いのちの水 2022年 4月号 第 734号
暗闇に住む民は大きな光を見、 死の蔭の地に住む者に光が射し込んだ。(マタイ福音書4の16) |
目次
・「沙漠にサフランの花咲く」を読んで N.M ・「勝浦良明記念文集」を読んで T.Y |
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・お知らせ 北田康広 賛美伝道30周年感謝記念CD他 |
2001年9月、アメリカで、テロによって世界貿易センタービルが破壊された事件以降、平和のためと称してアフガニスタンやイラクへの戦争が始められた。 しかし、それによって世界が平和になるどころか、いっそう不安定な状況となっていった。
武力によって解決しようとすることは、常に新たな困難、問題を生み出していく。
現在のロシアとウクライナとの戦争においても、双方が武力をますます増強しようとしている。
それがどのような結果をもたらしつつあるか、すでにさまざまの映像、報道で明らかになっている。
そしてその行き着く先は何であるのか、だれも分からない。
最悪の場合は、核を用いた戦争、多数の原発破壊を伴う第三次世界大戦ーそれは歴史上前例のないことであり、あらゆる人の想像を絶する事態である。
そのような前途がだれもわからないにもかかわらず、現在は、ヨーロッパ諸国やアメリカの軍事援助が増強され、ますます双方の武力攻撃が大規模化、先鋭化しつつある。
平和のためと称して武力、戦争に訴えること、それは、兵士たちだけでなく、一般の人々、とくに女性、老人や子ども、病人や障害者といった弱い立場の人が犠牲になることが多くみられる。
よく、武力が必要な理由として、警察と同じだなどという反論をする人がいる。しかし、警察力は、その目的が国民の生命や財産を守ることであり、そのため悪をなした人を捕らえることになる。それは悪人の犠牲となる弱い立場の人を守るということにつながる。
しかし、戦争は、過去の太平洋戦争などを見ても明らかなように、はじめから弱い立場の人を大量に巻き添えにして殺してしまうことを当然のこととしている点において、根本的に異なる。
さらに、戦争が大規模になるほど、他国をも巻き込んで多数の国々や人間を互いに全く知らない人たちを殺したり、傷つけたりする。警察は国内に限られて、他国をも巻き込んでの無差別的殺傷を引き起こすということはない。
戦争で大規模に武力を用いることは、必ず弱い人々を含め数しれぬ人達を殺害、あるいは重い傷を負わせて、生涯を狂わせること、家庭を破壊すること…等々につながる。
敵味方の双方におびただしい犠牲者を生み出すのが戦争である。
そして、本来なら何も特別にわるいこともしていないのに、人間を一人でも殺すなら、それは最も重いとなり、数人も殺せば、死刑となるほどの重罪である。
しかし、戦争となると、敵国のたくさんの人々を殺害することが、大きな喜ぶべきこととして扱われ、日本でも大量虐殺として悪名高い南京攻撃、陥落の際には、提灯行列(*)などさえも全国的に行なわれた。
(*)東京や、大阪市の大都市では、市内の各地で、40万、50万人もがその提灯行列に参加したという。それ以外の日本各地でも、奉祝の提灯行列が行われた。
中国の何万、何十万人という人達を死傷させたような悲劇を、日本では国民が最大級の祝賀行事のように扱ったが、戦争が人間の正しい判断をいかに大きく狂わせるかを示している。
このように、武力を用いて平和を獲得しようとすることは、歴史の中で繰り返しなされてきたが、そのために本当の平和は訪れることもなかった。
主の平和
人間を大量に殺傷し、家族のつながりをも破壊していく罪深い武力による道と違って、真の平和に向かう確実によい一歩がある。そしてどんな長い距離も小さな一歩から始まるように、ここでいう一歩とは、きわめて小さいものとみえるが、これこそが確実な一歩なのである。
それは、まず自分が本当の平和を持つこと、しっかりと揺るがない平和を持ち続けることである。
そのためにはどうするか。それがキリストの来られた目的でもあった。
それは私たちの本当の平和とは、魂の内なる平安であり、それは自分の考えや他人からの説得などにはよらない。私たちの心の動揺や混乱などは魂の奥深いところで、自分は悪いことをしたのだという意識からくることがある。
だれしも人間を超えた正しい存在、清い存在、そして愛のお方を前にして、うしろめたい気持ちにならないという人は少ないだろう。
まず私たちの過去の罪をぬぐい去っていただき、今、現在の心の罪を清めて頂いていて初めて、私たちは愛と真実の神を心から仰ぐことができる。
私たち一人一人が、まず神との平和を与えられるとき、それが一人の人間の魂の平和の根源であり、出発点である。神との平和とは神と人間とを阻む罪の問題がなくなると、すぐに実感できることである。
たった一人の心の平和が何が世界の平和と関係があるのか、という人が多数であろう。
しかし、そのたった一人が集まって世界があるのであって、私たちもそうした人間のうちの一人なのである。だからたった一人でも確実な平安を持っている人は確実にこの世界に平和を生み出したことになる。
主イエスの言葉に、つぎの有名な言葉がある。
…ああ、幸いだ、 平和(平安)を実現する人々は!
その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ福音書五・9)
このところで言われている平和という意味を、現在私たちが新聞やテレビなどで耳にするふつうの社会的平和だと考えられる場合が多い。
日本語となったこの言葉は、平和と訳されるのと、平安と訳されるのでは意味が大きく異なってくる。
平和というと、戦争がない状態であり、平安というと心の世界のことである。
この聖書の箇所では、ほかの聖書の箇所ーとくにヨハネ福音書などを参照するとき、社会的平和を実現するとか、社会的平和を造り出すことの幸いを言っているというよりも、そうした社会的平和の根源にある人間の魂の深いところに与えられる主の平安を意味している。
それは、主イエスの次ぎの言葉も暗示する。
…地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。
平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。 (マタイ10の34)
イエスは、表面的な平和をもたらすためでなく、そこに剣を投げ込むためといわれた。
この世の平和は、権力やカネの力、差別、あるいは古くからの因習を守るとか、また敵対の心はあっても自分の地位を守るために表面的に平和を繕うといった意図、あるいは武力などのバランスで与えられることが多い。
イエスの当時のユダヤ人社会も、形式を重んじる律法第一とした、硬直化した宗教指導者が多くをしめていたことが福音書に記されている。そうした中に本当の霊的自由と霊と真実をもって礼拝する信仰のあり方を命がけで指し示したのがイエスだった。
福音書において、戦争を無くそうとか、政治的、国際的な平和を樹立しようとされたというような記述は見られない。
それは、社会的な平和以前に一人一人のうちに確固たる平和がなければならないからである。
目にみえる戦いがなくとも、人間の心が傲慢で、自分中心に生きていて、罪などなく正しい道を歩いている、と考え、真実を愛することのない心があるなら、その人の心には揺るがない清い平和はないし、そのような心をもった人間同士では、何かのきっかけで争いがたちまち生じるからである。
日本においても、戦後76年ほども戦争をしなかった。しかし、だからといって日本人の心はより清く、真実になったであろうか。
自分の心の内にすら、確たる平和を持てないならどうして他者との関わりで本当の平和、神が喜ばれるような平和を持つことができようか。
人間的な遠慮や妥協、相手に対して気を悪くさせてはならないといった感情的なレベルでの平和は聖書でいわれている平和ではない。
すでにあげたキリストの言葉「私は平和をもたらすためでなく、剣を投げ込むために来た」という言葉は、 表面的な平和のようなものを砕き、そこに揺るがぬ神に基づく平和(平安)をもたらすのがキリストの使命であることをこのような驚くような表現で述べたものである。
実際、主イエスは、当時の偽善的な宗教家や人々の形式的なものに堕落した宗教的姿勢を厳しく指摘した。その指摘を神からの警告と受け止めず、そのために、人々は激しく怒ってイエスに対して 敵意を持つようになった。
また、
しかし、他方ではそのようなイエスを神の子、救い主として受け入れる人もあり、そのような人には、神の力と祝福を与えられたのであった。
このような主イエスの態度は、究極的な愛と真実の御方で、かつ全能の神への悔い改めなくしては真の平和はあり得ないという確信から来ている。
キリストの弟子たちも、たとえ周囲に混乱が生じようとも、真理を伝えることへと導かれた。
使徒言行録にはそうした大きな混乱や騒動、迫害がいろいろと記されている。
キリストの使徒として最も大きな働きをしたパウロについても、そのことが記されている。当時の大祭司たちは、パウロのことを訴えて、つぎのように告発した。
…この男(パウロ)は、疫病のような人間で、世界中のすべてのユダヤ人の中に騒ぎを起している者であり、また、ナザレ人らの異端のかしらであります。
(使徒言行録二四・5)
また、パウロは、ギリシャの町フィリピでは、彼をねたむ人たちのために捕らえられ、つぎのように訴えられた。
…「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。」
(使徒言行録十六・20)
このように、パウロは平和をもたらすどころか、騒ぎと混乱をもたらすものとして訴えられている。これは主イエスご自身が神殿において、いろいろなものを売り買いしていた人たちの椅子などをひっくり返し、人々がいかに見せ掛けの宗教に生きているかを厳しく指摘したり、当時の指導者であったパリサイ派の学者や祭司たちにはっきりと彼等の偽善を指摘したために、彼等が怒り始めたということが聖書には書かれているが、 そうした真理のために語る姿勢を弟子たちも与えられていたからである。
こうした聖書の記述を見ても明らかなのは、キリストの福音こそは、真の平和をもたらす根源であり、それなくば平和というのは単にみせかけのものであり、砂上の楼閣のようなものだという認識である。
それゆえ、使徒たちは例えば次ぎのように、その手紙の冒頭で、「あなた方に平安(主の平和)があるように」という祈りを繰り返し強調しているのである。
…私たちの父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平和(平安)が、あなた方にあるように。(ローマの信徒への手紙一・7)など多数)
平和の根底には、私たち一人一人のうちに、神との平和がなければならない。パウロはその点を明確に述べている。
… このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。(ローマ五・1)
信仰によって、義とされる、すなわち救いを与えられ、神との霊的な交わりを与えられたということは、神との平和を与えられたということなのである。
この平和こそが人間同士や、人間の集まりである社会的平和の揺るぎない原点となる。
この神との平和がないということは、すなわち、真理、真実に背いているということであり、他者の罪に対する赦しや敵対する者のために祈る心も持たないということである。
なぜなら、愛や真実の完全な総合された存在が神だからである。
キリストこそ平和の源であるということは、新約聖書ではとくに強調されている。
…実に、キリストはわたしたちの平和(平安)である。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し…
こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされた。…(エペソ書二・14〜16)
この文は初めて読む人にはわかりにくい表現もある。「肉において敵意の壁を壊した」といっても何のことか分からないだろう。
これはキリストが自分の肉体に十字架刑を受けて、血を流して死なれたが、それによって、さまざまの敵意を滅ぼしたということなのである。
キリストの十字架の死を自分の罪のためになされたことだと心から信じて罪の赦しを実感した者は、それまで持っていた他者に対する何らかの敵意や見下すような感情は壊され、相手に神の国がきますようにとの祈りの心が芽生える。
また、この時代には、戒律ずくめのユダヤ人の旧約聖書(律法)のこまかな規定を守らなければ救われないとして、そうした規定を守らないユダヤ人以外の人々を見下し、彼らを汚れているとしていた人たちが、そのような傲慢さや異邦人への敵意を完全にぬぐい去ることができた。
それはそのような規定とは全く別に、キリストの十字架による赦しを信じるだけで、赦され救われるからである。
このようにして、キリストの十字架は多様な敵意や傲慢が作っていた壁を取り壊して、どんな民族であっても信じるだけで救われ、またどのような敵対者同士も片方が救いを実感したときから、祈りという道が開けて和解の道が開けるということなのである。
平和とは単に敵意を持たないということでない。人間が互いに愛もなく、無関心なのを平和な状態だと錯覚したりすることが多い。
しかし、そうした無関心、あるいは冷たい平和というものは何かあるとたちまち敵意となってくる。
日常の生活のなかでも、だれかが自分の悪口を言っているということが伝わったとたんに、その人とは平和な関係は失われてしまうーこのようなことは、ありがちなことであろう。
社会的な状況においても、いったん戦争が始まると、しばしばその戦争に反対する人達に強い圧力がかかってきて、それまで平和な友人同士であったと思われていた関係がたちまち崩れていくことも多くなる。
それゆえに 単に争っていないというだけでなく、相手によきことがあるようにとの祝福の祈りにも似た気持ちがなければ、本当の人間同士の関係は平和な関係とは言い難い。
そしてそのような静かな持続的な祈りをなさしめるのが、私たちの内に住んで下さるキリストであり、聖霊なのである。
個人的なレベルにおいても、また社会的な広い範囲においても、確かな平和を造り出すための基礎は、やはり聖書にいうように、まず一人一人がキリストの十字架によって罪赦されて神との平和を与えられることなのである。
ー「東大教授、若年性アルツハイマーになる」ーを読んで
この本を読んでいて、いろいろと共感すること、多くあった。若井克子さんは、独身時代に徳島県南の高校に教師として赴任され、短期間であったが、聖書キリスト集会の会員として集会をともにしたことがあったために、そして最晩年のもう言葉もでなくなって寝たきりとなっていたご夫君にも直接に栃木県のお家でお会いしているので、そのときのことを思いだしつつ読めて、いっそう身近に感じることができた。
以下の部分は心に残っている一部ではあるが、ネットにも記されてていたことで何らかの参考になる人もあるかと思い、その一部を引用する。
この著者の記述によって、キリスト者らしい、主の平安を与えられつつ、十字架を仰ぎつつ、自宅での介助の生活を歩まれたあとが伝わってくる。こうした書き方なので、いろいろなアルツハイマーや認知症関係の本で書かれることとは、違ったかたちで、心に入ってくる人も多いのではないかと思われる。
現実に、日々こうしたことや類似のことを経験している身にとって、そこに書かれていない数々の思いや困惑、悲しみ、苦しみ、またときには、心に重荷を感じ、日々が苦しい歩みとなることにも出会ったこともあるかも…と、そしてそこから、主イエスが言われたことー重荷を背負っているものは、私のもとに来れ。私が軽くしてあげよう、とのみ言葉を聞きつつ、新たな力を受けつつ、歩まれたのではーと思えてきた。
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… デイサービスで騒いでしまい、職員に問題視されてしまった晋。なぜ彼は、そんなことをしてしまったのでしょう。彼から聞き取ったことを私なりにまとめると、次のようになります。
「自分は理解力が落ちている。だから、自宅を離れてデイに行き、よく知らない職員に声をかけられても、わかるまでに時間がかかる」
問題が起こった時期、晋は週2回のペースでデイに通っていました。そんな頻度で顔を合わせる職員であっても、いつも初めて会う気がするらしいのです。だから5ヵ月たった時点でも「まだ人と場所に慣れない」のでした。
「僕はひとりでやっているの」というのは、「僕は僕なりに一生懸命、やっているんだよ」と言いたかったようです。
よく知っている人でも、たまに会うと〈あれ? 誰だっけ? 〉となるし、誰だかはっきり思い出すまでには時間がかかるそうです。
電話に至っては声しか聞こえませんから、顔を見るよりさらにわかりにくくなります。だから電話には出たくない、といったことまで話してくれました。
そして、いろいろなことが続いて、自分で自分がわからなくなると、つい「うるさい!」と大声が出てしまうそうなのです。
こんなふうに内容を整理していくと、細かな出来事も含めていろいろなことが見えてきました。事の発端は、デイで晋が大きな声を出すので、頭にきた別の利用者が怒鳴り返したことだったようです。晋も、そしてほかの利用者やデイの職員も、みんな限界だったのかもしれません。
「もうやめよう」
私が言うと彼もうなずいたので、こうして2つめのデイも去ることになりました。
周囲となかなか噛み合わない、私たち。かつて講演で、晋は自分のことを「エイリアン」(alian 外国の、よそ者、相いれないなどの意)と呼んでいました。
ある日の夕食どきの、こんな記憶がよみがえります。テーブルには、おかずがいくつか並んでいました。晋はそのなかから、ひとつのお皿のものだけを集中的に食べるのです。
「どうしていろいろ食べないの?」
こう尋ねると、晋から意外な答えが返ってきました。
「僕の住んでいる世界は、たいへんなんだよ。いろいろな種類を食べなくては、と思っても、手が出ない。がまんして、嫌いなものでも食べないと、と思っても、できないんだ」
僕の住んでいる世界。
彼は、どんな世界に住んでいるのでしょう。
2010年、私たちがJCMAの総会に出席した際、こんな出来事があったのです。駅から目的地まで遠いので、参加者みんなでそろって、バスに乗ったときのこと。そこにいたのは、ほとんどが晋の知人ばかりでした。晋がバスのステップに足をかけると、大きな拍手が起こりました。
彼が病を公表した、その勇気に敬意を表してのことでしょう。私は素直にうれしかったのですが、いざ会場へ着いてみると、晋に話しかけてくる人はほんのわずかなのです。どのように近づいて、なんと声をかければいいか、わからなかったのでしょうか。
この出来事からだいぶ後のことですが、晋の友人数人が、わざわざ自宅をお見舞いに訪ねてくださったことがあります。
「やあ、元気そうじゃないか」
開口一番、みなさん口々にそう話しかけてくれるのですが、そのあとは晋に関係のない話ばかりをして帰って行かれました。
見舞客が去った後、晋はこうつぶやいていました。
「たいへんだったなあ、と一言、言ってくれればよかった」
近所を散歩しているとき、よく見かける年配の女性がいました。その人が晋を見て、
「ああ、あんなふうには、なりたくないものだ」
と大声で言っていたこともあります。
そんな人ばかりではなく、もちろん親切に話しかけてくださる方もいるのですが、晋のほうは見ないで、私ばかり見て話すので、私はやるせない思いに駆られました。
人との交わりがうまくいかないのは、つらいことです。でも私も、愚痴を言える立場にはないのかもしれません。
「克子のばか、ばか」
そんなふうに晋がつぶやいていることがありました。私だったら、どんなときに「晋のばか、ばか」と抗議するだろう。きっと、彼が私の気持ちをわかろうとしないとき、そう感じたり、口にしたりするのではないか。
彼を見ていると、私はつい、こんなふうに思うことがありました。
〈なぜ、そういうふうになるの? 〉
〈なぜ、そんなふうに怒らなくちゃならないの? 〉
〈なぜ、家を飛び出していかなきゃいけないの? 〉
そんなとき晋はきっと、
「僕は病気なんだ。仕方ないんだ」
と言いたくて、でも、うまく言えるとは限らないから怒るのでしょう。
そんな内的世界を、私は我がことのように考えているだろうか。彼の苦しみに、本当に思いを向けているだろうか。ときにそう、反省させられるのでした。
こうやって会話を拾い集めていくと、なんだか晋が流暢にしゃべれたかのように錯覚してしまいます。しかし実際には、徐々に言葉は失われていったのでした。
2013年、三度目の正直、と思って通い始めたデイをやめたあとから、晋はときどき、意味のとれない言葉を早口でしゃべるようになります。試しに一度、録音してみたのですが、およそ次のようなものでした。
「…こんなこと言ったって覚えないから 見ないから うるさいよー ガチャガチャ バカ カタカタドコドコトコト そんなことごと、ごめんねー……」
言葉ではなく「音」というべきかもしれません。文字にすると、ところどころ単語らしいものが混じることに気付くのですが、口頭では意味不明でした。本人は、外国語でも話しているかのようですが、横にいる私には正直、うるさくて仕方がありません。
とくに困ったのは就寝時。あんまり長く「話」を続けるので、思わず、 「うるさいよ」
と大声が出てしまったこともあります。
たまりかねて、講演を通じて知り合ったある医師にこの悩みを手紙で相談したことがありました。医師は、次のような趣旨のアドバイスをくれました。
「彼(晋)にとって大切な医学的なこと、聖書に関わることを話されているのではないだろうか。時には耳を傾けて、意味あるものとして聞き取るなら、彼も落ち着くのではないだろうか」
この返信が届いた晩のこと。まるで示し合わせたように、晋が意味不明な言葉をしゃべり始めました。手紙を思い出した私は、じっと我慢し、相槌を打ちながら耳を澄ませます。すると、
「君はどうして、信仰に入ったの?」
という言葉が、不意に無秩序な音のなかに差し込まれたのです。
「晋さん、晋さんは今、私がどうして信仰に入ったの、って聞いたの?」
「そうだよ」
私は、できるだけ短い答えを探しました。
「私はね、イエス様を見たんだよ」
沈黙。
「ありがとう、ありがとう」
そう言って晋は、眠りに入っていったのです。
こんなことがあって以来、私はできるだけ晋の「言葉」を聞くように努めました。
しかし、どんなに耳を澄ましても、その大部分は意味不明な音。わかったふりをして「うん、うん」と返事をするしかありません。そのうち晋は、こう尋ねるようになりました。
「わかった?」
「わかってるよ」
そうとしか答えられません。正直に「わからない」と伝えるのは、ためらわれました。晋はもしかしたら、私が「わかったふり」をするのに気づいていたかもしれません。いや、気づいていたからこそ、確認したのでしょう。ですが、その確認の言葉さえ、時がたつにつれてなくなっていきます。
言葉でのやりとり自体が、難しくなっていきました。
そして晋からの発信は、怒鳴り声へと変わっていきました。
あるとき、両目に痛みを覚えた私は、眼科を受診することにしました。午後3時の診察開始時刻に合わせて家を出ましたが、間際、晋には、
「目が痛いから病院に行ってくるよ」
と言い置いたのです。ところが、眼科は思いのほか混んでいて、帰宅は夕方になってしまいました。
家に着くと、晋は大声をあげていました。私の姿は目に入らないようで、何か言葉にならない音を、喉から絞り出すように叫んでいます。
実は、晋に留守番を頼んだのは、このときが初めてではありませんでした。だから今回も、晋を家に残して私だけで病院に行ったのです。自宅で待たされた晋が怒ることはありましたが、それでもこんな反応は初めてで、私はしばし言葉もありませんでした。
その2日後。晋は朝から機嫌が悪かったのですが、午後になるとまた叫び声をあげました。さらに翌日、叫び声を聞き続けたせいか、耳に痛みを感じた私は、また病院に行くことにします。晋に事情をよく話して聞かせた後で、
「今度は長くかからないから、待っててね」
と念を押し、ーそう見えただけかもしれませんがー納得したようなので出かけます。病院での検査は、異常なし。それはよかったのですが、帰ると晋は、また力いっぱい叫んでいるではありませんか。
「ずいぶん長い間、大声が聞こえてましたよ」と隣家の人が教えてくれました。
私はめったに病院に行きませんし、時間がかかる外出も多くはありません。だから、ごくたまに、少し長く家を空けると、晋は、
〈もう帰ってこない! 〉
そう怯(おび)えるのかもしれません。
結局、叫びは自然に落ち着いたのですが、夜になると興奮がよみがえるのか、また怒鳴り始めてしまいました。もう遅い時間でしたが、途方に暮れて知り合いの医師に電話すると、さっそく駆けつけてくれて、睡眠薬と向精神薬(リスパダール)を使ってはどうか、とのこと。
薬を与えるのは、正直迷いました。医師でもある次男に電話で相談すると、
「アルツハイマー病の症状、たとえば『記憶できない』『失語』などが起こると、できない自分に対してイライラして攻撃性が出てしまうことがある。そんなときは、本人も周囲もつらいから、興奮を抑えたほうがいいよ」
やむを得ない、との判断。このとき以来、どうしてもつらい場合は、最少量のリスパダールが欠かせないものとなりました。
叫び声には、どんな意味があったのでしょうか。…(引用の終わり)
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アルツハイマーになって徐々に、周囲の人達と離れていく状況がどのような心情になるのか、健常者には到底わからない。
わずかに類推するのみである。
それゆえに、その当事者の言葉にならない苦しみや孤独、何ともいえない心の世界の状況は、たとえ夫婦であっても読みとるのは至難であってごく一部を類推するしかない。
けれども、ただ完全な愛と全能の神のみは、だれにも本当には理解されなくなったそのようなアルツハイマーの人の苦しい心情をも、愛のまなざしをもって見つめていてくださるのを信じることができる。
そして外見的には、次第に症状が重くなっていてどうしょうもない状況となっても、神はいっそう深いまなざしで見つめてくださっている。
神は愛であり、弱いところにこそ、神の力は現されるからであり、その神の力は無限の深みをたたえた主のまなざしとなっていると信じられるからである。
「砂漠にサフランの花咲く」を読み終えて N.M(静岡)
生出正美氏が24歳から26歳までの2年間、北海道の西南部にある瀬棚町ガンビ岱で働かれた記録「砂漠にサフランの花咲く」を読むことができました。三愛養豚協同組創立の苦難を通しての御自身の信仰の証しであると受け止めました。次々と襲い掛かる苦難に対し、真正面で受けて立つ真摯な姿に圧倒され続けました。
(1)就職先の決断…開拓者の真の隣人になりたい
1959年12月、生出さんは2つの就職先でどちらを選択するか悩みました。ひとつは、アーサー神塚先生から、瀬棚のカンビ岱と言われる地域で三愛会館建設計画があるから、住み込みで奉仕はどうか。もう一つは、父から、営農指導員として上川支庁で働くよう勧められていました。
ガンビ岱は、強風で夏は霧が発生し、冷風が吹き、3度の食事も事欠くほどの開拓民…負のイメージを感じていました。しかし、国際キリスト教奉仕団の支援や利別教会牧師・相良先生の福音宣教もなされている土地であることも教えられていました。一方の上川支庁は、仕事が楽であり、そのため自分の時間確保できる、生活が保障され安定しているとよい条件が沢山揃っていることを示されました。多くの人からも上川支庁が良いと勧められました。
生出さんは毎日悩みました。そして、ある晩のこと、野幌教会祈祷会の帰り、暗闇の中で祈ると、「お前はクリスチャンのような顔をして、貧しい農民のために働くと言ってはいるけれど、自分の仕事しか考えていない,エゴイストだ。」と示されました。罪深い自分の姿を知らされたと語っています。この時、自身の内面を抉り出され、次のように言っています。「実際は浅い見栄の信仰でしかなかったのではないか…全てを懺悔して、真剣に祈りました。もう一度全てを白紙にかえしてよく考えました。かつての自分の願いは何であったか、思い起こしました。それは自分でなければならない仕事をすることでした。」
このところを読んでいますと、サウロがダマスコ途上で天からの光を浴び、3日間目が見えなくなり、回心されたシーンと重なりました。
生出さんの場合は、夜の暗闇であり、サウロとは正反対ですが、心の内面を暴かれ、悔いるしかないと観念されました。そして、「本当に自分を必要としているのは、条件の悪い、瀬棚であることを知らされました。」と。
神は、わたしを愛し、捉え、瀬棚の地に私を用いようとしておられることをはっきり自覚させられたのです。「神の計画の中に自分がいるのを知らされた。この時、瀬棚行きを決断しました」と、吹っ切れた心境を語っています。
もう10年程経つと思います。私は、瀬棚聖書集会に参加しました。その時、野中正孝兄の家に民泊させていただきました。牧場の牛を見たく、独りで外に出て、のんびり下手な讃美歌を口ずさみ散歩していたその時、丘の下方、つまり海側から風が流れていました。緑豊かな牧草が、下の方から揺れ始めるや、一気に目の前を通過し上方へ過ぎ去りました。草が次から次に裏返えされ、葉の色が緑から白に変わっていく風景が、あっという間に通り過ぎて行ったのを覚えています。この体験を通しても、瀬棚の丘は強風が吹くことが実感しました。
2つの就職先ですが、ガンビ岱と上川支庁の選択は、神の国とこの世の選択であったと思います。生出さんははっきり言いました。「本当に自分を必要としているのは、条件の悪い瀬棚であることを知らされました」と。
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
既にこの御言葉が生出さんの胸中にあり、狭い門の選択こそ、神様の望む道、神様と出会える道であることを確信されていたと思いました。
(2)豚舎建設の苦難…
三愛精神こそ解決の道
就職した年の1960年11月12日、年内完成を目指し、豚舎建設工事着工を決断。コンクリート工事は遅すぎ、止めた方が良いという意見が、生出さんの耳に入っていたものの強行しました。27日から大吹雪となり工事が中断、大工からは年の暮れで金がかかるから先払いしてくれとせがまれ、全工事費の約8割の支払いを済ませ、豚舎完成前に豚が到着する始末。心配や苦労が幾重にも重なり、眠られぬ夜を過ごしたため、やせ衰えてしまいました。
しかし、生出さんの心には、「神は人が会ええない試練はおあたえになりません」という、神への信頼の御言葉がありました。「祈りの中で、こんな無力な自分をも愛してくださる、誰もすることのできない困難な仕事に、特に私を選んで用いてくださっているのだ、こんな小さな自分でも、イエスの苦難にあずかっているのだということを知らされた」と、苦難のただ中にあっても神に感謝しています。
さらに感謝が続きます。「私が瀬棚で働いているのは、神が導き、用いてくださったのであり、神に対する奉仕なのであって、そのことが、開拓者に向かってなされているような錯覚を抱いていた自分が恥ずかしく、彼等から何と言われようと神が良しとされ、神がほめてくださるならよいではないか、報いは神から受けるべきであり、開拓者に求めるべきでないことを教えられました。」
与えられた苦難に対し、神に感謝を捧げつつ、一日一日を愛おしみながら過ごされました。そして念願が叶い、年内に豚舎が完成したのです。
(3)隣人の重荷を背負う…神の愛に接した時、力が与えられた
瀬棚行きは、部落の人達の隣人になりたい、これが生出さんの明確な目的でした。真の隣人になるという事は「泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜ぶ事」とハッキリしていました。
そのため、隣人から相談を受ければ懇切丁寧に話に耳を傾けられ、頼まれ事は全て受け入れ、直ちに行動に移しました。
生出さんに激しく文句を言って去った人が、別の人と争い事を起し、村八分にされそうになりました。その時、生出さんはその人の家を訪問し、何と、夕方から23時迄、とことん話し合い、問題が起きたら私が仲裁に入ると言ったその時、やっと自分に非のあることを認めた事、また、奥さんは涙を流された事。6月の夜12時頃、その人が我が家に入って来て、妻が腹痛で苦しんでいるので医者を呼びに行ってほしいとの突然の願い事。これは困ったものだと飛ぶように山を下り医者を連れてきました。処置が終わって医者を送った帰り道、夜明けを迎えた事。
別の人の奥さんが夜中にやって来て、夫がオートバイで行ったきりまだ家に戻らない、迎えに行ってくれとの頼み事。車の事故で遅くなってしまったことが分かり、喜び合って帰宅した事。その後、農繁期の5月、今度は盲腸で入院してしまい、子供2人を抱えた奥さん一人では、搾乳牛と家畜の世話は無理と判断し、朝、昼、晩の3回、日によっては夜遅くまで手伝った事。
この行動力の裏には、御言葉がありました。「敵を愛し,憎む者にも親切にせよ。呪うものを祝福し、はずかしめる者のために祈れ」「泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜べ」
生出さんはこう伝えています。「このような御言葉に触れ、神の愛に接した時、はじめてそれを為す力が与えられた。真の信仰を持たなければ真の隣人になり得ない。しかし努力しました。」と。神の御言葉をそのまま、一点の曇りもなく信じられたからこそ、隣人のためにとことん働けることができたのだと思いました。
まとめ 生出正美さんの2年間の記録は、決して長い期間ではありませんが、心が揺さぶられました。感銘を受けました。私にとりこれほど強い衝撃を受けたのは、実に久しぶりのことです。
真剣に神様に迫り、困った時は直ちに祈り、神様の御声をお聴きしたのです。はっきりとした御声が届かなければ、何度も何度も祈り続けました。生出さんの真摯な祈りの姿勢に出合い、自ずと私自身のいい加減な、甘い祈りに気づかされました。正直、恥ずかしくなりました。
そして、24歳から26歳と若い年齢でありながら、聖書を深く読まれ、苦難に直面した時には、その苦難に相応しい御言葉を思い出しては、心の拠り所とされ、勇気をもって立ち向って行かれた姿を鮮明に示していただきました。真に神と共に歩まれた人生でした。
イエスは弟子たちに言いました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」この御言葉は、生出さん自身に投げかけられた言葉であると真正面から受け止め、その通り歩まれたのです。
全存在を賭けて祈ること、神、イエス・キリストの御言葉は自分自身に向かって話された御言葉であること、この2つがキリストを信じ生きる者にとり大切であること、今、改めて教えられました。
おわりに、60年前に発行された生出さんの祈りと信仰を記された本に光を当て、再び刊行された吉村さんの御愛労に心から感謝致します。
千葉県 T.Y
生出正美さんのお名前は瀬棚聖書集会に参加された方から聞いていました。
それから、東京聖書集会に、生出さんの娘さんの直子さんが来られていたので、本誌には大 いに関心を持ち、読ませていただきました。 生出さんは信仰を与えられて、それ を実践されて行く中に次第に信仰を深められている様子、そして神を愛し、人 を愛し、土を愛する三愛精神によって、若くて未経験ながら三愛養豚組合を指導され、 良かれと思って一生懸命やっているのに、様々な困難な問題が発生し、 事業に関係する人たちから誹謗中傷を受けられます。
生出さんは気持ちが折れ、 仕事を投げ出したいと思うのですが、これは神様に備えられた道と思い直し、 最後までやり遂げられて素晴らしい成果を上げられました。 また組合員の団結にヒビが入ったときにも愛を説いて修復されました。
そして生出さんが約束の2年間を心身ともに精一杯捧げ尽くされ、ガンビ岱(*)を去られるとき、多くの人か ら惜しまれ、悲しまれて送られる情景には涙が出ました。 この小誌から生出正 実さんの何事にも一生懸命努力される誠実な好い人柄が忘れがたく心に焼き付けられました。
(*)瀬棚にある地域で、カンバ(樺の木)が多かったこと、岱は中国の泰山を意味する。
勝浦良明さんと初めて親しくお会いしたのは、2010年、 私がキリスト教 独立伝道会の派遣で徳島聖書キリスト集会に招かれ、 吉村孝雄さんの案内で、徳島大学病院の8階の勝浦さんの病室を訪問、紹介されたときです。そのとき勝浦さんが臨死体験の話をされたのを思い出します。
勝浦さんはベッドに寝たきりの厳しい状態にあって、 何人ものクリスチャンと の出会いが備えられ、キリスト教信仰に導かれ、生きる意味を知って意義ある 人生を生きられました。 吉村さんが書かれている通り、 そうした勝浦さんの特別な境涯を生き切られた存在自体が私たちに感動を与え、何よりも大きな伝道の働きになっていると思います。 そんな苦難の人生を生きられた勝浦さんは、天国で大いに報われていると想像します。
今回、吉村先生と徳島聖書キリスト集会の方々の御愛労による「沙漠 にサフランの花咲く」の再版と「勝浦良明記念文集」の出版によって、お二人の 信仰者の記憶に残すべき生き様を、多くの人に知らせてくださいました。これらの冊誌には当のご両人とも感謝されるでしょうが、読ませて戴いた私たちにも大いに信仰を啓発される伝道誌になりました。
このように導かれた主に、尽きざる感謝と賛美を贈ります。 ありがとうございました。
試練と共に逃れの道を Y.K(徳島)
私のみ言葉との初めての出会いは、もう10年以上も前になります。
主人が癌の手術を受け、その後、鍼治療をしていただくため、天宝堂(はり治療院で、集会の綱野悦子さん経営)のところに通っていました。
私はその間、待合室で待っていましたが、そのとき壁に飾られたカレンダーに目が留まりました。
そこには下のほうに「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださる。」
(Tコリント10の13)
と書き添えられていました。私はなぜかこの言葉が心に染みました。
毎日苦しい日々を過ごしていました。主人の病も次第に重くなっていきました。 しばらくして「ベッドに聖書を持ってきて。」と頼まれました。イエス様が来て下さったのだと思います。
主人はそれから半年後の2月に召されました。
私はしばらくして天宝堂で毎月一度開かれている家庭集会と、日曜日の徳島聖書キリスト集会での主日礼拝、それから、私が住んでいる藍住町でも開かれていた家庭集会などにも参加させてもらうようになりました。 みことばを聞かせてもらえるようになったのです。難しいところもなかなかわからないところもたくさんありますけれど、イエス様を信じていれば、逃れの道があると今は感謝の日々です。 前向きな気持ちで毎日過ごす事ができています。「イエス様。」と祈ることができることを感謝しております。以上です。
K.K(徳島)
おはようございます。徳島の加藤久仁子です。今日こちら徳島市は朝から快晴です。冬の寒い時期ですが、太陽が雲に隠れてなければ、この太陽の光のありがたさを感じます。
今日、私が皆さんと分かち合いたい聖書の箇所は創世記1章です。創世記1章の14節から19節です。お読みします。
創世記1章14節「神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や、年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。神は、それらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第四の日である。」
第四の日と聖書がいう、この時、神様が何もないところから創造された、太陽と月。その時から今日までずっと空にある。人の造る形あるものは時と共に朽ちていくものばかりの中。このようなものを造られた神様の果てしのない力。そしてそれは公平で、善いもので、本当に知恵とまことに満ちています。そんな神様に愛され生かされていることを本当に感謝しています。と同時に、新年に、太陽に手を合わせる日本の多くの人たちにも、それを造られた太陽の向こうにある方を思う気持ちが与えられるよう願うものです。以上です。
〇(神の)愛とは、どの季節にも収穫のできる果物のようです。誰でも、それは手の届くところにあり だれでもそれを集め取り入れることができますし、そこには制限もありません。
誰でも黙しての祈り(黙想)、強い内的生活による祈りの霊と捧げる心によって、その愛を与えられるのです。
(マザー・テレサ) Something Beautiful for God 65p)
〇今月号に長文の引用をした、若井克子さん著の「東大教授、若年性アルツハイマーになる」の本を希望の方は、左記の吉村まで連絡くださればお送りできます。定価1400円、送料180円。 書店も郵便局も遠い、ネットでの購入も難しい、体調がわるいので行けない等々、何らかのの理由で入手しがたい方々もいるかと思いますので、電話、メール、FAXなどで連絡あればお送りできます。また代金は、自宅に残っている古い切手でも結構です。)
〇勝浦 良明記念文集と生出 正実さん著の沙漠にサフランの花も追加印刷しましたので、ご希望の方にはお送りできます。
〇北田 康広さんが、「わが感謝の贈り物」ー賛美伝道30周年記念アルバムーという賛美CDを発行されました。 価格は、自由協力費という形をとっています。
曲目は、私どもの礼拝や集会でもよく用いられている次ぎのような賛美があります。
「感謝します」リビングプレイズ131、「神様の真実は変わらない」「美しい秋」「キリストの愛にふれたその時」以上3曲は水野源三作詩、作曲阪井和夫、「安かれわが心」新聖歌303、「この地を癒したまえ」リビングプレイズ238 ほかに、「主イエスに従うわが身の幸よ」、「尽きぬ喜びを注がれるわが身の幸よ」教会福音讃美歌11、「イエス様が教会を」
讃美歌21-544他、15曲です。
これも、ご希望の方は、吉村まで自由な協力費とともに申込あれば、お送りします。自由協力費としては古い未使用切手でも可です。
〇前月号のお知らせ欄にて入力ミスがあったことをお詫びします。
生出真美↓生出正実でした。
〇以下のQRコード で徳島聖書キリスト集会のホームページを見ることができます。
〇今月号には、生出正実さんの著書や勝浦良明さんの文集にに対する感想が寄せられたので掲載し、それらを再度読み直すことで、信仰の力が与えられたらと願っています。