2020年1 月 号 第731号
暗闇に住む民は大きな光を見、 死の蔭の地に住む者に光が射し込んだ。(マタイ福音書4の16) |
目次
(讃美歌21の368より )
新しい年を迎えて
新しい歌をうたおう。
無きものをあるがごとくに
呼びたもう 神をたたえて
新しい 歌をうたおう。
過ぎ去った日々の悲しみ、
さまざまな憂いはすべて
キリストのみ手に委ねて…
み言葉に励まされつつ
欠け多き 土の器を
主の前に すべて捧げ…、
自分だけ 生きるのでなく
みな共に 手をたずさえて、
み恵みが あふれる国を
地の上に 来たらすような
生きかたを…
私たちは、無きに等しいもの、さまざまの過ちー罪ゆえに、神の目からみれば無きに等しい者。
それでもそのような者をも見つめて日々呼びかけてくださる神、そのような神に感謝して、新しい心で神への賛美ができるように導かれたい。
私どもは、それぞれに、過去のいろいろな自分も含めた人間の罪ゆえの、あるいは、病気や事故、災害など、さまざまの悲しみや憂いがある。
「重荷を背負っているものはわがもとに来たれ、魂に平安を与えよう、」といわれる主に委ねて歩ませていただきたい。
私たちを最後まで励まし、慰めるものーそれは神の言葉。 人の言葉もときには大きな慰めになることもあるが、一時的である。
それに対して、神の慰めや励ましの語りかけは、一人きりになっても続き、生涯続く。私たちが神への信頼を捨てない限り。
主は、私たちがいかに欠け多きもの、罪深きものであっても、幼な子のような心もて主を仰ぐときには、御言葉もて語りかけてくださる。
私たちは自分だけでは決して生きることはできない。これは信仰の有無にかかわらず言えることで、衣食住というすべてにわたって自分以外の数知れない人たちの力、働きのおかげである。 けれども、私たちの魂が本当に生きるためには、人の助け以上のもの、神の言葉とさらに、互いにその弱さを補いあう祈りが必要となる。
祈りという、いわば心の手をたずさえて歩むことの重要性を思う。
だれでも新しいことを常に求めている。ニュースとは、その名のとおり、新しいことでなければいけない。そのために、いかに価値ない内容ー人為的な火災を発生させたりした結果多くの人たちが生命を失うなど、闇の力を知らせるようなことであってもニュースとして大きく報道したりする。
知らせることでいっそう悪の力がひろがるようなことになることまで、全国に知らせてしまう。
また、スポーツは、たえず勝敗が変化する、偶然的な要素が多い。風や雨があったり、一瞬の行動に出る時間が遅れると、勝敗が変る。野球やサッカーなどの球技も、またレスリングやボクシングといった競技もつねにそうした偶然的なことがかかわっている。
それゆえに、その競技を見ているとき、つねに変化があるゆえに、ある種の新しさを感じさせて、気晴らしにもなり、人々を引きつける。
また、地上でもいくらでも、困難な問題があるにもかかわらず、月とか惑星の探索に巨額の費用をかけていくこともなされている。月にしても、空気もなく真空であるうえに有害放射線の降り注ぎ、かつ表面温度は、最高は百度を越え、最低は氷点下二百度を越えるというほどの極度の厳しい状況にある。さらに、引力が地上の六分の一しかなく、それも長くその状態が続くと、健康面での悪影響が人間にも及ぶ。そのような月は、およそ人間が生きる環境ではない。しかし、その月に資源を求めるとか、未来に移住するとか、そこでの新しい支配権を獲得しようとするなど、およそ永続的にそこで生活など考えられないにもかかわらず、そんなことが言われたりするのも、新しいことに飛びついて人の関心をえようとする人間の本性のゆえである。
こうした一般的な風潮に対して、根本的に異なる方法で、新しい道を提供するのが、聖書の世界である。
聖書においては、やはり新しいことの重要性が最初から一貫して告げられている。
闇と空虚、空しさ、混沌のただなかに、聖なる風が吹き続け、神が光あれとの言葉によって光が存在した、それは、本当の新しさが何によって生じるかの、深いメッセージが込められている。
闇や何もない空しさ、そこに神の聖なる風が吹きつづけ、光あれ!との神の言葉によって光が存在するようになる。
光こそは、そして神からの聖なる風こそは、あらたな力となり、新しきものを見いだすことにつながる。
まったく同じようなものであっても、その神の光と風(聖霊)によって私たちは、新しきものを実感することができる。
神からの光、そして風(聖霊)は、現在の私たちにおいても、闇とそれによる空しさ、その悲しみや苦しみを経験するそのただなかに、も、ただ神を信じて求め続けることで、その時至るならば与えられ、そしてそこから何も変化のないように見える生活のなかに、つぎつぎと新しいものを見いだし、新たな力を与えられるきっかけとなっていく。
このように、聖書の最初から、本当に新しいものはいかにして与えられるのか、という道筋が預言のように記されているのである。
出エジプトに示された、モーセによるエジプトからの解放、そして途中でのエジプト軍の追跡にあい、前は海となり、絶望的状況となったときに、神はモーセをとおして海の水が別れ、歩むべき道が開かれ、そこからシナイの山にいたって、神からの直接の啓示を受けて人間に根本的に重要な十の戒め(十戒)を受けるという大いなる体験が与えられた。
このときも、生きるか死ぬか、という絶望的な体験を通って、神の大いなる力と愛に関して、根本的に新しい経験が与えられたのである。
その後の、ダビデや預言者エレミヤなども、大きな苦難に遭遇した。それらも、そこから深く新しい体験を啓示されて自分だけでなく、後世の人々にまで大きな影響を与えることになった。
そしてキリストこそは、そうしたあらゆる人々の心の深みにあって、深い悲しみと苦難を受け、最期のときには十字架上でまで、重罪人からもあざけられ、釘で打ちつけられて絶望的ともいえる叫びを残して死なれた。
その深く重い苦しみや悲しみによって私たちは、歴史上でかつてない新しい、天に至る道を開いていただいた。
キリストの十字架こそは、あらゆる人にただ信じるだけで、どのような状況におかれても、永遠に新しい天の国を見ること、天の国に入ることが与えられるという恵みの姿なのである。
神はキリストがじっさいに歴史の上でなされたように、私たちもまた、はるかに小さな規模であっても、苦難によって、また深い悲しみによって新しいことを体得させようとする。
罪は日々犯す、しかしそのたびに主を仰ぐときは、その罪赦されて、また新たにされるという恵みを与えられる。このことを使徒パウロは次ぎのように述べている。
「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれた。」(ローマ書5の20)
キリストが、苦しみ辱められ、最後には、十字架に釘打たれて死ぬという想像もできないほどの苦しみのうちに死なれたのは、私たちの罪を担い、それを赦すためであったという驚くべき福音は、キリストより500年以上も昔に、預言者によって次ぎのように預言されていた。
…彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。我々も彼を尊ばなかった。
まことに彼はわれわれの病を負い、我々の悲しみを担った。
しかし、我々は思った。神にたたかれ、苦しめられたのだと。
しかし彼は我々の罪のために傷つけられ、われわれの不正のために砕かれたのだ。
彼は自ら苦しみをうけて、我々に平安を与え、その打たれた傷によって、我々はいやされた。
我々はみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。
主は我々すべての者の不義を、彼の上におかれた。
彼は迫害され、苦しめられたけれども、口を開かなかった。殺される小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。…(旧約聖書・イザヤ書53章より)
現代において、だれかが書き残したことが、500年以上もたって、しかも世界を変革するような重大なことになる、などといったいだれが信じるだろうか。
旧約聖書には、こうしたほかの書物には到底ありえない深い歴史を超えた洞察、預言が満ちていて、心して読むものにたえず新しいものを与えてくれる。
ことに旧約聖書の詩篇は、非常な苦難、敵対するものとの戦いや病気、国家的苦難等々に翻弄されるなかから、沈んでしまうのでなく、そこから神を仰ぎ、つねに新たな地平を見いだし、そこに新しい力と洞察を与えられて苦難を越えていくすがたが、三千年という歳月を越えて波のように伝わってくる。
使徒パウロは、次のように、苦難によって与えられる新たな世界を記している。
… 神は、あらゆる苦難に際して私たちを慰めて(励まして)くださるので、私たちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができる。 (*)
私たちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになる。
また、私たちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたが私たちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができる。
あなたがたについて私たちが抱いている希望は揺るがない。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、私たちは知っているからである。…
私たちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまった。死の宣告を受けた思いであった。(Uコリント1の3〜9より)
(*)ここで「慰め」と訳されている原語は、パラカレオーで、これは、パラ(側で)+カレオー(呼ぶ)ことから成る。そばで呼ぶ、叫ぶ、それによって慰める、励ますと意味になる。英訳でも多くが comfort と訳しているがこの言葉ももともとは、ラテン語の confortare (to strengthen)力づける という言葉にある。com 共に、fort は力を意味する言葉から。 そこから fortress 砦 という言葉も派生し、音楽用語はイタリア語からのものが多く、fortissimo(フォルティシモ、極めて強く)といった言葉にもみられる。英訳のなかにも、comfortではなく、encourage(励ます)を用いて、次ぎのようにそのことをよりはっきりと反映させている訳もある。
4節 who encourages us in all our trials, so that we can encourage others in whatever trials they may be undergoing with the encouragement we ourselves have received from God. (2Co 1:4)
パウロは、数々の苦難を経て御言葉を伝えた。それは次ぎのような彼自身の言葉によってその一部を知ることができる。
…しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともあった。…
(Uコリント11の26〜27)
このような数々の苦しみを神は、その愛する弟子たるパウロに与えたのであって、人間の母親の愛とはまったく次元のことなる愛なのである。母の愛は、そうした苦しみに遭わせないようにと苦心する愛であるが、神の愛は、そのような死に瀕するような苦しみを数々与えることによって、そこに神の励ましの力、慰めの心を植えつけ、それが他者に及ぶようにされたのだった。
今後のそれぞれの歩み道において、どのような困難が生じるかわからない。この世界もどうなっていくのかもわからない。
しかし、聖書に記されているように、神はどのような困難からも救ってくださる力を持っておられる。だれもが向っている死ということからも救ってくださり、復活の新しい霊のからだを与えられると約束されている。
「…(私は)死者をも復活させる力のある神を頼りにしている。私たちは神に希望をかけている。
あなた方も祈りで援助してほしい」とパウロは述べている。
(Uコリント1の9〜11より)
私たちも二千年前のこのUコリント書のはじめに述べられたパウロの確信と願いをともにして歩ませていただきたいと願っている。
老年とはますます自分の弱さ、人間の弱さを思い知らされていく過程であり、そこに最後に残されたはたらきの場としての祈りの場が開けている。
そして「弱きところに神の力によって強い」(Uコリント 12の10)という聖書の言葉の事実を体験するためにも、パウロも述べている、互いの祈りの重要性を思う。
我々の先祖、イスラエルの神、主よ、あなたは永遠に賛美されるべき御方。
偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。
まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。
主よ、国もあなたのもの。…
あなたは万物を支配しておられる。
力は御手の中にあり、またその御手をもっていかなるものでも大いなる者、力ある者となさることができる。
我らの神よ、今こそ我らはあなたに感謝し、輝かしい御名を賛美します。
神殿への捧げ物ができるとしても、私など果たして何者なのか。わが民など何者なのか。
すべてあなたからいただいたもの、御手から受け取って、差し出したにすぎないのです。(歴代誌上29の10〜14より)
----------------------
これは旧約聖書の歴代誌上におけるダビデ王の最後の祈りとなっている。これは、エルサレムに神殿を建てることに関して、ダビデの子のソロモンがじっさいに神殿を建てることになるが、そのためにダビデは必要なさまざまの金銀の財宝をささげた。そして民にも呼び掛け、ささげるものを募ったところ、自発的に進んでささげるものが相次いだ。そして神殿を建築する準備が整えられるにいたった。
そのことに対しての感謝の祈りである。
その内容は、まず主をたたえたことが記さる。 人間は様々な目に見えるもの、目に見える業績をたたえている。これは、新聞やテレビみんなそうです。スポーツ界では最大のものは、オリンピック金メダル。あるいは学者であればノーベルプライズ。
しかし、聖書の精神から考えるとき、一番ほめたたえるべきものは何か。それらすべてを実は神様が与えている。その能力にしても、それを支える健康や研究機関など何であってもそのもとは神が与えたのであって、一番大事な神様を感謝して賛美することだ、それゆえに、まず、主こそは永遠に賛美されるべき御方なのだと言われている。これはまったく、この世とは違うところ、この世では絶えず、何かで1番になった。もうそれを絶えずほめたたえている。
聖書の世界ではそういうことではなくて、まず神をたたえる。神はこの11節で、「偉大さ、力、光輝、威光、栄光 」等々、大いなるものはみんな神様が持っている。言い換えて、天と地にあるすべてのものは神様のものだ。国、支配。それも全部神のもの。
こういうこの短い一言が非常に意味深い。普通は、何かをもっていると誰それが持っていると思う。しかし、本当はその背後で神様が与えて委ねてある。神様の持ち物だ。こういうことあんまり考えないのではないか。
机上に飾られているこの花も、実は神様のもの。美しい花を作るためには様々な技術が要る。これはツルウメモドキで山に野生している植物、それは、神様が創造したのです。この美しさの根源を、神様が持っているからこの植物に独自のものとして与えた。
また、もう一つのストックにしても、その中の非常に複雑な化学反応で、こういう青色の美しい花びらも姿もできている。葉っぱの一つ一つも。それを作っている細胞の中に非常に複雑な化学反応、それを取りしきっているさまざまな酵素、化学物質。そうしたすべては、人間が造ったのでなく、人間よりはるかに昔に自然に存在するようになったーすなわち、それは全部神様が創造したものだ。
それらの化学物質を構成する一つ一つの原子や分子、そういうものもみな神様が創造したゆえに、このように存在している。品種改良したということもあるが、その品種の元はというと、人間の存在するはるか以前から存在していたと考えられる。最古の植物はいまから30億年以上も昔に始まったと考えられている。そういうようなことですから、この聖書の一言、「すべてのものは神様のものだ」ということ、読めば、ただ、一瞬で終わる短いもの。しかし、その一つ一つ意味を考えたら長大な歴史が背後にあるし、それらの私たちに対する霊的な意味となると、わかったということがないほどの深さがある。
いつもどこかで吹いている風も神様のもの。愛と信実を本質として持ち、しかも全能の神のものであれば、無意味なものはない。いかに微細なもの、無視されているような生き物、また自然の風の一つ一つの様子や雨の一つ一つみんな意味がある。神の全能の愛は、どんなことにも愛をこめることができる。
この短い言葉―「まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの」によって、ここに述べたさまざまの意味が込められている。
しかし、「偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの」とあるが、光輝、威光、栄光など、具体的にはどういうことなのことか、わかりにくい。光輝とか威光などは日常ではほとんど使われない言葉であり、栄光といっても、何かのスポーツで優勝などすると、栄光の優勝などといったりする以外はあまり耳にしない。
こういう点は、英語、外国語のほうが、より明確に示すことができる。
主が持っておられるものとして、さきほどの日本語訳に対して、英語では、the greatness, the power, the glory, the victory, and the majesty (NRS)と訳されている。
英語では、greatness と訳されるが、これは、霊的な意味でもある種の重々しさが伴う言葉。美しさにしても、神の創造した美は、世界的な芸術家などははるかに及ばない無限の深み、広がり、そして力あり、そのうちに清さがある。天の広大な広がりのなかに日々その内容が変えられて提示される。
私、昨日の夕方、わが家から、二キロ弱のところに海が広がっている公園があり、折々に行くことがあります。そのとき、夕焼けが、大空全体にわたって広がっている光景に遭遇した。見ていると、徐々に色も美しく色合いも異なって変化していく。しかも動いている。それが天空全体に描かれている動画であった。どんなに芸術家が努力しても、その大空の美と雄大さ、力強さには、はるかに及ばてない。芸術家の生み出す美というものも、その源は神の創造した美にあり、そのきわめて小さな部分をその芸術家に与え、そこからうけた刺激や感動、またメッセージを絵筆を用いて表現していて、見るものに、日頃気付かない自然の深みを指し示すものとなる場合も多い。
けれども、そうした絵画展は、ごく限られた場所、時間しか提供されず、また有名な画家のものであるほど、人々が多く来て、どこか騒々しいなかでしか味わえなくなったりする。
けれども、神ご自身のいわば直筆になる自然の姿の美しさは、だれでも、顔を上げ、心と目を澄ましさえすれば、ただで見ることができる。
このように、神の栄光ーその永遠の美や力、信実といった最も価値あるものは、 ただでうけることができることは、すでに二千数百年も昔に、旧約聖書の預言書にも記されている。
…「さあ、かわいている者はみな水に来たれ。
金のない者も来たれ。来て買い求めて食べよ。
あなたがたは来て、代価を払わずに
ーただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。(イザヤ書55の1)
ここでの、水やぶどう酒、乳などと言われているものは、人間の魂に必要な霊的な水ーいのちの水と言われるもの、また人間の魂を本当にうるおす神の霊、また人を生かす霊的栄養物といえる神の言葉、罪の赦しの喜び、感謝、そして魂を癒す美しく清いものなどを比喩的に表している。
ところが残念なことに、家の中にこもってテレビやインターネットなどに見入る人たちが多くなっている。そこにおいて触れる番組は、しばしば人間の敵意や憎しみ、ねたみ、怒り等々の闇の感情ともいえるものがあふれていることが非常に多い。
そして、そうした身近な人間に関してだけでなく、世界の国々に目を向けてみるとき、日本よりはるかに、国家的に非常に苦しい状態で、自分の国の支配者からも迫害されて、居住地で居られなくなり国内の難民になったり、また国外に命がけで逃げていく。そうした難民となった人たちは、現在も世界中で八千万人を越えていると報告されている。
他国に逃げていっても、そこですでに人が住んでいる。そして暮らすといっても食べ物もない、住む家もないとかいうことで、本当に苦しんでいる人たちは知るほどにたくさんある。
日本ではその点こう島国でもあるし、よそから入り込んで来たりすることが難しい。その上に、難民受けいれという点からみると、日本政府は先進国としては異例の低いレベルとなっている。(*)
(*)難民認定数の比較(2019年 国連難民高等弁務官事務所)
ドイツ…約5万4千人 、アメリカ…約4万5千人、カナダ…2万7千人 、フランス…3万人、イギリス…1万7千人、
日本…44人 (https://www.worldvision.jp/children/crisis_13.htmlによる)
難民にならずにすむ、そのことだけでも考えますと、本当に私たちは知れば知るほどたくさん感謝すべきになる。
さまざまの不可欠な食事や医療、住居などさえ持っていない人たちがたくさんいる現実を見ると、何かのことでこれ欠けていると思ってしまい、視野が狭いほど、自分はどうしてこんなに苦しいのかと思ってしまう。
いつの時代においても視野を広げてみたら遥かに苦しい状態の人、悲しみの人は、計り知れないほど存在してきた。医療など受けられない人々は世界にいくらでもいる。食糧さえきちんとたべられない、飢餓人口は、二〇二〇年度においては、世界でも 8億人(*)ほどもいるという報告書が、国連の機関から発表されている。
(*)世界の人口は80億人ほどであるから、十人に一人は、まともに食事さえもできないということになる。
(https://sdgs-connect.com/archives/161232)
病気になっても、日本では保険制度が充実していて、食物さえまともにない飢餓の状態にある貧しい国々からしたら比較にならないほどに医療制度も整っている。他国の現状などをより詳しく知るということは、何が与えられているかを、再認識し、深く知るという意味でもとても大事なことになる。
少しのことで不満という事が起こって、神様はどうしてこんなに与えてくれないのか。たくさん与えられていても、霊的に目が覚めてないとそういうことになる。
神のもっておられるものとして、偉大さ greatness それから 力 power 、栄光 glory、壮大さ majesty 等々が言われている。それは、神の力の無限の大きさ、宇宙を創造し、かつ現在も支えているほどの大いなる力。
他方では、花とか植物の細胞の一つ一つに、また、大腸菌など千分の一ミリという小さな生物ー一ミリに千個も並ぶような、こんな中に非常に複雑な化学反応が常温で生じている。そういう化学反応を起こすというためには、大いなる力が必要である。
それから鳥が飛ぶということも、気にも留めないということが多いと思われるが、例えば、あのトンビが、ほとんど羽も動かさないで、悠然と大空をゆったりと旋回し、あるいは気流に逆らって飛んでいることさえある。餌をとるためでもなく、相当な時間あのように町の上空、海の近い陸地の上空であっても、またやっと見えるほどの上空でも、羽の動きが見えるほどの低空でもそのように飛んでいる。アリストテレスは二千数百年も前から、トンビの飛翔の不思議について数ページにわたって考察しているほど、昔から強い関心を引き起こす現象だった。
レオナルド・ダ・ヴィンチも飛行機やヘリコプターの模型を考えていたが、じっさいには飛ぶことはできなかった。
トンビに限らず、鳥類、そしてチョウやハエ、コガネムシなどが飛べるということは、神の大いなる創造のわざを感じることの一つである。
人間がやっとのことで百年余り前、1903年、ライト兄弟によって飛行機を作った。 あの機体を、プロペラをまわして空気を後に押し、その反作用で前進する。後に造られたジェット機は、大量の燃料を燃やして、ガスを噴出させ、そしてその反作用で進んでいる。
大きな轟音を轟かせつつ、前進する。
しかし、鳥類やチョウ、ハエ、甲虫などにしても、排気ガスなどいっさい出さない。しかも水平にまっすぐ飛ぶことさえできる。カモメやウミウなどは、水面にほぼ並行にすーっと飛ぶこともできる。
ハエ、や蚊、ミツバチなどの昆虫は、1秒間に、羽を数百回、とくに多いものでは、一千回も動かしつつ、飛んでいくことができるという驚くべきことをやっている。
羽の極めて微細な早い動きで、空気を羽で後方に押すことでその反作用で前方に飛ぶ。しかし、ただ。上下とか、前後に動かしたところで進めるはずがない。このことは、人間が泳ぐとき前に進むにはどうするかを考えてもわかる。羽の動き、向きを瞬間的に非常な速度で、微妙に変えている。
大いなることとは、単に人間世界で大きな歴史に残るはたらきをいうだけでなく、こうした自然界にみられる、きわめて多様性のある、しかも器械ではまったくできないようなことが、小さな昆虫においてもなされているという、そういう驚異的な偉大さ greatness がある。
大きなところにも、小さなところにもー見る目をもって見るときには、自然界、人間や動物たちの体内のさまざまの化学変化をも含めて、至るところに、大いなるはたらきが常になされている。
神は宇宙の果ての星々から、身近なあらゆるものを造り出すような壮大さを持っている。
さきほどから述べていることは、今日の聖書箇所にある、神が持っているものとしての「偉大さ、光輝、栄光」といった11節の表現についてどのような意味が含まれているかについてである。
栄光とは国語辞典には、「 輝かしいほまれ。大きな名誉」などとあるように、何でも有名になったりすること、地位の高い者に使ったりする。何かのスポーツで優勝したら栄光の勝利などと、簡単に栄光という言葉を使ってしまうが そのようなこの世の勝ち負けなどのよう取るに足らないようなことでなく、この聖書の言葉は、人間の想像もできないほどの大きさ、捕らえがたい絶大な大きさを言っている。
だからその神の御手をもってするならば。どんなものでも力あるものとすることができる。とはいえその力、大きさは、神から見てということであり、人間から見て力あるものとはならない。
例えば寝たきりの人は、どう見ても力あるとは誰もそう思わない。何もできない。けれども霊的にはあの水野源三(*)のように、寝たきりで言葉も出ない人でも大きな存在に関することができるわけです。神の御前と人の前で、全く違う。
(*)長野県の人。9歳の時、病気の高熱によって脳性麻痺を起こし、やがて目と耳の機能以外のすべてを失った。話すことも書くことも出来なくなったが、母親が何とか彼と意思の疎通をしようと五十音順を指で指し示したところ、目の動きで応答した。これが47歳で死去するまでの彼の唯一のコミュニケーション能力となり、「瞬きの詩人」と言われる。そのような状態になって4年目の12才の時、町の教会の牧師の伝道によりキリスト者となる。18歳になって詩を書くようになり、多くの清い神の国の風の吹いているような作品を次々と書いた。後にそのなかの一部は曲が付けられて讃美歌として親しまれるようになった。
日本では大多数の人たちが、死んだら終わりだ、と考えている。我々の持っている力も、みんなが死んだら終わりだ。
しかし、真理はそうではなく、全能の神の力によってよみがえらせていただくことができる。死んだ者も、その全能の神の愛によって復活させていただける。
そういうことを信じることができることも、神の力を受けているからである。
偉大だと言われる人であっても、大きな影響力ののもとをたどれば、その背後で神がささえ、また力を与えたからである。神がすべてを持っている。
それゆえに、その人間を賛美するのでなく、その背後の神様を賛美するのがあるべき姿であるというのは聖書の基本的な精神となっている。
しかし、キリスト者でもうっかりしたら、例えば、何かを主張するときでも、無教会でも内村鑑三、内村鑑三と、内村を基準として言うようになったら、それ、内村を賛美することになる。神に等しいキリストに比べるとき、いかなる偉大だとされる人間も、太陽や全宇宙を創造するような壮大な力をもつキリストに比べたら。無限に小さい。
しかし、その小さい土の器の中に神が、神の力の一部を与えたのである。歴史上で大きな影響を与えた、モーセ、ダビデ、パウロ、アウグスチヌス、ルター等々みな同じである。日本の内村なり矢内原忠雄、賀川豊彦とかの大きな働きをした人が持っていた能力、信仰、その力、実はその元はみな神の持ち物であって、それをそうした人々に与えたのである。
すべては神のものだから、私たちが受けてるもの、実は神様から与えられたもの、委ねられたものだ。
この14節。神にささげるというけれども、私たちが持っているすべては神様からいただいたもの。私たちはその御手から受け取って、そうしてそれを再びお返ししただけなのだ。
そういう気持ちが、この最後のところに表されている。 特に大切なこの神殿という当時の礼拝の中心になるものに関しての建設に関してだが、現在のわたしたちにとって神殿、神の宮とは、日曜日の今日も各地から集っているこのような集まりを意味する。
新約聖書以降においては、旧約聖書の神殿に値するものが、信じる人たちの集まり(教会、集会)を意味するようになった。
さらに、それに加えて、内なる神殿というのがある。、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのか。…
あなたがたはその神殿なのである。」とパウロが言っている。(Tコリント3の16、17より)
神、キリストが住むところが現代の神殿であり、それは、日本では教会、または、原語の意味をとって「集会」と言われている。
けれども、教会(集会)の本質は、神、キリストがそこにおられるところなのであって、いかに教会堂の建物が立派になっても、肝心のそこに存在すべき霊的な存在ーキリストがともにいなかったら、どうにもならない。
大きな建物は、資金の豊かな者はすぐに建てられる。けれども本当のわれわれ一人一人の内なる神殿はいくらお金があっても建てあげられない。
それはここにあるように、神様を本当に信じて、神様は万物を創造し、かつ支えておる。私たちが持っているみんな神様からもらったものだ。そういう神様はすべてを持って、あらゆる力を持っていて、しかもそれは、愛と真実に満ちた力なんだ。そういうことを信じる人がいなければ、いくら建物を建てても、本当の神殿にはならない。
私たちの内に信仰によってキリストが住んでくださる神殿ができると、そのような人たちの集まり(教会、集会)がまた霊的な神殿になる。(*)
(*)日本語で教会と訳されているのは、中国語の訳語をそのまま使っているからである。この訳語からは建物を意味していると受けとられる。しかし、新約聖書の原語(ギリシャ語)は、エクレーシアであり、これは、カレオー(呼ぶ)、エックは 〜から。この語はもともとプラトンとかの書物には普通の政治社会的な集まりのことを意味していた。それがキリスト教になってからは、神によってこの世から呼び出された者の集まりとなった。エクレーシア。フランス語では教会のことをそのままエグリーズ Egliseという。ドイツ語で Kirche キルヒェ。英語で Church チャーチ、それらは共に キュリアコン ドーマ(主の家)に由来する。
しかし、すでに述べたように元のギリシャ語では、本来は家ではなくて集まりを意味する。そういうふうに外国の訳によっても訳し方が異なっている。
一切は神のもの、このことは毎日の生活のとても大事なこと。私たちの使っている食べ物だけに感謝するということだけではとても不十分になる。
服でも家でも、それからさらに私たちの手足が動く、呼吸ができる。黙っていても夜、心臓が規則正しく動く。そのことも全部神様からのプレゼントである。
また、私たちの体の内部のさまざまの臓器を支配しているのもまた神である。眠っていても心臓は休みなく動いている。心臓の病気、肺でもどこでも病気になってはじめて、私たちは自分の力でも何でもなかった。ある力によって、そのように体の全ても動いているのだ、と知らされる。
そのように、すべては神のものという思いが強まるほど、自然にその神にささげるという心も生れる。
信仰の中心となる神殿は、そのようにして自発的にささげられたものによって建てられていくという重要なことが、このダビデの最後の祈りの言葉のなかにあらわれている。
私たちの現代の神殿にあたるのは、教会、集会であり、そのあるべき姿も、同様で、自発的に祈りを、そのすべての心、意志、魂の力をささげようとする人たちによって、またそのような心から生れる献金なども含め、造り上げられていくものである。
この一年も、私たちの願いは、そのように一人一人の魂に主が働きかけて、自発的に礼拝に参加し、祈りをささげる集まりであるように、ということであり、コロナのために直接に集まれなくとも、インターネットという手段によってでも、主が参加者の心に働いてくださって、それぞれの人たちの祈りが一つにされ、そこに聖なる風(聖霊)が吹いてくるようにと願っている。
ー罪からの救いと私たちと共にいるために
〇12月19日(日)クリスマス特別集会
マタイ一・18〜23 イザヤ十一・1〜5 会場13名、スカイプ39名 合計52名。
新約聖書の最初の部分で、イエスの誕生のことが記されている。そしてそれは、マリアが「聖霊によってイエスをみごもった」ということから始まっている。
新約聖書における、イエスの記述のはじめは聖霊の働きから始まっているのである。
イエスの福音の宣教も、弟子たちもも、自分の力で始まったのではない。弟子たちはイエスが捕らえられた時逃げてしまった。ペテロはイエスを三回も否定していた。しかし、聖霊が与えられて宣教が始まった。
以前、高校の倫理社会の教科書をいろいろ調べたことがあった。そこではどの教科書も、山上の教えのようなイエスの教えが書かれている。しかし、聖霊に関しては全く書かれていない。教科書でも触れないことであるが、聖書は聖霊が根本となっている。
宣教もすべて聖霊による。人間の考えは、いくら聞いてもそれに力は与えられない。
戦争についても言えることであるが、太平洋戦争に反対するほどに、強大な政治権力や世論に抵抗したのは、ごく少数であって、政治や哲学、経済学、法学などを学んでいる人であってもごく少数だけが公に反対の意見を述べたのであって、学問の無力を知らされる。他方、学問もない人でも戦争に反対する人はいた。そして、戦争が間違いであるといって、迫害された人もいる。
ローマ帝国によるキリスト教の長期にわたる迫害の時代、あるいは日本の江戸時代の厳しい迫害の時代でも信仰を守った人がいた。それは学問や経験の力によるのでなく、聖霊による力があたえられたからである。ローマ帝国の時代の迫害の記録にも、若い女がキリスト者だと公言し捕らえられ、キリストを否定すれば放免すると何度言われても、拒み、さらにその父親が女の乳児を連れてきて、涙を流してどうかこの子のためにも、キリストを否定してくれと懇願してもなお、女は、「私はキリスト者です。」(エゴー エイミ ホ クリスティアノス)と告白しつづけ、さらに、いままで私をかくまで導いてくださった主は必ずその乳児をも守ってくださると信じると言って、処刑されていったことが記されている。
ここにも、学問とか地位など関わりなく、聖霊が与えられることで驚くべき力が与えられるのが証しされている。
「聖霊によって身ごもる」とある。神は、その全能の力で、聖霊によって命が与えられることができないはずはない。聖霊による受胎を信じられない人は、神の全能を信じていないからである。植物の葉っぱ一枚、大腸菌1個、そのような中であっても化学物質のきわめて複雑な反応によってなっている。そして、神は広大な宇宙をも創造し支配されている。
神の全能を信じる。それを信じる力は別の所、聖霊から来る。その力が苦しみに耐える力を与える。聖霊が与えられなければ力は出ない。
日本に来た宣教師は太平洋、大西洋、インド洋などを超えてきた。それは非常な力を与えられていた証しである。それは聖霊による力である。わたしたちが何かができないのは、聖霊が十分に与えられていないからなのである。
「エッサイ(ダビデの父)の株からひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。
知恵と識別の霊、
思慮と勇気の霊、
主を知り、畏れ敬う霊。」
(イザヤ十一・1〜2)
イエス生まれる七百年ほども前に、このことが啓示されていた。
イエスの重要な特質に含まれることは、主の霊が豊かに注がれたということである。
「知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊」とある。これは本当のことを見抜く霊である、「勇気」とは原語の意味は「力」である。
ここでは、「霊」ということが繰り返されている。イザヤ書は「霊(ルーアハ)」ということば(*)が繰り返し使われている。
(*)霊を意味するヘブル語ルーァハは、イザヤ書では53回、エゼキエル書では52回、詩編40回、ヨブ記33回とこの言葉は繰り返し使われている。
「聖霊が与えられると、すべてのことを教える。」(ヨハネ14の26)とある。 本当に人間に必要なことのすべてを教えてくださるのである。
性能のいいコンピューターは、莫大な数を集めて集計できるが、それは苦しみにある人になんの力も与えない。神は統計に支配されない。それを超えている。
神の全能を信じない人は人工知能AIが一番だと考え希望が無くなっていく。これからのそうしたコンピュータ関連の技術が人間を支配しかねないと言われて恐れられる時代、聖書の真理はこれから、さらに必要になっていく。
三千年も前にかかれた、この霊は、すべてを見抜くことのできる力の霊である。
「弱い人のために正当な裁きを行いこの地の貧しい人を公平に弁護する。
その口の鞭をもって地を打ち唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。」
(イザヤ書11の4)
神の言葉の力が示されている。神の言葉によって裁きがあり、またそこに立ち返ることができる。
「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち小さい子供がそれらを導く。…乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。」 (同6〜9節より)
強いものが弱いものを襲って食べるのではなく、強いもの、弱い者が一つになって共存できる。襲ったりすることなく共存できるのである。
毒蛇は噛みつく。この世は、蝮の毒がある。その毒によって、人は苦しむ。悪の霊がなしているさまざまな事件だけではない。戦争は、多くの人を殺す。そして、それを勝利と喜ぶのが戦争である。毎日の事件も恐るべき出来事であるが、戦争には多くの人が特に殺される。聖書の真理から戦争には反対すべきである。
しかし、主の霊があるところでは人から憎しみを受けても、毒を受けても、害を受けない。悪意をまともに受けると死に追い詰められる人もいる。しかし、信仰は盾となる。悪意がきても、それが入ってこない。 このような聖霊の重要性をイザヤはイエスの誕生の七百年ほども前に啓示されていた。 そしてイエスはその聖霊によってマリアに宿ったのであった。
クリスマスは、わたしたちも、まずこの聖霊を受けていくことを思い起こすときでもある。聖霊がわたしたちを導くからである。
「イエス」という名前の意味は、「ヤハウェ(神の名)は救い」であり、それは、「罪からの救い」を意味する。(マタイ1の21)
信仰によってその霊が注がれ、罪からの救いが与えられ、さらに聖霊を与えられる。
イエスが地上世界にきてくださった目的は、わたしたちの罪を赦し、そして聖霊を与えるためなのである。
復活したキリストは、弟子たちに向って「約束されたものを待ちなさい。」といわれた。 それが、聖霊である。それは、信仰を持ち、信じて求めたら誰にでも与えられる。そして、もう一つの名前として「インマニエル」と記されている。ここにイエス様の本質が示されている。 この言葉の意味は、ヘブル語で「神はわれわれと共にいる」である。
イエスを信じるときに、神と同質のイエスがつねに共にいてくださるようになる。その預言を名前に含んだのがインマヌエルという名である。 イエスとともにあるのは、神ともにいます、ということだ。信じるだけで、この大いなる神が共にいてくださるのである。
イエスが地上に来て下さって、初めて、共にいて下さるようになった。汚れている人間が、罪が赦され、清められていなければ、神ともにいてくださることはできない。イエスが来て下さって初めて共にいて下さる道が開かれた。
そして、このことは毎日、必要なのである。神共にいる。この集まりの中にも神は共にいて下さる。徳島聖書キリスト集会が70年続いてきたのも、神が共におられるからである。
そして今、このように、集会場やインターネットで遠くの人たちも共に集まることができるのも神が私たちと共にいて参加をうながしたゆえである。
花を見ても、神を知る識別の霊が与えられる。わたしたちは何を見て生きているか。ニュースだけをみていたら、神はどこにいるのかと思わされる。しかし神はおられる。
罪の赦しを経験するとき、確かに神がおられることを知る。
まわりをみていたら、神はいないと感じる。しかし、神を信じるとき、その出来事の奥に神の存在を感じることができる。
今、日本では特に神がいると信じる人は少ない。神がいると信じることができる者はそこに特別な使命がある。
イエスを信じることによる罪の救い、そして、聖霊は誰でも、真剣に求めならば、もとめたら与えられる。それが与えられると自分だけでとどめておけない気持ちになる。それが福音伝道のもとにある心なのである。
日曜日ごとの主日礼拝は、日々受けた恵みを返し、捧げるときである。
わたしたちは、クリスマスの記念としてこうして集まったけれども、今日一日で終わってはならないと思う。 日々、聖霊をうけて、日々、主とともに生かされ、聖霊に導かれて歩んでいきたいと願う。
〇12月6日(月)小羊集会(鈴木治療院にて)ルカ福音書1章15節〜18節
〇12月10日(金)天宝堂集会(綱野宅)4名、スカイプ13名 合計17名
主題…「王なるイエス」
マルコ15章1〜5
〇12月14日(火) 海陽集会 オンライン集会 スカイプでの参加者 17名。
・主題…「主が来られる」
・参加者…17名。
〇12月19日(日)クリスマス特別集会
この日の聖書講話は、今月号の「イエスの誕生の意味」と題して掲載。
〇12月26日主日礼拝
「すべてを御手から受けて差し出す」歴代誌上29章10〜14 集会場14名 スカイプ43名 合計57名。
この主日礼拝のときの聖書講話の内容の一部は、今月号に「すべては神のもの」と題して掲載しています。
〇12月28日(火)北島集会
・主題…「御業を見ることの重要性」
・聖書箇所…イザヤ書5の1〜13)参加者9名。
〇冬季聖書集会
キリスト教独立伝道会主催の冬季聖書集会は、本来なら、横浜市から山間部に入ったところにある「森の家」での開催でしたが、コロナのために、今年もオンライン開催となり、 1月8日(土)〜9日(日)の二日間、オンラインで開催されました。
主題は、「朝は来る」
聖書講話は、吉村孝雄が担当し、土曜日は、旧約聖書の創世記、預言書、詩編などから、すでに朝は来ている、日は上っていて光は射していること。
主日礼拝は、新約聖書から、マタイ4章の16節「暗闇に住む民は大きな光を見、死の蔭の地に住む民に光が射し込んだ」、またキリストの言行などにより、すでに光が射していること、内に住むキリストこそ、光がすでに射し込んでいる証しであることなどを語らせていただきました。
参加者は土曜日38名、日曜日は、57名ほどでした。
キリスト教には初めての京都の大学院生も参加され、また久しぶりのオンラインでの出会いもあり、こうした集会のかたちにも主がその祝福を注がれることをあらためて知らされました。
伝道会の担当の方々の御愛労を感謝です。
北海道瀬棚地域に、現在もつづけられている、キリスト者の酪農家、米作農家の集まりのもとになったのが去年召された生出正実氏。その若き日の祈りと奮闘の記録に、その生出さんに影響を受けて瀬棚の酪農に加わることになった現在の瀬棚に生きる方々の、生出さんに関する思い出、写真などを収録した追補版。B5版45頁。一冊三百円(送料込)希望者は左の吉村孝雄までメール、電話、FAXなどで申込下さい。