いのちの水 2021年8月号 第726号
「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでも私のもとにきなさい。 休ませてあげよう。」(マタイ福音書11の28) |
目次
8月、それは日本人にとって太平洋戦争の多数の犠牲者を思いだし、何故あのような悲惨、かつ残酷な戦争が生じたのか、平和を守るために何が大切なのか…等々を思い起こす季節である。
新約聖書においては、通常の「戦う」という考え方から大きくことなる「霊的な戦い」が記されている。
キリストは、その戦いを生涯かけて実践し、ついに勝利されたのだった。
祈りと戦い、普通は直接に結びつくことではない。一般的には、戦うとは、武器によって攻撃し合うことであるから、体力と武力が不可欠になるから、病人や歩行の困難もある障がい者や高齢者は戦うことができない。女性は体力に弱さあり、昔から戦争といえば、ほとんど男のやることで、女性が大挙して武器をもって戦うなどはない。
しかし、祈りは、何ら武器も体力も、年齢や障がいにかかわらず可能であるし、健康な人以上に、弱い人、苦しみにある人がより深く祈ることが多い。
祈りは、そうした意味で女性的で、戦うことは男性的というイメージがある。
しかし、祈りと戦うという相反するようなことがひとつになるのが、キリスト者の祈りである。
キリスト者の戦い、それは目に見える人間を相手にする戦いではない。それは悪の霊との戦いであり、あらゆる人が直面する戦いである。
私たちには、その戦いのための武器を与えられている。それは聖なる霊という目には見えない剣であり、神の言葉である。(エペソ六の十七)
主イエスは、サタンによる試みのときに、聖書に記されている神の言葉をもってサタンを退けられた。
神の言葉、それは聖書の言葉と、生きて働く神(キリスト)から語りかけられる言葉の双方を含む。そのような言葉を魂の深いところにおいて、静かなる細き声として受け取る時、私たちはサタンの誘惑やまちがった道を歩むことから守られる。 そしてみ言葉は、闇のなかの光となり、いかに進むべきか分からず行き詰まっているときでも、その闇を切り開いて歩むべき道が示され、その道を歩むための力も共に与えられる。
そして、この神の言葉の重要性が述べられた後に続いて、次のように記されている。「絶えず、祈りと願いをし、どんな時でも聖霊によって祈り…」(エペソ六の十八) 神の言葉という武具が有効にはたらくためには、絶えざる祈りが必要だからである。
祈りの伴わない神の言葉を用いても主はそこに力を与えて下さらない。イエスが荒野でサタンの試練を受けたとき、四十日四十夜断食をしたと記されている。断食とはすなわち徹底した祈りに集中するためのものであるから、心を注ぎ、魂を注ぎだしての祈りのあとで、イエスは神の言葉をもってサタンの攻撃を退けることができたのであった。
主イエスは、ゲツセマネにおいて最も深い祈りのとき、弟子たちにも目を覚まして祈ることを求められた。
使徒パウロは、深い祈りの人であったとともに、次の箇所のように、祈られることの重要性をも深く知っていたゆえに、繰り返し、自分の福音伝道のために祈って欲しいと、求めている。
…また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。
わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。 (エペソ書6の19〜20)
…目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。
同時にわたしたちのためにも祈ってください。
神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。(コロサイ4の2〜3)
…終わりに、兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。
主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、 また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。 (Uテサロニケ 3の1〜2)
真実に祈る人は、また祈られることの重要性について深い意味を知っている。霊的世界の深い消息は、祈られ、祈るところにある。そこにキリストのからだである信じる人の集まり(エクレシア)が生きて働くようになる。
自分は他者から祈られる必要などない、と思うとき、それは自分の力がいかに弱いかを知らず、自分の力を過信していることであり、共同体の霊的重要性を知らないことである。主イエスも二人三人私の名によって集まるところに私はいると言われた。
それは二人三人集まって互いに祈られ祈るところに主の力が臨み、悪の力との戦いにも勝利し、主の祝福が注がれるということも意味している。
これからの変転きわまりない世界にあって、岩のごときキリストにすがりつつ、互いに祈られ祈りあうことこそ、私たちがどこまでも前進を続けるための大いなる力となる。
祈りは本質的に霊的な戦いである。
「主の祈り」において、そのことははっきりと表れている。 例えば、「御国がきますように」との祈りは、神の愛と真実による支配がきますようにという祈りであり、それは現在支配している悪の力が退けられますように、という祈りが共にある。
言い換えると、悪の力との戦いが、御国がきますように、という祈りの中心にある。
ある人のために祈るーそれは、その人が生きて働く神の祝福を受けるように、神の真実や愛、永遠の力を受けますように、と祈ることである。
そのような祈りは、祈りの対象となる人が健康な人であっても、病気の人であっても、老年で弱り果てた状態の人にあっても、共通して最も重要なことである。
祈りは戦いだということは、主イエスの最後の夜でのゲツセマネの祈りを見てもはっきりわかる。「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈った。汗が血のしたたるように地面に落ちた。」(ルカ22の44)
また、パウロの次のような表現もそのまま表している。
…彼はあなた方が全き者となり、神のご意志を確信しているようにと、いつもあなた方のために、熱心に祈っている。(コロサイ書4の 12)
しかし、この訳文では、祈りと戦いとは結びつかない。原文は、「熱心に」と訳された原語は、「戦う」、という意味を持つ言葉である。「彼は、祈りにおいて、あなた方のために、戦っている(*)」である。
これは、英訳(**)にはそのように訳されているのが多数であるが残念なことに日本語訳では、「熱心に祈っている」(口語訳、新共同訳) 「祈りに励んでいる」(新改訳)などとなっていて、戦う という意味が表れていない。
(*)熱心に、と訳された原語 アゴーニゾマイ は、(武器によって)戦う、苦闘する などと訳される言葉。 次の用例参照。
・「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」(ヨハネ18の36)
(**) He is always wrestling in prayer for you (NIV) 彼は、祈りの中で、あなた方のために格闘(奮闘)している。
・He never stops battling for you, praying… (NJB) 彼は、あなた方のために、祈りつつ、決して戦うことを止めない。
・ always laboring fervently for you in prayers (NKJ) つねに、あなた方のために祈りのうちに、激しい情熱をもって(熱烈に)働いている。
キリスト者にとっては、祈りは、さまざまの内容を持つ。
そしてそれら多様な祈りの内容の根底にあるのは、霊的な戦いである。
病気で苦しいときにも、祈る。それはその病を起こしている悪の力との戦いである。ヨブ記に見られるように…。
パウロが述べているように、私たちキリスト者の戦いとは、目に見える武器をもってするものでなく、目に見えない霊的武器をとって戦うことである。
…私たちの戦いは、血肉を相手にするものでなく、…さまざまの悪の霊との戦いである。
正義を胸当てとし、平和の福音を宣べ伝える準備が履物、信仰を盾とし、霊の剣ー神の言葉を取れ。(エペソ書6の12)
そしてこの霊的な戦いは、表面的に平和な国であっても、また戦争にかかわっている国であっても、国の大小、国土や経済力の大小にはいささかもかかわりのない戦いである。
死のまぎわになっても続く戦いであり、私たちはただ、主を仰ぎつつ、主の愛と正義の力が臨み、悪の力が滅ぼされるようにと祈る。
しかし、40年続いた四国集会、また全国集会などで知り合った人のち、何十年もの信仰に生きた人であっても、老年になってその信仰から離れていく人もじっさいに複数の方を知っている。
それは 幼な子のように主を見上げ、信じ続けていくことを止めさせようとる闇の力との戦いに敗れた結果だといえよう。
目を覚ましていなさい、と主は繰り返し言われた。それは一日一日が霊的な戦いの日々であることを忘れるなということでもあり、魂の目が眠っているときには、いとも簡単に私たちは、サタンに足をとられて倒されてしまう。
現実の私たちはなんとしばしばそうした神様の愛や真実に反する力との戦いに敗れていることであろう。
そのような私たちをすべて見抜いて知っておられるゆえに、主は、その最後の夕食のその終わりの言葉に、次のように言われたのだった。
…あなた方はこの世では苦難がある。しかし、私はすでにこの世に勝利している。(ヨハネ16の33より)
弱いからこそ、信じるのである。信じようとする意志が神に祝福されて、何とかこの世の力に勝利することができている。
使徒パウロは、著しい困難や死の危険にさらされるような数々を経験しつつ、多くの人々に福音を宣べ伝え、神の国のために働いたが、それは決してパウロ一人の働きでなく、背後に彼を支えた多くの人々がいた。
彼の書いた書簡、使徒言行録などにそれらの一端が記されている。そのなかのひとつ、コロサイ書には次のように多くのパウロの協力者の名前が記されている。
… オネシモ、 アリスタルコ、そしてバルナバのいとこマルコ、 ユストと呼ばれるイエス、エパフラス、 愛する医者ルカとデマス、 ラオディキアの兄弟たち、および、ニンファと彼女の家にある教会の人々…
(コロサイ書4の9〜17より)
新約聖書で福音書についで最も重要なローマ書の最後の部分にも、多くの名前が、彼の協力者であったことで記されている。
私たちは、聞き慣れない人名がほとんどであり、ローマの信徒への手紙がきわめて重要だと認識している人であっても、この最後の16章の重要性についてはあまり触れていない。
パウロの大いなる働きは、神が支え、聖霊によって力与えられ、導かれたものであった。そして語るべきは単なる思索や瞑想でこの世の考え方を思いめぐらすのでなく、啓示されたことを率直に述べたものだった。
しかし、それでもなお、パウロは多くの人々に支えられて伝道の働きが可能となった。神がそのような人々を彼の周囲において、生きた人間同士の助け合い、支え合いがあったからこそ、彼は現実の伝道の働きを継続することができたのである。
ロマ書の最後の部分で、次のように多くの協力者の名前があげられている。
…ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェベを紹介します。
どうか、聖なる者たちにふさわしく、また、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてください。彼女は多くの人々の援助者、特にわたしの援助者です。
キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。
命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。また、彼らの家の集会の人々にもよろしく伝えてください。わたしの愛するエパイネトによろしく。 彼はアジア州でキリストに献げられた初穂です。
あなたがたのために非常に苦労したマリア、わたしの同胞で、一緒に捕らわれの身となったことのある、アンドロニコとユニアスによろしく。この二人は使徒たちの中で目立っており、わたしより前にキリストを信じる者になりました。
主に結ばれている愛するアンプリアトによろしく。
わたしたちの協力者としてキリストに仕えているウルバノ、および、わたしの愛するスタキスによろしく。真のキリスト信者アペレによろしく。アリストブロ家の人々によろしく。
わたしの同胞ヘロディオンによろしく。ナルキソ家の中で主を信じている人々によろしく。
主のために苦労して働いているトリファイナとトリフォサによろしく。主のために非常に苦労した愛するペルシスによろしく。
主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。
アシンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマス、および彼らと一緒にいる兄弟たちによろしく。フィロロゴとユリアに、ネレウスとその姉妹、またオリンパ、そして彼らと一緒にいる聖なる者たち一同によろしく。(ロマ書16の1〜15)
このような多くの名前を貴重なローマの信徒への手紙に書き綴ったということは、それほどここに記された人たちの働きが大きく、それらなしにはパウロは伝道の働きをつづけることできなかった。
じっさい、最初に記されたフェベという女性は多大な援助をパウロに与え、またプリスカとアキラ夫妻は、命がけでパウロの命を守ったと記されている。
福音の伝道、そしてそれが二千年後の我々、また全世界に広がっていくために、初期の弟子たちには、強力な共に働く仲間たちが与えられていたのである。
私たちは何のために働くのか、そしてそのために共に働いているだろうか。
それは、当然のことながら自分や家族を支えるためのさまざまの生活費を得るためである。
また、報酬も目的であるが、他方、現在のコロナ禍で見られるように医者、看護師は病人のため、あるいはできるだけ自然の農産物を生産して人々に提供しようと願う農業者や、子供たちのよりよき成長のためにと教育の分野で働くなど、その仕事に使命感を持って従事する人も多い。
しかし、病気や障がいなどで自由に動けないとか、寝たきりの人は働けるのか。寝たきりの人はどのような仕事もできない。視覚障がい者も、医者や運転手などにはなれない。
しかし、いかなる人でもできる仕事、しかも最も永遠的であり、ほかの人の仕事を奪うことでもない。
それこそは、「神の国のために働くこと」である。 そのために、祈ることである。
祈りによって、 お金を報酬として受けることもなく、この世の地位が上がることもない。
しかし、全てを所有しておられる神から、霊的な賜物を与えられる。
神の国とは、真実な愛、真実、正義、また力の満ちた世界であり、だれでもが、たとえ寝たきりとなろうとも、また、日常生活の中でも、通勤などで歩いている時であっても、神の国のために、一人でも二人でも、また周囲に人が群がる電車などの中であっても、まわりの一人、二人でもその人たちのことを覚えて祈る…等々が 地上に神の国をもたらすために用いられる。この世界でいつの時代でも最も欠けているのは真実な愛だからである。
イエスは、宣教をはじめてから、愛と真実をもって神の国のために働かれた。
私たちもそのような主にある愛と真実を少しでも注がれて祈ること、それは霊的に神の国のために働くことになる。
生きて働くキリストによって私たちは、詩編23篇にあるように、支えられ、導かれる。
しかし、信仰ある人によっても励まされることもしばしばである。さらに、それは生きている人でなくとも、その信仰の人が書いた書物によってもそこに聖霊が働いて読む人に大きな力が与えられることもある。
神の国のために共に働く者、それは多くはない。しかし少ない人であっても、そこに聖霊が働くときには大いなる力となる。
神の国のために働くためには、聖霊が与えられる必要がある。そうでなければ、どのように正しいことであっても、人間の奢り、高ぶりにつながることが多い。
しかし、聖霊が注がれるときには、命さえ惜しまないほどに、神の国のために働く心がおのずから生じるのは、聖書や二千年のキリスト教の歴史を調べると明らかになる。
神の国とは神の愛や真実、正義による御支配のことであり、それゆえに、神の国のために働くとは、神の愛、真実のために働くことである。
福音が現在まで伝わってきたその過程は、単独で特別な天才がしたのではない。神の力をすべて与えられていたキリストも、地上の生活のときには、12人の弟子たち、そして多くの女性たちに日常生活を支えられて伝道の働きを継続されたのであった。
…イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。
悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。(ルカ8の1〜3)
パウロもまた、このコロサイ書やロマ書の最後の章に記されているように、多くの人々の祈りと、いろいろな支えによって伝道の働きをつづけることが可能となったのであった。
私自身も、小さきものながら、過去50年の間、徳島の集会の方々、そして「はこ舟」その後身の「いのちの水」誌、また四国集会や全国集会、さらに「祈りの友」の方々などを通して、多くの方々と関わりを与えられ、そうした人たちに祈られ、支えられて御言葉を伝えるささやかな働きをつづけることができてきた。そこに深い共同のはたらきの恵みを思うし、その背後に生きた主が導かれたのを感じる。
オリンピックとキリスト者といえば、映画「炎のランナー」で広く知られている、エリック・リデル(1902年1月〜1945年2月)が思いだされる。
リデルは、中国への宣教師の息子として中国で生まれた。6歳になって祖国のスコットランド(*)に戻り、学校に通う。両親は宣教師であり、二人の子供たちをスコットランドに帰しての宣教生活であった。家庭生活の喜びを神に捧げ、子供たちの成長も神に委ねての生活であった。それゆえ、リデルは、両親とは年に数回わずかの期間ともに過ごすのみであった。
(*)イギリスが現在のように連合王国となったのは、1927年なので、リデルの若き日、25歳までは、彼の祖国の名はスコットランド。この年に、現在の名称「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」へと改名した。イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの四つが合同してひとつの連合王国となった。現代にあって、しばしばスコットランドが独立しようとする運動が見られる。
ヨーロッパから中国に行くには、スエズ運河を通ってインド洋を経由していくと、約1万8千キロ、大西洋を航行し、パナマ運河経由、太平洋を通ると、2万3千キロほどにもなる。
日本では 九州(福岡)から北海道まで、1500キロほどであるからいかに長大な距離であるかがわかる。このようなはるかな未知の国へとただキリストの福音のために、家族とも別れて出向いていくということは、人間の感情をはるかにこえるものー神の強い働きかけとその実行のための力が与えられるのでなければ考えられないことである。
リデルは、1924年のパリでのオリンピックの陸上競技の短距離の英国代表として100メートルの選手として出る予定だったが、その競技の日が日曜日だったので、礼拝を第一とする信仰ゆえに、その出場を辞退した。しかし、すでにメダルを獲得した友人が自分の出場する400メートル競争の枠をリデルにゆずった。その日は日曜日でなかったから、リデルが出場することが可能だったからである。
その400メートルは世界新記録であり、その記録はその後20年間は破られなかった。さらに、その数日前の200メートルでも銅メダルを獲得していた。
また、のちに、リデルは、国ごとに4人ずつ選手を出すリレー競技で、イギリスを勝利に導いた。そのときは、彼が4人のうちの最後の走者としてバトンを受けとったとき、イギリスは最下位だったが、リデルはほかの全ての選手を追い抜き、優勝したという。(**)
(**)「闇に輝くともしびを継いで」スティーブン・メティカフ著 46頁。(いのちのことば社) この著者は、日本軍が中国に侵略して捕らえられ収容所に入れられたとき、エリック・リデルと出会った。当時自分たちを苦しめる日本の軍人に対しても、リデルによって、敵を愛するとは、彼らのために祈ることだ、と深く教えられ、日本人に対する考えを大きく変え、日本人の救いのために働く宣教師となって、1952年に来日。 以後38年間日本での宣教に従事した。
リデルは、陸上競技のほかに、ラグビーでもスコットランド代表であり、スポーツの指導者的存在となっていた。 しかし、大学卒業後には、そうしたスポーツ方面の栄光をすべて捨て、両親の働いていた中国に、宣教師として行く決断をしていた。
1931年に満州事変(実質は中国との戦争)となり、外国人は、中国に居ることは危険となったので、リデルは、妻と3人の娘たちを妻の祖国であるカナダへと送り出し、一人中国に残って宣教をつづけた。
しかし、1943年にリデルは日本軍によって捕らえられ、収容所へ入れられた。その2年後、1945年に43歳で病死。
リデルの働きを映画化した日本での映画の題名は、「炎のランナー」であるが、原題は、「Chariots of fire」 (火の戦車)であって、聖書からとった題であるが、日本での題名はまったくスポーツ映画のように受けとられるであろう。これは、単なるスポーツ映画でなく、キリスト教の内容が背後にある。
その原題は、すでに述べたように旧約聖書にある預言者エリヤがその使命を終えて天に帰るとき、「火の戦車」に乗って天に上ったと記されている。
エリヤは、今から2900年ほども昔の預言者。神の国のための霊的な戦いを終えて、彼が神から与えられた力を象徴する火の戦車に乗って天に上っていった。
…彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った。
エリシャはこれを見て、「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と叫んだが、もうエリヤは見えなかった。エリシャは自分の衣をつかんで二つに引き裂いた。 (列王記下2の11〜12)
この映画のタイトルに、 預言者エリヤが天に上っていくときの「火の戦車」という名称が用いられたのは、 リデルも、地上の火の出るような霊的戦いを全うして、天に帰っていったことを意味している。
しかし、その映画題名が、日本語訳の「炎のランナー」と訳されると、その主題そのものが別のもののように受けとられてしまう。翻訳ということの限界がここにも見られる。
このエリック・リデルは、オリンピックや国内外でのスポーツでの目ざましい活躍により、祖国スコットランドにて国民的英雄となった。しかし、それらのこの世の栄光、安楽、生活の豊かさというものを全てを神にささげ、リデルは、中国での危険な福音伝道に生きることを選んだのだった。
それは、現代のオリンピックが選手もその団体も国などもみんながをおびただしい時間や多額のカネを用いて、金メダルなどのメダル獲得を目指し、それが最も重要なことであるかのように思い、またそのように報道もされることといかに大きな違いであろうか。
リデルのことを思うとき、使徒パウロのことが、思いだされる。
パウロは、キリスト者となる前は、ユダヤ人の指導者、学者であり、家柄もよく、豊かな生活も約束されていた。しかし、キリスト者となってからは、そうした安楽をはるかに越える豊かな目に見えない祝福の世界を与えられて次のように記している。
…しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。
わたしは、主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、… (フィリピ書3の7〜8より)
リデルの生き抜いた跡を見るとき、彼がそのような困難な生活を選びとって生きたということのなかに、いかに彼が神(キリスト)から受けた恵み(祝福)が大いなるものであったかがうかがわれる。
それは、目にはみえない恵みであり、ただ聖なる霊を注がれたもののみが実感できるものである。
そのような恵み、大いなる力は、ただ神とキリストを信じるだけで与えられたのであった。
リデルのような生き方は我々にはできない、関係がないーと受けとるのでなく、私たちも小さなそれぞれの持ち場にあって、真剣に信じて求めるときには、リデルに与えられたような祝福の一端が与えられる。
そのことは、「求めよ、さらば与えられん」という言葉の通りであり、私達もまた、何もこの世に貢献できない弱いものであっても、またこの世でいかにほめられることなくとも、また罪を犯して周囲から見下されようとも、ただキリストを信じて求めるだけで、リデルに与えられたような、周囲のあらゆる状況にもかかわらず、深い魂の平安2323を与えられることを指し示している。
新型コロナウイルスによって、連日東京では4千人、5千人といった多数の人たちが感染し、医師、看護師その他の医療関係者は、日夜奮闘し、一人の命を助けようと懸命にやっているさなか、オリンピックは政治的意図、カネの力によって強行された。
そして、オリンピック招致段階から、多額のカネが注ぎ込まれ、本来不要な競技場など関連施設が巨額の費用を注いでなされ、オリンピック後の管理、維持にも多額の費用を要する、ということも最初から懸念されていた。選手やその指導者、団体は、金メダルなどメダルを目指しておびただしい時間やカネが注がれてきた。
会場の建設関係にしても、福島など各地の災害被災者のための復興のために使われるべき費用も、建築作業者たちも多くが、東京に引き寄せられてしまった。
そのメダル数ー金メダルの上位は、アメリカ(39個)、中国(38)、日本(27)、イギリス(22)、ロシア(20)、オーストラリア(17)、ドイツ、フランス、イタリア(10)などであり、経済大国がずらりとならんでいる。金メダルを10個以上獲得したのは、200国ほどの参加国のなかのわずか10カ国にすぎない。
これらをみても、金メダルは、そのまま金(カネ)の力を豊かに持っている国々だというのが一目瞭然である。
今回のオリンピック、東京都と国の「大会経費」と「関連経費」の合計額は、都が1兆4519億円、国が1兆3059億円になるという。 チケット収入は900億円が無観客となったために入らなくなったし、観客を入れての開催を想定して会場の資材や飲食物の調達契約を結んでいるから、無観客になっても業者への支払いは残る。オリンピックのための特別な感染対策費も巨額となっており、そのようなさまざまの費用のために、オリンピック後の追加費用はそれらだけでも、2千億円にもなろうかという。
それらの合計は、3兆円にも及ぶと推測されている。
前回のブラジルのオリンピックでも、一般の人たちから強い反対を押し切って強行されたが、巨額の費用を注いで建設した大型施設は、オリンピック後、使われることもなく荒廃し、大型競技場がすでに廃墟と化しているのを写真報道で見て驚いたことがあった。
一番になる、金メダルを獲得するほどに上位になろうということは、相手の弱点を必死にねらって相手を攻撃して勝つということになる。 これは、少しでも弱い立場の人たちを助けようという福祉的発想とは逆である。
内乱で生きることさえ困難で、国内外にて難民生活をしているような国々、また食べること、医療さえまともにされない貧しい国々からの選手と対戦するとき、そうした弱い立場の人たちに勝たせてあげようなどという選手はまずいないであろう。国からわずか数人しか参加していない国々のスポーツレベルは低いのは当然のことである。
オリンピックが交流に役だつという人たちがいる。しかし、それなら、さまざまの国々、とくに貧しい国々の人たちを招待して、オリンピックのように一番を取るのを目的とするのでなく、日本の各地で、既存の会場、施設を用いての交流試合をして、そこで地元の人たちとの交流もするーそのような内容のスポーツ交流大会を ひとつに1億円をかけるとしても、日本の全部の都道府県で、それぞれ違った国を招き、開催しても、五十カ国ほどの国々を招くことができるし、五十億円ほどあれば足りる。
そのような交流大会がはるかに、各国のよさも特性もよく分るし、参加した国々の人たちからも感謝されるスポーツ大会となるであろう。
聖火リレーなどにも巨額の費用が投入されているが、もともと戦前のドイツの大会のとき、ヒトラーが国威発揚のためにはじめたものであったし、ギリシャからドイツへの聖火を運ぶ道筋の調査研究は、その後のヒトラーのバルカン半島侵略の重要な経路となった。 今回のオリンピック、それは、強者の祭典ゆえに、その開会式などの重要な音楽担当者とか、開、閉会式の演出者(ディレクター)のような重要な地位にあった人々の中に、小中高校時代という長い年月にわたって弱い障がい者を、聞くに耐えないようないじめで苦しめて、大人になってもそれを笑いながら語るなどという考えられないような人が選ばれたり、有名女性タレントを豚として演じさせようとしたり、またヒトラーによるユダヤ人虐殺をお笑いのなかで取り入れるなど、弱者を無視、あるいは踏みにじるような言動をした人たちが次々と開会直前になって明らかにされた。
オリンピックがもともと、弱者を励まし、力づけ、食べることさえ困難な幾千万の人たちをはげますなどということと全く異なる強者の祭典ゆえに、そのような人たちがオリンピックの開会式など重要な場面に選ばれることにつながったといえよう。
オリンピックは、巨額の費用でメダルを競い合う大会ではなく、弱き国々、また貧しい国々、そしてそこに住む人たちを主体とし、むだな巨費を注がずに、多くの多様な国々との平和的交流を目的としたものへと、根本的な改革を必要としている。
8月になると、例年、核廃絶ということがテレビ、ラジオ、新聞等々で多く報道される。
しかし、そうした報道では、そこで戦争廃絶 という言葉をほとんど見ることはなく聞くこともない。したがって戦争廃絶を悲願として生まれた憲法9条を守ろうということも、広島や長崎、その他で行なわれる敗戦記念日でも、代表の子供の発言のなかにも、核兵器を止めよう、というのは毎年言われるが、だからこそ憲法9条を守ろうという発言はこうした原爆の記念日でも公の場では広島市や長崎市の市長の平和への宣言でも不思議なほど耳にしない。それは自民党など憲法9条を変えようとする勢力に配慮してのことであろうし、戦争廃絶はしないという武力に頼る考えが根強く存在しているからである。
そして核兵器は一発で広島、長崎の数十万の人の命を奪い、家庭も家々も破壊し、かも70年を経てもなお生き残った被爆者の苦しみは続いている。そのような非人道的兵器だから廃絶すべきだというのは当然であり、だれもが納得するだろう。
しかし、それなら、空襲で一晩で10万人ほども死んだが、そのような爆弾は非人道的ではないのか。また、太平洋戦争のとき、中国をはじめとするアジアの国々で行なった日本軍の数々の残虐行為は非人道的ではないのか。朝鮮半島の人たちに、強制的に神社参拝、天皇崇拝を、そして従わない者を連行して厳しく処罰し、日本語を強制し、名前まで日本人のように改名させるなどしたのは、非人道的ではないのか。さらにずっと昔の秀吉の時代に、日本から大軍を朝鮮半島に派遣し、村々を焼き払ったり、多数の朝鮮の人たちの鼻を切り取って戦果として持ち帰ったような残酷な行為は非人道的でないのか。
爆弾や核兵器など何も使わずとも、刀一本でも非人道的なことはいくらでもなされる。
それゆえに、武力でなす戦い、戦争こそ廃絶すべきであり、核兵器もその戦争の過程で使われてしまったのであり、戦争そのものを廃絶するなら、核兵器なども当然廃絶ということになる。
しかし、核兵器廃絶をいくら言っても、戦争はしてもよいのだなどと言っていれば、核兵器所有国は戦争になったら使おうとして廃絶することはない。それゆえに、現在のように核兵器がいろいろな国々に拡散している状況がある。
核兵器を核の傘が必要だといっていろいろな国々が認め、そして大国はその核兵器を一種の脅迫の道具として競争して配備するという状況があれば、全体としてますます世界は危険になっていくのは当然である。
本当のあり方は、戦争は決してしないという憲法9条の精神をもとに、それを守るためにこそ、核兵器、戦闘機、潜水艦などの脅迫の道具をかざしての見せかけの平和でなく、互いによきことを、とくに豊かな国々がオリンピックなどに巨額のカネを使うのでなく、そのようなカネや膨大な軍事費に変えて、友好、交流、福祉的な目的のために国外からいろいろな国々を招き、また、海外派遣団などを創設し、そういうところにエネルギーや費用を使う方向へと進むのが本当の平和につながるーこのようなことは、本来は被爆国、そして近隣の中国や朝鮮半島の人たち、フィリピンやビルマ等々、東南アジアの国々にも多大な苦難を与えてきた日本こそ率先して唱えて実行していくべきことである。
木星、土星など
天候不順や猛暑の続く日々ですが、暑さのやわらぐ夜には、星空を見つめることも魂の清涼感を与えられます。
現在の夜空は、夜10時ころには、南東の空に木星が強い光で語りかけるように輝いているがただちに目に入ります。
そしてその右には、少し離れて土星が木星よりは弱い光ですがすぐに目にとまります。
真上を見上げると、鷲座のアルタイル、こと座のベガ、白鳥座のデネブなどの一等星が並び 今年の夏から秋にかけての夜空は木星を中心として強い光の星々が集って見えて、天からの光のメッセージを注ぎつづけています。
私は、毎夜、晴れているときには外にでて見ています。
まだ木星や土星を今年になってみたことのない方は、是非晴れたときの夜空を仰いでみてください。
祈りの友 合同集会
今年も例年のように祈りの友 合同集会を開催予定です。新型コロナウイルスのために、コロナ以前のように県外からの参加者を徳島会場に迎えることは難しいかもしれませんが、その場合でもオンライン併設の集会としてなされる予定です。
日時…9月23日休日 午前11時〜16時 (途中 昼食休憩あり)
内容…自己紹介、祈り、近況報告、祈りに関してのメッセージ、讃美タイム 、
午後3時の祈り。申込は、貝出久美子まで。
編著者・発行人 吉村孝雄(徳島聖書キリスト集会代表)
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番号は、〇一六三〇ー五ー五五九〇四
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