2023年6月 第748号
知識は人をたかぶらせるが、愛は造り上げる。 (Tコリント8の1) |
目次
心に残っている御言葉から ・恐れるな Y.K. |
|
次に引用するのは、イエスのよく知られたことばである。
「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」 (ヨハネ10の11)
これはわかりやすい表現であるから、キリスト教について何も知らない人、子供でも表面的には分るであろう。
人間は、つねに導かれていく必要がある。生まれ落ちてすぐに放置されたらすぐに死んでしまう。ミルク、食物を与え、寒さから守り…そして病気のときには医者に、また言葉やさまざまのことも学んでいく必要がある。それらすべては、両親や学校教育の教師、さらには友人、過去の先人たちの書物などから教えられ、導かれていくのが不可欠である。
学問、知識、芸術、スポーツ…等々あらゆる方面で私たちは絶えず、何らかの導きを受けつつ生きていく。
その途上で良き羊飼いたる良き導きと、悪しき羊飼いとに出逢う。
悪しき羊飼い、導き、指導者、それは歴史においても、いくらでも現れる。自分の欲望、権力欲のために、数知れない人々を支配し、反対する人たちを苦しめ、処刑し、また敵対する者たちに戦うことを命じ、双方の人々に多大の苦しみや悲しみを生み出ていく。
有名人物、例えば信長、秀吉、徳川…等々の支配者、さらに明治以降、敗戦までの天皇や戦争を推進していった政治家、軍人指導者たちはたいていそうした側面を持っていた。ヒトラー、スターリンなどその悪しき羊飼いの最たるものであったし、現在のプーチンもそうした側面を持っている。
そうしたたくさんの民衆、国民にとってたった一人の特別な悪しき羊飼いがどれほど多大な苦しみを与えてしまうか、驚くべきことである。
日本においても、もし国際連盟が日本に中国侵略を止めるように勧告したとき、それに従っていたなら、それ以後の15年にわたる、日中戦争、太平洋戦争というのはなかったのであり、中国や東南アジアの人たち一千万から千五百万という膨大な人たちの命を奪い、日本人も三百万を超える犠牲者を出す、ということはなかったのである。
先見の明のなき、また人々の苦しみをも感じないような、支配欲、権力欲、自分の地位を守ろうとする悪しき羊飼いたちによって広大な地域に、はかりしれない苦しみや悲しみ、生涯消えない体と魂への傷を残した人たちが生じた。
もし、1944年までに、戦争を中止して降伏していたなら、東京大空襲で一夜にして10万人が犠牲になることもなく、沖縄の悲劇もなく、また全国の主要都市が焦土となっていくこともなく、
さらには、広島、長崎の原爆の悲劇もなかったのである。
このことをみても、いかに悪しき羊飼い(指導者)がはかり知れない悪を生み出すかを思い知らされる。
これに対して、まったく逆の「良い羊飼い」が存在する。それがキリストである。
けれども、この「良い」というのはどういう意味を持っているかになると、私たちはごく普通の、例えば、あの人は良い人だ、といったどこにでも使われているイメージで受けとる。
しかし、この「良い」と訳された元の言葉(ギリシャ語)では カロス kalos てあり、次のように、「美しい」 というのが元の意味である。(beautiful, beauteous)
それゆえに、プラトンなど、ギリシャ哲学でとくに重要とされた、「真・善・美」の中の「美」は、このカロスの名詞形 kalon( beauty),である。
この、カロスの意味は、゜よく知られている Thayer著の新約聖書のギリシャ語辞典では次ぎのように説明されている。
美しい、優秀性、卓越していること、価値あること、有用な、適切な、推薦すべき、驚嘆すべき、見て美しい、壮麗な、等々。
(辞書の英語の説明原文beautiful, excellent, eminent, surpassing, precious, useful, suitable, commendable, admirable; beautiful to look at, magnificent:)
このカロスは、日本語訳では、「見事な」(新共同訳)とか「すばらしい」(新改訳)と訳されている場合もある。(ルカ21の5)
しかし、英語訳の代表的な訳では、神殿が「見事な」石で作られている、という個所」では、
adorned with beautiful stones (NRS、 NIV他) と、「美しい」という本来の意味で訳されているし、中国語も、「美石」としている。 別の英訳では、majestic (壮麗な)とも訳されている。
…
イエスはよき羊飼い 。
それは、霊的に美しく、一切において卓越した、人間にとって真にふさわしく、力を与え、貴重な、またあらゆるものを超えた、驚くべき 存在という多様な意味が込められている。
マザー・テレサの著作に、「Something Beautiful for God」(美しき何かを神様のために)というのがあるが、このBeautiful は 単に表面的に美しいということでなく、質的に霊的な美しさー深い意味での良さを意味しており、上記の カロス kalos に似た意味で用いられている。
羊飼いとは、ギリシャ語では、ポイメーンpoimen だが、ラテン語では パストル pastor であり、これがそのまま英語に入って、綴りは同じで パスタァ pastor 牧師と訳される。
もともと、このラテン語のpastor はpasco パースコー の変化形で、pasco とは、草を食べさせる、放牧する、飼料を与える、成長させる、喜ばせる といった意味。
なお、パンはポルトガル語からキリシタン時代に日本に入ったことばであるが、これはラテン語の panis パーニス からきている。このpanis は 上記のpasco に由来する。
よき羊飼いーそれはすでに旧約聖書の詩篇23篇であらわれる。主はわが牧者 これは、原文は牧者という名詞でなく、「(羊や牛などを)飼う、養う(牧する)」という動詞なので、「 主は私を牧してくださるー私に食物を与え、水、養分を与えてくださる」といった意味である。
それゆえ、詩篇23篇ではその牧するということの、具体的なことー食物たる緑の草原に伏させ、憩いの水際に伴ってくださるーと続く。
このように、イエスこそは良き牧者、羊飼いということは、詩篇23篇のように、よき導きをしてくださる存在、 ということである。それは、霊的食物を与え、いのちの水を与え、いのちの光を与え、いっさいのものを良きに変えてくださるー等々を意味している。
事実、イエスは復活して現在は神と同じ存在であり、聖霊、活けるキリストとも言われる。
そのような本質を持つのがキリストであるゆえに、ヨハネ福音書で、「私は良き羊飼い」というとき、単に日本語ですぐに思い浮かぶような、あの人は、良い人だ、親切な人だ、陰口したりしない優しい人だーといった単純な内容ではなく、それを遥かに超える高く、奥深い内容を秘めている。
別の個所で、「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるか…」(エフェソ3の18)、と言われているように、良き羊飼いであるキリストの根本的な「良さ」は、無限の愛をもった御方であるということである。
人間の母の愛、男女、友人間における愛などは、特定の人だけしか及ばないし、それもちょっとしたことで変質し、無関心や憎しみにさえ変るようなはかなさを持っている。そうした人間の愛は、愛の影でしかない。
ヨハネ福音書において、良き羊飼いは、羊のために命を捨てる とある。すでに述べたようなさまざまの意味において無限の広がりと深さのある愛をひと言で言えば、このように羊、人々のために、自分の命さえなげうつ、しかもそれは万人の罪の赦しのため、つねに正しい道(愛と真実)を歩めない人間の罪深さを赦し、清めてくださる愛である。
さらに、その人間としての命を捨てて、復活し、信じる人たちにその復活の命を与える、聖霊という存在にもなられた。
こうしたすべての意味を含めて、良き羊飼い(霊的に美しき羊飼い)と言われている。
イエスのなされたことは、完全の清さがある。清いものは美しい。しかし、人間のすることは、つねに何らかの不純が入り込む。自分への評価を求め、自分が安全であるように考えてしまう。
それゆえにこそ、復活したキリストー聖霊は聖なる風であり、神のもとから私たちのそうした魂のうちに吹き入れていただく必要があるがそうしたことも、求めよ、そうすれば与えられる、と約束されている。
そして、その良き羊飼いの特質は、愛であるからこそ、私たちの苦しみや悲しみに遭遇するときにおいても、詩篇23にあるように、「緑の牧場に伏させ、憩いのみぎわ」に導いてくださる。そして「死の陰の谷を歩むときも」力を与え、その困難を超えて導いてくださる。
それゆえに、この神、復活したキリストこそは、ほかのいかなる人間にも増して、完全な私たちの導きの主であり、そのことは、聖書全体を通じて示されている。
アブラハム、モーセ、サムエル、ダビデ、預言者たち…みな神が導いたひとたちであった。しかし、人間の導きのように単なる導きでなく、必須の霊的な食物を与え、困難や危険、あるいは病気や死に瀕するよなことさえ、良きに転じる大いなる導きなのである。
現在の、混迷した時代にあって、国を守るという名によって実際は国の何万、何十万という人たちを死に至らせ、重い傷を受けて生涯苦しまねばならなくなり、電気や水道、病院、そしてエネルギー源までもたいへんな損傷を受け、生きることが困難な状況となり、また相手国のやはり命令や貧しさから仕方なく戦争に加わっている人たちを殺害するということ、それが一体、守っているということになるだろうか。
たった一人でも大切な命が到る所で失われていく、そのように仕向けていくのが本当の羊飼いー指導者とは到底言えない。守るどころか、国土はますます破壊され、人々の生活も破壊され、命も失われていきつつある。
しかもそのような状態をますます深い混迷へと進んでいく。
こうした時代において、ますます聖書に示された、真実の良き羊飼いたるキリストの道へと、立ち帰ることこそが、最も求められている。
去年の11月からまだ半年あまりのうちに、たちまち世界中のインターネット利用者に広がり、自然・人文科学、芸術、政治、教育、社会活動--あらゆる方面に用いられるようになってきた チャット(Chat)GPT(*)などの生成AI(人工知能)は、その便利さのゆえに、大きな渦のように、さまざまのものを巻き込んでいきつつある。
(*)チャット(chat)とは、chatter (おしゃべりする)の略語。日本語でも おしゃべりのことを ぺちゃくちゃと と話すとかの表現があるように、この英語も擬声語の一つ。GPTとは、Generative Pretrained Transformerの略語。 Generativeは、ギリシャ語の「生む、生じる」などを意味する ゲンナオー gennao、ギーノマイ ginomai、ラテン語の ゲノー geno(生む、生じる) などに由来する。それゆえに、「生成AI」と訳されている。
そしてマイクロソフトも、その技術を一般の人が使えるようにしているし、グーグルも近いうちに一般に用いられるようにするという。
これは、コンピュータを用いることですぐにわかるように、計算できるもの、定量的なもの、言い換えると、「数えることができるもの」を根本としている。
(コンピュート compute とは計算するという意味)
人間がAIに支配されるようになるのでは…と危惧するむきも多いが、日本では、その限界や危険性より、その経済、産業方面において、欧米や中国、インドなどに負けてはならないとばかりにはるかにその利便性がいわれている。
それはどの分野にも、とくに経済にとって相当な影響を及ぼすことが考えられていて、日本は人口が減少の一途をたどり、その割合も大きく、とにかく経済、経済という風潮が顕著だからである。経済とは物、サービス等々の売買、生産、流通、カネの動きであり、それらはすべて数えられるものが対象である。
それゆえ、こうした方面はこの生成AIによって、大きく変えられていく可能性が高い。
人間よりもはるかに速く、というより人間の筆算では不可能な膨大な計算能力をもっているゆえに、おびただしい情報を獲得し、表現していく。
昔は、書物もなく、知識を増やすには、自分の経験と、多くの経験豊かな人に教わることで情報を得ていたが、次第にさまざまの書物が出されるようになり、それの本が多くの知識や考え方を与えてきた。
そして最近の半世紀ほどではコンピュータの出現で急激にそうした「数えられる物」を処理することが可能となって、産業や社会活動、教育…等々で大幅にそれらのやり方は異なってきた。
そうした準備段階のうえに、半年ほど前に、生成AIが登場し、それまではいろいろなインターネットのホームページを参照して確認して自分でまとめていたのを、そのようなことをせずとも、希望する内容を入力するだけで、それらおびただしい積み重ねられた情報のなかから、適当な内容をピックアップしそれをことばにまとめていくので、一回の入力で済ませることができる。
このようなコンピュータなき時代ーいまから半世紀あまり前までなら想像もできないような簡単な操作で、情報を得て、あたかも自分が調べて考えて書いたかのように、普通のことばで答えてくる。
しかし、この生成AIが、定量的な方面で、人間をはるかに上回る能力を持つことは、それ以前のコンピュータの初期の時代からすでに明らかなことであった。私が高校時代では、例えば130 の平方根などは、面倒な開平計算をすることが当たり前だったが、コンピュータができてからは、小学生でも 一瞬でできてしまう。
そこから、音も絵もその根本は数値化できるゆえに、計算機が、まもなく、音楽も、絵画も扱えるようになっていった。
それから、インターネットの時代となり、その名のように網(net)のように人々の間、国と国の間(inter)を結びつけるものとなって、さらにこの数えることのできるものに関する情報は、はてしなく増大していった。
目に見える世界のみが存在する、それが一番大切だと考えるときには、インターネットは王者のように支配するということになっていく。
軍備、兵力も近年では、ロボット、ドローンなどインターネットを用いた機器によって攻撃を加えることもなされ、サイバー攻撃のように、相手国のコンピュータシステムを攻撃してさまざまの施設に損害を与えて、爆撃しなくとも施設の機能をマヒさせる、さらに、宇宙からの攻撃にも用いられる…。
このように、日常生活から軍備、防衛にいたるまで、世界の国々の生活の到る所でインターネットは人間と深く関わっていて、知的な情報、研究といった方面でも、深く入り込みつつある。
このようなインターネット、コンピュータ関連の事物に囲まれているなかであって、それらに支配されていくのではないかと恐れるひとたちが増大していく。
しかし、そのようなインターネット関連の機器によっても冒されない領域が神の御手によってそなえられている。
神はどんな状況においても必ず、究極的な真理の世界である神の国に通じる道をそなえておられる。
それが、神の愛、そこから来る罪の赦し、また変ることなき真実や正義、清さ、永遠…等々である。神の国とはそうしたものが満ちている霊的な世界であり、それこそがコンピュータ、インターネットの支配を超えた、確かな、しかも永遠の道である。
こうした真理に導く光は、神の永遠の光であり、霊的な光であるゆえに数量化できない。それは、すでに聖書の巻頭で明言されているように、いかなる空虚、空しさ、また混沌のただなかにあっても、全能の神のことばによって、その真実と愛に満ちた神への道を照らす光が存在するようになる。
それは神の国への道を照らすものであるとともに、その光そのものが人間存在の根本を支える命となるゆえに、聖書では、永遠の命といわれている。
いかに、絶望的な状況にあっても、なお、そこに真剣に求める魂には、その絶望の闇の中に、輝く光をみさせてくださり、深い平安を与えようとしてくださっている。
現在のような不安定な闇がたちこめていく世界にあって、数千年を経ても変ることなき揺るがぬ真理への道を再認識することが、いっそう重要な状況となっている。
学問、研究の限界
すでに述べたように、この世界の究極的真理は、学問や経験、伝統等々によっては知ることはできない。
そうした真理は、魂に光と力を与える霊的なものであって、決して数量化できないゆえ、コンピュータで計算できるような真理とは、本質的に異なる。生成AIを用いて与えられるのは、あくまで過去の大量のデータからの推察である。しかし、神の啓示はそうした過去の数量化できるデータとは関係がない。
無から生じさせるのが神の全能だからである。
そのことは、すでに聖書巻頭の書である創世記で指し示されている。
…園の中央には、命の木と善悪の木を知る(目先の利益のために良いと思うものを獲得しようとする姿勢)木を生えいでさせられた。
ただし、善悪の木(*)からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2の17〜18)
この重要な個所において、日本語のことばと原語の意味の相違により、適切に訳されてこなかったために、広く誤解が生じてきた。
これは以前から繰り返しのべてきたことであるが、初めてこの善悪の木という表現に接する人のことを考えて再度書いてみる。
(*) 「善悪」と訳された原文は、トーブ と ラァ という二語が用いられている。善というと、道徳的に良いことであり、この花は善であるとか、この食物は善であるなどということは言わない。
しかし、原語のトーブはそうしたさまざまの良きものを表すことばであり、聖書では数十種の訳語に訳されていて、善 と訳されるのはその一部にすぎない。
人間は、例えば、自分に都合のよいことなら、これは善いと判断する。嘘を言うこと、相手の命を奪うことでも、善いこととしてしまう。その典型的なことが戦争である。また、目先のことを考えて、便利とか金儲けができるとなると、毒性のあるものでも偽って販売したり宣伝したりする。水俣病でたくさんの被害者が苦しんだこと、さらにいろいろな公害がたくさんの害悪を流すまで続いたこと。あるいは原発も目先のエネルギーがごくわずかの物質で手にはいるとして大いに 良いものとして宣伝された。
このように、この創世記のことばは、人間的考え、目先の利益をあげるのには良いなどという「知識」からなすことは、最終的には死、滅びに至る、と言おうとしている。
広島、長崎のような核兵器による大規模破壊や原発の大事故、今後生じるかもしれない原発への何らかの攻撃、人間の側の未熟からの大事故…等々ーそれらも目先だけの目的には、「良い」と考えて追求していく。しかし、そのような知識は、最終的に破滅に至るというのがこの神の言葉の本旨である。
(なお、英語などでは、この創世記の「善悪の木」が、単に道徳的な善悪 とする誤解が生じにくいのは、英語ではgood ということばは、単に道徳的な善悪を意味するのでなく、美しいもの、清いもの、力強いもの、また人柄、味わい、生活に利するもの、容姿、表現の仕方…あらゆる良きことに用いることばであるからだ。)
核兵器だけでなく、コンピュータ(計算機)をもとにしたAI(人工知能)も、それをどこまでも追求していくと、破滅に陥る危険性が速くから一部の人によって指摘されている。
例えば、日本で初めてのノーベル賞受賞者である物理学者の湯川秀樹は、定年退官の二年前に出版した本で次のように記していた。
…電子計算機は、数学そのものではないけれど、どうも人間にとって将来 えらいことになりそうな予感がする。
その跳ね返りは、人間性の喪失か、人間疎外かなんか知らんけれども、深刻な問題となりそうです。
(「人間にとって科学とは何か」湯川秀樹・梅棹忠夫対談集、中央公論社 一九六七年発行)
科学という学問研究は、その研究やそれをもとにした技術がどうなっていくか予見できない。
最初は好奇心から始まる。湯川の受賞後16年ほどしてノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎も、自然科学は人のため、社会のため、といったことでなく、好奇心からはじまる、と言っているが、これは、ニュートンにしても、ごく身近な現象に興味をもって、それをどこまでも突き詰めて探求する精神があったのが、最晩年に言ったことばとして知られている次のことばにも反映されている。
「私は目の前にひろがる大海原の海岸で時折美しい貝や珍しいものを見付けて喜ぶ幼な子のようなものだ。」
現代の世界を脅かす最たるものは核兵器であるが、その出発点は、一八九五年のエックス線の発見だった。それは真空放電の実験をしているとき、暗室にあった蛍光剤を塗ってあったスクリーンが発光しているのをたまたま見つけた。これは正体不明ということでX線と名付けた。
これがきっかけとなり、次いで、その翌年ベクレルが、その放射線に関する実験をしようとして、ウラン化合物を太陽光にあてても放射線が出るのではないかと考えたが、曇り空だったので、その化合物を引き出しにいれておいたが、後でとりだすと、写真乾板が黒く感光していた。このことから、ウラン化合物自身に放射線を出す性質があるのに気付いた。
この過程も、まったく好奇心、未知の現象を追求する姿勢と、偶然的なことがあいまって放射線を出す物質が見出された。(なお、赤外線、紫外線も放射線の一種であるが、それらはすでに述べたX線やウランの放射性などの発見よりかなり以前、後者はすでに一八〇一年にドイツの物理学者リッターにより見出されていたが、それは核分裂による放射線の発見にはつながらなかった。)
このときには、これが、五〇年も経たないうちに、全世界を驚かすような原爆となり、広島や長崎に投下され数十万のひとたちが犠牲となるとはだれも考えることはできなかった。
この湯川の直感は、それから半世紀あまりすぎた現在、彼が見抜いたように今後、人間に深く関わる、しかも危険なものとして、浮かび上がってきた。
電子計算機(コンピュータ)を使うこと、それは、最初は計算機の名称どおり、数値計算をする機械であった。しかし、まもなく、それは計算できるもの(数えることのできるもの、定量的なもの)あらゆる方面へと広がっていった。
音楽や絵画もその元になるものは数値化されるゆえに、そうした方向のもの、そして過去の膨大なデータを元にして、将来のことを推察する、それが現在の生成AIにつながった。
これについて、今後どのような人間世界への悪影響があるのかは、その深層はだれにも正確なことはわからない。
原発も、最初は事故など起こらないという物理学者や、それを鵜呑みにする政治家などの主張に簡単に巻き込まれ、原発神話といわれるほどに広く信じ込まれていった。
他の学問は立ち止まり、別方向に進むことができる。例えば、歴史学は戦前のような、天皇中心、大東亜共栄圏のような日本中心の考え方がまちがいだから、国民中心、世界がともに発展するようなグローバル方向への視野を深めることへと転換できる。
しかし、科学は立ち止まったり、別方向へ転換することは非常に困難である。AIにしても、今後どうなるのかだれも明確には予測できない。
ロシアの突然の侵攻、そしてそれから一年後の現在の世界の国々への広範な悪影響、巨大ダムまで破壊して、幾万の人々の電気、水、住まい、産業など破壊し、原発攻撃や、核兵器使用の危険、アフリカなどの食糧危機、世界的な軍備増強、平和国家を標榜し、まがりなりにも憲法9条を守ってきた国が、いきなり、防衛費を巨額増額し、世界第三の軍事大国にまでなろうとする…等々、このようなことは、歴史学、政治学、経済や環境などの学問に通じた人でも、ほとんどだれも予測できなかったことであろう。
そして、戦争が始まったあとでは、当事国の学者たちもほかの多くの政治家、芸術家や教育者たちと同様、大部分が戦争を推進する方向に巻き込まれる。
キリスト教の歴史で最大の重要な人物は、パウロである。彼がうけた神からの啓示が圧倒的に多く新約聖書に含まれているゆえである。重要なローマの信徒への手紙など、多くが手紙 と記されているが、これは私信を指すものでなく、広く回覧し、読み聞かせるメッセージであり、それはパウロという人間個人の考え、思想を述べたものでなく、神(そして復活して神と同じ存在となったキリスト)からの直接的に語られたことばを聞き取った内容である。だからこそ、二千年を経てもその重要性は全く衰えることがなく世界で読まれ続け、新たにキリストを信じる人たちが生じ続けている。
そのパウロはこの世の知識や知恵について次のようにのべている。
・この世の知恵は、神の前では愚かなものだからである。
「神は、知恵のある者たちをその悪賢さによって捕らえられる」と書いてある。(Tコリント3の19)
・「私は知恵あるものの知恵を滅ぼし、
賢い者の賢さを意味のないものとする」
知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。
世は自分の知恵で神を知ることができなかった。それは神の知恵にかなっている。
そこで神は、(十字架で処刑されたキリストを)宣教するという、(この世では)愚かなと見える手段によって信じる者を救おうとされた。(Tコリント1の19〜21)
この世の知恵とは、人間の考え、思想、体系的な学問、経験、伝承…等々、も含む。
これは、パウロ自身、ユダヤ教について旧約聖書について特別な教師について正式に、専門的に学んできたのであったが、それもこの世の知恵であって、キリストの真理を知ることにはまったくつながらなくて、かえってキリスト教を否定し、キリスト教徒を迫害して殺すことさえしたという経験から生まれたことばでもある。
それならば、何が、究極的な真理を体得させるのか、それが、神の霊(聖霊)である。
それについては、ヨハネ福音書においてキリストのことばとして記されている次のことばが重要である。
…、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。(ヨハネ14の26)
… 真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。(同16の13)
そしてこのことは、二千年のキリスト教の歴史において最も深い啓示をうけた使徒パウロも同様である。
…霊(神の霊、聖霊)は、一切のことを、神の深みさえも究める。…神の霊以外に神のことを知るものはいない。
私たちは、この世の霊でなく、神からの霊を受けた。それによって私たちは、神から恵みとして与えられてものを知るようになった。 (Tコリント2の10〜14より)
高性能のコンピュータを駆使する生成AIのようなものにまどわされることなく、私たちが本当の魂の平安と力を与えられていく道は、数千年前から生きてはたらくキリスト(復活したキリスト)、聖霊により示されてきたし、それは万人が読める文字として、聖書によって世界中に示されてきた。
それは、過去いかなる世界の変動ー広範な飢えや長期にわたる熾烈な迫害、災害、ペストやスペイン風邪(インフルエンザの一種)などの感染症、数千万人が死んでいった世界を巻き込む二度にわたる世界大戦…そうしたあらゆるものに滅ぼされることなく、現代においても脈々と地下水のごとくにこの世界の根底を流れている。
現代のウクライナでの戦争はますますどうなるかわからない様相を見せているが、こうした現代の問題にあっても、その根本的な解決の道は、やはり永遠の真理の体現者であったキリストが示した道である。
それはこの世の妥協や軍事力による抑止と称する一時的な平和でない。それは、歴史が示しているように、状況によってたちまち消えていく影のようなものである。
キリストがいわれた、愛と真実なる主に由来する「主の平和」こそが、今も昔も、そしてこれからの世界にも最も必要なものである。
…私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。
私はこれを、世が与えるように与えるのではない。(ヨハネ福音書14の27)
人を満たすもの K.K.
わたしは、夕方から夜にかけて孫たちの世話をしているので、こどもたちに夕食を食べさせます。子供たちはすぐに、「おなかすいたー」と口々に言います。わたしは、いそいで、食事を食べさせます。
孫たちがわたしにおなかすいたと訴えるのは、わたしが食事をくれる人と知っているからで、知らない人には言いません。どんなにおなかがすいていても、宅配便の人にはいわないし、知っている人でも、食事をくれない人、たとえば、弟が兄に、また、兄が妹に「ごはんまだ?」とはいいません。ごはんをくれる人ではないからです。こどもでも、誰が必要なものをくれるのか知っています。
また、それとは別に、たとえば、車のガソリンがなくなりかけたら、ガソリンスタンドに行きます。そこでガソリンが入れられるからです。ガソリンがなくなったら、車はうごかず、動かなくなった車は自分で運ぶこともできない困った鉄の箱になります。ガソリンがなくなって、パン屋さんに行く人はいないし、銀行に行く人もいません。パンでもお金でも走らないからです。
わたしは思いました。この世の思いわずらいや、不安、不満、疲れなどで、平安をなくしているとき、心のエネルギーがなくなることがあります。それは、心が「おなかがすいた」と叫んでいる状態、また、ガソリンがなくなって走れない車と同じだと思いました。
もう、動けない、走れない。そのとき、誰に叫ぶか、どこに行くか。霊の糧が必要なのに、この世に求めるとき、それは、もっと渇くことになります。ガソリンがなくなってパン屋さんに行くような、おなかがすいて、宅配の人にごはん下さいというような、そこではなにももらえません。
もちろん、不安感や恐れに心が縛られているとき、気持ちを切り替えること、また、気分転換することは大事です。わたしも、そのようにして、自分を助けるときがあります。でも、魂の深いところから癒されて、渇きに泉が与えられ、それがよきことにさえ、変わっていく。それは、いのちの食物を与え、心を変え、無から有をつくりだしてくださる、イエス様にしかできません。そして、イエス様にはできます。
イエス様は求めたら与える、だから、求めなさい、と言ってくださっています。それも、あきらめないで、繰り返し求めなさいと言われています。
・ あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。(マタイ7の9)
・ 信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」(同21の22)
・イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。(ヨハの6の35 )
・祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい
わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」 (ヨハネ7の37〜38)
そして、その弱った心、苦しい出来事さえもよきことにしてくださると約束されています。
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(ローマ8の28)
イエス様のところにいくときには、渇きも、川と変えてくださるのです。
主を求めよ。そして生きよ。
わたしは心配性ですし、不安も多く、常に渇いているものです。霊的におなかすいたと騒ぐ、こどもと同じです。ガソリンがなくて走れない車です。
そのことを自覚して、イエス様に求め、イエス様からいのちを受け、満たされて、まわりの人と関わっていくことができますようにと願います。
恐れるな。私はあなたと共にいる
Y,K.(徳島)
私が心に残っているみ言葉です。
「恐れるな。
私はあなたと共にいる神。たじろぐな。
私はあなたの神。力を与えてあなたを助け、私の救いの右の手をもってあなたを支える。」
(イザヤ書41の10)
この言葉によって、
「いつも私はあなたと共にいる。おじけることはなく、恐れることもない、私に任せなさい」
という思いを起こされます。 自分では何もできない。思ったとおりにもならないけれども、どんな時でも神様が最も善いように私を導き、支えてくださったってことを、いままでの信仰、神様を知ってから、ずっとそう思わされました。
でも初めはそういう思いもなく、そんなことも分からなかったけれども、でもだんだん分かってきて、本当にあの時、神様が助けてくださった。神様が人を私のところに遣わせてくださった。という思いを一つ一つ思い出されます。
一番先に、心配になったのは、主人が退院したあと、自宅療養の主人は寝たきりであるし、私は視覚障がい者のため、車の免許はないし、主人が怪我や重病になったらどうしようとか。それから、徳島市の南田宮の徳島聖書キリスト集会の礼拝に参加したいと思うが、その際に、私一人で寝たきりの主人を自宅に置いて行くという時に、どうしよう。
でも、まず祈っていけばいいと思って、それで主人を一人置いて礼拝に参加することに決めました。
家の鍵はしなかったんですけど、ずっと置いて行って参加しました。
でも神様はずっと守ってくださって、私が集会に行ってる間、何もなくて無事にずっと居れたし、様々なことを神様に任せば、さまざまなことが最も善いようにして下さってるし、それに神様はその時その時に善いものを与えてくださっている。
想像もしなかったことが次々与えられているということを今までのことを思って、思わされました。
これからも主人がいなくても、私は神様と共に歩んでいければ、それだけで死の床につくまで、大丈夫。さまざまなことを「心配ない?」とか人に言われても、でも神様が共にいてくだされば、何も心配はいらない。ということをいつも思って生きています。
(*)編者注
戸川さんのことについて、ご夫君のことなど過去のことを知らない場合には、いま話を聞いた人はよく分からないと思いますので、少し説明を…。
戸川さんのご夫君、茂夫さんは30年あまり前の交通事故で、全身麻痺の重度障害者になって寝たきりになりました。
自分で起き上がることもできない、食事など自分だけではとることもできない。そういう状態で数十年間ずっとお家で介護されてきました。
最初3年ぐらいは大学病院で、戸川恭子さんは、介護のために、付き切りでした。 戸川さんがキリスト教と関わりができたのは、集会員の手話通訳してくれている中本裕由さんの奥さんのコトエさんが近くの病院に勤めていて、戸川恭子さんもそこにつとめていたのです。その関係で事故後すぐに、中本コトエさんから中本裕由さん、私にも伝わって。そして、その事故の次の正月すぐ、中本さんと一緒に病院にお見舞いに行ってからの交流があります。最初は、まったくキリスト教には関心もなかった戸川さんは、主の導きでまもなく信仰が与えられ、茂夫さんが退院後は、主日礼拝に参加する以外に、自宅での家庭集会もはじめられ、それ以来、現在まで、30年を超えて、今もその家庭集会は続けられています。
私は山々を仰ぐ
我が助けは何処から
(詩篇121の1より)
T.K.(北海道)
私の心に残っているみ言葉は詩編121編です。
一月のある日、私は近くの山に湧き水を汲みに行きました。その日はさらさらの雪が降っていて、まだ誰も通っていない山道だったため、タイヤが雪の中で空回りしてしまいました。
登り坂の道だったためです。車から外に出てみると、あたり一面真っ白で、どのように戻っていったらよいのか分かりません。
雪の積もった木々を越えて、私は目を上げて周囲を見回しました。
困ったと思うと同時に恐怖を感じました。
美しい雪の山道のはずなのに、なんと自然界の厳しいことか。
助けてくださいと祈りました。自然の力に対して私はいかに無力なものなのか。 吹雪の中でじゅうぶんな服も着ていなくて、凍えながら実感した日でした。
何とか山道を降りてアスファルトの国道に出た時には、ほっとし感謝しました。そして家に帰ってから詩編121編を読みました。
「目を上げて、私は山々を仰ぐ。
私の助けはどこから来るのか。
私の助けは来る。天地を造られた主のもとから。」
私は山梨の甲府盆地に生まれ、山々に囲まれて育ちました。
祖母が山好きだったので、春は近くの山で、わらびなどの山菜を探し、オタマジャクシの大群にびっくりしたり、夏はキリギリスやホタルを追いかけ、秋は石垣の間にいる羽を震わせている鈴虫を捕まえたり、また祖母と一緒にキノコを取りに山に行きました。
冬は遠くの山々を仰ぐと、南アルプスの山に雪がキラキラと輝き、何と美しいのだろうと思いながら生活してきました。
山々を仰ぐ時、山の美しさ、楽しさを思い出しますが、その山の激しさも厳しさも今回は知ることができました。
助けを祈り求めたとき、「わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから。」という詩編の祈り賛美はヨハネによる福音書、今学んでいるヨハネ伝ですが、7章の38節につながります。
イエス様は「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」と言われました。
それは「イエス様を信じる人々が受けようとしている霊について言われた」とあります。どんなに困った事があっても、わたしには主を待ち望み、聖霊を受ける希望が与えられていることを感謝致します。以上です。
(医師)
(ルカ12の28、12の31より)
H.Y.(熊本)
聖書を拝読致します。ルカ福音書12の28の途中から。
「信仰の薄い者たちよ。
あなたがたも何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。
また、思い悩むな。…
あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存知である。」
私は十代の頃からとても悩む性格でした。 それは本当に些細なことでもぐずぐず悩む性格で、どうしようもなく優柔不断な自分に嫌気が差すのですが、どうしても実際に行動を起こすことに踏み切れず、ただただ悩んでしまっていました。
そういう性格だったせいか、二十代の時にはスーパーのフードコートで気分が悪くなり、吐血をして倒れてしまったことがあります。
またある時には激しい痛みにのたうちまわったこともあります。 病名がわかったのはしばらくたってからで、レントゲンを受けたときに十二指腸潰瘍であることが分かりました。 病院の先生からは、筋層まで溶けて傷になっているとビックリされました。
私は三十六歳の時に熊本聖書集会に導かれましたが、その頃、学んでいたのはマタイによる福音書でした。
先ほど読みました箇所と同じ内容の聖句に行き当たりましたが、そのときは、そういえばそうだよねと思いながら、なんとなくスルーしてしまって、そんなふうに思い悩むなと思う事も出来ましたが、そう思っても私の悩む性格は簡単に変えることができずにいました。
悩みの穴の中に落ち込んで、思考はぐるぐる回るだけで、どこへも到達できずにいました。
しばらくして学びはルカによる福音書に移っていきました。 そしてまた、この「思い悩むな」という箇所に行き当たりました。
今度は何かがストンと胸におちるものを感じました。なぜでしょうね。とても不思議でした。
それこそ神様の御計らいだったのではないかと思います。そうだ。何も悩むことはないのだ。すべて神様に祈ってお任せすればいいのだ。というふうに考えられるようになりました。
私の悩みなど取るに足りないつまらないものだ。そんなことよりも大切なことがあるではないか。とイエス様は教えてくださったのです。
さて、ルカ福音書では、この後、次のように記されています。12の31節「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。…
尽きることのない富を天に積みなさい。
そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」 (全盲、はり治療院)
宵の明星
現在、夕空の西には、明けの明星として広く知られている金星が強い輝きを見せています。その左側には、火星も見られます。
梅雨空のこのごろでは、なかなか澄んだ夜空とならないのですが、それだけに、時折晴れた日の夕刻には、驚くようなその光がいっそう心に入ってきます。
電灯など一切なかった古代のローマにおいて、明けの明星を再臨のキリストの象徴だとして、早朝の礼拝に向う途上で、希望に胸をふくらませた人たちのことが思いだされます。
今頃の季節、山々では、新芽が出揃い、緑一色です。それらの一つ一つの葉には、神の驚くべき創造、命の創造の力が込められています。
身近な自然の姿には、つねにその創造者である神とキリストの思いが込められているゆえに、それらが私たちに投げかけているメッセージは、はかり知れないメッセージがあるのを感じます。
「真珠の歌」の復刊
「祈の友」の方々が残した数多くの短歌から選び抜かれた歌集「真珠の歌」を復刊しました。
これは、徳島聖書キリスト集会に関わる多くの方々によって、古くなって現在入手できないこの本を分担してテキストファイル化としていただいて、それを文字も大きくして復刊したのです。
結核は現在では恐るべき病でなくなりましたが、戦前は120万人もの感染者があったほどで、亡国病とも言われ、若い人々が次々にこの病魔に襲われて死に至り、とても恐れられており、
孤独と絶望によってみずから命を断つ人も多くいました。そのような追い詰められた状況のなかからキリスト信仰を与えられて、心身ともに癒された方々、また体はいやされずとも信仰によって霊的に力与えられ、希望を持って生きるように変えられた人たちは数多くいました。 その人たちがその苦しみや悲しみのなかから、キリストの光と命を知らされて生まれたのがこの「真珠の歌」です。
余分を印刷しましたので、希望者は、「いのちの水」誌と同様、左記に申込くださればお送りします。(価格は、この「いのちの水」誌と同じく自由協力費です)