いのちの水 二 〇 二 四 年 十 二 月 号 第 七 六 六 号
キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。 いつも感謝していなさい。(新約聖書 コロサイ書3の15) |
目次
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「魂の港」としての
キリスト
この世には、さまざまの嵐がふきつのり、また波が押し寄せて来る。
外の世界でも台風など、規模が大きくなり、またその関連で各地で大雨が降り、また地震も各地で生じて災害が生じる。
心の中の世界でも、さまざまの情報が悪しき力をもって迫ってくる。それはいじめや偽りの情報をもとにしたものもある。
多方面の知識をたちまち得ることができる スマホの発達は、その行き着くさきは何であるのか…だれも予測できない。
しかし、IT(information technology、コンピュータを使って情報処理を行うための技術の総称)関連の技術は、驚異的に進展しつつあるが、それは、人間の精神、心や魂といわれる部分に愛や清い心、また正義や美に関する憧憬、それらへの喜びや感謝の心は生み出すことはない。
そのようなものが全く存在しなかった昔のほうが、それらはより豊かであったと感じる。
科学技術が進展するほど、魂が静まることが減少していく。今日のスマホは、たえず人間を引きつけ、膨大な情報の中からどんな悪や汚れた情報をも簡単に取り込める。
書店にしても、近くの清潔感のある店内の配列や雰囲気もよかった書店が、最近閉店してしまった。
そのように、スマホの わずか数行のような内容を読むことが簡単にできるようになって、ますます、それより遥かに詳しく内容の豊富な書物が読まれなくなっていき、そうした上滑りの情報しか知らない人達の真偽不明な情報がネットで膨大な量が送られるようになっていった。
静けさが、ここにはない。たえず、激しい攻撃的な言葉、また人の目を引くような映像や、真実でない情報などが繰り返し回されて、さらに増幅されていく。
それは、まさしく情報の大波が人々を呑み込んでいく姿であり、嵐のような大風によって真実なもの、愛や清さなどが吹き飛ばされ、欺きや攻撃、敵意、ねたみ…等々が大風のように入り込んでくる状況となっている。
キリストが、世の終わりには、戦争の噂や偽預言書がはびこり、愛が冷える。(マタイ24)と言われたことが現在の状況の預言となって浮かび上がってくる。
そのような、状況にあっても、なお、神は全能の神、しかもどんな小さき存在の願いも聞いてくださるという完全な愛であるゆえに、希望の道は常に備えておられる。
すでにキリスト以前、はるかな昔につくられた詩の中に、次のような内容がある。
…苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと
主は彼らを苦しみから導き出された。
主は 嵐に働きかけて沈黙させたので、波はおさまった。
彼らは波がおさまったので、喜び、祝い
望みの港に導かれて行った。
主に感謝を!
主は慈しみ深く
人々になされる驚くべきわざのゆえに。(詩編107の28〜31)
(この詩をもとにして新聖歌の248「人生の海の嵐に」という讃美の歌が作られた。)
このことは、数千年を経てもなお、このことが真実であるゆえに、地中深くを流れる地下水のごとくに、現代までその真理を証ししている。
私たちに最も慰めと励ましを与えてくれるのは、だれにでも与えられ、いかなる困難なときであっても、助けや慰めが与えられるということである。
キリストは神と同じ本質をもっていて、イエスという人物として生れる以前から、神であり、万物はその永遠のキリストによって創造されたのだと記されている。(ヨハネ福音書1の1〜3他。)
そのキリストを信じることによって私たちはこの世界の謎のような闇の力、そして最終的には地球も太陽も消滅してしまうといういかなる政治や評論、哲学や思想、科学技術なども越えることのできない究極的な問題の解決の道が与えられる。
私たちの肉体も死んだら放置されると細菌などのはたらきによって腐敗していき、からだを作っていた数々の化学物質は、二酸化炭素などの気体となり、空気中に拡散し、あるいは地中に溶け込んでいく。
それが私たちの本当の未来ならば、すべてはー愛や真実、清いもの、美しいもの…等々のよきものもみな消滅していくということである。
私自身も、自分の将来、この世界、地球の将来…等々、それと科学技術は最終的に人類を滅ぼしてしまうのではないのか、さらに、地球も太陽も永遠でなく、最終的には滅びてしまう、ということが頭から離れなくなった。
そのような疑問は、自然科学の研究ということで入学したはずの理学部の学生たちもほとんど全く議論することもなかった。
こうした人間や地球、そして太陽などのはるかな将来を考えるとき、人間の力しかないのなら、到底この宇宙に存在する法則にさからって地球や太陽を永遠に存続させるなど、まったくの不可能であることはだれもがわかっていることであり、議論にもならない。
生成AIなどいまもてはやされているものもみな最終的には滅びるのである。
そのようなあらゆるものが消滅していくという空しさと未来の闇はかつてどうしょうもない、難問として私の前にたちはだかっていた。
そのような深い精神の闇に翻弄されつつ、神は私が苦しみ悩んだ数年の後に、まったく予想もしないかたちで真の解決の道を知らせてくださったのだった。
そのあまりの苦しさゆえに下宿でじっとしていることができず、あてどなく、自転車で北へ、北へと向っていたが、夕方近くにとある山の登山道の入口があり、途中まででも、登っていこうという気持ちになり、誰一人人もいない山を登って行った。
そのとき、魂に初めて まったくそれまで知らなかった光のようなものを感じた。山の渓流の清さ、その雄大な世界、どこを見ても見えるものはみな、なんの不純なものなく、沈黙のなかに、深い何かがたたえられていると感じた。
その深い真実さ、人間世界の偽りに満ちた状況とはまったく異なる世界を感じて、それは私の魂の最初に目が開けたという実感だった。
そして、その山の世界の清さ、雄大さ、繊細な美…はそれから60年:を経た今日もかわりなく、私の魂に天来の響きを送ってくる。
けれども、山のそうした世界に触れるには、時間、体力が必要であり、さらにより遠くの山々へとなると、費用も必要となる。
病気の人、身心の弱ってしまった人など、またそのような時間がない人は、その世界にはまったく近づけない。私もいずれそのような山に登るなど無縁の状態になる。
そうしたことを思っているとき、この世のさまざまの問題は波のようにまた襲いかかってきた。
そこから、後にプラトン哲学の深淵な世界に触れて、戦前に発行されていたプラトン全集を古書店で購入し、さらに深く学ぶことができた。そうしたなかに、当時学生運動の激しいときであったので、マルクス主義的思想に引き込まれている学生たちとの対話などもしばしば長時間をとおして繰り返ししたが、キリスト教などまったく話題には乗らなかった。
しかし、そこからマルクス、レーニン主義関係のことも知っておかねばならないために、あるとき、古書店で、「マルクス主義とキリスト教」(矢内原忠雄著)と題する新書本が見つかった。それを少し立ち読みしてみたが、心に残らずそのまま忘れていた。
しかし、それからほどなく、別の古書店で同じ著者の「キリスト教入門」があって、この半分のページに目をとおしただけで、私はキリスト者とされた。
このようにして、私は思いがけず、古書店の立ち読みということから、キリスト教信仰へと導かれたのだった。
そして、冒頭にあげた詩のように、魂は初めて静かなる港に着いたという実感があった。
新聞やテレビニュースなどで知らされる目に見える社会的状況の中での荒海だけでなく、目には見えない世界の荒海においても、つねに暴風や荒波がある。
どのような荒波、暴風が吹き荒れてもなお、それらを防ぎ、そこにあるものを守ってくださる港がある。
それはまた、旧約聖書の詩集である詩編23によって広く知られている。
…主はわが牧者。
主は私を緑の野に伏させ
憩いのみぎわに伴いたもう。
たとい死の影の谷を歩むとも
災いを恐れず…
現代人は、仕事に追われ、スマホの影響もあり、魂が落ちつく港がない。
いよいよ老齢化、さらに病気となって本当に必要な魂の安息の港といえるものは、ほとんどのテレビや新聞、雑誌、スマホなどの画面には見られない。探せば見つかるが、それはおびただしい情報のなかで埋もれてしまっているといえる状況である。
詩編においては、その港は、緑の牧場であり、憩いのみぎわ とも表現されている。
これからの世に生きていくためには、このような魂の拠り所、静かなイエスという港は不可欠になっていく。
大風のときにその港に入って、苦しみから逃れ、休らうために この港が必要となる。
そしてイエスは、求めよ、そうすれば与えられる、と約束された。
クリスマスのシーズンは、イエスが何のために地上に来られたのかをあらためて思い起こすときとなっている。
イエスが地上に来られた目的は、罪の力、闇の力に翻弄され、苦しみや悲しみの打ち寄せる大波から人間を守る、魂の港となるためだった。
そのために、みずから十字架にかかられて万人の罪を担い、途方もない苦しみを経験され、そこから復活され、すべてのものー地球や太陽さえもが死の力ー滅びの力にに呑み込まれていくなかで、死の力に打ち勝つ道を永遠に示されたのだった。
現在、夕方の西空には、よいの明星と言われる金星、そして暗くなってから東のそらに、いずれもとくに強い光で輝いて、私たちにその光に託して天の国からのメッセージをつたえています。
金星も木星も反射率の高い厚い雲の層があるため、そして金星は地球に近く、また木星はその巨大な星であることなどの理由でに強く輝いています。
ふつうはそうした科学的な理由だけで、強い光で輝いているのだと思ってしまいます。
しかし、神が愛や真実、そして完全な清い霊的存在であって、いまも万物を支えていることを信じるときには、そうした科学的理由とは全く別の理由があるのを示されます。
それは、科学とは関係のないことであるゆえに、はるか古代から星に関してさまざまのメッセージを受けてきた人達がいるのです。
イエスが誕生したとき、はるか遠くの東方から来た博士たちがイエスに大切なものを捧げたとあります。その東方から彼らをイエスの誕生のところに導いたのが
星だったと記されています。 ここにも、古代から星は人間に導くということが示されていたのがうかがえます。
このことは、イエスの誕生という歴史のなかでも唯一のことだからだと思われています。
しかし、現在でも金星、木星に限らず、星の輝きは、私たちをいっさいのこの世の混乱や汚れから離れた天の世界へと導くものとなっています。
そのような星々の力を深く感じたからこそ、哲学者のカントも、我々の内にある正しいこと、真実なことの永遠性を直感する能力、そして無数の星々をちりばめた天空こそは、長く熟考すればするほどますます新たな賛美の心と畏敬の思いが心を満たすと言っています。(「実践理性批判」 の方法論の結論の部分)
また歴史上、屈指のキリスト教詩人、ダンテも、その内容に永遠性をたたえた詩作、神曲の地獄篇、煉獄篇、天国篇の最後に、 stelle (「星」の複数形)
ということばを置いているということも、星の光が、人間の本質的な部分に響き合うものだということを示しています。
心に残っている御言葉
M.O(北海道)
私の心に残る御言葉は、ヨハネ1の5と、マタイ6の25と34を、私は今日お話ししたいと思いました。
私はこの6月末から体調に異変があり、そして今ようやく日常に戻りつつあります。21年途中失明だった夫、そして透析通院の夫を支えながら、夫を天に送りました。そして再出発する矢先のことでした。突然に右首筋から右足先まで激痛が走って身動きがしばらくできなくなりました。今まで自信を持っていた身体だったのです。夫の突然の発病以来、御言葉を身に着けていようと思っていたけれども、いざそうなるとなかなか苦しい中で思い出すことができない時がありました。
しかし、
「光は暗闇の中で輝いている。」(ヨハネ1の5)
に心が支えられ、そして「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」(マタイ6の25)「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6の34)
これらの御言葉が心によみがえって、そしてそれを通過することができました。
そしてまた夫の透析を持ちながら、二人でイスラエル旅行に。
本当に恵みをいただいたとき、そして山上の垂訓に立ったのを思い出して、「心の貧しい者は幸いである」(マタイ5の5)という御言葉は私にとって未消化だったということを心に突き刺さりました。
そして主人の遺構の中から、「心の貧しい者。心は心砕けた者。また赦されるために罪の自覚を持った者というのが心の貧しい者である。」と書かれていました。
そして、
「これは原文に忠実に訳すと霊に貧しい者という意味だ」ということが、遺構の中から見つかりました。
私はこの苦難を体験して、私の乏しい御言葉に気づきました。これから御言葉を大切に、そして旧約の天地創造から読んでいこうかという思いが起こされました。 旧約から新約につながるということ、そして私はその聖霊の導きによって、今この恵みをいただいていることに感謝して、これから歩みたいと思っています。
そして今、
「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」(ローマ12の12)という御言葉をいただいて、これから歩んでいきたいと思っています。以上です。
徳島聖書キリスト集会の初期からの会員であった森さんが召されました。
以前に書かれた文を次に引用します。
ここには、さまざまの困難をとおして活きてはたらいておられる主が導かれたのがうかがえるとともに、いまも主は同様に、求めるものに、罪の赦しと復活の力を与えてくださっていることを思います。
私たちも地上にあるかぎり、主を仰ぎ求めて歩み続けたいと願っています。
森 久恵 (徳島県)
「いのちの水」誌2004年8月号の「出会いの不思議」という文を読んで、私も同じ思いを持ちました。
貧しい両親のもとに8人もの子供の中の一人に生まれました。ミルクもなく、乳も出ないため、米のとぎ汁を飲んでいたとのこと。
私はいろんな苦しみ悲しみ、憎しみあり、神様なんかいるものか、何が神様に感謝だ…などと思っていました。
けれど、自分がそんな境遇だったため、小さいひと、弱いひとを見ると助けたくなる、でも私の力などまったく取るに足らないもの。
でも、これでもかこれでもか、という苦しみ、悲しみの中を通っていまの私がある。
この中の一つでも欠けていたらまたちがった自分、ちがった人生だっただろう。
高校時代に、吉村孝雄先生に出会い、キリストに出会い、信仰によって新たに兄弟姉妹といえる人たちに出会い、絶望せずに生かされてきたと思う。
小さいとき、どうして、なぜ、誰に教えてもらったのか、一人テントの中で聖書に関する話を聞いて、人さまの家に上がり、話しを聞いていたことを覚えています。
でもそんなことずっと気にも留めなかったけれど、 吉村先生に出会って聖書を学んでいる間に思い出した。不思議にはっきりと覚えている。
ずっと後になってそのときの話が、キリスト教に関する話しで、旧約聖書のヨブのことについての話だったのだとわかった。
その後 長い時間かけていろんな道を歩いて、 吉村先生に、そしてキリストに、さらに信仰の兄弟姉妹に結びつきました。
8人兄弟姉妹のなかで、私一人救われました。 まだまだいろんな中でさまよっているような私ですが、たくさんのひとに、それも本当にいい人ばかりに守られ、励まされて支えられて自分が少しでもまわりの人のわずかでも役に立つことができています。
本当に不思議です。
人生で一番大切なものが与えられました。
(2024・7・26 電話で話されていたこと)
ちょっとのことでもできることして、みんなの役にたっていたい。
神なり、聖霊でみたされたと感じた。
大きな大きなふろしきで包まれているように…
うれしいな、何でやろう、こんなに…
遠い青森の対馬さんも 私のことを心にかけてくださって はげましのお便りなどくださった。
M.K
母、久恵が胃癌と診断されてから1年10カ月。長く苦しい闘病生活を母らしく最後まで気丈に闘い生きぬいた。いつも自分より人のこと、贅沢はせず、働き者。とにかくパワフルで母がいるだけで安心感を得、周りを明るく照らしてくれた。まるで太陽のように。
母と似て頑固な私は素直になれずよく母と喧嘩した。
母がいて当たり前の日々を失った今母がどれだけ深い愛で私たちを包んでくれていたのかをひしひしと感じる。
余命宣告をうけた日、日頃贅沢をしない母をレストランに誘い、二人で泣きながら一つの鰻重をわけあい食べた。
この闘病中私は、一番母と長く過ごしたように思う。母との最後の時間を惜しむように。
孫のいる私の家で最期をむかえたいという母の望み通り、11月25日午後1時38分頃 父と、孫と、私の見守るなか静かに息を引き取った。72才の生涯。
鳥がさえずり、天気のいい昼下がりだった。次の日は雨。まるで悲しみを流してくれるように。
葬儀の朝は青い空。笑っていなさいと聞こえてくるよう。つらいとき苦しいとき共に泣き、嬉しいときは共に喜んでくれる母。
本当に大きな大きな存在だった。もう少しもう少しだけでいいから、一緒にいたかった。けれど、息を引き取ったあとの母の顔があまりに安らかで、あの苦しんでいた面もちがきえさり、ああ、母は、主のみもとに召され心の平安を得たのだなと感じた。そして、母の姿はきえたけれど、私たちの記憶の中に生き続けるんだと。
母は、自分の死と向き合い、そしてその病の中にあっても、病気になったからこそわかる、人の優しさにふれ感謝や幸せを感じることができると話していた。
自身の死をもってキリスト教葬儀がどれほど素晴らしいかを私や孫に見せたいと話していた。
私は、母の葬儀に感動した。初めてのキリスト教葬儀で戸惑いもあったが、母の好きだった讃美歌を皆で歌っていただき、母への思い出を語って下さった。
なんて心のあったまる、なんて優しい、母を本当にしのぶという意味、皆で分かち合うということ、形式ではなく、大切なのは心ということ。そして、たくさんのかたが、遠くから闘病中から始まり、葬儀にいたるまで出向いてくださり、ハガキや手紙をずっと送り続けて下さり励まし続けてくださった。母は愛に包まれていると感じた。
母が、なぜずっとキリスト教を信仰してきたのかが、私にもわかった気がする。
母さん、おつかれさま。ゆっくり休んでね。今日も空に向かい話しかける。
風に吹かれても、星を見ても、月を見ても、いつも母は私たちの心の中によみがえってくるのだから。
皆様、ずっと母と共にいてくださったこと全てのことに感謝いたします。
ありがとうございました。
母は私の宝。ずっとずっと愛しています。
(2024年11月29日)
祖母からもらったもの Y.K.(大学一年)
僕は未だに祖母が亡くなってしまったことを実感できずにいる。今日も、家に祖母の車が止まっているのを見ると、「ああ、ばあちゃん来とるやん」と錯覚を起こした。
それほどまでに祖母の存在は僕にとって大きかった。祖母とは数えきれないほどの思い出がある。春は山に登ったり、桜の花を見に行ったり、夏にはカブトムシを取りに行ったり、梅ジュースを飲んだりした。
秋には紅葉を見て、月を一緒によく見たものだ。冬は雪だるまを作ったり、バンブーパークで凧を上げたりした。大みそかには、祖母の家に皆で集まって年越しうどんを食べた。
それだけではない。日常の些細なことから人生の選択の場面までありとあらゆる場所、時間で祖母と一緒だった。
祖母は痛いなど一言も言わない丈夫な人だった。自分よりもまず周りの人のことを優先するような人だった。祖母は何に対しても全力だった。家族の太陽だった。
祖母は花や自然が好きだった。鳥のさえずる声が好きだった。祖母は明るい一方で、感傷的でもあった。
きっと本当にこの2年間、辛く、苦しく、不安でいっぱいだったと思う。そんな中でも祖母は最後まで明るくあろうとしていた。本当に強い人だなと心から思った。
祖母は言った。自分を愛し、人を愛しなさいと。困っている人がいたら助けてあげられる心の優しい人になりなさいと。
自分に自信を持って、胸を張って生きなさいと。今、僕は自分のことで精一杯で、とても祖母のようにはなれないけれど、祖母がくれたものを胸に抱いて正々堂々生きていこうと思う。
祖母の思いを継いでいこうと思う。
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K.N.
森さんとの出会いは高校2年の時、吉村先生の聖書とヒルティの読書会でした。
そこで、キリスト教信仰が与えられたと共に、山のよさも語られて、 読書会に参加していた人達と、中津峰(標高 773メートル、剣山山系の東端の山)に登ったとき、その登山道にある、ばらお峠でのすすきの穂が、広い峠一面にひろがりその景色に釘ずけになりました。
(山村で育ったのですすきは見馴れていたのですが)それから森さんが友人と山登りするようになっていたので度々同伴させてもらいました。
卒業後いつの間にか連絡し合うようになりいつも親身に話を聞いてくれる人でした。
また周りの人にも気配りのできる人でした。神様がいるなら何でこんな不公平なことするんだろう。とつぶやきながらも周りの人のことを気にかけて自分のことは二の次。
今回の死に至る病にかかったとき、自覚症状がありながらもぎりぎり迄我慢してもっと早く受診していたらこんなにくるしまなくてすんだろうし、希望どうり延命できたのでは?と思ったことも…。
でも全て神様のご計画と信じます。
電話で話ししていたとき、歩けなくなるから今日は歩いてきた。あなたも歩きなさいよと心配してくれたこともありました。
次第に体調が悪化し、氷水か極少量の栄養食しか摂取できなくても常に前向きに頑張ってました。
最後にあった時も 遅くなるから帰り と手振りで心配してくれました。自力で痰もだすのが困難な状態でもまず周りの人のことを(どんな小さなことでも良いと思うことはしてあげなさいよ)と諭してくれたこと心に刻みます。
あたたかい笑顔
Y.S.
森さんとは高校の同級生ですが、卒業してから私が勤めていた会社の前を、森さんが看護学校に通っていて、色々お話して親しくなりました。
情が厚く、何事にも一生懸命で、いつも周りのことを考えていました。あれから
50年以上信仰のお交わりが続けて来られて感謝です。
最後にお会いしたのは11月4日です。昔のこととかなつかしくお話する事が出来てよかったです。
食事もできず痩せていましたが、なぜかあたたかい笑顔でこちらが励まされました。神様が共にいて守ってくださっていることを感じました。
残されたご家族に神様からの平安が与えられますように祈っていきたいと思います。
森さんの思い出
H.K.(鳴門市)
森さんとはもう話をすることもできなくなり とても寂しいです。
病との苦しい戦いが終わり、 神様のもとに旅立たれ 平安を得ていると思います。
森さんはいつも自分のことより人のことや家族のことを思い、いつもよく働いていました。
そして私たち 集会の一人一人や近所の知っている人など、思いだして祈っていると言っていました。
困っている人がいれば助けてあげて荷物を持ってあげたりとか色々と思い出します。
森さんに出会ったのは17歳の高校2年の時、放課後のヒルティと聖書の読書会に共に参加するようになりました。
それから、はや 50年以上も経ちました。森さんに出会えたことを神様に感謝です。
森さんの信仰が ご遺族の方々に伝わりますよう、 また主が、 ご遺族の一人一人を守り、 導いてくださいますように、久恵さんも天から見守ってくださっていると信じます。
「神は愛」
森久恵さんとの関りを与えられて K.K.
きょうは、11月25日に召された、信仰の友、森久恵さんのことを話します。
わたしの心に森さんの最後の姿、生き方は鮮明に焼き付いて、そしてまた、心に住んでくれている、そんな思いがしています。
森さんは、遠くてなかなか集会には参加できませんでしたが、それでも、病気になってからも、集会につながっていることをとても、喜んでおられました。そして、みんなが祈ってくれて、神様がほんとうに良くしてくださっていると言われていました。
森さんは3人のお孫さんを愛し娘さんを助け、自分の体調が悪くなってきても、朝、5時に起きて、お孫さんのお弁当や朝ごはんを作り、食事ができないので、点滴に行ったその帰りに、家族のための買い物をして、自分は食べられないのに食事を作っていました。
最後、もう氷水しかのどを通らない、あとは全部吐いてしまう。それでも、動けるうちは、食事を作られているときいて驚きました。
そして、そんなに自分が苦しいのに、集会のひとのこと、祈っていると。 また、そとで出会う近所の人のことも祈っていると言われていました。
大学病院に入院していた時は、神様のおおきなふろしきに包まれている、うれしい、と言われていました。でも、帰ってきて、苦しくなってからは、そのふろしきがなくなってきたから、祈って、と言われました。
おなかがはって、苦しくて、夜も眠れなくなって。夜中に急に嘔吐する。でも、自分が苦しいと言えば、家の中が暗くなる。だから、言わないのだ、と言われました。
森さんに、自分のお葬式には、集会の人がいっぱいきてくれたらと思う。そして、自分は、なかなか集会にもいけなかったけど、でも、神様を信じてつながっていたら、こんなに、優しそうな人がいっぱいきてくれてつながってくれている、ということを孫たちに見てほしい。それをみて、神様はおる、ということを知ってほしい。わらって写真とかとれたらいいなあ。と言われました。
最後はほんとうに苦しそうでしたが、話すのもやっとなのに、
「全部のことを神さまが、いいようにしてくれた。神様は愛だった」と言われました。
聞いてもらうだけでいいとおもってお祈りをしたら、力強くしっかりとお祈りをされ、それは、助けてくださいでも苦しみを取ってくださいでもなく、わたしたちのために祈ってくれました。
召される数日前、起き上がれない森さんが、急にすわってご主人やお孫さんと話したそうで、持ち直したのかと思ったそうです。
最期は、ご家族に囲まれ、呼吸がとまってから娘さんがお母さん、というと、ひとつ呼吸をして、またとまり、お孫さんが、ばあちゃん、というと、またひとつ呼吸をして、それから召されたと娘さんから聞きました。
命を力を使いつくして働いた森さんと最後のとき、関わらせてくださった神様に感謝します。
…私たちは、神の愛を知り、また信じています。
神は愛です。
愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。(Tヨハネ4の16)
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西川 求さんの若い頃のお話(求さんを偲ぶ会にて)
M.N(北海道)
(編者注 西川 求さんは、生出正実さんの勧めを受けて開拓に入った方です。生出さんは1964年頃に、北海道の南西部の日本海岸沿いにある瀬棚地域に初めて開拓に入られた方です。)
西川求さんとたづ子さんは、その時2歳の譲さんと、瀬棚町で農業を始めました。それはそれは、希望に燃えていました。それから、私は農場のお手伝いを、ほんの少しさせていただきました。そこは希望いっぱいの農場です。また、求さんは農業を始める前に江別の「とわの森三愛高校」で、学校の先生をしていました。私は酪農大の学生で、西川家をよくお訪ねしました。たづ子さんが、いつもたくさんご馳走を作ってくれました。その料理を食べたくて、しょっ中訪ねていました。
私が二年生の時、瀬棚で酪農を始めた西川農場を訪ねると、やはりたづ子さんは、前と同じようにご馳走をしてくれました。当時の私にとっては、大きな魅力でした。そして、しばらくして訪ねました。けれども、だんだんおかずの数が少なくなるのです。たづ子さんは、前のようにおかずをたくさん作りたくても、経済的事情から作れなくなりました。
(生出牧場を訪ねた西川求さんの家族と共に、 左から今野コウ、生出真知子、直子、正実、西川譲、求、 真、今野健彦 1968.5 ) (右から三人目が西川 求さん、抱かれている子供が、現在、求さんが始めた牧場を継いでおられる西川 譲さん) |
そんな時、求さんとたづ子さんは暗く、沈んでいたでしょうか。そうではありませんでしたよ。希望に燃えて生き生きして、一生懸命前を見ていました。見ている私にも希望を与えてくれるものでした。学生であった私の方がよほど裕福でした。
でも求さんとたづ子さんの方がずっと生き生きとしていました。本当に大切なものを知っていたのです。そして2人は、その大切なものをこの瀬棚の地で育んで、私たち若者に伝えてくれました。
孫の皆さんも、本当に大切なものは何かを考えてみてください。あなたたちばかりでなく歳を取った私も、考えなくてはいけません。求さんは、求さんしかできない人生を歩まれました。それは天下に1つだけの人生、天下一品の人生です。そして、皆さんにもそれはできますよ。
求さんが、入植した夜、1番最初にした事はベートーベンの交響曲第6番「田園」を大きな音量で聴くことでした。そして亡くなられて納棺され、皆に送られて火葬へと向かいました。
自宅を後にする時、ご長男の譲さんが「田園」を小さな音量で流してくれました。その微かな音を聞きながら『求さんは、最後までしっかりと希望にも向かって歩み続け、歩むべき生涯を完走して閉じた。』と納得しました。そして未来を孫たち子供たちに託して、神様に招かれて天国に行かれたことを確信しました。
先に天国に行った、私達の信仰の仲間がいます。竹内羊さん、生出正実さん、木俣忠さん、生出正直さん達です。私には、忘れられない光景があります。羊さんが亡くなられ火葬される時、奥様の礼子さんが、羊さんに語りかけました。「お父さん、楽しかったね!」貧しかった時、仕事が大変で失敗が続いた時、家庭のこと等々、楽しかった事はもちろん、うまくいかず大変な苦労をした事を、一緒に乗り越えた。その全ての歩みが楽しかったのです!
ご主人に先立たれた奥様達(生出真知子さん、木俣三枝子さん)は、同じ想いだと、私は知っています。そして、たづ子さんも同じ想いで過ごしていると思います。
司式してくださった渡辺兵衛先生は、永遠の命をいただく生き方があると、おっしゃられています。私も、死に向かって生きているのではなく、生きる(永遠の命)為に死にたいと思います。求さんは生涯を通して、みんなにそれを伝えたいと願っていたと思います。どうぞ、求さんの生涯を、時々思い出してください。求さんは、どんなに喜ばれることでしょう。
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〇文中に出てくる人達
・西川求(独立学園8期生、1968年瀬棚町入植、2024月11月11日召される。奥様は、たづ子さん、独立学園10期生。)
・竹内羊(独立学園18期生、障がい者支援施設ひかりの里勤務、2017年11月11日召される。奥様の礼子さんは生出正実さんの妹)
・生出正実(徳島聖書キリスト集会で再販発行された「沙漠にサフランの花咲く」の著者。1964年現在地に入植 2021年6月17日に召される。奥様は、真知子さん。求さんと同じ酪農大1期生)
・木俣忠(1970年隣町今金町の山奥に入植、2023年11月21日召される。奥様は、三枝子さん)
・渡辺兵衛(酪農大卒 元八雲教会牧師)
・野中正孝(独立学園16期生 1971年入植)
〇クリスマス礼拝
12月22日(日)午前10時〜午後2時ころまで
徳島聖書キリスト集会所とオンラインでの併用でなされます。
クリスマスメッセージ、参加者による一年間の感話、心に残っているみ言葉、また出来事、読んだ本の内容の紹介、そして賛美などです。
いつもの礼拝は10時半からですが、クリスマス集会は10時開会ですので、スカイプ接続は、9時半ころから開始となりますので参加希望者は準備をしていてください。
〇 冬期聖書集会 2025年1月4日〜5日(キリスト教独立伝道会主催)
この冬期の集会、以前は伊豆半島で開催されていましたが、冬季で積雪などのため交通の便が悪くなることがあること、距離的に遠く交通もやや不便なので、もっと都市部に近い場所をーということから横浜市の郊外の山間部にある「上郷 森の家」に変更されて数年間開催、その後コロナの蔓延のため、また森の家の改築のためそこでの開催はできなくなり、コロナ後の去年から徳島聖書キリスト集会の集会所での開催となっています。
主題…「小さき者へのまなざし」
期日…1月4日 土曜日 14時〜21時
13時30分 会場受付開始
13時40分 スカイプ参加者全員の確認
14時〜 開会式
司会:赤塚牧
賛美
聖書 ミカ書7章18節
お祈り
会長挨拶 赤塚牧
14時15分〜17時 聖書を読む ミカ書読書会
司会:小舘知子
担当者(一部未定)
@対馬、A島崎、B赤塚、 C香西、D那須 他
16時20分〜16時50分 まとめ(30分)吉村孝雄
17時〜18時 自己紹介
司会:島崎英一郎
お名前とミカ書の感想(一人2分)
17時30分 お弁当配達
18時〜19時 夕食と交流
19時〜21時 祈りの会
司会:土屋聡
1月5日 日曜日 10時〜15時
9時30分 会場受付開始
9時40分 スカイプ参加者全員の確認
10時 主日礼拝
司会:小舘美彦
讃美
聖書
お祈り
10時10分〜55分 聖書講話@(45分) 講師:吉村孝雄
10時55分〜 祈り 吉村孝雄 ・讃美
11時〜12時 感話会 (60分) 一人1分(スカイプ参加者から)
11時30分 お弁当配達
12時〜13時 昼食と交流
13時 聖書講話
司会:土屋めぐみ
讃美
お祈り
13時05分〜13時50分 講話A (45分)講師:吉村孝雄
13時50分〜 祈り
13時55分〜14時45分 感話
(50分)一人ひとこと(スカイプ参加者から)
14時45分 閉会式
司会:小舘知子
副会長挨拶 (5分)多田義国
祈り
讃美 讃美歌405 神共にいまして
15時 閉会
〇元旦礼拝
2025年1月1日
午前6時30分から、徳島市の徳島聖書キリスト集会の集会所と、オンラインの併用でなされます。
新しい年のはじめを、早朝の礼拝で迎え、聖なる霊とみ言葉をともに受けるときでありたいと願っています。
〇11月に行なわれた、第51回の瀬棚聖書集会の録音CDがありますので、希望者は左記の吉村まで連絡ください。
〇 主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分から。徳島市南田宮1丁目の集会所とオンライン併用。
以下は、天宝堂集会だけが対面とオンライン併用で、あとは、オンライン(スカイプ)参加希望の方は、吉村まで連絡ください。
〇 夕拝…毎月第一、第三火曜日夜7時30分〜9時
〇 家庭集会
@ 天宝堂集会…毎月第二金曜日 午後8時〜9時30分
A 北島集会…・第四火曜日午後7時30分〜9時、
・第二月曜日 午後1時〜
B 海陽集会…毎月第二火曜日 午前10時〜12時
(生出牧場を訪ねた西川求さんの家族と共に、 左から今野コウ、生出真知子、直子、正実、西川譲、求、 真、今野健彦 1968.5 )
(右から三人目が西川 求さん、抱かれている子供が、現在、求さんが始めた牧場を継いでおられる西川 譲さん)
〇http://pistis.jp (「徳島聖書キリスト集会」で検索)