いのちの水 2022年 9月号 第739号
主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる。 人は倒れても捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。 (詩編37の23〜24) |
目次
この世には、至るところで苦しみ、重荷、悲劇がある。身近な人達を見ても、病気、老齢、孤独、また家族問題…等々で苦しんでいる人、また悲しみや介護で疲れきっている人達も多い。
さらに自分に身近なところから離れてみるとき、政治の腐敗、核兵器、戦争、原発の危機、飢えのひろがり、気象異常、またそれによる災害…。
第二次世界大戦以降、世界の多くの国々では、科学技術や教育も大学などの増加など、さらに近年はインターネットの普及で著しく知的な情報を得やすくなってきた。
それにもかかわらず、世界の全体としての危険度はいっそう増大している。
このことは、学問や科学技術など、知的な情報とそれらが生み出すものの限界を指し示すものである。
キリストは、こうした限界を二千年前からはっきりと見抜いていたがゆえに、つぎのような言葉を語られた。
…イエスは、乳飲み子を呼び寄せて言われた。
「子供たちを私のもとに来させよ。 妨げてはならない。
神の国はこのような者たちのものである。
私はあなた方に真理を告げる。この子供のように、神の国を受けいれるひとでなければ、決してそこに入ることはできない。」(ルカ18の15〜17)
…あなた方に真理を告げる。
もし、あなた方が心の方向転換をして子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。
自分を低くして、子供のようになる人が、天の国で最も大きいのだ。
(マタイ福音書18の3〜5)
またヨハネ福音書では、このことを別の表現で述べている。
…まことに、まことにあなた方に言う。
人は上より(天より)生れなければ、神の国を見ることはできない。
水と霊によって生れなければ(*)、神の国に入ることはできない。霊から生れた者は霊である。
(ヨハネ3の3、5)
(*)「水と霊」によって生れるーここで「水」という言葉、これは、すぐ後に霊から生れた者は霊であると言っているように、聖なる霊によって生れることの強調である。洗礼のヨハネが、「私の後から来る人(イエス)は、水ではなく 聖霊と火 によってあなた方に洗礼を授ける。(マタイ3の11)と言ったことと同様である。
別の箇所に、「私を信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れ出る。イエスは、信じる人が受けようとしている霊(聖霊)について言われたのである。」 (ヨハネ7の38〜39より)
このように、私たちの究極的なあり方は、知識でも善行でも、また学問でもなく、ただ、幼な子のようにキリストを信じて、その静かな細き声に聞き、聖霊による新たな力を与えられて生きることである。
キリストは、単に過去の人物でなく、地上に現れる以前から神と同じ本質を持ってこられ、いまは聖なる霊となって神とおなじようにどこにでもおられ、万物をも支配されている存在である。
そして本当の幸いー魂の救いのためには、思索や行動、あるいは読書や学問、知識を貯える…等々は必要でなく、ただ繰り返し語られているように、幼な子のような者ーそれは幼な子がまっすぐに母親を見つめるようにーキリストを真実な心で真っ直ぐに仰ぐことが必要だと記されている。
この救いに至る祝福された道は、いまから数千年も昔の預言者がすでに明白に神の啓示として語っていることである。それをキリストが完全なかたちで語り、かつ生きて証言された。
そのような昔は、現在のように多数の人が大学へ進学したり、たくさんの書物で研究したり、またインターネットで多方面の知識を得るとか各地の旅行で見聞をひろめる…等々は、文字さえも読めない人が多数をしめており、書物もほとんどなく、一般の人々は生きるのに精一杯であり、各地を見聞や娯楽のために旅行などもまったくありえないことであった。
私たちはいかにして救われるのかー言い換えると魂の深いところでの平安、過去のさまざまの不完全な真理に合致しない言行や思いー罪を赦されての平安を与えられるためには何が必要なのか、それはそのようなはるかな古代の人たちの救いのじっさいを見ても容易にわかるように、ごく単純なこと、ただ、そのような神を信じ、その神が送られたキリストを信じて仰ぐーただそれだけなのである。
しかも、このことは、すでに述べたように旧約聖書で、イエスより数百年も昔の預言者が神からの啓示として語られている。
…地の果のすべての人々よ、
私を仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。(イザヤ書45の22)
救いという人間の究極的な課題に対して、驚くほど単純な道が神からの啓示として示されている。
このことは、次に示すように、福音書のイエスの最後の記事を予告するものとなっているとともに、万人に対するメッセージともなっている。
十字架でキリストとともに十字架につけられた重罪人は、釘で打ちつけられている極限の苦しみのなかで、次のような単純なことばでイエスに言った。
それは、死の淵にあって最後の力をふりしぼっての言葉であった。
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と。(ルカ 23の42)
ただその一言に彼はすべてをかけていた。その真実さを見抜かれたイエスは、「真実をあなたに言う。あなたは、今日わたしと一緒に楽園(*)にいる」と言われた。
(*)楽園と訳された原語(ギリシャ語)は、パラデイソス paradeisos であり、ここから、英語の パラダイス paradaise となっている。
このギリシャ語は、新約聖書では、前述の箇所以外には次の二カ所に出てくる。パウロの生涯に一度だけ与えられたきわめて特別な霊的体験の記述にあらわれる。それは本来は体験できない、生きながらにして天の国に引き上げられた経験が記されている。
また、黙示録の箇所は、迫害の悪の力に勝利して殉教した人達が、永遠の憩いを与えられている天の国の描写である。
・…私は(パウロ)、パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。 (Uコリント12の4)
・…勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。 (黙示録2の7)
このように、善きわざも、学問や知識も地位もなにもなく、ただ重い罪のみしか残されていなかったこの重罪人は、イザヤ書の言葉のとおり、ただ、イエスを仰ぎ望むその必死の思いのゆえに、イエスが殺されて終わりでなく、神の力によって復活して、御国に帰ることをも神から示されていたのがわかる。
このように、最もこの世から見捨てられ磔となった犯罪人が、イエスの地上での最後のときに、直接にその信仰によって救いを約束されたのである。
しかも、イエスは、いつか分からない未来ではなく、「今日、あなたは、パラダイスにいる」と言われたのである。信じるだけで救いを与えられるという、キリストの福音の根本がこのようなところにおいても明確に示されている。
私たちはウクライナの戦争を知って何ができるのかーそのことがしばしば話題とされる。
しかし、困難のただなかにあって困窮する人達は、ウクライナだけではない。以前から続いている毎日の食事さえ十分でない人達(飢餓人口)は現在も、8億人とも言われている。また、ウクライナ以外での内戦や迫害、混乱のために、国内外に避難している難民の数は、アジア、アフリカなどが最も多いが全世界にわたっていて、2021年末で難民の出身国は、多いところからではシリア(685万人)、ベネズエラ(460万人)、アフガニスタン(271万人)、南スーダン(236万人)、ミャンマー(117万)等々、世界では2500万人に達するという。
ウクライナの戦争が発生して、その現場の状況などが詳しく動画などでも報道されるゆえに、ウクライナに関心が集まり、支援も集っているが、じつは、安住していた住み家を追われ、飢えや渇き、また医療も受けられないで病魔に苦しめられている人達は、ウクライナの戦争がはじまる前から、このように多数の人達が存在していたのである。
そうしたあらゆる悲劇、闇の状況に直面している人達に、私たちは何ができるのか。ほとんどの人にとっては、職業や家庭をもち、また言葉や費用の問題もあり、直接に現場にいくなどはできないことである。 さらに、そもそも健康でなければそのような困難かつ危険な現場に行くことはできない。
このようなことから、いろいろ条件のある人においても、まだしも開かれている手段は、多くの人にとっては、寄付ということになる。そして実際に、相当数の人達が、寄付していることであろう。
しかし、紛争が激しいところ、危険なところに、役だつようにと収入の一部を寄付しても果たして派遣される人や物資などが現地に届くだろうか、届いても正しく用いられるのだろうかとか、どこかで別の用途に使われてしまうのではないか、本当にそれらの寄付金も役だっているのだろうか…とか、人々の寄付に比べたらはるかに巨額の費用が、オリンピックや防衛費と称する軍事費(*)等々に使われていることを思うと、そうした費用を削減して難民援助、海外援助のための人材の援助育成、補助などにもっともっと費用をかけるべきでないのか…等々、疑問はいくらでも出てくる。
(*)去年のオリンピックの総経費は、一兆五千億円ほどにもなるといわれている。
また、防衛費(軍事費)のうち、戦闘機だけについてみても、F-15型戦闘機は、一機が百億円を超すような高価なものである。そのような巨額の戦闘機を現在、二百機も運用しているという。
こうした状況にあっても、本来、お金も組織も特別な手段も何もなくとも、できる確実に善きことはあるのか、と問われるなら、ほとんどの人は沈黙せざるを得ないのではないか。
しかし、キリストは、世間の一定の枠に入らない発想を、歴史的に一部の人の心のなかに点火してきた。
そして今回のような遠くに生じている戦争に対しても、人間はまったくその価値を認めなくとも、神はそれを認め、受けいれてくださると信じることができる道がある。
それが「祈り」である。
しかし、たいていの場合、祈って何になる、何にもよいことが起こらないではないか…等々と反論がなされる。
そして「祈りしかできない」というときには、祈っても何も起こらないかも知れない…といった思いが潜んでいることもあるし、「…しかできない」 というとき、大して役に立たないというニュアンスを含んでいることもあろう。
聖書においても、空腹になっている5千人の人達を前にして 弟子が「5つのパンと2匹の魚を持っている子供がいる。しかし、こんなに大勢では、何の役にも立たないだろう」(ヨハネ6の9)と言ったと記されている。
神あるいはキリストの無限の力を信じないときには、そのとおりである。何の役にもたたない。
同様に、現代の世界的な途方もない問題を前にして、一日一日の生活においてもさまざまの愛なき、真実なき言動や思いを持っているという罪を犯し、正しい道を歩けないような自分の祈りなど何の役にもたたない、と感じるのは当然ともいえる。
しかし、5千人のパンの奇跡が、それ以後の人類に言おうとしているメッセージはまさに、そのような小さきもの、とるにたらないものであろうとも、ひとたび神の祝福を受け、神の全能の力を受けるときには、想像もできない大いなる力となるのが示されている。
祈りも同じで、神の祝福を受けるなら、小さき祈りであっても 大いなる働きをすると信じることができる。
そして、私たちが、神の祝福を受ける道とは何であろうか。
それは、すでに旧約聖書から強調されていること、全能、かつ、慈しみと真実の神からの言葉として記されていることー「私(神)を仰ぎのぞめ!」「私に立ち帰れ!」という単純な道なのである。
このことは、次の聖句のように、多くの箇所で、繰り返し、かたくなな人間に忍耐をもって呼びかける神の愛から出ている。
・地の果のすべての人々よ、
私を仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。
(イザヤ45の22)
この短い言葉は、キリストの復活以降は、「キリストの十字架を仰ぎ望め、そうすれば救われる。」という意味としても用いられるようになった。
じっさい、キリストの十字架は、だれにでも開かれていて、かつ、もっとも堅固な救いの道(福音)を指し示すものとして、キリスト教のシンボルとなり、世界中で用いられるようになった。それは国旗にも及び、例えば、現在のイギリス連合王国の国旗は、イングランド、スコットランド、アイルランドのそれぞれの国の十字架の入った三種の国旗を合わせたものとなっているし、スイス、デンマーク、スエーデン、フィンランド、ギリシア、ジョージアなどの国旗にも十字架が入っているのも、いかに十字架が重要であったかを示している。
イザヤ書と同様の言葉は、次にも見られる。
…私は主を仰ぎ見、
わが救いの神を待ち望む。
わが神は、わが願いを聞いてくださる。(ミカ書7の7)
このように、神からの啓示を明確に受けた預言者は、この単純にして深淵な意味が込められた言葉を強調している。
そして、「神に立ち帰る」(神への魂の方向転換(*)ことの重要性については、さらに多くの箇所で繰り返し語られている。その一部を以下にあげる。
(*)「立ち帰る、悔い改める、立ち返る」などと訳されている原語(ヘブル語)はシューブ。この語は、英語では turn あるいは return などと訳される。人間が自分や他人などの人間の考え、意見、世の風潮等々を見つめるのでなく、人間を超えた、全能で万物の創造主である神へと心を向け帰ること、そして主にあって、神と結びつけて物事を考えていく姿勢を意味している。
…神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。
主に立ち帰るならば主は憐れんでくださる。
私たちの神に立ち帰るならば豊かに赦してくださる。 (イザヤ書55の7)
…私はあなたの背きを雲のように、罪を霧のように吹き払った。
わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。
(イザヤ書44の22)
…わが主なる神は、こう言われた。「あなた方は、立ち帰って、静かにしているならば救われる。」
(イザヤ書30の15より)
…神のもとに立ち帰れ。
愛と正義を保ち、常にあなたの神を待ち望め。
(ホセア書12の7)
…わたしはだれの死をも喜ばない。
お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。(エゼキエル書18の32)
このように、私たちが神から喜ばれることは、表面的な善行ではなく、私たちの心、考え、意志そのものが、愛と真実の神中心になるように、神へと魂の方向転換をすること、それが、神にもっとも喜ばれることであり、祝福を受けることになる。
そのとき私たちの祈りは神によってはっきりと聞かれる。
神は私たちの祈りを聞いて、覚えてくださって必ず、何か善きことをどこかでしてくださると信じることができる。
キリストは、「ああ、幸いだ。見ずして信じる者は!」(ヨハネ20の29)と言われて、神の働きを見ないでも信じる信仰に祝福を置かれた。
同様に、祈りについても、祈りの結果を見ずして祈ることを求められ、そこに祈りが聞かれるという祝福を置かれた。
…祈り求めるものは(結果を見ずして)すべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。 (マルコ11の24)
…信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。 (マタイ21の22)
このような祈りに関してのイエスの言葉は、現実に自分や家族など最も身近な人の難しい問題に直面するとか、激しい痛み、悲しみや苦しみに直面したとき、これだけ祈ってきたのに聞かれない、という経験は多くの人が持っているであろうから、通常は謎のような言葉として受けいれがたいものがある。
ここで私たちが注意すべきは、祈り求めるものーというものは、何であるのか。主イエスは、まず求めるべきは、「神の国と神の義を求めよ」と言われた。また、主の祈りにおいて、つぎのように祈り求めるべき内容を示された。これは、神の国と神の義を求めるということも含んだ祈りとなっている。
…御国を来らせたまえ。(神様の愛と真実による御支配がなされますように)
神のご意志が地上でも行なわれますように。
他者の罪を赦したごとく、私の罪をも赦してください。
私たちをさまざまの誘惑(試練、困難)に遭わせないで、悪の力から救ってください。」(マタイ6の10〜14より)
こうした主イエスが示されたような祈りを、私たちの具体的な病の苦しみや人間同士の難しい問題…等々の祈りの中心に置いた上で、具体的な祈りをもなすとき、確かに、御国ー神様の愛が私たちの心のうちに少しでも届いて私たちの心はそれまでの不安や動揺から立ち直る力が与えられる。それはまさに、神の国がそのごく一部であっても、祈る人の心の中に来たことを示している。
そしてその私たちの魂の深いところに生れたごく小さな規模の神の国であっても、確かに、祈りが聞かれたのだという実感が湧いてくる。 そこから私たちの真実の祈りは、消えてしまうのでなく、神の愛ゆえに覚えられ、必ずいつの日か、どこかで何らかの形で、その御計画に従って用いられると信じるように導かれる。
私たちをとりまく天地宇宙のさまざまのものー地球、太陽、月、星々、そして身近な動植物…等々の自然とは何か、何かそこに目的があるのだろうか。
私たちが受けてきた理科教育、自然科学教育においては、そうした目的などはいっさい語られない。
しかし、万物を創造した神がおられること、さらにその神が、愛と真実、そして清い本質があるということを信じさえすれば、天地宇宙のものすべてが、愛と真実をもって創造されたことになる。
そしてそれゆえに、あらゆる天体や雲、青空、風…そして地上の生物もみな、いかにそれらのうちには毒をもち、危険なものもみな、何らかのメッセージをたたえているということになる。
… 天は神の栄光を語り
大空も御手のわざを示す
昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
話すことも語ることもなく、
声も聞こえないのに
その響きは全地に
ことばは世界の果てに向う。 (詩編19の1〜2)
この詩編においては、「ことば」といっても、普通に我々が使う「ことば」とは遥かにことなる雄大な内容を持っている。
天や大空は語っている。
しかし、漫然と見ていると何も語っていないと感じられるだろう。
人によっては、星など意識して見たことがない人もいる。じっさい、数年前の夕方、自宅近くの道を歩いていたとき、近所の高齢のご婦人と出会ったので、西の方に強い輝きの星を指さして、あの星は御存じですか、と尋ねると知らない、星などは見たことないーと言われて驚いたことがある。
この詩編が、神の栄光をあらわし、語っている、単に天(星々、太陽、月など)とか大空だけでない。
雲や雨、風、雪、そして大風や台風のときのような地響きたてるような大波や雷…等々、あらゆる自然現象はみな神の無限の創造のエネルギー、その大いなる力を現している。
身近な雑草と言われている野草たち、また美しく気品ある高山に咲く花々、また雑木と言われる小さな木々から数十メートルの大木になるケヤキ、カツラ、スギ、クスノキ…等々の樹木たち。
それらも、それらの葉の一つ一つもまた、その葉の内部におけるいっさいの複雑な化学反応もみな、神の御手のなせるわざにほかならない。
詩は論文でも詳しい説明文でもない。短いことばで余韻を響かせ、さまざまの意味が込められている。
この詩編においても、天とか大空といっても、それだけでなく、地上のさまざまの現象もまた人に何かのメッセージを称えている。
この詩の作者は、一般の人々には聞こえない響きを聞き取っていた。
天や大空が神の栄光を現し、神のわざを語っている、しかもそれは昼も夜もおくり続けているという。
この継続性、一度きり、ある特定の期間、時代というのでない、戦争、飢饉、疫病、自然災害…等々ありとあらゆる困難が歴史の流れのなかでは生じる。
そして 真実とか清いものを呑み込もうとしている。
しかし、この詩の作者とされるダビデ(*)は、そうしたあらゆる状況を越えて、昼も夜も、送り続けられているのを直感していた。
それは上よりの啓示であった。
真理なるものは、この永続性が本質としてある。それゆえに、聖書は、ほかのあらゆる書物より比較にならないほど、この世界で永続的にしかも全世界で広く伝えられてきた。
神の言葉は、聴覚障がいのある方にあっても聞こえるようにされている。
徳島県では、聴覚障がい者が中心となって設立された徳島神召キリスト教会があり、 耳が聞こえなくとも、神のみこえを聞き取る霊的な耳が信仰によって与えられるということは、じっさいにそうした聴覚障がい者との関わり(*)をとおして知らされてきたところである。
(*)私は今から40年ほど前に県立のろう学校の教員として勤務し、8年間の貴重なろう教育経験が与えられた。その学校で、理科教育をとおして、さまざまの生き物、植物などの背後にそれらを創造した神様がおられることを折々に触れてきた。
そして土曜日には、そこから2キロほどの距離にあった私たちの徳島聖書キリスト集会場で、毎週土曜日にそうしたろう児の希望者を対象とした手話と植物と手話讃美などの集まりをしていた。そこから7〜8名の児童が神様を信じるようになり、その後彼らがろう学校を卒業する前後に、先輩たちとの自由な手話による会話のできる前述の神召教会通うようになり、そこで洗礼を受けた者も複数名いて、現在もその信仰を続けている人達もいる。そのような関係から、毎年徳島市で開催されていた徳島市民クリスマスに、前座のプログラムとして、健常者のコーラスなどとともに、その教会の聴覚障がい者と私たちの徳島聖書キリスト集会の聴覚障がい者や健常者たちとの合同で手話讃美をすることになって、10数年続けられた。
また、一般の手話辞典はその当時ようやく出版されはじめたが、キリスト教関係の手話の本などは皆無であったから、私はそのろう者たちの教会の幾人かの人達のところに繰り返し行って、直接に、キリスト教用語の手話を教えてもらったのだった。
この世界に、霊的な言葉がつねに響いていて、世界の果てにまで及んでいる。
他方、現在至るところで用いられている電波は、地球の裏側にでも届かせることもできるが、山や建物などによっても妨げられる。また耳が聞こえない人には、その様な電波が運ぶ音声も聞こえない。
また、その電波そのものが人の心に語りかけるなどはありえないことである。
しかし、この世には、魂の中に入ってくることのできる響き、音があり、それはどのような場所にあっても、それを聞き取る耳が与えられるならば、聞き取ることができる。ーそれをこの詩編では主題としている。
一般的には想像もできない。この世界にあっては、声にならない声で、神の栄光が絶えず語られ、昼は昼に語り継げているー次の日に、さらに次の日へと語り継いでいる。
永遠の昔から過去、現在、未来を通じて語り続けているという、
神の力は至るところにある。愛と真実の神が大いなる山々を創造し、広大な海のひろがりをも創造している。
太陽や月、また地球などが現在のように見えるのは、万有引力が支えている。
そしてそのような引力もまた、神のわざである。
この世界のあらゆるものは、何らかの力によって支えられている。身近な植物もまた、その中の細胞内の複雑な化学反応もすべて、神の創造の力が根源にある。神経の伝わる速さは、秒速50メートルほどにもなるが、そのような高速の伝達の過程でも複雑な化学反応が生じている。
どこを見ても、神の力、神の栄光がある。
はじめに引用した詩編の言葉を再度掲げる。
昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう。(詩編19の3〜5)
この箇所も、詩編に多くみられる一種の並行法となっている。
1行目の「話すことも、語ることもなく」と2行目の「声は聞こえなくとも」はほぼ同じ内容であり、3行目「その響きは全地に」と4行目「そのことばは世界の果てに向う」がそれぞれほぼ同じ意味のことを言い換えたものだとわかる。
このような波が重なって押し寄せるような表現により、いっそう不思議の声、神秘的ともいうべき言葉は、地の果てにまで向うという。
これは、神の言葉が絶えざる前進を続けるという大いなる真理が言われている。
そしてこれは、よきものが次第に圧迫され、弱体化していくように見える現状にあって、私たちを強くはげます内容となっている。
話すことも語ることもないのに、声も聞こえないにもかかわらず、この世界は、ことばで満ちている。
神の言葉は、神の力を持つ。「光あれ!」との一言で、闇のなかに光が存在するようになり、「光るものあれ!」との一言で太陽も存在するようになると記されているのは、神の全能の力を受けたみ言葉の力を表すものである。
人間の普通の感覚では、神は見えないし、自然がその業だということはわからず、単に 自然に、偶然に生じたということしか分からない。
神の言葉など、どこにもないというのが、一般的な人間の実感である。
しかし、神に選ばれた人にとっては、神の言葉によってその生涯が根本的に変る。アブラハムは神のことばを聞いたときから、それまでの地上のものばかり見つめる羊飼いの生涯から、神を見つめる生涯へと根本的に変えられ、彼が住んでいたユーフラテス川下流から、神に導かれて遠い現在のパレスチナと言われる土地へと一千キロを遥かに越える長い旅に出た。そこは全く彼にとっては未知の地域であったが、神の言葉は、そのような未知の土地へも向う強力な力を持っていたのであった。
そのアブラハムは、その後の数千年、現在にわたって、その聞く姿勢、したがう姿勢が世界にひろがり、人間の想像をはるかに越える力となっていった。
なぜ、アブラハムに聞こえて、彼の友人たち、家族には聞こえなかったのか。そこに神の言葉の神秘がある。
主イエスが言われたように、風は思いのままに吹く、聖霊(聖なる風)から生れる人も同様だと言われた。
神からの風は、今も吹いている。万人に吹きつけている。
新バビロニア帝国の大軍によって侵略され、首都エルサレムは破壊され、多くの死者、国外に逃げて行った人達、また遠いバビロンへと連行されていった人達…それは 民族の滅亡、国家の最後だと思われた。
それは民族、国家全体が「枯れはてた骨」のごとくであり、再起不能の絶望状態であった。
しかし、そのようなところにも、神からの大いなる風とともに神の言葉が吹きつけた。
…枯れた骨たちよ、主の言葉を聞け。風よ(霊よ)、四方から吹きつけよ。
風(霊)よ(*)、これらの殺された者たちの上に吹きつけよ。(エゼキエル書37の9より)
(*)ヘブル語の原文では、「風」も「霊」も同じ言葉 ルーァハ である。
詩編19篇にある、「聞くこともできないが、その響きは全地に」…という言葉は、エゼキエル書にある神からの風(霊)の働きと本質的に同じものを意味している。
絶えず、聞こえない言葉、響きをもって世界に送り出されているもの、それはこの神からの聖なる風(聖霊)なのである。
そうした神の国からの語りかけ、声、メッセージというべきものをパウロもこの詩編から聞き取っていたのは、詩編19篇を引用した次の箇所で示されている。
…彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのだ。
「その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のである。
(ローマ 10の18)
また同じローマの信徒への手紙において、次のように記されている。
…(聖なる)霊も弱いわたしたちを助けてくださる。
私たちはどう祈るべきかをわからないが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成して(祈って(*))くださるからである。
(ローマの信徒への手紙8の26)
(*)日本語訳の 「執り成す」というのは、例えば、対立している父と子を母親が それぞれに働きかけて、まあまあそう言わずに…と言って執り成す というように仲直りさせるといった意味をもっていて、祈る というニュアンスはない。それゆえこの重要な箇所において 本来の意味を伝えきれていない。
じっさいにこの原語の エンテュンカノー entunchano は、旧約聖書続編の「知恵の書(ソロモンの知恵)」8の21 では、「祈る」(pray)と訳されている。「…そこで私は主に向かい、心の底からこう祈った」
キリストの十字架の福音(言葉)こそ、世界に響き続けてきたさまざまの言葉の中心にある。次の使徒パウロの言葉もそのことを示している。
…十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である。
(Tコリント1の18)
詩編はしばしば単なる個人の苦しみや悲しみ、また喜び、賛美に終わることなく、世界に向う真理が記されているし、雨や雲、雪、また樹木、山々、星々 等々に向って、主を賛美せよ!と呼びかけられている。
声にならない声、また見ることのできない風によっても、喜ばしい知らせ(福音)はたえず語られている。
その福音はまたいのちを与えるものであり、「いのちの水」とも言われる。そしてやはりそのいのちの水もまた、あふれ出ていくものとして描写されている。
…わたしを信じるものは、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。(ヨハネ7の38)
祈りは絶えず送り出されている。そうした祈りのうちに、イエスの呻くほどの祈りがある。
そして聖霊も同様であり、天の国から絶えず霊的な風となって吹き続けている。
キリスト以降の最大の使徒はパウロである。彼は自分自身の考えやだれかから命令されたのではなかった。
…聖霊によって送り出されたバルナバとパウロは…キプロス島に向って船出し…ユダヤ人の会堂で神の言葉を告げ知らせた。(使徒13の4)
イエスが言われたように、聖霊によって生れた人は、風のごとくに、どこからきてどこへいくのかだれもわからない。
神の力を信じることをしないとき、私たちはあらゆるものが、単なる偶然で生じ、偶然的に消滅していくと思っている。 そうした考え方にあっては、ユダヤ人として模範的な熱心、家柄もあり、行動力もあり、その知識をもってキリスト者を徹底して迫害し、殺しさえし、また国外にも探索していたのに、なぜ、突然その迫害していたキリスト教徒となって、さらにキリスト者の模範となるような命をかけて復活の主にしたがう歩みをするようになったのか、それはまさにどうしてーどこからきて、今後どうするのか、どこへ行こうとするのか全く理解できない。
現代は、まさにそうした善きものが絶えず送り出されていく神の御計画とは全く逆のことー悪しき者、闇の力が、ますますこの世界にインターネットなども通じてまた目に見えない風のように、新しい世代から古い世代の人達の心の深くへと吹き込み続けている。
ウクライナでの戦争、核兵器の使用、原発の危機、ネットを通じた戦争…等々。
それだけを見ているとまさに絶望的な状況である。
しかし、いかなる闇の力、暗黒の勢力がさまざまの攻撃をしようとも、それら悪の力をもすべて御支配なさっている神とキリストを信じるときには、その神は、闇の中に光あれ!との言葉によって光を創造されたように、現代の私たちの魂の内に、いのちの光を創造してくださり、闇の力に勝利していくことを信じることができる。
神は愛であり、かつ全能であるゆえに。
「祈りの友 合同集会」
・日時…9月23日(金)秋分の日
午前11時〜午後4時
(途中で昼食、休憩時間が40分ほどあります。)
@開会あいさつ(吉村孝雄)
A「祈り」に関して聖書からのメッセージ(10分ずつ)
・秀村 弦一郎(福岡聖書研究会代表)、那須 佳子(高槻聖書集会代表)、
清水 勝(高槻聖愛キリスト集会代表 )、西澤 正文(清水聖書集会代表)
A昼食 休憩
B参加者による自己紹介と近況報告
C証し、または心に響いたみ言葉(7〜8名の方々による)
D賛美 E午後三時の祈り
〇この集会には「祈りの友」会員でなくとも参加できます。
申込は、貝出 久美子宛
問い合わせは左記の吉村まで