いのちの水 22022年 7月号 第737号
私は新しい心をあなた方に与え、 新しい霊をあなた方の内に授ける。 旧約聖書・エゼキエル書36の26より) |
目次
高橋貴美子、戸川恭子、 伊藤 義一 |
地球の上に、一人の両眼に布(包帯)をあてた女性、弱り切ったように見えて、壊れかかった竪琴にすがり、その竪琴を弾いているという絵がある。(左下)
絵の作者ワッツ(*)は、次のように述べていたという。
「私は、地球の上に座り、1本を残して全ての弦がちぎれた竪琴を弾く、両目に包帯を巻いた希望の絵を描いている。彼女は全力を尽くしてかすかな音に耳を傾けながら、可能な限り全ての音楽を奏でようとしている」
) ワッツは、イギリスの画家。1817〜1904、ここに述べた「希望」というタイトルの絵によって広く知られるようになった。
明るい未来の見通しがほとんど全て失われていたとしても、たった一本の弦が残されていれば、ごく小さな響きであってもそこにさまざまの希望をこめて奏でることができる。
それが地球の上という絵は、ちょっと見ただけでは不可解なものと受けとられることが多いだろう。
しかし、壊れ果ててただ一本の弦しかなくとも、そして目も病んで見えない、その姿は、打ちのめされて立ち上がることもできないように弱々しく見える。
このように、まったき孤独となり、どこから見ても絶望的状況であり、未来が見えない状況であっても、その弱さの中からでもイエスの言われたように、心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くして その残された弦を弾くときには、その響きは全地に響くー弱きところに神の力が働くということを指し示 すものともなっている。
言い換えると、広いこの地球で全く孤独であり、しかも目も見えず疲れ果てたーそんな状況においても、私たちが心の耳をすますことによって、希望を奏でる音楽が響いてくるし、私たちもそのような希望をわずかに一本残った弦によって奏でることができる。
信仰(*)、希望、愛は、いつまでも続くという聖書の言葉がうかんでくる。
(Tコリント13の13)
(*)原語は、pistis であり、「真実」 というのが原意。ここは、神、キリストの真実という意味として受けとることもできる。 水野源三の詩にも、「神様の真実は変わらない」というのがあり、讃美歌としても親しまれている。
私たちが生きるということも、次第に心身の能力が壊れ、衰弱していく中にあって何も良きことが見えない中にあっても、なお一本の弦のように残されたものをもって、私たちは何かを奏でることができる。
それは祈りであり、神への叫びである。自分自身の難しい病気のとき、家族の問題、またさまざまのこの世における問題、いじめや差別、無視…そして現在のウクライナでの戦争や各地での難民の人達の絶望的状況にあっても、そうしたただなかで疲れ果てた魂にとって、最後に残されたものである。
旧約聖書の特に詩篇において、しばしば現れる祈り、またそれは新約聖書においてもキリストに向って叫んだ人達の祈りがある。
それは、「主よ、憐れんでください!」である。
…主よ、我らを憐れんでください。(*)
我々はあなたを待ち望みます。
朝ごとに、我らの腕となり、苦難のとき、我らの救いとなってください。
(イザヤ書33の2)
(*)ヘブル語では、ヤハウェ ホンネーヌー。 「私を憐れんでください」なら、ヤハウェ、ホンネーニ となる。ホンネーニ とは、ハーナン(憐れむ)の命令形に一人称の接尾語が付いた形。。ハーナンは、ハンナという人名にも用いられる。また、ヤハウェの省略形 イォ が付いて イォ+ハーナン は、ヨハネ というキリストの弟子の名としてまた、英語の ジョン John、ジェイン、ドイツ語のヨハンナ、ヨハンネス、フランス語のジャン などの名前として広く用いられてきた。
このことは、うちひしがれた者、ただこのように叫ぶ他はない追い詰められた弱き者への神の憐れみが単に、多くの人の名前となっているという表面的なことで終わるのでなく、その名をとおして、神の憐れみ、愛が絶えず世界に響いているということでもある。
これは、新約聖書ではギリシャ語で、キューリエ(主よ) エレエーソン(憐れんでください) メ(私を)となる。これが、ミサ曲で 「キリエ、エレイソン 」という言葉で繰り返し歌われる部分である。
詩篇においては、この「主よ、憐れみたまえ!」は当然のことながら、数多く現れる。その幾つかに触れるだけでも、数千年も昔の人達の必死の祈り、叫びを聞き取ることができる。
それによって長い歴史のなかで無数の人達が自分たちの苦しみや悲しみに深い慰めと励ましを受けとることができてきた。
現代の私たちにおいても、持っていきようのない悲しみや打撃をうけるとき、こうしたはるかな昔の人達と神様との霊的交流の事実に触れて、私たち自身もまた同じような叫びをあげ、そこに神の深い慰めと再び立ち上がる力を与えられる。
…主よ、憐れんでくださいわたしは嘆き悲しんでいます。主よ、癒してください。 (詩篇6の3)
…憐れんでください、主よ、死の門からわたしを引き上げてくださる方よ。御覧下さい、わたしを憎む者がわたしを苦しめているのを。 (詩篇9の14)
…御顔を向けて、わたしを憐れんでください。わたしは貧しく、孤独です。
(詩篇25の16)
…主よ、耳を傾け、憐れんでください。
主よ、わたしの助けとなってください。 (詩篇30の11)
新約聖書においては、さまざまの重い病気や家族の死に至るような苦しみ、病、また、当時はまったく何もできないと無視されていた全盲の人の叫びとして現れる。
…ある村に入ると、ハンセン病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて叫んだ、
「イエスさま、どうか、わたしたちを憐れんでください」(ルカ17の13)
一人の盲人が生活を支えるためにできる唯一のこととして道端に座って通行人に物乞いをしていた。そこに多くの人々が通るのを感じて、尋ねたところ、イエスという特別な力を持った人が通るのだと知らされた。
彼は、そのイエスのことをすでに聞いていて、ダビデの子孫として現れると預言されていたメシアだと直感した。目の見えないその盲人にとってできることは、ただ大声で叫ぶことだった。
「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください!」と。
先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
(ルカ18の35〜39より)
このように、旧約聖書においても新約聖書においても、主よ、憐れんでください!との叫び(ヘブル語では ヤハウェ ホンネーニ 、ギリシャ語で キューリエ、エレエーソン メ、あるいは、キリエ エレイソン)は、どこにも向けることのでない、ぎりぎりの苦しい状態の人達の祈り、叫びそのものであった。
私たちが苦しい病気や事故、災害、あるいは犯罪、また老齢での孤独…等々にあって、その苦しみや悲しみはだれにもわかってもらえないと感じるとき、それでもなお与えられているのは、この単純な叫び、祈りである。
若き日に読んだヒルティの本に記された次の言葉がわすれられない。
…「主よ憐れみたまえ!」という祈りは、いつでもだれでもが、いかに困難な状況にあっても、どこででも祈れる祈りである。」
そして、そのような追い詰められた状況からの叫び、祈りは愛の神、またキリストは必ず聞いてくださっている。
それゆえ、いよいよそのような叫びもあげられないほどに衰弱し、疲弊しきった魂には、キリストご自身が深い祈りをもってすくい上げてくださる。
…聖霊も弱い私たちを助けてくださる。
私たちはどう祈るべきかを分からないほどに苦しいときであっても、聖霊みずからが、うめきー言葉に表せない深い思いをもって私たちのために祈ってくださる。(*) (ローマ8の26より)
(*)この最後の部分は「私たちのために、執り成してくださる」 と訳されることが多い。日本語では「執り成し」という言葉と「祈り」とは、後で記すように、ニュアンスが異なる。ここでの「執り成し」は、広い意味での「祈り」である。
ここで、繰り返し用いられている「執り成す」と訳された原語は、ヒュペル エンテュンカノー(26節)、エンテュンカノー(27、34節)である。(ヒュペルは、〜のために、でここでは強調をあらわす接頭語)
この原語は、どのように訳される言葉であるかを次の用例で見ることができる。
旧約聖書の続編にある「知恵の書」でソロモンが叡智を求める長い祈りが9章からはじまるが、その直前の8の21では、このエンテュンカノーは、「私は主に祈り…」と訳されている。 I prayed to the Lord (Wis 8の21 NJB)
また、中国語訳でもこの部分は、「祷告」または「祈求」と訳され、やはり祈りと訳している。
なお、このローマ書の箇所においても、中国語訳では、「替我們祈求」 と訳され、 これは、「私たちのために祈ってくださる」 という意味である。
しかし、日本語の「執り成す」という言葉は、「対立する二者の間に立って、うまくまとめる」ということであり、例えば仲違いした父と子のあいだに母親が入って対立をなくそうとするといった意味である。この、執り成す という日本語には、祈るというような意味はなくて双方を妥協させるという意味があるので、この重要な箇所の訳語としては、原語の意味が十分に反映されない。
この世において、ハンセン病や重病でも、全盲とか耳がまったく聞こえない、歩けないなどもなく、また事故、災害の苦しみもないという人もいるであろう。
そうした健康にとくに恵まれ、家族にも恵まれている人達においても、深い心の奥には、静かにふりかえるとき、だれもが大きな過失、罪を持っていることに気付かされるのではないか。
それは、関わるあらゆる人々に対して、愛がなかった、あるいは愛があまりにも少なかった、ということである。愛といっても好きという別名のような人間的感情ではない。かかわる人々の日々、生涯が最善になるようにとの祈りのことであり、その祈りを少しでもできることをなすということである。
関わる人々、身近な家族から友人、学校、職場、あるいは親族、またキリスト者ならその集会員の人達、そして事故や災害、戦争等々で苦しむ世界の人々…そうした無数の人達が私たちの前に現れてきたが、その人達にどれほどの主にある愛を注いできただろうか。
どこを見つめても、そんな愛はなきに等しい。愛なきは罪であり、それゆえに、罪の赦しこそ、最終的な私たちの祈りであり、また叫びともなる。
私たちのどうすることもできない罪をすべて担って十字架のたとえようなき苦しみと痛みのなかで死したキリストこそが、そこに応えてくださる。
十字架のキリストこそが私たちのその魂の深淵を見つめ、そこに「汝の罪赦されたり」との静かな細い声で語りかけてくださる。
その赦しによって、罪ゆえにうちひしがれていた私たちは再生の道へと導かれる。
キリスト教という信仰のかたちは、それゆえに十字架が大いなるしるしとなる。
十字架という単純なことこそは、この世界に神様が奏で続けてきた大いなる響きであり、また私たちにおいても、最終的にすべてが失われていくこの世にあってもなお、奏でることのできる一本の弦なのである。
わだつみとは、もとは古代の日本人が海に住む神々を、そしてそこから海、大海を意味することばとして用いられた。この書名は、多数の戦没学生たちが太平洋戦争という大海を舞台として海に呑み込まれて命を落とした者が多かったゆえに、その人達の声を再び聞き取ろうという意味が込められている。そして戦争という悲劇を起こさないようにという願いが込められている。
なお、これは、以前に「いのちの水」誌で、ドイツ戦没学生の残した手紙や手記を掲載したが、それに触発されて発行されたものであり、東京大学出版会、光文社、岩波書店などからも出版された。今回は以下に引用して紹介するのは岩波文庫版による。
ここでは幾人かの学生たちが戦地で、また内地で死を前にして書き残した手紙、日記などの一部を引用する。
引用のあとの(*)は、読んで筆者(吉村)の感じたことなど。
〇渡辺直已
一九三〇年、広島高等師範卒業後、翌年に入隊。約八年後に三一歳にて中国にて戦死。
迫りくる戦いの幻影に悩みつつ
いつしかわれも凶暴になりいぬ
手榴弾に脚もがれたる正規兵に
わが感情もすでにすさみぬ
わが傍に来りし兵がたちまちに
肩射抜かれて血を吹き出しぬ
荒びたる感情に耐えて来れども
清き故郷の山よ恋しき
(*)戦争のただ中に置かれて、さまざまの惨状を目にするにつれ、次第に自分の人間性が敵兵を殺害することなどをやってしまうような荒れたものになりつつあるのを実感させられている。
他方で、そのような時であればこそ、そうしたいっさいの悲劇や苦しみとは無縁のたたずまいを示す、ふるさとの山野が心を引きつけるのが感じられる。
自然の清さ、その静けさ、また美しさや静けさの中に力…これらは、戦争のおそるべき残虐とは正反対であり、神は追い詰められた心情に、神の直接的な声は届かぬとも、その神の本質からあふれ出る自然の本質を注ごうとされているのを思う。
〇久保恵男
東京大学文学部国文学科学生。1945年徳島上空での特攻隊訓練中、殉職死。25歳。
千葉県で育ったこの兵士は、死の一か月ほど前に次ぎのような文を書き残している。
…母から便りが届く。ハガキにこまごまと書かれた。俺の家もついに疎開することになった。となりの女学校が日立製作所の工場になるので、俺の家も壊されるという。小学校のときから住み慣れたところだ。跡形なく壊されると思えばさすがに哀惜の情もわく。屋根の瓦の一枚にも、雨風に色あせた羽目板の木目にも、門から玄関までの石畳にも。
家とともに俺の生活のふるさとも永遠に失われるのだ。…
私の心臓に鋭く貫く数々の人の名よ、声をあげて彼らの名を呼ぼう。
応えはなくとも、声をかぎりにその名を呼ぼう。
〇ふだんの生活のなかでは、ほとんど意識していなかった故郷の家のこと、瓦や羽目板(土壁の保護のために張る板)や石畳の一つ一つさえもが、懐かしく、記憶によみがえってくる。 そして、心に深く残っている人達の名を、だれも応えてはくれずとも、声かぎりに呼ぼうーという気持ちが生じたとある。
愛する者を失ったとき、また重い病気で意識不明となり、命のともしびが消えかかろうとするとき、語りかけても応えはなくとも、かつてのその人に関するさまざまのことが、永久に帰らぬことゆえに一層の貴重なものとして輝いてうかんでくることもあるだろう。
そして、心の中であっても声をかぎりに呼ぼうとする気持ちが自然に生じてくるだろう。
そしてキリスト者にとって何にもまして最も深く魂に刻まれている名とは、キリストであり、神である。
キリストご自身、十字架に太い釘で木に打ちつけられて、そのたとえようもない激しい痛みと苦しみのときに、「わが神、わが神、どうして私を捨てたのか!」と叫んだ。(マタイ 27の46)
この叫びはすでに キリストより千年も昔のダビデ王の詩が多く収録されている旧約聖書の詩篇にみられるし、多数の詩がそうした神への叫び、祈りを持っている。
主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。
主はわたしの岩、砦、逃れ場、わたしの神、
大岩、避けどころ、わたしの盾、救いの角、砦の塔。
ほむべき方、主をわたしは呼び求め、敵から救われる。
死の縄がからみつき、奈落の激流がわたしをおののかせ…
苦難の中から主を呼び求め、わたしの神に向かって叫ぶと、その声は神殿に響き、叫びは御前に至り、御耳に届く。(旧約聖書・詩篇18より)
〇中沢 薫
一九三三年三月 東京大学文学部史学科卒業。一九四三年応召、入隊。一九四四年七月中国にて戦死。三五歳。
…(以下は大学卒業間もないときに書かれたもの)
一日一生を生きよう。 ドイツ語で詩篇の暗誦。…いっさいを神の御計らいに委ねて、自らの使命 Beruf(*)と信じるところに向って、自分の長所を伸ばすべく…。
名利(**)の嵐に苦しめられる。熱祷す。 画家ワッツ(***)の「Hope(希望)」と題する絵画に慰められる。(1933年5月)
(*)Beruf(ベルーフ) とは、呼ばれること、使命、召されること、召命、、天職、職業といった意味を持つ。英語の calling 動詞は、berufen で、死のとき、神が召されるという意味でも用いる。
(**)名利とは、この世の名声や利益。
(***)ジョージ・フレデリック・ワッツ 1817〜1904)は、イギリスの画家。ここに引用された「希望」という絵が広く知られている。この絵は「祈の友」の元主幹の稲場 満氏も、深い共感を持ち、「祈の友」の会報にその説明と写真を入れたことがある。今月号の別稿参照。
到底いまの日本は自分を受けいれてくれそうにない。むしろブラジルへ行くべきではなかろうか。主義(*)
また信仰という二つの厄介物を背負って狭き就職の門をパスしえんや。
(*)「以前に一時的に加わっていた左翼主義的考え」→(これは今回用いた岩波文庫版にある補注)
面接のときに、左翼的考えとかキリスト教信仰ということを全面にだせば、現代の日本でも就職のときにプラスとはならないだろう。憲法9条の重要性とか、原発は反対というだけで、左翼的だといわれるほどだからである。いつの時代でもキリストのこと、そのみ言葉は この世から退けられる傾向にある。
就職問題が、男子にとっては、信仰問題の関が原だとの塚本虎二先生(*)の言葉を思い合わせて覚悟を決む。
(*)塚本虎二は、内村鑑三の信仰の弟子で、矢内原忠雄、黒崎幸吉、政池 仁などの人々も内村の弟子であり、福音伝道のために生きた。塚本は、新約聖書の研究のために不可欠なギリシャ語の研究とそこからの注解、そして塚本虎二訳の新約聖書の出版なども手がけた。
神様、あなたは私をまことに、熱心に愛したまい、あなたから少しでも離れることをもこのように、著しい生活の行き詰まりにより、またサタンの跳梁によって罰したもうとは…。
ああ主よ、ただ御心をなしたまえ…。
神の正義が立つためには、その愛する祖国の滅亡をも預言してはばからなかったイスラエルの預言者たち、「神の国と神の義を求めよ。さらばなくてならぬものは与えられるべし」と強く宣したもうた主イエス、さらに、「真理に逆らって力なし」と諭せる使徒パウロに至るまで、キリスト教の旗幟はすごく鮮明である。正義は正義であってほかの何者でもありえない。
人間中心にあらず、神本位なり。国家中心にあらず、正義本位なり。国滅びて山河あり、国民滅びて、神の義の揚ぐるあれば足れりとするものがキリスト教である。…(1935年10月)
一日も早い平和の回復を祈らずにいられません。微々たる我ら一人一人の祈りという気はしません。
神と親しき関係にある個々の人がいかに神の御心を動かし得たか、その例は旧約聖書に豊富であります。 十人の義人のゆえに、町の滅亡を赦したもうた神に向って我らは祈るのであります。 我ら一人の祈りに千人分、万人分の力があるのであります。 (1937年7月)
…全くどんな悲虐な運命がまわってこぬとも限らぬこの人生であり、とくにこの時世であります。そしてどんなことがあろうとも百回も死んだほうがましだと思うようなときでも、なおも自分の責任を思って最後の勇気を奮い起こして生き抜くことー真個の宗教と生活はそこから始まるのです。すべての尊いものはそこから流れ出るのです。
私の特愛の讃美歌の一節に、次のようにあります。
♪波風あらく寄せし日も
うから(*)のために 世の為に
悩みに耐えし 心こそ、
とこしえまでも残るなれ
(*)うから…血縁の者、親族
…小生の書斎の壁にワッツという画家の「希望」という名画の複製がかけてあるでしょう。
蒼然と暮れゆく地球の上に座して、目隠しされた女が破れた竪琴をかきならして、その壊れ残った一つの弦で神を賛美しているあの姿には深い思いが込められていると思います。
今の小生はこの信仰に立って、生と死との間にそんなに大きな隔絶を認めないところまでいっていますし、愛するものたちを神の大いなる愛の手に委ねることには、ほとんど不安を感じませんのでこんなことを筆にするのです。
しかし、また一方、「人はその使命を果たし終わるまでは、死せざるものの如し」というリビングストンの言葉にも強く共感いたします。
小生は、この主の信仰に立って、単なる教師でない、人生の真個の教師として生きたい使命感に今さらのように燃やされているのです。
だが、いっさいは測るべからざる摂理の御手のうちにあることですから、目下の小生の心境をお前と子供たちに書き残します。
(1943年 夫人宛て書簡から、戦地から。その翌年7月、中国にて戦死。)
T.K(北海道)
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」
(ヨハネ福音書14章1節)
「心を騒がせる。」という1節を読むとき、いつも心に浮かぶのは私の大好きな祖母の、笑顔だけれどさびしそうな表情です。
私の生まれた山梨県花鳥(はなとり)村にはキリスト教会はなく、わたしの周囲にキリスト者は誰もいませんでした。朝になると祖母は祖父に「あー、ゆんべは心細かったよー。」と話していたものです。この「夜中に心細くなる。」ということが「心を騒がせる」ということなのかなと思います。
わたしが小学生のころ伊勢湾台風や大きな台風がきて自宅が床上浸水しました。また祖父母の生まれた奥深い谷川に沿った村でがけ崩れが起きて20人以上の死者がでました。それが白黒テレビの画面で放送されて、夜中に恐ろしい夢を見るようになりました。しかし「怖い」と両親にも言えず、ましてや心細がっているおばあちゃんにも言えず、保育園や小学校の誰にも言えず一人で悩んでいました。
12歳の時、山梨県甲府市にあるキリスト教主義学校に入学し、日曜日に「教会に行く」という宿題が出て、甲府市の刑務所近くの礼拝出席15人ほどのルーテル教会へ初めて行きました。
池田政一牧師は大きな両手を広げて「よくきたねー!」と迎えてくれました。池田牧師は礼拝後小教理問答書を学ぶ時間をとって下さり、また中学生の私に内村鑑三のロマ書講義やアンドリュー・マーレーという人の祈りの本など貸してくれ、私は通学のバスにゆられながらそれ等の本を読みました。
むずかしいけれどなにか惹かれるものがありました。
中学一年生の6月頃からずっと休まず、花鳥村から定期券があったのでバスに乗って40分かけて日曜日ごとに教会に行き、中学3年のクリスマスに洗礼を受けました。その時一番うれしかったのはどんなことでも神さまに祈って良いのだ、困ったときは池田牧師夫妻に助けを求めてよいのだ、ということでした。
池田政一牧師は戦争中は長野県のホーリネス教会の牧師でしたので天皇を神と認めないという罪で一年間監獄にいれられ、その間にむつみ夫人は幼い子供たちと牧師の留守宅を守り、また生まれたばかりの子を牧師の留守中に天に送ったのでした。
これは石浜みかるさんという人が「紅葉の影に」という本を書いて下さり出版されています。高校生のわたしは主にむつみ夫人から戦時中にどんな裏切りにあったか、どんな助けを受けたか土曜日の午後などにうかがいました。
わたしは12年間は全くキリスト教のない世界に生きてきて怖い夢にうなされ、だれにも相談できずに悩みましたが、池田牧師夫妻と出会い、戦時中の困難の中で祈りによって生き抜いてきたことをまのあたりにし、まさに池田ご夫妻の証を土曜日ごとに聞き、また祈ることを学び、「心騒がせるな。」という本当の意味を知りました。
中学生のわたしは、「心を騒がせるな」という神さまのみ言葉をこの牧師夫妻の信仰の証によって知り「もしこのご夫妻が私に信仰を伝えてくださらなかったらいつまでも私はこわい夢をみてあの恐怖にうなされていただろう。私もこの御恩を返すべく、心騒がせている人にイエス・キリストのことを伝えていきたいと思ったものです。
‘T.K(徳島)
私は2021年2月20日に勝浦良明さんの訃報を聞きました。自分の耳を疑うほど突然のことだったのです。「また3月にね」と言って別れて19時間しか経っていなかったのです。その時はとても元気だったんです。私、何か悪いことしたのかな?失敗したの?とか、忘れてきたことがあった?とか色々思わされました。でも何もそんな失敗もしてなかったのです。
勝浦さんのお世話を始めて3年5ヶ月。勝浦さんのお世話を長らく病室で続けてこられたSさんを少しでも休ませてあげたいと思い、私は月に2回ほど勝浦さんのお世話に行きました。Sさんの手助けをしようと申し出たのは私だけなのかなとか、とても不安がありました。
勝浦さんの病室は8階。その階段を上がりながら、とても不安だったので祈りつつ上がって行って、帰りもああ失敗しなくてできた、良かったと祈りつつ降りて帰ってきました。
時には勝浦さんの体調が悪い時もありましたけれども、それも乗り越えてきました。
最近はとても体調も良く元気だったんです。それが突然の訃報。あの日食べたもの、あの日話したこと全て鮮明に心に思い出されます。とてもショックだったし、とても悲しかったです。
そんな時、私は聖書の言葉を思い浮かべました。「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」創世記の5章24節。
そうなんだ。勝浦さんは神とともに歩み、神が召されたんだなと思わされました。36年間、何一つ自由に動かせず、痛みと不安の中であったけれどもその中にあって、忍耐をもって神により頼み、その日々は神と共にあった日々を思わされます。
私が勝浦さんと初めて会ってから、もう長くなりますが、本当に勝浦さんと病室で間近で接したのは3年5ヶ月でしたが、勝浦さんを通して神様のお働きを見ました。
私がキリスト教を離れられない理由
I.Y(徳島)
今日は証しということで、自分がキリストを離れられない理由というか、なぜキリストなのかという視点で短く証しできたらと思います。小さい頃から両親が無教会のキリスト教だった。 そのため、子供の頃から聖書に慣れ親しんで、私の場合は特に恩恵なのか、特に反抗することもなく、素直にキリストは素晴らしいなあと、幼い頃からキリストのようになりたいなあ、みたいな。そんな憐み深さとか、慈悲深さも自分の心に入っていたと思います。
普通の人がヒーローとかいった場合、芸能人とかプロ野球選手とかあると思うんですけど、僕の場合のヒーローはやっぱりキリスト。
そこからでもなんかキリスト教の本質は全部理解してなかったような気がして、とくに今現在とかっていうよりは10〜20歳代入るまでよく分かりませんでした。ただキリストは素晴らしいなあ。キリストみたいになりたいなあっていうような感じで、自分も天国行くんだろうなと思っていました。
20歳。大学卒業してちょっと病気した時に、信仰揺るがされた自分の中で大きな病気をしまして。そこで新しく信仰深くされたかなと思ってます。今日の礼拝で賛美する「キリストの愛に触れた時に」という歌、僕もその中でキリストの愛に触れていたと思うんですけれども、やっぱり病気したとき、不安、恐怖、死の恐怖、いろいろあって、荒波に揉まれた時に、信仰がかき消されそうな時に、やっぱり神様が信仰のかすかな光は残してくださっておりまして、そこでキリストの愛の深さを教えられました。 その時に病気のときに読んだ聖書の箇所を通して、より深くキリストの御愛を触れさせていただいた。
ローマ書5章7〜8節「キリストが罪人のために死んでくださった」というところを読んだ時に、理屈では分からなかったんですけど、魂が震えて目頭が熱くなり、涙がにじんできたという記憶があって、そこで深く愛に触れていただいたんだなあっていう記憶が今呼び起こされます。
今もう端的に言うと、罪人のために死ぬ愛ということを十字架の愛を通して示されて、その愛を魂で知ったときに、ほかの宗教もあるかも知らないけれど、キリストがおっしゃるように、これ以上の愛はない。もうこれしか考えられないと。 そこにキリストの愛が魂に触れられ流れてきて、罪人を愛する心を一瞬でも知らされた以上は、やはり自分にとってキリストはもう言葉では説明できない、魂に染み込んでくださっている存在なんだなと。
キリストが触れ、僕がキリストと離れられないのではなくて、キリストが僕を離れてくださらないんだなあっていう風に年々感じて、まだこれからも愛は知らされているけれども、途中で普通の生活に戻ると普通の。また愛が忘れちゃったり消えちゃったりする時もあるけど、こうしてまた集会に帰って来て、その愛を与えられて、いつかその愛にすべての人が満たされて、いつでも満たされて、いつでも人を愛して。
すべての人がその愛をもって愛しあえることがいつでもどんな時でも永遠に続けば、それは天国で神様が望む姿なんだなと思って、これからもそれを追い求めていきたいと思っております。
〇故勝浦良明さんの納骨式
勝浦兄が召されたのは、2021年2月21日、すでに勝浦良明文集が発行されたので、御存じの方々も多いと思いますが、大学病院の医師の誤診によって三十六年の長期にわたり、首から下が全く動かなくて、人工呼吸器によって生きておられた方です。
そしてその間、日本のキリスト教会で用いられている一万数千曲の伴奏データをその重い障害のなかで、寝たきりで、口を動かし、息を用い、額と前方に取り付けに付けた機器で一つ一つの音符をパソコンに入力していくという大変なエネルギーを要する作業を十年以上も継続されました。
その結果私たちの礼拝、県外の集会、また各地での家庭集会などで長くそのデータをパソコンで用い、最近ではスマホでも用いられるようになり、大きな恵みをいつも感じています。
納骨式は、コロナのために延期されていましたが、7月10日主日礼拝の後に、眉山のキリスト教霊園でおこなわれました。参加者はコロナのこともあり、ご遺族と私(吉村)の予定でしたが、今月号に書かれているように、勝浦兄と地上では最後まで関わった戸川恭子さんと、私の妻も加わることになり、天候に恵まれ、大阪からの勝浦さんの弟さんご夫妻とお母様をまじえ、その納骨式の後で直接に対面での交流も与えられて感謝でした。緑の溢れる眉山稜線にあるキリスト教霊園にておこなわれました。
主日礼拝への参加、あるいは、以下の集会のスカイプによる参加など問い合わせは左記の吉村まで。
〇主日礼拝…徳島市南田宮の徳島聖書キリスト集会場にて
、午前10時半〜12時半頃
〇水曜集会…毎月第二水曜日 午後1時から。その後「いのちの水」誌の発送作業をおこないます。
・以下はオンライン集会
〇夕拝…毎月第一、第三火曜日の夜7時半〜9時
家庭集会
〇北島集会…戸川宅 毎月第四火曜日の午後1時〜2時半。
〇海陽集会…毎月第二火曜日 午前10時〜12時
〇天宝堂集会…毎月第二金曜日夜8時〜9時半。天宝堂 綱野悦子宅。