「いのちの水」 2022年3月号 第733号
死の蔭の地に住む者に光が射し込んだ。 (マタイ福音書4の16) |
目次
・ キリスト者の証し |
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私たちは、日々、ウクライナの人々が、突然それまでの生活が、破壊され、大怪我の人、命奪われる人あり、肉親との離別を余儀なくされ、わずかな持ち物をもって逃げていかねばならない人たちを映像で見る。
その悲しみ、苦しみ、また恐怖、不安はいかばかりであろう。
ロシアは大国であり、大規模軍隊や戦車、戦闘機やさらに核兵器を大量に所持し、しかも、言論弾圧や偽りの情報を流し、抗議する普通のデモに集まる人々、老人であっても逮捕し、ときには激しく警棒でなぐる、蹴るなど暴行をして連行していく状況である。
そのような仕打ちにあった人のうちには、骨折して、治療も受けられず障がい者になってしまって、生涯にわたって苦しまねばならないような人もいるだろう。 その本人や育ててきた親たちの悲しみや苦しみはいかばかりか、平和のなかで過ごせる私たちには想像もつかない。
ロシアの大統領が要求することは、事実上の無条件降伏といったものであり、それを受けいれた場合、ロシアの支配下の国とされてしまい、そうなると今後は、それまでにない厳しい統制下の生活となるのが予想される。
強力な経済制裁が効果を発揮して、ロシア軍が撤退し、ウクライナのの自由を認めた上での終戦となることを誰もが願っているが、現在の状況に至るまでのロシア大統領の虚偽さえ正当化する強権的命令や、婦女子、老人、病者に対しての憐れみさえ持っていないと見える攻撃手法からするとそれは可能性が低いと見られている。
ウクライナ大統領は、働ける男性は国外に脱出することを禁じ、ロシアに対する武力での抗戦に加わることを命じられている。
しかし、こうした武力による戦いを続けることによって、その結果、ロシアの大量の戦車、ミサイル、空爆などによって主要都市は、破壊され、人々の多くが殺害され、心身にもひどい損傷をうけていくことになるだろう。
そして、さらに、そうした武力抵抗を援助するために、欧米からの武器弾薬を受けいれて戦争を継続していくことになれば、それによって、いっそうロシアのさらなる報復が広範囲になされることが予想され、さらにそれに対して欧米がさらなる軍事援助…そうしたことが繰り返されているうちに、キエフ、ハリコフなどの大都市への攻撃が増大し、住む人々の窮迫はますます募って、死者が多く出てしまうであろう。そしてその軍事援助を断ち切ろうとして、ロシア大統領が、近隣のポーランドなどへの圧迫、さらには、ポーランドを経由してウクライナに武器輸出しようとするときには、そこにロシア軍が攻撃することも有りうる。そうしてますます戦争の範囲が広がり犠牲者がふえていく。
その延長上に、いまは直接には武力反撃はしないとしている NATOからの反撃となり、それは第三次世界大戦の引き金となりかねない。そうした状況の計り知れない重大さを考えて、ポーランドなど NATO加盟国への武力攻撃は、ロシアもしないのではないかとも予想されている。
また、ウクライナが NATOに入っていないために、 アメリカやヨーロッパの国々がロシアに攻撃を加えて、開戦する可能性は少ないと見られているが、今回のことも、事前にはほとんどの人がプーチン大統領が今回のような攻撃を命令するとは考えてはいなかったと考えられるので、何が起こるかは予想しがたい状況にある。
そうした軍事的状況の激化とともに、ロシア軍の死者も増大し、さらに主として欧米によるかつてない強力な経済制裁がロシアの人々の経済、生活を圧迫していくことになってロシア国内での反対運動が激化すれば、ロシア大統領が追い詰められて、彼の性格の異常性とあいまって、すでにほのめかしているように、核兵器を使う可能性すらある。
じっさい、すでに原子力発電所の一部を攻撃するなど、おそるべき事態につながりかねない危険な攻撃が行なわれている。
いくら原発の防御体制を整えるといっても、つねに限界があり、しかも、人間にはどのような異常な思考や行動をするのか予測がつかない。 それだけ考えても、核兵器が抑止力となるなどということは、一種の神話である。
かつて原発こそは、ごくわずかの燃料で膨大なエネルギーを生み出すということだけが大々的に宣伝され、福島原発という当時世界最大の原発地域、福島県大熊町の中心部に置かれた看板が、「原子力 明るい未来のエネルギー」であった。 当時の科学者や政治家もこの標語の内容を疑うことはほとんどいなかった。原子力神話が堂々とまかり通っていた。
しかし、現実は、「原子力、破滅もたらすエネルギー」となった。
核エネルギーを生み出す原発が、戦争となったとき、相手からの攻撃の盾として用いられたり、逆にそれを爆破するとかの脅迫に用いられたりする可能性もある。
もし核兵器が本当に国を守る力となるなら、国々がみな核兵器を装備すると、いっそうそれぞれの国を守ることになるということになる。
しかし、そんな核兵器の氾濫する世界に、平和がくるなどと誰が夢想するのであろうか。
それらの国々にヒトラーとかプーチン的な異常というべき人間が出現しないという保障は何もないのである。
こうした意味において、核兵器以上に危険といえるのは、人間である。ヒトラー的な人間、さらに予想もしない人間がそうした核兵器を使う可能性が残り続ける。それに対する安全策などは存在しない。
何らかの大きな紛争が局地的に生じてその当事者の中に、異常性格のものがいて、自分も死ぬかわりに、核兵器を発射して死ぬということさえ有りうる。
そうした最悪の事態は核兵器や原発破壊などを伴う第三次世界大戦といういかなる人もどんな結果になるかも予測もできない事態、全世界を揺るがすような危機的事態の引き金となりかねない状況となる。
戦争の当事者とその支援国の双方が膨大な核兵器を所有するうえに、さらに世界最大級の600万キロWという大量の原発がある地域での戦争ということは、歴史上でかつて経験のない事態である。武力、軍事力による攻撃の応酬を止めることをしないなら、このような破局的な事態すらありえないとは言えない状況となっている。
ロシアの国民や大統領の部下たちからも、欧米によるかつてない経済制裁による生活の逼迫や不正な戦争という情報が徐々に伝わり、さらに前述のような危険性が知られるようになって、プーチン大統領の失脚ということも可能性としてはありうる。しかしそれはいつになるのか、誰もはっきりしたことは分からない。
欧米などが武器弾薬などをウクライナに提供しつつ、ウクライナが持ちこたえられなくなるまで、戦争を続ける、あるいは、プーチン政権が内外の圧力によって崩壊する、そうした可能性にかけて、 それを待ちつつロシアとの戦争を続けるということは、ウクライナの人たちとロシアの双方に死者や重大な心身の損傷を受けた人たちをさらに増大させ、その過程で、原発爆発や核兵器が使われるということになれば、その悪影響は世界に広がり、前例のない深刻なものになる。
そのような、破局に至らなくとも、戦争の結果、ウクライナの国自体の解体ということになる可能性もある。
1991年12月、今から30年ほど前に、ソ連が解体して多くの独立国となり、ウクライナもその一つであるが、そのウクライナがさらに解体されることもありうる。
それゆえに、それを避けるためには、欧米や日本などが、兵器など軍事力の供与や援助でなく、残っている人たちに可能な限り医療や食糧などを援助し、できるだけ多数の人が逃れるように道をそなえ、逃れてきた人を助けるということ、 さらには、そのような悲劇を回避するためには、たとえ、降伏ということであっても、ともかく戦争という名の無差別大量殺人が一時的であっても停止される手段を選び、そののちに、交渉によって少しでもその停止された後の状況が少しでもよい状況となるような交渉になるよう、そしてそのような降伏の後にもロシアの不正に対して許さないという強い心もて、ウクライナの人々も、欧米など世界の人たちが国連やさまざまの機関、機会を用いて、可能な方法で反対し続けることー霊的な戦いの道である。
ロシアの支配下とされるなら、こうしたことも香港の例でわかるように、その支配に意義を唱えるだけでも、逮捕されかねない状況となるゆえ、霊的な戦いということも、香港の例をみてもとても難しいことになるであろう。
けれども、攻撃してくる敵と武力で戦うということは、歩兵なら、直接的に相手を殺害することであり、戦車や爆撃機の破壊であってもそれらの軍事機器を破壊することは、それを運転している人間をも殺すことである。 ドローンを使っての攻撃の場合は、その機器を動かしている人間を殺害するのが目的となっていくであろう。
そして、敵と戦うとか、自衛という名のもと、大量の人々を双方ともが殺しあうことは、本当に正しいことであろうか。
しかも、敵兵といえども、今回などとくにプーチンという一人の異常とも言える独裁的大統領の命令によってウクライナへの攻撃をしているひとたちであり、もともとそんな気持ちなどなかったのが大多数と考えられる。
もし、戦争が始まらなかったら、ロシア人がウクライナ人を大挙して殺害すること、そしてまたウクライナ人がロシアのひとたちをやはり砲撃で次々と殺すことなど、重罪となることである。
個人的になせば、重大犯罪者となるにもかかわらず、はるかに多くの人間が途方もない爆撃、破壊を伴う大量殺人をし、また攻撃された側も攻撃して敵兵を相当殺すという双方とも大量殺人という重大な罪を犯してしまうことになる。
そのようなことで、本当の平和がくることは考えられない。
まさに、イエスが二千年前に言ったように、「剣をとる者は、剣によって(敵味方なく)滅びる」という言葉の真理性が浮かび上がってくる。
キリスト教の二千年の歴史においては、最初のローマ帝国の300年近い迫害の時代は、キリスト教信仰をもつこと自体が処刑の対象となるほどの弾圧であった。そのために多くのキリスト者たちは捕らえられ、殺された。けれども、いかなるそうした弾圧にも心の深いところでのキリスト信仰を止めることなく、ローマ帝国時代のキリスト者は、明かりもない地下墓所(カタコーム)で暗くて生活もまともにできないようなところでキリスト教礼拝を死守していった人たちも生み出されていった。
それは神がそうした耐えがたいような困難な中にあっても力を与え、支えたからだった。
それと似たことは、世界のさまざまの国においても、キリスト教の真理が伝わっていく過程で生じた。
日本においても、1587年の豊臣秀吉のバテレン追放令以来、キリスト教へ排除がはじまり、江戸幕府が始まってまもなく、1612年以降は、それまでよりはるかに厳しい弾圧、迫害が行なわれるようになり、1873年の、明治政府によるキリシタン禁制の高札が撤廃されるまで、300年近い長期にわたって厳しい迫害の時代が続いたのだった。
歴史の流れをみるとき、一時的、あるいはかなりの期間、悪の支配が続いても、最終的に勝利するのは、真理であった。真理を迫害する者たちがいかに武力や悪意をもってしようとも、真理そのものを消し去ることは決してできなかった。
日本において、あくまで降伏をせず、武力での徹底抗戦はどんな結果をもたらしたかふりかえってみたい。
1945年7月26日、米英中国の大統領、首相たちの連名でポツダム宣言が発表されたが、日本はその重大な宣言を黙殺したのだった。
当時の 鈴木首相は、二日後に、「政府としては重大な価値あるものとは認めず『黙殺』し断固戦争完遂に邁進する」という声明を発表し、敗北が確実となっていたにもかかわらず、戦争継続となったのである。
この結果、それから十一日後以降に、広島、長崎に原発が投下され、おびただしい犠牲者を生み出し、それから76年が過ぎた現在においてもなお苦しむ人たちが多く残されている。
そのうえに、ソ連の全面的な攻撃が開始され、満州や樺太に住んでいた人たちに、目を覆うばかりの悲劇が襲ってきたのだった。
このような悲劇も、降伏の道をとらず、全面戦争を継続するという決定が生み出したものであった。断固武力で戦う、ということは勇ましいようであっても、そのような武力による戦いは、計り知れない悲劇を生み出すことになる。ましてや、現在のウクライナは、核兵器による攻撃だけでなく、合わせて600万kWという世界有数の大規模原発が攻撃され得る状況である。こうした状況下での武力による闘争は、かつてとは比較にならない危険をはらんでいる。
ここでも、イエスが二千年前に言われた言葉、「剣によるものは、剣によって滅ぶ」思い起こさせる。
聖書の言葉に立ち返るとき、武器によらない霊的戦いこそが真の戦い、神の言葉にかなったものだと知らされる。いかに時間がかかろうともこれこそが最も深いところで有効な道である。
それこそは、キリストのそなえた道である。そして歴史のなかで深くその真理性が証しされてきた道である。
この道は、すでに旧約聖書においても示されている。ここでは、エレミヤ哀歌とも言われる書を見てみよう。
聖書の民の国が大国バビロンから攻撃され、破壊され、多くの人たちが殺され、たくさんの人たちが遠くバビロンに捕囚となって連行された…そのような大規模な悲劇にあって一人の預言者が神からの啓示をうけ、民の苦しみに深く感じつつ、涙のあふれでる思いをもって書き残したものである。
…私の目は休むことなく、涙を流し続ける。
…主の御前に出て、水のようにあなたの心を注ぎだせ。
「私の生きる力は絶えた、ただ主を待ち望もう」と。
私の魂は沈み込んでいても
再び心を励まし、なお待ち望む。
主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。
それは朝ごとに新たになる。あなたの真実はそれほど深い。(哀歌2、3章より)
この聖書の言葉にあるように、いかなる状況にあろうとも、この全世界を支配されている神に立ち返り、人間の魂の根源にある罪を知り、武力でなく、神の力に頼り、武力の空しさを知らされ、神の力によって悪の力が除かれることを待ち望む心、そして苦しみに耐える力が与えられることーそれこそが霊の戦いであり、その戦いの勝利を祈っていきたいと思う。
(主日礼拝講話 3月6日)
・聖書…ヨハネ2の23〜25
今、この時もウクライナでは、人が逃げ家が壊されている。体の弱い人は逃げることもできない。
しかし、こうしたさまざまの苦しみは、ウクライナだけではなく、いつの時代にも、たえずこの地上では苦しむ人が無数にいる。日々飢えてまともに食事もできない人たちは8億人もいると言われていること、医療や福祉などの恩恵を受けられない人たちも無数に存在している。
しかし、神は見ておられる。その世界のただ中に、変わらない神の言葉が流れている。ローマの迫害でも多くの人が殉教していったその中に神はおられた。神などいない、と言うさまざまな議論のなかで、現実をみつめつつ、風潮に流されないで、変わることのない神のことばを受けていきたい。
きょうの箇所は、ヨハネ二章最後の締めくくりである。
多くの人がイエスを信じた。しかし、イエスは人を信用しなかった、とある。「信じる」と「信用する」これは少し違って受け取られる。しかし、原語は同じ言葉(ピステューオー)である。
多くの人が、イエスを信じた。しかし、イエスは人を信じなかった。「信じなかった」ということばに使われている言葉は「未完了過去形」であり、イエスは、信じないと言う状態を続けられた、ということである。それはイエスは人間を知っていたからである。
イエスは、何が人間の心にあるかを知っておられたとある。人の内に何があるかを知っておられたのである。それは情緒、意志、などすべてのことである。なぜ、このことを2章の最後、締めくくりに記されたか。
その前に、「イエスのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。」とある。ヨハネは「しるし」という言葉を多く用いている。このことばは原語ではセーメイオン semeionという。
(奇跡と訳される言葉は、他には、デュナミス dynamis( 力あるわざ)、テラス treras などがある。)
それはどのように使われているかを見よう。
・カインに一つのしるしをつけた(創世記4の15)
・わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。(創世記9の13)
・神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである (出エジプト記3の12 )
・いとすぎは、いばらに代って生え、ミルトスの木は、トゲある植物に代って生える。これは主の記念となり、また、とこしえのしるしとなって、絶えることはない」。 (イザヤ 55:13)
そしてこの言葉は、ヨハネ17回、マタイ13回、使徒 13回、ルカ 11回マルコ7回と使われている。
神はカインにつけられたしるしによって、カインの命を守ろうとされた。人を憎むことは殺すことと同じと言われている。致命的な苦しい状態に誰かによって追い込まれた時、憎むときは殺すこととつながる。もし、人を憎んだら、滅ぼされるとするなら、すべての人が滅ぼされることになる。しかし、神は兄弟殺しの罪を犯したカインを殺さないで、守られた。また、ノアの洪水の後に出た虹も、契約の「しるし」である。そして、「神は共にいる」と神が語りかけたというその神の言葉もまた「しるし」なのである。
イスラエルの民に示された雲の柱、火の柱も「しるし」であり、また、糸杉やミルトスの木も神様の永遠の「しるし」なのである。
以下の歌詞にある「あめんどう(アーモンド)の花」も神の「しるし」である。
♪ 一、あめんどうのはなが さきました。いたみのなかでも 希望のしるし
二、はなの命は よみがえる。世界に愛はのこってる?
三、いくさはすべてを うちこわし きずあとのこす 地のうえに
四、あめんどうのはなを 感謝しよう 主イエスの愛の しるしです
(世界の賛美 Tの34 「あめんどうの花」 ドイツ/イスラエルの賛美)
このアメンドウの花も、心して見るとき、神の愛の「しるし」となる。地上の、とくに戦争のときなどには、その悲惨を見れば、神はいないように思われる。希望も絶望に変ることもあろう。しかし、人の心には、そうしたことの直中にあって、神の愛を、そして希望が生じてくる。それは、奇跡のようなことである。
そのような暗い中にあっても、なお、神は絶大な力、全能の御方であり、しかも愛をもっておられるという神からのメッセージを感じ取る人が起こされる。
私たちの周囲の身近な 自然、植物などから、神が共におられるというようなことも、すべて神の愛の「しるし」なのである。
ヨハネ福音書では「しるし」は特に多く17回使われている。ヨハネは特別な啓示をうけて書かれているので、使われていることばも、さまざまな意味を込めている。「しるし」とは様々な意味で使われているのである。
「しるし」をみて人はイエスを信じた。しかし、イエスは人を信じなかった。それは、人のことを良く知っていたからである。
何が人のうちにあるか、知っていたからである。「人を信じている」と言うのは聞こえがいい言葉である。
しかし現実は、ペテロは、イエスが捕らわれて殺されると言った時、イエスを叱ったとある。そして、殺されてもイエスについて行くと断言したその直後で、イエスなど知らないと呪いを吐いてまで言った。人間はいざとなると、突然、悪になる。
「人間は、突然悪人になる」と夏目漱石は書いている。しかし、最初から、人間誰の心の中にも、その悪は存在している。
イエスに3年間も家族も職業も捨てたほどの熱心であったはずの弟子が、イエスがとらわれたあと、女中の、あなたもあのイエスとともにいた、という言葉をうけて、突然、イエスなど知らないと言いはった。これは、心にサタン(悪の霊的な力)が入ったからである。
誰でも、深い罪があり、それが、突然現れることがあるのである。戦争ではそれが浮き彫りになり、人を殺しても平気になる。しかし、そのような傲慢や悪の支配の心も老年になり苦しみが与えられたり、また自分の死を前にして深く知らされることがある。
人の真実は信じられるだろうか。人に真実があるだろうか。一日を振り返って、愛があったかと考えると誰も、神様のよろこばれるような愛などなかったことに気づかされる。本当の正義や真実があるとは人は誰も言えない。誰でも、自分中心になるのである。病などで体に激しい痛みの中にあるとき、祈ることもできなくなる。他者を思えず、誰でも自分中心となる。
多くの人がイエスを信じた。しかし、イエスは後で人がどのように変わるかも知っておられた。イエスを信じたといっても、心は変わることがある。イエスを信じた群衆は最後には、イエスを十字架につけろといった。人は悲惨や苦しみの中で、もう神を信じなくなる人もいる。
しかし、イエスがすべてを知っておられると言うことは、また、わたしたちの苦しみも知ってくださっていることでもある。わたしたちが、どんなに苦しくても、悲しい気持ちであっても、どんなときでも心に入ってきてくださる。
海にはさざ波が絶えず生まれている。風が小さくても大きくても、さざ波がおこる。それは一瞬、一瞬、多様な動き方をもっており、光をもって輝く。広大な海には無限に富んだ変化がある。神の業は小さな波模様であっても、たえず心に語りかける力がある。風も、どこからともなくはいってくる。
誰に話してもわかってもらえない思い。しかしイエスだけは無数の波のこまやかな動きのように、心の隅々まで入ってきてくれる。何が人の心にあるかを、神様が知ってくださっているのである。そして、罪も弱さもイエスの十字架に向かう時にはそれを赦してくださる。神様は十字架をあおぎ、赦しを求めることを待っておられ願っておられる。みこころを行うこと、それは、自分の罪を知り、十字架を仰ぐことである。イエスにこの罪を赦してくださいと願うことである。そして赦してくださってありがとうございます。と感謝することである。その扉は誰にでも開かれている。
そして最も深い「しるし」とはキリストの復活である。イエスは神殿を壊したら三日で建てると言われた。それは形式的な神殿ではなくイエスの体のことを指し復活を指す。キリストは神であり、人である。それを知らなければしるしを見ても浅い段階でとどまる。弟子たちは3年間もイエスの奇跡を見てきたが最後になってイエスを知らないと言った。しかし、イエスが祈って待てといわれた聖霊が与えられた時、はじめて根本から変えられた。 最大の「しるし」は、イエスの復活なのである。
人は表面的に見てもその心はわからない。しかし、そのような人間を知ったうえで神は導こうとされている。
今、戦火から逃れるために避難している人たち。その中でも体が弱い人たちは、避難も耐えがたい苦しみとなるだろう。そのような苦しみもイエスだけは知ってくださっている。イエスが特別にじっと見つめてくださっている。そこでイエスに叫んでおられる方々を思う。キエフはロシアにおける、キリスト教の出発点の地でもあった。そこで主に叫んでいる人たち。それは報道はされない。しかし、そのところに、主が最大の力である聖霊の風を吹かせてくださるように。そして、政治の指導者の上に聖霊の風が吹くように祈り願う。
さまざまな意味を持つ「しるし」を思い、イエスがすべてを知っておられて、主を仰ぐものを必ず助けをくださることを信じ、わたしたちも周囲の人たちも、遠く離れた地の人たちも、いっそう、そのように歩めるように祈り願っていきたい。
平和はだれしも望むところである。平和という言葉でまず連想するのは、「戦争がないこと」である。(*)
(*)トルストイの大著にも「戦争と平和」というのがある。国語辞典にも平和とは、「戦争がなく穏やかなこと」。(学研国語辞典)、広辞苑では、「やすらかにやわらぐこと」、「戦争がなくて世が安穏であること。」。平和憲法というときも、同様で、戦争をしない精神を持つ憲法ということである。
戦争によっておびただしい人命が失われ、傷つき、また自然も破壊される。ベトナム戦争(*)の時のように、大量の枯葉剤が使われたり、劣化ウラン弾など放射性物質などが使われることもあり、そのような場合には、戦争が終わったあとも、長期にわたる苦しみを戦場となった地域の人たちに与え続けることになる。
(*)ベトナム戦争は、1965年から10年ほど続いた。犠牲者は、南北のベトナム、アメリカ軍関係の死者を合わせると数百万人が犠牲となったと言われる。
それゆえ、戦争を好む人はだれもいないはずである。自分の家や家族が好んでそのような戦争に巻き込まれたい、などという人はまずだれもいないだろう。
にもかかわらず、戦争は古代から数知れず生じている。民族間、国家間といった広範囲の戦争はどのような民族においても生じてきたと考えられる。
古代ギリシャの特に重要な作品はホメロスのイリアスであるが、これも一種の戦争の文学である。
旧約聖書における「平和」
それに対して、平和ということはどのように考えられてきたのであろうか。そのことについて聖書の記述を見てみたい。
まず、創世記においては、例えば新共同訳では、創世記からレビ記まで、一度も平和という訳語は使われていない。つぎの民数記でようやく一度あらわれる。
平和という言葉の原語(ヘブル語)は、シャーロームである。このシャーロームという原語自体は、創世記でも十五回ほど使われている。しかし、それらは、「安らかに先祖のもとに行く(死ぬこと)」とか、「彼らは安らかに去って行った」「彼らは、元気(無事)か」といったように、社会的平和といった意味では用いられていないのである。
このように、旧約聖書においてはその最初の重要なモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)にも、一度も社会的平和、戦争のない平和といった意味では出てこない。
その後の、ヨシュア記、士師記、サムエル記に至る書物においてもほとんどみられない。わずかに、以下のような箇所があるだけである。
・イスラエルとアモリ人との間は平和であった。(サムエル記上七・14)
・ヨアブは彼らを殺し、平和なときに戦いの血を流し、腰の帯と足の靴に戦いの血をつけた。(列王記上二・5)
・ソロモンはティフサからガザに至るユーフラテス西方の全域とユーフラテス西方の王侯をすべて支配下に置き、国境はどこを見回しても平和であった。(列王記上 五・4)
・見よ、あなたに子が生まれる。その子は安らぎの人である。わたしは周囲のすべての敵からその子を守って、安らぎを与える。それゆえ、その子の名はソロモンと呼ばれる。(*)
わたしは、この子が生きている間、イスラエルに平和と静けさを与える。
(歴代誌上二二・9)
(*)ソロモンという名は、ヘブル語のシャーローム に由来する。
新共同訳の訳語として、「平和」というのが使われていても、それは、ほかの訳で、「元気に、穏やかに」と訳されているような場合であり、社会的な平和を指してはいない。
例えば「アブネルは平和のうちに出発した。」(サムエル記下三・21)というのは、口語訳、新改訳では「アブネルは安心して出発した」というようになっている。
このように、旧約聖書では全体として見るとき、現在私たちが絶えず目にするような社会的な平和という言葉はわずかしかない。
それは、数千年昔の、旧約聖書の時代においては、神がその歴史における神の御計画の成就のために、神の言葉を与えられた民をさまざまの周囲の圧迫から守るために、武器をとって戦うことを命じているからである。
しかし、旧約聖書においても、後の時代ーメシアが現れる時においては、
「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」(イザヤ書2の4)
このような非暴力の時代が目指すべきあり方となることが預言されている。そして、信仰によってキリストを受けいれたときには、その人の心にはこのような、本当の戦いの意味が示される。武力による戦いではなく、神の目に見えない力による戦いだということである。
武力による戦いは、必ず滅びに至るーそれは、アッシリア、新バビロニア帝国、アレクサンダー王国、ローマ帝国、モンゴルの広大な帝国…歴史上の数々の国々もみな滅んでいった。
このことは、じっさいに、キリストの時代になって、目に見えない武器ー信仰、その神の言葉を守るのは、神の力であって、武器の力ではない、かえってイエスが言われたように、
「剣をとる者は、剣によって滅びる」(マタイ 26の52)
旧約聖書においては、神の言葉を担った民を守り、歴史のなかで、神の言葉をこの世に永続させていくために、武力で戦う(*)ということがキリスト以前ではあった。
(*)なぜそのような方法がとられたのか、なぜ、ある歴史のなかの時代に限定されるとしても、武力をとらずに神の言葉、神の民を守る道はなぜとられなかったのか…それはわからない。私たちの判断においてわからないことは無数にある。
例えば、ある人が非常に重い障がいをもって生れるのに、別の人は、生涯健康である、ある人は、犯罪や事故、災害で大怪我したり生涯が代わってしまうのに、何も遭わない人もいる、 ある人は百メートルを10秒で走れるのに、ある人は、歩くことも立ち上がることさえもできない…それはなぜなのか。
また自然の無数の変化ある姿もなぜそのような形、色、生態となっているのか、ほとんどはわからない。例えば、バラなどのトゲがなくてもほとんどの植物は生きている、
また、バラのトゲを切り取っても正常に成長、花も咲かせる。なぜバラにはトゲが必要なのか、 また、なぜ葉には鋸歯があるのか、それらの鋸歯にいろいろと植物によって変化あるが、そのような変化の存在はいかなる意味を持っているのか。鋸歯以外に、葉の形状、幹や茎の千差万別の多様性、樹木の姿、また動物のさまざまの色、形態、そのような多様な有り様が存在する理由…あるいは、花の一つ一つ、雲の一つ一つの動きはどんな意味をもっているのか、我々へのメッセージは何であるのか、またこの世は最終的にどうなるのか、等々。科学が発達したらみなわかるようになるなどということは決してない。
科学で説明できるのは、ある現象がいかにして生じるか、といった過程であり、さきほど述べたような千差万別の現象がなぜ存在するのかとか、万有引力がなぜ存在するのか、またその引力が、距離の二乗に反比例して質量に比例する力がなぜ存在するのか、あるいはなぜ三乗に比例する力でないのか…等々、存在理由はみなわからない。
葉の形や幹、枝などの伸び方…等々もどれも同じになっていないでそれぞれの植物でみな異なるーそうした違いの存在理由は何なのか。生存競争、適者生存、自然選択等々の考え方では到底説明できない。
キリンのあの独特の斑点や特異な姿にしても、あのような模様が生存競争に打ち勝ったとか適者生存などでまったく説明できない。首や足などが長くなくとも、またあのような派手な模様などなくとも立派に生存しているものがほとんどだからである。
また、ときには、場所、空間を超えたところの出来事を感じ取る人がいたりする。
その最たるものが、聖書に記されてている預言者の存在であり、数百年も後に成就してその真理が証明されてきたその預言である。 また、祈りによってじっさいに病の癒しが生じることもあったりするのはいかにしてそれが可能なのか、こうした科学や論理では答えられないことを教えるものこそが、聖霊である。 「聖霊がすべてを教える」 (ヨハネ14の26)
一般的に、人間やその集合である部族や国の戦争とは何が原因で生じるか、それは権力や物に関する欲望が背後にある。それゆえ、聖書は戦争の根源にあるものに最初から集中しているのである。
シャーロームという言葉
そして、シャーローム(*)という言葉そのものも、戦争がない、何も混乱がない、といった否定的な表現を持っているのでなく、そのもとにあるヘブル語の動詞、「シャーレーム」とか、「シャーラム」という語は、「完成する、満たす、全うする」というように訳されていることからもわかるように、戦争がない状態というのは、そうした完成された状態からおのずから生じる状態だと言える。
(*)シャーローム shalom というヘブル語は、旧約聖書では267回用いられている。また、その動詞形である、シャーラム shalam は、「完成する、満たす」という意味を持っていて、これは236回用いられている。
「完成する」という本来の意味では、「こうしてソロモンの神殿は完成した。」(列王記上9の25)のように用いられ、「満ちる」という意味では、例えば「アモリ人の罪はまだ満ちていなかった。」(創世記15の16)
シャーラムという動詞は、口語訳聖書では次のような言葉に訳されている。
→「完成する」、「終わる」、「栄える」、「平和を得る」、「償う」、「果たす」
また、ヘブル語の辞書(米英のもの)には、シャーロームには、次のような訳語をあてている。 completeness, soundness, welfare, peace
日本語訳聖書(口語訳)では、次のような訳語をあてている。
「平和」、「平安」、「安心」、「安全」、「穏やか」その他の訳語は、「親しい、繁栄、善、真理、幸福、好意…」等々の言葉があてられている。この日本語の訳語には、原語の本来の意味である、「完成する」というニュアンスが感じられない。
聖書は、「まず国家や民族同士の戦争のない平和な状態を求めよ」というようには記していない。それは、そのようなことは、人間の力によっては実現されないからである。人間が求めるべきこと、そして地上の人間に与えられることは、一人一人がまず自らがどんなに不十分であるか、いつも神の国と神の義を求めていくことなのである。そして、真剣に求めるものには必ず与えられると約束されている。
創世記からはじまる旧約聖書のはじめの方に置かれている内容、それは現在の日本語訳聖書では五百頁ほどにもなるが、そこで一貫して言われているのは、国々の戦争を止めよ、ということでなく、愛と真実に満ちた全能の神の言葉に聴き従うということである。
闇と混沌、混乱のただなかに、神が「光あれ!」と言われたことが聖書の最初に書いてあるが、これが平和についてもその根源的真理を深くついたものとなっている。
どんなに闇が深くとも、神が「光あれ! 」と言われるなら、そこに光が存在し、秩序が生れていく。それはまさしく本当の平和への道が暗示されていると言えよう。
闇と混乱とは、そのまま人間の心の深いところでの状態であり、その闇や混乱から戦争へとつながっているのであるから、そこに光が臨むことによって真の平和がもたらされる。
その意味で、真の平和への道はすでに創世記から記されているのである。
この究極的な平和への道は、人間の努力とか計画、会議、あるいは武力などによってはなされない。ただ、神が時至って、「光あれ!」と言われたとき、 神の御手が働いたときに、いかなる闇であってもそこに光が及ぶ、ということなのである。
そしてそれによって、混沌から秩序へと向かうことが創世記第一章では示されている。
戦争とは、大量殺人、強盗、欺き、破壊、暴行などありとあらゆる悪がそこから生じる。それはまさに闇とその果てしない深み、そして混沌とした状況である。しかし、そこに光が与えられることにより、闇の力は退き、混沌は、秩序となっていく。これこそは、神に由来する平和である。
創世記にはもう一つの天地創造に関わる啓示が記されている。それは、第二章である。そこでは、最初にあったのは、渇ききった状況であり、草木もまったくなかった。それはこの地方のあちこちに広がる砂漠地帯の状況を反映している。
このように、創世記の第一章〜二章にかけて、人間の最も困難な状況は、闇と混乱、あるいは水がない渇ききった状況ということで描写されていると見ることができる。
そして闇と混乱のただなかに光あれという神の言葉によって光が生じたように、第二章では、砂漠の状況のただなかに水が地下から湧き出て、潤すようになったと記されている。その水は、エデンにその源があり、エデンに造られた園を潤し、さらに、四つの川(*)となって世界を潤していった。
(*)四という数は、全世界を象徴するものであり、四つの川が流れていくということは、世界中を潤すという意味がこめられている。
憎み争う心、復讐やねたみといった心はうるおいがない。人間が闘争的になるのは、渇いているからである。深いところで満たされないからである。こうした渇きこそが、人間同士の争いの根源となる。もし、私たちが、魂の深いところで神からのいのちの水によって満たされ、潤されているなら、 他人からの攻撃や不正を受けても、打撃を受けず、それを静かな心をもって受けとることができるだろう。
このように、深い闇の心、そして渇ききった心こそは、戦争の根源であるといえるが、その二つの究極的な解決の道があることを、聖書はその巻頭にはっきりと示しているのである。
そしてそれははるか後になって、キリストが現れるときまで、地下深くに流れる水のように時折表面に現れるものの、大多数の人間にはなかなか気付かれないものとなった。
神による平和への究極的な道を人間は拒み、神に聴き従うことをせずに歩んできた。そのことは聖書にもはっきりと記されている。それが、最初の家庭の状況である。 アベルとカインは、アダムとエバの間に生れた、初めての兄弟であったのに、カインはアベルを殺してしまった。兄弟の命を奪うという悲劇は、これから歩む人類がいかに神の光とあふれる水を無視していくかの象徴として記されている。それは、憎しみやねたみ、あるいは欲望のゆえに、武力、暴力によって相手を打ち負かすことであり、それが肥大したのが部族や国家の間の戦争なのである。
その後、ノアの記事によって記されているのは、「地上に悪が増して、常に悪いことばかりを心に思い計っている」ということであった。
こうして平和の道は閉ざされ、多くの人間が裁かれ滅んでいく。しかし、神の光を仰いで信仰によって生きたノアからは、その信仰を受け継ぐ人達がつづき、聖書の記述はアブラハムへとつながっていく。
そして神は、カナンという特定の地を選んで、そこへとくに選んだ人間、アブラハムを導くことによって、神に導かれる人間の生き方を後の人類に指し示したのである。アブラハムはもともとは、今のイラク地方にいたと考えられる。そこで、最初にカナンへ行くようにとの示しを受け、さらに、そのカナンへの旅の途中にあるユーフラテス川の上流へとさかのぼったところにあるハランという所まで来てはっきりと神の祝福と導きの言葉を聞き取った。このアブラハムに語りかけられた神の言葉、そしてそのみ言葉に従って祖国や慣れ親しんだ人達、総じて古いものを離れて、神の示すところへと歩んでいくこと、それは、あらゆる人間の地上での歩みのあるべき姿を指し示すものとなった。
アブラハムは、自分自身も神による豊かな祝福を受けるが、アブラハム自身は他者の祝福の基にもなると約束されている。神からの祝福を豊かに受けることこそ、本来、シャーロームという言葉が内に持っている内容である。シャーロームとは、すでに述べたように、「完成された状態、満ち足りた状態」を表す言葉だからである。人間が完成された状態になる、それは自分の努力や生まれつきの才能でなく、神からの祝福を受けることによってである。
アブラハムが受けた祝福は、その子孫に及んでいく。
子孫は飢饉のためにエジプトにわたってそこで大いなる民族となるほどに増えていった。しかしそこでの四百年にわたる奴隷の苦しみからの解放はモーセによって行なわれることになった。
何一つ武器を持たず、兵力を持たずにモーセはただ神の力、神の祝福と導きだけを信じてエジプトへと向かった。当時の最大の帝国に向かってその圧倒的な力と戦うのに、素手で立ち向かったのである。
ここに、武力によらずに大いなることがなされるということがはやくも示されているのである。この世の巨大な力と戦うために、武器、そしてそれを使う人間の数が多いほどよいというのが、普通の考え方である。しかし、聖書においては、真の戦いは、そのような人間の数や武器によるのでなく、神への信仰によって、神ご自身が戦われるということが繰り返し現れる。
実際、モーセはエジプトの権力や武力などを前にして、ただ信仰のみによって近づいていった。そしてその信仰によって不思議なわざが行なわれ、ついにモーセ は何一つ武器を使うことなく、この世の最強の権力や武力に勝利して民が解放されることになったのである。
これは、はるか古代の単なる物語ではない。この基本的な信仰的姿勢こそ、永遠なのであり、現代まで無数の真剣なキリスト者たちがその道を歩んできたのである。
さらに、モーセが、アマレクという民族と戦ったとき、モーセは神の杖を手に持って、丘の頂上に立った。そこで、彼が手を上げている間は、優勢になり、手を下ろすと敵が優勢になったとある。(出エジプト記十七・11)
この記事も戦いに勝利するのは、武器や兵士の数ではなく、神への信頼と祈りであることが暗示されている。神の民が勝利するのは、神の力によってなのである。
また、ヨシュア記においては、エリコに初めて攻撃するときに、神は、あらかじめその町をモーセたちに渡すと約束した上で、七人の祭司が七日間、神の箱を前にしてエリコの町の城壁のまわりを回ること、その七日目は、町を七周回ることなどが命じられた。町はこの城壁に囲まれているので、この城壁を崩すことは最大の戦いなのであった。その城壁を崩すのに武力とか人間の数でなく、ただ神の言葉を納めた、神の箱を七人の祭司に先導させて町を回るという、驚くべき仕方を命じられたのである。そして、その言葉に従ったとき、エリコの町の城壁は神の力によって崩された。
ここにも、本当の戦いは、神の力による、ということが素朴な形で表されている。
それから後の時代になって、まだ王が現れていない頃、ギデオンという人が特に神から召されて、指導者となった。彼は、ミデアン人たちと戦うために呼びだされたのであったが、いざ戦いがはじまろうとするとき、神はとくにギデオンに言われたのである。
…あなたの率いる民は多すぎる。そのままでもし戦いに勝利すれば彼らは自分の手で勝利したと考えて高ぶるであろう。それゆえ、兵士たちの数を減らせといわれたのである。そしてもともと集まっていた兵士たちの百分の一という少ない数に減らした上で、戦うように命じられた。神は、ギデオンに、「私があなた方を救うのだ」と繰り返し約束された。そしてその少数の兵士たちによって、たしかに神は勝利を与えられたのである。
ここにも、武器、兵士たちの数や策略によって勝利するのでなく、神の力によることが示されている。
また、ダビデはイスラエルの歴史では最大の働きをした王であったが、彼もその王位を獲得したのは、まったく自分の武力とか部下を統率する能力などではなかった。彼が仕えたサウル王は、ダビデが並外れた勇者であり、多くの敵に次々と勝利していくのを目の当たりにして、ダビデに強い憎しみを持つようになった。そして繰り返しダビデを攻撃し、殺そうとする。しかしそのようないかなるサウルの悪意ある攻撃にもかかわらず、ダビデは一切武力で対抗しようとはしなかった。ただ、神にゆだねて自分は殺されることすらも覚悟して、荒れ地をさまよった。あるときには、敵地へと入り込み、気の狂った真似をして、敵の警戒心を失わせ、それによってサウル王からの迫害を逃れたことすらもあった。
そうして長い忍耐と苦しみの生活は、ついにダビデが何一つ武器や人間を用いて攻撃することもなく、敵対するペリシテの軍によってサウル王は殺害され、その王子も死んでいく。
そしてダビデは、ただ神に頼り、神に叫ぶのみであったにもかかわらず、サウル王の長い執念深い攻撃から逃れて、ダビデが新しい王となったのである。
ここにも、武力によって敵を滅ぼそうとするのでなく、神への信仰によって待ち望むという姿勢がはっきりと示されている。
旧約聖書においては、戦いを神ご自身が命じられているところも、モーセからダビデに至る記述の中にしばしば見られるし、敵を滅ぼし尽くせ、といった命令もあり、私も数十年前に初めて聖書を通読していったときにも、驚かされたものである。 このような記述があるゆえに、旧約聖書は聖戦を神が命じている、ということだけが取り上げられ、一般的にもそのような内容だけだと思われている傾向がある。
しかし、一方では、すでに見てきたように、そのような聖戦の記述とともに、武力によらない神の力による霊的な戦いが示されており、モーセの時代、すなわちキリスト以前千数百年も昔から、すでに神ご自身が戦うゆえに、ただ信頼をしていることの重要性が記されているのであって、それは、聖書を一貫して流れる川のようなものである。
この流れが、ダビデより数百年あとの預言者にも流れ込み、イザヤ書やミカ書という預言書につぎのように記されている。
終わりの日に
主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい
多くの民が来て言う。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから
御言葉はエルサレムから出る。
主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。
ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。(イザヤ二・2〜5)
このように、かつて創世記で預言的に記されていたこと、エデンから一つの川が流れ出て、園をうるおし、さらに全世界をうるおす流れとなっていくということ、その流れに浸された人々は、世界の各地からエルサレムに向かうという。エルサレム、それはそこに神の言葉があり、神がおられるところだとされていた。
要するに、世の終わりには世界の民が神の言葉へと、神へと集められてくる大いなる流れがあり、そこに身を浸す者たちは、もはや武器をとらず、戦争によって互いに殺し合うということを廃し、主の光の内を歩むようになるというのである。
神の言葉が中心になって、そこに向かう大いなる流れが生じるという。
この大きな流れは、形を変えながらも現在も見られるのであって、一部の人たちには、特にその啓示がはっきりと示され、歴史のなかにも刻まれている。それは、例えば、クェーカーやトルストイ、ガンジー、マルチン・ルーサー・キング、そして無教会の内村鑑三などに啓示され、現実の世界のなかで、武器をとらず、もはや戦うことを学ばないで、主の光の内に歩んだのであった。
クェーカーの非戦論
そのうち、クェーカー(*)のキリスト者たちにおいては、新約聖書の非暴力による戦いを支持する箇所(**)を根拠としているが、それとともに、抵抗することなしに、十字架の道を歩まれたキリストの模範と、キリストを信じる人に同じように歩むことを指し示す新約聖書の精神全体が、この平和主義の根底をなしている。
彼らは、周囲の状況や意見などよりも、新約聖書そのもの、キリストご自身を単純率直に受け入れたのである。
真理は、つねにキリストにあり、キリストからの啓示を書き綴ったのが新約聖書であるから、彼らの主張は単に一つの教派の主張というのでなく、キリストご自身、新約聖書それ自体に根ざしている。それゆえにその平和主義の主張は、迫害に遭っても消滅することはなかった。
(*)クエーカー(Quaker)は、キリスト教の教派の一つであるキリスト友会(-ゆうかい、Religious Society of Friends)に対する一般的な呼称。この派の創始者は、ジョージ・フオックス(一六二四〜一六九一)。クエーカーというのは、神の言葉(キリスト、聖霊)によってふるえる(quake)ほどの感動をしたからと言われている。会員自身はこの言葉を使わずに、主イエスが、「あなた方を友と呼んだ」と言われたことから、友会徒(Friends)という呼称を用いている。
(**)敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ(マタイ五・44) 、「剣を取る者は剣によって滅びる」(マタイ二六・52)他。
彼らの考え方をさらに引用しておく。
… 友会徒(クェーカーのキリスト者)は、平和の世界をもたらす唯一の方法は、たとえそれが危険をはらんでいてもそれを恐れず、今、ここで始めることだ、と信じている。
ホーグという一人の友会徒が、その平和の原理を説いたとき、聞いていた人が、「もし、世界があなたのような心がけだったなら、私はその考えに従おう」と言った。そのとき、ホーグは「それなら、あなたは一番最後によい人になろうと考えているのです。私はいち早くよき人になって、他の人に模範を示したいのです。」と言ったという。
大きな問題を照らす光は、まず、はじめに、自分の確信に従って生きようとする個々の真実な人々の中に起こって、そこから徐々に広まっていくということは、無限の英知のお方である神の御旨なのだと思われる。
(*)(ハワード・ブリントン著 「クェーカー三百年史」212P〜213より)
(*)It seems to be the will of Him who is infinite in wisdom that light upon great subjects should first arise and be gradually spread though the faithfulness of individuals in acting up to their own convictions.
(Howard H. Brinton 「 Friends for 300 years」162p )
真理は、まず一人の中に示され、さらに、そうした一人一人の、真実さ、ーそれは神、主イエスと結びついて与えられるものであるがーそれによって波のように広がって伝わっていく。これは、主イエスが、パン種のたとえで言われたことを思い起こさせる。
… イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。
「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
…天の国はパン種に似ている。女がこれを取って粉に混ぜると、やがて全体が膨れていく。(マタイ福音書十三・31〜33)
たしかにこの真理のパン種、あるいはからし種のような小さな、目に見えない真理は、まずキリストのうちに明確に宿り、それをはじめは理解できなかった弟子たちのうちにも伝わり、さらに次々と厳しい迫害と苦しみを受けるなかにおいても、広がっていった。そして、その流れは、このクェーカーのキリスト者たちにも及んでいったのがこのような記述を見てもうかがえるのである。
そしてこの真理は、歴史の中では目立たないようになることもあるが、神の定めたときに再び歴史の前面に現れてその流れを世界に知らせることがしばしば生じる。クェーカーのキリスト者たちが命がけで主張し、その真理を生きた非暴力ということは、意外なところへと伝わっていった。それはロシアのトルストイである。
トルストイの非戦論
トルストイは、一八八四年に書いた「わが信仰はどこにあるか」という著書のなかで、次のように述べている。
… 私は五十五年間、この世に生きてきた。そして幼年期を除いては、…一切の信仰を失ったという意味での、ニヒリスト(*)として生きてきた。
五年前、私はキリストの教えを信じるようになり、私の生活は突如として一変した。…
十字架にかけられた盗人がキリストを信じて救われた。…私もちょうどこの十字架上の盗人のように、キリストの教えを信じて、救われたのだ。…
私にとって一切の鍵であったのは、マタイ福音書五章39節の「目には目、歯には歯をと言われている。しかし、私はあなた方に言う。悪しき者に手向かうな」という箇所であった。
私はいきなり、しかも一度でこの一節をじかに、素直に理解できた。…この言葉は、突如として私には、まるで今までついぞ読んだこともなかったような、全く新しいものに思われてきた。…
キリストは決して頬を差し出せ、苦しみを受けよ、と言っているのではなく、「悪もしくは悪しき者に逆らうな」、と言っているのである。この言葉こそ、私にとっては、一切を啓示してくれた真の鍵であった。これらの言葉を素直に理解しただけで、キリストのすべての教えの中で、もやもやしていたことがことごとく理解しやすくなったのである。…
幼少のときから私は教えられたーキリストは神であり、その教えは聖なるものであると。しかし、同時にまた、悪しき者には抵抗すべしと教えられ、悪しき者に対して忍耐するのは恥ずべきことと吹き込まれた。戦うことも、すなわち、殺人によって悪しき者に反抗することも教えられた。…
しかし、悪への無抵抗ということこそは、人間の共同生活の基礎たるべきものであり…
キリストは、言う、「あなた方は、法律が悪を矯正するものと思っているがーそれはただ、悪を増大させるだけである。悪を根絶する道は、ただ一つ、一切の差別なしに、万人に対し、悪に報いるに善をもってすることである…。」と。
…悪に対する無抵抗というキリストの教えは、私がそれまで全く知らなかったもの、全く新たなものとして私の前に立ち現れたのである。(「わが信仰はどこにあるか」トルストイ全集第十五巻6〜34頁)
(*)真理・価値・権威、制度、超越的なものの実在などをすべて否定する考え方。
この文章は、いかにトルストイが福音書の主イエスの言葉のうち、とくに「悪人に手向かうな、敵を愛し、迫害するもののために祈れ」という言葉から、革命的な変化を受けたかを情熱的に表している。
彼は、十字架による罪の赦しということは十分な啓示を受けなかったとみられるが、この悪への無抵抗ということについては、当時の多くのキリスト教の指導者以上に、特別な啓示の光を受けたのがこうした著作ではっきりと示されている。
神は、とくにご自分のご意志をはっきりと人間に示すときに、特別にその目的に合った人を選び取る。トルストイはこの悪への無抵抗ということに対する、神の特別な選びの器であったと言えよう。
その著作から、七年ほど経って書き始められたのが、「神の国はあなた方の内にあり」という著作である。この書の冒頭に、次のようにある。
…私の著書に対する最初の反響の一つは、アメリカのクェーカー派からの手紙であった。
クェーカーは、これらの手紙の中で、キリスト教徒においては、あらゆる暴力や戦争をしてはならないという、私の主張に対して共感を表しつつ、二百年以上も事実上、暴力をもって悪に抵抗するな、というキリストの教えを信じ、過去においても、現在においても、自分を守るために武器を用いたことがないという自分たちの派の方針の詳細を私に知らせてきた。…(「トルストイ全集第十五巻158頁より」)
このように、トルストイの前述の著作にいち早く反応し、その共感を示したのがクェーカーであった。
そして、さらにトルストイは、ロシアにおいて生れたキリスト教の一つの教派で、徹底して非暴力を主張した人たちが、迫害され、千人あまりも処刑され、さらに彼らは、国外追放されることになったことに強い関心を示した。
彼が、最後に書いた大作、「復活」は、このドゥホボール教徒二万人以上をロシアからカナダに移住させる費用を生み出すために書かれたほどであった。トルストイは、五十七歳のときに、著作物に対する印税を受けとらないという決断をしたが、それをあえて破って印税を受け取り、それを彼らの移住資金にあてたのである。
このような、全く芸術とは無関係の、社会的な援助という動機で書かれた世界的な名著というのは、古今を通じてこのトルストイの「復活」しかないであろう。そうした目的での著作であったにもかかわらず、この作品は、高い評価を受けることになった。(*)
(*)ロマン・ロランは、次のように評したという。
「…『復活』は、ある意味でトルストイの芸術的聖書である。それは最後の華であって、恐らくは最高峰であり、その見えざる山嶺は、雲の中に没している。」
また、ロシアの思想家クロポトキンは次のように評した。「七十歳にも達したこの作者が、この小説において示した力と若々しさに接して、単に、驚嘆すべきものがあると言っただけでは言い足りない。もし、トルストイが『復活』以外に何も書かなかったとしても、なおかつ,彼は大作家の一人として認められたであろうと思われるほどに、この作品の絶対的な芸術性は高いものである。」(世界文学全集第二八巻「復活」 一九二七年 新潮社刊 より」)
こうして、全身全霊をあげてというべき、驚くべき情熱をもって、トルストイはキリストの無抵抗のあり方を主張し、擁護し、そのために、新たな大作を生み出したのである。彼の著作はロシアでは次々と発行禁止となっていったが、そうした弾圧にもかかわらず、次々と写本などによって広がり、国外にも知られるようになった。トルストイが広く世界的に知られるようになったのは、「戦争と平和」とか、「アンナ・カレーニナ」といった大作によってより、まず、こうしたキリスト教に関する著作によってであったという。
内村鑑三もトルストイの持つ深い意味を、とくに彼の非戦の立場からも特別な共感をもっていたのは次のような言葉からうかがえる。
「トルストイ一人は、ロシアの一億三千万の民よりも大である。
キリスト一人は世界十三億の人よりも大である。米のルーズベルトとイギリスのチャムバレーンとが戦争の利益を説いても、我々は彼らに聴く必要はない。
全世界の新聞記者は筆を揃えて戦争に賛成をしても我らは彼らに従う必要はない。
われらはただ主イエスキリストの言に聴けば足る。世がこぞって戦争を讃美するときに、われらは天よりお降りになった神の子の声に聴いて、我らの心を静めるべきなのである。(「聖書之研究」一九〇四年九月)
今の世界に二大偉人がいる。その一人はロシアのトルストイであり、他の一人は米国のカーネギーである。前者は終生、非戦を主張し、後者は廃戦を生涯の業としている。この二人に比べるならば、法王は光を失う。もしキリストの弟子であるにもかかわらず、戦争を認めるというのなら、その者はどんな罪悪をも認めることになる。…今のいわゆるキリスト教の指導者たちは戦争を認めて、軍旗を祝福して恥じるところがない。 ここにあげた二人のような人物は、誠に人類の現在の王と称することができよう。(同一九〇九年 九月)
トルストイ翁逝く。…彼の存在によって日露戦争に破れたロシアはなお、世界に重要な位置を占めることができた。彼のような者がいない日本は、戦争に勝利したといえども、なお戦いに勝ちし日本になお劣った点を感じさせる。そして、今やこの人は逝(い)った。
トルストイが忌み嫌ったものが二つあった。その一は戦争であり、もう一つは教会であった。かれは戦争を嫌ったゆえに戦争を助けた教会を嫌ったのである。ロシア正教会はかれを破門した。…
ロシア正教会はトルストイを破門したが、神はその正教会を破門されたのである。(一九一〇年一二月)
このように、内村鑑三は、周囲のあらゆる政治的、宗教的な圧力にもかかわらず、非戦を貫いたトルストイの姿に深く共感しているのがわかる。最後に引用したのは、トルストイが死去したのが、その年の十一月二十日であったから、ただちに内村はこの文章を書いたのがうかがえるし、そこに彼のトルストイへの強い関心が現されている。
ガンジーと非暴力
このトルストイの著作に強い影響を受け、世界的に大きな影響を与えたのが、インドのガンジーであった。
彼は若いとき、アフリカにいるときに、ひどい人種差別を受け、その撤廃のために非暴力の方法によってそのような差別的法律に反対する運動を始めた。ガンジーは、イギリスで学んだときにキリスト教に触れていたが、その後も南アフリカで、クェーカーのキリスト者たちとも強いつながりを保った。差別に非暴力の手段で抵抗するうちに多くの人たちが逮捕され、その家族を支えるための場としてつくられた施設が、「トルストイ農場」と名付けられたことをみてもトルストイの影響の大きいことがうかがわれる。
彼は、次のように言っている。
…新約聖書からは、(旧約聖書とは)全く違った印象を受けた。とくに山上の垂訓(マタイ福音書五章〜七章)は、私の心に直接に通じるものがあった。…
「しかし、私はあなた方に言う、悪しき者に逆らうな。もし人があなたの右の頬を打つなら、左をも向けよ。」という一節は私の心をこよなく喜ばせた。
このような態度は、宗教の最高のあり方として、非常に強く私の心に訴えるものがあった。…
トルストイの著作「神の国は汝らの内にあり」は、私をとりわけ惹きつけた。それは私に永久的な印象を残した。」
(「ガンジー」89頁、131頁 スタンレー・ジョーンズ著 一九五五年刊)
ガンジー自身は、ヒンズー教徒であると言っているが、このように彼の生涯を決定的にした非暴力による戦い、ということは新約聖書のキリストの教えと、それを情熱的に説いたトルストイの影響が最も大きく働いたのであった。
彼は、非暴力の教えを、インドの書物からも学んだが、こう言っている。
「その教えー悪に対するに善をもってなすーが、私の指導的原理となった。私はそれに強い熱情を感じた。…私の心の中にしっかりとこれを結びつけたのは、新約聖書である。」(同右 )
また、ガンジーに最大の影響を与えた書物、または人物は誰か、との問いに答えて、
「書物では聖書、人物では、ラスキン、及びトルストイ」と答え、後年になってインドの古い書物であるギータを付け加えたという。
そして彼が終生の住み家とした小屋のような家には、電気もなく、小さな机、書棚があり、そこには、インドの古い書物ギータと共に、ヨハネ福音書が置かれ、文鎮には、「神は愛なり」という、ヨハネの手紙にある言葉が刻まれていた。また、壁の一方には、キリストの絵がかけられていた。
(「ガンジー」カルヴィン・カイトル著 二二四頁 一九八三年刊)
マルチン・ルーサー・キング
このようにして、キリストの非暴力による戦いの精神は受け継がれ、さらにこのことは、アメリカの黒人の差別撤廃運動に決定的な足跡を残した、マルチン・ルーサー・キングにつながっていく。
キング牧師は、ガンジーの影響を強く受けたことを繰り返し述べている。
こうした大きな流れ、もとをたどっていくと、結局はキリストにその源がある。そのキリストに二千年を超えたそのような現実的な力を及ぼすのは、「悪人に手向かうな。敵を愛し、迫害するもののために祈れ」と言われた主イエスの教えが、単なる教えでなく、背後に神の力と権威があるからである。
大地の下を地下水が流れているように、この世界の奥深いところに神の真理がその力とともに流れているからである。
主イエスが、「天地は滅びる。しかし、私の言葉は滅びることがない。」と確言された通りである。
アメリカはキング牧師の働きを国家的重要性を持つものとし、永久的に記憶に残すべきとして、彼の誕生日(一月十五日)を記念して、一月の第三月曜日を国家の祝日にしている。
誕生日が祝日になっているのは、他にはワシントンとリンカーンだけだから、アメリカの歴史で特に重要な位置づけがなされているのである。
キング牧師は、その短い生涯の終りに近い頃、はっきりと平和への道を聖書にあるように、啓示されていた。
…今日も、そして明日も困難に直面するとしても、私にはなお夢がある。それはアメリカの夢に深く根ざした夢なのだ。
つまり、いつの日か、この国が立ち上がり、
「我らは、これらの真理を自明のものとして承認する。すなわちすべての人間は平等に造られている」(独立宣言の一句)というこの国の信条の持つ真の意味を生きるようになるという夢なのだ。 …
私には夢がある。ジョージアの赤色の丘の上で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷を所有した者の子孫が同胞として同じテーブルにつく日が来るという夢が。
So even though we faces the difficulties of today and tomorrow,
I still have a dream. It is a dream deeply rooted in the American dream.
I have a dream that one day this nation will rise up and live out the true meaning of its creed. "We hold these truths to be self-evident: that all men are created equal."
I have a dream that one day out in the red hills of Georgia the sons of former slaves and the sons of former slave owners will be able to sit down together at the table of brotherhood. I have a dream !
…ミシシッピーの全ての丘から、自由の鐘を鳴らそうではないか!
すべての山々から、自由の鐘を鳴らそうではないか!
そして、私たちが自由の鐘を鳴らす時、
私たちがアメリカの全ての村、すべての教会、全ての州、全ての街から自由の鐘を鳴らすその時、
全ての神の子、白人も黒人も、ユダヤ人も非ユダヤ人も、プロテスタントもカトリックも、
皆互いに手を取って古くからの黒人霊歌を歌うことができる日が近づくだろう。
「自由だ!ついに自由だ!全能の神よ、感謝します。ついに我々は自由になったのだ!」と。
Let freedom ring from every hill and molehill of Mississippi and every mountainside. …
When we let freedom ring, when we let it ring from every tenement and every hamlet, from every state and every city, we will be able to speed up that day when all of God's children, black men and white men, Jews and Gentiles, Protestants and Catholics, will be able to join hands and sing in the words of the old spiritual,
"Free at last, free at last. Thank God Almighty, we are free at last."
このキング牧師の演説には、彼が、すでに引用した、旧約聖書の次の箇所と相通じるものがある。
終わりの日に
主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい
多くの民が来て言う。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」(イザヤ書二章より)
キング牧師のあの数々の危険に直面してもあくまで、キリストの精神に従って非暴力の抵抗を示したその背後には、このように、神からの啓示を受けていたという事実がある。啓示は単に未来のことを知らされるということに終わるのでない。それは、力を伴うのである。
このように、聖書の表現では、啓示を受けた、ということを、キング牧師は、より一般的にわかりやすい言葉、「夢がある」という表現を用いた。旧約聖書では、しばしば、「幻」と訳されているが、これは適切な訳語ではない。原語としては、ハーゾーンが、主として用いられていて、ハーザーという「見る」という動詞の名詞形であって、英語訳聖書では、vision と訳されている。これは、日本語の「幻」という語は、「実際にはないものが、あるように見える」 のであるが、聖書に言う預言者が見ることを許された「幻」はそのようなものではない。
例えばイザヤ書の冒頭に、「イザヤの見た幻(ハーゾーン)」とある。これは、イザヤが霊的に引き上げられて、普通の人には見えないものが、見えるようにされたのである。これは霊的な現実のことを、ベールをとって見させていただいた、ということなのである。
キング牧師は、一九六八年四月三日、暗殺される前夜におどろくべき演説を行なっている。
…私自身、自分の身の上に何が起こるか分からない。これから相当困難な日々が私たちを待ち受けている。しかし、私はそんなことはもう気にならない。
私はすでに山の頂きに登ってきたからだ。…今はただ神の意志を現したいという気持ちでいっぱいだ。神は私を山の頂きまで登らせて下さった。その頂きから約束の地が見えた。 …分かって欲しいのは、私たちは一つの民として約束の地に行くのだということだ。だから今私は喜んでいる。私はどのようなことにも心は騒がない。
主が栄光の姿で目の前に現れるのをこの目で見ているのだから。
この生涯で最後の演説は、差別と悪に満ちた現実と、神の究極的な喜ばしい世界とが重なり合った緊張ある内容となっている。暴風雨警報の出ている中、立錐の余地もない一万一千人の人たちを前に、準備する時間もなく、原稿も用意することなく、彼は演説に臨んだ。そして霊に導かれるままに語ったのであった。
彼は、「すでに山頂に登ってきた」といった。これはモーセが、約束の地を前にしてヨルダン川の東の山の頂きからその場所を見つめたという聖書の記述が背景にある。しかしそれにとどまらず、預言者たちが霊によって引き上げられたということと同じであって、彼の魂の目は、はっきりと神の約束の地、そして世の終わりのときに、すべての差別もなくなって、真理のもとに流れてくる、という預言者イザヤと同様の啓示を受けていたのであった。
この神の国を目指す流れが歴史の中においても確固として存在し、それは多くの名も知られない人々の心の中を流れ、適切なときにすでに述べたような特別な証し人が起こされてきた。
究極的な平和への道としてのキリスト
旧約聖書において、イザヤ書やミカ書以外にも、詩篇においてもこうした最終的な平和が預言として記されている。
「地の果てまで、戦いを断ち、弓を砕き矢を折り、盾を焼き払われる。
力を捨てよ、知れ、わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」 (詩編46の9〜10)
しかし、それが地上において現実になるためには互いに憎み合い、攻撃しあうような本性そのものが打ち砕かれねばならなかった。その目的のために、人々の罪を担って、自らの命を捨てるようなお方が現れることが預言された。このような人間が現れることが、不可欠であるのを、イザヤ書五十三章は述べている。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられた…
彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
…わたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。
屠り場に引かれる小羊のように
彼は口を開かなかった。
捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
命ある者の地から断たれたことを。…
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。
彼が自らをなげうち、死んで
罪人のひとりに数えられたからだ。(イザヤ書五三章より)
こうして真の平和のためには、特別なお方の犠牲による死があるのだということが預言され、ずっと後になって、たしかにキリストが現れ、この預言通りに生きられたのであった。
イザヤ書で預言され、キリストにおいて完全に実現された平和への道、それは、他者の罪を担うために、自ら命を捨てるというキリストの犠牲によって成就された。
さらに、イザヤ書には、最終的な平和ということも記されている。それは、世の終わりを見つめてのことである。
それは新しい天と地という言葉で表現されている。
見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。
初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。
代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして
その民を喜び楽しむものとして、創造する。(イザヤ書六五・17〜18)
わたしの造る新しい天と新しい地が
私の前に永く続くように
あなたたちの子孫とあなたたちの名も永く続くと
主は言われる。(イザヤ六六・22)
しかし、このイザヤ書の箇所とその前後を読むと、「新しい天と地」は、まだイスラエル民族や彼らの信仰の中心であったエルサレムのことと結びつけられて記されている。しかし、この箇所は、将来の全世界、さらに宇宙に生じる最終的な状況を預言するものとなった。
このことは、主イエスが次のように言われたことと深くつながっている。
…その苦難の日々の後、たちまち
太陽は暗くなり、
月は光を放たず、
星は空から落ち、
天体は揺り動かされる。
そのとき、人の子の徴が天に現れる。(マタイ二四・29〜30)
このように、すでにあるこの世界(宇宙)が過ぎ去るということが言われている。主イエス自身も、「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」(同35)と言われた。
この目に見える天地宇宙は滅びる、と言われる。しかし、滅びないものがある。ここでは、キリストの言葉である。キリストの言葉とは、神の言葉であり、神のご意志に他ならない。そしてその神の万能のご意志によって、世の終わりには新しい天と地が創造されるということが、聖書の最後の巻である黙示録に記されている。
わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。 (黙示録二十一・1)
これは、主イエスの言われた言葉、「太陽も月も暗くなり、星も光を失う」ということは、「天地が滅びる」ということであり、その上で、新しい天と新しい地が生じる、ということである。
ここに、聖書における平和の究極的な姿がある。今の人間や世界をどれほど改善しようとしても、人間の本性はよくならない。これは、戦後六〇年を振り返ってもわかる。教育は戦前よりはるかに普及し、物質的にも世界最高レベルといえるほどに豊かになっている。しかし、だからといって平和が来るのではない。
イザヤ書や黙示録で言われているように、この世の延長上に究極的な平和が人間の努力や会議などで来るのでなく、神の万能の力によって新しい天と新しい地がもたらされることによって来るのである。それは、キリストが来られてからは、キリストが再び来ることによってであると記されている。このように、世界の平和というのは、信仰によって啓示されるものなのである。
そのように、究極的な平和ということを指し示しつつ、この世に生きる人間にその平和の本質的なものを実感することができるような道を開いて下さった。それが次のよく知られた意味深い言葉である。
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…わたしは、平和(平安)(*)をあなたがたに残し、わたしの平和(平安)を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心配するな。恐れるな。(ヨハネ十四・27)
(*)日本語の「平和」という言葉は、戦争がない状態ということを主として連想し、「平安」というと心の安らかな状態を意味する。平和憲法を、平安憲法などとは決して言わないし、平和会議、平和主義とは言っても、平安会議とか平安主義などとは言わないことからわかるように、この両者に意味の違いが明らかに存在する。
ヨハネ福音書のこの箇所についても、訳語によって、社会的平和、戦争のない状態を意味するように受け取ることになったり、平安と訳されると、精神的な安らぎを意味するようなニュアンスとなる。
しかし、原語ギリシャ語のエイレーネーの持っている意味は、そのさらにもとになっているヘブル語のシャーロームという言葉の意味が根底にある。
ここで約束されている「平和」とは、戦争のない状態を意味するのでなく、キリストの平安である。
この、主の平和を与えるという約束と、主イエスこそが闇に輝く光である、ということとは深くつながっている。神の光を受けるならば、私たちの魂は平和を与えられるからである。
…わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。…(ヨハネ福音書八・12)
これは、この同じ福音書の最初にある次の言葉と響きあう言葉である。
…光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。(ヨハネ一・5)
光はいかなる闇にあっても、そこに注がれることができる。聖書の最初にある、果てしない闇が混沌と深淵を覆っていたがそのただなかに「光あれ」との神の一言によって光が生じたという箇所は、このキリストの存在によって完全なかたちで成就したのである。
平和への道、それは聖書の最初から、一貫して示され、いかなる時代の変革や状況にもかかわらずに続き、存在してきた。私たちはこの永遠の平和への大道を示されているのであって、私たちの真剣な求めによって、それは今後とも、消えることなく、はっきりと示され続けていく。
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(この文は、2006年12月 大阪でのクリスマス講演をもとに加筆、 「いのちの水」2006年12月号に掲載したもの。現在のロシアのウクライナ侵攻に際して、聖書はどのように平和について記しているのか、またその聖書の言葉をもとにして生きた人たちの考え方を私たちもこうした時代であるからこそ、学ばなければと思われたので、今回、再掲載した。)
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〇キリスト者の証 (以下の証しは、オンラインでの主日礼拝のときになされた五分間の証しです)
T.S(岩手県)
岩手県のT.Sと申します。1945年9月10日に生まれたものです。現在私は2017年2月からパーキンソン病になり、2020年2月に脳梗塞を発症して治療を続けております。今日は私がいま不安に思っていることの一つをお話したいと思います。
現在、日本では自民党の意向を中心に憲法改正が考えられております。自民党が憲法九条に自衛隊についての記載を追記したいと考えているようです。
そもそも日本国憲法が作られた時、自衛隊を保有するという記載はありませんでした。
しかし、1950年、朝鮮戦争の際、アメリカの指示により自衛隊の前身である警察予備隊が設置させられました。
それは日本に集中し、駐留していると発表。米軍が戦地である朝鮮半島に向かって、日本軍を応援する必要があるとアメリカは考えたためです。
1953年、朝鮮戦争が終わった後、現在まで自衛隊は存続しております。自民党は現在、憲法改正を訴えておりますが、憲法を改正することにより自衛隊が場合によっては、アメリカが行なった戦争に軍隊として参加するようなことが起こりえる可能性があります。 また日本と外国の外交においてはさまざま。不安な情勢がありますが、自衛隊を軍隊として認めた場合、最悪のケースとして自衛隊が戦争を行うことが可能になることが、憲法改正により起こりえると考えています。 今戦争をした時に考えられる最も恐ろしいことは核戦争です。だが決して核戦争をしないようにすべきです。 しかし一旦戦争を始めてしまうと、核戦争に至らないことは保証できません。それが今、私が憲法改正に反対している理由であり、日本の状況で最も心配していることです。
しかし新約聖書の教えは、無抵抗、非暴力です。その事を考えると憲法を聖書の教えに反するようなものにしたくないと考えております。
私はその事を少しでもいいから頑張って主張して行きたいと考えております。これが今、私が考えている証しの一つであります。ご清聴頂きましてありがとうございました。
T.Y(岩手県)
私は今年の春、コスモスとオシロイバナの花を蒔きました。コスモスは地面の上にパラっと蒔くとしばらくして立ち上がり、頭の方は緑色になっています。オシロイバナは、小さな固い黒い種ですが、しっかりした双葉になります。讃美歌21の575番「球根の中には」の英語の詞に「リンゴの種、さなぎの中に、隠された約束。いのちの終わりは、いのちの始め」という言葉がありました。たくさんの花を夏じゅう美しく咲かせ、秋になるとコスモスはピンと張った種になります。オシロイバナは霜に会い、真っ黒な萎れた葉になってしまい、その変わりようにびっくりします。でも蒔いた時と同じ種が1つずつ隠されていました。
さなぎから真新しい蝶が出てくるのを見ました。時間をかけてくしゃくしゃの羽を伸ばして飛び立つのです。芋虫が朝顔の葉の中でじっとしているのだけど、次の日は別の場所に行って探すのが楽しかった。
その家にある朝顔は10年ほど前、級長の会で、撫順の奇蹟から学ぶというお話の時もらった朝顔の種です。戦後千人近い日本兵が撫順の戦犯管理所に収容され、食事や医療など人道的に扱われ、暴力は決して振るわれなく、戦時中の犯した罪の重さ、償いとは何かを考え反省し、6年後、中国の軍事裁判では一人も死刑にならず、すべて日本に帰国できたそうです。
帰国者は、この行為を語り継いで報復でなく許すことで平和の道を探したことを、のちに撫順の奇蹟と言われるようになりました。
今度来るときは武器でなく花を持ってきてくださいと手渡された種だそうです。 その種が毎年の夏とても美しく咲いています。平和の尊さということを改めて、いつも考えさせられることです。
私たちの証しはこれで以上です。
戦災孤児からアメリカへの復讐ーそしてキリスト者としてのミャンマーでの奉仕
H.M(神奈川)
神奈川県のH.Mです。私は東京大空襲で家を焼かれてホームレスになりました。2歳半のときです。10ヶ月に及ぶ疎開生活の過労で母は亡くなり、翌年、交通事故で父も他界し、就学前に孤児になりました。
大井町の駅前で戦災孤児の仲間とストリートチルドレンをしていた時、靴磨きのおじさんから「原爆を作ってアメリカに復讐しろ」と助言を受けました。この人はにこやかにぺこぺこしながら、アメリカの兵隊の靴を磨いているのに、心の中には戦争で負けた復讐心を持っている人で、言葉は知りませんでしたが、私はその時、テロリストを見たという思いがしまして、自分もそうしようと思いました。「原爆を作るには理科と算数をうんと勉強しろ」と言われ、小学校に入る前から算数の勉強をしようと、兄の教科書を五十音も読めない時から一生懸命見て、数字と図形だけで理科の勉強をしました。奨学金を得て、大学は理工学部に進学し、原爆はもう学問としては古いので、殺人光線を作ろうと思い立ちました。
奇跡的な導きでYMCAの学生寮に入寮して、そこで聖書に出会い、酒枝義旗 という先生に出会いました。聖書をロクに読んでないと同僚から批判されて、思い立って創世記から黙示録まで通読することを心がけ、大学2年の夏休みに1回目の聖書通読を終わりました。ローマ書の12章19節に「自分で復讐するな。」とありまして、復讐が自分の人生と思い定めておりましたので、大変葛藤致しました。1年以上、この言葉と葛藤してとうとうパウロの言う通り復讐を神様に委ねようと思い立ったのが、21歳の誕生日でありました。
もう1つの時にフィリピンのあやめ支援の学生が妹を日本兵に殺され、日本に対する復讐心を持っているという話を人づてに聞きまして、自分は戦争の被害者だと思っていたけれども、加害者の片割れであるということに思い至りました。21歳の誕生日に復讐願望をあきらめ、その後は日本が犯したアジアに対する大きな罪の償いをすることを人生目標としようと決心致しました。
紆余曲折ありましたけれども、53歳というのは父が亡くなった年齢ですが、この年齢に仕事をやめてボランティア人生に帰りました。横浜YMCAの国際事業委員会というところに参加して、東南アジアに対する国際ボランティアの活動に参加しました。広瀬誠医師に会って、ミャンマーのマラリア対策に毎年来てると言うので、志願して、広瀬先生のお供をして7年間ミャンマーに通いました。2005年の元旦に広瀬先生が現地でなくなり、御遺体を担いで帰ってきました。以後、広瀬誠の志を継いで、ミャンマーに対する償いの業をしようと思い立ちました。
現地のパートナーはカレン族の牧師で、メルビンという人であります。カレン族は旧日本軍が目の敵にしてイギリスのスパイだというので迫害した人で、メルビンのお父さんもおじいさんも日本兵に殺されたということでした。メルビンはカレン族で少数民族でありまして、当時は大学に進学できなかったので、高等教育としてはイギリス系の進学校に技術を伝えていったそうです。そこで私と同じローマ書の12章19節に出会い、日本人に復讐することをやめて、日本のことを勉強するようになったそうであります。このカレン族、このメルビンの息子のジャクソンというのを日本に呼びまして、アジア学院に留学して有機農業を学んでもらえました。
以上でございます。ありがとうございました。
S.S(長野)
長野県のS.Sです。23歳で神に救われるまでを簡単にお話します。
高校生活を、山形県のキリスト教独立学園で過ごし鈴木弼美校長をはじめ先生方の姿に触れ卒業し、大学生となりました。
大学入学の春、鈴木校長の信仰の友である数学科の教授の部屋へ呼ばれ、岡山の集会に参加することを勧められました。
しかし自由にしたい気持ちが強い私は教授のご厚意を断り、鈴木校長の熱意をも裏切り、神に背を向け逃げ回っていました。
放蕩息子よろしく自分の思う通り、やりたいようにして大学4年間を過ごしていたのです。研究室で指導してくださっていた助教授から、大学院が新設されるので進学してはどうかと勧められ、俺の飛躍の時だと希望を抱きました。指導してくださった先生が突然アメリカに行くことになり、研究室を去りました。
夏休みが終わり4年生の途中で受験しましたが、落とされました。自信をなくし、学び続ける気持ちも失いました。結局、4年と数ヶ月で大学を去ることになり、自分中心の生き方は収穫もないまま神様の御手によって、バッサリと砕かれました。
進学もせず就職もせず。ただ両親を悲しませただけ。失意のどん底。悶々とくすぶっていました。
すべての道が閉ざされたのか。神様は全く新しい道を備えてくださいました。 東京の姉から「生活費やアパート代など一切合切を出してあげるから、こっちへ来ないかい。」と呼ばれました。着の身着のまま、何も持たず、世田谷のアパートへ転がり込み、東京のど真ん中で、一文無しの無職。姉の教会へ通うこととなり、1月30日、キリスト者とされました。何もかもなくなりましたが、それに代わって主から最大のものをいただき、復活しました。
キリスト教独立学園の鈴木校長を何年ぶりかで訪問した時、静かなささやく声で「関君は放蕩息子だね。」と言われました。その意味の深さも分からず、自宅に戻ったのでした。
振り返れば、父母をはじめ出会ったすべての人をことごとく裏切ってきました。こんな私をも最大のもてなしをもって喜んで迎え入れてくださった父なる神の愛。その深さが少しずつ分かってきています。鈴木校長の「関君は放蕩息子だね。」と言った静かなささやく声が今も響いています。以上です。
〇勝浦良明文集、生出正実(おいで まさみ)「沙漠にサフランの花咲く」の二つの文集の求めがあり、再版しましたので、希望者は申込ください。いずれも一冊三百円(送料込)
左記の郵便振替、もしくは二百円以下の切手でも可です。
〇徳島聖書キリスト集会の礼拝は、コロナの感染者増大のため、二月からオンライン(スカイプ)のみとなっています。参加は自由で、現在は、主日礼拝には、北海道から九州まで五十名前後の方々が、
参加されています。
参加希望者は、左記の吉村まで御連絡ください。スカイプでの参加に必要なことなどをお知らせします。