いのちの水2024年2月号   第756号

イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。

「幼な子を私のもとに来させよ。

神の国はこのような者たちのものである。    (ルカ1818

目次

・すべてのことの背後に主の働きを見る

・イスラム教とコーランについて

・世界の平和とキリスト教

・第50回 瀬棚聖書集会の感話から   西川 求

・報告とお知らせ  瀬棚聖書集会録音 CD

 

リストボタンすべてのことの背後に主の働きを見る

 

「弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き…」とある。(マルコ福音書1619節以降の部分)

 

 イエスが復活する前の弟子たちは、イエスを知らないといって、逃げたほどであった。

 弟子たちが信じて、他の弟子やイエスを信じる女性たちとともに真剣な祈りを続け、約束されていた聖霊を受けて、力を与えられたのである。

主が彼らと共に働いた。弟子たちが宣教したが、本当に働いたのは主であった。

 この世では、ごく一部の目立つ働きのある人がほめたたえられる。スポーツ、音楽、俳優、政治、娯楽、テレビ…等々によく出てくる人は、その人間は何らかの才能が与えられているからであるが、その才能を与えたのも、神であり、努力できるような意志や力も、それを与えたのはやはり神なのである。

 それゆえに、そうした有名人や、目立つ大きな働きをした人が偉大なのでなく、そのようにはたらく健康や能力、家族環境、また事故や災害に遭って大怪我したり長い病気になることなく、無事に過ごせたというのも、そうした苦難から逃れ得たのも、神の恵みの故であり、そのような万事について与えたのは神であり、神こそがほめたたえられるべきなのである。

 その視点こそ、日本にはとりわけ欠けているものである。

 自然を見ても単にそれがたまたま美しいのだ、偶然的にそうしたよきものが生じたと受けとるだけであり、また、動植物の多様な姿も、それは、生存競争に勝ったとか、適者生存と言われることが大方である。偶然に特別な能力を持ったものが生じたら、それが環境に最も適しているとき、生き残っていくと説明する。

 しかし、それはみな、根本原因は何かを見つめないで、偶然的な発生をもとにおいている。偶然とはすなわち理由がわからないとすることである。

 こうした考え方は、天地万物を創造された神を信じないなら、必然的に生まれる。

 私たちが生まれたのも偶然、地球や太陽も偶然の産物であり、それが消滅していくのも単なる科学法則に従っていくが、その科学法則もまた偶然的に存在するようになったのだと説明するのである。

 また、人間の生まれつきの才能も偶然、環境も偶然、家庭の状況もまた偶然、成長するときに、病気にならない、事故に遭う等々もすべて偶然がもとにあるとする。

 言い換えると、偶然 ということを神のように絶対的なもののように思っているということである。

 しかし、ひとたび、万物を愛をもって創造し、いまも支えている神、キリストを信じるときには、人間世界や自然世界双方にわたって、見る目が新しくされていく。

 

「婦人たちは、命じられたことをすべてペトロとその仲間たちに手短に伝えた。」 この婦人たちは最後までイエスから離れずに、イエスが葬られてからも、墓にまで行った婦人たちである。  その中の一人、マグダラのマリアは、どうしようもない悪の霊を追い出してもらった。そして、復活のイエスは一番最初にこのマリアに現れた。

 

 「イエス御自身も、東から西まで、彼らを通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。」とある。

 

 イエスご自身が、福音を広められたとある。主が、彼らとともに、また彼らの内に生きて働かれたのである。

すべて人間は、真実さとか無差別的な愛、敵対するものにも最善のことが生じるようにと祈る心、通りすがりの人々にも御国が来ますようにと祈ることのできないものであり、言い換えると神の完全な真実や愛に比べたとき、死んだようなものである。

 それゆえに

次のように言われている。

… あなたがたは、以前は自分の罪のために死んでいたのだ。(エペソ書2の1)

…罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし…(同5節)

 

  このように見てくると、偉人と言われる人も、みな罪の中にある。

 偉大なのは神、そしてキリストのみである。

 小さな働きで、イエスが伝わったら、それはイエスが働かれたのである。

聖書も神が働いて書かれた。神が働かれるとき、どんな人にも信仰が与えられる。

「天才」と言われ賞賛される人も、神がその能力を与えられたのである。

人間が素晴らしいのではない。

 美しい花も、その美しさを与えたのは神である。すべてのことについて、神を讃える。何が起こっても、背後に神様が働かれると信じるとき、そこに神の力が働き御業をなされるのである。

(2024年29日 天宝堂集会での聖書講話)

 


 

リストボタンイスラム教とコーランについて

 

 今日、イスラエルとハマスとの戦争は世界の平和に大きな影を落としています。

 私たち日本人はイスラム教とかその経典であるコーランについてほとんど知らないのが実状です。

 イスラエル民族のユダヤ教が精神的支柱としている旧約聖書は、イスラムもまた、コーランに次ぐ経典に準じるものとみなしているため、双方の宗教にとって極めて重要な位置づけとなっています。

 ここに記すのは、とくに旧約聖書とコーランの関係、またそのキリスト教との違いなどについての記述です。

  (なお、イスラムとは唯一の神、アラー(アッラー)に絶対に服従することを意味し、信者のことをムスリムという。)

 そして、次号には、ユダヤ人の経典である旧約聖書と平和について、旧約聖書そのものに立ち帰ってどう記されているかを記す予定です。

 その目的は、今日の戦争、また各地の紛争、内乱、戦争といった武力による戦い、大量殺傷は、剣を取る者は剣によって滅びるというキリストの言葉を思いださせるものがあり、そこから武力によるのでなく、真理そのもの、愛そのものである存在に立ち帰る必要を痛切に感じるからなのです。

 

 イスラム教の創始者であるマホメット(ムハンマド)は紀元五七〇年頃に現在のサウジアラビアのメッカで生まれ、六三二年に死去しています。コーランはマホメットが神から受けたと信じたことを語ったものが集められたものです。彼が最初にメッカで神の啓示を受けたと称するのは、四〇歳頃のことで、紀元六一〇年のことです。

 マホメットが理想とするのは、旧約聖書の中心人物の一人、アブラハムの信仰です。日本人にとってイスラム教というのは、キリスト教、仏教、イスラム教と並べていうことが多いために、聖書の宗教、つまりユダヤ教やキリスト教とはまるで別のように思う人が多いのですが、この二つの宗教と深い関係があります。

 アブラハムの信仰は、キリスト教においても、信仰の模範の一つとなっていますが、完全な模範はいうまでもなく、キリストです。

 しかし、イスラム教はアブラハムの信仰を最終的な模範とし、アブラハムの宗教を復活させることが目標だとしています。

「アブラハムは、ユダヤ教徒でもなく、キリスト教徒でもなく、純正な人、帰依者であった。彼は多神教徒ではなかった。人々のなかで、アブラハムに最も近い者は、彼のあとに従った者、この預言者(マホメット)、信仰ある人々である。」(コーラン第三章6768

 コーランの中には、アブラハムやモーセ、ヨセフといった旧約聖書の有名な人物の名前がしばしば現れます。その中には例えば「ヨセフの章」と題された章があり、それは旧約聖書のヨセフ物語の記事をもとにした内容だと直ちにわかるものです。ヨセフが兄弟たちのねたみを受けて野の井戸に投げ込まれ、兄弟たちが、父ヤコブに嘘を言うこと、エジプトに売られていったヨセフが、心のよこしまな女性によって、誘惑を受け、それを拒絶した結果、ヨセフは無実の罪を着せられたこと、投獄されたヨセフが夢を説いたことなどほとんど筋書きは同じです。その章は物語で終始している章となっています。これがコーランかと思うような旧約聖書のヨセフの物語の簡略版のような内容なのです。

 

 マホメットが住んでいた地方にはすでにユダヤ人やキリスト者たちがいたし、彼の最初の妻の従兄弟であった人は、キリスト者であったと伝えられ、キリスト者たちが付近に隊商としてやってきたこともあると推測されています。

 そうした人たちから聖書の話を聞いて知識としたようで、その知識はかなり不正確です。

 例えば、コーランの第十九章は、「マリヤの章」と題されて、新約聖書のルカ福音書の一章をもとにして書かれているのがすぐにわかります。そこでは、ザカリヤやヨハネのこと、天使がマリヤにイエスの誕生を告げたこと、マリヤがそれに答えて「だれも私にふれたこともなく、不貞な女でもないのに、どうして私に子供ができるでしょうか。」と答えたと記されています。これは新約聖書の「どうしてそんなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(ルカ福音書一・34)という、福音書の記述を借りてきて、それを少し変えたのだというのがはっきりわかります。

 しかし、マホメットは聖書を直接にはよく知らなかった、読んでいなかったと考えられています。先ほどのマリヤの章の28節にはつぎのようにあります。

 

やがてマリヤはその子(イエス)を抱いて、一族のもとにやってきた。みなは言った。「マリヤよ、お前は大それたことをしたものだ。アロンの姉よ、お前の父は悪人でもなかったし、お前の母は不貞な女ではなかった」

 

 この記述は、旧約聖書にアロンの姉がミリアム(マリアのヘブル語発音)であるという記述を間違って書いてしまったものと考えられています。(旧約聖書・出エジプト記十五・20)つまり、イエスより、千数百年ほども昔のアロンやモーセの姉と、イエスの母とを名前が同じマリヤであったために、混同しているのです。これは、マホメットが聖書を持っておらず、おそらく、旧約聖書や新約聖書の話を周囲の人たちから部分的に耳で聞いて、うろ覚えで書いたからこのような基本的な間違いをしていると考えられています。

 また、ほかにもこのような間違いは見られます。

 シナイの山で、モーセが十戒を受けている間に山の下では、人々が偶像崇拝をして神への背信行為を繰り返していたときのことがコーランでも書かれています。

「お前(モーセ)の去ったあとで、われらはお前の民(イスラエルの人たち)を試みにかけた。サマリヤ人が彼らを迷わせたのである。」(コーラン二十章85

 と書いてあります。しかしサマリヤ人というのは、モーセよりはるか後の時代に出てくる人のことです。イスラエルの人々を迷わせたのは、サマリヤ人でなく、アロンであったのです。

 また、キリスト教の中心的な教義でもある、神とキリストと聖霊が同じ本質であること(三位一体と言われる)を否定しているが、そのことをコーランではつぎのように書いています。

「まことに、神は三者のうちの一人であるなどという人々はすでに背信者である。唯一なる神の他にはいかなる神もいない。…マリヤの子(イエス)はただの使徒にすぎない。彼以前にも多くの使徒が出た。また、彼の母(マリヤ)は誠実な女であったにすぎない。二人とも、食物を食べていたのである。…」(コーラン五章7375より)

 このように、三位一体という、キリスト教では、きわめて重要な教義についても、なんとマホメットは、「神とキリストとマリヤ」の三者が一体であると思いこんでいたのがうかがえます。

 これは、カトリック関係の絵画などでマリアが、イエスとともに重要視されていることからこのような誤解が生じたものと推察されます。

 このように、旧約聖書や新約聖書の引用があちこちで見られますが、このような初歩的な誤りが見いだされるのです。

 コーランでは、預言者として、つぎのように、旧約聖書で親しみある名前と、新約聖書からも一部、例えばイエスといった名前があがっています。

 

「まことに我らがなんじに啓示したのは、ノアとそれ以後の預言者たちに啓示したのと同様である。

 われらはアブラハム、イシマエル、イサク、ヤコブと各氏族に、またイエス、ヨブ、ヨナ、アロン、そしてソロモンに啓示した。

 またダビデに詩編を与えた。… モーセには神が親しく語りかけられた。」(コーラン第四章163164

 このように、主イエスもコーランにおいては、預言者たちのうちの一人であって、人間のなかまにすぎないとしています。旧約聖書の神が預言者として特別に選んだ人物をコーランでもそのまま、預言者として受け入れているのに、どうして新しい宗教が必要であったのかと疑問になります。それをコーランではつぎのように説明しているのです。

「しかし、コーラン以前にも、導きであり、慈悲として授けられたモーセの経典があった。

 このコーランはそれを確証するもので、アラビア語で下され、悪い行いをするすべての者たちに警告し、善い行いをする者たちによい知らせを伝えるものである。」(コーラン四十六章12

 

 つまり、旧約聖書は神からの書であることを認め、それをさらに確証するものがイスラム教では、コーランだというのです。コーランは新約聖書をも部分的に神から下されたものと認めます。

 

「このコーランは神をさしおいてねつ造されるようなものでなく、それ以前に下されたもの(旧約聖書と新約聖書)を確証するものであり、万有の主よりのまぎれもない経典をくわしく説明するものである。」(コーラン十章37

 

 このように、コーランを究極的なものとして位置づけます。

そしてユダヤ教徒もキリスト教徒も、その神からの啓示をゆがめてきた、それをアブラハムの正しい信仰に復元するのがイスラム教だという主張なのです。

 しかし、キリスト教の内容に影響を受けてつくられたと考えられる教義には、復活、天使や悪魔の観念、それから死後の裁き、天国と地獄などの観念があります。これらは旧約聖書にはないか、あってもごくわずかです。アブラハムの信仰を目標とするといえども、アブラハムにはそのようなことについての信仰内容は見られないので、こうした観念は、新約聖書に影響を受けて作られているのがわかります。

 現在深刻な問題となっている、テロはいったいどのようなコーランの内容に基づくのか、それは多くの人にとって疑問となっています。

 世界宗教とも言われるものが、あのような大量の無差別殺人を教えているのかと。これはもちろん否ですが、聖戦、これはつぎの箇所がもとになっています。

「神(アッラー)の道のために、おまえたちに敵する者と戦え。…

お前たちの出会ったところで、彼らを殺せ。

 お前たちが追放されたところから敵を追放せよ。迫害は殺害より悪い。」(コーラン第二章190191

 

 このように、言って、イスラム教徒を迫害することは、殺すことより悪いとして、イスラムを迫害する敵がいる場合には、相手を殺すべきなのだとはっきり敵を殺すことを命じています。

 こうした戦いのことを聖戦(ジハード)と言っています。そしてこうしたイスラム教徒以外の敵との戦いで死んだ者は、アッラーの神のもとで神からの恩恵を受けて生きている、とされています。

      (コーラン第三章169170

 2001年9月のアメリカの高層ビルへの攻撃(同時多発テロ)は、この聖戦と称する戦いだと信じてなされたのが推察されるのです。

 マホメットは「剣とコーラン」をもって征服していったと言われます。

 イスラムの敵には容赦なく処刑するという姿勢、イスラム教の敵は殺すことをすら正当化すること、こうしたことが、現在の一部のイスラム原理主義と言われる人たちが、無差別的なテロを行う宗教上での根拠ともなっています。

 このように、イスラム教は、旧約聖書や新約聖書のとくに福音書をも神の啓示とみなし、ユダヤ教やキリスト教からもいろいろとコーランに引用していますが、つぎのような点でキリスト教と根本的に異なっているのです。

 コーランはイエスをマホメット同様ただの人間の仲間であるとします。

 しかし、キリスト教はイエスは神と同質のお方であるということが啓示されるところから出発しています。 イエスが人間なら、罪の赦しもできず、復活もありえず、死を超える力を与えることもできない。

 イエスを人間と同じだとするなら、それは、聖書を用いる宗教の一つではあっても、決してキリスト教とは言えないのです。

 そして、信仰の究極的な模範を、イエスやモーセでもなく、アブラハムに置いています。それによって、神がキリストを長い間の預言の成就として、この世に送ったのに、それを無にすることであり、歴史を逆戻りにさせ、イエスより千七百年ほども昔のアブラハムを完全な信仰の模範として、それに帰ろうとするのです。

 さらに、武力を用いることを当然とすることや、一夫多妻もキリスト教と根本的な違いの一つです。マホメットは、十数人もの妻を持っていました。その中には、政略結婚のようなものもあったり、わずか六歳の幼女と婚約し、その三年後に結婚しているような例もあります。

 このようにつぎつぎとたくさんの女性を妻に迎えるなどということは、キリスト教では考えられないことで、武力の肯定、宗教上の敵を殺すべきだというような点とともに、キリスト教とはきわだった違いだと言えます。

 主イエスは、敵に対する態度は究極的にはどのようであるべきか、このことについて、聖書を見てみます。

 

「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。

しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。…

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。

しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ福音書五・3844より)

 

 また、コーランが宗教上の敵には殺すこと(剣をとること)を命じているのに対して、キリストは、つぎのように言われました。

 

…そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。 そこで、イエスは言われた。

「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」

  (マタイ福音書二六・5152

 

 この言葉の通り、武力で敵を征服しようとするものは、必ずまた武力によって滅びていくということは、歴史のなかで繰り返し見られることです。

 そして主イエスの霊を最も多く注がれた使徒パウロもつぎのように教えています。

…愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せよ。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書かれている。

「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」

 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。(ローマの信徒への手紙十二・1921

 

 このような、明白なキリストの教えと、その精神に反して、アメリカやヨーロッパの主要国がいっせいにアメリカとともに武力での攻撃、戦争を始めようとしています。そのようなことは、何一つよいことを生み出すことはできないのです。

 イスラム教の大きい問題点は、このように、イスラム教に敵対する者を殺してもよいとする、マホメットの教えにあります。

 イスラムもイスラエルも、さらに欧米諸国も武力で反撃、攻撃するという姿勢ですが、イエスは、そのような大量殺傷の手段によっては、決して問題は解決しないということを深く見抜いておられました。そして、そうした武力報復とはまったく異なる道で悪に立ち向かうことを指し示したのです。 

 それは、神の前に静まり、敵のために祈り、あくまで真実な神の力に頼り、悪しきことをする人々を憎むのでなく、彼らの心の中に、清く真実な神からの風が吹き込むように、永遠の命に至る水が彼らの魂のうちにも与えられるように、と祈っていく道です。

 このようなことは、神とキリストからの力を受けることなしには到底できないことです。それが十分にできているなどという人はいないはずです。人間はあまりにも小さく弱い存在だからです。

 そこにそうした私たちの罪がまず赦されてそののちに、死にうち勝つ神の力を与えられねばならないと感じます。

 ここにこそ、あらゆる紛争の根本的な解決の道があります。

 


リストボタン世界の平和とキリスト教

 

 このような大きい問題には、いわば固い扉があってそれを開くのは至難のわざである。

 しかし、イエスは、そのような大きな問題の根源にあることを示され、平和への扉を開ける鍵となるものを示されたのだった。

 それは暗雲漂う現実の世界の中で、夜空の星のように過去二千年を通して輝いてきた。

 平和と対立するのは戦争であり、戦争とは大量に人間を殺傷するという本来途方もない罪悪であり、自然や建築物、美術工芸品等々あらゆるものを壊し、さらには人間に関しては、精神的にも深刻な破壊を起こす。

 そのような戦争と対極にある精神が、イエス・キリストである。

 それは、失われた一匹の羊を探し求めるために 九十九匹を置いて探し求めるという心であり、おびただしい人々を失われた羊のようにしてしまう戦争とは実に対照的である。

 さらに、また幼な子のような心でなければ 天の国に入ることはできないと言われたが、ここでも、最もよい至上の国に入るには、権力も、お金も、地位、あるいは生まれも、高齢、病弱…等々、いっさい関係がない。ただ、幼な子のような心もて、愛と真実の神様を信じ、キリストがそのような神様と同じだと信じるだけで、天の国にはいれるのである。

 しかし、戦争はこの幼な子のような心など一顧だにしない。弱いものほど踏みつけるような残酷さが本体である。

 イエスは次のように言われた。

…自分からは何事もできない。父なる神がなさることは何でもその通りにする。父は、子(イエス)を愛して、自分のなさることはすべて子に示されるからである。(ヨハネ5の1920より)

 イエスの言動は、すべて神から直接に受けたのだと言われているのである。

 山上の教えと言われる有名な教えを語った直後に訪れたところは当時 社会的にも差別され 隔離され、汚れているとされていた ハンセン病の人のところだった。

 また当時 全く福祉の制度もなく、 見放されていた生まれつき目の見えない人、耳の聞こえない人 あるいは精神の病にかかった人のところにも行かれた。

  そして手を差し伸べ 癒されたのだった。

 そのような小さな人々のところだった。

 そのような行為を一貫してなされた主イエスの心、そこには 常に Something Beautiful があった。

 これに対して戦争は小さきもの 弱気ものの苦しみ悲しみなど全く踏みにじって美しい自然も破壊し、小さな美しい心をも無残にも破壊していく。

 そして 憎しみや悲しみ怒りが渦巻く世界に引き込んでいく。

 このようなことは 聖書に記されたイエスの何か聖なるものを人々の心の中に蒔いていく姿と全くかけ離れている。

 そのようなイエスであればこそ、迷える人たちの心の深くに宿っている罪を担い、その贖いのために自ら十字架に付けられる道を選んだのだった。

 しかし3日後にイエスは復活をし その復活をしたキリストは 聖霊と呼ばれ、その聖霊は、イエスを三度も知らないと強弁して逃げてしまった弟子たちに注がれ、そして命がけで小さきもの、弱き者を愛し、キリストの福音を伝えるために各地へと 命がけで出て行く力を与えたのだった。

 イエスについては 特定の宗教の人だと言われることがあるが、特定の宗教どうこうでなく、人間の深いところに関する真理であるかどうかである。

 かつて膨大な人々を捕らえて、死に至るような苦役を課し、生き残った者は毒ガスで殺害していったヒトラー、そして中国の毛沢東などは朝鮮半島での国連軍(主としてアメリカ軍)との戦争で、千万、二千万が死のうとも、中国には、いくらでも背後に人間はいると豪語したと伝えられているし、ソ連のスターリンは戦争に強制的に参加させ、粛清その他によっても、次々と二千五百万もの同胞の命を奪った。そのあまりにも無慈悲、残忍な仕業に命をかけて彼の妻はピストル自殺をして抗議したのだった。

 こうした歴史上の独裁者は、強力な国を造り上げた。

 その過程は、キリストが言われた神の国とは、際立った対照をなしている。

 イエスは自ら人々の罪を担って処刑され、そして以後二千年間も無数の人が全世界において、魂の深いところで呻いていた自分の罪の苦しみから解放される福音の原点となった。

 私自身も 大学4年の6月にたまたま 古本屋で立ち読みした1冊の本のわずか1ページによってそのキリストの深い愛を直接知らされたのだった。

 人間の思想、哲学、あるいは学問とか全く関係のないところから私は救いだされた。

 まさに弱きを憐れみ、迷う1匹の羊を探してくださるイエスの姿を、私は直接、魂に感じた。

 それから、その罪の贖いをしてくださった十字架を仰ぎ、罪の赦しを受け、そしてまたそれまで全く知らなかった 神様の命、すなわち永遠の命の一端を受けたことを知らされた。

  現在、恐ろしい殺傷能力を持つ様々な武器を持って相手を殺傷すること、また様々な建築物を破壊する等々、それが自分の国を守ることだと称する国々によって、悲劇的な戦争が続けられている。

 しかし、おびただしい人々を殺傷するということは、たった一人の弱いもののところにも神の愛を持って近づき 癒し、新しい命を与えるというイエスのなされてきたことの対極にあることである。

 現在の世界の問題はこのような二千年も前に示された、明白な真理の道に反した道を歩んでいることにある。

 いかに小さいように見えるとも、真理は真理である。

 真理である限りは必ずその力をどこかで発揮していく。

 この混迷する現代、高度な殺戮兵器の力を信じるのか。それとも数千年続いてきた目には見えないけれども、その真理を受けた人には紛れもない永遠の真理だと実感させるその力を信じるのか大きく問われている。

 その真理は、弱者にも強者にも働くし、我々の周りの自然界のあらゆるものー無限の天空の世界の無数の星々にも、地の上にも日々働いている。

 大空の真っ青な広がりー それはまた主につながる人々の心に広がる霊的世界を指し示している。

 私たちが 他者を苦しめ、人を殺して成り立つ平和にはそのような 澄み切った青い空のような世界は訪れることがない。そのような悪事をなしたことによって、 逆に何を持ってしても除くことのできない暗い影のようなものが 魂の内につきまとうようになる。

そしてそのためにそれを晴らすために飲み食い、あるいは誘惑に負け、さらなる魂の混迷を深めていく。

 他方、小さきものへの慈しみ、愛は決して小さきものにとどまらない。

 真実の愛は 数で測定することは不可能であり、小さき愛のように見えるけれども、そこに真実があれば、その真実の愛は神が世界に今も響かせ、こだましている。

 たった一人に向けられる弱いものに向けられる小さな愛、それは ニュースにも現れずだれも関心を持とうともしないし、金や権力、人気などとは無縁である。

 けれども、神はその真実な愛そのものであるゆえに、神はその小さな愛を祝福して大きな風のように 様々なところに吹き渡らせる。

 創世記の二章に記されているエデンの園から流れ出る水のように、命の水としてこの世界に流れていく。

 これからの社会は科学技術の発達によってますます危険な兵器が増大してくるであろう。

 それに最も強力に対抗する力は、存在するのか。各種兵器はますます人間の危険性を増大し、魂の滅びへと向かわせる。

 しかし、人間はそうした危険に対して決して無力ではない。私たちが現代のこの危険な世界にあって、そこに生き抜いて行くためには、イエスが二千年前に示された小さきもの、弱きものへの真実の愛こそ、今日に至る長い歳月、どのようなことがあってもその愛は歴史を、また幼な子のような心を持って信じてきた人々の心の中を流れてきたように、 今後とも様々な闇の力が跋扈する状況になろうとも、いかなる闇にもかき消されることなく、ますます星のようにその真理が輝き続けていくことを信じることができる。

 イエスを天の世界から、地上に送り出した神の愛、その真実 そしてそこに生まれる希望こそは、いかなる事態が生じようとも、私たちの究極的な拠り所であり、力となる。

 


リストボタン瀬棚聖書集会の証しから

 

 今回の瀬棚聖書集会は50周年記念ということで、古くから瀬棚に開拓にはいられた方に証しをしていただく時間が取られました。

 西川 求さんは、3年前に召された生出正実さん(1936〜2021年)に次いで瀬棚に入られた初期の開拓者であり、瀬棚聖書集会のはじまりのことも話されたので、ここに掲載しておきます。

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〇西川 求さんの感話

  私たちが瀬棚に入ったのは、まず、1964年に生出正実さんが入りそのあと、私が入り、続けてキリスト教独立学園を卒業した人や、酪農大学を卒業した人たちが入ってきました。

 1971年に野中正孝さん、1974年に片桐さんたちが夢を抱いて瀬棚に入ってきました。

 野中正孝さんが入植した1971年、野中正孝さんのご両親、野中正喜さんと奥さんの智子さんの祈りのなかでーとくにお母さん(智子さん)がぜひこの地で聖書集会を開きたいとの希望を話され、ここに聖書講習会の場が与えられるように祈りました。

 そうした祈りを受けて、三愛畜産センターの会館で、瀬棚聖書講習会が開かれるようになりました。

 堤 道雄先生、先生が代表であったキリスト教横浜集会の方々とお話ししまして、このことが実現したのでした。

 こうして、横浜から毎年、堤 道雄先生が来てくださり、3泊4日の日程で瀬棚聖書集会が開かれ、子供たちもふくめて家族ぐるみでその集会に参加し、たいへん賑やかな会でした。

 堤先生は、1918年にカルフォルニアで生まれて2005年86歳でお亡くなりになりましたが、53歳のときから各地で独立伝道され、瀬棚にも来られるようになって、以後30年近く、堤先生を講師としてその瀬棚聖書講習会が続けられることになりました。

 瀬棚以外にも、札幌、苫小牧、岩見沢、旭川とあちこちを伝道してくださいました。

  私たちはこの地で、堤先生の話しを年に一度聞く機会が与えられ、たいへん感銘をうけました。いつも堤先生は明解でしっかりとした方向を示してくださったことで、いつも胸のつかえが取れた思いして聞くことができました。

 子供たちもたくさん参加していた。その写真の中には、 片桐 拓さん、野中さん、生出めぐみさんとかも写っています。また、東京から参加の方とか野中正孝さんのお母さん、野中明子さん、また、伊藤邦幸先生、…いろいろな写真が残っていたので見ていただきました。

 また瀬棚にきてゆっくり過ごしていただき、瀬棚聖書集会もいま吉村先生が引き継いでおられますので、ぜひまた参加していただきたいと思います。

 


リストボタン報告とお知らせ

 

〇瀬棚聖書集会

 去年11月に開催予定でしたが、ちょうどその開催期日直前に瀬棚地域で重要な関わりある方が召されたので、延期となっていたものです。

 2月6日火曜日の夜から開会式、開会メッセージではじまり、7〜8日の三日間の開催でした。

 参加者は、瀬棚地域以外の北海道から九州までの各地からオンライン参加者と利別教会や、徳島などでは対面での参加者も合わせて50名ほどの参加者が与えられ、御言葉の学びと共に、日頃出逢うこともない方々とも主にある恵まれた交流の機会となりました。

 三日間の録音CD(MP3版)がありますので、希望の方は、左記の吉村まで。費用は送料込で300円。切手でも可です。

 

イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。

「幼な子を私のもとに来させよ。

神の国はこのような者たちのものである。    (ルカ1818