今月の聖句 |
1999年10月 第465号・内容・もくじ
ゆだねられたものを用いる・タラントのたとえ・ |
秋色深し
モズは鳴き、ススキの穂は風に揺れ、クリは実り、柿は色づいている。風もさわやかさを増し、青空にも秋らしさが満ちてきた。自然のたたずまいは、毎年同じように繰り返されていく。そのような自然と比べて、人間の世界では、かつて元気であった人も老年となり、病気がちとなり、さらに先輩も一人去り、二人去っていく。
時間の大きい流れの中で私たちはすべて飲み込まれ、消えていくように見える。
しかし、そのなかで目には見えない大きい流れ、神の国に向かう流れのなかに私たちは活かされていると信じることができるのは何と幸いなことだろう。
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている。(ローマの信徒への手紙十一・36)
雲と創造
ある老人が、ある日の雲の変化に満ちた美しい姿を見て、こんなすばらしい色や形は人間では決してできないと感嘆した。
雲ほど神の日々の創造力をまざまざと身近に知らせてくれるものは少ない。
神ははるかな時間の彼方に宇宙を創造しただけでなく、現在も日々無数のものを創造しつつある。それは人間の心に、自然のなかに、社会の流れや歴史のなかに見ることができる。
雲は背後の青空や朝夕の赤く染まった空とともに、その姿、色、動き、力などによって大空全体に、日々壮大なスケールをもって無限の創造のエネルギーを目で見えるかたちに繰り広げている。それは、日々、新しい創造をなしつつある神からの私たちへのメッセージでもある。
権威なき時代に
近ごろは、学校でも授業が成り立たない学級崩壊という現象が増えているという。最近も、ある中学生から、生徒が授業中に携帯電話を使ったり、おしゃべりしたりするクラスの現状を聞いたことがある。
教育において教師の権威がなくなり、教師が児童、生徒と同じレベルになって単に、子供の友達のような状況となりつつある。
現在、権威喪失の時代にあって、日本ではふたたびまちがった人為的な権威を教育の場にも導入しようとしている。国旗、国歌を敬えとかの命令によった国家的権威を児童・生徒の心のなかに持ち込もうとしているのもその一環である。
しかし、そのような本質を外れた発想では、かえって児童・生徒の精神的空白と混乱を増し、ゲームや俗悪なマンガ雑誌あるいは、性的快楽などに興じる人間をふやし、あるいはあやしげな宗教教祖などを崇拝したりするまちがった権威がはびこるだけである。
人間的な権威、たんに年齢が上だとか、立場が違うとか、地位が上であるとかの権威などはいまも昔もいくらでもある。そしてそうした権威は、かつては、制度や法律などで人為的に作り出され、あるいは伝統や長年の習慣として続いてきた。
江戸時代には士農工商といった身分差別を徳川幕府作り出したし、戦前では、天皇に生きている神であるという最高の権威をあたえ、それに従うことが強制されていた。また、両親や教師の権威も当然のこととして続いてきた。
戦後は、民主主義の考えが浸透し、人間はみな同じであるということが当たり前となって、かつて人間が造りだした制度による権威は相当失われていった。それとともに、およそ権威など存在しないのだという誤った考えが浸透していった。
しかし、今も昔も権威は揺るぎなく存在している。それは、人間が造った権威でなく、宇宙の創造主である神が持っている権威であり、真理に立つ権威である。私たちが真理に結びついているとき、自ずから権威は生じる。
それは真理は地位や教養、あるいは年齢にかかわらず宿ることができる。主イエスは、わずか三十歳ほどであったが、周囲に驚くべき権威を持っていた。
そのことは新約聖書にも多くの箇所で記されている。
あなたがたは、キリストにおいて満たされている。キリストはすべての支配や権威の頭である。(コロサイ書・二・10)
人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。(ルカ福音書四・32)
人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」(マルコ一・22,27)
主イエスの時代にも、祭司長とか長老、聖書学者、ローマ総督などいろいろの権威をもった者がいた。そしてそうした人間的権威によって、イエスを捕らえて殺してしまった。
けれども、かれらの権威は時の流れとともに跡形もなく消え去った。そして後に残ったのは、キリストの権威だけであった。キリストの権威は神から来ていた。神は永遠であるゆえに、主イエスの権威もまた永遠であり、過去二千年を経てもなおその権威は揺らぐことなく続いている。
権威の失墜した現代において、キリストが持っておられる本当の権威こそ、私たちに必要なものなのである。
眠りこんだ弟子たち
イエスは十字架につけられる前夜、弟子たちとともに食事をしたあと、
一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」(マルコ福音書十四・32ー34)
神の子である、イエスが「ひどく恐れて、もだえた」というのは、私たちには驚かされるような表現です。そんなことが主イエスにあるのだろうか、死人をよみがえらせ、ライ(ハンセン病)のような重い病人をいやし、中風の人をも一声で立ち上がらせることすらできた神の子が、そんな恐れやもだえて苦しむようなことがあったのかと思われます。
ここで、「ひどく恐れて」と訳されている原語のギリシャ語はエックサムベオマイという語で、マルコ福音書だけに四回用いられている言葉であって、この原語は驚くという言葉の強調形であるから、他の三回はすべてつぎの例でわかるように「非常に驚く」という意味で使われています。
墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。(マルコ十六・5)
群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。(同九・15)
そのため、このゲツセマネの祈りの箇所でも、「非常に驚いた時のように、心が乱れた」という意味が含まれていると考えられます。この箇所の他の福音書の並行箇所でもこの言葉は用いられておらず、マルコしか使わなかったということは、著者のマルコがいかに主イエスの苦しみ、悩みが並外れて深かったかを示そうとしているようです。
あとの福音書記者(マタイ、ルカ)たちはこの言葉の持つ強い表現になじめなかったからではないかと思われるほどです。
主イエスの生涯の中で最も激しい苦しみともだえにさいなまれていたその時、一番近くにいて三年間もともにしてきた弟子たちは、一人残らず眠っていた。しかも三度も見に来たがそのいずれも眠っていたと記されています。
ここに、いかに主イエスが孤独のなかで、生涯最大の苦しみを戦っていたかが浮かび上がってきます。そしてひどく恐れ、もだえるほどに苦しんだということから、私たちと同じ弱さを持っておられたということがわかるし、このような点において、イエスは神の子であるとともに、人の子でもあられたということがよく感じられるのです。
このことからつぎの聖書の言葉が思い浮かびます。
この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。(ヘブル書四・15)
大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。(ヘブル書五・2)
しかし、このようなゲツセマネの祈りにおける苦闘によって、主イエスは最終的な勝利をサタンに対しておさめることができたと考えられます。
この箇所をしずかに読むときに、多くの人が感じる疑問は、弟子たちはどうして、すべてが眠りこんでしまったのだろう。裏切ったユダを除いて十一人もいたら、一人くらいは、目を覚ましている者がいるだろうと思われるのに、ということではないかと思います。
主イエスが弟子たちと共に過ごす最後の夜に、主は、「弟子たちの一人によって裏切られる」と言い、「今夜、ペテロすら、明け方までに三度もイエスを知らないと否認する」と預言しました。しかし、そのような重大な時であるのに彼らはみんな寝てしまったのです。
ここに、弟子たちがいかに弱いかがはっきりと記されています。この記事の目的は、一つには弟子たちの徹底した弱さを記すためであったのです。ペテロは命がけでついていくと誓いました。
「あなたと共に殺されることになっても知らないなどと言わない。」(31節)とまで言ったペテロでしたが、いとも簡単に、眠りこけてしまったのです。
弟子たちに言われた言葉「ここを離れず、目を覚ましていなさい。」(十四・34)という言葉は、このゲツセマネの祈りのときに、弟子たちに言われた言葉であって、今の私たちには関係がないと思われる人が多いはずです。
しかし、主イエスは、この「目を覚ましていなさい」ということを、他の箇所でも、繰り返し言われています。
「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。
気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。・・
だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。
主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。
あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。
目を覚ましていなさい。」(マルコ十四・32ー36より)
なお、この「目を覚ましている」という原語はグレーゴレオー(gregoreo)といいますが、この言葉の重要性から、人名としてグレゴリウスという名が作られ、その名のローマ教皇は六世紀から十九世紀まで十六人もでており、またグレゴリウスという名のキリスト教思想家も多くいることも、この言葉の重要性を人々が認識していたからと思われます。
さらにこの箇所はつぎのようなことを知らされます。
ペテロは三度、主イエスを否認すると預言され、三人の弟子を連れていき、三度弟子たちのところに来て、祈りを促(うなが)された。このように、三という数字が多く用いられているのは、こうした悲劇的なこともすべて神の大きいご計画のなかにあったことを示していると考えられます。
神は、人間の目から見て、はなばなしい勝利と見えることでなく、かえって、弱い、情けないような実態のただなかにその勝利をすすめていかれるということです。
弟子たちも、主イエスご自身も最も深い弱さをまざまざと現したそのようなときにこそ、最も重要な勝利がおさめられたのがわかります。
ゆだねられたものを用いること ・タラントのたとえ・
「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。
それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。
早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。
同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。
しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。
さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。
まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』
主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』
主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、
恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』
主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。
それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。
さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。
だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」(マタイ福音書二十五章より)
このたとえ話はタラントのたとえとして、よく知られているたとえの一つです。これは、少し聖書に関わった人はよく知っているのですが、それにもかかわらず、このたとえの意味となると、わからないという人、あるいは、全くの誤解を持っている人が多いようです。
ことに、人間一人一人に与えられるタラントが違う、一人には、一タラント、別の人には、二タラント、他には五タラント与えられている人がいる。それなのにどうして自分だけ一タラントとしか与えられていないのか。一タラントしかもらわなかった人が怒るのは当然ではないか。自分も一タラントよりもずっと小さい額しかもらっていないといって、不満や不平を持ち続ける人がいます。実際、最近もある人から、そのような疑問を出されたことがあります。
まず、神様が人によっていろいろのタラントを別々に与えることについて考えてみます。私たちの身の回りを見てみると、自然の世界、例えば身近な植物などの世界を少し注意深く観察すると、それが実に多様なものであることに気がつきます。松、杉、クスノキのような数十メートルにもなる大木から、小さな下草、シダや日陰に生える苔のような目立たない植物、またバラやチューリップのような大きく美しい花から、イネ科の草のように花びらのない花、さらには水中に繁る水草など、驚くべき多様性を持っています。
さらに同じシダ類においても、数十センチ程度のシダもあれば、沖縄にあるヘゴの仲間など八メートルに及ぶものもあるわけです。
これらは神からそれぞれのタラントを与えられていて、そのような変化を保っているということができます。それらを比較して松や杉などは大木になるからそのような植物だけが価値あるもので、コケなどは小さく目立たないから不要だというようなことではなく、それらさまざまの植物が互いにいろいろの場所、環境において生育しているのです。
これらは大きな神のご計画のもとで、配置されているということができます。
同様に、人間についてもみんな同じように創造されているのでなく、一人一人異なるものが与えられていること、それぞれに多様なタラントが与えられているのがわかります。 このようなさまざまのタラントを与えられているということは、神の大きいご計画のもとで深い意味があると思われますし、人間についても実に多様な人々がいるのも全体としてみるとき、神がそうした変化のある存在を必要とされているからだと思われます。
五タラントもらった者は出て行ってそれを使ってほかに五タラントもうけた。そして二タラントもらった者も同様にして二タラントをもうけた。しかし、一タラントもらった者はそれを使わないで、かくしておいたというのです。
多くの日の後、主人が帰ってきて、精算を始めた。五タラント預かった者は、ほかの五タラントを差し出して五タラントをもうけましたとあります。
しかし、一タラント預かった者は、主人が「蒔かないところから刈り取る」人だと言ってそれが恐いから、土に埋めて隠しておいたと言い訳をしました。蒔かないところから刈り取るとは、主人は自分では働かないのに、収穫をみんな持っていってしまうというところから来ている言い方です。私たちが働いても結局は死んだら終わりだ、神がみんな持っていくのと同じだというような意味だと思われます。
しかし、この一タラント預かった人の主人に対する気持ちは、特殊な気持ちではなく、誰にでもあることと言えます。それは、神に対する誤解なのです。この一タラント預かった人が、主人に対して、どんなに慈しみをもっているかをわかろうとせず、ただ一方的に悪く思っているだけなのです。それは、私たちが信仰を持たない限り、私たちに何が与えられているかを感謝せずにただ、不満を持っている状態と同様です。私たちはだれでも、自分が与えられているものを感謝するどころか、反対に、自分にはこんなものしか与えられていない、他の人にはあんなよいものが与えられているのに、といって不満や不平がいつも出てきます。そして神からゆだねられた賜物を神の国に用いようとせず、それを地のなかに隠しておくという状態になってしまいます。
主イエスもだれもともしびを灯して隠しておく者はいない。その灯を机の上に置いて周囲を照らすのだと言われました。
この一タラントを預かった者は、主人への反感を持っていたこと、つまり神への反感を持っていたということです。実際、現在の日本人の何と多くの人たちが私たちの主人というべきお方でもある神への反感を抱いていることか、と思います。そうした神に逆らう心の状態こそは、罪深い自然のままの人間の姿です。
しかし、私自身も、ある時に主イエスが心に住むようになってから、自分に与えられたことに対しての感謝がようやく芽生えてきたのを思い出します。
二タラントや五タラントをもらった人たちはキリストを信じるようになった人たちのことなのです。神から預かったものを用いて神の国のためにすぐに働くということは、神を信じているのでなければできないことです。
真に主イエスから大いなる恵みを受けたと実感する人は、このような人たちであって、さらに与えられたものを活かして用いようとするのです。多く赦された者は多く愛するという言葉があります。
また、ヨハネ福音書十五章には、有名なぶどうの木のたとえがあります。そこで言われていることは、「私につながっていなければ、何もできない」ということです。二タラントもらってすぐに働くために出かけていくというのは、主イエスにつながっている人のことです。
つぎにこの箇所で、ほとんどの人が疑問に思うことは、
「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」という箇所です。
聖書のことをよく知らない人が、「これはアジアなどのように、富んだ国はますます豊かになり、貧しい国はだんだん持っているものを取り上げられて貧しくなる状況を言っている。聖書はこのような差別的なことを認めているのだ」などと勝手な解釈をすることがあります。たしかに表面的にこの聖書の言葉をとらえるとそんな意味にまちがって受け取る人もいると思われます。
しかし、これはもちろんそんな意味ではなく、神から預かったものをすぐに用いて神の国のために用いようとする信仰のある者は、ますます豊かに与えられるということなのです。
このことについて、主イエスがぶどうの木のたとえで話されたことがあります。
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。(ヨハネ福音書十五・5)
この有名なたとえで言われていることもほぼ同様です。「持っている者はいよいよ豊かに与えられる」というとき、持っているとは、何を持っていることを指しているのでしょうか。それは、主イエスに対する信仰であり、主イエスのうちにとどまることであり、それは主イエスとつながっていることであり、主イエスを内に持っているということなのです。そうすれば、「いよいよ豊かに実を結ぶように」主が手入れをして下さると言われています。これこそ「持っている者は、さらに与えられて豊かになる」という言葉と同じです。
この世は、目に見える世界のことを考えると、権力や金を持っているものは、貧しい人から奪ってますます豊かになると思われています。貧しい人は持っているものまで奪われてますます貧しくなると考えられています。
しかし、聖書はただ信仰を持って、真剣に求めていきさえすれば、だれでも聖霊が与えられ自ずから、ますます与えられて豊かになることを約束しているのです。
これは、例えば、人生の途中で失明しそれまで楽しんでいた職業や家庭生活、友人との交際、趣味などあらゆるものが失われていった人、また生まれつきの何らかの病気、あるいは交通事故その他で、全身マヒの障害者となっている人など、そのままでは、絶望的なほどになにもできないので、精神的にも落ち込む一方であった人が、キリストの福音に触れて、そこから生きる希望や力を与えられて、歩んでいくようになった人は数かぎりなくいます。かつて、ハンセン病(ライ)は文字どおりあらゆるものを奪われていく最も恐ろしい病気でした。病気の苦しみとともに、学校生活、家庭生活も奪われ、職業や結婚も失われ、隔離されて療養所に行くほかはなくなり、そこでも病がすすむとともに、手足の神経はマヒし、ついには手足の一部も切断、そのうえに失明にまでいたる人もいる恐ろしい病気です。これは文字どおり持っているものがつぎつぎと奪われていく病気です。
しかし、そのような中からキリスト信仰に導かれた人は、目に見えるものが失われていく一方で、目に見えない神の国の賜物、心の平安、生きる力や希望、新しいキリスト者どうしの交わりなどが与えられていったのをそうした人が書き残した記録で知ることができます。
このように心にキリストを持っていると、増し加えられるということは、別のところでも主イエスがたとえで語っています。
イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」(マタイ福音書十三・31ー32)
他方、もしある人が主イエスにつながっていないなら、与えられている能力まで次第に奪われてなくなっていきます。
それは、ヨハネ福音書でつぎのように言われている通りです。
わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。(ヨハネ福音書十五・6)
この言葉は厳しいように見えますが、実際このことは私たちの周囲にいくらでも見られることです。主イエスにつながっていなければ、日々かつては持っていたはずのよいものが確実に失われていきます。かつては、純真な心を持っていた人もそれがなくなり、かつては生き生きして働いていた人も、働く目標がなくなり、健康を失って、そうした生き生きした心を根底からなくしてしまった人、かつては、忍耐づよく、前途にあるものを求め続け、捜し続ける熱心を持っていた人でも、それらがみな失われてただ食べて生きているだけというような存在となってしまいます。
こうした状況こそ、主イエスが言われた、「枝のように外に投げ捨てられて枯れる」ということです。そして最後は文字どおり火の中に入れられて骨や灰となってしまいます。 持っていない者、すなわち、神とキリストへの信仰を持っていない者は、このようにますますかつて持っていたものまでも奪われていくのです。主イエスの言葉は恐ろしいほどに的中しているのです。
ここで初めに引用した聖書の箇所をもう一度見てみます。気付くことは、五タラントゆだねられた人も、二タラントの人もその与えられたタラントを用いて働いたときには、どの人もつぎのような全く同じねぎらいの言葉を主人から受けていることです。
主人は言った。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」
このことは、何を意味するのでしょうか。もし、私たちが主イエスに信頼し、主イエスを心に持っているときには、どんなに能力が恵まれていないように見えても、またいかに老年や病気などで身体の自由が不自由であっても、持っているその信仰を働かせることができるように導かれる。そのときには、健康なからだをもって、社会的に大きい働きをした人も、寝たきりの人もまったく同じように神から認められ、神の国の賜物を下さるということなのです。人間は外側の業績、目に見えるはたらきを見て評価するだろう。しかし、神はそのような目に見えることでは判断されず、どんなに小さいように見えても、与えられたものを神への信頼の心をもって使うかどうかだけを見ておられるというのは何と幸いなことかと思うのです。
原子力の危険性について
今回の東海村の核燃料加工会社で生じた大事故において、初めて原発関係施設からの放射線の危険が一般市民にも体験されることになった。
原子力を利用しようとするとき、必ず生じるのが放射線である。そしてこれが特に問題となるのは、人間にはそれを知覚したり、守るための感覚が備えられていないということである。
ほかの危険なものに対しては、人間(動物)にその危険を知覚し、それから身を守るようにできている。例えば、熱さについてはただちに熱さを知覚して、そこからからだを移動させたり、そうした熱いところに近づかないようにして身を守ることができる。
また、刺のようなものに対してもそれが皮膚を刺す痛みによってその危険をただちに感じとって、わずかの痛みによって、その刺に刺される危険から身を守ろうとする。
あるいは、寒さに対してもそれを感じて暖かくしようとするし、寒さの中に置かれると、ふるえるがそれは筋肉を収縮させて熱を発生させ、寒さから身を守ろうとするための現象である。
また、毒虫の毒についても、刺されるとただちに痛みが生じてそれ以上刺されることから身を守ろうとする。有毒物質についても、苦さ、しびれ、痛みを感じて吐きだそうとするし、有毒ガスなら強い刺激臭などを感じて息を止めようとするなどして反射的に身を守ろうとすることが多い。
このようにさまざまの感覚によって危険なものに出会ってもそれを感知し、それを取り入れることを避けるとか、そこから逃げることができるように人間(動物)は創造されている。
しかし、放射線はこうしたものと全く違っていて、人間は防御する仕組みを持っていない。放射線を浴びても痛くもかゆくもない。これは、だれでも放射線の一種であるエックス線を病院で照射されてもなんら熱くも寒くもないし、痛みもないことでだれでも想像できる。
もし、放射線を受けて吐き気がしたら、もはや相当の放射線を浴びてしまっているという状態である。だから、チェルノブイリ原発事故のときも、今回の東海村の事故の場合も駆けつけた消防隊員たちは、放射線事故だと知らされない限り痛くも熱くもないので大量の放射線を浴びて一部の者は取り返しのつかないことになったのである。
人間の五感で、放射線を感じることができないということは、神が人間や動物を創造されたときに、放射線から身を守るような能力を与えていなかったということになる。それほど原子力を人間が用いるということは自然に反していることだと言えよう。
しかも、ひとたび原子力を用いて発電をするということになると、そこから生じる廃棄物はプルトニウムのように、二万四千三六〇年も経ってもやっと、そこから発せられる放射線の量が半分になるにすぎないような物質もある。だから、放射線を出す量が初めの四分の一になるまでには、その倍であるから、五万年ちかくもかかることになる。これは、人間の生活の長さからいうと、ほとんど永久的といってよいほどに長い寿命をもっていることになる。
今回のような事故が生じて、原子力を用いるということがいかに危険を伴うかを庶民も実感したにもかかわらず、政府は一向に従来の原子力政策を変えようとしていない。
他方、ヨーロッパの状況はどうであろうか。
スウェーデンでは、二十年ほども前にすでに「脱原発」の方針に転じている。一九八〇年に原発の国民投票で「二〇一〇年までに、全部の原発を段階的に停止する」と決議された。そのために、使用済み燃料の施設の建設や、最終処分のための研究などに八千億円もの巨額の費用を投じる予定になっているという。
ドイツでは、昨年誕生したシュレーダー政権によって、原発を徐々に減らすという脱原発の方針が打ち出されている。そして、期限は明示しないが、原発を廃止するという方向に進むことになっている。
また、昨年末までに三百万キロワット近い風力発電機が設置され、世界最大の風車大国となっているという。こうした姿勢は第二次世界大戦で敗戦となった日本とドイツが原子力に対する姿勢では大きく異なっているのがはっきりとしている。
日本では、原子力発電に向かって、突き進むばかりであって、こうした風力や太陽エネルギーを本格的に用いる研究とかに力をわずかしか注ごうとしていない。風力発電の分野では、ドイツの百分の一にも達していないという。
また、イタリアでは、チェルノブイリ事故の翌年に、国民投票で、八〇%が反対の意志表示をし、政府も原発推進を止め、計画中の二基も白紙に戻すことに議会でも承認されたのであった。フィンランドでも新規の五基の原発の計画は凍結となった。
そしてスイスでも新規原発を十年間凍結することになった。そのほか、ベルギー、オランダ、ギリシャ、デンマークなどでもそろって、新規の原発建設計画は凍結された。
フランスでも、「放射性廃棄物の健康と環境への害は数十万年、あるいは数百万年にわたって継続する」このような人間にとっては、永久的とも言える害をもたらす原発への依存度を少なくしていく方向へと向かっている。その一つの現れは、高速増殖炉の開発を中止することにし、世界最大の高速増殖炉である、「スーパーフェニックス」を廃止する作業が今年から始まっている。フランス政府は、これ以上原発を建設しないで、エネルギーを別の手段でまかなう計画を出したが、これは、それまでの原発は不可欠だとする大前提が初めて破られた例だという。
高速増殖炉にしても、アメリカやロシア、ヨーロッパなど欧米の国々がみな中止、または廃止の方向に向かっていたのに、日本だけが、強力に推進という立場を崩さなかった。それが、「もんじゅ」のナトリウム漏れの大事故が生じてやっと、高速増殖炉に向かっていた方向を転換することになった。しかし、今度は、危険なプルトニウムをウランと混ぜて発電に用いる方法にかえて無理に使っていこうとしている。
何度事故が生じても、今回もまた政府は原発推進の方向は変えないと断言している。こんなことでは、ある外国の研究者が、アメリカのスリーマイル島原発事故や、チェルノブイリ原発のような大事故が生じなかったら日本の政府は原発の危険性に目を開こうとしないと言っていたが、本当にそんなことになりかねない様相を呈している。
なぜ、日本人はこのように、現在および、将来の人間に対して永久的ともいえるほどの危険を持つ原発に対して鈍感なのであろうか。ひとたび大事故が生じると、はかりしれない放射能汚染や、犠牲者をつくることへの重大な罪の重さ、あるいは何万年もの歳月にわたって危険な放射線を出し続ける廃棄物を子孫にのこすことの罪の深さを認識できないのである。
こうした人間の弱さともろさ、醜さなど、人間の罪そのものに対する認識の低さは、太平洋戦争というアジア全体に多大の悲劇を起こした大事件に対して、最高責任者であった天皇の罪を明らかにせず、太平洋戦争の時の商工大臣であった岸信介が戦後(一九五七年)に、首相にさえなったことなどと共通している傾向である。彼は、太平洋戦争の際に戦時経済体制の実質的な最高指導者であって、あの戦争においては、多大の責任があった人物であり、それゆえにA級戦犯となっていたのである。
こうした問題は、やはりキリスト教を受け入れる人が日本ではごく少ないという事実と深く関係がある。私たちに目先のことだけでなく、将来のことを見据えるまなざしを与えてくれるのがキリスト教信仰であり、聖書なのである。
休憩室
○秋になると、野山ではいろいろの野草の花が見られます。花というと春を思い出す人が多いようですが、野山には春にもまけないほどにいろいろな野草が花を咲かせて、神の創造のわざを見させてくれます。 秋を告げる強力なメッセージとなっているのがヒガンバナです。この花は日本では、あまり好まれてこなかったのですが、最近では、海外では鑑賞用の花として用いられ、日本でも、次第に秋の代表的な花の一つとして取り上げられることが多くなっています。
キツネノカミソリとかナツズイセンという美しい野草もヒガンバナ科ですが、それらの花は愛好されているのに、ヒガンバナだけが、いろいろな不当な誤解によって仲間外れにされている感があります。スイセンもヒガンバナ科なのですが、こちらのほうはだれでもに好かれる花となっています。
私は以前に、学校でヒガンバナの球根が含むデンプンやリコリン(アルカロイド)のことを教える理科実験のために、毎年近くの小川の側から採取していたことがあり、それを自宅にも植えてあります。毎年きちんとその美しい花を咲かせて周囲の緑と鮮やかなコントラストを見せてくれます。あぜ道や小川のふちにその印象的な赤い花を咲かせるのですが、近年は小川の改修やあぜ道の拡大などでつぎつぎと住む場所が狭くされていきつつあるのは残念なことです。
また、秋の野山には、野菊といわれる野生のキクがいろいろと見られるようになります。多いのは、ヤマシロギクです。これは、野に一番多い野菊であるヨメナの花びらを白くしたようなものなので、シロヨメナとも言われますが、この花が山道のあちこちに咲くようになると、いかにも秋の山だという感を与えてくれます。
それから同じ白い野菊でも、シラヤマギクというのは、野菊の葉とは思えないような葉を茎の下のほうにつけ、白い舌状花もややまばらにつき、山深い所でひっそりと咲いている感じがして山の秋を知らせてくれる野草の一つです。
○アサギマダラ
先日、わが家のそばで美しいアサギマダラがその独特の飛びかたでゆったりと飛んでいるのが見られました。二年ぶりくらいに見たものです。それがまたその翌日、こんどは家の庭の青い花に蜜を吸っていたのが見られました。
小学生のとき、アサギマダラを初めて見つけたときの感動を今も覚えています。徳島ではめったに見られないチョウだったからです。
その後、愛媛県にて関西の最高峰の石槌山(標高一九八一米)を数日かけて縦走していたとき、その稜線にて何度か見つけ、このチョウが高い山を好むのを知りました。その後、剣山にても四国では珍しいすらりと高く、美しいクガイソウ(ナンゴククガイソウ)の花に群がっているのを見る機会がありました。わずか一匹のチョウとの出会いであっても、その姿形の美しさに触れて神の創造の神秘の一端に触れさせていただく思いがします。
ことば
(103)神に何かを与えようとする人より、神から何かを求め望む人の方を、神はいっそう愛するのである。(ブースの言葉。ブースは一八二九〜一九一二年、イギリスの人。救世軍の創設者として著名)
○心に誇るもののない人は、たえず神に求めていく。心の高ぶりがあれば、神に対して、人に対してもこんなよいことをしたのだなどという誇りや高ぶりが生じるだろう。神はそうした心を退けられる。主イエスご自身、まず「神の国と神の義を求めよ」と言われ「求めよ、そうすれば与えられる」と約束された。
(104)クリストフ・ブルームハルトの祈り
愛しまつる在天の父よ、
この世においては不安がありますが、あなたのうちにわれらは平安を得ています。
み霊によってあなたの天の国のよろこびを与えてください。
あなたに仕えることによって自分の人生に対する力を与えてください。
苦痛を忍び、悲しみ、不安、かん難の道をなおあゆむすべての者たちをおぼえ、賜物を与え、助けを与えてみ名を讃えさせてください。
あなたの大いなるあわれみと誠実さによって期待し、のぞむことを許されているものによって、われらをすべて結び合わせてください。
アーメ
(クリストフ・ブルームハルトの祈祷集、九月三〇日の祈りから)
○私たちは祈りは自分の心のままに祈ったらよいという考えがあります。しかし、どんなことにも正しく導かれる必要があるはずです。すでに聖書においても、キリストに従うためにいっさいを捨てたほどの弟子たちすら正しい祈り、神に聞き入れられる祈りや願いはどんなことなのかと尋ねたことが記されています。有名な主の祈りはその答であったのです。主の祈りは私たちの毎日の祈りとなるべきものですが、それを土台としつつ、さらにより具体的に祈るために、祈りを集めた書(祈祷集)がよき導きとなってくれます。
この祈祷集はそうしたもののうちで優れたものの一つとして用いられてきました。
なお、ブルームハルトは、一八四二年生まれ、ドイツの牧師。神学者カール・バルトやブルンナーなどにも強い影響を与えた人。また父親のブルームハルトも特別ないやしの賜物をも与えられていた優れた牧師として知られていますし、同時代のキリスト教思想家ヒルティもとくに高く評価していた人です。