いのちの水  20228月号  738 

目次

・究極の非戦ーイエスの言葉

聞くことから命へ

・休憩室  木星

・お知らせ

集会案内


 

究極の非戦

     ーイエスのことば

 

 現在、ウクライナにおける戦争は、ウクライナが欧米の戦車なども含め、巨額の軍事援助を受けつつ、ロシアと戦争となっている。

 このまま、双方が軍事力の投入を深めていけば、双方の兵士たちの死者はどれほど増大していくか計り知れない。

 また、死者だけでなく重い傷を負った人達も、その生涯が取り返しのつかない苦しみの人生となる人達も数えきれないほどとなるだろう。

 そして、ウクライナとロシアの人達だけでなく、もしそれがさらに欧米とロシアとその協力国家との戦争となっていくならば、核兵器が使われる可能性も高くなり、双方が核兵器の攻撃という事態となれば、その後の世界の状況はいかなる事態になっていくか、だれも想像できない。

 さらに、出力百万kWの原発が6基、合計で600万kWとなり、世界第三位の巨大原発(ザポリージャ原発)が戦場近くにある。それらへの攻撃などがなされるとどのような被害が生じるのか、だれもわからない。

 ウクライナにおける戦争が、最悪の場合、そのような、科学者も政治家たちもだれもわからないような、歴史上で前例のないような危険な状況へと通じることになる。

 にもかかわらず、現在の状況を見るかぎり、そのような事態への途上にある。

 

プーチン大統領の特殊性

なぜこのようなことになったのか、歴史的に複雑な経過をたどっているウクライナとロシア、またその近隣の国々の状況とも密接にかかわっている。

 今回の戦争をはじめたプーチンは、チェチェン戦争において、猛爆撃と容赦ない地上戦でチェチェンの人口の4分の1にも及ぶ人々を殺害して平定したという。

 そうした武力攻撃によって、かつてのソ連に含まれていた国に対しては、軍事力をもってすることで、自分の思うようになるとの傲慢な自信を持つことにもつながったと言われている。

 軍事攻撃を正当化するために、モスクワなどでアパートが連続爆破され、死者が300人ほども出たという。それをチェチェン人のテロだとして、戦争をはじめたが、その爆破は、当時首相であったプーチンの配下にあったロシアの諜報機関の作戦だと言われている。(最近、再放送のあったNHKの「映像の世紀」でもそのように報道されていた。)

 2度にわたるチェチェン戦争によって、30万人もの人達が命を失ったという。

 このように、平和な生活をしている人達をも、自身の権力欲ならば、犠牲にすることもあえてする、という冷酷な考え方を持つ人物ゆえに、今回のようなウクライナでの戦争となった要因の一つと考えられている。

  今年二月にロシアが突然ウクライナに侵攻し、各地で平和な生活をしていた人々の生活の場であるマンションや個々の住宅をミサイル攻撃し、彼らの生活を一瞬にして破壊していった。

 それゆえに、ロシアに全面的に非難が集まるのは当然のことといえる。

 

武力(軍事力)が生み出す悲劇

 今回のウクライナでの戦争がなぜこのように多数の犠牲者ーすでに双方とも数万人の死者が生じていると言われているー、また生き残った人達も大怪我、また障がい者となって生涯の苦しみと悲しみにつながったり、愛する家族を失って精神的にもひどい打撃を受けてしまった人達…さまざまの生活に不可欠な住居、施設などの広範な破壊へと進んでしまったのだろうか。 その根本的な原因は、双方の国が武力によって問題解決を図ろうとしたことにある。

  このような惨状ーおびただしい死傷者の生じるのをとめる方法は、ただ一つ。それは双方がただちに戦闘停止することであるが、そのようなことは いままでの経過や指導者の発言を見ても、ほとんど考えられないほどの状況である。

 ひとたび多数の死者が生じ、各地で重要な施設や民間の住居が多数破壊されていきつつあるとき、相手への憎しみが生じる。またその重大な被害の賠償が、さきに降伏した側に襲いかかるということや、敗戦国の指導者がその地位を失い、民衆からの激しい攻撃にさらされ、敗戦国では、その人々が膨大な人命を失ったり、いやされることなき重い傷を負って生涯を生きなければならない、また領土の一部が譲渡されたり、賠償金の支払等々のために、民衆の不満は増大し、その国の戦争を継続した指導者は糾弾され、追放や処刑ということも可能性として出てくる。

 

 かつての日本も、そのような理由があって、降伏をしなかった。いよいよ敗戦濃厚となってきた1945年2月、元首相の近衛文麿が降伏交渉を進言したが、天皇は、 「もう一度、戦果をあげてからでないと交渉は むずかしい」と言って、降伏への進言を退けた。

 その後、3月10日には、東京大空襲となり、一夜にして10万人もが命を失った。

さらに、4月からは沖縄戦がはじまり、すさまじい攻撃がなされ、6月までの3カ月足らずで、20万人もの人達の命が失われた。

 さらに、樺太においても、敗戦直前から戦後にかけてのわずか一か月ほどの間に、5千人近い人々がソ連軍の攻撃によって死亡、生き残った人達も迫害、着の身着のままの逃避行、寒さとの戦い等々で悲惨な事態となった。

 東京から太平洋に千二百キロの硫黄島においても、1945年の2月下旬から一か月あまりの間に、激しい戦闘がおこなわれ、2万人ほどもが戦死した。

 また、航空機や魚雷での特攻隊によって数多の人名が失われた。

 さらに、その後 8月6日に広島、9日に長崎に原爆が投下され、一瞬にして合わせて三〇万人ほどの人達が死した上、その後も苦しい身体の異常にさいなまれ、十年、二十年…後までも苦しみが続いたのち死んでいく人達が続いている。

 こうしたおびただしい人命が失われていったが、もし、昭和天皇が、近衛文麿の降伏への進言を受けいれていたら、こうしたすべての人命とたとえようもない心身の苦しみは生じなかった。

 

キリストの非戦に向けた言葉

 キリストは、こうした歴史におけるさまざまの戦争にかかわる問題の究極的な解決の道を次のような言葉で示された。

 

@「剣をさやに納めよ。剣を取る者は皆、剣で滅びる。           (マタイ 2652

 

 このイエスの言葉は、歴史の中におけるさまざまの部族や領主、あるいは民族、国家間の武力闘争、戦争に関して、それらすべてを洞察された上での言葉である。

 

A…あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。

 しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。(マタイ5の4344

 

 ここでは、いままでにも繰り返し述べたように「愛する」とは、日本で通常、「好きになる」というようなことでなく、「祈る」 ということである。聖書にはとくに詩篇などによく見られる並行法というのがある。ほぼ同じ意味の言葉・文を併置することによって、意味を強く印象づける、浮かび上がらせるということができる。ここでも、敵と迫害する者とは同じであり、愛するとは祈るということと同じ意味で用いられている。

 憎むということは最終的には殺すということにつながる。逆に愛するとは 生かすことにつながる。イエスの時代にも、隣人には愛、敵には憎しみをもってせよーというのが当たり前であったのがうかがえる。

 それは、はるかな古代から、現代に至るまで、おそらくどの民族でもまた老若男女においても、この、隣人には愛、敵には憎しみを…ひどい敵には武力をもって対抗せよ、というのは常識的なことだったであろう。

 しかし、イエスはそうしたあらゆる世界の常識に真っ向から対立するメッセージを与えたのだった。

 このキリストの言葉は、あまりにもこの世の常識とは相いれないので、今日のようなウクライナとロシアとの戦争のニュースが毎日流されるときであっても、まったく言及もされない。

 しかし、キリストの言葉は、時代や民族、また国家の状態等々、あらゆる世界の目に見える状況のはるかに深いところを地下水のように流れ続けて今日に至っている。

 戦争状態にある状況で祈ったところで何の役に立つのかーという反論は、子供からでもごく自然に出てくるであろう。核兵器に頼ろうとし、ミサイルや高機能の戦車が縦横に用いられている時代にあって、祈りなど、無力のきわみ、一顧だにする必要はないーという感覚であろう。

 けれども、真理はそのような常識ではない。

目に見えないから神など存在しない、これも常識的な受け止め方である。死んで三日目にもなって臭いがするとかであれば、それが生き返るという復活、そして一人の30代の若い人間が処刑されたことで、万人の罪が赦される道が開けた、はるかな宇宙の星々、そしてこの世の万物は、キリストによって創造され、いまもキリストによって支えられていること(*)…あるいはハンセン病の人にキリストが手を触れるだけでいやされたこと、また、盲人に一言見えるようになれ!と言われただけでいやされたなど。(**

 しかし、これらの記述は、たしかにじっさいにそのようなことは歴史のなかでも生じたことはあるであろうが、霊的には、現在に至るまで無数の人達が経験してきたことである。

 私自身、大学に入学して以降、1年の後半から2年にかけて、生きるのは何のためなのか、この世はどうなるのか、変ることなき真実や愛などはあるのか、死後はどうなるのか、…そのようなことについて全くどう考えていいかわからなくなり、精神の世界は深い闇と混乱となっていった。

 当時激しくおこなわれていた大学での政治、社会的運動ーベトナム戦争反対、安保反対といった学生運動についても、私の属していた理学部では真剣にそうした問題を考え、議論し合う風潮はあったが、まったく関心を持とうとしない学生もいた。

 また新聞報道などで、他の大学において、そうした学生運動に深くかかわる人達のなかには、暴力的な行動をする者もいたりで、何か彼らの言動は本当に信頼できるものとは感じられなかった。

 それは、当時、大学の友人にしても、教授にしても確たる真理をもっているなどと感じる人はだれもおらず、信頼できる人物などいなかった。

 そうした私の当時の状況は、ふりかえってみれば、聖書に記されているようなまさに死んだような状態(***)であった。

 そのような闇にあるとき、一冊の本に出会い、そこで使徒パウロが、復活したキリストから受けた啓示ーイエスが私たちの罪のために十字架で死なれた。そのことを信じるだけで救われる…という言葉に触れて、以後50年以上も生かされてきた。

 この自分自身におきてきた事実からもそうした聖書の言葉は、深い真理の言葉だと実感してきた。

 

*)…御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられ…(ヘブル署1の3)

 

**)イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」

盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。(ルカ 1843

 

***)…あなた方は、以前は罪のために死んでいた。

…罪のために死んでいた私たちをキリストとともに生かし…共に復活させ…。(エペソ書2の1、5)

 

 

B…しかし、私は言う。

悪人に手向かうな。

だれがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けよ。       (マタイ 5の39

 

 後半の、「右の頬を打つなら、左の頬をも向けよ」という言葉は、文字通りの意味ではなく、イエスの言葉に折々にみられる誇張表現である。

 これはあまりにも常識はずれ、とみなされて ほとんど一顧だにされないほどである。しかし、ここにはキリストだからこそ言えた深い真理がある。

 これは、文字通りの表現というよりは、一般の人々に対して直感的に イエスからのメッセージが強く入るようにとこうした表現が使われたと考えられる。

 それに類することには、 例えば、次のような表現がある。

 

…私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。

 もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てよ。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命(永遠の命、神の命)を受ける方がよい。

 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」(マタイ18の6〜9より)

 

 これらの一連の驚くような言葉は、天の国(神の国)に入る(*)には、幼な子らしい心が必要であり、幼な子が母親を信頼して見上げるような心で、神を信じて見上げるーその心の特別な重要性を述べたものである。

 

*)「天の国」とはマタイ福音書のみが使っていて、マルコやルカ福音書では「神の国」。神の愛と真実による御支配 という意味であり、天の国(神の国)に入るとは、死んだら天国に行く、といった意味でなく、神の愛と真実の御支配のうちに入る、言い換えると、そのような神の生きた導きを受けることを意味している。 そのように生きていくとき、死後は当然、完全な神の御支配のうちにある霊的世界(神の国)へと導かれる。

 

 なお、ここにあげた言葉の前に次のようなイエスの言葉がある。

…弟子たちがイエスのところに来て、「だれが天の国で一番偉い(*)存在なのか」と尋ねた。イエスは一人の子供を呼び寄せ、「真実を言う、入れ換えて(**)子供のようにならなければ決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供(***)のようになる人が天の国で最も偉いのだ。」

 

*)原語は、メガス megas 大きい。

**)原語は、ストレフォー strepho 。英語では、turn,change,convert などと訳される。「方向転換」が本来の意味であり、人間の持つさまざまの罪深い心から、神に方向転換することを意味している。

***)このマタイの並行箇所であるマルコ福音書9の35では、「抱き上げて」とあるので、小さな子供だと分る。 「子供」という訳語では、それは日本語では、中高校生も子供に含まれるがそうではない。訳語によって 本来の意味とは異なって受けとられてしまうことになる。

 

 これは、さらに、キリストが十字架にかけられて私たちの罪をあがなってくださった、ということもそのような幼な子のような心で感謝して信じて受けとるー信仰によって救われるという福音の中心にあることとつながっている。

 それゆえ、そうした幼な子らしい心を傷つけたり、神から引き離そうとしたりすることは、重い罪となることをとくに強調して述べたものであるが、その表現に驚かされる。

 しかし、手足が罪犯すなら切れとか目が罪を犯すならえぐりとれ、などというのは、幼な子らしい心を踏みにじったり、誘惑しようとすることの罪深さを浮かび上がらせるために言われているのである。

 そもそも罪というのは心で犯すものであって、手足や目が犯すものではないことを考えてもこのことはすぐにわかることである。

 それゆえ、手でだれかの物を盗んでもその手を切って捨てたとしても、他者の物を奪おうとする心は消えるものではないし、目が見えなくなったからといって罪を犯さなくなるものでもない。

 イエスの言葉には、当時の民衆にわかりやすく、心に強く訴えるためにときにはこのような強い表現をも用いたのであった。

 

 右の頬を打たれたら左を向けよー迫害されたとき、捕らえられ、拷問を受けつつもなすがままにじっさいに迫害のときにこのようにして殺されていった人達は多い。

  現代の私たちには、そんなことは到底できない…という感じがする。

 しかし、ここでは、目に見える実力行使、武力、暴力でやり返すということでなく、霊的な戦いということが、この言葉の背後に隠されている。

 イエスご自身、ローマの兵卒に捕らえられ、あざけられ、鞭打たれても、 だまって受けられた。それは何も抵抗しなかったのではなかった。

 捕らえられる前夜、血のような汗をしたたらせて、夜通し必死に祈り続けたのだった。

 

…イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。

汗が血の滴るように地面に落ちた。(ルカ2244

 

 それこそ、霊的な激しい戦いをされ、勝利されたうえで、そのような苦しみを受けたのである。

 キリスト者の戦いとは武力による戦いでないことは、このキリストの例をみてもわかるが、その後の使徒たちの働きも決して武力をもって、迫害してくるユダヤ人やローマ帝国の兵士と戦うなどということはなかった。

 

 …私たちの戦いは、血肉(目に見える人間)に対するものでなく、悪の霊を相手にするものである。

       (エペソ書6の12より)

 悪をなしてくる者に対して武力で対抗しようとするときー大規模になれば、国家同士の戦争となり、数知れない人達が殺され、重い傷を受け、家族は路頭に迷い、棲み家は破壊され、ガス、水道、電気もなくなれば、生きていけなくなり、無数の人達が涙の生活へと追い込まれる。

 私たちは「右の頬を打たれたら、左の頬を向けよ」という驚くべき一言のなかに、永遠の神への希望のもとでの忍耐と神の力によってそのような悪事を成す霊的存在への戦いを指し示されているのである。

 敵を愛し、迫害する者のために祈れ、というキリストの言葉、それは言い換えると祈りのうちに神を見つめて悪の力との霊的な戦いをせよ、という勧めとして受けとることができる。

 そしてこのことは、戦争といった国家的な問題だけでなく、日常の生活において、さまざまの点で私たちは自分のうちからもまた他者からもいろいろな悪の力、罪の力を感じさせられる。 そうしたときに、相手を憎み、また自分に絶望したりすることなく、そうした悪しきことをなさしめているのが悪の霊であり、その力を除きさるために、キリストの力を受けて行くための新たな出発点とするようにとの勧めを感じ取ることができる。

「私の国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、私がユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、私の国はこの世には属していない。」

        (ヨハネ 1836


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 福音は聞くことから始まる。

 現代は、新聞、雑誌、インターネット…等々、多くの「読む」ものがある。

 しかし、活版印刷がなかった古代においては、読むものなどなかった。ごく一部の人達が、読み方を学んで他者に聞かせる、教えるという状態であった。

 そのような時代において、書き物は、パピルスや羊皮紙などというなかなか手に入らない貴重なものに書いており、またインクもまたどこにでもあるものでもなかった。

 そのような状況は、「読む」ということは、一般の大多数の人達にとって無縁のものだった。

 そのため、ギリシャ語では「読む」という動詞はなかった。「知る」ということばがあった。読む、と訳されている言葉は「知る」の強調形であった。(*

 

*)知る…ginosko (ギノースコー)、「読む」は、ana-ginosko(アナギノースコー)であって、読むのは、知る(ギノースコー)に接頭語が付加した強調形となっている。 読むことによって、より正確に知ることができるからと考えられる。

ヘブライ語でも現代の私たちから見ると驚くようなことだが、「読む」ということばはなく、「呼ぶ、叫ぶ」という意味で多く用いられる言葉 カーラーが「読む」とも訳される。例えば「イスラエルの王はこの手紙を読むと…」(列王記下5の7など) これは、読むときには、つねに読めない多数の人達に、大きな声で読み聞かせていたということがうかがわれる。

 現在のように、さまざまな音声、音楽が常に流れている状態は人類の歴史でもなかった状態である。

 この聖書が書かれた時代は、自然の音に囲まれ静けさがあった。それゆえに、「聞く」ということが現代よりはるかに重要視されたのも当然のことであった。

 アブラハムも信仰の出発点は何であったか。それは創世記にあるように神からの呼びかけを聞き取ったことである。羊飼いの生活をしているとき、はっきりと、その声を聞き取った。神のみ声を聞き取ろうとすること、それが現代にまで脈々と続いてきた信仰者の基本姿勢であった。

 アブラハムのその信仰はアブラハム自身の人柄でも資産でも努力でもなく、ただ神のご意志によって語りかけ、その神の声を聞き取ったことに出発点がある。

 その呼びかけを聞いて従うことは、どんな危険が伴うかわからない。単に聞くだけではそのような力は与えられない。単に聞くのと、聞き取って従うのは全く違う。聞き取るとき、その力も与えられる。

  なぜ、アブラハムが選ばれたのか。それはわからない。ただ、神の呼びかけを聞き取って、それに従っていこう、という力が与えられたのである。

 そのように、神に従っていったのは、神の声を聞き取った人たちであった。トルストィは、神によって平和に関する確信を突然与えられた。アメリカの原住民に対して、武器を取らずに伝道したのがキリスト教の当時としては特異な主張をしていた人達で、後にクエーカーといわれるようになった。彼らの徹底した非戦主義には、トルストイも高く評価している。

  クエーカーの創始者となったジョージ・フォックスは、深い祈りの中から水の洗礼でなく、聖霊をうけることこそが、真の洗礼だと悟った。当時はそれが異端といわれて、多くのクェーカーの信徒が牢に入れられた。

 そこで、イギリスの熱心のクェーカーであったウィリアム・ペンは、信仰上での迫害を受けた者が自由に生活できるようにと、アメリカの北東部に土地を得た。その地は、ペンシルバニア(*)と名付られた。

  なお、かつて5千円札の肖像写真として用いられた新渡戸稲造は日本人では初めてのクェーカー信徒となった。彼も内村鑑三とともに、アメリカから来日したクラーク博士に、札幌農学校で学んで、キリスト者となった。

 

*)クェーカー信徒のウィリアム・ペン の森(シルバニア) という意味。

 

 「はっきり言っておく。

私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」

          ( ヨハネ5の25

 人はみな、神から見れば死んでいる状態であると言われている。

「あなた方は、かつては罪のために死んでいたのです。」      (エペソ書2の1、5)

 このような言い方は、一般的には驚くべき表現で、とても理解できない、と感じる人が多いであろう。

 聖書においては、基準を人間に置くのでなく、全能でかつ愛と真実に満ちた永遠の存在たる神に基準を置く。それゆえ、どのようなやさしい人間、あるいは正しい人と思われている人物であっても、それは神の完全な愛や清さを基準としてみればみな不純であり、その愛も根本的には自分中心で、自分を大事にしてくれるものへの好意ではあっても、自分に敵対するもの、裏切ったり、欺いたりする者に対しては拒否感情があり、憎しみも生じてしまう。

 また、正義の人、といっても、神の持つ絶対的正義にははるかに及ばず、神の永遠的な正しさの前に、人間の正義などまるで無に等しいほどののでしかない。

 そのような理由のゆえに、人は、神の前においては、霊的にはみんな死んだような状態だと記されている。

 しかし、そのように死んだような人間であっても、イエスの言葉を聞いて神を信じる者は生きるーと言われているのである。

 現代においてはイエスの言葉とは聖書に記されていて、それを聞いて信じるだけで永遠の命が与えられるということである。

 このことは、とくに重要であるから、「はっきり言っておく」という文の「はっきり」とは、原文のギリシャ語では、「アーメン、アーメン」と繰り返していて、とくに重要であることを示している。

 アーメンとは、「真実」という意味の言葉であるから、先にあげたヨハネ525は英語訳では以下のようになっている。

・…In all truth I tell you, the hour is coming  indeed it is already here -- when the dead will hear the voice of the Son of God, and all who hear it will live.

I tell you the truth, a time is coming and has now come.

 

「アーメン、アーメン」ということばがヨハネ福音書では25回も使われている。

 とくにこの今日の箇所の短いところで(ヨハネ5章1925)、アーメン゜アーメンと繰り返す言葉は、三回も用いられている。

 これは、ここで言われたことが極めて重要だ、真理なのだということを強調するためなのである。

  わたしたちは弱っていく。ことばも出なくなる。だんだん弱っていく。そのただ中にも神の手は働いている。

 そして、本人の信仰だけでなく、まわりの人の信仰によっても神は働かれる。中風の人をその友人がイエスのもとに屋根をはがしてまでも運び、イエスがその信仰を見て罪を赦されたということも記されている。

 慰霊、また、鎮魂(*)という言葉がある。日本は死んだ人の魂を鎮めるという考えがある。死んだら霊が嘆いたり、怒っている。だから慰め、鎮めなければいけないという考え方である。しかし、それはキリスト教的ではない。

 

*)「鎮魂」 という言葉に含まれる「鎮」とは、金偏がついていることからわかるように、金属の重しでおさえる、というのが元の意味であり、何かよくないものー火事、反乱や怒り、呪い…などをおさえるということから、鎮火、鎮圧 などと使われる言葉である。それゆえ、鎮魂とは、死んだ人の魂が怒り、悪いこと、たたりを起こさないようにと、押さえつける(鎮める)という意味になる。

 

 信じる人は永遠の命を与えられる。キリストを信じていないと言う人であっても、いかに生きたかを主は見ているので、主がその人に最善になるようにされるであろう。死後のことは神様にゆだねるべきである。 また、周りの祈りによっても神は祈られた人の救いにつながることも記されている。(マルコ2の5など)

 どのような死を迎えたとしても、信じる者は永遠の命を得ている。繰り返し書かれているので、どれほど重要であるかがわかる。永遠の命とは、信じるだけで、与えられる神の命である。

 ヨハネ福音書においては、いろいろな言葉のうち、「命」ゾーエー は次のようにヨハネで特別に多く用いられている。それはこの「命」とは永遠の命、神の命である重要性のゆえである。

 

ヨハネ福音書 36回、

Tヨハネ 13回 

合計 49回

マタイ7回、ルカ5回、マルコ 3回 ローマ 14回

 

 ヨハネ福音書において、命(ゾーエー)という言葉は動物も持っているような生物としての命はではない。動物としての命はいかに医学が発達しようとも確実に一日一日と少なくなっていく。

 しかし、神、キリストを幼な子のような心で仰ぐ信仰さえあれば、そこに永遠の命が与えられる。この福音書の言葉は、その確たる希望を、万人に示している。

 信じるだけで与えられる「永遠の命」は、いかなることー事故、災害、病気、老衰、犯罪…等々などによって死ぬことがあろうとも揺らぐこともなく、滅びることもない。

 それは、地上のどのようなことによっても揺らぐことのない全能の神のいのちそのものだからである。

  肉体が死んでも、死なない永遠の命が与えられると言うことこそが大いなる恵みであり、人間にとって究極的な恵みである。

 目に見える、医療、福祉も大事である。それらによって私たちは生かされている。 しかし、それには決定的な限界がある。死そのものに対して勝利するということはできない。

 けれども、神は全能であるゆえにそうした限界がない。 私たちはただ信じるだけで、「キリストの栄光の姿にかえていただける」(フィリピ書321)と言う輝かしい希望がある。

 わたしたちは聖書の言葉によって、その神から、また今も生きて働くキリストの語りかけを聞き取ることができる。

 また、この世界は、キリストによっても造られたと記されている。神とキリストは同じ本質を持っているからである。(*

 

*)ヨハネ福音書1章3節、コロサイ書1章1517節、

ヘブル書1章2節)

 

 それゆえに、風の音、樹木などの葉の一枚一枚も、キリストの創造によるゆえにキリストの愛が込められている。それゆえに、そうした自然の一つ一つからでも、私たちが心して聞き入るならば、キリストの私たちへの呼びかけの声、言葉にならない言葉を聞き取ることができる。

 神は、私たちへの愛ゆえに、さまざまの出来事、さらには至るところで見られる大空、夜空、空の雲、静かに吹き、ときに激しい風、そして山々、そして無数の植物や空の鳥、またさまざまなものをもって、神はわたしたちに語りかけている。

 「大空は神の栄光を物語り大空は御手の業を示す。」         (詩編 19の2)

 現代は、テレビ、インターネット、さまざまの印刷物…等々で、人間がつくったものが洪水のように押し寄せてくる。

 現代の人間に似た原人などが地上に現れたのは百万年以上も前だと言われているが、それからの現代にいたる長い年月の流れの中では、、人間がその生活の中で印刷物を「読む」ということが広がったのは、 せいぜい500年余り前からにすぎない。

 それまではみな「聞く」ということであった。

 しかもそれは生きた人間との対話、自然との関わりのなかで聞くことであった。 それほど、人間にとって「聞く」ということは長い歴史がある。

 神の言葉もまた、「聞く」ことによって私たちの心に入ってくる。 読むことによっても、その書かれたことを、魂の耳で聞き取るということの重要性がわかる。

 

 現代では、科学技術の発達により、自然はつぎつぎと破壊され、多様な機器によって、いつでもさまざまの人間の声や視聴覚機器でつくられ、送られてくるさまざまの映像や音声があふれている。

 そして人間はそれらに巻き込まれ、その大渦の中で呑み込まれ、何が、人間の魂に向って語りかけられていることなのか、ますますわかりにくくなっている。

 このような時代であるからこそ、永遠の昔からすべての人達の心の奥深くに向って語りかけられている愛と真実の神からの語りかけを、聖書や周囲の自然の中から聞き取ることの重要性を思う。 (これは、7月24日(日)主日礼拝における聖書講話をもとにして書いたものです。)

 

 


リストボタン休憩室

 

〇8月の星ー木星

 夜9時ごろには、東の空から土星が上って来るのが見えます。その後2時間ほどすると、やはり東の空から、はっとするような明るい星ー木星が見え始めます。

 雨や曇りの多い最近ですが、晴れたときに、夜星空を見上げるとき、神の創造された世界の無限に広がっているのを感じ取ることができます。

 とくに名前のある星を見つけると、うれしい気持ちになる人も多いかと思います。

そのためには、特に明るい星からはじめるのがよいのです。

 そのためには、金星、木星、火星などとくに明るくまばたきしない星が見つけやすいです。


  

リストボタンお知らせ

   集会案内

〇日曜日の主日礼拝は先月半ばから、コロナの感染急拡大のため、集会場での開催が難しくなり、オンラインでの開催となっています。

〇以下の集会もオンラインでの集会です。

・夕拝…第一、第三火曜日夜7時半〜9時

・海陽集会…毎月第二火曜日午前10時〜12

・北島集会…毎月第四火曜日午後1時〜2時半。

 これらの集会にオンライン参加希望の方は吉村まで連絡下さい。

 

〇「祈りの友 合同集会」

 今年も、現在のコロナの状況からは、オンライン(スカイプ)での集会となる可能性が高いです。

 しかし、まだ、1カ月半あるので、その間に感染がおさまってきたら会場に集える人は集って、集まれない方々はオンラインでの参加を並行して行なうということになります。

 なおこの合同集会は「祈りの友」会員でなくとも参加できます。パソコンを使っていてもスカイプの操作が分からない方は、吉村(孝)まで連絡ください。

 

・日時…例年同様に、9月23日(金)の休日

 11時〜1630

・内容… 午前は複数名による

@聖書からのメッセージ(複数の人による)、

A昼食休憩

B午後は、参加者による近況報告と証し、または心に響いたみ言葉、

C賛美のとき、

D午後三時の祈り

 

〇以前から紹介している「東大教授、若年性アルツハイマーになる」(若井克子著)や、北海道瀬棚の生出正実さん記念文集、勝浦良明記念文集など希望の方には送ることができます。

 

〇もし、以前に申込されてまだ届いてないという方がおられましたら連絡ください。私の手違いから、一部の方々には申込あったのに送られてなかったことがあり、申し訳ないことでした。

 主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる。人は倒れても捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。                   (詩編372324