます。
そのようなとき、キリストが二千年前に言われた、主とともにある平和(平安)が与えられるなら、それは何にも代えがたい恵みだと言えます。
しかし、その主から与えられる平安は、単に個人的な慰めや安心としてだけのものではない。
それは、「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。…
との言葉でもわかります。
主の平和(平安)を与えられて、自分でそれを持っているだけでなく、そこから遣わされるということです。主の平安という主の最後のときに言われなくして、遣わされていくことはできないからです。
信仰の飛躍
そのあと、弟子のトマスに関することのなかに、ヨハネ福音書全体に込められている重要な真理が見ることができます。
ヨハネ福音書14章4節。これは最後の夕食のときの教えですね。「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知ってる。」これはもう殺される、殺されて神様のところに行くというわけなのですが、5節「トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。」
率直にこう言った。分からない。道が分からないと、言ったのです。イエス様という最大の良い先生。神様から来た御方。ゆく道が分からない。このなかに私たちはみんな道が分からないというそういう一種の叫びというものが重ね合わせられているわけです。
ヨハネ福音書というのは、そういういろんな意味が重ね合わせられたものですね。一人の人が言ったから一人だけが言ったのではなくて、みんなそういう思いを持っている。この世の中でいったい誰が生まれつき最初から、私は正しい道をみんな知っていると言い切れる人がいるのか。そのような人は誰もいないわけです。みんなですね。これは頭の良し悪し、なにも関係ない。頭の良し悪し、声がきれいとか顔がきれいとか、お金持ちとか、そんなのは関係なく、みんな本当の道は知らなかった。
それに対して「わたしは道であり、真理であり、命である。」わたしを通って行くのが本当の道なのだとはっきり言われた。この有名なことばは、トマスによって引き出されたわけです。イエスに向かって「分からないのです。教えてください。」そういうふうに率直に素直に問いかける心には、真理がこういうふうに与えられる。
この5節も実はみんなの人の気持ちを代弁して言ってるわけなのです。どうしたらいいか分からない、道が分からないのです。これも私自身がかつて本当に悩んだ。大学や学校の勉強をいくらしても、こういう意味の道はまったく分からなかった。本当に苦しみ悩んだから私はよくそのことが分かります。どうしてその道を知ることはできるのか。
それからもう1つ、このトマスのことがあります。4つの福音書のうちヨハネ福音書だけがトマスについて特にですね、こういうふうにわたしたちの代わりに代弁させているんですね。
。これはラザロのことですね。イエスはラザロの死について話した。「ラザロは死んだのだ。彼のところへ行こう」と言ったのです。それなのにディディモというこのトマスだけが「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(11章16節)と。
その死ぬという話ではないわけです。ここはラザロのところへ行こうと言ったのです。
これはトマスが予感したというところです。ラザロは、あれだけ愛していた者が死ぬのだ。11章5節「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」それでも死んだ。いくらイエスが愛していても死ぬのだ。そしてまだ誰もほかの弟子たちも、この時にイエス様が死ぬとかいうようなことは考えていなかった。
ペテロも、イエスが十字架によって殺されると言ったら、そんなことあってはなりませんと言った。そしてイエス様から厳しく叱られたことがあったわけです。ですから、このトマスのことは唐突なことのように見えますが、そういうふうに早くも予感をしていたのです。
トマスというと、復活のイエスを信じられなくて、釘で打ちつけられた傷あとに手を触れさせてもらって初めてイエスの復活を信じるようになった疑い深い人間だ、ということしか思い浮かばないということが多いように思う。
しかし、聖書の記述をみると、そういうふうなイメージとは違うのが分かるわけです。
ほかの弟子たちすらまだイエスが殺されるとか死ぬとか分かっていない。それでも死のうではないかという命をかけてでも一緒に行こうじゃないかという気持ちを持っていた人だったと分かるわけです。このトマスには、主イエスに対する愛があり、今後起きることへの直感的な鋭い感覚があった。
それでも、他の弟子たちがみな復活のイエスを見たと証言しているのにそれを信じなかった。
人間の勇気がどれだけあっても、またそうした直感力があっても、それでもなお復活を信じることとは別だということです。
それほど、イエスの復活ということを本当に信じることは、生まれつきの性質とか他人が言ったとか、他人が見たとかいう事では分からない。と言おうとしてるわけです。
私たちの中にもこのような勇気を持っている人もいる。非常にこう直感力の鋭い人もいる。音楽、美術などの特別な能力を与えられた人もいる。
モーツァルトやベートーベンは長い複雑な曲を作り上げるように非常に音楽的な感覚がするどい人だと思います。
でも、そういう特別な能力があるからといって、イエスの復活のことがより分るということでもない。
トマスは、どうして復活を信じるようになったのか。主イエスは、トマスを叱責したりすることなく、彼が信じられないという弱さをそのまま受け入れ、次のように諭された。
「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。
信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20の27)
この主イエスの言葉には、信じない者でなく、信じる者になれという主の深い愛による語りかけがあります。
それによって、トマスは、どこまでも疑うという姿勢が根本的に変えられて、もっともイエスに対する深い信仰の告白へと飛躍したのです。そのイエスの一言によってトマスは、言った、「わが主、わが神!」と。 (ヨハネ20の28)
これは新約聖書の中でも特に大いなる信仰の飛躍と言われているところです。イエスの愛のこもった、弱さもすべて見抜いておられる愛の言葉の語りかけ、それはじっさいに傷に触れさせるという行動も伴うほどだった。その愛を受けて、ただちにもっとも深い信仰に達したということです。
このトマスのわずか一言の告白、キリストに対して「わが主、わが神」とはっきり言われているのは新約聖書でここだけです。
そして、このトマスに関する聖書の内容、これはトマスという人だけのことを言ったのではなく、私たちみんなのことを言ってるわけです。「見ないで信じる者になりなさい。」
みんな神様から見たら、見通されていると思います。そのような弱い人間が、これが私たちの正体なんですね。それを見捨てたり、単に叱責したり、問い詰めたりするのでなくて、そばに来てくださって、その弱さに対応したような形で「手を入れてみなさい。」と急に優しく語りかけてくださる。それがイエス様の愛です。
ですから、そのイエスさまのことばによって(触って信じたのでなくて)主の愛の込められた言葉によって即座に信じることができた。大いなる信仰の飛躍です。
これはみんなそうなんですね。私もかつて全然信じていなかった。
偶然的に出会った一冊の本の神様の言葉によって、地上の世界しか分からなかったところから、直ちに引き上げられて信じるものに変えられた。
見ないで信じている、と思っていても、心の中は、実は本当に浅いところで信じているのに気付かされます。自分にとってあまり苦しまなくともよい状態、都合の良いところを信じているだけ、という状態が多い。
しかし、私たちが主を仰ぐときに、そのようなところから、イエス様が愛を持って引きあげてくださる。
信仰の勇者といえるような人も、そういう弱いところから、神様によって引き上げてもらった。ということなのです。どんなに人間的に率直で素直であろうが、どんなに勇気があるようでいつ死んでもいいという人でも、やっぱり、生けるキリストから直接語りかけられないと霊的には引き上げられていかない。
このヨハネ福音書は一番はじめと最後にイエスが神であるということを書いています。この福音書は、深く霊的に構成された書物で、ヨハネ福音書の冒頭の第1章にやはりそのことが書いてあったのです。
キリストは、神である。それは、ヨハネの1章1節、いちばん最初に書いてあったことです。この「言」(原語ではロゴス)というのは、イエス様が生まれる前の永遠の存在を意味しています。
…初めに言があった。言は神とともにあった。言は神であった。(ヨハネ福音書1の1)
はじめからこのロゴスなるキリストは神と共にある。言は神であった。
ロゴスと言われているキリストは神である。それをもう一度最後に結論としてここでトマスの言葉のなかに込められている。
ですから、私たちが達するべきキリストへの信仰というのは、イエス・キリストは神であることを聖霊によって知らされた状態だと言おうとしているのです。キリストとは、神の本質をすべて与えられた人間である。そういうところへと達することができる。
ヨハネ福音書の最後のところで、キリストに対する信仰は、キリストが「わが主、わが神」と深く実感できるほどに信仰が導かれていくのだ、と示しているのです。
人はみな疑い深かったり、他の事を先に目に見えずに取ってしまう弱い人間だけども、そこに来てくださる。そういう人間の集団の只中に来てくださって、一人一人の弱い所あるいは心の中に入って来てくださって、そして引き上げてくれる。そういうことをここで言おうとしている。
そして、「見ないで信じる人は幸いだ」ということが繰り返し言われています。
現実の生活で、不安なこと、恐れること、苦しいこと、悲しみに沈むこと…等々いろいろなことがそれぞれの人に生じてきます。
さまざまの災害、また家庭事情、病気、事故、国によっては厳しい言論弾圧、迫害…等々、そのただなかで、神様の愛を信じる、復活して生きて働いてくださる神を信じる、最終的にはすべてが良きとなるーそうしたことを信じるのは、みな、じっさいに目にみえるかたちで神様の愛を示されなくとも、「見ないで信じる」ということです。
その、見ずして信じることへと向かわせる力が聖霊だと言えます。
その聖霊のことは、新約聖書全体、とくにヨハネ福音書やパウロ書簡、使徒言行録にもくわしく書いてあるところです。
聖霊が与えられると、そこでそのこういった弱いものであるのに、はじめて本当の力が与えられていくということが体験させていだける。
キリストの一言の力は次のことにも表されています。
それは、復活のキリストとマグダラのマリアの記述のところです。ヨハネ20章14節「後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。」
マリアは、そこの園の管理人だと思ったものだから、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。」そう言ったのは、それが つい数日前まで、処刑前のキリストをみていたのに、復活のキリストだとは全く分からなかったからです。
しかし、「イエスが『マリア!』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ !」と言った。」
ラボニ とは「わが師」という意味(*)で、この一言が、マリアのいわば魂の心の中に決定的な光を与えたのです。ただ一言で本当にこれは復活されたイエスだと分かった。ここにも信仰の飛躍があります。
(*)(ラボニとは、ラビ+ニ(私の)) ラビとは 神の言葉(律法)の教師、御言葉を教える人を意味する。
パウロにおいても、同様なことがあった。パウロはキリスト教を敵視し、キリスト者を迫害していくリーダーといえるような状態で国外にまで迫害の手を伸ばしていた。ステパノの殉教を見ても、キリストの話しを人々から聞いてもまったくわからなかった。
しかし、迫害の途中で、突然 キリストの光を受け、キリストからの一言の語りかけを受けたとき、ただちに変えられた。
ここにも信仰の飛躍がある。
ヨハネ福音書の最後の部分にあるトマスの記述は、こうしたこととと同じことを本質的に言おうとしている。
復活ということが分かるのは学問でも経験でも他の人が言ったことでもない。血筋でもない。これが本当に分かるためには、生けるキリスト(聖霊、神)が直接に、いかに細き小さな声であろうとも、人に語りかけることによってである。
私たちがキリストを神と信じることができるようになるのは、学問でも、努力や経験、知識や生まれつきとかあらゆる地上的なことによるのでなく、神の業なのだと言おうとしている。
私たちがキリスト者となっているのは、誰かの伝道による。しかし、誰かがいくら言ってもならない人はならない。それゆえに、私たちがキリストの復活を信じ、十字架による罪の赦しを信じることができるようになったのは、神が直接にその人の魂に語りかけた、働きかけたということなのです。
こういうこの問題が実際、旧約聖書のヨブ記にもあったわけです。ヨブという人には、突然の大きな苦しみが降りかかって、自分の身内や財産もなくなったり、自分も非常な苦しみを伴う病気になったり、どうしてこんなに悪いことが次々と起こるんだろう。災いばかり。そして友達友人によっていっぱいいろんなことを説得したり、宗教的ないろんな考え方を指し示す。いくら言っても言っても分からなかった。納得できなかった。
しかし、そうした大変な長く続いた苦しみののちに、最後に神様が直接語りかけた。それでその苦しみがありながら、心の中のすべての疑問や苦しみが消え去っていった。
そのことが、苦難と信仰をの問題を中心にしているヨブ記という長編の書のテーマだった。
そういうことで私たちも他人がいくら言っても言っても分からない。だからこそ祈りて、あるいは学んで、こういう集まりに来て、少しでもイエス様と直接の幹のぶどうの木に枝につながるように、そしてこのように、生けるキリストから直接に励まされて語りかけられて、そこから絶えず引き上げられていく。
キリストは、たえず、「見ずして、神の愛を、その導きを、その真実を信じなさい」と語りかけてくださっている。そういうことで、私たち一人一人が歩む信仰の道を凝縮したのがトマスの記述なのだ。
トマスは、私たちの関係のない昔の人でなく、私たちも同じように、このように疑い深い弱いものだということです。それをイエスが招いてくださって、そしてここに触ってみなさいというぐらい、私たちの弱さにぴったりと心当ててくださって招いてくださると言われますね。
そして語りかけてくださるから、私たちも信仰を与えられたと言うわけです。クリスチャンというのは、その程度はいろいろとあっても、このキリストに対して「わが主。わが神よ。」という気持ちになった人たちです。
イエスは、トマスに自分が受けた釘の傷痕に触れさせたという。
このことも、二千年前のトマスに対してだけあったのでなく、私たちの直面するさまざまの苦しみや悲しみは、それを、キリストが私の傷に触れてみよ、と導かれていることとして受けとることができる。
その苦しみを通してキリストが私たちのために受けてくださった十字架の釘の耐えがたい痛み、苦しみを少しでも思い起こし、そこからその十字架の計り知れない神の愛に触れるようにと導かれているのを思う。
(オンラインの礼拝に参加されている方々から、礼拝の最初に5分間の短い証しをしていただいています。)
大塚 寿雄(北海道)
最初の頃はまだ見えていたんですけれど、だんだん見えなくなりまして、現在完全に見ることができなくなりました。物を見ることも本を読むこともできなくなりました。そういう試練といいますか、苦しいことを体験して、それで現在に至っているというのが今の状態です。
私はですね、本が大好きで、本を読むということが最初。子供の頃からですね。それはあった本を叔母が持ってきたりいろいろとしてくれた。
私は周りの者から非常に恵まれた状態で。いろんな本を読んだり、話を聞いたりして、生活して大きくなったと思います。
そして、それは大学へ行ってですね、ビリー・グラハムが東京に来たときにですね。そのビリー・グラハムの集会にも行くことができたし、本当に恵まれていたんですね。信仰生活を現在まで持ち続けていくことができた。感謝しています。
大塚 正子
この証しのお話しいただいて、私は主人の書、今まで気付かなかった場所から次のようなメモを見つけました。それにはまだ目が見えて書けている時でしっかりした字で次のように書かれていました。
「目を覚まして、感謝を持って、たゆみなく祈りなさい。(コロサイ書4章2節)」
「すべてのことについて主に祈り、今の導きを受けて力強く毎日を生きることをわが家の願いとしたい。」
というこういう一文を宝物のように手にすることができました。今は主人は視力を失い、書くこともちょっとおぼつかなくなりましたけれども、こうして私たちがいま信仰に導かれているのは、やっぱり主人のこの祈りがあったのかなと改めて思いました。
この書いた頃には、私にはまだ聖書は手許にありましたけれど、主を仰いで祈るという、そういうことにはまだまだ私の心はいっていませんでした。
そして主人が転勤。今は転勤先の札幌に永住することになりましたけれども、単身赴任を東京にしたりして、バラバラの家族、バラバラの時期が結構長く、介護もあり大変なところで、主人がこの言葉をメモに残したのだと思います。
そして退職して帰ってきて、ほんの一年だけ本当に祈りをもってこれから新しく歩みだすっていう時に、主人は突然白血病、骨髄性白血病を発症して、それから全盲になってしまいました。
そして白血病のために、その後遺症で、だんだん視力を失い、また6ヶ月ほど入院している間にも全盲になってしまいましたが、その時に見えなくなったときの言葉。主人の口からなかなか今出てこなかったので「見えるものによらず信仰による」というあの細き神様の声を心に頂いて、それから私たちの壮絶なスタートがありました。
そしてこれからどうしようという、本当に途方に暮れていた時に、神様からの取次ぎがあって、浦和の集会にかつて通ったことのあったところに、徳島の姉妹が上京した時にその話になり、そして繋いでくれたのが私達と徳島集会との本当に始まりでした。
そして「北海道の瀬棚聖書集会に来ているので、札幌まで大塚さんに会いに行きますよ。」と来てくださったのが、瀬棚集会から帰りに本当に吉村さんが信仰の友と共に来てくださって、「初めまして。」ということで、今の私達の本当の信仰の始まりはここからスタートします。
それからはもう徳島にも、私たち夫婦二人で行って、徳島の集会に行った時には吉村さんが集会場のあちこちを、主人(全盲)の手で触らせて。こういうところなんだ。こういうところで徳島の集会が行われているんだっていうことを本当に体で教えていただきました。
そんなことで、私たちはスタートすることができました。主人がさっき話したように、本も大好き。そしてカメラでこれから第二の人生を楽しもうという時に、そこを失われてしまったことは本当にあの悲しかったけれども、これは今考えてみると神様の大きな導きなんだなと、あらためて感謝する気持ちが、本当に感じるのが今日このごろです。
〇「祈りの友」合同集会
例年同様に、今年も「祈りの友」の合同集会を予定しています。日は以前から同じで休日の日です。
・日時…9月23日(秋分の日)午前11時〜16時
昼食休憩 12時〜13時まで
・数名による祈りに関する聖書からのメッセージ、感話、自己紹介、午後3時の祈りなど。
徳島聖書キリスト集会場とオンラインの併用で開催予定です。参加希望者は、
貝出久美子まで申込してください。