いのちの水2022年 10 月 号 第740号
私は、平和(平安)をあなたがたに残し、私の平和を与える。 私はこれを、世が与えるように与えるのではない。(ヨハネ14の27) |
田口頌子(岩手) |
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神の言葉と、その愛への飢えと渇き
今日、書物はいくらでも手に入る。そのうえ、インターネットやテレビ、ビデオ―さまざまのものによって飛躍的にその情報は増大し、また余裕のある人たちは、世界のどこにでも行くことが簡単にできるようになった。じっさい、戦前から戦後しばらくの間では、外国旅行など夢物語のようであったが、現在ではコロナ以前では、年間で2千万人ほどの人たちが、海外に出かけるようになっていた。
そして、科学技術は、近年において、驚くべき変化を見せた。
蒸気機関車ができたこと、また電磁誘導現象が発見されて発電機が作られるようになって電気科学文明が急速に進展をはじめるきっかけとなったのは今から二百年ほど前であり、その後、半世紀ほど経って現在のような内燃機関を用いる自動車の製作がはじまった。
これらは、人類の何万年という長い歴史からみれば、ほんのごく最近のことである。
こうしたさまざまの目に見える世界の激変にもかかわらず、まったく進んでいない領域がある。
それが、聖書に記されているような無差別的な愛であり、真実や清さである。
愛―それはいかに外国旅行をしても、ノーベル賞を受けるような画期的な研究成果を出しても、またオリンピックで金メダルを続けて獲得するようなスポーツの天才であろうとも、またモーツァルトやベートーベンなどのような魂を揺るがすような音楽を生み出す天才であっても―それでもなお、キリストが持っていたような真実の愛は生まれない。
学問や人生経験、旅行、科学技術、スポーツや芸術…いかなる精神の領域で豊かな才能や経験が与えられようとも、また、いかに多額の費用を投入しようとも、それでもなお、聖書に記されているような無差別的な愛へは、一歩も進まない。
使徒パウロが、次に示すように、愛がなければ知識や信仰も無に等しいと、言い切っていることに驚かされる。
それは、真の愛(神の愛)の比類なき本質を指し示すものとなっている。ここで言われている愛とは、通常この世にはんらんしている男女の愛や親子、友人の愛といった特定の人間にだけ注がれる愛ではない。
それは、主イエスが言われた、「あなた方の敵を愛し、迫害するもののために祈れ」という言葉に示されているように、好きだから愛するとか、心が通じ合うから大事にする、家族だから…といった限定されたものでない。
愛とは、好きになるという一時的感情でなく、敵対する者であろうと、病気で命が短い人であろうと、だれであろうとその人が本当の永遠の幸いー聖書で言われている罪の赦し、そこからくる主の平安、永遠の命などが、与えられるようにと祈りをもって対することである。その愛があればおのずからなすべきこと、できることをするようになるというような力でもある。
…たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。(Tコリント13の2〜3)
ここには、いかに言葉巧みに語ろうとも、またあらゆる知識ー学問あり、さまざまの知識に通じて博識であろうとも、すでに述べたような意味での愛(神に由来する愛)がなければ、無に等しい、という驚くべき言葉が語られている。
今日、数かぎりない本、ネットからの知識、また大学など高等教育、研究機関など、以前とは到底比較にならないほどの知識、学問研究はひろがっているし、著しく増大した海外旅行などによって外国の知識なども広がっている。
しかし、聖書で記されているような愛はまったく広がってはいない。 かえって格差は各国で拡大し、混乱やテロ、差別、人権無視、権力支配も広がり、そこから神の愛とは正反対の核兵器という大量殺害をもたらすような致命的な兵器も拡散しつつある。
いかに多様な知識、学問、科学技術などがあろうとも、愛なくば無であるーという極端にも見える言葉は、まさに 単に知るだけ、神の真実や愛ぬきにそうしたさまざまの知識こそ第一とする考え方は、まさに創世記で言われている「あらゆることを知る木」を食べることであり、その行く着く先は死である、 といわれていることを思い起こさせるものがある。(今月号の別稿に詳しく記載)
他方、それらの学問や才能、あるいは研究や文学的能力など、さまざまの知識などなくとも、そうした愛を持っていることがありうる。
ストー夫人の書いた「アンクル・トムズ・ケビン」に描写されている、黒人奴隷トムや彼を霊的に導いたといえる白人の少女エヴァはまさにそうした例である。
ヨハネ福音書を書いたと伝えられてきたヨハネはただの漁師であって学問や幅広いこの世の知識、世界の各地を旅するとかそのようなことは一切なかった。それでも神からの深い愛を与えられていて、それゆえに、その福音書では、愛の重要性を強調することが多くみられる。
…あなたがたに新しい戒めを与えよう。互いに愛し合いなさい。
私があなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13の34)
ここで言われている、互いに愛し合う愛についても、主の「私の愛に留まっていなさい。」(ヨハネ15の9)が示すように、生まれつきの性格とかの問題でなく、神(キリスト)から与えられ、キリストの愛にとどまっていることで私たちにも伝わってくるという本質をもっている。
ヨハネ福音書も、その著者であるヨハネは、神の愛にとどまり続けたゆえに、二千年を経てもそれを凌駕するような文書はないほどの深い啓示の書を記すことになった。
そしてその愛こそ、あらゆる困難を越えて、この世の闇や混乱のただなかにあっても、「満ちみちたもの」を感じさせ、この世は神の慈しみ―愛で満ちていると言わせるほどの深い実感が生まれる。
このことは、すでに旧約聖書において預言的に記されている。
…主よ、あなたの慈しみは天に、あなたの真実は大空に満ちている。(詩篇36の6)
神の言葉の飢えと渇き
この世は、真の神の本質たる真実、愛、正義に背き続けているとき、どうなるか。数千年前の預言者が神から受けた言葉が記されている。
「私は大地に飢えと渇きを送る。それは、パンに飢えることでなく、水に渇くことでなく、神の言葉を聞くことの飢えと渇きだ」と、 (アモス書8の11)
私は、神の言葉によって神の愛を知らされてきた。神の言葉は、神の愛の一つの形である。神は人間への愛ゆえに、数千年前から常に語りかけを続けてきた。
神の言葉に飢え渇く、それはまた言い換えると、神の愛に飢え渇くということになる。
そのような愛は学問やお金、権力、教養、経験等々いかなるものでも買うことのできないものであるがは、聖書には、驚くべき単純な方法で私たちは与えられることが記されている。
「求めよ、さらば与えられん」(マタイ7の7)―という主イエスの言葉がそれである。
神の愛は、深く無限なものである。それは「神は愛である」と言われるように、神の本質的なものだからである。愛は神のもの、そして神はたえず最も価値あるものを与えようとされているゆえに、ただ心から真実に求めるだけで与えられるというのである。
それは主イエスよりさらに五百年ほども古い時代に書かれた書にすでに記されている。
…さあ、かわいている者はみな水にきたれ。金のない者もきたれ。
来て買い求めて食べよ。あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。
(イザヤ55の1)
ここで水とかぶどう酒、乳などと言われているもの、それは神の愛であり、そのみ言葉であり、力である。愛のないものは来たれ、ただで飲め、ただで神の愛をもらえ…と言われているのである。
人間の言葉は、移り変わる。しかし、神の言葉は永遠であり、それは神の愛から語られる言葉である。
そこで指し示される神の愛こそは、私たちの魂をうるおすもの、死せるものを生かすものであり、いかなる人間をも根底から満たすものであるゆえに、現在の闇に包まれた世界、そして将来にあっても、人間の魂の根源的な飢えと渇きを真に満たすものとして、最も重要なことになり続けるであろう。
この世界は死で満ちている。過去の長い歴史において次々と死者は生じたし、精神的な意味で 生けるしかばね という言葉もあるように、生きていても、死んだように絶望的状態、無気力状態となって死んだような状態になっている人々も多い。
聖書においても、次のように言われていて、「死んでいた」というのは、霊的な意味も含めるなら、決して単に墓に埋葬された死者だけを意味するのではない。
…あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいた。…
罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし…(エペソ書2の1、5)
しかし、そのような死んでいるとみなされるような者たちが、神の御計画によって天より光の露を注がれることによってよみがえることが旧約聖書のイザヤ書で言われている。
…死者が命を得、なきがらが立ち上がりますように。
塵の中に住まう者よ(*)、目を覚ませ、喜び歌え。
あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地(**)にその光の露を降らせられる。(イザヤ書26の19)
(*) 塵と訳された原語(ヘブル語)は、アーファール で、「土、土塊(つちくれ)、砂、塵、灰、地」などと訳される言葉。「塵のなかに住まう者」とあるが、これは「土の中にうずもれて死んだようになっている者」といった意味である。 日本語で塵といえば、塵取り という言葉があるように、ゴミ、塵、ほこり、といったような意味がうかんできて、そうしたゴミ、塵の中に住んでいる者、などどこにいるのか、との疑問を生じさせるような表現である。
しかし、旧約聖書が書かれた地域の状況は、砂漠地帯であり、強い風が吹くと、表面の渇いた土が砂塵、砂ぼこりとなって吹くようになるのであって、それゆえに、人間が「土の塵から創造した(創世記2の7)というのは、砂塵状態ともなる土から造られたということである。
(**)「あなた(神)は死霊の地にそれを降らせらる。」とあるが、死霊の地などという表現はまず現在の日本語では使われない。死霊と訳された原語は、レファーイーム で「死者の霊、陰府、闇」などと訳される。この語は、イザヤ書26章では14節「死者が再び生きることはなく、死霊が再び立ち上がることはない」でわかるように、死者と死霊が並べて置かれ、詩編でよく見られる並行法であり、ほぼ同じことを強調するために、別の表現で重ね合わせているのである。
それゆえ、死霊 などという耳慣れない言葉でなく、「死者」の単なる言い換えと受けとることができる。
それゆえに、アメリカプロテスタントの代表的な訳といえる次の二種もそのように訳している。
Your dew is a radiant dew, and the earth will give birth to those long dead (NRS)
(あなたの露は光輝く露であり、大地は、長く死んでいた者たちをよみがえらせる)
Your dew is like the dew of the morning; the earth will give birth to her dead. (NIV)
(あなたの露は朝の露のようである。大地はその死者をよみがえらせる)
旧約聖書の時代では、人が、死んだら暗い世界(ヘブル語で シェオール)それで終わり、あるいは死者は地下の闇の世界にて影のように過ごすというように受け止められていた。
それは死後の世界については、次のように、旧約聖書の重要な人物においても、単に「死んだ、息を引き取った」などとあるだけで、大部分において明確な啓示が記されていなかったからである。
・ノアは950歳になって死んだ。(創世記9の29)
・アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。(同25の5)
・ヨセフは110歳で死んだ。(同50の26)
・主の僕モーセは、モアブの地で死んだ。(申命記34の5)
・ダビデは先祖と共に眠りにつき、町に葬られた。(列王記上2の10)
しかし、そのような旧約聖書においても、すでに死後の世界を暗示する啓示が見られる。
その中の一つが冒頭に引用したイザヤ書の箇所である。
そこでは、この世界は死者で満ちていても、神はそこに光の露、命の露というべきものを注ぎ、死者に命を与え、よみがえらせるのだということが啓示として記されている。
イザヤはキリストが生れるより700年ほども昔に活動した預言者である。
そのような古い時代に死者の復活ということが示されているのに驚かされる。
さらにそのイザヤより、百年余り後になってエゼキエルという預言者が現れ、復活に関しての重要な啓示が与えられた。
…主は私に、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。…
主は私に言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。
これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。
見よ、私はお前たちの中に霊(神の風、息)を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。
霊よ(神からの風)、四方から吹き来れ、霊よこれらの死んだ者の上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。(エゼキエル書37の1〜10より)
これらは直接的には、バビロンからの大軍の攻撃によってユダ王国の人達は、多くが1500キロほどもあるバビロンに捕囚となって連行されてきた人達、あるいは周辺の国々に散らされた人達が、祖国を失って死んだような状態にあることが背景にある。
ふつうなら、それきり滅びてしまう民族ー世界の歴史において半世紀にわたって亡国の状態となり、そこに住んでいた多数の人達が国外に連行、または逃げていったような状況では、そうした民族は移住した地の人達と結婚し、歴史のなかから消えていく。
しかし、神からの言葉(啓示)は、驚くべきことに、そのような一般的には不可能と思われるようなことをも預言し、たしかにそのことが成就する。
その最大の例が、キリストの誕生である。その誕生の700年ほども昔から、イザヤという人物などが神からの啓示を受けてそれを語り、イザヤ書として残されてきたが、たしかにその預言のとおり、キリストは誕生し、その弟子たちは、世界にイエスの復活を体験し、神の真実と愛を世界に知らせてきたのだった。
死んだも同然、徹底的に枯れた骨のようになったユダの国、その人々が復活し、国も新な国となる。しかし、それは、その民族の武力や数にものを言わせる戦いなどによってではない。
すでに引用したエゼキエル書37章に記されているように、それは、神からの風(神の息、霊)が吹いてきて(*)、それを受けとったからなのである。
(*)ヘブル語の、ルーァハは、霊、風、息などと訳される。風のように目に見えない力、変化を起こさせるものを指す言葉であり、息もそれをすることによって生きる力が持続する。そのように、神からの風もまた、さまざまのものに命を与え、変化を与え、創造する力となる。中国語では、それぞれを別々のものと捕らえたので、別々の漢字で表現されるが、ヘブル語や、ギリシャ語、ラテン語などではそれらを統一的に表現する。ヘブル語では、ルーァハ、ラテン語ではスピーリトゥス (spiritus)、ギリシャ語ではプネウマ(pneuma)は、「霊、風、息」という意味を持っている。
またヨブ記においても次のような記述がある。
…魂は滅亡に、命はそれを奪うものに近づいてゆく。
千人に一人でもこの人のために執り成し、
その正しさを示すために、遣わされる御使いがあり、
彼を憐れんで、
「この人を免除し、滅亡に落とさないでください。
代償を見つけて来ました」と言ってくれるなら、
彼の肉は新しくされて、若者よりも健やかになり、
再び若いときのようになる。 (ヨブ記33の22〜55より)
これはイエスの誕生より数百年昔(紀元前3〜5世紀)に、すでに、私たちの滅びに至る状況から、その罪を赦し、贖いとなる存在が現れるということを指し示すものとなっている。
このヨブ記は、著者は不明であるが、その内容が、信仰を持って真実に歩んでいた人間が、生れた日を呪い、絶望的状態になるほどの苦しみに遭遇したとき、どのようになるのか、なぜ神はそのような苦しみに遭わせるのかーといういつの時代にも多くの人々が直面する問題を長編詩として記したものである。
それは、文筆の達者な人間の思いや思想による内容でなく、それを超えた神の啓示が深く刻まれているゆえに、聖書の一部として収録されているのである。
このように、神は全能、かつ愛と真実に満ちた御方であるゆえに、神がとくに選んだみ言葉を担う民とされた人々を滅びに至らせることなく、その重なる罪ゆえにその裁きとして大いなる苦難をも与えたが、それでも、神の御計画のときが来ると、神からの風(霊)を吹かせて、その枯れはてた骨のようになっていた、言い換えると弱さの極みまで落ちていた民に命を吹き込み、神の言葉を担う民としてよみがえらせたのである。
そのことは、特別なユダ王国やその民だけに限る特殊なことでない。
イエスがこられたということは、こうした長い旧約聖書時代には、ごく一部の人達、イスラエルの民族だけに与えられたことが、さらに深く広く、完全なかたちをとって、全世界にその救いの御手が差し伸べられ、世界のいたるところで、神の風が吹きわたり、そこから神を信じ、キリストを信じる人達が起こされたのだった。
ユダ王国の人々が厳しい裁きを受けて滅び、多くは殺され、あるいは遠い異国へと連行されて捕囚となったのは、単なる偶然とか運命でない。 それは彼らが繰り返し示されていた神の愛と真実に背き続け、裏切りを重ねてきたからであった。
そして、2500年以上も昔の特別な民族だけでなく、あらゆる民族、国々においても現代は死せるような状況がある。科学技術や医療、教育、国際交流、物資の世界的循環、交通の以前とは比較にならない速さ、大量輸送…等々、どのような方面を見ても、科学技術の大いなる進展とともに数百年前、数千年前などどはおよそ比較にもならない進展ぶりである。
しかし、人間の心の世界はどうであろうか。
目に見えるもの、数えることのできる物質に関する文明は限りなく進展していったが、そうした進展とはまったく関係なく、はるか数千年前に犯していたような罪の悪しき影響力が拡大し、比較にならないような大量の人々が一挙に命を失ったり、家庭や生涯が破壊されるような状況、そして昔ならそのときの悪事は何千年も害悪が続くなどはありえなかったが、現在では、未来の人間に対しても、10万年を越えて管理の必要がある放射性廃棄物という難題をもたらそうとしている。
そして、今回のウクライナにおける戦争のように、一つの国に異常な考えを持つ人間が出現すると、そのために何億という人々の貧しさや飢え、国や民族同士の敵対関係の増大…となるような事態ともなっている。
こんなことは、核物理学や、科学技術の進展による武器の驚異的な高性能化、交通網の発達、インターネットなどの発達が生れたゆえの産物であり、それらがさまざまの分野で人間の福祉に役だっているということもまた大いなる事実であるが、他方では、一挙に何十万人もの人達を殺害、あるいは何十年もたっても苦しみや痛みを与え続けていく…そのような状況は科学技術の進展によって初めて生じてきたものである。
すでに述べたように、教育や文化、政治学や経済学、コンピュータ関連など種々の科学技術がいかに発達しても人間の本当の安全や安心は得られず、かえって世界的な規模で危険性、不安が増大しつつあるという状況こそは、すでに数千年前から聖書ー旧約聖書と新約聖書が予告していることである。
この世の物事を神抜きに知ることの危険性
その最初の暗示的な記述は、聖書巻頭の書、創世記の最初の部分にある。
けれども、残念なことに、この重要な暗示的な箇所について、漢字を用いる日本語訳は、その漢字のゆえに、本来の意味と違った意味となって、広く誤解されたままとなっている。
ここでは、まずそのことについて述べたい。
…「園のすべての木から取って食べなさい。
ただし、〈善悪〉の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
(創世記2の16〜17)
ここで、日本語訳では、「〈善悪〉の知識の木」 と訳されている。
善悪と訳された原語は、善がトーブ、悪はラァ である。
しかし、この「善」という漢字は、道徳的な内容に関して、言い換えると、人間の行いや性質が好ましいことについて使う言葉であり、花が「善」であるとか、このジュースは「善」であるなどのようには用いない。 善と訳された原語のトーブは、45〜50種類もの訳語があてられているほど、意味は広がりと深みがある。(*)
トーブという原語の持つ多様な意味の中で「善」というのは、そうした多様な訳語の一つにすぎない。
(*)例えば、「トーブ」 については、愛すべき、祝い、美しい、麗しい、かわいらしい、貴重、結構、好意、幸福、好意、高齢、ここちよい、財産、好き、親しい、幸い、親切、順境、親切、正直な人、善、善人、宝、正しい、尊い、楽しむ、繁栄、深い、福祉、ほめる、まさる、恵み、安らか、愉快、豊か、喜ばす、りっぱなどと訳されている。
「ラァ」については、悪、悪意、悪人、悪事、痛み、いやな、恐ろしい、重い、害、害悪、悲しげな顔、危害、逆境、苦難、苦しい、苦しみ、汚れた、そしる、つらい、悩み、罰、破滅、不義、不幸な、滅び、醜い、物惜しみ、悪い、災いなどである。
(「旧約新約 聖書語句大辞典」教文館発行) このように、ヘブル語のトーブとラァは、日本語の善悪というのとはその意味の広がりが大きく異なっている。
それゆえ、この日本語訳のままでは、道徳的善悪の木の実を食べると必ず死ぬ ということになる。
しかし、これは大きな矛盾である。
そもそも、真実で愛の神に聞き従うことが最高の善であり、また、人を理由もなく殺傷したり盗みをしたりすることは、悪である。そのようなことを知ったら、必ず死ぬ などということがありえようか。
聖書はまさに何が本当の善であるか、何が深い意味での悪であるのかを啓示によって証言している書なのである。
聖書に記されている真実で愛の神こそが、究極の善きものであり、そのような神を憎むこと、敵対することは、真実や愛に敵対することであるから、それこそが最も深い悪である。
そのように善悪を知ることが必ず死に至るのなら、そもそも神は人間に語りかけたり、救ったりすることは意味がなくなってしまう。
逆に、旧約聖書から繰り返し強調されているように、慈しみと真実の神に自分が背いてきたことを知り、そのような罪深い者にも目を注いでくださる愛の神に立ち帰ることこそ最も求められている「善きこと、善」である。究極的な善き御方である神の愛を知るなら、当然その逆の本質を持つ悪の本性はおのずから知るに至る。
そのような意味で善を知り、悪の力によって犯してしまう罪を知ること、そしてそこから神に立ち帰ることで救いが与えられる。神の喜ばれること(善)、それとその神の善きことに意識的に反対する悪を知ることは不可分に結びついている。
神は完全な善であり、いかなる闇、暗きところもない真っ白なものであるからこそ、神により救われて神の清さ、白さを知るほど、微妙な悪意をも知ることができるようになる。
完全な愛と真実の神を知ることこそ、その逆である悪も必然的に正しく認識されることになる。
それゆえに、この「善悪」と訳された言葉の意味は、人間的に考えてよきもの、学問的なことから、科学技術、さらに日常的に便利なもの、快適なもの、快楽与えるよきもの、遊び、欲望…等々、を知ること、そして、その逆に悪の全体ー不快感や不満、暗いもの、危険なもの…等々、それらをふくめた言葉であって、「善悪」という限られた意味でなく、「あらゆるもの」を意味し、この世の総体である。
それらを「神を知ることなしに、知ること」、言い換えると、聖書のメッセージの根本にある神を知ることをせず、この世のあらゆる方面のことを知ろうとすることを意味する。そうしたものにを食べる、それに巻き込まれていくことは死につながるーそれこそ、この木の名前の意味なのである。
表面的に善悪という訳語から、物事の善悪を知ると死ぬ(滅びる)のでなく、善悪を完全に知っておられる神を知ろうとせず、この世の物事をさまざまの意味で知ることを至上のこととして生きるなら、それは、滅びに至るーということなのである。
今日の学問、とくに科学技術を見ても、数百年前とはおよそ比較にならないほど進展した。
しかし、世界の現状は、核兵器の世界的な増大が象徴するように、ますます滅びへと近づいているのではないかというのが多くの人の実感であろう。
じっさい、世界終末時計(*)において、戦後最もその終末への時間が短くなっていて、危険性が増大していることを示している。
このような状況こそ、エデンの園で預言的に記されている「あらゆることを(神を知ろうとせず)知る木」の実を食べたら、必ず死ぬ」が指し示していることである。
(*)核戦争などによる人類(世界)の終末までの残り時間を「0時まであと何分(秒)」という形で象徴的に示すアメリカ合衆国の雑誌『原子力科学者会報』 の表紙絵として使われている時計。
善悪を本当に深く知らせるもの、それは学問とか経験や知識ではない。それはいったい何なのか。
それこそが、世界を死からの救いへと導く存在である。
そして、そのことは次のように、聖書に明言されている。
…聖霊があなた方にすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる。(ヨハネ14の26)
…真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。(同16の13)
このように、キリストの復活したすがたである聖霊こそが、真の善悪のこと、またそれ以外のさまざまの本質をも知らせると記されている。
そしてそのことは、次のようにも言われている。神とキリスト、そして聖霊は同じ本質の存在であるからである。
…永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。
(ヨハネ福音書 17の3)
唯一の愛と真実の神、そしてその本質をもって地上にこられたキリストを知ることこそ、本当の善悪を悟らせ、またその他のあらゆることの本質を啓示する存在だということなのである。
そしてそれこそ、武力による制覇などをまったく伴わず、憎しみや復讐、支配欲、名誉欲…等々からくるこの世のあらゆる悲惨、滅び、死からの救いを与える御方である。
現在のこの世界的な危機の迫る状況にあって、すでに数千年の昔から一貫してその内容を変えることなく、夜空の星のごとくに、その真理性をいささかも失うことなく、存在しつづけているものがある。
それこそ、神であり、復活ののちは聖霊となったキリストである。
主イエスが「求めよ、そうすれば与えられる」と言われたのは、この聖霊のことである。
現在の世界的な混乱と危機、そこからの不安を越えるためには、このキリストの聖なる霊こそ、ますます暗夜に輝くともし火として、不可欠なものとなっていくであろう。
徳島聖書キリスト集会では、コロナのゆえに、オンライン集会を併用してきましたが、それによって徳島県内外の方々の参加があり、そうした方々のうちから、聖書からの5分間メッセージ、そして心に残ったみ言葉について3分間の感話を語っていただき、徳島集会以外の方々からのみ言葉メッセージや信仰の歩み、証しによって多くのよき励ましをいただいています。
それらの一部はいままでにも掲載してきましたが今月号でも、その一部を掲載します。
〇田口 頌子(岩手県)
「心を騒がせるな。
神を信じなさい。 そして、わたしをも信じなさい。」 (ヨハネ14の1)
今年の誕生日に姉からもらった言葉を読みます。これは父が書いた言葉です。「恐れるな。信仰にしっかり立て。私が戦う、そして祈れ。」
ずっと祈って私たちを育ててくれた父と母。父が93歳で亡くなる少し前、讃美歌30番「あさかぜしずかにふきて」3節を思い、御国にてめさむるときのいかにうれしき。と書いてくれました。
亡くなる日、亡くなるとは思いませんでしたけれども。この讃美歌を歌いたいと、もう声が出なかったんですけれども、指で三本の指を立てて。そして声も出なかったんだけれども、口だけ開けて歌いました。
一緒に妹とそばには母もいました。それで喜びをもって天に召されたと信じています。
私はいろんな事があると恐れでいっぱいになってしまうけど、すぐ神の愛の中に立ち帰りたいです。私は清いまったき愛の神様にそぐわない不真実な者だけど、家庭が与えられてここまで来れたことを感謝してます。
神様は真実な方で、試練と同時に耐えられる道を約束されています。だから私たちは大丈夫。
生後六ヶ月の孫がまだ言葉はしゃべれないけど、何か訴える声。そして笑い声。顔。私もありのままに神様に訴えたり、感謝を忘れないようにしたい。
終わりに、1984年に亡くなられました、静岡の西川勇平さん(*)の遺言を紹介します。私の父を信仰に導いてくださった方です。
「今日まで平和のうちに生活できましたのも皆様方のおかげと感謝します。私の地上の生涯が終わりました。厚くお礼申し上げます。肉体の上では滅びましたが、霊においてはキリストとともにあって、祝福に満ちた世界にいます。私は、この席上にいるばかりでなく、皆様と共にいつでもどこでも一緒にいます。もしみ旨であれば復活のあした、皆様とお会いできると思います。人間は肉体と共に滅ぶものではありません。キリストと共によみがえり、とこしえの命にあずかるこの喜びは、地上の何ものにも代えられません。最後にご参加の皆さん、どうもありがとうございます。皆さま、おひとりおひとりの上に神のご祝福を祈ります。」
(*)北海道瀬棚に生出正実さんに続いて開拓に入られた西川 求さんの御父君。西川勇平さんの奥様は、私が静岡県清水市にてみ言葉を語らせていただいたおり、何度も参加され、最晩年には、体調も十分でなかったのに、二階の集会場まで車いすで4人の方々に運ばれて参加されたその熱心を思いだします。
(吉村)
祈りの友 合同集会
例年のように9月23日の休日に、今年もコロナのためにオンラインでの集会となりました。午前11時から午後4時30分までの長時間でしたが、 部分参加を含め、56名の方々がともにオンラインで集まり、み言葉に心を集め、祈りを合わせる機会となったことを感謝です。
私の短い開会メッセージ「昔からあり、今も今後も続く祈り」のあと、聖書からの祈りに関する聖書講話(それぞれ各10分)
@「松尾達子さんと「祈りの友」秀村 弦一郎(福岡聖書研究会代表)A「私につながっていなさい」(ヨハネ15の1-2)西澤 正文(清水聖書集会代表)B「祈りにおける罪の赦し」 マタイ6の12」 清水 勝(高槻聖愛キリスト集会) C「キリストの祝福をあふれるほど携えてーパウロの祈り」 那須 佳子(高槻聖書キリスト集会代表)
賛美A「主の平和」世界の讃美(1)の 27
3、12時10分〜12時50分 休憩、昼食
4、12時50分〜13時30分 自己紹介・近況報告《一人1分以内》5、13時35分〜 祈りに関する証、感話 司会 浅井 慎也 (神奈川)
@ KEIKO PERKINS(アメリカ(*)) A峰原 順子(茨城)、BC吉岡 正行、規佐子(さいたま市)、D金沢 幾子(東京都日野市)、 E永井 信子(八王子市)、F滝井 留都子(神戸市)、G香西 信(京都市)、H島崎 英一郎(松山市)、I古川 静(鹿児島県霧島市)
(*)ワシントン州( アメリカの北西部、カナダと国境を接する太平洋に面した州)
講話、証し、感話など詳しい内容は10月発行の「祈りの風」(「祈りの友」の通信誌)第14号に掲載。希望者は左記へ。
集会案内
以下すべて現在はオンラインのみの集会です。
〇主日礼拝 毎日曜午前10時30分から。
〇夕拝…毎月、第1、第3火曜日の夜7時30分?9時
〇家庭集会(かっこ内は責任者)
・海陽集会…毎月第二火曜日午前10時〜12時(数度(勝))
〇北島集会…毎月第二月曜日の13時〜14時半
・毎月第四火曜日午後七時半〜九時 (戸川恭子)
〇天宝堂集会…毎月第二金曜日夜 20時〜21時半(綱野悦子)
(*)各集会についての問い合わせは、参加申込は左記の代表者(吉村孝雄)まで。