いのちの水 2024年6月 第760号

あなた方に真実を言う。

幼な子のように神の国を受け入れる人でなければ、

決してそこに入ることはできない。       (ルカ 1817

 

目次  

イラスト

・いつまでも続く希望

・ 小さき者への神のまなざし

・顔と顔を合わせての コミュニケーション

・平和への道ー幼な子のような心

・集会案内

 

リストボタンいつまでも続く希望

 

 使徒パウロは書いている。

 「私たちは耐えられないほどひどく圧迫され 、生きる望みさえ失い、死の宣告を受けた思いだった。

 そのため、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになった。

 神はこれほど大きな死の危険から救ってくださった。これからも救ってくださると神に希望をかけている。」(Uコリント1の8〜10より)

 現在、さまざまの苦しみや悲しみの中に置かれている方々は無数にいる。そうしたところに、この希望が与えられますように。

 

 


リストボタン小さきものへの

        神のまなざし

 

…あなたの栄光は天の上にあり、

みどりごと、ちのみごとの口によって、ほめたたえられています。

        (詩編8の2 口語訳)

 この口語訳の訳文は、ヘブル語の聖書をギリシャ語に訳した70人訳と言われる聖書にしたがっている。

 「ほめたたえられている」言い換えると「讃美されている」、と訳されているのは、ギリシャ語の アイノス ainos である。

 ヘブル語の聖書ではこの語は 力を意味する オーズ であるが、それを新約聖書以前の70人訳といわれる古代のギリシャ語訳では 「讃美」と訳している。

 このオーズという言葉は、旧約聖書全体でも詩編が圧倒的に多く用いられていて(46回)、ほとんどすべて、主はわが力 とか、私はあなたの 御力を歌う、というように「力」と訳される言葉であるが、この個所のギリシャ語訳は、この個所には、「讃美」を意味する オイノスoinos をあてている。

 この古代の訳者は、力は讃美に通じるという受け止めをしていたのがうかがえる。

 たしかに、神からの力を受けるとき、困難にもうち勝つことができるし、悲しみや悩みに打ち倒されそうになっているときでも 立ち上がり新たな道を歩み始めることができるようになるし、それゆえに、そのような 神を讃美する心が自然に生まれる。

 口語訳はこの訳を採用している。それは、この個所をイエスが引用されたときも、ギリシャ語訳の聖書の表現を用いられたからであろう。

 イエスは、神殿の境内で、売り買いしたり、両替していた人たちを追い出し、腰掛けを倒すといったことまでされた。 そして、

「私の家は、祈りの家と呼ばれるべきである。

しかし、あなた方は、それを強盗の巣にしている。」 と言われた。

 そしてイエスは目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに来たので、それらの人々を癒された。

 そして境内でこどもたちが、イエスをたたえていたのを聞いて、祭司長や律法学者たちは怒りだし、イエスに抗議した。 しかしイエスは言われた。

「幼な子や乳飲み子の口に、讃美を歌わせた」という言葉をまだ読んだことがないのか。 …

        (マタイ211216より)

 と記されているが、このイエスが引用したのが 詩編8篇の2節なのである。

 いろいろな議論などわからなくとも、単純素朴な心から発せられた言葉や讃美が、かえって、神の力を持っていて彼らが強められ、周囲にいる人たちも強められる、といった通常の思いとは別の働きが、この世界にはあるのだと言われている。

 なお、ヘブル語の原文に従って、次のように訳した邦訳聖書もある。

「あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。

 それは、あなたに敵対する者のため、 敵と復讐する者とをしずめるためでした。」                (新改訳)

 英訳なども、同様の訳も多い。

 いずれにしても、通常なら、乳飲み子、幼児などの口から発せられる言葉など、まったく無視されるのであるが、神の見方は人間とは全く異なるのを強く示している。

 もちろん、讃美のためによく祈り、練習された音楽的に優れた讃美も、それもまた神からの恵みの賜物であり、主は神の国のために用いられる。

 けれども、およそ讃美にならないようなものをも、神は讃美とみなし、そこに力を与えることもできる。

 小さきものへの配慮、また祝福、そして力は、こうしたところにも見られる。

 この詩では、乳飲み子や幼児の口から発せられる 純真な言葉にならないような言葉でさえも、それは讃美であり、また神の真理に敵対するものにもうち勝つ力がそこに存在するのだという、驚くべきメッセージが込められている。

 主イエスも、その最後が近づくとき、エルサレムに入城したが、そのとき、大ぜいの弟子たちはみな喜んで、彼らが見たすべての力あるみわざについて、声高らかに神を讃美して言いはじめた、

「主の御名によってきたる王に、祝福あれ。

天には平和。いと高きところには榮光あれ」

 それを聞いた、パリサイ派の人たちは、彼らの讃美の意味をまったく理解しようとせず、イエスこそが、真のメシアとして来られる王だ、というようなことはあり得ないと その讃美の声を止めさせよとイエスに言ったとき、主は言われた。

…「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶ」

      (ルカ193740より)

 神の愛と真実による御支配のうちにあるとき、あらゆるものー無生物の典型的なものと思われている石さえも ある種のいのちを持ったごとくに働くのである。

 地位もなく、権力もないけれどイエスを素朴に救い主と信じる人たちの讃美、それをとどめようとすることはだれにもできない。

 耳で聞こえず、目で見えずとも、石がその代わりに声にならぬ声で叫び、讃美をするというのである。

 人間のあらゆる心、その感情、理性的判断だけでなく、広大無辺の自然の世界の神秘にも深く通じておられたイエスの本質が、こうしたひと言でもうかがえる。

 しばしば物事の本質を知るためには、多大な知識は不要である。ただのひと言が意味深長、無限の神秘がちりばめられた背後の世界を指し示すことがある。

 それは、日常我らを取り巻く、広大な自然も同様である。夕日の輝き、そこに雲や大空もそのとき一度きりの、すばらしいハーモニィや物理的には聞こえないメロディーをも奏でるーそうしたことは、開けた心をもって対するときには主が そのように神の国の深い消息の一端を開いてくださる。

 そのために、この自然世界は 大空、夜空、昼間の千差万別の驚くべき多様性を日々周囲に繰り広げているのであり、地上世界のありとあらゆる植物や地上、地中の生物たちもみな その神の国の無限の広大さを指し示すために存在している。

 こうした神の国の計り知れない広大さ、愛の深さを知ろうとしないのがいつの時代にもこの世に広がっていて、弟子たちでさえも、わずか12人の狭いなかの世界でとどまっていた。

 そしてイエスの弟子たちも そのようなこの世の風潮から免れず、イエスがそばにいるのに、弟子たちのうちでだれが一番大きな(偉い)存在なのか、など議論し始めた。

 そのときにイエスが、近くにいた幼児をそばに置いて言われたのが次の言葉である。

…イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、言われた。

「わたしの名のためにこの幼児(子供)を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。

…あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も大いなる者である。」

         (ルカ9の4748

 この言葉は、驚くべき内容である。

 この世は常に世間的に大きいものをめざしているし、それをほめたたえる。学業成績、またスポーツ、演劇、音楽…そして事業、政治社会的な領域でも同じである。

 しかし、 小さい、とるにならないものをもイエスが愛されている存在だと信じてその小さきものに心からの配慮をする者は、イエスを受けいれ、神を受けいれることになる。

 言い換えると、神やキリストがそのような人の内に住んでくださるようになる。

 そのような人の魂こそ、いかに社会的に無視されるような存在であっても、神の前には、霊的に大いなる存在となる。無限大の神、キリストがおられるようになるからである。

 そして、その小さき存在自体も、大きな意味を持っている。

 幼児、幼な子、あるいはこの世から無視されているような病者、障がい者、また、日本では世界で高齢者の割合が最も高い国の一つとなっているが、高齢となって病者、また障がい者のようになって、世の中から無視されるような弱い存在…そうしたあらゆる小さき者であってもそこに大きな意味を持っていることを主は言われている。

 このような言葉のなかに、いかにキリストが弱く小さなものに深いまなざしを送っているかを感じさせるものがある。

 すべての人間は本質的に弱い、罪深き存在である。

 私たちはみないかに現在強そうに見えても、老年という若き日には想像もしなかった状況に直面しつつ、死に至るときまでの歩みにおいて、この世の出来事…災害、事故、人間関係…より根本的にはみずからの罪ゆえに苦しみ悩み、打ち倒されるようなときがやってくる。

 そのような状況となると、多くは、他者からは顧みられない。高齢となるとそのかつての友人、家族たちもまた高齢となったりして他者の苦しみを配慮したり 訪ねたりできない状況となることが多い。

 また、病院や施設に入所することになると、そこまで訪ねてくるのは、家族でも少なくなる。

 その老年の孤独な苦しみと寂しさ、それはさらに心身の衰えによる病気、障がい、あるいは自らや他者の罪ゆえに苦しみ続ける日々がいやおうなく訪れるのが多くの人の魂の状況となる。

 そのような弱く小さい存在になっても、なお、そのような者こそ大いなる存在なのだ、などと一体だれが思うであろう。

 ただ聖書の神、キリストのみはそうした真実の愛を持った御方であることを、こうしたイエスの言葉やその行動が示している。

 現在の世界の状況を知れば知るほど、暗黒や不安は深まっている。

 しかし、そうしたあらゆる闇と混乱のなかでも、聖書巻頭に宣言されている、あの言葉ー

光あれ! が主を仰ぎ望む魂に語りかけ、そこに光が存在するようになり、あらゆるこの世の暗黒や不安に勝利していく道が示されていく。

 永遠に続く神の愛、そしてその真実、さらにその愛と真実を信じて生まれる希望…それこそは、いつまでも続く。

 それが聖書全体のメッセージとなっている。

 

 


リストボタン顔と顔を合わせてのコミュニケーションの重要性

  ー聖書の言葉、医者の言葉から

 

 東京都葛飾区の脳神経内科院長という方が、書いていることの一部を引用し、私自身も最も身近な人(妻)の状況と聖書の内容との関連を思った。

 その医者は、脳神経専門に約1万人を診察してきたという。

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…最終的には、人とのコミュニケーションはオンラインや電話ではなく、直接会って話すことが脳にとって一番有効ということを感じています。

 きっかけはコロナ禍でした。自宅で暮らしている多くの高齢者がデイサービスの施設などに出かけられなくなり、家にいる時間が激増しました。

 そうして久しぶりに私のクリニックを受診した認知症の高齢者のほとんどの方で、病状が進んでいました。とくに「何日も人と会っていなかった」とこぼすような一人暮らしの高齢者は、コロナ禍の数カ月で、かなり病状が悪化したのを目の当たりにしました。

 お互いの表情や反応を見ながら会話をする。このことがどれだけ脳を活性化させ、血流を促すかがよくわかりました。

 対面のコミュニケーションは、脳にとって最高の刺激です。さらに会話の流れで よく笑うことも脳をますます活性化させるでしょう。

ちなみに認知症が進むと、 笑う回数が減ることがわかっています。これは笑う感情と、脳の機能低下が関係していることを意味しているのではないでしょうか。

 認知症の人は環境が変わるたびに症状が重くなる、といった話を聞いたことはないでしょうか。

 たしかに急激な環境の変化はストレスにもなり、認知症を悪化させます。でもだからといって、何の刺激もなしに1日中過ごせばいいかといえば、これはまったく違います。

 自分で考えることをやめてしまえば、これもまた病状を悪化させる要因になるのです。

 人と話して、相手にどんな話を返そうか考える。こうして考えることが、何より脳の活性化に繋がります。(『プレジデント オンライン』の内容から)

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 ここに引用した観点からの顔と顔を合わせて会うことの重要性は、はるか二千年前から、聖書において 使徒パウロの言葉にもうかがえるし、主イエスの言葉や行動にも現れている。

 使徒パウロは、その最も重要な彼の受けた啓示を記したローマの信徒への手紙においてその最初に、福音の本質と自分がいかなる者であるかを簡潔に述べた。

 そしてこの長く内容の深いローマ書の本文の巻頭に書いたのが、まだ訪問したことのない遠いローマの信徒たちと顔と顔を合わせて会いたいという切実な思いであった。

 パウロは、祈るときには、多数の人々のことを祈ったであろうが、この会ったことなきローマの信徒たちのことをも「いつもあなた方のことを思い起こし、何とかして 神のご意志によって、あなた方のところに行ける機会があるように、と願っている。」 それは単なる人間的な思い、初めての人たちと会いたいというようなだれでも持つような目的ではなかった。

 パウロが顔と顔を合わせて会いたいと願ったその理由は、彼が受けた「聖霊の賜物をいくらかでも分かち与えて力になりたい」からだった。(ローマ書1の9〜12より)

 最も大切なものーそれは聖霊である。聖霊とは、活きて働く復活したキリストだからである。その聖霊が豊かに与えられるほど、あらゆる不満や、見下されたといったことに対しての怒り、憎しみなども消えていく。

 そして代わりに、そうしたことをなす人々の心に、聖霊が訪れるようにと願う心が生じてくる。

 パウロも、「あなた方と私が互いに持っている信仰によって励まし合いたい」(ローマ1の12)と言う。

 励ますーそれはまた聖霊が与えられるようにと祈りつつ語るなかに真の励ましがある。力なさに苦しむ人にも聖霊が注がれると新たな力が与えられる。

 絶望にある人にも聖霊が与えられるならば、その暗い中に光が与えられ、そこから前に進むべき道が与えられ、歩む力が与えられる…。

 またパウロが、現在のギリシャのエーゲ海に臨むテサロニケという都市のキリスト者に充てた手紙にも次のように記されている。

 …兄弟たち、私たちはあなた方からしばらく引き離されていたので、ー顔を見ていないというだけで心が離れていたわけではないのですがーなおさらあなた方と顔を合わせて会いたいと切に望みました。 」

 と記して、苦難にあっているテサロニケの信徒たちの信仰を励まし、さまざまの誘惑に信仰から離れてしまわないようにとの強い願いから書いている。

 そして、そのために派遣していたテモテという弟子が、テサロニケからパウロのところに帰って、その現状を知り、信徒たちが信仰を堅くもって揺るがないでいることを知らされて喜びにあふれた。

 そしてさらに「私たちは神のみまえで、あなた方のことで喜びにあふれています。この大きな喜びに対してどのような感謝を神に捧げたらよいでしょうか。 

 顔と顔を合わせてあなた方の信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています。

 どうか神と主イエスとが私たちにそちらにいく道を開いてくださいますように… 」(Tテサロニケ2の17〜3の12より)

 このように、使徒パウロのなかには、危険や困難のある中で、ぜひとも信徒たちと顔と顔を合わせて会うことによって 互いに励まし合いたいとの願いが強く記されている。

 こうしたパウロの心は、その内に活きておられたキリストからうながされた思いであった。

 主イエスも、「二人、三人私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(マタイ 1820)と約束された。

 比較的最近まで、数千年、万年にわたる人類の歴史で、二人三人集まるといえばそれは必ず顔と顔を合わせて集まることを意味していたのであって、オンライン集会が一般的となったのは、 2020年初頭以降、コロナが世界的に蔓延したからだった。

 オンライン集会という方法は、私どもの徳島聖書キリスト集会では、最重度の障がいゆえに30年を超えて寝たきり、人工呼吸器装着、首から下はいっさい動かせないという方が何とか集会に加わることができないかと、2010年3月に初めてオンラインの集会(スカイプ)を始めたのであった。

 それは、そのような重度障がい者にはとても有用で、その後、遠隔地の人、体調の十分でない人、近くに集える集会、教会のない方々もすこしづつ参加するようになって今日に至っている。

 しかし、それは 聖書にあるように、本来は集える状況にあれば、そしてその集会や教会が福音の本質をきちんと伝えているとわかるなら、そこに集って顔と顔を合わせて礼拝をするのが、聖書の精神に沿ったことである。

 そしてそれがただ二人であっても、そこには活きてはたらくキリストがおられるゆえに、そうしなければ与えられなかった祝福、聖霊が注がれるという得難い賜物を受けることが期待できる。

 それは主の約束だからである。

 「二人三人、主の名によって集まる」とは、主の本質たる愛と真実を信じ、それを心の目で見つめつつ、集まるとき、そこに主がおられる、聖霊がおられ、参加者に与えられるという約束である。

 それは、また会えない人たちー遠くや病気その他の理由でーも祈りのなかで出逢い祈り続けるーそれをパウロも記しているーそれによって聖霊がその当事者を結びつけることになる。

 参加できる人は、参加することによって自分だけでなく、他者に対しても、分かち合う力が強められることは、こうしたイエスや使徒の言葉によっても真実な言葉である。

 


リストボタン平和への道

     ー幼な子のような心

 

 現在の世界の状況は、ますます軍備拡張となっている。

 その行き着く先には何があるのか。

 従来からの最も危険な兵器である核兵器の使用の可能性が高まり、その上に現在では、ドローンや宇宙兵器といったかつて想像することもなかった新たな兵器が出現しつつある。

 それらの危険な軍備、兵器はなにをするためなのか、何が生み出されるのか。

 それは、住居やダム、橋梁などの破壊だけでなく、人を殺害すること、生涯の重荷や悲しみ、苦しみとなるような重度の障害ーそれは手足の切断や精神障害…

 それが真の平和に至るというのだろうか。

 人を大量に殺すなどということが、赦されるはずはない。

 そうした途方もない苦難や、悲しみを大量に生み出すのが戦争である。

 その道は、おびただしい人々の苦しみと悲しみあるのみ。

 現在の世界の各地の状況は、天来の響きと大きく異なる。

 ベートーベンの第九交響曲のコーラス「歓喜の歌」の冒頭に、彼自身の作詞による歌詞がある。

O Freunde, nicht diese

Tne !(おぉ、友よ、このような響きではない!)」

 現代の風潮は、本来あるべき人間社会の響きではない。

 本当の人間としての響きは、まずあらゆる人の命を大切に思うことであり、

 幼な子のような心で仰ぐことである。

 旧約聖書で最も深く、キリストの預言を明確に記している預言者イザヤも次のように言っている。

 

…地の果てのすべての者よ。私を仰ぎ見て救われよ。

 私が神である。ほかにはいない。(イザヤ書4522

 

 主イエスの本質は、愛であるが、そのことは、小さき者、弱き者を、神の前では大きな存在だと明確に告げたところにも現れている。

 次のイエスの言葉は、前の文章でも取り上げたところであるが、ここに再度引用する。

 

…「だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。

 そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。

 あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである」。

 

 ここで、幼な子と訳されている原語は、パイディオン(παιδιον )であるが、このギリシャ語は、新共同訳では、「子供」と訳されている。しかし、日本語の「子供」という語は、高校生であっても使うのであって、このイエスの言葉を大人に近い年齢の子供であると受けとると間違って受けとることになる。

 イエスの誕生のときに来訪した東方の博士たちの記述でも、生まれたばかりの乳児をこのパイディオンという言葉で表している。

 旧約聖書のギリシャ語訳においても、このパイディオンという語は、乳飲み子についてよく用いられている。

 例えば、モーセが生まれてまもなく、乳飲み子の状態で、パピルスの籠に入れてナイル川に流された。その乳児についてもこのパイディオンが用いられている。

 福音書にも、イエスが 子供(パイディオン)を抱き上げたという記述もあるとおり、それは、一般的な大人に近いような子供でなく、とくに、幼な子、乳幼児を指しているのである。

 次に掲げるのは、その幼な子らしさがよく表現されているが、一般的には子供向けの話とみなされている「アルプスの少女ハイジ」の内容について、20年ほど前に書いたものであるが、現在のような複雑な時代にこそ、重要であるので、ここに記した。

 イエスが乳飲み子を呼び寄せ、「神の国はこのような者たちのものだ。真実を言う、この幼な子のように神の国を受けいれる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(ルカ181617より)と言われたように。

 

「アルプスの少女ハイジ」 ヨハンナ・スピリ著より 

(ハイジと友達になった、クララという少女を診ていた医者がいた。その医者には、たった一人の娘があった。医者は、夫人を亡くしてからは、その娘がただ一つの慰めとなっていた。しかし、その娘も二、三ヶ月前にこの世を去ってしまったので、それからは、その医者は、すっかり変わってしまった。医者は、フランクフルトの町にいるクララの父親から依頼されて、スイスの山にいるハイジのところに行くことになった。以下の引用は、ハイジの所に着いた医者との会話から)

「ほんとにいい景色ですね。だが、もし悲しい心をいだいてここへ来た人があるとすれば、どうしたらその人はこの美しい景色を楽しむことができるでしょう」

「そんなことないわ。だってここではだれも悲しくはないんですもの。悲しいのはフランクフルトだけなのよ」ハイジはさけびました。

 医者はちょっとわらいましたが、すぐに笑顔になって言いました。

「だが、もし悲しみをすっかりフランクフルトにおいてこられなかったら、そのときはどうしたらいいのでしょうね」

「どうしたらいいかわからないときは、神様のところにいってお話するといいわ」ハイジはきっぱりと答えました。

「なるほど、いい考えですね。しかし、悲しい目にあわせたのが神様自身だとしたら、そのときは神様になんと申しあげたらいいのでしょうかね」

 ハイジは、神様はどんな悲しみからも救ってくれるものと思っていたので、しばらく考えこまざるを得ませんでした。

「そのときは待つのです。」しばらくたってからハイジはそう言いました。

「自分で自分にこう言い聞かせるの。

 神様はわたしたちを悲しみから必ず救い出してくださる、わたしたちはじっと忍耐して待っていなければいけないって。

 そうすればきっと道が開けるわ。そして神様がいつも善い思いを持っておられたことがわかるようになるわ。わたしたちは、先のことがわからないものだから、自分たちはいつも不幸なのだと思ってしまうのよ」

「美しい信仰ですね。いつまでもその信仰をすてないでください」

 医者はそう言って、山々や谷間をながめながらじっとすわっていましたが、やがてまた言いました。

「だがね、目がかすんでしまって、こんな美しいけしきを楽しむこともできず、その美しさを思うとますます心の悲しくなるような人もあるということが、あなたにはわかりますか」

 ハイジは喜ばしい心のなかを弾丸で打ちぬかれたように思いました。

 目がかすむと言ったのでおばあさんのことを思い出したのです。おばあさんは、ここへ連れてこられても美しい景色を見ることはできないにちがいない、それはハイジにとっていちばん悲しいことで、目の見えない暗やみのことを考えると、いつも悲しくなるのでした。

 ハイジはせっかくの楽しい心が突然の悲しみによって妨げられてしまったので、ちょっとのあいだ何も言うことができませんでしたが、やがて重々しい声で言いました。

「わたしよくわかりますわ。でもおばあさんだって、すきな讃美歌を歌ってあげると、光がもどってきて、幸いな気持ちになれるって、言ってたわ」

「どんな歌?」

「わたしの知っているのは『朝日の歌』です。全部ではないんですけど。おばあさんがいちばんすきなので、わたし何べんも読んで、歌ってあげました」

「そうですか。それじゃ、わたしにも歌って聞かせてください」

 そう言って医者はすわりなおしました。ハイジは手を組んでじっと考えていました。「おばあさんが、心がすがすがしくなるって言ってたところからはじめましょうか」

医者はうなずきました。ハイジは歌いはじめました。

 

 さまざまの 悲しい思い

時にあなたを 襲うとも、

神はあなたを救う

神こそは、心の支え

 

力ある神が敵に向かえば

今しも敵は散りゆく

そのゆえに、さまざまの苦しき出来事も

喜びの光に輝く

 

もしも、神の恵みが

しばしの間見えなくなり、

苦しむ人たちを棄てるように見えるとも、

神の恵みを決して疑うな

 

み恵みはとこしえに変わらないゆえに。

苦しみを耐え、神を待ち望む者の

心の上に 大なる神の愛は輝く

 

 Though the  storm clouds

gather,

God thy Heav'nly Father

Gives thee peace within.

Nothing shall distress thee,

If God keep and bless thee,

Lasting joy thou'lt win.

 

(この英文は上記の要約。 storm cloudsは、困難の前兆、嵐、暗雲として名詞的に用いられる語)

 

 ハイジは、医者が聞いていないのではないかと思って急にやめました。医者は片手で目をおおったままじっとしていました。 あたりはしんと静まり返っていました。

 医者は遠い昔を思い出しているのでした。まだ子供のころ、その母親が自分の頭に手をまわして今ハイジのうたった歌をうたってくれたのです。

 もう何年も聞いたことのない歌でした。医者には、昔聞いた母親の声が聞こえ、あのやさしい目が自分の上に注がれているように思えたのでした。そしてハイジが歌いやめたときも、思いは遠いむかしに帰っていくのでした。

 やがて我に帰ってみると、ハイジが不思議そうな顔をして見つめていました。

「ハイジ、ほんとにいい歌でしたね」医者の言葉には、喜ばしい響きがこもっていました。

「またいつかここへ来ましょう。そしたらまたこの歌を聞かせてください」

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目の見えないおばあさんは、愛するハイジがフランクフルトに帰ってしまうのではと思って、ますます心配になったのです。しかし、また讃美歌を読んでもらおうと思いつきました。

 

もろもろの 

ものごとは善くなる

神のみを 信じる者よ

翼もて

わたしは翔けて行く

あなたをこそ、

私は救おうとして

 

「そうそう、私の聞きたいと思っていたのは、それだよ」こう言っておばあさんの顔からは苦しみの色が消え去っていきました。ハイジはじっとおばあさんの顔を見つめて言いました。「神様が救うって、何もかも善くなると信じられるようになることなんでしょう。おばあさん。」

「そうだよ」おばあさんは、うなづいて言いました。「なんでも神様の善きご意志でないものはないんだよ。」

ハイジは二、三度繰り返して読みました。ハイジもすべてのものが神様の善きご意志なのだと思うと喜ばしくなるのでした。

 夕方になってハイジは山をさして登って行きました。頭の上には、星がつぎつぎに輝きだし、胸のなかの喜びにまた新しい光を送ってくるような気がしました。 ハイジは何度も立ち止まって見上げないではいられませんでした。とうとう空一面に星がいっぱいに輝きはじめたとき、ハイジは大きな声で叫びました。

「そうだわ、私たちがいつも幸いで、何も恐れることがないのは、神様が私たちのためになることを何もかもして下さるからだわ!」

 輝く星は、ハイジを見つめる目のようで、その星に見送られて帰り着くとおじいさんも家の前で星を仰いでいました。…

 

嵐の雲が覆うことがあろうとも

天にいますあなたの父なる神は

あなたに、内なる平安を与える

神は、あなたを悩ますものは何もないようにして下さる

もし、神があなたを守り、祝福されるなら、

永久(とわ)の喜びを

あなたは勝ち取る

 

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☆ハイジと星  

 ハイジはクララに問いかけた。

「星はどうしてあんなに輝いて私たちを見下ろしているのか知っている?」

「知らないわ。どうして?」

「それはね、お星さまは天国に住んでいて、神さまは何でも私たちのためによくして下さることを知ってるからよ。

 こわがったり、苦しんだりしないで、何でも最後にはよくなるのだって信じて、喜んでいなさいと、言っているのよ。

 だから私たちは神さまにすっかりお任せして、いつまでも心にかけて下さるようにお祈りすればいいのよ。」

(ヨハンナ・スピリ著 「アルプスの少女ハイジ」角川文庫 二四二頁)

 

・次に右の文の英訳を記す

Why do you think the stars twinkle so brightly at us? asked Heidi.

"I don't  know.Tell me" Clara replied.

"Because they are up in Heaven and know that God looks after us all on earth so that we oughtn't really ever to be afraid,because everything is bound to come right in the end.

That's why they nod to us and twinkle like that.

 Let's say our prayers now Clara,and ask God to take care of us."

 

 「ハイジ」の物語は、アニメになってテレビでも広く親しまれてきた。私はその放映されていたアニメはわずかしか見てはいないが、愛らしい登場人物と美しい山の風景によって心のなごむ内容であったように思う。

 また、後にDVDとして発売された2時間近い内容にまとめられたものは、妻がずっと以前に購入していたものであるが、最近それを見て、優れた内容であったし、比較的最近作られた実写版の「ハイジ」は、とても美しいアルプスの光景も内容も、そしてハイジとおじいさん役の俳優の演技も優れていて心に残る作品だった。 

 しかし、残念なことに、それらはいずれも、この原作の中に深く流れている神への信仰がほとんど現れない。

 著者のスピリは、牧師の娘で、ハイジの物語を原作の訳で読むと、著者が何とかしてこの本を読む人たちにキリスト信仰を伝えたい、という情熱と、アルプスの自然への深い愛が伝わってくる。 

 ここに引用した箇所も、「信じる者にはすべてが益となる」(ロマ8の28)をわかりやすく言ったものである。

 なお、著者の墓には、次の聖句が刻まれている。

 

So now, Lord, what am I to hope for?     

My hope is in you.

              (碑文の英訳)

 

それゆえ、今、主よ、私は何を望むべきか   

わが望みはあなたの内にあり。(詩編三九・8

 

 星や山々、草木など自然のさまざまのものは神が創造されたものであり、そこには神の私たちへの愛、その万能の力や美などさまざまのものが刻み込まれている。

 著者が、ハイジに託して述べているのは、神と心がひとつに結ばれるほど、周囲の自然の世界からも、いのちの水を受け、神からの生きたメッセージが実感されるということであり、それによってかたくなな心も和らぎ、小さき者、弱き者への愛も自然に生まれてくるということである。

 


リストボタン集会案内

 

〇 主日礼拝 毎週日曜日午前1030分から。集会場とオンライン併用。

以下は、天宝堂集会だけが対面とオンライン併用で、あとは、オンライン(スカイプ)

〇 夕拝…毎月第一、第三火曜日夜730?9

〇 家庭集会

@ 天宝堂集会…毎月第二金曜日午後8時〜930

A 北島集会…・第四火曜日午後730?9時、

・第二月曜日午後1時〜

B 海陽集会…毎月第二火曜日 午前10時〜12