今月の聖句
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2000年2月号・内容・もくじ
真のキリスト教 | 信仰を持たずに強い人はいるか | 戸口に立つ キリスト |
遣わされる者への言葉 | 休憩室・ウメ、自然と人工、星 | 趣味 |
真のキリスト教
イギリスの有名な聖書注解者の書にふと見いだした言葉。
真のキリスト教はつねに危険のただなかにある。(Real Christianity is always in peril.)
たしかにキリストご自身がそうであった。パウロも同様であった。そして長いキリスト教の歴史のなかで新しいところにキリストの福音が伝わっていくときには、いつも死の危険が隣り合わせていたほどであった。
しかし現代において、キリストを信じるアメリカ、ヨーロッパそして私たち日本のキリスト者たちの多くはこのような危険のただなかにいるだろうか。
このことは、生活のなかに祈りがあるかと深く結びついている。祈りがない生活とは、人間的な考えによっている生活であり、それはなんら危険とか犠牲を伴わない安全な生活だということになる。
私たちが神の御旨に従っていこうとすれば、祈りがなくしては前進できない。この道をとったらどうなるかわからない時に、私たちは自然と祈らずにはいられなくなる。
その意味で絶えず祈りをせずにいられない生活であるかどうかによって、私たちは何らかの困難のある道を見つめているかどうかを自ら知ることができると言えよう。
前号で紹介したボンヘッファーの著書にもつぎのように記されているのが、ずっと以前に読んだときにも心に残っていたので、それを引用する。
キリスト者にとって彼がほかのキリスト者との交わりのなかで生きることを許されているということは決して当たり前のことではない。イエス・キリストは敵のただ中で生活された。最後に弟子たちも皆、イエスをすてて逃げてしまった。十字架の上で彼は悪人や嘲笑する人々たちに取り囲まれて一人であった。だからキリスト者たちも、修道院の孤独な生活のなかに引きこもるのでなく、敵のただ中にあって生活するのである。そこにキリスト者たちは、その課題と働きの場を持つのである。(「共に生きる生活」より)
このように、語ったあとで、ボンヘッファーは、つぎのマルチン・ルターの言葉をあげている。
「あなたの敵のただ中に神の支配がある。そこでそのことに耐えることができない者は、キリストの支配を願わず、友人たちのただ中にいようとし、バラとユリの中に座っていようとし、悪人とともにいることを願わず、敬虔な人たちと共にいようとする者である。 ああ、あなた方、神をけがし、キリストを裏切る者たちよ!もし、キリストがそのようになさったとしたら、いったい誰が救われたであろうか。」
ルターにしばしば見られる激しい調子のこの言葉には、彼自身がそのように敵のただなかに生きたという、自分自身の経験が背後に感じられる。
私たちも現在の生活に安住するのでなく、本当に救いを受けた者として少しでもより困難な道を、祈りをもって歩んでいくようにと招かれている。
主イエスが「狭き門から入れ。命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。」と言われたことはそうしたことをも意味すると言えよう。
信仰を持たずに強い人はいるか
信仰を持たずに強い人はいるか
宗教を持たなくとも人は強くあることができるという考え方は日本人には多くみられます。だからこそ、特定の信仰を持っていると称する人は、日本では少ないのです。
しかし私は今まで生きてきたなかで、信仰なくして本当に強いと感じることのできた人は一人も思い出せないのです。
自分の力で会社を創って有名になった人、学問、芸術や、スポーツなどで生まれつきの才能と努力で大きな業績をあげた人たち、また特定の宗教に入っていないのに、まじめに一生懸命働いて、社会的にも評判のよい人、また宗教を持っている人よりもやさしくて、心が純真な人など、私たちのまわりにも多くいるでしょう。
しかし、そのような人は、はたして信仰など持つ必要を感じないほどに強いのか、というとそれははなはだ疑問です。
というのは、もし、そのような人がいったんガンだと宣告されたとか、交通事故で全身マヒになったとか、家族が重い後遺症になってその介護で生涯苦しまねばならないとか、あるいは、老年になって家族とか友人など親しい人とつぎつぎに別れてしまって、一人孤独な老人ホームとか自宅で病気療養をしなければならなくなったとしたら、そして必ず私たちを訪れる死というものが近づいてきたらどうでしょうか。
ほとんどの人たちはそれまでの自分の力だけで生きて行けるという気持ちとは逆の、自分の力ではどうすることもできない苦しみや弱さ、痛みを抱えることになり、人間を越えたものにすがる必要を感じてくるのではないかと思われます。
人間が弱いということは、たった刃物の一つによっても、また小さな弾丸一つによってもいとも簡単に死んでしまいますし、あるいは生涯回復できない傷を受けてしまいます。 数日水を呑まずにいたら、もう苦しくて耐えがたいほどになるのです。人間も生物の一つであって、すべての生物は、熱や放射線にきわめて弱いのです。
聖書にも、つぎのように記されています。
彼らは草のように瞬く間に枯れる。青草のようにすぐにしおれる。(詩編三七・2)
このように老年、病気、事故、人間関係などからも人間は弱さを思い知らされるのですが、そのようなことがなくとも、元気なとき、若いときであっても、私たちは弱さを痛切に感じることが多いはずです。
それは、自分の気ままな生活をしているときには感じないけれども、ひとたび、正しいこと、真実にかなったこと、自分への報酬を期待しない純粋な愛を他者に及ぼそうとしたとき、どんな人でも、自分がいかにそうしたことができないかを思い知らされるはずです。
この点においては、いかなる人も自分はそうした完全な正義や愛、真実を周囲の人々や社会に対して行っているなどということを言える人はいないのです。
いったい誰が、神への信仰なしにキリストが言われたように隣人を愛し、敵を愛してその人のために祈るような心を持っているでしょうか。隣人とは、たんに近所の人という意味でなく、出会う人すべてという意味です。自分の家族だけでも本当に愛することは大変なのに、他人も同様に愛するなどということは、到底できないことです。
しかも、ごく一時的にそのような気持ちでできる人はいるかも知れませんが、ずっと長期間にわたってそのような純粋な心と愛を持ち続けるなどということはありえないことです。それは、自分のまわりの人々を見ても直ちにわかることです。
キリスト教がいうような愛とは、好きな人だけにというのでなく、無差別的であり、ある期間ということでなく、いつまでもずっと続くものをいうのであって、こうした愛を自然の人間が持てるなどということはありえないことです。
また、事柄の真実を見抜くということにしても、例えば太平洋戦争が天皇を現人神として、アジアの国々に侵略をする戦争であったけれども、それをいったいどれほどの人が見抜き、そしてその間違いをはっきりということができたでしょうか。ほとんどの人が日本の軍部や政治家たちにだまされていたのです。
このように、何が正しいことであるかを見抜き、またその正しいことを実行するということは至難のわざです。そこに弱さがあるのです。
また、原子爆弾とか水素爆弾のようなおそるべき兵器が作り出されるとは、広島や長崎に原爆が投下されたわずか八年ほど前には、世界のだれも考えたことがなかったのです。(核分裂は一九三八年、ドイツのオットー・ハーンやリーゼ・マイトナーらによって発見された)
このようにどんな天才であっても先のことを見抜くことができないという弱さをすべての人間は持っているのがわかります。
阪神大震災にしても世界のあらゆる科学者もだれ一人それを見抜くことはできませんでした。そこに人間の弱さ、限界があります。
こうした科学技術に関することだけでなく、自分自身のことでもいつ不治の病になるのか、いつ死ぬのかどんな状況で死ぬのかなどまったく分からないのです。自分の病気そのものすら、たしかに医者ですら診断できないことも多くあります。
人間が弱いというとき、このようにさまざまの意味があります。
どこから見ても人間の強さと思えるものはごく一時的なものであって、どんなに強そうに見える人でも必ずそのうちに弱さを思い知らされることになります。
聖書は、そしてキリストはこのような人間だれもが持っている弱さを認めるところから出発するのです。そういう意味では、ごく当然のことが基本となっています。
こうした弱さを知っている心の状態を「心の貧しい者」とか「幼子のような者」といった表現で言われています。
この世には三種類の人間がいると言えます。
一つは、自分が強いと思っている人間。
二つ目は、自分が弱いと思っているが、そこから逃れる道を知らない人。
そしてこの中には、その弱さの中に沈んでしまって、逃れる道を求めようとする心もない人。そしてもう一つは弱さを何とか乗り越える道を探し求めている人があると言えます。
三つ目は、弱さを知って、そこに力を与えられる道を知っている人で、キリスト教というのは、実はこの弱さのただ中にあって力を与えられることを約束しているのです。
戸口に立つキリスト
戸口に立って (黙示録三・14~22)『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。
「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。
熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。
あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。
そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。
わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。
見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。
勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。
耳ある者は、(聖なる)霊が諸教会に告げることを聞きなさい。」』(黙示録三・14~22より)
ヨハネの黙示録は、多くの人々にとって不可解な書物です。この書物を読んで心が励まされるとか、慰められるという人は他の新約聖書のようには多くないのです。しかし、わかりにくい表現があるからこそ、他の聖書からは得られない真理もまた記されているのです。
黙示録という名称からして、「沈黙して、示されたものを記録したもの」といった意味を感じます。しかし、黙示録のもとの題(ギリシャ語)は、apokalupsis といって、これは、「被い、ベールを取り去る」という意味です。
(apo ~から、kalupto 被う、かぶせるの意で、apokalupto とは、ベールを取り去るという意で、その名詞形がここで使われている語。)
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。(マタイ十一・25)
この例では、「黙示録」と訳された原語の動詞の形が、用いられています。真理を幼子のような者に示したという意味です。これは、ほかの人にはベールがかかって見えないが、幼子のような者にはそのベールを取り去って見えるようにしたと言う意味になります。
このように、黙示録などというと、暗闇とか沈黙とかが混じりあってなにか神秘的な暗いイメージを連想しがちですが、じつは神が人々にかかっているベール(被い)を取り去って、他の人には見えない真理を示した(啓示した)
という書物なのです。
この黙示録の最初に、小アジア(現在のトルコに含まれる)の七つのキリストの集会に宛てた手紙が記されています。この地方は、初期のキリスト教の中心となった地方なのです。
それらのうちの最後が今回引用した箇所で、ラオディキアという町のキリスト者たちに宛てたものです。
この手紙では、まずこの手紙を書き送るように命じた主イエスがご自分がどんな存在であるかを知らせるという形をとっています。
まず、「アーメンである方」と言われています。アーメンという言葉は、ヘブル語で新約聖書では百二十八回も用いられていますが、日本語訳の聖書を読んでいると、どこにそんなにアーメンという言葉があるのかと不思議に思われるはずです。
このアーメンという言葉は、例えばつぎのように、「はっきり」という訳語で用いられているのです。
・イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり(アーメン)言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。(マタイ八・10)
・はっきり(アーメン)言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイ十・42)
以上のように、アーメンという語は、主イエスがとくに重要なこと、真理にかかわることを話すときに、用いられています。
この言葉は、数千年も昔から使われていた言葉で、このヘブル語のもとになっている言葉は、アーマン(aman)という語であって、これは「堅固にする」という意味を持っています。それでこのアーメンという語も変わることのない、堅固な、真実なという意味になります。
この世で最も堅固なもの、変わることのない存在は神ご自身です。だから、旧約聖書でも、「アーメンの神によって祝福され」という言葉がでてきます。(イザヤ書六十五・16 これは、日本語訳では、「真実の神によって祝福され・・」となっています。)
このように、主イエスに対して「アーメンである方、誠実、真実な証人・・」と言われているということは、いかにこの黙示録を書いた長老ヨハネが主イエスの真実さ、変わることなき、誠実さを深く感じたかを指し示すものです。
つぎにイエスのことを、「神に創造された万物の源である方」というように言っています。主イエスがいかなるお方であるのか、それは古代から大きな問題でありましたが、現在でもその重要性は変わりません。
黙示録の著者は、第一章で、神のことを「私はアルファであり、オメガである。」
(黙示録一・8)と言っています。そして最後のほうの二十二章では、主イエスが「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」(黙示録二十二・13)と言っています。
このことからも、著者ヨハネは、神とイエス・キリストとを同じ本質をもったお方であり、キリストもじつは神ご自身の現れなのだと言おうとしているのがうかがえます。
ここでラオデキアの教会(聖書では教会とは建物の意味でなく、キリスト者の集まりを意味する)に特に言われているのは、「なまぬるさ」ということです。
「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。
熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」(15~16節)
なまぬるさというのは、飲物でも嫌われる、同様に神もキリスト者のなまぬるさを嫌われるというのです。黙示録が書かれた当時の迫害の時代にあってはとりわけ、信仰をはっきりとさせ、熱心であろうとするときには、きびしい迫害を受けることを覚悟していなければならなかったのです。それゆえ、「熱くある」ということは、相当な覚悟を要することでした。
そうした当時の状況においてどうしてキリストを知った者であるのに、神への熱い心を持てないのか、その原因をキリストはつぎのように述べています。
あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。(17節)
私たちが自分に満足して自分が持っている能力や、財産、生活で満足しているとき、そこには、キリスト者であっても熱心が生まれないというのです。神への熱心、真実への愛とは、自分自身が惨めなもの、哀れな者、貧しい者、目の見えない者であることを深く知ったところから始まるというのです。
これは多くの人たちの常識とは逆です。たいていの人は、自分の弱さを見ないで、自分の力や能力、あるいは努力を信じるということ、すなわち自信を持つということで力を得ようとしています。
しかし、そのような自分の弱さに顔をそむけて自分のうわべの強さだけを見ようとする姿勢からは決して本当の永続的な力は与えられないのです。
学校とか一般の生活のなかでよく自信を持てと言われます。しかし、自信とは文字どおり自分を信じることです。それなら自分の何を信じるのかということになります。自分の能力か、判断力か、自分の経歴か、自分の経験、自分の財産、自分の健康か・・、自信を持つとはこのようなものを信じることです。
しかし、病気でたえず苦しんでいる人、寝たきりでいつ死ぬかもわからない人はどうして自分の能力とか健康、財産に自信を持つことできるでしょうか。
あるいは、死とか老後に対して、あるいは突然の事故や、ガンの宣告などに対して揺るがぬ自信を持っているなどと確言できる人はいったいいるでしょうか。
死を迎える苦しみのとき、いったいいかにして人は、自分を信じることができるのか、そのような時に自分を信じるとは何を信じるのでしょうか。神とかを認めず、信じることもしない人にとって、死とは無になることであり、無になる自分を信じるとは意味のないことと言わねばなりません。
このように、自信(自分を信じる)ということはよく考えてみると到底持てないはずのものです。学校で先生から自信を持て、とよく言われますが、その先生自身もじつは弱い人間にすぎないのであって、いつも不安とかおそれを持っている存在にすぎません。
「自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者であることがわかっていない」これは、現在の私たちにもそのままあてはまることです。このことを深く知ることからキリスト教は始まるといってもよいほどです。
自分が正しいことも、真実なことも、愛にかなったこともまるでできないことを思い知らされたとき、自分のなかにはなんら頼るべきものはないと知ったその心こそ、新約聖書の最初に置かれているマタイ福音書の最も有名な山上の垂訓の冒頭にある言葉にほかなりません。
「ああ、幸いだ、心の貧しい者は!なぜなら、天の国はその人のものだからである。」 このように、新約聖書の最初から、最後の黙示録にいたるまで、一貫して聖書はこのように自分自身の弱さや貧しさを深く知ることを特に重要なこととしています。失われた一匹の羊のためにキリストは来られたという言葉があります。それは、正しい道がわからなくて迷い込んだ人という意味だけでなく、自分の弱さを深く知らされた者のためにキリストは来られたということでもあります。
そこで、あなたに勧める。豊かになるように、火で精錬された金をわたしから買いなさい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買いなさい。(18節)
私たちにとっての真の豊かさとは、物質的豊かさでなく、精神の世界にあります。それは現在の日本は歴史上で最も物質的に豊かとなりましたが、精神的に決して豊かになったとは言えず、むしろその逆であることは数々の驚くべき事件とか現代の風潮などで感じられることです。
正しいことに対して敏感であり、清い心や真実な心を重んじる風潮は退化していると思えるほどです。
それは、子供たちから青年、大人一般が読む週刊誌やマンガ、雑誌などを一つとってもはっきりとわかります。それらに見られる内容が破壊や殺人、闘争など、さらに性に関わる刺激的なものがはんらんしていて、そうしたものを読むことは、そのような世界が読む人の心にいつもあることを思わせるものです。
こうした状態は黙示録に言われている状況とよく似ています。私たちにとって精神的に真に豊かになるために、どうしたらよいのかそれが「火で精錬された金」を買うことだといいます。精錬とは金属から不純物を取り除くことであり、金はどのような薬品にも、自然の風化にも侵されないでその品質を保つ物です。だからその意味は、いかなる不純物も混じっていない、永遠に変わらないものというような意味になります。
聖書において、それは神の国の賜物であり、聖霊によって与えられるものであり、またイエス・キリストご自身でもあります。
わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。(ヨハネ一・16)
と言われている通りです。
また、「裸の恥をさらさないように白い衣を買う」とは、罪に汚れたままの姿でなく、それを清めてもらいなさいということです。裸のままとは、人間の自然の本性のままということで、それは自分中心であり、利己的な醜いものです。それを清めて頂くことをこのように白い衣を着るという表現で言い表しています。他の箇所でも、
彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。(黙示録七・14)と記されています。
私たちにとって白い衣とは、キリストが十字架で死んで下さったことを信じることによって受けられるものなのです。
つぎにヨハネは「見えるようになるために、目薬を買いなさい」と言っています。この手紙が書かれた小アジアのラオデキア地方は、実際に目薬で知られていたといいます。そのようにだれもがイメージを浮かべやすい言葉を用いて語りかけているのです。
見えるようになる、これこそ、すべての人がじつは願っていることです。私たちは、人間の本当の生きる目的が見えない、自分の将来がどうあるべきかが見えない、人の心が見えない、自分自身が何であるかも見えない、自分の罪深い本質も見えない、私たちの周囲を取りまく自然のなかに込められた意味が見えない、死んだらどうなるのかその先が見えない、神の国や神の力も見えない等など、私たちの悩みや苦しみの原因はよく考えてみると、すべてこのように「見えない」というところに原因があります。
そこでヨハネはこのように見えるようになるために、「目薬」を買えと勧めるのです。私たちにとっての目薬とは何かが問題になります。
キリストは見ることについて次のように言われました。
イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ福音書三・3)
新たに生まれるためには、心を人間から方向転換して神に、キリストに向けることであり、そこから神の霊(聖霊)を受けていくことです。聖霊こそは、神ご自身の現れであり、神の万能のまなざしの一部を私たちも頂くことができるからです。
戸口にて戸をたたく
私は戸口に立ってたたいている。だれでも私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者とともに食事をし、彼もまた、私とともに食事をする。(20節)
これは、神への真実な姿勢がゆるみ、信仰がなまぬるくなっている人々に対しての呼び掛けです。すでに信仰を持っていながら燃えるような何かを感じなくなってしまうということは、よくあることです。それに対してキリストはつねに戸をたたいていると言われます。
かつて主イエスは「求めよ、そうすれば与えられる。門をたたけ、そうすれば開かれる」という有名な約束を語りました。しかし、私たちが門をたたくその前から、キリストはいつも私たちの心の戸をたたいていると言われています。ここに神の私たちに対する愛があります。
目に見えないキリストあるいは神が私たちの心の戸をたたいているなど、どうしてわかるのかという人がいると思います。そのたたく音を聴こうとすることが「祈り」です。私たちは今も生きて働くキリストが私たちの心の扉のすぐそばにいて下さって、その戸をたたいて下さっているのを知らないとき、私たちが他人の関心を引こうとして、いわば他人の心をたたき続けます。自分に関心を持ってほしい、自分を好いて欲しい、自分の友達、あるいは後押しする者になってほしいなどなどです。人間社会のさまざまの醜い出来事は政治の世界も含めてたいていこうした他人の心を自分に引き寄せようという考えと結びついています。
しかし、もし私たちが心の扉を開くなら、キリストは私たちの心の内に入って下さってともに住んで下さる。そしてともに食事をするとまで言われています。ともに食事することはつよい結びつきの象徴として言われています。食事を共にすることはよく聖書に出てきます。主イエスが十字架につけられて処刑される前夜に最後の夕食をしたことは、レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐の絵画によって広く知られていますが、そのほかにも復活したイエスも弟子たちとともに食事したことがルカ福音書(二四章に二カ所)にもヨハネ福音書(二十一章)にも記されています。
主イエスとともに食事をする、すなわちそれは単に現在の私たちが目には見えないけれども、生きているキリストと深い交流を与えられるということにとどまるのでなく、世の終わりに与えられる神の国において、豊かな神との交わりを与えられるという終末的な希望と約束をも指し示しているのです。
勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。(二十一節)
さらにキリストは、戸を開いてキリストを受け入れる者をキリストがついている王座にともに座らせるとまで約束しています。これは驚くべき約束です。キリストとともに目に見えない食事をすることを許された者は、最も高いところに引き上げられて祝福の世界に招かれるということです。
このことは、たんに将来の約束であるだけでなく、現在の私たちにもその一端を味わうことが許されているのです。
遣わされる者への言葉
聖書には、神がとくに選んだ人を遣わすということが、重要な内容となっている。使徒という言葉自体が、アポストロス(apostlos)
であって、それは、アポステロー(apostello)「遣わす」という語から作られた言葉なのである。
「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。・・
あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。
また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。・・
また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。・・
弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人(イエスのこと)がベルゼブル(悪魔)と言われるのなら、その家族の者(主イエスを信じる者)はもっとひどく言われることだろう。」
「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。
わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。
体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。
だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。
だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。
しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。
自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。(マタイ福音書十・16~39より)
現在の日本では、私たちはキリスト者となることを命にかかわるような危険なことだとは誰も思わない。また、周囲の人たちから見下され、敵視され、迫害されるとはほとんど考えない。せいぜい、世間とうまくやっていけないのではないか、出世できないとか、享楽できなくなるだろうとかいった程度だと思われる。
しかし、聖書を見ると、主イエスが十二人の弟子たちをとくに呼び出して遣わすとき、私たちの現在の状況からすると、考えられないほど厳しい言葉が言われている。
まず、主イエスから呼び出された者とは、言い換えると「遣わされた者」なのだとされている。
神が人間をとくに呼び出すのははっきりとした目的がある。それは旧約聖書のはるか昔から示されている。アブラハム、モーセといった人々は、旧約聖書の最も重要な人物たちである。
アブラハムについては、
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。・・」
アブラムは、主の言葉に従って旅立った。・・アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。(創世記十二・1~4より)
未知の所、途中でなにが生じるか分からない、そこへ行くまでにどんな困難や危険があるかもわからない。親しかった親族や知人たちから遠く離れて行くことには、当然いろいろの恐れがあっただろう。
しかし、アブラハムはそうした恐れを越えて出発した。それは、踏みとどまろうとする力にまさって、神の遣わす力が強く、アブラハムのうちに力を注いで彼が住み慣れた場所を離れることができるようにしたのであった。
主がアブラハムを遣わして、アブラハムがそれに従って行ったところから、神の民としての歴史が始まったのである。
モーセについてみれば、彼はエジプトから遠い国まで逃げてきてそこで結婚して子供も生まれて平和な生活をしていた。
そのときに、神はモーセに呼び掛け、そのときから彼の人生は根本から違ったものになっていった。それは、神がモーセを敵のただなかへ、エジプトへと遣わすという命令であった。
イスラエルの人々の叫び声が、今わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。
今、行きなさい。
わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」
モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」(出エジプト記三・9~12より)
モーセは自分の弱さを訴え、語るべき言葉を持っていないといって、神からの命令を拒もうとしたが、結局、神の言葉に従って、遣わされることになった。これは、神の民にとって、決定的に重要な出来事へとつながっていったし、それは、世界の歴史においても、きわめて重要なことへと発展していった。
モーセが遣わされなければ、イスラエルの人々は、エジプトにおいて、滅ぼされてしまったであろうし、そうすれば、後の時代に現れたダビデ王や、多くの預言者もなく、キリストも現れることなく、キリスト教の精神も世界に示されることもなかったということになる。
このような、「遣わす」ということの重要性が、初めにあげた主イエスの十二人の弟子たちにも見られる。そしてモーセが遣わされたときに伴っていたのは、命に関わるような危険であった。モーセが命がけでイスラエルの人々を救いだしたあとも、人々は、砂漠の旅の困難を極める生活に苦しみ、モーセに向かって反抗し、殺そうとまでしたのであった。
このような遣わされることに伴う困難と危険は、この十二人の弟子たちの派遣においてもつよく示されている。
主イエスによって遣わされるときには、私たちは安易な気持ちではついていけない。それは、鞭打たれ、死においやられることすらあると予告されている。それは、狼の群れのなかに、羊を送り込むようなものだと言われている。狼は牙をむいて待ちかまえている。しかし、遣わされるものは、その牙に立ち向かうための武力とか権力、多数の人間などいっさいを持っていない。にもかかわらず、主イエスはそうした危険のなかへと遣わすといわれる。
それは、その危険に耐えられる力を与えるからであった。アブラハムやモーセにおいても、未知の砂漠を越えていくための力、勇気が与えられ、モーセには、語るべき言葉を与えると約束され、さらに神の力を発揮する杖をも同時に与えられて出発することになった。
十二弟子たちも、病人をいやし、死人を生き返らせるほどの力、ライ病すら清める力を与えられた上で、遣わされたのであった。
また、捕らえられて、尋問されるときでも神の霊が与えられて、語るべきことが与えられると約束されていた。
イエスを信じるというただそれだけのために、「すべての人に憎まれる」とまで言われている。これは、文字どおりの意味ではないことはわかる。パウロにしても多くの迫害を受けた一方では、必ず少数ながら受け入れる人も現れ、そうした人々によって支えられて前進していったからである。
しかし、これはすべての社会の人々、地位が高い人、無学な人、親族、家族、権力者、庶民などなどあらゆる階層や状況にある人々から憎まれるというと預言しているのだと思われる。事実、主イエスもそのように、当時の支配階級や庶民たちからも憎まれた。それは裁判のときに、あらゆる階層の人々が集まっていた群衆たちから、処刑せよ、処刑せよとの叫びがあがったという事実からもわかる。また、家族からすら受け入れられず、取り押さえられそうになったこともあった。
主イエスすら、悪魔の頭だというような激しい憎しみを受けた。(25節)それなら、主イエスに従う者たちも、そうした憎しみを受ける覚悟を持っている必要があるのだと言われている。また、イエスと同様に家族からも敵対され、家庭的な平和をも失ってしまうことも預言されている。
このような、厳しい状況を知らされたらだれが、従っていけるだろうか。
しかし、長いキリスト教の歴史において、こうした厳しいことが現実に世界中で生じていったのにそれでもなお、遣わされていく人たちは絶えることがなかった。
それは、26節以降にある、主イエスの励ましの言葉と力をゆたかにその魂に受け取っていたからであった。
人々をおそれてはならない。(26節)
体を殺しても魂を殺すことのできない者たちを恐れるな。(28節)
雀一羽さえ、父なる神の許しがなかったら、地に落ちることはない。あなた方の髪の毛すらも一本残らず数えられている。だから恐れるな。(30ー31節)
神から遣わされた者であっても、人間であるから恐れは生じる。
「恐れるな」という言葉は、つねに神をすでに信じている人に向かって言われている。神を信じないなら、恐れは決してなくなることはない。愛の神が存在しないなら、そしてそのかわりに冷たい偶然と人間の悪意のようなものだけがあるのなら、恐れるのは当然である。
ここで、主イエスが「恐れてはならない」と繰り返し語りかけているのは、単に○○してはならないという戒めではない。雀一羽ですら神は見守っているし、数十万本もある髪の毛の一つ一つをも知っておられるほどに、地上世界のものをすべて見つめているのであって、そのことを本当に私たちが知っているなら、人間への恐れは自ずからなくなっていくと言われているのである。
「恐れは、なにか正しくないことのしるしである。その正しくないものを探し出して徹底的に克服しなさい。そうすれば、おそれは苦しいものではなく、むしろ正しい生活への道しるべとなる。」(ヒルティ・眠れぬ夜のために上・一月二五日)
ここで、ヒルティが指摘している「正しくないもの」とは、一言で言えば、神への不信である。自分の欲望とか、人間に頼る気持ち自体が正しくないものであって、それが神への信頼よりも強いときに私たちは恐れを感じるようになる。
キリストが私たちを招いて信じる者として下さったのは、単に私たち個人の平安のためでなく、主からの平安を受けて、それを他者にも伝えるために遣わされた者となるためであった。そして、どんな人でもその人でなければできない主の証しのために、それぞれの場へと遣わされているのである。
家庭であれ、職場であれどんなところであっても、私たちは主を信じるときには、同時にその場へと遣わされた者となる。たとえ病気で入院していても、その病院のなかに遣わされた者となる。
キリストのように、生きているときだけでなく、十字架にかかって殺される時においてもなお、神の力を証言するために遣わされた存在であったし、さらに、復活をして、死を越える力があることを人類に示すために遣わされたお方であった。
キリスト教の最初の歴史から、人々はつぎつぎと遣わされていった。ピリポという人はユダヤの国に隣接したサマリアへ、そしてエチオピアから来た未知の人へ、さらに、名をあげられていない数知れぬ人たちは、それぞれに遣わされて行った。迫害をされ、エルサレムから追放されたのであったが、その行く先々が遣わされた場として彼らは、キリストの福音を宣べ伝えていった。
人間の心臓が全身につぎつぎととどまるところなくその人が死ぬまで血液を送り続けているように、キリストはこの世のいわば心臓のように、世のおわりまで、呼びだした人をつぎつぎと必要なところへと遣わし続けているのである。
ちょうど、空から降った雨が、山々や大地に注がれ、それは見えなくなって消えたかと思われるけれども、地中深く浸透して、草木をうるおし、また川となって海に注がれていく。同様に、遣わされた者は、その働きがどんなに小さくとも、み言葉を持っている限り、そのみ言葉はどこかの他者の魂のなかに注がれ、うるおし、見えない流れとなってこの世を流れていくのである。
休憩室・ウメ、自然と人工、星○ウメ
冬にはウメとスイセンがとりわけ印象的です。いずれも北風の吹くただ中にあって、美しい花を咲かせ、しかもいずれも心をひく香りをあたりに漂わせています。
ウメについては、わが家には白梅と紅梅があり、今年はことに多くの美しい花を咲かせています。
かつて旧約聖書の預言者エレミアはウメとほとんどよく似た冬に咲く花(アーモンドの花)を見るように神に導かれ、そこに神の言葉を聞き取ったことが思い出されます。他の植物はほとんど枯れたようになっているのに、一人目覚めて白い花を咲かせているあり様こそ、神の言を託されたエレミアの前途を暗示するものであったのです。
現代の私たちにもウメの清楚な姿はそれを通して何かを語りかけているようです。
○自然と人工
太陽はどんな仕組みであんなに膨大なエネルギーを放出しているのか、だれでも一度や二度は疑問に思ったことがあると思います。いくら大規模な山火事になっても、大火があっても少し離れたら熱くもなんともないのに、恐ろしく遠い太陽にあたると暖かく、日陰では寒く感じます。 それは想像もつかない仕組みであのような大量のエネルギーを出しているのだろうと思われるはずです。
それは、核融合といって水素の原子核が核融合をしてヘリウムになるときに莫大な熱エネルギーを放出するのです。
これは地上でもこの核融合を起こすことができるようになりました。それは、一九五四年にアメリカで完成された水素爆弾です。これは広島での原爆の一千倍もの破壊力を持っているものまで作られました。
広島原爆でも一瞬にして八万名が即死し、その後五年間の死者を併せると、その原爆のために二十万人もが犠牲となるほどに想像を絶する被害を与えるものでした。水爆はその広島原爆の一千倍の威力をも持つというのですから、これほど恐ろしい大量殺人兵器はありません。
原子力科学という最も時代の先端をいく科学技術の生みだしたものが、このようなおそるべき兵器であること、それは人間が物を作るという営みがいかに根本的な欠陥を伴うかを思い知らされます。
しかし、このようなおそるべき破壊力をもった核融合という現象によって、じつは人類、否すべての地球上の生物は生きているのです。それが太陽です。人間が作ると途方もない殺戮兵器となるのに、神はそれをはるか彼方に創造して地球での生活に不可欠なものとされているのです。
また、地球がどうしていつまでも熱いのか、時折噴火する火山などで私たちは不思議に思います。このことについていろいろと昔か考えられてきましたが、これもようやく百年ほどまえになって判明してきたのです。
この熱源の重要な一つに、地球内部の岩石のうちに含まれるウランやカリウム、トリウムなどの放射性元素が放射線を出しながら別の元素に変わっていくときに放出する熱があります。
例えば、カコウ岩なら、数千万年で自身を完全に溶かすのに十分な熱量を生じるということです。
このような一部の元素が壊れるときに放射線を出すという現象は、地上でも現在では原子力発電所の内部で放射性廃棄物として大量に生じています。これは何よりも取扱いの難しいものとなって、原子力発電の最大の難問の一つでもあります。例えば、プルトニウムはその放射能が半分になるまでに二万四千百年もかかるのであり、これは人間の生活する時間から言えば、事実上永久的と言ってよいほどに放射線を出し続けるのです。
自然界ではこのように太陽にしても地球にしても、莫大なエネルギーや危険な放射線を出す現象が驚くべきことですが、たくみに地球上のあらゆる生物を活かすことにつながり、そのエネルギー源ともなっているのです。
○冬は星が一年中で最も美しく、かつ清く見える時です。冬には戸外で花火とか飲み食いで遊ぶ人も少なく、静かな戸外で凍るような冬の夜空を見ると、自然のなかでは最も私たちを高みに引き上げてくれるものです。
この星の世界の深みについて哲学者カントの有名な言葉が思い出されます。それは、彼の三つの代表的な著作の一つ「実践理性批判」の結論に書かれている言葉です。
「くりかえし、じっと反省すればするほど常に新たにそして高まりくる感嘆と崇敬の念をもって心を満たすものが二つある。それはわが上なる星の輝く空と、わが内なる道徳律である。」
星の輝く大空を見つめるとき、そこに無限に広がる宇宙を創造した見えざるお方へのおそれを呼び覚まされます。
そして私たちの精神の奥深くに、真実なもの、正しいものを直感的に感じとり、そうした真なるものへ近づきたいという深い要求があり、「なすべき」世界があることを感じるものです。この二つによって、私たちの外なる世界と内なる世界の双方に無限なる世界があることを知らされ、神の御手をそこに感じさせるものがあります。
キリスト者の俳句から
○祈ること怒涛のごとし去年今年
○一冊の聖書がいのち冬ごもり
・これはハンセン病に苦しみつつも俳句にその信仰の心を歌った、玉木愛子のものです。ここには、手足の自由もなくなり、目も見えなくなってしまった彼女は残された仕事として祈ることを心をこめて続けていたのがこの俳句でうかがわれます。 祈りに力をこめ、怒涛のごとくというほどに祈りが波のように押し寄せてきたのを感じているのです。
○一行の詩はわが祈り寒の星
・植木道子さんの俳句で、「ベテスダ奉仕女母の家」にて奉仕女性として社会福祉の働きをされている人だということです。一行の詩とは俳句のことですが、その短い俳句に祈りをこめ、冬空にきらめく星がその祈りの心に近いものとなって感じられる様子が歌われています。