いのちの水 2024年 10月号 第764号
あなたの御言葉は、天にて永遠に定まっています。 あなたの真実は、永遠です。(詩編119の89) あなたの御言葉はわが足の灯火、わが道の光。(同105) |
目次
…イエスは彼らを見つめて言われた。
「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」 (マルコ福音書10の27)
この単純な主イエスの言葉を本当に心か受け取るかどうかで、人の生涯の道は根本から異なってくる。
私たちは困難な問題に直面して、解決の道がまったく見えないときなど、しばしば言う、そんなことは無理だ、と。また悪いことを止められない人に対してあの人はだめだ、決してよい人にはなれないなどと言ったりする。
また、何かの難しい問題にぶつかって、私はもうできないと思って絶望的になったり、社会ももうよくならない。いくら努力しても、多数が関心を持っていないのだからやっても無駄だ…等々、しばしば「○○は、できない」という思いに支配される。
人間の最後に訪れる死ということも同様で、死ということを逃れることはできない。死んだら終わりだ…といったことがあたりまえのことのように思われている。
しかし、もし万能の神、愛の神がおられると信じるのならば、もうだめだ、ということはなくなる。「死」という最大の力を振るっているものにも打ち勝つことができる。実際、キリストは、死の力に打ち勝って復活され、今も神と同質な存在として生きておられる。
また、社会の状況もいくらごく少数の人が頑張ってよいものにしようとしても、例えば日本の最近の状況を見ても、とくに若い人たちの動きは、将来に深い憂慮を持たせるものである。いくら教育が発達しても、豊かになっても、若者も含め人の心は善くなってはいない。かえって悪くなっているのでないか…といった疑問が頭をもたげてくる。
世界の状況も、科学技術や教育がいくら発達しても、人間の心はよくなっているとは思えない。
戦争という大規模に人間の命を奪い、住居や社会的に重要なインフラ、建造物を次々と破壊することが横行していることをみてもそう思わざるをえない。
このように、すべて人間では究極的にはどうすることもできないようなことがいたるところにある。
自分自身の心のなかのよくない部分、罪と言われる不純な思いなどすら、追い出すことができないのだから、社会にみなぎる悪の力を追い出すことなどできないのは当然だといえよう。
こうして、神を信じないときには、人は、だんだんと無気力にならざるを得ない。何をやっても、究極的には変わらないのだ、そして最後には死が訪れるのだという漠然とした無力感がその人の心に漂っていく。
しかし、「神は何でもできる」、しかも私たちの弱い人間に深く実感できる愛をもってしてくださるという信仰が与えられ、この信仰を固く持つときには、人にはできなくとも、神にできるという確信をもって生きることができるようになる。
自分自身の心の中の汚れ、罪も神は清めることができる、世の中の問題も究極的には、神は悪をすべて滅ぼすことによって解決して下さる、死にも打ち勝って、死後の豊かな命を与えて下さる。
私たちが日常生活のなかで、何か壁に直面したとき、八方がふさがって絶望的状況であるとき、この主イエスの言葉が光となって私たちの心によみがえってくる。そうだ、私にはできないし、他人にもできない、しかし、神はできるのだ、最終的に神がすべてを最善にして下さるのだという信仰が流れ込んでくる。そこから再び私たちは、前方の光に向かって歩きはじめことができる。
主イエスは、望みを失って、倒れようとする人間を、じっと見つめて、「人にはできないが、神にはすべてが可能なのだ」と語りかけて下さっているのである。
海の波、それはその一瞬一瞬に変化を見せつつ、押し寄せてくる。
人間のあらゆる思いを乗せてやってくるように感じることもしばしば。
他方、神の無限の多様性のあるお心の象徴であるとも感じる。
聖書には、海の波、川の流れが次のように記されている。
…私の戒めに耳を傾けるなら、
あなたの平和は、川のように
正義は、海の波のようになる。(イザヤ書48の18)
平和の原語はシャーロームあり、それは、満たす、完全にする といった意味がもとにある。
それゆえに、このシャーロームは、根本では一人一人の魂が神のよき賜物によって満たされる状態を意味しており、平和とも平安とも訳され、それは次の詩篇23篇によく表されている。
主はわが牧者
私には乏しいことがない
主は私を緑の牧場に伏させ
憩いのみぎわに伴ってくださる…
そうした平和(平安)が川のように…
平和は非常によく語られる重要問題であるが、このように たとえられることはまず見かけない。
この詩篇の作者に示された思いと、現代の私たちの平和ということの思いとの大きな差がそこにはある。
私たちは平和というと戦争がない状態という、否定的表現で受けとることが多い。
しかし、聖書においてはシャーロームとは語源的には、神のよきものー真実や慈しみ、清さ、力…で満たされた状態を意味する。
川は常に流れ続ける。そして命の水を周囲に与える。神からの魂の平安、そしてそのような平安を持つ人たちはおのずから自分の欲望にまかせて武器で他者を殺害するなどの戦いを起こさないから平和が生じる。
神から与えられた平和というのは、神が永遠であるゆえに、流れ続けるということである。キリストの時代以降は、復活したキリストが生けるキリストとなり、また聖霊となったゆえに、それはいのちの水とも言われた。(ヨハネ7の37〜39)
他方、霊という言葉(漢字)はもともと中国語であるが、霊を意味するヘブル語の言語は、ルーァハであり、本来は風、息という意味である。 それゆえに、聖書巻頭の創世記第一章のはじめに、闇と空虚のただなかに、神からの風 が吹いていたと記されている。
この個所は、「神の霊がおおっていた」という訳が多いが、新しいプロテスタント、カトリックの訳では、 神からの風、wind from God (NRS) 、神のごとき(聖なる)風 divine wind (NJB))のように訳されている。
他方、海の波は一瞬一瞬に変化を見せる。 目に見えるもので、これほど微妙で複雑な動きをしかも広大な領域にわたって見せてくれるのは、海の波以外にはないであろう。
少しの風でも、波があり、遠くを大きな船が航行するときに、うねりとなって波が押し寄せてくることもある。その大きなうねりの波にもまた小さな波が生じ、さらに風によって白波を立てたり、無風状態のときは、大空を映し出す鏡のような水面となることもある。
海の波、それは動揺の象徴として、また台風、津波などの被害からマイナスの連想をされることも多い。
しかし、たいていの日は、さまざまの風の強さ、また太陽の光などにより、千差万別の姿を見せてくれる。
このイザヤ書では、その海の波が、「正義は海の波のようになる」と言われ、これも通常とてもそのような正義などとは結びつかない特別な表現がなされている。
ここで言われる正義は、単に悪人を裁くというのでなく、人間は悪の力に支配され、自分中心の罪深きものであるが、それを知って神に赦しを願うときには赦しを与える、神を信じるだけで正しいとしてくださる愛をも含むことばとなっている。(それゆえ新共同訳では特に「恵み」 と訳されている。)
そのような意味での正義が海の波のように、たえず私たちに向って押し寄せてくるというのである。
川の流れ、そして海の波を、二つとも絶えず流れて、また打ち寄せてやまない神の大いなる愛の象徴として言われている。聖書の世界では川というとチグリス、ユーフラテス川やナイル川などの大河が深く結びついている。
川と海に恵まれた日本には数々の川や海に関する詩歌がつくられてきたが、このように無限の神の愛のたとえとして歌われるということはまず見られないことである。
それほど、聖書の世界はいまから二千五百年ほども昔から、平和や正義というものを広く深くとらえ、それがしかもどこにもないのでなく、豊かに流れ続け、人間にむかってやすみなく打ち寄せている雄大なかつ永遠的なものとして啓示されていたのである。
現代の平和や正義の失われたと見える世界にあっても、このような目に見えない神の正義や平和、平安は川のように流れ続け、この世に打ち寄せ続けている。
自分のいままで生きてきた長い歳月に犯してきたさまざまの罪を思いだしてあらためて、キリストの十字架による罪の赦しがいかに深い意味を持つかを知らされていくことも多い。
罪の深さということは、若きときには十分にはわからない。
数十年という歳月を経てはじめて、明らかになってくることもある。
ノルウェーの指導的なキリスト者が次のように書いている。
…私が悔い改めて信じるに至ってから犯した最大の罪、最も主を悲しませた道は、祈りに関すること、すなわち祈りの怠りであった。
このことこそ、私が犯した多くの罪の原因である。
(「祈り」ハレスビー(*)著三四頁 聖文舎)
(*)オーレ・ハレスビー
1879〜1961年 伝道者、著作家、神学者。 ナチス・ドイツに抵抗したため、逮捕され、1943年から45年の終戦まで投獄され「死の蔭の谷」を経験した。
祈りを怠ったこと、十分な祈りをしてこなかった、これこそ、多くの罪の原因ともなったというのである。 キリストを信じ、歩んできた者がその深さの程度はあれ、だれもが、感じることであろう。
あのとき、もう少し静まり、祈りにとどまっていれば罪をおかさなかったであろうと思われる言動というのは多くある。
また、そうした特定の時や決断を要するときだけのことでなく、誰かに対し、また何らかのなすべきことに関しても、持続的に祈りが欠けていた、と思うことはいくらでもある。
主イエスがたえず目を覚ましていなさい、と言われたことは、たえず祈りをもって生活せよ、ということと同じ意味をもっている。
イエスがゲツセマネの園で、自分の最後の歩むべき非常な苦しみの道を歩めるようにと、夜通し必死の祈りを捧げたが、そのとき、弟子たちには、少し離れてそこで祈り続けよと命じておいたが、彼らはみな眠ってしまった。
イエスが祈りを続け、再度弟子のところに来ても、なおも眠り続けていた。
ここには、それほどに、人間はなすべき祈りがなされていないということが象徴的に示されている。
神は人間とは対照的に、眠ることがない、全能で完全な愛の存在であるゆえに、その愛する民を夜も昼も見守ってくださっている。
御神は汝の足を
強くす
御守りあれば汝は
動かじ
み民をば守るもの
まどろみ眠りまさじ
(讃美歌301より)
キリスト者の祈りとは、自分や他者も含め、神から最善のことが与えられるようにとの内容をもっている。
神こそはすべての人間の状況を見抜いておられ、かつ最善のものー愛や真実、正義、また永遠、また清さ、そして朽ちることなき美…等々をもっておられる方である。
それゆえに、その神からそのような完全な良きもののひとしずくでも与えられるなら、人間は力を与えられ、喜びを与えられて闇から立ち直ることができる。
自分にも、また他者にもそうした神のうちにある良きものを与えられるようにとの願いこそ、主イエスが祈りは次のように祈れ、といわれて示された「主の祈り」に含まれることである。
・ 御国がきますように。
・ご意志が天に行なわれるように、地でも行なわれますように。
・私たちの日毎の食物を今日も、私たちに与えてください。…
これらのうち食物に関する祈りーこれは、目に見える食物と目に見えない食物である神の言葉も含めての祈りである。
そして「私たち」とは、広い意味では、飢餓に苦しむ膨大な人たちも含めて…。
祈りの欠如、過去をふりかえっても、最も身近な存在である家族や親族に対しても同様であって、私自身祈りの欠如があったことを深く知らされつつあるし、かつての教師時代のときの生徒や同僚たちに対して、また現在においても、集会関係の方々、そして「祈りの友」や「いのちの水」誌の読者の方々、そして また近所の方々など、生活の中で関わりある方々に関しても、祈りはとても不十分なものでしかない。
さらに、一時的に出会う人々、そしてさまざまな災害や事故、また戦争や、そこから生じる難民の方々に対しても…
そのように祈りは常に欠けている状況にあるゆえ、さまざまの問題の原因となっていく。
それゆえにこそ、罪の赦しということがとても重要なことになる。
…罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。
(ローマ5の20より)
いかに自分が罪深きものであるかを知れば知るほどまた、そのような罪をもすべて赦してくださるキリストの恵みをいっそう実感するようになる。
イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」 (マタイ26の52)
このイエスの言葉は、武力、暴力によって相手を倒そうとする者は、みずからもその武力や暴力などによって滅びていくという真理を語ったものである。
現在の日本国憲法の憲法9条(*)は、日本の開戦によってアジア・太平洋戦争における千万、二千万というおびただしい死傷者を生み出し、日本人も数百万の犠牲者をだしたゆえに、その深い反省をもとににして生まれたものであったが、この憲法の背後には、このイエスの精神を感じさせるものがある。
(*)「日本国民は…国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。…」
しかし、ここにあげたイエスの言葉は、剣ー武力を用いるものは武力で滅びるということであるが、それならいかなるものを用いて対立や紛争を解決すべきなのかは、この言葉ではわからない。
そして、この聖書の言葉は、国や民族などの紛争、争いに関して言われていると受けとられることが多い。
しかし、国際関係に限らず、国を構成するものはまずそこに住む人間である。その人間同士の争い、不和に直面してそれをなくそうとすれば、その対立や憎しみが強いほど、通常の人間の感情や考え方では解決の道は見えない。ふつうの人間の生まれつきの優しさとか思いやりといったよきものを超える力が不可欠となる。
聖書に記されている内容は、一人一人の人間関係における真理が記されているだけでなく、人間の集合体である国家や民族に関しても真理となる。本来真理とはそうした普遍的なものである。
国とは人間の集団であり、国の問題、国家同士の問題とは、突き詰めていくと罪深き人間の問題であり、人間同士の問題である。
そして、人間同士の関係が破壊されるのは、自分中心の欲望、感情、意志であり、憎しみ、ねたみ、怒り…等々の罪によってである。
第二次世界大戦にしても、ヒトラーの人間的な欲望、ユダヤ人に対する差別感情といったものが深く関わっている。また、東アジア・太平洋戦争につながった日中戦争も、一部の軍人や政治家たちの名誉欲や権力欲、自分の地位にしがみつこうとする欲望に支配されたという人間の問題がやはり根源にある。
貧困、失業などの経済問題などが背景にあったとしてもそこから侵略や戦争といった行動へと向かわせるのは、やはり政治家や軍人指導者、企業の経営者たちの人間の欲望や権力欲が常に伴っているし、そうしたものに煽動されるマスコミや国民も同様である。
ひとたび戦争が始まると、死者や重傷者などが次々と生じ、そこから生まれる憎しみや攻撃的な心情は国民全体にひろがり、さらなる戦争へとつながっていく。
そして、国家、国民のもとにある一人一人の人間においても、戦争のような特別な状況でなくとも、憎しみや差別の心情から生まれる言葉や行動、それは相手の心に突き刺さる剣であり、相手の魂に深い傷を与える。
主イエスの「剣を取る者は剣によって滅びる」という言葉は、単に目に見える剣、武力に対してのみ言われたのではない。
それは、こうした目に見えない剣に関してもあてはまることである。
目に見える剣ー武器や暴力を取るべきでないーしからば何を取るべきなのか。
それは、神から与えられる目に見えない剣を使えと言われている。
…霊(聖霊)の剣、すなわち神の言葉を取れ。
(エペソ書6の17)
これはまた、神からうけた愛こそが、聖なる霊の剣であると言い換えることもできる。神の言葉は、愛なる神のお心そのものであり、真実の愛は聖霊の実と記されているからである。
剣を取る者は、剣で滅びるーという言葉だけでは、人を殺すなというモーセ律法のひとつの戒めであるにとどまって福音ではない。
しかし、剣ー武力、暴力を取ることで滅びに至るのであるなら、何を取るべきか、それは聖霊をうけることであり、それによって敵対する力に勝利することができるーこれは喜ばしい知らせであり、すなわち福音となる。
人間は、対立する相手に対して、憎しみや敵意、またじっさいに武力を用いて相手を攻撃し、滅ぼそうする。
日本において、戦前には、じっさいに武力をもって外国へと侵略の戦いをする兵だけでなく、家庭の主婦の雑誌にさえ、「鬼畜米英!」などという言葉を広めて、アメリカやイギリスへの憎しみと敵意を煽りたて、それによって武力による戦争を後押ししようという根本的にまちがった考えを、国をあげて奨励するという異常事態でった。
しかし、現代の私たちも、剣をとる者は剣で滅びるから、戦争はしてはいけない、ということにとどまっているのでは、何ら力を受けないであろう。
それだけでは単に人を殺すな、という戒め、律法であるからだ。こうした律法、法律的な理由では、何ら人間に、善を行なう力は与えることができない。
イエスは、そして聖書全体は、常にそうした戒めとともに喜ばしい知らせをも同時に与えている。
求めよ、そうすれば与えられる。何が与えられるのか、それは神の国である。言い換えれば、神の真実と愛による力であり、永遠の命である。それが、イエスに従う者に与えられると約束されており、たしかに私たちも少しでもイエスに従おうとしていくとき、そうした神の国に属する良きものが小さきながら与えられるのを実感する。
キリスト以降になって、たとえ主に従えない罪深い者であっても、ただそれを知ってその罪を赦してくださるキリストへと心の方向転換するならば、だれでも、あたかもそうした弱さや罪深さがないかのように、神は私たちをみなしてくださる。
だれでも取ることができる剣、それこそは、聖なる霊、その霊による神の言葉である。
人の命を奪い、大きな傷を残して生涯の苦しみとならせる武器でなく、もっとも深いところでの良き「剣」を与えられることができるのであり、それによって悪の力と戦うことができ、勝利を得ることができる。
そのよき霊的な剣は、神の言葉であり、愛であるゆえに、その霊的剣を用いる側も、受ける側も双方が、よきものを受けることになる。
悪の力に勝利するとは、目に見えない悪の力そのものを滅ぼすことであり、それは言い換えると、悪に支配されていた人の心のなかに、神の真実な愛が入ることであり、その愛がその人を導くようになることである。 主イエスは、私は世に勝利している、と言われた。
世に勝利するとは、この世を支配している自分中心の本性とかカネ、権力、人間感情中心の考えに勝利することであり、目には見えないけれども、この世全体を見守り、悪の力に勝利している存在を受けいれることである。
… これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和(平安)を得るためである。
あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出せ。わたしは既に世に勝っている。(ヨハネ 16の33)
…神から生まれた人は皆、世に打ち勝つ。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。(Tヨハネ5の4)
さらに、イエスを守ろうとして剣を取った弟子に対して言われた別の言葉がある。
「剣をさやに納めよ。父が私に与えた杯は飲むべきではないか」(ヨハネ18の11)
すなわち、剣をさやに納めることによって、父なる神がイエスに与えた杯を飲むことになる。
杯を飲むとは、十字架の苦難と死を意味し、それこそが、神のご意志なのであり、イエスの十字架の死が私たちの罪の赦しのためだと信じるだけで罪が赦され、救いに至るという大いなるわざへとつながった。
もし、弟子が剣をさやに納めるのでなく、小さな剣を持って多勢の武装した兵士やその他の人達の集団と戦って勝てる見込みなど到底ない。もともと、ペテロ、ヤコブ、ヨハネたち主たる弟子は漁師であって武器をもって戦うことなど経験がまったくなかったはずである。
そうした剣をもって応戦するなどできない弟子たちであるから、たちまち打ち破られるであろう。
そうすれば、人々には、弟子たちが応戦したが、たちまち打ち破られ、死ぬか重傷、あるいは逃げてしまったということになり、 イエスの弟子たちは、ローマ帝国やユダヤ人の指導者に歯向かいたちまち打ち負かされた。そんな結果はだれでもわかるのに、小さな剣をもって応戦しようとしたとは何というあさはかな考えの弟子やイエスなのか、とということになる。
イエスは、そのようなことにならぬよう、弟子たちが応戦するなどを全面的に止めて、みずから捕らえにきた人達に名乗ったのだった。
そこには弟子たちの弱さやイエスの何も応戦できぬ弱さのみがあったと思われるであろう。
しかし、イエスは神の本質、神の力を受けていることを示した。
それは次の記述で明らかになる。
イエスを捕らえるために来た大勢の兵士や大祭司の家来等々が武器をもって来て、ユダの指図によってイエスを捕らえようとしたとき、驚くべきことが生じた。
それは、彼らを前にしたとき、イエスが「私である」というひと言を言われたとき、イエスを捕らえにきた多くのものたちが後ずさりしたばかりか、地に倒れた。のだった。(ヨハネ18の6)
こんな不思議なことがあろうか。イエスが言われたひと言で、武器をもってイエスを捕らえよう、歯向かうなら、武力、暴力で打ち倒そう、捕らえようと意気込んできたものたちが、みな不思議な力を受けて、倒れてしまったというのである。
ここには、この世の力とイエスのもつ霊的な力との鋭い対照がある。
イエスは、何の力もない者のように、捕らえられていこうとする。弟子たちすらさえ逃げ去り、ペテロは剣を取ったがイエスにおさめよ、といわれ、逃げ去った。
この無力、弱さの極みのただ中で、イエスは神の力を与えられているのだということを証ししたのが、このひと言である。
これは単に、捕らえにきた人たちに自分こそイエスだ、と言ったという単純な意味ではない。
このイエスのひと言、それは、原文では、エゴー・エイミである。エゴーは英語のエゴイズムという言葉にも入っているが、ギリシャ語では「私」という意味であり、エイミは英語の am と語源的には同じであり、単に「〜である」、という意味にとどまるのでなく、「存在」を意味する。
それゆえ、イエスの言われたひと言、 エゴー・エイミとは、私は存在者、永遠に存在する者なのだ、という意味である。
それは神に等しい力を与えられている永遠の存在なのだということであり、その力のゆえに、兵士たちが後ずさりし、倒れてしまったのであった。
それは、イエスはいかに弱々しい姿に見えても神の力を受けた存在であり、それを倒そうとする者は、見えざるイエスの力、神の力によって前に進むことができず、倒れてしまうということなのである。
悪の力はいかに多勢で強くとも、なお、そうした力を圧倒する力をもった存在だということを示したできごとであった。
私たちも、イエスを堅く信じて歩むときには、私たちのその信仰を滅ぼそうとしてくる闇の力を、私たちのうちに住んでくださっているキリストが押し戻し、倒してくださる。ということなのである。
たとえ、外見的には弱く、滅ぼされてしまうように見えても、霊的な世界においては、かえって悪の力が退き、倒れていくということであり、それはたしかにキリスト教が伝わっていく世界のあちこちに生じたことだった。
イエスは、弟子たちにさえ見捨てられ、それによって、十字架での刑死というたとえようもない苦しい杯を受けることになったが、その十字架の死こそが、すべての人たちを罪から救うという大いなる業となり、その後の復活となり、それは万民の救いにつながることなのであった。
そのような世界全体にわたっての大いなることが実現するためにこそ、剣をとって武力での戦いでなく、その剣を納めるべきだとイエスは神からの啓示を受けたのであった。
武力で闘わないのは臆病とか卑怯なことでなく、そうした武力では決して実現できない大いなる神のわざの実現につながるためであった。
私たちも、さまざまの苦難の状況におかれるのも、偶然にそのような状況に出会ったとか運が悪いといったことでなく、その苦しみや悲しみという苦い杯を神のご意志が成るためなのだと信じて飲み干すことで、新たな力が与えられ、神の国のための小さなはたらきとなることが指し示されている。
「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。」
(Tコリント15の58)
私は、初対面の医者に診察を受けるとき、自分で病気の説明をするときがあります。そのときには、持病の診断がついた20歳の入院時から簡潔にまとめて記入しているノートを見せます。当初は症状、治療、検査内容と結果、食事内容などをノートに手書きで書いていましたが、翌年からワープロで入力、そして28歳からはパソコンで入力できるようになり、栄養の計算をしたり、持病の内容をまとめるのが楽になりました。 けれども、新たな症状、新たな治療のたびにネットで調べているうちに、ひとりで悩んで落ち込んでしまい、無駄な時間を過ごしてしまう時があります。
今回もステロイド治療が2年半続き、自宅での集会参加が続いています。治療が始まるとき、長い期間ということは聞いていましたが、長くても一年ぐらいで終わると思っていました。 いまのまま薬の量は減らさないと聞き、また悩んでしまいました。
まだ来年、再来年…いつまで続くか分かりません。けれども、日曜日の礼拝の会場に行けなくても家でできること、私にもできることを折々に神様が与えてくださっています。
そのことに目を向けて、こなしているうちに、心に平安が与えられ、何事も前向きに受け止められるようになりました。
集会に導かれて今月16日で20年になります。これからも少しのことで動揺することなく、信仰から離れずに、自分にできる主の業、神様が喜ばれる時間の使いかたをしていきたいと思います。
心に残っている御言葉
心に残る御言葉。私は今日、「日々の聖句」というのを毎日カレンダーがわりに使っておりまして、そのローズンゲン(*)の今日のところに、今日の私のこれからの話を後押ししてくれる、一つの聖句が書かれていました。
「神はわたしの道を見張り、わたしの歩みをすべて数えておられるではないか。」(ヨブ記31の4)です。
そして私の心に残る御言葉は
「人の道は主の目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を配っておられる。」(箴言5の21・新改訳第三版)もう一つ、
「堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。」(Tコリント15の58・口語訳)
この私の今ずっと使っている聖書に、ずっと20年余り忘れられずに、ここに残っていた二つのしおりがあります。
夫が定年直後、希望に燃えていた時に、突然に白血病発症で全盲になり、透析を続けることになって、これからの不安でいっぱいでした。「病床で「目に見えるものによらず、信仰による」(Uコリント5の7より)の主の御声で心を決めた。」と後日、証ししていましたけれど、私もうろたえ、ただ前に向かわなければという思いだけで、この聖句を選びました。
そして、このしおりを作りました。その時の私の信仰は、聖霊によってとか、イエス様が共に歩いてくださっているとか、そんな深い意味合いも分からないまま、ただ探して書いた聖句のうちの二枚でした。
これから夫を支えなければという思いだけで歩いてきた、信仰だったと思います。 二人三脚で21年間過ごし、そして突然の別れとなりました。この二つの聖句が私にピッタリ。
主の御計画のうちにあったこと、改めて気がつきました。病気との闘い、生活の不安など試練の連続。その中にも神様がちゃんと喜びも与えてくださり、このでこぼこ道を本当に21年間、歩いてきました。この御言葉の深さを知って、これからも私が一人で歩む信仰の道しるべとして、この二つの聖句は、大切にしていきたいと思っています。以上です。
(*)ローズンゲン(Losungen)とは、ドイツ語で「価値ある大切な言葉」といった意味で使われる。「l・sen」(解決する、または解く)ということばに由来する。神の言葉こそは最善の解決の道なので、このように日々の聖句といった意味で用いられている。
ここで言われているローズンゲンは、世界的に知られた聖句集で、現在ドイツ語圏では毎年百万部以上が発行され、世界でも43の言語に翻訳されているという。もともとは、ドイツのヘルンフート兄弟団(ツィンツェンドルフによって設立されたプロテスタントキリスト教の一つの流れ)が三百年ほど前から発行してきた聖書日課集。(編者注)
心に残っている御言葉
今回の私の心に残ったみ言葉です。
「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」(ガラテヤ信徒への手紙5章6節)。
この最後の箇所は、ほかの訳では大半が「愛によって働く信仰」となっていて、この訳のほうが私にとっては分かり易いと思っています。
私が今日なぜこの聖句を取り上げたかと申しますと、私はかねがね、自分の信仰は愛によって働く生きた信仰にはなっていないのではないか、頭だけの死んだ信仰になっているのではないかと懸念しているからです。 キリストを信ずる信仰はいうまでもなく生きて働く信仰でなければなりません。 そして信仰が働く時は愛を持ってすることを必要とするのだとパウロは述べているのだと思います。
パウロはアブラハムは信仰によって義とされた、いわゆる信仰義認のことだけが良く強調されるのですが、信仰は愛の神に対する絶対的な信頼であり、生きた信仰である以上、それが本当の信仰であるならば、やがて神の愛を持って人を愛する愛となる。
これが愛によって働く信仰なのであり、このような信仰こそが本当の信仰であって、愛の働かない信仰は実は信仰ではないと彼は述べているのではないかと、私は思います。
私はこの箇所を読んだとき、ヤコブの手紙を思い出しました。この手紙の2章にヤコブは、信仰には生きた信仰と死んだ信仰があって、生きた信仰とはキリストによって贖われたものを受けた霊による新しい命であって、このような信仰は必ず行い、すなわち愛の行いを伴った信仰のことである。
この反対に、頭だけで理解した信仰に過ぎない信仰は命のない死んだ信仰であると述べているんですが、これとパウロがここで述べている愛によって働く信仰とは、言い方は少し異なるように見えるのですが、同じことを述べていると私は思います。
私も頭だけの死んだ信仰ではなく、愛の行いを伴った生きた信仰を持ちたいと、かねがね思って心から願い、祈っているものでございます。以上で終わります。ありがとうございました。
(「心に残っている御言葉」とは、毎日曜日の礼拝の、聖書講話の前に、会場、オンラインの方々で希望の方々に、3分以内で語っていただいているものです」
一、文集「野の花」の原稿の提出について
〇内容…日曜日ごとの礼拝での聖書からのメッセージ、聖書での学び、読書で印象に残ったこと、暗唱聖句、好きな聖句、心に残っている讃美の歌詞、信仰の証し、社会問題に関することなど。
〇字数…二千字以内。
〇原稿提出期限…10月31日。
〇入力するときの注意事項
改行のときは一字下げる。
一行目 左詰めで 題と少し空けて名前を書く。
聖書箇所の表記は簡潔に略す。
マタイ福音書→マタイ、コリントの信徒へ第1の手紙→Iコリントなど
節の表記は、マタイ5の23〜25などのように全角文字表記する。
原稿の最後に職業、郵便番号、住所、E-mailアドレスなどを書く。(これは、投稿された文をもとにした互いの交流のためです。何らかの理由で不都合がある場合は、これらの一部でも可ですし、書かないのも可です。)
〇原稿に関してはその入力ミス、不適切な表現などあるときは、編集者(吉村孝雄) の判断によって、カット、修正をすることがあります。
なお、従来と同様、提出された原稿はすべて掲載するということではなく、「野の花」文集発行の目的は福音伝道と主にある交流なのでこの目的にそぐわないと考えられるものについては掲載されないことがあります。この「野の花」文集のいずれかの文を読むことで、主の力が働くとき、いかに短い文やひと言でも、それが福音を信じたり、弱っていた心を励ますことにつながるからです。
〇送付方法
テキストファイルの添付でお願いします。
それは、ウィンドウズパソコンに必ずはいっているソフト「メモ帳」 で作成します。
(ワードで作成したときは、保存のときにテキストファイルで保存してください)
原稿を縦書きなどにする必要はありません。
〇ファイル名の付け方… 姓(カナ 全角)・名前(漢字)・題の順に書く。
例:ハヤシ 林晴美 今年を振り返って.txt
添付の方法が分からない方は、メール本文に書いて頂いても結構です。
〇送付先 (林晴美 のアドレス、住所、電話です。)
宛先:〒770-0868 徳島市福島一丁目6-42 林晴美気付 吉村孝雄様
電話:080-6282-4566
メールアドレス:
beatitude.392.eudia@gmail.com
携帯アドレスは廃止しました。右のパソコンでのアドレスへ送信お願いします。
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原稿は、まず右の林さん宛てに、原稿を提出していただき、その後、私(吉村)が読み、原稿用紙などに書かれたものは集会員分担して入力し、テキストファイルとし、さらにそれらの原稿を貝出(久)さんがパソコンで、編集用のソフトを用いてレイアウトを担当します。さらにそれを私が校正して仕上げています。
☆なお、入院とか病気などで原稿を書いて送るのも難しい状況にある方は、電話で、下記の吉村宛てに投稿内容を話してくださっても結構です。それを原稿としてパソコン入力します。
なお、個人情報について 原稿には、従来は、相互の交流のために原則として、住所、Email、電話番号なども掲載してきました。それらを掲載してもいいかどうか〇を付けて原稿とともに送信してください。 これらの個人情報がないと、原稿の文に何らかの感想をおくり、主にある交流をと思っても送れないので、なるべく掲載されることをお勧めします。
なお、「野の花」に関する問い合わせは、吉村孝雄まで。
二、第59回 召天者記念日 合同記念礼拝(眉山キリスト教霊園)開催について
60年近く前から毎年行なわれてきた、徳島県の教会合同のキリスト教霊園での毎年11月の記念礼拝は、コロナのために、中止となっていましたが、今年は開催となりました。
・日時…2024年11月3日(日)の14時〜15時。
・場所… 眉山の 徳島キリスト教霊園(納骨堂)
・供花は霊園委員会で準備するので不要です。
・当日納骨希望の方は、集会の霊園委員(月岡信裕さん)に事前に申し出てください。
・注意事項…車の駐車は、眉山の車道を通行する一般の車の妨げにならないように、 霊園の少し先まで数百メートルを進んでそこで方向転換できるところがあるので、そこから 霊園前まで戻って山側に一列に駐車するようにしてください。
金星と木星
現在の夕方、西の空の低いところに、宵の明星として古くから知られてきた金星の強い輝きが見えています。
また、夜11時ころには、東から、オリオン座の少し上にとても明るい木星が見えてきます。
星は何も言わず、ただはるかな遠い空からその光を送っているだけだと思っている人が多数を占めていると思われます。
しかし、ひとたび愛と全能の神を信じ、万物はその神によって創造された、と信じるなら、そのような星も、その光も神の愛が込められていると信じることになります。
星の光からのメッセージは、言葉にならない霊的メッセージです。
徳島聖書キリスト集会は、現在次のように、日曜日と第二金曜日の天宝堂集会は対面とオンラインの併用ですが、あとは、オンライン集会です。
オンラインでの集会は、ズームを用いることが多いですが、私たちの集会では、もう十数年前から、オンラインを併用しています。その当時はオンラインを用いるというと、ほとんどスカイプしかなかった状況でしたので、そのスカイプを現在も用いています。 インターネットをつかえる方は、スカイプをインストールしなくとも、参加する方法がありますので、希望者は左記の吉村まで連絡ください。
なお、ネットもスマホも使っていない、という方でも電話で繋ぐこともできますし、そのような方も参加されています。
〇 主日礼拝 毎週日曜日午前10時30分から。徳島市南田宮1丁目1の47の集会所とオンライン併用。
〇 夕拝…毎月第一、第三火曜日夜7時30分〜9時
〇 家庭集会
@ 天宝堂集会…毎月第二金曜日午後8時〜9時30分
A 北島集会…・第四火曜日午後7時30分〜9時、
・第二月曜日午後1時〜2時半
B 海陽集会…毎月第二火曜日 午前10時〜12時
主筆・発行人 吉村孝雄(徳島聖書キリスト集会代表)
〒七七三ー〇〇一五 小松島市中田町字西山九一の一四