いのちの水  2025年3  769

十字架の言葉(福音)は、滅びゆく者にとっては

愚かなものであるが、

私たち救われるものには、神の力である。

                                                 (Tコリント1の18

 

目次

・ この世界における

真実の支配者とは誰か

・心に残った御言葉

   井関次郎 (埼玉)

   大塚正子(北海道)

・お知らせ

 近畿無教会集会

集会案内

 

この世界における真実な支配者とは誰か

 

 現代は、ロシア、アメリカ、中国という世界の大国の動向が、世界の動向をも支配しかねない状況である。

つねに、この三国の支配のトップに立つ大統領などが頻繁にマスコミに現れるゆえに、この世界の支配者、王というべきはこうした大国の支配者なのだという錯覚に陥りやすい。

 そして何者が作ったが不明な虚偽の情報が国際的な場においても大量に流されていくことによって、真実ということが根底から揺さぶられるという前代未聞の状況となっている。

 虚偽の情報をたくみに用いる者、その者たちが歴史の流れとか永遠に存在している真理といったことに全く関心もなく、ただインターネットやAIなどを巧みにあやつる者たちが、政治や社会にも大きな力を及ぼして支配するということが起こりつつある。

 そのような状況にあって、何が真実なのか、そして何者が本当にこの世界を支配しているのかー言い換えると真の王というべきものは何者であるのかを正しく知ることがかつてないほどに重要となっている。

 この世界ははるかな昔から、さまざまの支配者があって、王、皇帝、大統領、天皇、国家主席などという名称がある。

 その見える世界と目にみえない世界(霊的世界)の双方においての王ということについて最も深い洞察をしるした書が聖書である。

 聖書においては、はるか三千年も昔から、真の王とは何か、人間が王となるとどのような害悪が生じるかなども鋭い洞察を示している。

 

・…主よ、あなたは永遠の王座についておられる。(詩編1016、102の13

 

 現実の王がいて支配権をふるっているただ中にあって、このように、目にみえない神こそが、滅びることのない王座についている王なのだ、と歌っている。

 聖書における詩はこのように、ほかの国々の古代の詩と異なり、単なる男女の愛とか自然の美、あるいは古代神話の神々をうたったものとは大きくことなり、時の政治、社会状況をも高所から見つめ、そして永遠の視点から見た洞察、魂に深く示された啓示、本当の真理、救いはどこにあるのかが随所で記されている。

 この視野の広大さ、深さ、しかもその高さには驚かされる。

 その一端は、次に引用する旧約聖書の詩編と訳される詩集によっても明らかである。

・…神は、全地の王、ほめ歌をうたって、告げ知らせよ。(詩編47の8)

・…王権は主にあり、主は国々を治められる。(詩編 2229

 これを、日本の最古の歌集たる万葉集の最初の歌(*

と比較すればその違いがいっそう浮かび上がる。

 

*)篭もよ み篭持ち 堀串もよ み堀串持ち この岡に 菜摘ます子 家聞かな 告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居れ しきなべて 我れこそ座せ 我れこそば 告らめ 家をも名をも

 

・現代語訳…篭持つ、美しい篭を持つ娘さんよ。堀串(ふくし)(土掘るための道具)もね、美しい堀串を持ち、この岡で菜摘みをしている娘さんよ。どこの家の子か聞きたい。教えてくれないか。この大和の国は私こそおしなべて統べ、支配の中心に座っている者だ。だから聞かせてくれないか。娘さんの家も名前も。

・この和歌の作者たる雄略天皇が野原で菜摘みをしている娘に声をかける場面を詠んだもの。日本における王とは、天皇であったが、その王の歌が自らの支配とこのような野にいる女性への求愛という内容になっている。

 

 聖書においては、これらの詩編のように、旧約聖書においてすでに、目には見えない神こそは全世界の王だと示されていた。

 神は目に見えない存在であるゆえ、現代の我々なら、そのような目に見えない存在が王だ、などという発想は到底生まれない。

 この詩の作者の当時、現実の王がいたのであるが、それでも、神こそは全地の王だ、などという発想はどこからきたのだろうか。

それこそ天来の啓示であった。

 これらの詩で、主こそは、王権をもった存在で国々を治めているという認識が当然のように言われている。

 また、多くの詩編という詩集の多数が王ダビデであり、広大な地域を支配するようになった王であった。それにもかかわらず、この詩編22の作者も、ダビデとなっているが、神こそは真の王だと確信していたのがうかがえる。

 それは目で見えない神の支配を深く実感していたからこそである。

 王という地位の者が生まれる以前には、士師(*)という指導者たちがあった。彼らは、人々の問題の裁きを担当したり、敵との戦いを指揮したこともあった。

 

*)士師という名称は、中国語の聖書で用いられた名称をそのまま日本語訳聖書に取り入れたことによる。士師とは中国の古代に刑罰などを課した役人で、司法官。英語聖書では、Judges であり、裁き人 の意味となっている。

 

そして、その時代において 士師とは、裁判あるいは審判をする者という意味であった。そのような時代の終わりころに、人々が王を求めた。

 当時の指導者サムエルであり、幼な子のときから神に選ばれた特別な預言者でもあったが、高齢となってその勤めに息子たちを任命したが、彼らは不正な裁きをするようになった。それゆえ、人々はほかの国々のような王を求めた。

 そのとき、神は言われた。

 

…人々が退けたのは、私であり、彼らの上に私が王として君臨することを退けたのだ。 彼らをエジプトから導き出してから今日に至るまで、彼らのすることは私を捨ててほかの神々につかえることだった。…            (サムエル記上8の7)

 神は、このように、真正の王とは、人々を正しく裁き、導く神であることを年老いたサムエルに告げた。

 そして、神は人々が求める王は、どのようなことをするかを知らせた。

王は、人々から労力を奪い、兵士とし、また武器の生産に使い、生産物を徴収し苦しめることになる。そしてその王の奴隷とされてしまう。人々は自分が選んだ王であったが、その苦しみに泣き叫ぶようになる。

 このように、人間が王となり、人々の支配者となるとき、本当の幸いは消え失せることが預言された。

 このような三千年ほども昔において、本当の王、人々を正しく支配し導く者は神であるということが明確に記されている。

 その後、サムエルは、隣国がせめてきたとき、 次のような警告を人々に与えた。

…あなた方の神、主があなたたちの王であるにもかかわらず、「いや、王が我々の上に君臨すべきだ」と、私(預言者サムエル)に要求した。

      (サムエル記上1212

 このような古代に記されていることが、現在もそのまま あてはまっている。

 王ーこの世の支配者に従うとき、兵士として使われ、武器の生産にも用いられ、戦争に駆り出されて敵対するとされた人を殺傷することを命じられる…等々。 

 聖書においては、何者が王であるか、ということは根本問題ともなっている。

 それゆえ、福音書の最初のマタイ福音書のはじめの部分にイエスの誕生のことが記されているが、そこに東方の博士たちが、はるか遠くの東方の地から来て、「ユダヤ人の王として生まれた方はどこにいますか。私たちはその星を見た」と言った。

 ここでも、イエスの地上生活の最初に出会った異邦人が、「王として生まれた」と言っているが、ユダヤ人でさえそのことに気づかなかったのを、はるか遠くの博士たちが言及している。

 ここにも、「イエスは王」ということの重要性が暗示されている。

 そして、その生涯の終わりは、十字架にて人々の悪意と嘲笑のただなかで、釘付けにされるという耐えがたい苦しみをもって処刑されるというそのただ中に、「イエスが王」という言葉が特にヨハネ福音書に繰り返し出てくる。

  そして、聖書の中にもたびたび、「ダビデの子」という表現があらわれる。それは、実際の子でなく、子孫という意味で用いられている。ダビデとはイエスより千年ほども昔の王であり、また歌人であり、楽者でもあり、勇気と大胆さに満ちた戦士であった。

 その子孫にメシアがあらわれると預言されていた。それは概略次のような内容である。

…エッサイ(ダビデの父)の株から一つの芽が出て、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。

それは、叡智の霊…主を知り、畏れ敬う霊…に満たされる。

弱き人のために正しい裁きを行い、圧迫された人を正しく護る。

正義と真実がその人にある。    (イザヤ書11の1〜5より)

 このように、将来この世にあらわれる救い主キリストこそは、神の霊を受けた御方である、弱きを顧みる愛の指導者であり、イエスより七百年ほども昔に、ダビデ王の子孫として生まれると真正の王だということが預言されていた。

 そのダビデは詩編に多くの詩が見られるように、詩人でもあった多才な王であったが、王となって安泰の状況が訪れてから、致命的ともいうべき大罪を犯してしまう弱さがあった。

 このことは、いかに人間が信仰を与えられ、かつ能力もさまざまに秀でていたとしても、なお、サタンの攻撃を免れることはできないということを示している。

 人間とは本質的にそうした弱さを深く宿している存在だということが、このダビデ王の姿に示されている。そのような弱き罪ふかき人間の根源に巣くう闇の力そのものを打ち砕くために、イエスは十字架にかかられた。そしてただ信じるだけで、だれでも、闇の人から光の子へと変えられる道を開いて下さったのであった。

 イエスが王である、ということは、そうしたダビデの致命的な欠点を越え、同時に、ダビデが秀でていた武力による勝利でなく、信仰とそこから与えられる聖なる霊と神の言葉によって戦う霊的戦士の指揮者 、王としての存在なのであった。

 さらに、この地上の王権など、時間が経てば必ず滅びゆく影のようなものであるが、キリストの王権こそは、永遠に存在する。神に直接的に由来するからである。

 イエス・キリストといえば、多くの人にとっては、聖人、立派な教えを説いた人、奇跡を行った人、十字架で殺された人というようなことが連想されるだろう。

 しかし、聖書では私たちが通常では思い浮かべない、「王」であるということがしばしば現れる。

 神とかキリストというとき、私たちはどのようなイメージを浮かべるであろうか。神については、創造主、全知全能、愛の存在、目に見えない存在などを思い浮かべるであろう。

 しかし、支配という言葉とか王という言葉はあまり、思い浮かべないであろう。

 しかし、神ははじめから私たちに神は王であることを示そうとされている。キリストについても、キリストはどんなお方か、と尋ねられるならたいていは、キリストを救い主と受け入れていない世間の人なら偉い教えを説いた人というのが最も多いだろう。キリスト教という名前からもそうした「教え」を説いた人、というイメージが浮かびやすい。

 しかし、神は私たちに単によい教えを説くというだけのお方ではないことを示して来られた。それは、新約聖書の一番最初にすでに見られる。 マタイ福音書のはじめの部分である。

 

…イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、見よ、東から来た博士たちがエルサレムに着いて言った。

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(マタイ福音書二・23

 

 何百年もの長い間、神の民には、ダビデの子孫から救い主が現れるという信仰があった。しかし、マタイ福音書によれば、最初にキリストの誕生を知らされたのは、はるか東方の国から来た博士たちであった。

 それはキリストが、神の民と言われるユダヤ人でなく、異邦の国々の人々によって受け入れられるということの象徴的な出来事であったと言えよう。

 そしてその博士たちは、キリストのことを単に、やさしい慰め主であるとか、教えを述べる人だとかいうのでなく、「王」だと啓示されたのであった。

 王、それは支配ということである。東方からの博士たちは、まったくユダヤの国のことはなにも知らなかったのであるが、生まれたイエスが「王」として生まれたということを、神から啓示されたのであった。

 これは、イエスは王であるということを、神は異邦人、世界の人々に啓示されるのだという預言的な出来事となっている。

 王なるキリスト、それは個人の罪を赦し、苦しみ、悩みを慰めてくれる愛に満ちたお方というイメージとはことなる側面を感じさせるものがある。

それは、悪の力をもその支配下におき、人間のすべてや世界全体を支配し、歴史を動かし、導いていく、さらにはこの宇宙全体をも支配しているお方という、壮大な存在を暗示しているのである。

 キリストがそのような絶大な力を与えられたお方であり、だからこそ王であるということは、一般的にはあまり気付かれていないようである。

 しかし、聖書をよく見ると当然のことながら、すでにイエスが王であることが繰り返し強調されている。

ことに新約聖書のヨハネ福音書で、イエスが裁判にかけられて、十字架刑に処せられるところの記述にはほかの福音書よりも、ずっと多く「王」という言葉が用いられている。

 イエスを裁いた、ローマ総督のピラトと主イエスの裁判の場での会話はつぎのように記されている。

 

…ピラトは、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。

イエスは答えた。「私が王だとは、あなたが言っていることだ。

私は真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。

真理に属する人は皆、私の声を聞く。」

    (ヨハネ183338より)

 

 そのあと、兵士たちはイエスをあざけり、茨の冠を作ってイエスにかぶらせ、そばで「ユダヤ人の王、万歳」といって平手で打った。ユダヤ人たちも、イエスが、王と自称したといって皇帝に背く罪を犯したと断罪した。

 総督のピラトは、ユダヤ人に「見よ、あなた方の王だ」というと、彼らは「殺せ、殺せ、十字架につけよ」と叫んだ。ピラトは「おまえたちの王を私が十字架につけるのか」と言った。…

 ピラトはイエスの罪状書きを書かせたが、そこには「ユダヤ人の王」とあり、それはヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で書かれていた。ユダヤ人の祭司長たちがピラトに「ユダヤ人の王」と書かずに「この男はユダヤ人の王と自称していた」と書いてくださいと希望したが、ピラトは、「私が書いたものは、書いたままにしておけ」と命じた。

        (ヨハネ19章より)

 

 このように、主イエスが処刑される場面の記述に、繰り返し「王」ということが出てくる。イエスを殺そうとする者、処刑に関わる兵士、赦そうとするローマ総督のピラト、そして主イエスご自身もそれぞれいろいろの思いで「王」という言葉を用いている。

 そしてピラトは、「見よ、お前達の王だ!」といったが、これは、その少し前に、主イエスを指して「見よ、この人を!」といったことと同様に、深い意味が込められている。主イエスこそ、私たちがどのような人生の場面においても、見つめるべきお方であることを、神がピラトの口を通して言わせているのである。

 しかし、現代の私たちは日常の生活において、新聞、ラジオ、テレビなどの、最近はパソコンからスマホその他で、「この人を見よ!」と毎日毎日見せつけられているのである。新聞は百五十年ほど前に、ラジオは今から百年前、テレビは七十年前から広く知られるようになっている。そしてパソコンは五十年ほど前に初めて世に出た。

 このように現在、世界の到る所で氾濫している情報のもとになっているものは、みなせいぜい百五十年ほどしかならない。

 これに対して、聖書の内容は今から三千年以上も昔に啓示されたことが記されている。

 あらゆる近代的情報機器が決して持つことのできない神からの直接的な語りかけは、何一つ機械、電気などもなかった時代においても現代以上に明確なメッセージ、神の国のよき情報が発信されていたのである。

 そして、神からの賜物を受けたごく少数の人が、その良き情報ー神のことばを受けとることができた。それが聖書に出てくる預言者であった。

 現代はそうした静かな世界とは全く別で、目に見えない莫大な情報がいまも空間を飛びまわっている。

 しかし、いくらそのような多様な機器と技術によるおびただしい情報で登場する人物を見つめていても、私たち自身の精神には、どれほど真実や無差別的な愛、弱き者への慈しみのようなものが増えるであろうか。

そのような本当に人間にとって永遠的に重要なものは、何も増大したりしない。単に目先の興味に振り回されているだけになってしまう。

 ヨハネ福音書において、「この人を見よ!」という言葉は、このような現代に生きる私たちにこそ、深いメッセージをたたえて投げかけられているのがわかる。現代のような、世界中の人間がつぎつぎと現れてくる時代にあってこそ、いっそう、ピラトの言った、「この人を見よ!」が重要性を帯びていくのである。

 私たちはたしかに、「この人」イエスを見つめるべきなのである。主イエスこそ、万人が見つめるべきお方であり、そこから神の国にあるよきものが注がれてくることになる。

 ピラトが、「見よ、お前たちの王だ!」と言った一言もそれと同様な意味をもって、現代にも語りかけていると言えよう。王、すなわち、真の支配者は、キリストなのだと。

 いつの時代においても、何者が支配しているのか、という問題は最重要な問題であった。日本においても戦前は、天皇こそが真の王であり、世界を支配する王になる存在なのだという宣伝をしきりに行った。

「八紘一宇」(*)という言葉はそうしたことを意味している。

 戦前のキリスト者たちが受けた迫害の一つは、キリストが王であるという信仰であった。当時の日本では、天皇こそが本当の王である、キリストが王であるとか、黙示録にあるように信徒も一時的にせよ、王のように支配するなどというのは、日本の国家方針と相容れない考え方だとして厳しく迫害された。

 

*)八紘(はっこう)のうち、紘(こう)とは、「つな」という意味の言葉で、八紘とは、もともとは大地にはり私た八本のつなを表す。そこから「大地の八方のはて」を意味する。

 1940年8月、第二次近衛内閣が、日本の国家方針は、八紘を一宇とすることだとして以来、しばしば用いられた。「宇」とは「家」を意味するので、この方針は、世界万国を日本の天皇の支配のもとに統合して、一つの家となそう、ということであった。それは、中国への侵略戦争をも正当化する考え方でもあった。

 

 このように、何者が王なのかという問題をめぐって、キリストこそ真の王なりと信じるゆえに、古代のローマ帝国のキリスト者への迫害となったし、日本の徳川時代から明治初期にかけての過酷な迫害も生みだした。

 またそのような社会的な問題にとどまることなく、個人の生活においても、何を自分の内なる王とするか、つまり何者に自分が仕えるのか、ということは日常生活や人生全体においてもきわめて重要な問題となる。

 あなたは、何を自分の王としているのか、何を自分がつねに敬い、心から従おうとする存在としているのかと尋ねられたら多くの人は何と答えるだろうか。

 それは、幼少の頃においては両親であり、学校の教師であるだろうし、友達関係では力の強い者であるかもしれない。

 大人になると、職場の上司であるかもしれない。また、夫とか友達など特定の人間に全面的に従い、仕えているという場合もあるだろう。また、長い病気になると、医者がそうした存在にもなりうる。

 しかし、心から信頼して仕え続けることができる存在は、人間ではない。人間は不正なことをすることもしばしばあり、不真実であり、弱い存在だからである。また何かの事故や病気ですぐに死んでしまうはかないものであるからである。

 本当の支配を永続的に続けることなどだれもできないのである。

 そうしたなかで、どこまでも仕え続けていくことができる存在、しかも何者をも支配できる力を持っている存在といえば、全能でしかも真実な愛そのものである神以外にはない。

 そのような神が自らの本質と同じ愛と力そのものである本質をあたえて、地上に送ったのがイエス・キリストであった。

 そのようなイエス・キリストだからこそ、人々は仕えていくし、そういうお方こそ、真の王であるということになる。

 聖書はまさにそのようなお方として、キリストを指し示しているのである。

 私自身の個人的な経験によっても、かつては、そのように仕えるべき存在がなく、自分中心の考えや感情、あるいは周囲の考え方などに無意識的に仕えていたのだった。

 ヨハネ福音書でとくにいわれているように、キリストこそ、万人の王、あらゆる支配者のなかの最高の支配者である。

 ローマ総督ピラトが、イエスの罪状書きに「ユダヤ人の王」と書いたが、それについて異論を出したユダヤ人達に対して、「私が書いたものはそのままにしておけ」と言ったが、それもたんにローマ総督ピラトがユダヤ人に出した命令にとどまらず、歴史のなかで、二千年にわたって実現されてきたのである。

 ピラトはもちろん自分が神の道具となっているとは知らなかったが、歴史のなかでたしかに、キリストが王である、ということは、大書されてきたのである。

 当時の人々は、ユダヤ人から出たただの人、処刑されてしまった哀れな罪人としか当時の人は思わなかっただろう。しかし神が、キリストこそは真の支配をされている王であると、人類の歴史のなかに書き込まれたのであった。

 このように、王であると強調されているイエスであるが、そのイエスは、嘲弄され、茨の冠をかぶせられ、平手で打たれ、鞭打たれて、重い十字架を背負わされて、処刑場への道をよろめきながら歩いていった。そこにはいかなる意味においても、王などということは感じられなかった。最も低いところまで、突き落とされた人間、もう一切の自由も奪いとられた死をまえにした哀れな人間でしかないと見えただろう。

 しかし、聖書は、そのような屈辱と弱さのただなかのキリストこそ、真の王であったと記しているのである。

 それは茨の冠ということが象徴的に意味している。茨をかぶせられるほどにあざけられ、見下され、苦しみを受けた。しかしそうした状況においてこそ、万物を支配されている王なのであると…。

 この世の王(支配者)は、敵と戦い武力で攻撃して多くを殺傷することによって王となったり、策略によって自分のライバルを排除していって王になる。しかし、キリストはみずからが人々から嘲笑され、見下され、重い傷を受けていてもなお、王なのであった。

 こうした性質を持つ救い主が現れるということは、キリストよりも五百年以上も昔に、すでに偉大な預言者イザヤによって預言されていた。(*

 そのお方が預言の通りにたしかに現れ、王という本質を持った救い主として地上に来られたのである。

 

*)彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、

多くの痛みを負い、…

私たちは彼を軽蔑し、無視していた。

彼が担ったのは、私たちの病であったのに、

私たちは、彼は神の手にかかって

打たれて苦しんでいると思っていた。…

私たちの罪のすべてを

主は彼に負わせられた。

彼は、捕らえられ、裁きを受けて

命を奪われた。

多くの人の過ちを担い

背いた者のために執り成しをしたのは

この人であった。(イザヤ書五三章より)

 

 また、ヨハネ福音書においてもここにあげた、福音書の終わりの部分だけでなく、その最初から、キリストが王であることを述べている。

 

…その翌日、イエスはフィリポに出会って、「私に従いなさい」と言われた。…フィリポはナタナエルに出会って言った。

「私たちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」

するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。

 イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうして私を知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「私は、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。

ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子(*)です。あなたはイスラエルの王です。」

     (ヨハネ1・4350より)

 

*)聖書において「神の子」とは、神が創造された子供という意味でなく、神の本質をそのままうけついだ存在という意味であり、神だとしていることになる。

 それゆえに、イエスが自らを神の子だとしたことを神を冒涜するとしてユダヤ人たちが石で撃ち殺そうとするほどであった。(ヨハネ103336参照。)

 

 これはヨハネ福音書の第一章の終わりに出てくる場面である。十二弟子の筆頭格であったペテロですら、イエスの数々の奇跡や、不思議の力、深い教えを聞き、もっと後になってようやく、イエスが「神の子」であること、すなわち神と同質のお方であることを知った。にもかかわらず、ここで現れるナタナエルは、右に引用した部分でわかるようにほんの一度の出会いで、主イエスがいっさいを越えて見抜くお方であることを知って、ただちにイエスのことを「神の子」であり、しかも「王」であることを啓示されたのである。

 ヨハネ福音書ではこのナタナエルの言葉もまた、一種の預言となっている。それはたしかに真理であり、以後の歴史も、イエスが神の子であり、王であることを啓示されて信じる人が、実際に無数に生じていったのである。

 私たちが用いてきた讃美歌には、「君なるイエス」とか、「イエス君(きみ)」といった言葉がしばしば出てくる。これを、親しみを込めた表現と思っている人もいるかも知れないがそうではなく、「君」とは、「王」という意味を持っている。それゆえに「君主」という言葉がある。だから、「君なるイエス」とは、「王であるイエス」という意味なのである。

キリストが王であるということ、あらゆる支配の力を持っておられることは、旧約聖書の最初の書物である、創世記にも閃光のように示され、ダニエル書においては、はっきりと記されている。

 まず創世記の箇所を見てみよう。その創世記では、キリストを指し示している不思議な人物が現れる。(*)それは、メルキゼデクである。これは、「正義の王」(**)という意味であり、新約聖書のヘブル書では、これがキリストを指し示していると、繰り返し強調されている。

 メルキゼデクとは不思議な人物で創世記の一箇所に現れる以外には、旧約聖書の分厚い内容のなかでは、あとは詩篇に一度出てくるだけである。

 ここに、キリストが初めて「王」として預言的に言われている。

 このように、このメルキゼデクという人物によって、はるか後に現れるキリストが、人間の罪をぬぐい去って、神と人間の間を橋渡しする存在(祭司)であるとともに、支配する権威を与えられた王でもあるということが、一瞬のきらめきのように暗示されているのである。

 

*)創世記十四・1724

**)ヘブル語で、メルキは王、セデクは、正義という意味。

 

 つぎに旧約聖書のダニエル書はどうであろうか。つぎの箇所がよく知られている。

 

…夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り、日の老いたる者(神)の前に来て、そのもとに進み 権威、威光、王権を受けた。

 諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続きその統治は滅びることがない。

    (ダニエル書七・1314

 

 ダニエル書は独特の預言的内容に満ちているが、ここで言われているのは、「人の子」のような者が、神のところに行って、永遠に朽ちない支配の力、王としての権威を受けたということである。ここに出てくる「天の雲に乗って」という表現は、主イエスがそのまま、ご自身の再臨のときについて語ったときに用いている。また、このダニエル書のこの箇所で、「人の子」と言われている者が、神のまえに行って永遠の王権、支配の力を与えられたとある。

 主イエスは地上で福音を宣べ伝えておられたとき、自分のことを「人の子」といわれたが、それは単なる人間の子供といった意味でなく、このダニエル書で言われているように、神から特別に永遠の支配の力を受けた存在、すなわち王であることの称号として用いられているのである。

 こうしてキリストは、すでに旧約聖書の時代から、神から、世界を支配する王として預言されていたと言える。

 ヨハネ福音書において、キリストの罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書かれていたが、それがわざわざヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で書かれたと記されている。殺してしまう人間の罪名をどうして三ヶ国語で書いたりしたのか、不可解なことである。

 そしてそんなことは、キリストが殺されるということに比べたらどうでもよいことに見える。ヨハネ福音書でなぜこのようなことに強調が置かれているのだろうか。

 それは、ここにも神の不思議な御手のはたらきがあるのだと言おうとしているのである。

 神はピラトの手を用いて、キリストが全世界の「王」であることを宣言したのである。

 ヘブル語で書かれた旧約聖書は、現代では、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の三つの宗教の教典となり、世界を覆っている状況となっている。

 また、ラテン語は古代のローマの言語で、現在のフランス語、スペイン語、ポルトガル語、イタリア語などはそのラテン語から生まれたものであり、世界にその影響は及んでいる。またギリシャ語は、当時の世界語であり、哲学や自然学、政治学などさまざまの分野でギリシャ語の書物は大きな影響を及ぼしていった。

 こうしたことから、イエスが「王」であるという罪状書きがこれら三つの言語で書かれたということは、全世界に、イエスが王であることが宣言されていくことの預言でもあったのである。

 このことは、以後二千年の歴史を通じて徐々に実現していくことになった。

 キリスト教が広まるとき、最初にユダヤ人から迫害があった。ついでローマ帝国からの長期にわたる迫害が続いた。

 しかしそれらは、目には見えないが、王たるキリストの力によってその迫害の力は除かれ、キリスト教は広く浸透していった。

 はるか後に日本に伝わってきたときも、江戸幕府は全力をあげて、キリスト教を撲滅しようとした。けれどもやはり、三百年にわたる迫害も止めざるを得なくなった。それは目には見えないが、キリストが王としてこの世界を、御支配なさっている証しだと言えよう。

 将来の世界はどうなるのか、核武装国の増大、飢餓の問題、環境問題、地震や洪水などの災害、各地でのテロや内戦、あるいは世界的な規模で生じるかも知れない紛争などなど考えると、人間の理性などで考えるだけでは、およそ解決不能だと言わざるを得ない。地球そのものも未来は消滅してしまうと言われている。

 こうした答えの与えられない状況にあって、聖書はこうしたグローバルな問題、はるかな未来の問題も視野におさめて答えを人類に与えているのである。それこそは、キリストが王であり、いっさいを支配しているゆえに、キリストに委ねることによって私たちはその大いなる力によって救い出される、霊的な「新しい天と地」が訪れるということを信じることへと導かれる。その信仰以外には、解決はなく、また将来への明るい展望は決して開かれないのである。

 キリストのことを、聖書の最後の書である黙示録では、キング オブ キングズ(King of kings)と言われている。(黙示録十九・16)まさに、キリストは、あらゆる種類の支配者のすべての上に立つ、真の王なのである。それは単に、国々の支配者の上にあるというにとどまらず、自然を動かす力、宇宙を動かしている法則の上にもある。そうしたあらゆる支配の上にあるのがキリストの支配なのである。

 キリストは昔も今も、そして将来も真の王であり続ける。しかしその王は、茨の冠をかぶせられ、侮辱され最も低いところまで降りて行かれたお方であった。最後にエルサレムに入って行かれたときも、旧約聖書の預言通りに、わざわざ小さいロバの子に乗って入っていったのである。

 

…シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、

柔和な方で、ろばに乗り、

荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』

       (マタイ215

 

 このように、キリストは王であったが、たしかにみすぼらしい小さなロバの子に乗って来られたのである。しかしそれもすでに旧約聖書に預言されていた。この新約聖書にある言葉は、旧約聖書のゼカリヤ書九章九節からの引用なのである。王とか皇帝など支配者は、ふつうはみごとな白馬にまたがって、家来を従え、堂々とやってくるものである。それといかに対照的であることだろう。

 私たちに与えられた王とは、そのような最も低いところまで来て下さる王である。私たちがどんなに低くされ、人から理解されず、また侮辱されることがあろうとも、主イエスはそこにも降りて来て下さる。そして落ち込んでいる私たちに、王の力を与えて立ち上がらせてくださる。

 病気で一人苦しむとき、孤独に悩み、将来に絶望するような事態に直面してもなお、そこに主イエスは降りてきてくださる。

 そして、悲しみに沈む心や孤独に悩み、体の痛みに耐えがたい思いをする者の心の内にまでも来て下さり、神の国の力を与えて下さる。一番の底辺にまで来て下さる王、それこそが聖書で記されているキリストなのである。

 


心に残っている御言葉 

         井関 次郎(埼玉)

 

 今日の心に残っている御言葉でございますが、私が選んだのは、非常に有名な第一テサロニケの信徒への手紙5章16〜18節です。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

 私は日頃あまりにも喜び、感謝する事の少ない人間であります。何かあるとすぐにその逆の不平と不満の言葉が出てきます。しかし、信仰の熱い人ほどこの言葉が数多く飛び出してくることに気づかされます。ということは、イエスキリストの十字架によって示された神の愛を知り、その愛に心が満たされている人は心の内側から喜びと感謝があふれてくるのではないでしょうか。

 この言葉では十年以上前の2009年に天に召されました、松田敏子さんという方を思い出します。松田さんとは2〜3回程度、浦和キリスト集会に来られた時にお会いしたことがありましたが、あの方は本当に喜びと感謝に満たされた人であったことを思い出しました。

 聖書には新旧約共に喜び感謝という言葉が随所に散りばめられており、往々にしてこの二つの言葉が一対になったような形で出てきます。これは真心からの信仰を持つと自ずと喜びと感謝という言葉が同時にあふれでるようになることを示しているのだと思います。内村鑑三の本を読みますと喜びと感謝という言葉がかなりの箇所でほぼ一緒になって述べられているのに気づきます。

 聖書でのほかの箇所での例を2〜3挙げますと、フィリピの信徒への手紙4章4〜6節「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」

 第一ペテロの手紙1章8節には「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」

 最後に詩編の28編7節「主は私の力、私の盾、私の心は主に寄り頼みます。主に助けを得て私の心は喜び躍ります。歌をささげて感謝いたします。」などがあります。

 あるキリスト者は、「感謝は人の心に咲く花のようなものです。この感謝の花は、高ぶりの石がゴロゴロしてるような人には咲きません。へりくだる人には神から絶えず恵みを受け、心は耕されて喜びと感謝の花がいっぱい咲くのです。」と言っています。その通りだと私は思います。私もいつも喜びと感謝に満たされる人でありたいと願って、これからの人生を送りたいと切に願っております。以上でございます。ありがとうございました。

 

心に残っている御言葉 

      大塚 正子(北海道)

 

「光は暗闇の中で輝いている」      (ヨハネ1の5)

「明日のことを思い煩うな」             (マタイ6の25

 

 私の心に残る御言葉として、今日は、この二つを、私は今日お話ししたいと思いました。

 私はこの6月末から体調に異変があり、そして今ようやく日常に戻りつつあります。21年間、中途失明者だった夫、そして透析のため、長時間を要する定期的な通院が必要であった夫を支えてきましたが、先ごろ、夫を天に送りました。そして再出発しようとしていた矢先のことでした。

 突然に右首筋から右足先まで激痛が走って身動きがしばらくできなくなりました。今まで自信を持っていた身体だったのです。夫の突然の発病以来、御言葉を身に着けていようと思っていたけれども、いざそうなるとなかなか苦しい中で思い出すことができない時がありました。

 しかし、「光は暗闇の中で輝いている。」(ヨハネ1の5)に心が支えられ、そして「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」(マタイ6の25)「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6の34)この御言葉が心によみがえって、そしてそれを通過することができました。

 そしてまた夫の透析を持ちながら、二人でイスラエル旅行に。本当に恵みをいただいたとき、そして山上の垂訓に立ったのを思い出して、「心の貧しい者は幸いである」(マタイ5の5)という御言葉は私にとって未消化だったということを心に突き刺さりました。

 そして主人の遺構の中から、「心の貧しい者。心は心砕けた者。また赦されるために罪の自覚を持った者というのが心の貧しい者である。」と書かれていました。そして、「これは原文に忠実に訳すと霊に貧しい者という意味だ」ということが、遺構の中から見つかりました。 私はこの苦難を体験して、これから御言葉を大切に、そして旧約の天地創造から読んでいこうかという思いが起こされました。旧約から新約につながるということ、そして私はその聖霊の導きによって、今この恵みをいただいていることに感謝して、これから歩みたいと思っています。

 そして今「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」(ローマ1212)という御言葉をいただいて、これから歩んでいきたいと思っています。以上です。

 


お知らせ

 

〇近畿無教会集会

 121日に一回目の近畿集会準備会が持たれ、次のように決定されたとの連絡をうけました。

・今年のテーマ

「福音の希望ーコロサイの信徒への手紙に学ぶ」

・日時  2025年5月10日(土)午後1時〜11日(日)午後1時。

・場所…関西セミナーハウス

606-8134 京都市左京区一乗寺竹ノ内町23

TEL075-711-2115

 交通:JR京都駅から

○地下鉄烏丸線 北山駅16分下車 2番出口、 タクシー約10

○市バスD系統に乗車、約50分。 「修学院道」下車 徒歩15

 

会費:全日参加 一万七千円

一泊3食、11日の昼食代も含みます

部分参加 二千円

日曜昼食 一一五〇円

・必要な方は申込の時にお知らせ下さい。

学生 半額

申込要項:同封のハガキ、メール等でお申し込みください。

申込先: 宮田咲子

589-0004 大阪狭山市東池尻1-2147-1-1-114

会費は郵便振替にて

郵便振替番号 00980-2-246936

加入者名 宮田咲子

締め切り:331

*近くに食堂はありません。弁当持参の方は会場で食べていただけます。

*宿泊、シングルご希望の方は二千円プラスとなります。

 

プログラム 予定

10日(土)

12:3013:00 受付

13:0014:10 開会礼拝

聖書講話 木村護郎クリストフ

14:2015:00  賛美タイム

自己紹介・証(1)15:00?15:30

休憩・写真撮影 15:3018:00

自己紹介・近況報告(2)

参加者全員

ギター、オカリナ、賛美、コーラスなど

18:0019:30 夕食・自由時間

19:3020:40  夕拝

グループに分かれて

21:0022:00 若者の会(希望者)

11日(日)6:307:30

早朝祈祷会 散歩

7:308:50 朝食、自由時間

8:5011:00 主日礼拝

聖書講話 (1) 小舘美彦

聖書講話 (2) 吉村孝雄

11:2012:20  閉会の集い

参加者の感想・分かち合い

12:20?13:20 昼食

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〇キリスト教独立伝道会派遣で、今年の8月17日の主日礼拝の特別講話として、登戸学寮長の小舘美彦さんが来会、 また来年の伝道会主催の冬期聖書集会も徳島で開催されることになりました。

日程:2026年110?11?

 


集会案内

 

〇 主日礼拝 毎週日曜日 午前1030分から。徳島市南田宮1丁目の集会所とオンライン併用。

以下は、天宝堂集会と、第四火曜日の北島集会は対面とオンライン併用。海陽集会はオンライン(スカイプによる)集会。参加希望の方は、左記奥付の吉村まで連絡ください。

〇 夕拝…毎月第一、第三火曜日夜730分〜9

〇 家庭集会

@ 天宝堂集会…毎月第二金曜日 午後8時〜930

A 北島集会…・戸川宅にて(対面とオンライン併用) 第四火曜日13時〜14時半

・第二月曜日 午後1時〜

B 海陽集会…毎月第二火曜日 午前10時〜12