いのちの水 2023年10月号 第752号
わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と 主なる神は言われる。(エゼキエル書 18:32) |
目次
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ホイッティア(*)
旅人は、香りを近くに感じ
心地よき感謝の心を持つ
その香りはどこからか分からないが
立ち止まって、帽子を取って
空からの祝福を受ける。
The traveller owns the grateful sense
Of sweetness near,
he knows not whence, (**)
And, pausing takes with forehead bare
The benediction of the air.
(*)ホイッティア(John Greenleaf Whittier)1807~1892
アメリカの詩人。キリスト教(クェーカー派)の農家に生まれる。学校教育は1年ほど、独学で子供のころから詩作に秀で、やがて雑誌の編集や地方政治活動に従事、奴隷解放運動にも活躍。聖書に基づく平和主義者でもあった。
(**)sweetnessには、甘みというよく知られた意味以外に、 芳香(fragrance)声などの美しさ、 快さ、 優しさ、新鮮さなど多様な意味があり、ここでは、「芳香」の意味で用いられている。
目に見えるものでなく、目に見えない香りがただよい、天空からの祝福を受けるという、そこには、大自然を創造した神からの香りが伝わってくる。
この世界は、暗く、混乱に満ちた状況は至るところである。
しかし、目に見えない世界がある。
そこからは、地上の闇にもかかわらず、天の国からの風と香りがただよってくるのをこの詩人は、深く感じ取っていた。
旅人、ということばから始めているのも、人間はすべてさまざまの現実の見える場所を変えつつ、旅しつつ生きているが、他方では、見えざる世界の闇や光の交錯するなかを歩み、旅していく存在でもある。
その意味では、すべての人は旅人である。
その人生の旅のなかで、このような天来の香りを感じつつ、広大無辺の大空から注がれる祝福を受けつつ歩む、それは何と祝福されたことであろう。
それこそは、主がともにいてくださるゆえの、御国への道である。
キリストの香り、それをこの詩人は感じていたのがうかがえるが、そのもとは、私たちの罪をあがなうためにご自身を十字架で処刑されるというところからキリストの香りは生まれている。
…キリストが私たちを愛して、御自分を香りのよい供え物として、私たちのために神に献げてくださった… (エフェソ書5の2より)
日本においても、キリストの香りを深く感じていた詩人、水野源三(*)がいて、次のような作品が残され、曲も複数作られて、キリストへの讃美の歌として用いられてきた。
朝の霧に包まれて
ひそかに香る野バラのごとく
キリストの香りを香りを
いつも香らせて下さい
誰もが足を止める
淡紅色の野バラのごとく
キリストの香りを香りを
いつも香らせて下さい
そのやさしさにこころが
いつしかなごむ野バラのごとく
キリストの香りを香りを
いつも香らせて下さい
キリストの香りを香りを
いつも香らせて下さい
(*)水野源三は、9歳の時から病気で話せず、書けずとなったが、母親が工夫した五十音順を指で指し示し、目の動きで応答するというコミュニケーションをとることができるようになりった。
発病後4年目の12才の時、キリスト教会の牧師が訪れ、聖書を知らされ、キリスト者となった。18歳の時からは詩作を開始してキリスト教関係の新聞や雑誌に投稿。
このような境地は、旧約聖書の詩にも見られる。
…主はわが牧者。
私には乏しいことがない。
主は私を緑の牧場に伏させ
憩いの水際に伴ない
魂を生き返らせてくださる
死の蔭の谷を歩むとも
災いを恐れない
あなたが共にいてくださるから。…(詩編23より)
どこからともなくー天から香ってくるその芳香にいやされ、心身を新たにされる、それは、この詩にあるように、緑の牧場にて命の支えたる牧草があり、水を飲んでリフレッシュされる境地ーそれは神の言葉を受け、聖霊なるいのちの水を飲むことを指し示している。
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イエスは、次のように言われた。
「あなたがたは、私が地上に平和をもたらすために来たと思うのか。
そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」
(ルカ12の51)
これは、意外な、驚くべきことばだと多くの人は思う。イエスといえば、平和を与えるために来たと言われ、じっさいに聖書にそのように記されているではないか、と。
しかし、イエスは真理そのものであり、真理は必ず敵対者が生じるゆえに、分裂が生じるのだということがはじめに引用したことばに込められている。
「だれにでも好かれる人というのは、義務に忠実な利己主義者だ」というヒルティのことばを50年以上前に読んだときに、驚いた。
一般的には、親や教師から、だれにでも好かれる人になりなさい…等々と言われてきたからである。
この世には悪の力が至るところに、自分の心の中にも、家庭にもまたまだ子供のようなときから、その心のなかには自分中心という悪の力が広がり始める。
それは人間は動物の一種であるから、動物全体に自己保存本能がある。創造者は、存続させるために、自分の命を守ることを第一とするように創造されている。
食物を摂るためのさまざまの手段、牙や早く走る足、木登りに長けた手足、上空からでも獲物を見出す高度な視力と襲いかかる翼やくちばしの鋭さ…それらを使って獲物を得るのは本能であり、善悪はない。
しかし、人間には、それら動物にない善悪の感覚が与えられている。動物が弱い動物を捕らえて食べることに何の不都合もない。
しかし、人間が弱い人間をいじめたり、苦しめて労働に駆り立てることは、悪しきこととして人間の心には感じるように神は創造されている。
こうした善悪の直感的判断こそは、神が人間を神のかたちに創造されたゆえに存在する。(創世記1の27)
人間にのみ、罪の意識が存在している。
自分中心ということから、あらゆる犯罪やいじめ、また不正、弱い者を攻撃し、支配することで利益を得ようとする。こうした本性から争いが生じ、その拡大されたとき民族や国家間の戦争となる。
戦争が古来から止むことがないのは、そのような人間の自分中心という本性に根ざしているからである。
キリストは、こうした自分中心という罪の原点に、神の力を注いで、その原点を根底からくつがえし、新たな核心を受け付けようとされた唯一の人間であり、それゆえに「神の子」(神と同質の存在)と言われた。
そのためには、人間の判断や力など通常の方法では到底できないゆえに、神は歴史上で唯一の人間ー神の本質をそのまま受けて地上に生まれた人間を用い、しかもその人間にその自分中心から救われる道を告げ知らせ、その道をみずから命にかけて実行するような使命を授けたのだった。
それがイエス・キリストだった。
それゆえに、またキリストが行くところ、深い慰めといやしを受けた数々の人々が生じた反面、弱き人たちを差別し、また圧迫していた人たちは、キリストが自分たちの内に潜む悪を鋭く見つめ、そこから方向転換することを迫っているのを感じ取ることになった。
しかし、そのように人々から利益をむさぼってきた立場が、キリストの心へと方向転換することで、いままで持っていた富や権力などをうしなうことを知らされていく。
それゆえに、多くの権力者、支配者たちは、キリストへの強い憎しみ、殺意を持つようになった。
一般の人々においても、 この世は悪が至るところで存在していて、他人やいろいろな組織、家族や自分自身の中にも存在している。
そのような根深く救っている悪の力に背を向けることは、日常の安楽な生活、目に見える友人や娯楽、快楽、富や地位、名声、権力などを捨てることにつながる。
それゆえに、多くの人々はキリストへの敵視、憎しみを抱くようになった。
歴史上のキリスト者への迫害、キリスト教そのものに対する迫害というのもみなこうした理由で生じていった。
日本の江戸時代でも、幕府とか権力者以上に、キリストが真の王なのだ、ということを信じている人たちは、当時の最高権力者の地位に、NOを突きつけることになったのだった。
しかもそれは、か弱いと思われていた女性とか老人子供さえもその強固な信仰を持っている人たちが多く生じていった。
キリストにつく人とそうでない人は、大きな対立を生じ、キリストにつくことを強く否認する人は、キリスト者を敵視し、徹底的に滅ぼそうとするようになった。それがローマ帝国や江戸時代の厳しいキリスト教迫害となった。
敵視する人たちは、ローマ帝国であれば、飢えたライオンを使って、大競技場で多数の群衆の面前でキリスト教徒たちを襲わせ殺害するとか、日本でも、権力、武力を用い、正視できないような残酷な拷問さえ、次々と実行した。
しかし、キリスト教徒たちは、古代ローマの場合も日本のキリスト教迫害のときでも、キリスト者として武力で反抗したことはなく、逆にそうした迫害にさらされても逃げること、あるいは地下の迷路のような墓所(カタコンベ)に隠れての礼拝なども続けて耐えた。
そして、数百年を経て、そうした武力弾圧した権力者の側が崩壊していった。
キリストにつく者とキリスト教の真理を否定するものとの間に鋭い対立が生じるのは必然であった。
このような歴史的に現実に生じていくことを、キリストはその経過も含めすべて鋭く見抜いた上で最初にあげたことばを出されたのだった。
…私が地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。
このイエスのことばを初めて目にするとか、表面的に受けとるときには、イエスは単に分裂をもたらすために来たのだ、などと思うかもしれない。
もちろんそういうことでない。 究極的な平和、壊れない平和をもたらすためには、そうした対立がその過程で必然的に生じるということをイエスは言われたのだった。
このことは、私たちの一人一人の心のなかにも生じる普遍的なことである。
キリストの真理が心に入ってくるとき、従来からの自分中心の心と鋭く対立するようになり、いずれの側につくのか、という分裂状態になる。
そのとき、キリストの真実や愛のほうを選びとるときに、困難が生じても、それを貫いていくときには、それまで経験したことのなかった、魂の平和、平安が訪れる。
イエスがこの世に来られたのは分裂をもたらすために来たとのことばは、分裂そのものをもたらすためでないのはもちろんのことで、分裂を超えた彼方にある主の平和を与えるためだった。
イエスの家族たちさえ、イエスが各地に出向いて仕事もしなくなったというので、気が変になったと取り押さえに来たと記されているほどである。(マルコ 3の21)
それゆえ、イエスがもたらすといった分裂とは目に見えない悪の力との闘いゆえに生じていくものであり、その闘いに神の力を与えられて勝利して、神からの平和を与えられた人たちが次々と世界に広がっていった。
使徒たちも、イエスの真理を受けとるときには、大きな抵抗があった。自分たちはイエスが救い主、王になるときには、地位も高くなるとそのようなことを考えていた。
それゆえに、イエスが自分は十字架につけられて処刑されると言ったときには、そんなことがあってはいけない、とそばに引き寄せてイエスを叱ったというほどだった。
それに対して、イエスは「サタンよ、退け! あなたは、神のことを思わず、人間のことを思っている。」と一喝して退けた。
そのように、イエスに従って職業も家庭も捨てたほどであってもなお、古い自分中心の考えが巣くっていたままだったのである。それほどに人間の内には、深い自分中心性がある。
それは学問も打ち破ることはできない。学者の世界でもさまざまの争いがあり、時流に流され権力や富の道を選ぶ学者も多い。戦前にはあの大規模な日本の侵略戦争を見抜いて何らかの批判をした学者はごく少数にすぎず、大多数は、そのまちがった侵略戦争を聖戦とたたえ、推進していく側となっていたことはそれを表している。
パウロも同様だった。当時のユダヤ人としては高いレベルの聖書に関する学問を受けたが、それでもキリストの真理はまったくわからず、キリスト教徒を迫害しつづけた。 当時のユダヤ人の学者や祭司長なども大多数がキリストを迫害したが、ごく一部のユダヤ人はイエスの独自の歩みと行動に深い共感を持つようになって、ここでも分裂をきたしていた。
そのような自己中心性を根本的に打破したのは、何であったか。それは経験でも学問や教養でもなかった。
神の直接の働きかけによったのである。
イエスが捕らえられるときイエスなど知らないといって逃げてしまったペテロたち、彼らが体験した数々の奇跡やイエスからの教えもふみとどまる力とはならなかった。
そうした弱き弟子たち、またキリスト教徒を迫害していたパウロを根本的に変革したのは何であったか。
それは、復活したイエスからの直接の働きかけであった。
イエスのかつての弟子たちが根本的に変革されたのは、聖霊という大いなる天来の風が彼らの魂にはいったからであった。
その聖霊とは復活のキリストそのものであった。それによって弟子たちは、新しく変えられて大いなる福音伝道者へと生まれ変わった。
パウロの場合も同様であって、復活したイエスからの直接の光とことばを受けて、彼の強固なユダヤ教徒としての心が砕かれ、聖霊が与えられ、ペテロたちと同様に、命を懸けてその福音を伝える使徒と変えられたのだった。
外に内に、深い分裂をたたえつつ、真理は最終的には、人々をそして世界を 主の平和へと、神の国へと導いていく。
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死を超えるもの
ー集会員の召されたときに語ったこと
私たちのキリスト教集会員、A・Oさんは、47歳の若さで召されました。
ご両親がキリスト教信仰を持たれていた関係で、高校生の頃から集会の子供集会での香川県の小豆島でのキャンプなどにも参加したこともありましたが、信仰を持つには至らず、御国への道とは異なる道を歩んでいきました。
けれども、近年は、四カ月に一度、同居のご両親宅での家庭集会にはいつも参加しておられ、全盲の参加者の送迎も自発的にされていました。
そして、ご両親の祈りをいつも受けておられましたので、今は召される前の大きな苦しみからも解放されて、永遠の憩いのうちにおられると信じます。
一人息子のKさんのことが心残りであったので、天に帰られたAさんも今後ずっと天からKさんのことを見守っておられることと思いますし、そのAさんの願いとご両親の祈りは、これからはとくにKさんに向ってなされ、ご両親のいないKさんが歩まれる今後の道のためになされていくことでしょう。
それによって、Kさんはじめご遺族、またご親族の方々にも、神様の見守り、また導きがあり、キリスト様の愛のうちにありますようにとねがいます。
死ということは、すべての人に生じます。どんな権力者、また病気もしない元気な人であっても、いかに人工知能が発達しようと、医学が進もうと死はすべてを呑み込んでいきます。科学技術、とくに医学が発達し、長寿になって死がなくなるのではないかなどと考える人もいますが、そんなことになれば世界人口は急激に増大し、たちまち食料不足となって人類は滅びに向っていきますから 死は必ずおとずれます。
この地球や太陽さえ、最終的には滅びることは自然科学でずっと以前からわかっていることです。
しかし、それは目に見える世界のことで、目に見えない霊的な世界においては、そうした死の力も及ばないのです。神は万物を創造し、自然の法則も神が創造したものであり、神だけは滅びることがない存在です。
しかも人間の内にそなえられている小さき思いやりの心のような目には見えないものをも創造したのが神であり、神こそは、完全な真実と愛、そして清さを持った御方です。
そのようなあらゆる方面からみて良きことの完全な御方は、太陽や星々の滅びとかも関係なく存在できる存在です。
私たちが本当に心安らかにいられるのは、そのような神様と結びつくときです。
その神様がその愛と真実をそのまま与えて地上に送り出したのが、イエス・キリストです。 そしてそのキリストと結びつくことで神様と結びつくことと同じになり、私たちは、キリストのことばに約束されているように(*)、死ぬことのない存在とされます。
たとえ、災害や事故、また犯罪や戦争などいかなることによる死であろうとも、神様は生前のその人の心にあったことすべてを見抜いて御存じなので、そのことによって悪しきことは裁き、また小さくとも神様への信頼を持っていて、自分の罪を知って悔い改めの心があったかどうかを見られ、最善になさってくださいます。
(*)イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」(ヨハネ11の25~26)(信仰によって永遠の命ー神の命を受けているゆえに肉体の死があっても復活し、さらに生きている内に信じた者は霊的に死なない存在と変えられているゆえにこのように言われている。)
死後は、その魂もすべて見られている神様にお任せすると、神様はその人にとって最善のことをしてくださいます。
それゆえに、キリスト教においては死者への祈りは必要なく、生きている人への祈りが大切とされています。 私たち自身、そして家族や周囲の人たち、また事故、災害などに遭われたり、外国のように戦争や飢餓などで難民となり 大変な苦しみを受けている人たちは無数にいます。
そうした身近な人から世界の各地の人まで、その苦しみや悲しみは果てし無く広がっていますので、私たちの祈りは、少しでも家族や身近な人たちから始まって、生きている人たちが神の愛を知ってその神様からの力を受けるようになることを願い祈ります。
十字架はキリスト教のシンボルです。それはそうした神の愛を最も深く知らせるものとなったからです。
それは人間の根本問題である罪の赦しのためでした。 罪とは、目に見える犯罪だけでなく、真実の愛や清い心に反するあらゆる思いを含めています。
苦しむ人や弱い人、敵対する人にもおよぶ愛や真実がないにひとしい私たち人間の罪をすべて担って身代わりとなって十字架で死んでくださったのがキリストの十字架で、人間の深い心の奥にある罪の赦しを受けることこそ、神の愛を知る道です。
そのことを信じて自分の罪の赦しを実感しないと、戦争や人間のさまざまの悲劇、苦しみなど見える世界ばかりを見て神などいないと思ってしまいます。
私自身も、この罪の赦しの福音を知らされてキリスト教信仰を与えられました。
そしてどんなにいろいろな悲しむべきこと、悪の力を見せつけられることがあろうとも、また自分のうちにもいかに弱く正しい道を歩めないかを思い知らされていくことがあっても、なおそこにキリストがそのような私の罪をも担って死んでくださったこと、ただその象徴である十字架のキリストを仰いで罪の赦しを与えられ、さらに新たに力を与えられていく、それが神様の愛を知る道でした。
そのように私たちの魂の奥深いところで神様の愛を実感することが、キリスト教信仰の歩みであり、また常に日々の生活においても最も中心にあり続けることです。
そしてそのような魂の深みに感じるキリストの愛は、見える世界にもかぎりなく広がっています。
全能の神の被造物たる周囲の自然もまた神がその愛をもって創造したゆえに、そうした大空や雲、また海山、川などの美しさ、…小鳥の歌声等々もすべて神の愛の現れだと感じるように導かれます。
そして自分が病気になって、病院のベッドで孤独な苦しみに耐えねばならないとき、いっそうそのような愛の神への祈りをささげることができます。
この日本では、みずから命を断つ人が毎年2万人以上、2016年に初めて行なわれた自殺意識調査によれば、過去1年の内で、4人に1人が「本気で自殺したいと考えたことがあり、自殺未遂経験者は全国で53万人を超えており、5人に1人が身近な人を自殺で亡くしていると報告されています。
そして小学、中学のいじめは多く、…そのことが大きな原因ともなって学校に行けなくなる不登校の子供たちは、30万人といいます。
このように教育や科学技術、医学はどんどん発達しているのに、人間の心の世界、また外部の世界も荒廃し、小学校時代からすでに心のなかでいじめという悪意との闘いに疲れ、破れるひと、そして外部も近年いっそう武力や権力支配で人々が苦しむということが増大しつつあります。
これは、人間が本当に頼るべき永遠の真実な存在、しかもただ心からそのような神に立ち帰るだけで、悪の力にうち勝つ力が与えられる、そうした永遠の神の存在を知らないことに大きな原因があります。
死の力にうち勝って永遠の命を与える神、そうした神にこそ、みじかな人が死を迎えたときに、あらためて私たちが立ち帰り、その神様を信じて歩み、その愛と力を受けることを指し示されています。
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ヨハネ福音書11章の後半に、ラザロの復活のことが記されていて、そのあと、イエスは、祭司長とかファリサイ派の人々によって憎しみを受け、命がねらわれる状況となった。
「荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き」とある。なぜ、このようなエルサレムから五十キロほどもある遠いところに行ったのか。それは、祈るためであったろう。
それから、エルサレムの近くのベタニアに戻ってきた。
そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。また、マルタ、マリアがいた。マリアが、そこで高価なナルドの香油を、ほかのマタイ、マルコの福音書によれば、頭に注ぎ、ヨハネ福音書では足に塗って髪で拭ったとある。
これは、マリアのイエスに対する信仰と愛と、みずからをどこまでも低くする謙遜の象徴でもあった。
「家は香油の香りでいっぱいになった。」(ヨハネ12の3)
まず、神(キリスト)に感謝し、主を愛する姿勢、それは祝福されて、香りは立ち込めて広がっていく。自分のためではなく、神のためにするとき、かならず、それは広がっていく。
イエスはユダヤ人たちによって殺そうとされるほど悪の力が周囲を覆っていた。
しかし、そのただ中で、イエスを神の子と信じ、最も大切なものを心から捧げていく時、それは神によって祝福される。
そして、それは周りに広がっていく。
その後の歴史の中においても、キリストを信じる信仰ゆえに大いなる苦しみを受け、さらには、殉教していく人たちは多かった。
そのようなとき、不思議なキリストの香りが広がり、伝わり、そこからまた、信じる人が起こされていった。
キリストとは、油注がれたもの、という意味である。油とは、特別な香油であり、香油を注ぐということはメシアである、ということを指す。
よき香りは、キリスト(神)への愛があるところで、生じてくる。悪人、弱い人に対しても祈って関わるとき、そこから香りが広がっていく。
これは、昔の話ではない。この香油の香りが広がって、千五百年という歳月を経て、東洋の果てなる日本にまで達したのだった。
そして現在もそのような神、キリストへの真実な愛や奉仕、祈りのあるところからは、いつもそうしたキリストの香りが生じて、小さな規模といえども、周囲に広がっていく。
それは、決してニュースになったり、一般の話題になってマスコミで報道されることもない。
真実なものは、そのように静かに伝わっていくという本質がある。
また、神の創造した自然のさまざまのものもまた、キリストの香りをたたえている。
しかし、権力やカネあるいは、名声、快楽…等々に目がくらむと、悪臭がたちこめるようになる。
この女性は、高価なこの香油を一度に注いだ。
私たちに与えられている、お金、健康、あるいは能力等々、それは、もっとも深い意味としては、神に捧げるために与えられている。その神とは、真実と愛の神であって、特定の組織や人間ではない。 この香油は、現在で言えば三百万円ほどにもなるという高価なものであった。
マリアは、兄弟ラザロが死んだ状態から、復活させていただいた。そのことに対する何にも代えがたい感謝があった。さらには、神とキリストの持つ真実や慈しみに対してささげようとする愛であった。
このことは、現代の私たちと無縁の古代の特殊な話しだと思いがちである。しかし、ひとたび霊的な視点にたつとき、死んだもの、もう絶望的状態とは、じつは私たち人間のことを意味している。
いかにしても、純粋な愛や真実をもって語れず、行動できない、どうしても何か不純なものが入ってくる。 最初は真実があっても、続けているうちに、真理への感受性が弱まっていく。
そして神の完全なまなざしの前には、人間は不信実や自分と関係ない人、弱い人たちへの真実な愛、永続的な愛などまったく持てない存在にすぎないと思い知らされる。
それは、私たちは霊的には死んだ状態だと知らされることであり、(エフェソ書2の1)そこからよみがえらせてくださったときには、ほかのどんなことをもってしても与えられない感謝が生まれる。
私がキリスト教信仰を与えられたのも、そのときすでに世を去っていた一冊の本の著者がキリストから受けた罪の赦しの福音を深く感謝して受けたことの波の波及した結果なのだと感じる。
現代の世界には、カネの力が最大であるかのようである。それによって戦争という大規模殺人や破壊がなされていく。そのようなカネの間違った使い方から、悪しきにおいと言うべきものが世界に広がっている。
それを打ち破る力はキリストの香りである。神の子イエスだけが、本当によきもので満たしてくださる。
キリストのことは次のように記されている。
「それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。…
私たちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」
(ヨハネ1の14~17)
キリストにこそ、満ち満ちたものがある。主イエスを愛することが深いほど、よき香りがさらに広がっていく。
そして、その神の愛によって創造された天然のさまざまの事物ー大空や星々、朝焼け、夕焼けなどの美しさ、多様な植物、樹木たちの姿やその花々…山々や大きな川の流れ、また海の雄大さ…そうしたすべてに創造主たる神の愛や真実が込められていて、そこから私たちに向って語りかけられてくるのを感じるようになっていく。
イエスは、求めよ、そうすれば与えられると約束された。苦しい中でも、信じるかどうかが問われる。そしてまた、現在苦しみにある人に、このキリストの香りが届きますようにと願うものである。
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ヨハネ福音書のことばは、ひとつひとつに霊的な意味が込められていることが多い。
さきの文で述べた香油をイエスのために献げたという霊的な真実が書かれているその直後に正反対の心、ユダのことが書かれている。
香油をささげたマリアの献げる気持ち、イエスへの愛、その足を拭うというどこまでも主の前にみずからを低くしていく心ー。それをまったく、感じることがなかった弟子がいた。
それがユダであった。彼は、
「なぜ、貧しい人に捧げないのか」と言った。ユダはお金が欲しかった。何百万もする香油を一瞬で捧げようとする心と、お金が第一と思うこと。
この二つが、並べられている。この世のお金や財産などに関しては、絶えず、計算をする。
同様に、こうすれば、こうしてもらえる、と見返りを求めたりして、計算をする。
自然の美しさは、計算をしない。神を心から信じて行う時、計算なく自分の損得を考えない。
パソコンはいろいろなことができる。しかし、それはその力が及ぶのは計算できるものに限られている。
しかし愛は計算はできない。ユダは、マリアのイエスへの愛は計算できなかった。イエスを売り渡せば、いくらもらえるか。お金で売り渡すということをした。
迫害の時代の殉教、それは、自分の命さえも、主に献げられたという、最高の姿であり、キリストへの香りとして命が捧げられた。
キリストの、十字架の上での死に至る苦しみーそれは、ご自身のすべてを万人の罪のあがないのために神に献げた証しであった。
その香りが今までも流れている。
悪のただ中で、キリストの香りが広がっていったのである。
聖書のはじめ、「初めに闇と混沌があった。そこに神の風が吹いていた。」
そのただ中、ひかりは暗闇の中で輝いている。
ずっと自分を導いてきたイエスさえも、カネで売り渡そうとするユダの心、またそのユダとともにイエスを捕らえて殺そうとする人々を覆う闇。
その深い闇のただ中でキリストの香りが広がっていった。
創世記には、最も大事なものを神に捧げるヤコブの信仰のことが書かれている。
… 神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。
「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行け。
そこで、彼を焼き尽くす献げ物として献げよ。」
次の朝早く、アブラハムは、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。」
(創世紀22の1~3より)
ここで、神がアブラハムを呼んだ。アブラハムはすぐに「はい」と答えた。
絶えず、神のことを思っていなければ、神からの呼びかけはわからない。この世の思いで夢中になっていると神の呼びかけは聞こえない。
仕事中でも、神のことを思っていたら、呼びかけられることがある。
神は、やっと生まれたひとり子を神に捧げよと、アブラハムに言われた。
献げることの重要性が明記されているところである。そして、それも、歩いて三日もかかるような遠くの距離を進んだ。
アブラハムは、その間ずっと祈り続けていたことであろう。最後の最後まで、神が供え物の小羊を授けてくださると信じていた。
子供を殺そうとしたとき、み使いは言った。「今わかった」と。
本当に神に従おうとしているかどうかは、何を献げようとするかでわかる。
どれほど、真剣に、何を献げようとするか。それで信仰がわかるのである。
あなたは、たった一人の息子を捧げることを惜しまなかった。だから、神を畏れるものであることがわかったと、み使いが言った。
「アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる(*))と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり」と言っている。」
(創世記22の14)
(*)ヤハウェという神の名を使うことを畏れ多いとして、代わりに アドナイ(主)という言葉を使っていたので、この言葉は、アドナイ・エレ という言葉でも知られている。
このヤーウェ・イルエ(アドナイ・エレ)という言葉は、数千年にわたって、無数の信仰者たちの励ましとなり、約束となってきた。
窮地に陥ったとき、困難の極まるとき…さまざまの道なき状況のときに、信仰に立っている限り、主から必要なものが思いがけないかたちで備えられるという真理を預言する言葉ともなった。
アブラハムのように、最も大切なものを献げるー このようなことは、誰にでもできない。
しかし、誰でもできる献げもの、しかも最も大切なものがある。
それが、祈りである。
良きことがあれば、感謝する。苦しみがあるとき、すべてのことがよきになると信じて祈る。誰でもができる道を備えてくださっている。
祈れない時も、御国を与えてくださいと、祈る。愛がないからこそ、求めて祈る。聖霊を求めて祈る。
どんな人でも、何歳になっても、一人であっても、どこであっても、真実な心もて神に祈る。
そして感謝の祈りができる。それが神への献げものとなる。
新約聖書で繰り返し記されている次の言葉はそうした神への献げものの重要性を指し示すものとなっている。
…いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。(エペソ 5の20")
…どんなことにも感謝しなさい。
これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。(Ⅰテサロニケ5の18)
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主に感謝せよ
詩篇107より
土屋 聡 (千葉)
…主に感謝せよ。
主は慈しみ深く、
人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。
1 始めに
猛暑日が続く中、2週間一滴も雨が降らず、畑の土はからからに乾いてしまい、特に水を欲しがる里芋は葉が枯れ始めてきました。このままでは枯れてしまうので、この猛暑の中、水やりという重労働を行うことにしました。猛暑の昼間には外に出られないので、朝の涼しい内に行うことにしました。
畑の敷地には水道がありません。山の斜面を利用した畑なので傾斜があり、坂道を100m位ほどの下りきった所にある地下水を汲んで、20㍑のポリタンク2本と如雨露を一輪車に載せて今度は里芋の畝まで登り坂を100m運びます。そしてそのポリタンクや如雨露の水を畝の間に撒くことです。同じことを繰り返し4回ほど行って一通り水をやり終えたところで一休みしました。その頃には朝日が昇ってきて、じりじりと照りつけるのでとても暑い中での作業となってしまいました。汗が噴き出して全身汗でぐっしょりと濡れてからの一休みです。ちょうど、畑の隅に木陰があったので、そこに腰を下ろして休みました。
2 木陰で休んで
木陰は照りつける日射しを遮り、暑さの中で仕事をしたあとのわたしには涼しくてとても良い心地がして幸せを感じました。木陰を通りぬけていく風も涼しくて汗で濡れた体を優しく包んでくれます。心地よく休んでいて「ハッ」と気づいたことがありました。それは、神様がわたしのために木陰を用意して下さっていたと思えたのです。主の働きに気づいたわたしの心には自然に感謝の気持ちが湧いてきました。普段気づかないでいた木陰が、神様の御翼の陰の下にわたしをかばってくれているように感じられたのでした。「暑さを遮り、汗をかいたわたしの体に涼しい木陰とそよ風をプレゼントして下さり、神様、ありがとうございます」と感謝しました。
3 翼を避け所として下さる主(聖書)
聖書に神様が翼の陰を避けところとして下さることが書かれています。
詩篇91の4には、「神は羽をもってあなたを覆い、翼の下にかばってくださる。神のまことは大楯、小楯。」
詩篇17の8には「瞳のようにわたしを守り、あなたの翼の陰に隠してください。」とあります。暑さや寒さ、大風や洪水なども突然起こると、命に関わります。人間関係の中で言葉や態度や暴力によって心や体が傷つくこともあります。そのようなわたしたちの苦しみや悲しみの時に神様はわたしたちを瞳のように敏感に感じて、御翼の陰に隠してくださり、守ってくださるというのです。わたしは御言葉から神様の慈しみを感じて、感謝の心が湧いてきます。
4 人間は弱い
近年の猛暑は、人間の営みによる地球の温暖化の原因であろうと言われています。そして猛暑だけではなく、台風や洪水、干ばつ、森林火災など自然災害による被害が世界中のあちこちで起こり、規模も大きくなりつつあります。明らかに地球が病んでいると感じられます。
50年前から温室効果ガスの増加が温暖化の原因であると警鐘を鳴らされてきたのに、経済成長を優先させてきた人間の罪を感じます。そして人間の高ぶりに対して、神様の裁きが示されているように感じるのです。
人間はとても弱い生き物です。神様のお守り無しには生きていくことは出来ません。人間は神様の前に低くなり、謙遜な者となって神様が造ってくださった暮らしやすい地球環境に感謝し、大事にしていかなくては生きていけない弱い生き物だと思っています。
5 主に感謝して
わたしはガスや電気、ガソリンなどエネルギーを使うことを少しでも減らすこと、ゴミを減らすことなど、今、自分の出来ることをして、少しでも神様が造ってくださった地球に感謝して大事にしていきたい。猛暑の中でも木陰という御翼を広げて守ってくださろうとしている神様に感謝して、わたしは謙遜に生きていきたいと思っています。
(2023.7.23の主日礼拝前講より)
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心の清い人々は幸いだ 対馬 秀夫(青森)
マタイ5章8節「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る。」心の清さとは、こころと体をあらゆる汚れから清く保つこと、神を一途に、純粋に、熱心に求めることである。
しかし、わたしが信仰の初めからずっと求めてきたものは、こころが満たされることであって、こころの清さでも、神の聖さに与かることを幸いとすることでもなかった。
しかし、イエスの8つの祝福の言葉、呼びかけの言葉を通して、次第に、こころの清さこそが慕わしいものと感じ始めている。
マタイ5章の8つの幸い、祝福の言葉は、二つに分けられる。前半の、霊において貧しい人たちは幸いである、他3つは、こころの、魂の、霊の、欠乏の有様を告げ、後半の「心の清い人々は幸いである」ほか3つは、神からの霊の風によって新しくされた、新しいこころの始まりを祝福している、と解しうる。
それゆえに、かって暗記した唯一の詩編51編は、聖霊による「新しいこころ」の回復として受け取っている。
詩編51編12節「神よ、わがために清いこころを造り、わが内に確かな新しい霊を起こしてください。」
19節「神よ、わたしの捧げる犠牲は砕かれた魂です。砕かれ、潰された、悔いる心を、神よ、あなたは軽しめたまいません。」
(徳島聖書キリスト集会の主日礼拝にて)
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思い悩むな。ただ神の国を求めよ。(ルカ12の28、12の31より)
本田 裕子(熊本)
聖書を拝読致します。ルカによる福音書12章28節の途中からです。
「信仰の薄い者たちよ。あなたがたも何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。
また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。
あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存知である。」
私は十代の頃からとても悩む性格でした。それは本当に些細なことでもぐずぐず悩む性格で、どうしようもなく優柔不断な自分に嫌気が差すのですが、どうしても実際に行動を起こすことに踏み切れず、ただただ悩んでしまっていました。 そういう性格だったせいか、二十代の時にはスーパーのフードコートで気分が悪くなり、吐血をして倒れてしまったことがあります。
またある時には激しい痛みにのたうちまわったこともあります。
病名がわかったのはしばらくたってからで、レントゲンを受けたときに十二指腸潰瘍であることが分かりました。病院の先生からは、筋層まで溶けて傷になっているとビックリされました。
私は三十六歳の時に熊本聖書集会に導かれましたが、その頃、学んでいたのはマタイによる福音書でした。
先ほど読みました箇所と同じ内容の聖句に行き当たりましたが、そのときは、そういえばそうだよねと思いながら、なんとなくスルーしてしまって、そんなふうに思い悩むなと思う事も出来ましたが、そう思っても私の悩む性格は簡単に変えることができずにいました。
悩みの穴の中に落ち込んで、思考はぐるぐる回るだけで、どこへも到達できずにいました。
しばらくして学びはルカによる福音書に移っていきました。そしてまた、この「思い悩むな。」という箇所に行き当たりました。今度は何かがストンと胸におちるものを感じました。なぜでしょうね?とても不思議でした。
それこそ神様の御計らいだったのではないかと思います。そうだ。何も悩むことはないのだ。すべて神様に祈ってお任せすればいいのだ。というふうに考えられるようになりました。 私の悩みなど取るに足りないつまらないものだ。そんなことよりも大切なことがあるではないか。とイエス様は教えてくださったのです。
さて、ルカによる福音書ではこの後、このように綴られています。 31節「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。
擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。(オンラインの主日礼拝にて)
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報告
〇 祈りの友 合同集会
第11回 祈りの友の合同集会は、今年は10月9日に徳島聖書キリスト集会場と、オンラインにて開催されました。
参加者 56名(会場12名 スカイプ42名 電話2名)
開会礼拝 11時~12時(司会 貝出久美子)
黙祷
・讃美「天の神 祈ります」讃美歌21の354
・開会の祈り 司会者
・開会挨拶 吉村孝雄
・新規入会者の感話(5分以内)(その1)
富永国比古(福島)
・祈りに関するメッセージ (それぞれ10分以内)
・讃美「主の平和」世界の讃美(1)27
・昼食、交流の時間
・13時30分~15時 自己紹介と近況報告 1人2分以内 (司会 林)
・最初に、新規入会者の感話(その2)関本廣子(徳島)河津 小夜子(福岡)
5.15時~15時50分
午後三時の祈り(全員)
司会 土屋 聡
・賛美「祈りの友の歌」
6.16時 閉会
祈り(古川 静)
・讃美「神共にいまして」新聖歌508 ・祝祷
北海道から九州まで、会場には大阪高槻市から那須 佳子さん、岡山からは香西 信さんも参加され、顔と顔を合わせての祈りの友 合同集会は、4年ぶりとなり、そこに主がオンラインの方々とも働いてくださり、パーキンソン病などで困難な状況の方々の実情も語られ、真実な祈りがささげられ、心動かされる時間となりました。
11時から4時までという長時間でしたが、主の臨在を感じつつ過ごす恵みのときが与えられて感謝でした。 また、毎年新たな「祈りの友」の会員が加えられていくことも感謝で、各地の方々とともに祈りを合わせていくことでいっそうの祝福が祈りによって与えられ、福音、主の平和が広がるようにと願っています。
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お知らせ
〇第50回 北海道瀬棚聖書集会
主催 瀬棚聖書集会 協賛: 日本キリスト教団利別教会、キリスト教独立伝道会
今年の主題…死と永遠の命
はっきり言っておく。
わたしの言葉を聞いて、 わたしをお遣わした方を信じる者は、 永遠の命を得、 また、 裁かれることなく、 死から命へと移っている。 (ヨハネ5:24)
今回の集会テーマを話し合う中で、死と老いることについて多く話が出ました。 私たち、朽ち る体を持つ者にとってはどちらも避けられない、 いつかは通らなければならない道です。 私たち は、死に対して、 また、 老いることに対してマイナスのイメージを持ってしまいがちですが、 イエ ス・キリストは、 それをひっくり返してくださいました。 今年は 「死と永遠の命」 について学びま す。 この不安定な世界情勢の中ですが、 日々を喜びながら生きてゆく力と知恵を神様に与えて いただきたいと思います。
[日時] 2023年11月22日 (水) 20:00 (準備があるので19時半から接続開始となります)
~11月24日 (金) (15時終了予定)
[方法]
Skypeを利用したネット集会
2日目以降 可能であればせたなの人は青少年研修センターに集まって集会予定)
(今年もSkypeを使って集会をします。 時間が前後する可能性があります。 部分参加も可能です。 具体的な接続のし かたや集会中の決まりごとは参加申し込みをされた方に必要に応じて都度連絡させていただきます。)
[主な内容】
1日目 開会礼拝 20:00 ~ 21:00 (礼拝の後自己紹介)
2日目
第1講
10:15~ 11:30
吉村孝雄 (徳島聖書キリスト集会代表)
昼食後 第2講
12:40~13:40
金鍾九 (北海道今金町 日本基督教団 利別教会牧師)
10分間の休憩後、証しと感話の時間
感話
13:50~ 14:30
参加者による証し
14:40~ 15:30
3日目 特別講話
10:30~ 12:00
吉村孝雄
昼食後 感話
13:00~ 14:30
閉会礼拝
14:35~ 15:00
[会費]
なし
[申し込み、 問い合わせ先]
(確実に居るのは20時半ごろからとなります)
野中 信成(のぶなり) 宛
[締切]11月10日までにメール、またはファックスで
お名前、住所、電話番号、 連絡可能な時間帯 (skypeの事前練習を行うために連絡をさせていただくこと がございます) メールアドレスを記入の上お申し込みください。
* 今回はSkype集会を併用する形でこの瀬棚聖書集会を開催します。
「Skype」 は徳島聖書キリスト集会において様々な理由からなかなか集会に参加できない方のためにインターネットを利用して共に礼拝をする目的で10数年前から使われてきたツールです。 初めての方もぜひこの機会に触れてみて はいかがでしょうか。
〇「主の平和」のCD
北田 康広さんのこのCDはいま、ますます軍備の競争が加熱しつつあり、キリスト者としてとくに、祈りが求められる状況にあります。このCDからは「主の平和」を求める祈りの心が伝わってきます。
B5版28頁の詳しい解説書付きで、希望の方は吉村孝雄(*)まで申込ください。希望者にはお送りします。(なお、代金は設定されておらず、自由協力費となっています。)
♪主の平和、主の平和、復活の主の平和
あなたにもわたしにもすべての人に
与えあい 分かちあおう すべての人と♪ (「つかわしてくださいー世界の讃美一の27より)
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