いのちの水 2024年 9発 第763

目次


・津田 梅子の歩み

 ・主を知ろう

      ホセア書より

             土屋 聡

お知らせ

集会案内

 

 

リストボタン津田梅子の歩み

            ー神の導き

 

 津田塾大学の創設者、津田梅子は、今年新たに発行される五千円札に用いられるようになったので、多くの人々の関心を集めている。

 江戸時代が終わろうとする時に生まれ、まだ6歳のときに、ほかの年長の少女たちと合わせ5名(6歳から14歳)は、岩倉使節団と共に行くことになった。

 そのような年少の少女たちの留学は、通常では考えられないようなことである。そのいきさつも不思議な見えざる御手による導きを感じさせるものがある。

 明治時代となったころ、北海道の開拓は非常に重要視されていた。父親の津田仙(*)が、北海道開拓使の嘱託となっていた。そこで、黒田清隆開拓使次官がアメリカ視察ののち、女子教育の重要性を強く感じて、女子留学生を募集することになった。 

 

*)津田仙は、1837年、佐倉藩士(千葉県佐倉市)生まれ。1861年に24歳で津田初子と結婚し、婿養子となり津田姓となる。彼は江戸時代の末期という辞書などほとんどない状況にあっても、様々な学問を学び、英語には早くもその重要性を見抜き通訳できるほどであった。1867年には、アメリカへ軍艦引取り交渉のために、通訳として派遣された。その時の派遣員の一人に福澤諭吉がいた。

 

 津田仙は北海道開拓使の仕事にかかわっていたために、黒田のそのような女子学生留学の考えを知ってただちに娘たちに問うた。その募集の開始は1871年(明治4年)10月で、出発は12月ということで、現代でいえば小学校1年から5年と、中学2年ほどの少女たちの、10年にわたる留学という重要なことなのに、わずか2カ月の募集期間の後の出発ということで、いろいろ熟慮して決定する時間もないような短期間のことだった。

 年長の娘は、当然のことながらその募集の件は、断った。しかし、その妹である梅子がまだ六歳であったにもかかわらず、両親のもとを離れていくそのような長い年月の留学に同意したという。アメリカがどんなところなのか、また太平洋の三週間にわたる長期の船旅の危険性(*)、そして留学であり、アメリカの言葉がわからねば何もできないし生活もできないと思われるし、自分を受けいれて家族として10年も生活してくれる相手がどんな人なのかまったくわからない状況のなかで、留学を同意したのだった。

 

*)江戸時代末期の特に、アメリカ行きなどの太平洋を渡る航海は、長期にわたる鎖国のためにそうした航海の経験がなく、航海技術が遅れていたこと、また台風のような強風、天候異変なども予見は困難、さらに、長期なので蒸気船であっても燃料の補給が極めて重要だが、天候異常、荒波で航海が誤った方向に進んでしまうこともあり、大幅に遅れた場合は燃料もなくなり、航海できなくなる、さらに、長期なので水や食料の状況も悪く病気、隊長不良となる可能性も高い。

 

 歴史の流れのなかで、不思議な偶然とか、通常ではあり得ないようなことが関連して起こっていくということがある。津田梅子の6歳にしてのアメリカ留学においても、いろいろと驚くべきことが続いていた。

 梅子には、幼いときから、未知の世界に踏み込むという精神が与えられていたのだった。明治初期のまだ侍の時代の名残が色濃く残っている日本において、しかも女子の教育など不要だという考えが一般的であった状況で、年若い女子を遠いアメリカまで危険な船旅と一〇年という長期間の留学に送り出そうとする親もごくわずかだったであろう。そのようなことは、歴史はじまって始めてのことであり、だれも経験したことのないことであった。 

 結局そうしたあわただしい募集期間でアメリカ留学が決まったのは5名で、そのうち年長者2名は現在なら中学2年、ほかの3名は小学生であった。 

 1223日に横浜から出発し、23日の太平洋航海を経てアメリカ西岸のサンフランシスコに着いた。

そこから陸路アメリカを横断して東海岸のワシントンに着いたのは2月末であった。

 明治になったばかりの時代であり、大人、政府の役人であっても、アメリカに行くなどきわめてわずかの人しか体験がない状況で、彼女たちの心境はいかばかりだったろう。

 開拓の精神を持った人たちは、つねに危険を犯して、前途に輝く光、あるいはより困難な選択肢を選ぶという勇気を持っていた人たちだったが、この時派遣された少女たちは、未来への大きな展望とかも難しく、前途の困難などもわずかしか認識できない年齢で、家族など身近な人に強く勧められての決断であった。

 そのうち梅子は,ワシントンで、チャールズ・ランマン夫妻宅で十年という歳月を過ごすことになった。

 幼少時過ごした十年は、身心の成長期、発育期であり、多大の刻印がその魂に残されるのは確実である。後の梅子の様々の考えや心情、魂の奥深くに目覚めた目に見えないが存在する愛と導きの神、キリストのことは深くその魂に刻まれていったと考えられる。

 ランマン夫妻は真実なキリスト者であり、夫のランマンは、アメリカの政府関係の図書館にも勤め、自らも画家であり、かつ書物研究家、それゆえに蔵書は数千冊もあったという幅広い教養と文筆力の恵まれた人物であった。 

また、ランマンの祖父の親族にはアメリカ大統領もいたこともあり、ランマン家の人々は、政治社会、文学、歴史の広大な領域に目を注ぐ風潮があり、それは目に見えない波のように、梅子の幼い胸にも打ち寄せることになった。

 そのランマン夫妻と家族として密接に生活をともにして、梅子は、初めてキリストを信じ、唯一の神を信じるということの目に見える証しに接したのだった。日常生活のなかから自然にあふれ出る夫妻のキリスト信仰の姿にそれまで日本では全く知らなかった信仰の世界を知らされ、しかも、そのランマン氏の広範な視野に接して、キリスト教はこうしたものを生み出すのだと知らされていった。

 それゆえに、梅子は船旅の途中で七歳となり、アメリカに着いて 1872年11月にランマン家に住むようになってわずか半年ほどで自らキリスト者になりたいと希望した。しかし、明治政府のキリシタン禁制の高札が撤去されたのは、1873年2月であったから  その直後に梅子は、キリスト教入信の決意をしたことになる。

 豊臣秀吉のバテレン追放令(1587年)にはじまるキリスト教圧迫の状況が徳川幕府となってさらに厳しい禁令となり、キリシタンとなる者は厳しく処罰されるようになって、300年近い年月がすぎ、「切支丹」のようにも書かれてキリスト教とは国家的に罰せねばならないほどの重大な罪だという考え方が植えつけられてきた。それゆえに、梅子たちが日本を出発するときには、アメリカに行っても、キリスト教への改宗は禁止との文言が書かれた文書も手渡されていたし、その説明も当然うけていたであろう。

 津田梅子たち5名の少女たちを含む岩倉使節団(*)は、60名ほどもの留学生を欧米に派遣することも目的の一つであった。

 

*)使節団は、8カ月にわたってアメリカに滞在したのち、アメリカに留学する者(少女たちを含む)を残して、他の留学生は、伊藤博文、大久保俊道、木戸孝允ら、政府の重要な人物たちとともにヨーロッパ各地に向った。

 

 しかし、まさにその当時の日本は、明治政府となっても、長崎県の浦上村で、最も厳しい迫害がなされていたのだった。江戸時代最後の1867年、浦上村にカトリックの信徒たちが生き残っていたことが判明し、大問題となり、明治政府は江戸幕府が崩壊したのちも、そのキリスト教弾圧の姿勢はまったく変えようともせずに、浦上村の信徒たち、約3400人の村民が全国20藩に流罪となり、そこでどんな厳しい迫害や処遇をすることも許可され、各県は、水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓拷問、箱詰め、磔、親の前でその子供を拷問するなど、その過酷さと陰惨さ・残虐さは旧幕時代以上であったといわれるほどであった。

 そのような状況が欧米に知られて、岩倉使節団は激しい非難を受けることになり、岩倉は、日本政府にこのキリシタン迫害を止めるようにと通告し、それによって江戸時代初期からのキリスト教厳禁の方針が廃止されることになった。

 この時の外国の強い非難、圧力がなかったら、明治政府はこの厳しいキリスト教弾圧という残虐な政策を続けていくことになったであろうから、明治政府の政治も、欧米のやっていることを学んで、さまざまの改革に手をつけていったが、欧米の精神の根本にあるキリスト教の真理に関しては、驚くほど無知であったのを示している。

゛しかし、そのようなキリスト教を最も悪質な処刑、拷問に値するとしていた政府の見解に反して、じっさいにそのキリスト教を信じる人たちに接して、わずか7歳の少女でさえも、自発的にキリスト教信仰を受けいれたということのなかに、著しい対照を見る。

 真理というものは、幼くとも、それゆえにこの世の経験が大幅に欠けていようとも、また教養や政治社会のことがわからなくとも、魂で深く受け止め、生涯の拠り所とする人たちが現れてくるのだということを証ししている。

 人間が、キリスト者となるのは、その背後に神の力が働くできごとであるからである。 

 梅子は幼いとはいえ、そのようなキリスト教に関する厳しい日本の状況を知っていたはずであるが、それにもかかわらず、キリスト者となる決断をしたのだった。梅子が洗礼を受けたのは1873年(明治6年)であり、それはキリスト教禁令が廃止されてわずか半年足らずの時であった。そしてそのあと、ランマン家の庭にあった黒人の使用人の小さな家にいって、その黒人夫妻に、梅子は聖書を持って説明してあげるようになったという。

 また、日本にいる弟が死去した知らせを受けて、母親に、「母上の慰めはただ天の神様であること…弟は神様に召されて…すべては神様の思し召しだと…」などを書き送っている。

 こうした梅子のキリスト教への関わり方、またその行動は、キリストの命の光を実際に魂の深みに受けとったことを思わせる。

  ランマン夫妻の日常のキリスト者としての生きざまをつぶさに接し、また夫妻とともに日曜日ごとに教会の礼拝に参加していたことなどによって、幼い梅子ではあったが、キリスト教の深い真理に目覚めたのだった。

 何十年とキリスト教のことを聞いてもなお、受けいれないことはいくらでもあるなかで、このように極めて短期間、しかも自分たちを送り出した日本の政府の命令としてキリスト教改宗は禁止といった状況があるにもかかわらず、キリスト者となった。

 このような事実からわかるのは、聖書のことを深く学ぶことなくとも、接した人々の生きた証しによってキリストの力、その本質が伝わるという実例である。しかし、そうした実例に接してもなお、キリストが地上で生きていたとき、まったくキリストを受けいれずかえって反感と敵意を増大させていった当時のユダヤ人の指導者たち、またそのような昔でなくとも、単なる模範に接してもキリスト教信仰に至らないのはいくらでもある。

 梅子の例は、その点で、人間の計画や意図を超えた存在(神)からの啓示を彼女が受けたのであり、主の導きによるのが示されている。

 また、ランマン氏は、前述したように、多方面の膨大な書物を所有する博学な研究者、著作家でもあり、そうしたすべてが、梅子に彼らをそのように造り上げたキリスト教、そしてその根源にあるキリストへの信頼となったのがうかがえる。

 さらに、意外なことであるが、梅子がキリスト者となって二年後に、日本における両親も、キリスト者となった。太平洋を隔てた親子が、ほとんどまだキリスト教の理解も進まず、数百年のキリスト教迫害という歴史があった直後にあって太平洋を隔てた8歳の娘がまず、キリスト者となり、その二年後に遠い日本にいる両親もまたキリスト者となるという異例のことも生じた。 同じ家で同居していても子供の信仰あるいは親の信仰が何十年たっても伝わらないということはいくらでもあるので、梅子と両親のほぼ同時期にキリスト者となったというのは驚くべきことである。

 その後、10年の歳月ののち、日本に帰ったが、日本では男子なら欧米に留学すると、帰国すると重要な職務へと受けいれられるが、女子は何も準備されてさえいなかったのに驚かされ、自分が幼少のために受けてなかった大学教育を受けるべく、再度アメリカに渡る。そこで入学したのが、ブリンマー大学であった。これは、クェーカーのキリスト者かつ医師であったジョセフ・テイラーの多額の献金によって設立された。それゆえにその大学にはもとになったクェーカーのキリスト教の精神に触れることも多かったであろう。

 その大学において、すぐれた指導者(*)により、彼女の自然科学への目が開かれることになった。その後、教え子の星野あい(**)は、後に梅子が学んだブリンマー大学に入学、さらに選んだのは生物学と化学であり、ここにも梅子の影響がみられる。 

 

*)梅子がはじめたカエルの卵の発生の研究を指導したトーマス・ハント・モーガン教授との共同論文は、欧米の科学学術誌に掲載されたが、それは日本人女性としては最初のことだった。そのモーガンは遺伝における染色体の役割に関する研究で、後にノーベル賞を受賞した人物であったから、梅子ももしそのまま研究者としての歩みを続けておれば、日本の女性科学者の重要な人物となっていたと推測されている。

 

**)星野あい は、津田英学塾二代目塾長、後の津田塾大学の学長まで、明治、大正、昭和の30年にわたってこの塾、大学の運営を担ってきた。父母兄弟もみなキリスト者であるという特に主の恵みをうけた環境で育った。

 

 これらの事実は、後に英学塾を開設後、太平洋戦争開戦となり、英語は敵性言語だとして、英語教育そのものが否定され、敵視されるという予想外の状況となり、それまで順調に入学者が増えていたのが、激減していくことになり、英学塾そのものの存亡の危機に瀕したとき、その星野あいが第二代の塾長となり、理科系学部を増設することになり、辛うじてその学校の崩壊をくい止めることにつながったのだったがそれも最初の塾長の梅子とその深い影響を受けた星野あいという二代続けて理科系の女性が学校の責任者となる異例の状況となり、彼ら二人が自然科学の重要性をそのブリンマー大学で熟知していたゆえ、星野が容易にその教育の内容、進め方などに適切な判断がなされ得る状況だったからである。

 津田梅子のクェーカーとの深い関わりは、さらに続いた。それは、アナ・ハーツホンという女性との長期にわたる深い交流である。ハーツホンの父親が医学者であり、梅子の父親、津田仙が、梅子よりも以前に、江戸時代最後の年になる1867年に半年ほどアメリカに通訳として滞在したとき、ハーツホンの父親の書いた医学書を持ち帰っていたこと、そしてそのハーツホンが、来日して津田 仙の持ち家を借りて生活することになったほどであった。

 ハーツホンが熱心なクェーカーのキリスト者であったゆえ、日本におけるクェーカー(キリスト友会、あるいはフレンド派ともいう)の最初の信徒であった新渡戸稲造とも深いつながりがあった。

 アナ・ハーツホンは、梅子と特別なキリスト者としての友となり、英学塾が開校して二年後に再度来日し、梅子から英学塾への真剣な思いを直接聞き取って、そのときから梅子と英学塾に対する深い協力者となり、以後40年ほどにもわたる長期間、無給で英学塾の教師となった。そして、関東大震災によって英学塾がすべて焼けてしまったのち、アメリカに帰って、各地に英学塾のことを伝え、募金活動に励み、多額の資金を集める働きをした。

 このように、ハーツホンは、実際の津田英学塾の教育と、さらにはその再建という困難な実務においても実際にたいへんな情熱と行動によって支えたのであって、現在の津田塾大学本館ハーツホンホールという重要な建築物にその名が記念としてつけられている。

 梅子は、新渡戸稲造は英学塾を支える一人でもあったゆえに新渡戸とも親しい交流が続き、関東大震災のときに壊れた後、しばらくは新渡戸稲造の別荘に住んだり、戦前にも、新渡戸稲造も農学専門でもあり、突然に塾に訪れたり、講演をしたりという交流があった。

 新渡戸稲造は旧制一高校校長、また東京帝大教授として多大の影響を各方面に与えた。戦後、内村門下の南原繁に続いて東大総長となった矢内原忠雄も大きな影響を受けたし、新渡戸に紹介されて内村鑑三門下となった。

 新渡戸は、日本で最初のキリスト教のクェーカー派の信徒となった人であったし、内村鑑三(*)も内面にさまざまの悩みを抱えて渡米して最初に世話になった家庭がやはりクェーカーのキリスト者宅であった。

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*)内村鑑三、無教会、集会とは…

  内村の聖書に基づく非戦論は、クェーカーの徹底した非戦の精神(これは聖書に記されていて、特定の教派の考えでなく、イエスの精神そのものであった)に深く影響されている。内村は無教会というキリスト教の流れを生み出したが、この無教会は、ピューリタニズム、クェーカーとをいわば両親のように、深く影響を受けて生まれたと内村も述べている。

 そして一般の人から、さらにキリスト者からも、しばしば無教会とは、教会を無くするという意味とか、教会の無い人たちなのかと、疑問をもたれることがあるがもちろん、そのような意味ではない。

 そもそも教会とは何か。聖書に立ち返ると「教会」と訳された本来の意味は、何であるかが明らかになる。

キリスト教がローマ帝国に広がり始めた時代から、教会というのは、現在のような教会堂とか、組織体とかを意味していなかった。聖書時代には、迫害の時代であり、いまのような十字架を持つ大きな建物など作ることはあり得なかった。

 現在の日本での「教会」という訳語(言葉)は もともとは、聖書の言語たるギリシャ語のエクレシアの中国語訳である。エクレシアとは、エックは〜から、クレーシアは、カレオー 呼ぶ という言葉に由来する。「呼び出された人々(による集まり)」というのが原意である。 それゆえ、一般の政治社会的集会を意味するものとして用いられ、古代ギリシアのプラトンの著作などにも見ることができる。

 新約聖書ではそのエクレシアは、「この世から神によって呼び集められた人たちの集まり」 という意味として用いられるようになった。

 なお、英語の church は churiakon  doma(キュリアコン ドーマ)に由来する。これは「主の家」の意味。

 しかしフランス語では、教会のことを、 ギリシャ語のエクレーシアをそのまま、フランス語化して ・glise  エグリーズ という。

 このように、教会とは、現在多くの人たちが考えているような、教会堂の建物とか組織でなく、単純な「(キリストに)呼び出された人々(の集まり)」 というのが原義であって、無教会といわれている集まりもそうした集まりであり、それゆえ、聖書の意味におけるエクレーシアであり、中国語での訳語を使うなら、「教会」なのである。

 そしてそのような集まりは、二人、三人でも主の名によって集まるならそこに主がおられるゆえに(マタイ18の20)、教会と訳された原語の意味は、たった二人、三人でもエクレシア ということになる。

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 このクェーカーがいかに梅子に影響を与えたと考えられるか。そのためにはクェーカーのキリスト教の信仰のあり方を知ることが不可欠である。

 クェーカーといわれるこのキリスト教は、ジョージ・フォックス(1624 1691年)によってはじめられた。イエスがいわれた、「私に従う者は、命の光を持つ」(ヨハネ8の12)を自らの体験から強調し、「内なる光」の重要性に導かれ、そして、水の洗礼でなく、「聖霊による洗礼をうける」(使徒言行録1の5、マタイ3の11など)ことの重要性を説いた。

 一般的には、当時はキリスト者となるためには、水の洗礼が不可欠とされていたのを、フォックスは、自らの経験により、また聖書に基づき、水の洗礼でなく、聖なる霊を受けることこそ真のキリスト者のしるしであり、救いである、と主張したゆえに、異端とされ、迫害を受けることになり、もっともひどいときには、イギリスの監獄がクェーカーの信徒たちでいっぱいになったと言われている。

 しかし、救いのために水の洗礼が不可欠という主張は、聖書からみれば成り立たない。信仰によって救われるというのが根本的な聖書の啓示である。それは新約聖書における救いに関しての記述の中心となっているパウロの中心的書簡であるローマ信徒への手紙、ガラテヤ信徒への手紙その他に明らかである。 

 最大の使徒パウロも、復活の主キリストからの一方的な光、語りかけを受けてキリスト者を迫害し、殺しさえした重い罪を赦され、救われ、キリストの使徒とされた。(その救われた証しとして水の洗礼も受けたのであって、水の洗礼を受けて救われたのではない。)(使徒言行録9の1〜19)

 そして、キリストの12使徒たちも水の洗礼によって救われたのでなく、とくに重要なペテロ、ヨハネ、ヤコブたちは漁師であったが、その漁師としての仕事中に、イエスからの直接の呼び出しにより、そのイエスを信じてすべてを捨てて従ったときに救いの道を歩み始めたのであった。

 だが、その救いは十分ではなくイエスの十字架の死や復活も事前にイエスがいわれても信じようとしなかった。そして、イエスが捕らえられるとき、イエスを見捨てて逃げたという重い罪を、一方的なイエスからの恵みによって罪赦され、さらに主の命じたように約束された聖霊をうけるためにみんなで真剣な祈りを付け付けていて 聖霊を豊にうけ、新たに生まれ変わり命がけで宣教へと進むことになった。

 そして、イエスはどういわれたか、復活して40日間も人々に語られたと使徒言行録に記されている。しかし、そのような期間に語ったとされる内容の大部分は記されず、ただ一つ記されていることがある。

…「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられる。…

ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1の5、8)

 このようにはっきりとイエスを知らないと裏切って逃げてしまった使徒たち、またほかの女性たちに対して、その約束の聖霊を受けるために祈って待て、と命じられたのだった。そして実際に12人の弟子たちや、その他の女性の信徒たちとともに集まり、真剣な祈りを捧げているときに聖霊が豊かに注がれ、そこで新たに生まれ変わり、殺されることも覚悟で福音を伝える歩みをはじめたのだった。

 こうしたキリストを信じ、その命の光、そして聖霊を受けて歩む、という単純な信仰の姿勢が内村にも深くその魂に浸透した。

 内村自身、札幌農学校にて、クラーク博士によって信仰へと導かれた先輩たちの影響を深く受けてキリスト教の真理に触れたが、卒業後に生じた個人的な深い悩みも生じ、真の平安を得ることができなかった。その解決のために、アメリカにわたり、そこで、直接に障がい者との関わりという未経験の仕事にも携わった。しかし、それでもなお、平安をえられなかったが、アマースト大学のシーリー総長によって、自分自身の罪を見ることでなく、それを赦されるキリストの十字架を仰げとさとされ、そこで真のキリスト教信仰へと導かれた。

 内村は、このような自分自身の解決できない霊的な深い悩み苦しみがただ、十字架のキリストを信じるだけで、深い平安と止めどもなくあふれ出る新たな力を与えられることを実際に体験し、生涯その信仰の根本は変ることがなかった。

 その十字架のキリストのあがないが根本となり、それはまたクェーカーキリスト者たちの、内なる光と聖霊を中心とする単純な信仰のあり方、そしてその生き方として、クェーカーのキリスト者たちの実際に触れてー非戦論や奴隷、アメリカ原住民などに対するクェーカーのキリストの精神に基づく生き方、対処の仕方に深く影響されたのだった。

 新渡戸稲造自身がクェーカーであり、内村鑑三もクェーカーの影響を大きく受けたのであったが、その二人とも、多大の影響を日本の人々に持続的に与えてきた。新渡戸は20数年間、5千円札に用いられていたので、広く知られているが、今年それが津田梅子になり、やはりクェーカーとの関わり深いキリスト者が採用された。キリスト者が極めて少ない日本のお札として続けて用いられていることにも不思議な天の導きを感じさせるものがある。

 また、戦後の皇太子(現在の上皇)教育の任を受けた、ヴァイニング夫人もまたクェーカーのキリスト者であり、皇太子が戦前の日本の狭い視野から世界的な視野、広い世界へとの開眼に寄与したことも広く知られている。

 新渡戸稲造は太平洋の架け橋となる、という心が常にあった。私はその「新渡戸稲造と太平洋の架け橋」といタイトルの文を小学生のときに学習雑誌で読んだのを今も思いだす。

 また、津田梅子に関して、私はその父親の津田仙が毛筆で書いた書を、半世紀以上以前に、鳴門の入江にある一軒家ーといっても小さな学校のような建物が二棟並び、そこで一人のご夫君を亡くした女性がおられ、そこに数人の集会員とともに一か月に一度たずねて家庭集会をしていたときのことを思いだす。

 その女性は、徳島県西部の結核療養所で入院していた人で、無教会の人たちもそこで療養していた人たちが何人かおられ、その関係で、療養所に折々に伝道に行っていた杣友 豊市氏(*)から紹介されたのであった。

 

*)徳島聖書キリスト集会の二代目の代表。(18951997

 

 その家はほかに類を見ない不思議な家であった。校舎のような建物をさらに入ると立派な部屋があった。

 そこには、津田仙の直筆による聖書の言葉が書いた額が掲げてあったのにまず驚いた。

 私は、その頃すでに津田仙という名前は、津田塾大学の創始者、津田梅子の父親で重要な働きをした人だと知っていたので、そのような歴史的に重要人物の書いたものがなぜこんなところにあるのか不思議であった。 そしてその家には、かなりの数の古い洋書がその古風な本箱にあったのも印象的であったし、立派な石を用いた池を持つ庭もあった。それは今から50数年も昔のことであり、梅子の父親の津田仙という名前はそのときからとくに何か不思議な存在として記憶にとどまってきたのである。

 津田 梅子に限らず、キリスト者で重要な働きをした人たちに共通しているのは、彼ら自身が偉大ということでなく、彼らをそのように大いなる働きをなさしめた背後の存在が活けるキリストであり、神であったということである。

 アメリカ人でありながら、40年ほども献身的に津田英学塾を支えたハーツホン、そして梅子が二度目のアメリカ留学という難しいことを決断させたのが、やはりアメリカの牧師の娘であったアリス・ベーコンとの親密な交流であった。アリスは、二度来日し、3年ほどの在日期間のなかで、津田英学塾の創設やその運営にも深く関わり、梅子の終生のキリスト者としての友となった。

 なお、ここでは詳しく述べられなかったが、梅子とともに留学した二人の少女、山川捨松、永井繁子の二人も、キリスト者となって、結婚後も梅子の親密な協力者として津田英学塾に尽くした。捨松という女性では異例と思われる名前は、母親が 太平洋のかなたへの10年という長期の留学といしことで、何が生じるかわからないこともあり、「捨てたという気持ちで待つ(松)」 という心で名付けた。

 捨松は、のちに 陸軍大臣や文部大臣ともなった大山厳と結婚した。そのような重要な地位にある人の妻となった。

 永井繁子(*)も、結婚後も津田英学塾に多くの協力ーとくに音楽の専門家としても梅子の大きな力となった。

 

*)永井は、ニューヨーク州のヴァッサー大学音楽科にて、ピアノ演奏を学び、、西洋音楽の分野で大学教育を受けた最初の日本人となり、日本最初のピアニストとなった。

また、アメリカの留学中に知り合った 瓜生外吉(うりう そときち 後の海軍大将)と結婚。東京音楽学校(後の東京芸大)教授と女子高等師範学校(後のお茶の水女子大学)などの教授ともなった。

 

 梅子は、アメリカへ留学した子供の時からのこうした友人たちの真実な協力があったことも、津田英学塾が存続したことの理由の一つとなっている。

 こうした状況を見るとき、津田 梅子が津田英学塾の創始者といえども、一人でなしたことでなく、数々の真実な人たち、とくにキリスト者たちの大いなる献身と協力、そしてその背後になされた祈りがあり、それらを動かしたのが、活けるキリストであったことを示されるのである。

 それは現代に生きる私たちにとってとくに重要なことになる。さまざまのこの世の闇ー戦乱や災害、それらに伴う、また政治や社会の状況からの飢え、迫害、さまざまの不正や差別…等々、至るところにこの世にはいつの時代にも闇はたちこめている。

 それにもかかわらず、そのただ中にあって、人間にはない揺るがぬ真実と慈しみの存在(キリスト、神)がおられるということであり、はるか数千年前から現代に至るまで、その存在に魂の目を開かれた者には、生涯、大いなる光となり、導きとなり続けてくださるということである。

 単に、歴史上の有名人を特別な偉人としてあがめることは、私たちの現在にとって力とならない。

 それは、単なる知識で終わるが、彼らを動かした目に見えざる神とキリストをより深く知らされ、そこで彼らが与えられた福音の力、罪の赦し、聖霊が注がれることによる大いなる導きと力は、現在も昔と変ることなく、万人の希望となり光となり、力となる。

 そのことこそ、こうした特別な働きをした人の歩んだあとを深く知ることで与えられる大いなる賜物である。

 

 ……

たとえ倒れても、私は起きあがる。

たとえ、闇の中にあっても

主はわが光。

(旧約聖書 ミカ書7の8より)

 

 

リストボタン主を知ろう

     土屋 聡(千葉県) 

「我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。 主は曙の光のように必ず現れ、降り 注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる。」

         (ホセア書6の3)

 

1 はじめに

 以前の私は、天気にかまわず自分の都合で苗の植え替えをしていました。とても傲慢に野菜を育てていました。傲慢な私は、夏の晴れ続き日に植え替えをしたことがあります。

 植え替えた苗は、まだしっかり土の中に根を張っていないため、私がどんなに水やりをしても、次第に葉がしおれていき、枯れていってしまったという苦い経験が私にはあります。それ以来自分中心だった私は、「雨の前に」苗の植え替えを心がける、天気中心に変えられました。

 苗の植え替えのあとに雨の降るのが良いと言っても、雨にもいろいろあります。ザーザーと激しく強く降る土砂降りもあれば、シトシトと長く静かに降り続ける雨もあります。そして苗の植え替えには、シトシト降る雨がとても優しく最高です。 シトシトと長く降る間に、雨は土に深く浸み込んでいきます。すると植え替えた苗の根は、土になじんで伸ばし始め、新しく植え替えた畝で元気に育ち始めるからです。私が雨の予報を見て、タイミング良く苗の植え替えをしたら、待望のシトシトと長く優しく降る雨が降ってくれたのです。嬉しくて、私は主に感謝しました。

 

2 シトシト降る雨から示されたこと

 シトシト降る雨に喜び感謝していて示されたことがありました。

 シトシト降る雨は信仰生活と同じだなあということでした。毎週礼拝を守り、心に御言葉を戴くことや、日々お祈りをして、また聖書を読んで心に御言葉を戴くことと同じだなあということでした。

 シトシトと降る雨が土の中に少しずつ浸み込んでいくように、毎週、主日礼拝を守ること、そして、日々、聖書を読みお祈りすることは、聖霊が心に少しずつ深く浸み込んでいくように思われたのでした。

 目に見える急激な変化はありませんが、目には見えない土の中で根が伸びるように、信者の心の中に聖霊が注がれて、信仰が深められていくように思われました。

 

3 聖書のことば

 最初に掲げたホセア書には、 「我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる。(63 

 とあります。主を知ることとは、主日礼拝を守り、日々聖書を読み、祈ることで心を主に向け直すことです。

 主の愛と真実に心を向けることです。

 降り注ぐ雨のように主が訪れてくださるとは、主が聖霊となって私たちの心に来てくださることだと思います。

ヨエル書(3:1-2)に「私はすべての人に霊を注ぐ。その日、私は奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。」とあり、主を信じる者すべてに聖霊を注いでくださることが示されています。

また、コリント第二4:18には、「私たちは見えるものではなく、見えない物に目を注ぎます。見える物は過ぎ去りますが、見えない物は永遠い存続するからです。」とあります。主を知り、信じる者に目には見えない聖霊が豊かに注がれ、それは永遠の命に繋がることだと示されています。

 

4 まとめ

  わたしは、目には見えない聖霊を豊かに心の中に注がれて、信仰が深められていきたいと願います。主日に礼拝を守り、また、日々聖書を読み、祈る生活を通して主を知り、降り注ぐ雨のように、主から聖霊を注いでいただいて生きていきたいと願います。

2023.11.26 主日礼拝の前講として語られた内容です。)

 

 


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 「祈りの友 合同集会」

・毎年9月23日(休日)の開催で、今年も同じ日です。

開会は、午前11時。8月号のお知らせでは、開会を午前10時と書きましたが、ミス入力でした。

最初の一時間余りは、県外からの参加者とオンライン参加の複数の方々による祈りに関する聖書からの短いメッセージがなされます。

12時〜昼食休憩と交流の時間。

13時〜自己紹介、最近の生活について。祈りに関して心にあること、御言葉などを語り合う。交流のひととき。

15時〜午後三時の祈り

16時閉会

〇主日礼拝やいくつかの家庭集会に参加されている方々で、「祈りの友 合同集会」の当日にスカイプがオンラインとなっている方々は、参加の希望があるとみなして、呼び出しますので準備をお願いします。

 そして、すでに参加予定の方々は、次の林晴美さん宛てに、参加希望との連絡をメールとか電話でしていただくことが好都合です。

 その連絡なくとも、予定してなかったが、当日参加できるようになった方々も、前述のように、オンラインとなっていれば接続します。

 また、長時間なので、全部参加できない部分参加も可能です。スマホなども持ってない方は電話接続も可能。

 昼食希望の方も連絡下さい。

ご自分で弁当持参も可です。

 

 

〇徳島キリスト教霊園合同記念礼拝

 コロナのために、中止となっていましたが、今年は開催となりました。

 

・日時…今年の113日(日)の午後2時開始。

・場所… 眉山の 徳島キリスト教霊園(納骨堂)

★注意事項…車の駐車は、眉山の車道を通行する一般の車の妨げにならないように、 霊園の少し先まで数百メートルを進んでそこで方向転換できるところがあるので、そこから 霊園前まで戻って山側に一列に駐車するようにしてください。

 

 


リストボタン集会案内

〇 主日礼拝 毎週日曜日午前1030分から。徳島市南田宮1丁目の集会所とオンライン併用。

以下は、天宝堂集会だけが対面とオンライン併用で、あとは、オンライン(スカイプ)参加希望の方は、吉村まで連絡ください。

〇 夕拝…毎月第一、第三火曜日夜730?9

〇 家庭集会

@ 天宝堂集会…毎月第二金曜日午後8時〜930

A 北島集会…・第四火曜日午後730?9時、

・第二月曜日午後1時〜

B 海陽集会…毎月第二火曜日 午前10時〜12

 神は豊な憐れみによって私たちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活により、生き生きとした希望を与え、天に貯えられている朽ちることなき財産を受け継ぐ者として下さった。(ペテロ書1の3〜4)あなたの御言葉は、天にて永遠に定まっています。あなたの真実は、永遠です。(詩編119の89)

あなたの御言葉はわが足の灯火、わほが道の光。(同105)