今月のみことば |
2000年4月 第471号・内容・もくじ
二つの道(申命記三十章より) |
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読書会から (内村鑑三著作より) |
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返舟だより「はこ舟」誌の名称 |
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復活と春
春になって枯れたようになっていた木々からいっせいに、新芽が現れてきた。あたかも、暖かい日の光に命を与えられ、押し出されるようにして生き生きした新緑が木を覆うようになった。それらの樹木を見つめると、その背後の命に満ちた存在が感じられてくる。
私たちの存在も、いずれ枯れたようになって死にいたる。
けれども、神の命は春の太陽のように、私たちの枯れた存在を新しく生かせて下さる。どんなに、病気でからだがむしばまれていようとも、またいかに罪深い者の心をも、そして汚れた罪にまみれた者であっても、ただ、神への真実なまなざしを持つとき、私たちはそこからまったく異なる新しい命に生かされるようになる。
主はこの山で、すべての民の顔を包んでいた覆いと、すべての国を覆っていた布を取り除き死を永久に滅ぼしてくださる。
主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民が受けたはずかしめを地上からぬぐい去ってくださる。(イザヤ書二十五・7~8)
悪と災害
この数年、日本には外国でも聞いたことのないような驚くべき出来事が生じてきた。宗教と称するものが大量殺人を周到に計画して実行にうつそうとしたことや、まだ子供でありながら、同じような子供の命を奪ったり、保険金を得るためにわが子をすら殺したり、薬物で多くの人の命を奪うことを企てたり、また、五千万円という多額の金を中学生が暴力などで継続的におどしとるなど、想像もできないような悪事をする。
また、他方大きな地震や、噴火、そして原子力関係の事故など、いろいろと生じてきた。なぜ、そんな悪事や人間が苦しむような災害が生じるのだろうか。
こうした事実だけを見ていたら、神が存在するなどとはとうてい思えないだろう。
そしてこのような、悪や災害は人間の生まれたときから続いている。
聖書の一番最初の家族の記事は、驚くべきことだが、兄弟をねたみ、憎んで殺すという目を覆いたくなるような記事から出発しているのである。
そしてすでに旧約聖書のはるか昔から、神の選んだ民であっても、雨がふらず、作物がまるでできないために生きて行けず、遠いエジプトまで行かざるをえなかったことも書かれている。
また、新約聖書では、最も完全な愛のお方であった、イエスが十字架でのくぎ付けという最もおそろしい刑罰を受けて殺されてしまった。
このように、聖書は決して人間の願う通りにはなっていないことをはっきりと最初から記している。
聖書にはこのような悪や、災害などからの苦しみのただなかにおいて、人間が神に導かれ、それらに勝利していく道が示されていると言えよう。
復活があるということによって、あらゆる悪に勝利するための最大の道が示されていることになる。死とは、あらゆる悪や病気、災害あるいは老齢による苦しみの結果として訪れるものであるが、復活とはその死からの勝利であり、死から神の輝かしい命に復活することだからである。
神は、復活という光をもって、この世の悪や災害に打ち倒されない道を人類に示されたのであった。
命と死と
復活というと、死んだ人がよみがえることであって、そんなことはあり得ない、自分たちには何の関係もないと思っている人がほとんどです。
復活ということは聖書ではどのように言われているのかを考えてみます。
エデンの園のことはたいていの人が聞いたことがあるはずです。しかし、そのエデンの園の中央に何が生えていたと聖書に書いてあるかというと、こんどはほとんどの人が正しく答えられないと思います。
主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。(創世記二・9)
ここで見られるように、園の中心には、命の木と、善し悪しを知る木の二つを生えるようにされたということです。多くの人は、エデンの園には、食べたらいけない木だけがあったと思っているようです。
善悪を知る木というのは、わかりにくい表現です。原語では、善と悪というのは、トーブとラアという言葉ですが、この二つの言葉は、道徳的な善悪だけでなく、多方面の内容を持っています。例えば、善と訳されたトーブという原語は、「美しい、愛する、かわいい、貴重、きれい、行為、幸福、親しい、幸い、善行、宝、正直、正しい、反映、福祉、恵み、安らか、豊か、良い、喜び、立派」など、およそ五〇種類もの訳語があてられています。
悪と訳されたラアも同様で多様な訳語が使われています。
このように善悪の木とは、単なる道徳的善悪を知る木でなく、あらゆるよいもの、悪いものを知るということであり、単にそうしたさまざまのことを知るというだけでは、人間は死に至るということを意味しています。
人間は知識欲があります。どこまでも知ることを求めていきます。それが現在のような高度の科学技術の世界になってきた理由です。しかし、そのような知識だけを押し進めると、原爆や水爆、原子力発電のような最先端の科学技術の産物が人間を大量に殺し、また環境破壊によって人間全体が住めなくなっていくという事態が生じています。
エデンの園には、食べてよく、見ても美しいあらゆる木が生えていたとあります。にもかかわらず、あらゆるものを知る木と、命の木があったのです。
これは、どんなに食べ物が豊富にあってもなお、知ることへの欲望は決してとどまることなく、続いていく。しかしそれだけでは死に至るということを暗示しています。
そうした口から入る食物や知識欲、探求欲だけでは最終的には死んでしまうのであって、園の中央にあったもう一つの木、命の木が重要になるのです。
現代の日本はどうでしょうか。口から食べる食物は有り余るほどで、食べ残しがゴミとして大量に捨てられている状態です。また知識も学校教育が十分となって、いくらでも取り入れることができるようになっています。パソコンによって世界中の情報や知識は部屋にいて自由に取り入れることができるようにすらなりました。
しかし、そのように知識がいくら増しても、人間の心はかえって以前にはなかったようなひどい悪事をすることが生じています。
これは、やはり神抜きでいろいろの知識を得てもそれだけでは死に至るという聖書の記述を思うのです。食物や知識だけでは、決して本当の心の幸いには至らないというのを現在の日本の状況は示しているといえます。
私たちにとって本当に必要なのは、命の木なのです。その命の木については、旧約聖書はずっと不思議なほど沈黙を守っています。エデンの園にあった命の木はその後どうなったのか、それははるか後のイエス・キリストの出現まで待たねばならなかっのです。
食べるだけでも、また学校教育や、テレビ、新聞雑誌その他の手段によって知るだけでも私たちは生きてはいけない。それはついには死に至るだけです。
人間のあらゆる営みも結局はみな滅んでいきます。それはどんなものよりも巨大な流れといえます。人間も社会も飲み込んでいくし、この地球や太陽すらその滅びへ向かう流れには抵抗することができないのですから。
しかし、そうした滅びへの流れと全く異なる流れがあります。それが命への流れであり、歴史の中で最も鮮やかに示したのが二千年前のキリストの復活という出来事であったのです。
だれもが一番求めているものは何かというと、実は「滅びないもの」です。友情にせよ、愛にせよ、また健康にせよ、さらには清い心などそのようなものが、一時的でなく、ずっと続いていくならどんなによいかと思います。
けれどもどんなに愛する人も、また健康な人もいつかは死んでいくし、健康も衰えます。
どんなことがあっても、死によってさえも滅びず、変質しないもの、それこそ私たちが魂の奥深いところで求めているものです。
キリストの復活ということは、そのような人間の深い願いにこたえるものだったのです。
聖書の最初の創世記には、滅びに至る木、そしてふつうに食べてよい、見ても美しい木々があり、命の木もありました。しかし、最初の人間はその命の木の実を食べることはできなかっのです。
そして長い人類の命への願いがかなえられ、初めて朽ちることのない命が与えられる
ことになりました。創世記のエデンの園にあった命の木の実を食べることが許されたといえます。
それゆえ、四つの福音書で最後に書かれたヨハネ福音書では、その命のことが最もはっきりと強調されています。ヨハネ福音書の冒頭に、地上に来られる前からのキリスト(「言」と訳されている。原語はロゴス)に命があったと記されています。
万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。(ヨハネ福音書一・3ー4)
そしてその福音書の本論の最後にもつぎのように書かれています。
これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。(ヨハネ福音書二十・31)
そして聖書の最後の書物である、黙示録でもその終わりの部分において、つぎのように、命がゆたかに与えられることが記されています。
わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。・・
神は自ら人と共にいて、その神となり、
彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。
最初のものは過ぎ去ったからである。」
すると、玉座に座っておられる方が、
「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、
「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。
また、わたしに言われた。
「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の泉から価なしに飲ませよう。
勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。
わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。(新約聖書・黙示録21章より)
現代の日本は豊かで物はあふれています。しかし、聖書で約束されている神の命を知っている人はきわめてわずかです。
主よ、私たちに神の命、永遠の命をゆたかに与え、私たちからさらにあふれでて、この命を知らない人たちへと流れ出ていきますように。
嘘と真実
この一年間ほどの間に、私たちはずいぶんと高い地位にある人たちの嘘を知らされてきた。県警察本部長という人が、いとも簡単につぎつぎと嘘をつく。
そしてとくに今回、自民党の政治家の指導的人物たちの不真実が際だったのは今回の首相交代劇である。一国の代表者が入院したというのに、そのことを二十二時間もかくしていた。その上、入院した日の首相の動きについても、「公邸で過ごした」とか「資料整理などして過ごした」などと、全くのウソを全国民と世界の人たちに向かって発表したのである。
それも自分たちの地位や勢力を守るためであった。国民のため、真実のためなどという発想はまるでない。
わずか数人で秘密に話し合い、ゲームか何かをするようにして首相をきめてしまったのだから恐れ入る。
しかも、政府のスポークスマンである官房長官という重要な職務の人が、「前首相から、検査結果によっては首相臨時代理をやるよう指示された」といいながら、じつはそれは嘘であって、「前首相から、何かあれば万事よろしく頼む旨の指示を受けた」というように修正された。このような重大なことについていとも簡単にウソを国民に公表するという姿勢では、このことすら、本当にそうであったのかと疑わしくなる。
こうした嘘は、全国民や世界の人々に対して言われたのであり、膨大な数の人たちがその嘘を聞かされた。そして、日本人の代表者は平気で嘘を世界に向かって発信する人間だということを表明したことになる。
こうしたことは、一般の人々に対しても目には見えないが、深い悪影響を及ぼすことが予想される。真実はないのだ、国家を代表する人でも嘘を公然と言ってもいいのだというような、真理をふみにじる心を宣伝したという点においてである。
真によいことは、目には見えない心のなかにある。同様に本当に悪いことは目には見えないところに生じる。
嘘が地位の高い人々に公然と言われるということは、今に始まったことでない。江戸時代には、キリスト教のことを邪教だと偽りのことを教え込み、その偽りをもとにして迫害を続けていった。そして明治になっても、人間にすぎない天皇を生きた神だというひどい嘘を学校でも教えてきた。
原子力にしても、絶対安全だなどということを言い続けて、そのあげくに、チェルノブイリ原発の大事故が生じたし、日本でも東海村の臨界事故が生じた。
日本は長く、核兵器を持たず、作らず、持ち込ませないという非核三原則を掲げてきた。しかし、以前から言われてきたが、それは嘘であって、じつは、アメリカはずっと前から核を積んだ艦船を日本に寄港させていたのであった。それを証明する公的文書が見いだされて公表されても、なお、日本の外務省は以前の言明が嘘であったことを認めようとはしないで、核を積んだ船は来ていないなどという嘘を重ねている。
今回の首相交代であのような嘘を、いとも簡単に言ってのける神経であることからすれば、彼らがこの問題についても嘘を言っても平気だということは容易に考えられる。
聖書でも、この嘘の問題ははじめから出てくる。アダムとエバの誘惑のことは、たいていの人が知っている。禁断の実を食べたという通俗的な説明も知られている。しかし、この件では、神がエバにその罪を指摘したとき、ヘビがそそのかしたのだといって自分の決断で食べたことを偽った。
しかし、神は、真実なお方であり、決して嘘をつかないお方である。
旧約聖書にしばしば現れる神のご性質として、「慈しみ」と「真実」がある。これは、モーセがシナイ山で神から直接に授かったとされる戒めのなかにも現れる。神は真実である、だからこそ、私たちはその神にすがることを心から願う。
神は真実なのだから、私たちもその神に結びつくとき自ずから神の真実なご性質の一端を受け取ることになる。
私たちも時として真実を貫けない弱さに苦しむことがある。しかし、そうした時でも、心から赦しを求めて祈るとき、真実な神はその赦しを与えて下さる。
嘘で満ちているこの世のただなかにおいて、このような、決して嘘のない存在、神とキリストを与えられていることはなんと幸いなことであろう。
二つの道 ・申命記三十章より
申命記は創世記、詩編、イザヤ書などとともに新約聖書に特に多く引用されているので、その意味でとくに重要な内容を持っていると言えます。
ここでは、とくに三十章を中心としてその一部の内容を学びたいと思います。
あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、
あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、
あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。
たとえ天の果てに追いやられたとしても、あなたの神、主はあなたを集め、そこから連れ戻される。・・
あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる。
あなたは立ち帰って主の御声に聞き従い、わたしが今日命じる戒めをすべて行うようになる。・・
あなたが、あなたの神、主の御声に従って、この律法の書に記されている戒めと掟を守り、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主に立ち帰るからである。
わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。・・
御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。
見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。
わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。
もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるならば、
わたしは今日、あなたたちに宣言する。あなたたちは必ず滅びる。ヨルダン川を渡り、入って行って得る土地で、長く生きることはない。
わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。
あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、
あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命であり、・・(旧約聖書・申命記三十章より)
申命記とは、わかりにくい書名です。現在の私たちが全く使わないような名称で、この名前を見ただけで敬遠したくなるような書名だと言えます。ですから、聖句は多くの人々に引用されるけれども、申命記からの引用はほとんど見た記憶がありません。
申命記という書名がなぜつけられたかについて。
英語の書名は、Deuteronomyといいます。ギリシャ語で、deuteros は second の意味で、それはギリシャ語の duo(2の意)から来ている。deutero + nomos(法律)からこの Deuteronomy は作られている。もともとは、旧約聖書の七十人訳が申命記十七・18の「この律法の写し」というのを、「この第二の律法」(to deuteronomion) と不適切に訳したところから来ている。しかし、内容的には、この名称は不適ではない。出エジプト記の二十・22-二十三・33 を再び載せているからである。日本語の名称は、英語訳から中国語になったものをそのまま受けたもので、「モーセが神から受けた命令をもう一度申す記述」という意味で申命記と名付けられている。
しかし、意外なことに新約聖書では、詩編、イザヤ書などとともに特に多く引用されている書物なのです。例えば、主イエスが荒野の誘惑を受けたとき、悪魔がイエスの非常な空腹をみて、石をパンになるように命じてみよと言ったことがありました。そのとき、主イエスが答えたのは、自分の言葉でなく、旧約聖書の申命記八章からの言葉であったのです。
イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』(申命記八・3)と書いてある。」(マタイ福音書・四・4)
さらに、このサタンの誘惑において、「神殿の屋根から飛び降りたらどうだ、天使が支えてくれると書いてあるのだから。」と言ったときに、主イエスはつぎのように言われました。
イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。(マタイ福音書四・7)この引用された言葉もまた、申命記六・16にある言葉です。
そして第三の誘惑で悪魔が、自分にひれ伏したらすべての国々やその栄華を与えると言われたとき、主イエスはつぎのように答えて、サタンの誘惑を退けたのです。
すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」(マタイ福音書四・4)
ここで引用されたのは、申命記六・13にある言葉です。
さらに、最も重要な戒めは何かという問いかけに対しても、主イエスはつぎのように言われました。
イエスは言われた。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(マタイ福音書二十二・37)
これは、つぎの申命記の言葉をそのまま引用したものです。
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(申命記六・5)
また、使徒パウロはローマの信徒への手紙のなかで、
「み言葉はあなたの近くにあり、あなたの口に心にある」と申命記三十章14節を引用して
「口でイエスは主であると公けに言い表し、心で神がイエスを死人の中から復活させたと信じるなら救われる。実に人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる。」と言っています。
そしてさらに、ロマ書の次のような箇所にも申命記から引用しているのです。
それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、「わたしは、わたしの民でない者のことであなたがたにねたみを起こさせ、愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」(申命記三十二・21)と言っています。・・(ロマ十・19)
・・他の者はかたくなにされたのです。
「神は、彼らに鈍い心、見えない目、聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」(申命記二十九・4)と書いてあるとおりです。(ロマ十一・8)
旧約聖書は膨大な内容がありますが、以上のように主イエスやパウロが多くの箇所を申命記から引用していることがわかります。
ことに主イエスは、伝道の最初の荒野で誘惑を受けたときにも、サタンに対抗するべく言われた三つの旧約聖書の箇所はすべて申命記であったこと、また最も重要な戒めというところでもやはり申命記を引用されたことも主イエスの心のなかに申命記が大きく位置を占めていたことをうかがわせます。
はじめにあげた申命記三十章において現在の私たちにもそのまま受け取れる重要なことは、つぎのようなことです。
1)私たちの前途には祝福と災いの二つの道があること。(1、15節)
2)祝福の道を歩むためには、心を尽くし、魂を尽くして神の声に聞くこと。(2、8、20節)
3)神に立ち帰ること(8、10節)
4)そしてやはり心を尽くし、魂を尽くして神を愛すること。
3)その結果として命を与えられること。(6、16、20節)
などが言われています。
こうした内容は、新約聖書で繰り返し言われていることに通じるものがあります。
二つの道ということについては、主イエスの次に示す教えで知られています。
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。
しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ福音書七・13、14)
申命記に言われている祝福の道とは、主イエスの言われた狭い門から入る道でありますが、それは滅びることのない命へと続いています。そして災いやのろいの道とは、主イエスの言われた滅びに通じる道です。
私たちが生きていく道というのは、人それぞれであり、数しれない道がある。ある人は、出世の道、ある人はただ安定した豊かな生活を求める道、あるいはスポーツや芸能で有名になろうとする道、またある場合には、賭事や快楽を求める道などなど、また子供には、勉強だけする道から、遊びやゲームばかりする道などと、人間はじつにさまざまの道を各自で選んで生きています。
しかし、聖書においては、じつにはっきりと人間の道は、祝福の道か災い(のろい)の道か、そのいずれかだと言っています。このように単純化してとらえる姿勢は、聖書においてはあちこちで見られます。
主イエスも有名なぶどうの木のたとえで言われました。
人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。(ヨハネ福音書十五章5、6)
要するに私たちが生きる道というのは、神に聴き、神に従う道であり、主イエスに結びついて生きる道だということです。
また、この申命記でも言われている重要なことは、「神に立ち帰る」ということです。それは、神に聞くことが根本であっても、人間は人間の声に聞き、人間的な欲に引っ張られるということがじつに多いわけです。そのようなときに、重要なのは、神に立ち帰るということです。滅びとのろいの道とは真実と愛である神に背く道ですが、その方向から方向転換をして、神の方向へと再び向きなおることです。
道は神の方向か、神に背くかという二つしかないので、私たちはまちがった方向に進み始めたら、そのことに気づいたとき直ちに方向転換して神の方向へと向かえばよいわけです。
主イエスが初めて、新しい福音を宣べ伝え始めたとき、その内容の要点は、「悔い改めよ、神の御支配は近づいた。」ということでした。この悔い改めという言葉も、原語(ギリシャ語)の意味は、心の方向転換ということです。
十字架で処刑されるほどの重い犯罪人であっても、心から主イエスに方向を向け変えて帰依するとき、あなたは今日、パラダイスにいるのだとの約束を与えられたことも聖書に記されています。
つぎにこの申命記の記述で特徴的なのは、「神を愛する」ということが繰り返し強調されていることです。旧約聖書では神はおそれるべき存在であって、神に近づいたりすると人間の汚れのために、殺されるというほどでした。(出エジプト記十九章)
旧約聖書には、神を愛するという言葉は、全体としてみると申命記以外にはごく少なく、申命記には十数回現れ、ヨシュア記に二回ほど現れる以外にはほとんど見られません。
このことは、ほかの宗教を考えてみてもいかにこの申命記が深い啓示を受けていたかを示すものになっています。
この地球や宇宙の数々の驚くべき現象や、不可解な出来事をまえにして、それらは大地震や台風などのようにときにはあまりにも非情なもの、胸の痛むような自然現象も生じます。
そのような事実をはっきりと知ってなお、そのような自然現象を引き起こす神を愛するということはふつうなら到底できないことです。そうした得体の知れない力は自分にどんな厳しいことを起こすかわからないので自ずからそのような力には恐れの念が生じるのです。しかも、暴風や大波、自然に生じる山火事、津波、竜巻、稲妻など昔の人にとっては神秘きわまりない現象であって、そうした巨大な力を前にしては人間の力など無に等しいほどのものです。そしてそのような自然の激しい力に人間が巻き込まれるとひとたまりもなく、死んでしまいます。
このようなことから、どこの人間も自然の背後の神を愛するなどとは到底思うことはできなかったのです。愛とは、最も身近な感情であり、だれでも何らかのものを愛しているはずです。
神を愛することができるということは、このような自然現象を見つめるだけでは生まれてはこないのであって、神からの啓示がなければ到底神を愛することは考えもしないことなのです。
キリストがこの申命記の言葉を重要なところで引用していますが、申命記は人間と神とのあるべき姿をはっきりと教えてくれている書物です。
それならばどうしてキリストが必要となったのか、申命記のような古い書物にすでにあることを、キリストは繰り返しただけではないのかと疑問に思う人もいるかも知れません。
申命記では教えたのであり、神に対してどうあるべきかわからない人々に光を与えて指し示したと言えます。そして、キリストはそうした昔からの教えのうちから特別に重要なものを再び掲げ、それをたんに教えるだけでなく、それを実行するために妨げとなっている罪を取り除き、実際に歩めるようにして下さったのだとわかります。
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ福音書十四・6)
休憩室
○讃美歌と聖歌
私たちの礼拝とか家庭集会では、讃美歌、讃美歌第二編とともに、聖歌もよく使われています。讃美歌と聖歌とはどうちがうのですかと何度か尋ねられたことがあります。
ここでこの両者について、その違いなどを考えてみます。
日本では、明治政府になってもなお、キリスト教迫害の方針は変わりませんでしたが、一八七三年になってようやく、キリスト教禁止の時代が終わって信仰の自由を許されることになりました。
その時からとくにアメリカやイギリスで歌われていた讃美が多く入ってきました。アメリカやイギリスの宣教師たちがそれぞれの教派で用いていた讃美を日本語でも歌えるようにということで、初めての日本語讃美歌は一八七二年に宣教師会議が横浜で開かれたときに紹介されました。
また、最初の日本語の讃美歌集は一八七四年に横浜で出版されたものだとされています。
その後、「讃美歌」という名称の讃美集が日本基督一致教会という初期の合同された教会において出版されました。これが、一八八一年です。今から百二十年ほど昔のことです。
その後、組合教会、メソジスト教会、浸礼教会などいろいろの教派がそれぞれの讃美集を出すようになりました。
しかし、教派別の讃美集では、ともに歌えないなど不便があるので、統一された讃美集を出そうと言うことになり、一九〇〇年に、超教派の讃美歌委員会ができたのです。そうして生み出されたのが、「讃美歌」(一九〇三年)で、これはキリスト教各教派が共通に使う讃美歌として編集された最初のものとなりました。現在日本中で用いられている「讃美歌」はこの流れを受け継いでいます。
これは、追加版が讃美歌第二編として出され(一九〇六年)、さらに、改訂されて一九三一年に「讃美歌」が新しく発行されました。これは、それまでに現れた各種の讃美歌の集大成となりました。
それが太平洋戦争中も用いられていましたが、戦時には、時局に迎合するような内容の「興亜讃美歌」などというものが日本人の作詞で作られ、太平洋戦争を「聖戦」とし、「八紘一宇(はっこういちう)」を神の国と同一視するようなまちがった内容のものを作ってしまったことがあり、悲しむべき歴史の傷となりました。
こうした過程を経て、戦後従来の讃美歌の内容、言葉づかいなど全体を再検討する必要に迫られて、日本キリスト教団讃美歌委員会が一九四九年から讃美歌の改訂にとりかかり、一九五一年春に改訂の委員会を組織して、約三年半を要して、一九五四年に現在の「讃美歌」が出版されました。これが、ごく最近まで、全国の教会で「讃美歌」としてひろく用いられてきたものです。
しかし、この「讃美歌」も伝統的な讃美が主体であったために、それよりも伝道的な歌、また若い人にも向くような讃美など、さらにより多様な讃美を取り入れた讃美集が必要となり、その結果出版されたのが、「讃美歌第二編」で、一九六七年に出版されました。
また、その後も、日本キリスト教団讃美歌委員会の委員のほかに、カトリック教会やルーテル教会、聖公会からの編集委員なども加えて、エキュメニカル(教会一致)的な委員構成として、現代の信仰の歌としてふさわしい歌を選び、それが「ともに歌おう・新しい讃美歌五十曲・」と題して一九七六年に出版されました。
この「讃美歌」は現在まで半世紀ちかく歌い継がれてきていますが、数年前から、改訂作業がはじまり、一九九七年に「讃美歌21」という書名で出版されました。
この讃美歌集は、新しい讃美歌で必要とされるつぎのような歌を取り入れるという観点から編集されています。
1)長い歴史を通した伝えられてきたキリスト教信仰の内容を現代にも生かせる歌。
2)以前の讃美歌は個人的な讃美歌が多かったのに対して、新しい讃美歌は、信仰をともに証しし、信徒が共に歌える歌。
3)キリスト教信仰をまだ持っていない一般の人々に呼び掛けるための伝道的な歌。
4)教派にとらわれない歌。
5)欧米だけでなく、世界各国の歌。
6)礼拝以外の家庭での集会や聖書研究会などいろいろの集会でも歌えるもの
7)歌詞に使われている言葉が誰にでも理解できる歌。
以上のような方針で編集された讃美歌21が今後は、従来の讃美歌に置き換えられていくものと考えられます。
キリスト教の讃美には、これまで述べたような「讃美歌」の流れとちがった讃美があります。
それが「聖歌」です。
この源流は、アメリカにあります。もともと、アメリカの教会は、主としてイギリスの讃美歌を受け取って用いてきました。しかし、十八世紀の中ごろに、エドワーズという著名な伝道者が現れ、ついで十九世紀の中ごろにはムーディといった大衆伝道者たちが大きな働きをしました。
この大衆伝道の動きのなかから生み出された讃美がゴスペル・ソングであり、それは「福音唱歌」と訳されてきました。
この讃美は、従来の讃美歌が、礼拝堂のなかでの厳粛な、荘重な雰囲気で歌うのが目的であったのに対して、まだ信仰を持っていない人、職業も教養などさまざまなタイプの人に向けての讃美であったために、それまでの讃美歌とは自ずからちがった特徴を持っていました。
それは、分かりやすい言葉で、メロディーも歌いやすく変化に富んだものが多く含まれています。そして、伝道的目的が重要とされていたために、未信仰の人へ語り掛けるような内容の歌、あるいはキリスト者が救われた喜びや願いを歌う内容のものが多く含まれています。そのため曲は概して明るく、短調の曲がまれで、ほとんどが長調の曲となっています。 こうしたゴスペルソングの最も初期のもののうちに含めることができる曲が、讃美歌のうちでも最も親しまれていると思われる「いつくしみ深き」(讃美歌312番)です。
この讃美歌は、前述の大衆伝道者、ムーディに同行していた福音讃美の指導者として有名であったサンキーらが編集した「福音讃美歌・聖歌」に収められ、それから全アメリカに広く知られて愛唱されるようになったものです。
この曲は、日本においても、明治時代に「星の世界」(*)という題で、中学唱歌として取り入れられたので、ほとんどの日本人にとっても親しい曲となりました。
ゴスペル・ソングの代表的な作者は、全盲の女性であったファニー・クロスビーです。彼女が作った讃美歌(作詞)は八千にも及ぶということです。彼女の作った讃美歌は現在の讃美歌にも八曲が収められています。このように、現在の「讃美歌」にも、ゴスペル・ソングに含まれる曲はかなり収められています。
伝統的な讃美歌の例として、讃美歌66番をあげてみます。
聖なる 聖なる 聖なるかな
三つにいまして 一つなる
神の御名をば 朝まだき
起きいでてこそ ほめまつれ
聖なる、聖なる、聖なるかな
神のみまえに 聖徒らも
かむりを捨てて ふしおがみ
みつかいたちも 御名をほむ
これに対して讃美歌312番はつぎのような内容です。
慈しみ深き 友なるイエスは
罪とが憂いを 取り去りたもう
心の嘆きを 包まず述べて
などかは下ろさぬ 負える重荷を
いつくしみ深き 友なるイエスは、
我らの弱きを 知りて憐れむ
悩みかなしみに 沈めるときも
祈りにこたえて 慰めたまわん
これらの讃美歌の一節と二節を比べてみました。これはメロディーにおいても、312番のほうは、美しいメロディーでだれの心にも親しみやすいものです。
これは、主イエスがいかに自分の心の友となり、慰めとなって下さるかという信仰の実感を歌ったもので、未信仰の人への信仰の証しともなる讃美です。
これに対して66番の歌詞は、三位一体の神というキリスト教信仰の基本を讃美としたもので、個人の感情や、信仰体験でなく、神ご自身の本質を讃え、歌っているものです。
そしてメロディーはそのような歌詞にふさわしく、荘重な感じをたたえたものとなっていて、神の厳粛を感じさせるメロディーだといえます。
讃美歌312番は本来の意味でのゴスペル・ソングには含めないこともありますが、その特質を持った讃美となっていると言えます。
ゴスペル・ソングとして代表的なもので、よくアメリカでも日本においても歌われてきたものに、讃美歌第二編の182番「丘の上に十字架立つ」(聖歌では402番「丘に立てるあらけずりの」)や、第二編183番の「九十九の羊」(聖歌429番)などがあります。これらの讃美の歌詞やメロディーを聞くと、ゴスペル・ソングといわれてきた讃美の特徴がさらによくわかります。
このように、日本のプロテスタントのキリスト教讃美には、大きく分けて、「讃美歌」の流れと「聖歌」の流れがあります。聖歌は、以上のようにゴスペル・ソングといわれる新しい形の讃美を多く取り入れるという方針を持っていて、福音派といわれるキリスト者たちが多く用いている讃美です。
しかし、讃美歌に含まれる曲も多く聖歌に含まれており、また、讃美歌を補うものとして出版された讃美歌第二編や「ともに歌おう」には、ゴスペル・ソングの流れをうけた曲も多く取り入れられていますので、多様な讃美を使うことができるようになっています 現代はさまざまのものが激しく変容しつつある時代です。キリスト教の讃美においても、新しい歌詞や曲が多く作られていきます。
現在の讃美歌の源流は、旧約聖書の詩編にあります。詩編とは、当時の讃美歌集でもあったのです。そこには、個人の嘆き、苦しみがリアルに述べられ、また喜びや感謝、神への讃美も多くあり、また、神の万能や英知を讃え、神の言葉への讃美を内容としたものも多くあります。
また、詩編よりさらに古く、神への讃美の最初のすがたが見られる出エジプト記の、紅海を渡ったときの感謝や讃美は、踊りと、タンブリンなどの楽器ををもって讃美したことも記されています。
こうしたことからも、内容的には、神の栄光を讃え、神の言を讃美するものから、個人の苦しみや悲しみを訴える内容のもの、神への感謝や喜びを率直に歌うものなど、いろいろのものが含まれるべきだと思われるし、歌い方についても、厳粛な斉唱から変化のあるコーラス、また楽器を用い、手をたたき、時には大胆に体全体で表現するなどさまざまの歌い方もあってよいのだとわかります。
それが伝統的な讃美の形のものであれ、新しいゴスペル・ソングの流れを受け継ぐものであれ、双方が私たちの信仰を表す歌となり、福音伝道に用いられ、神の栄光を讃美するものとして主が今後も導かれることと思います。
(*)「星の世界」の歌詞
かがやく夜空の 星の光よ
まばたくあまたの 遠い世界よ
ふけゆく秋の夜 すみわたる空
のぞめば不思議な 星の世界よ
きらめく光は 玉かこがねか
宇宙の広さを しみじみ思う
やさしい光に まばたく星座
のぞめば不思議な 星の世界よ
読書会から
もうずっと以前から私たちの集会では、毎月一度読書会をしています。最近十数年は、内村鑑三所感集(岩波文庫)、ウールマンの日記、ダンテの神曲などを学んできました。神曲は、十年ほどを要してようやく一九九八年の十月に終えることができました。
九十八年十一月から内村鑑三の「一日一生」を始めて、毎月十日分を学んでいます。今月は、五月十一日から二十日までのところでした。今回は、以前に学んだところも含めて、一部を取り出してみます。(表現は、現代のわかりやすい表現にしてあります。)
この書物は、内村のいろいろの著作から、内村の弟子が選んだものです。聖句とともに内村の感想が記されています。なお、内村の文章のあとの、○印をつけた文は著者(吉村)が感じたことです。
全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。
知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。
わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ。
感謝の歌をうたって主の門に進み、賛美の歌をうたって主の庭に入れ。
感謝をささげ、御名をたたえよ。
主は恵み深く、慈しみはとこしえに、
主の真実は代々に及ぶ。(旧約聖書・詩編第百編)
私の祈りは大部分は願いごとではありません。私はまず胸いっぱいの感謝をもって、私の祈りを始めます。
私はこのように、うるわしい宇宙に生きることを与えられたことについて、私の神に感謝します。
私は良い友人を与えられたことについて、また、私に是非善悪を判別して正義の神を求める心を与えて下さったことについて、特に私が神から離れて私利私欲を追求していた時に、私の心に主イエス・キリストを表してくださって、私の魂を救って下さった絶大な無限の恵みについて深く感謝します。
そうして感謝の気持ちが私の心にあふれるときには、私は路傍に咲くスミレのゆえに感謝します。
私の顔を吹いていく風のために感謝します。
また、朝はやく起き出して、東の空が朝焼けで金色にみなぎる時などは、思わず感謝の讃美歌を歌うこともあります。(五月十九日の項)
○内村の祈りは感謝が中心にあったのがわかります。そしてその感謝の源は、自分が罪を知らされ、方向転換をさせて下さったことにあったのです。かつての自分は、自分中心であり、自分の欲望や願いを追求するために生きていたけれども、主イエスがそのような方向から根本的に転換させて神中心へと向け変えられたことが感謝の中心にありました。
この感謝の心が深く刻まれていたからこそ、今生かされていることに感謝ができ、またよき友も与えられていったのです。
そしてこの感謝があるとき、道ばたの野草の花や、顔にしずかに吹いてくる風ですらも、神が自分に与えてくれたプレゼントであると感じることができ、感謝の気持ちが湧いてくるというのです。
自然を愛して、それを歌う人は多くいます。しかし、神を信じないならば、自然のさまざまのよきものを神からの自分への個人的な贈り物であると実感して、神に感謝することはできないと思われます。
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イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。
信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」(マタイ福音書二十一・21~22)
世には金銭の力があり、政権の力があり、知識の力がある。けれども、祈りの力には及ばない。
これは、じつに誠実の力であって、山をも透し、岩をも砕く力である。
世の真に大きな仕事というのは、みな、祈りの力によってなされたものである。
祈りの力によらないで、建てられた国家は虚偽の国家であり、永久的不変の基礎の上に据えられたものではない。
祈りの力によらないで、成った美術は、天の理想を伝えるものはない。
祈りは精神的な命を得る唯一の秘訣である。
だから、祈りのない国民から大政治家、大美術、また大文学、大発見、その他大と称せられるものが出てくるはずはない。(一月二十九日の項)
○この世で一番強力なものは、誠実の力、真実な力であると言われています。これは、ある意味では驚くべき断言です。というのは、この世では、誠実の力など全然信じない人が多数を占めているからであり、嘘、偽りの力あるいは、政治家の権利、軍事力こそ大きいと思っている人が多数を占めているからです。
しかし、誠実の力とは、最も力ある神にまっすぐに向かう心であるゆえに、その神の力が注がれるゆえに最も力あるものだというのです。
かつて旧約聖書の遠い時代に、ヤコブという人は、一人困難な旅路を砂漠のような水のないところを通って行きました。そのとき、夢のなかに現れたのが、天にかかる階段であり、そこを天使が昇り降りしていたというものです。この意味深い夢は神ご自身の持っておられるよき賜物や祝福が信じる者と神とを行き来するという内容を暗示するものです。
誠実に祈るとき、宇宙の創造主から、神の力が降り、そして私たちの弱さや汚れを取り去って持っていくということなのです。
ひたすらなる祈りなくば私たちのなすことは、自分中心となり、汚されたものとなり、崩れていくものでしかないものです。
神のそして主イエスの真実の祈りがこの世を支えているとも言えます。そしてそのような真実な神へ心をまっすぐに向けて祈ることによって、このキリスト教が二千年の歳月を越えて、最も力あるものとして世界の人間の心に宿ってきたのです。
休憩室
○オランダの自転車専用道路は二万キロにも及ぶそうです。しかし、日本はわずか二千キロ。日本は山が多いのですが、面積はオランダの十倍ちかくあります。オランダは国民一人一台以上も自転車を持っている計算になるそうです。そして、自転車の保護政策を進めていて、車道を削ってまでして自転車専用道路を増やしたり、乗り捨て自由の無料自転車貸し制度も導入しているとのことです。
また、欧米では多くのところで、鉄道への自転車乗り入れは認められているのに、日本ではほとんど聞いたことがありません。
また、オランダに住んだ体験のある人の話では、一番印象に残ったのが照明の明るさの違いだということで、首都のアムステルダムの繁華街でも、大阪・心斎橋の明るさの10分の1くらいの気がしたと言っています。 家庭の照明も軒並み抑え気味で、初めは新聞も読みづらいほどであったとのことですが、慣れると目が順応してきたということです。
このような状態なので、日本に帰ったとたん、照明の強さがまぶしくて目を覆いたくなるほどの日々が続いたと書いてあります。こんなムダな照明をせめて半分にしたら、原子力発電所の一つくらいは減らせるのではないかと思ったということです。
しかし、いくら外側の照明を明るくしても、人間の心のなかまでは決して明るくはされません。かえって、強い照明のあふれる都会に住む人たちの心は暗くなっていくのではないかと思われるほどです。
まことに 御霊は光のごとく
心の闇を 照らしたまえり
わが心静かなり 嵐は止みて
イエスきみの み声のみさやかに聞こゆ(聖歌573番より)
○家庭から出る年間の食べ残しは、340万トンもあるそうです。これはなんと655万人分の食料に相当する量になります。他方、世界で飢えている人たちは八億人もいるということです。
「人は、パンだけで生きるのでなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」というキリストの言葉が思い出されます。
飽食の人たちには、神の言が宿るなら、もっと食物を大切にするだろうし、簡素な食事に満足できるようになると思われます。神の口からでる神の言葉こそ私たちが待ち望むものですし、貧しさに苦しむ人たちにも共通して力を与えるものとなると思われます。
○アオジのさえずり
暖かくなってから現在もわが家の周囲では、ホオジロのなかまであるアオジという小鳥が毎日のようにさえずっています。この鳥は、本州中部から北の方で繁殖するけれども、冬には、暖かい地方に下ってくるので、四月いっぱいはたぶんわが家でもそのさえずりを聞かせてくれるだろうと思われます。
ホオジロは比較的高い木ののこずえで、明るい声でさえずりますが、このアオジはもっと小さな声ですが、変化に富んださえずりを聞かせてくれます。朝に夕に、ほぼきまったところで歌っています。
人間の場合は、心を神に向け、神を心から信じていないと、神への讃美は生まれないし、また真実な讃美ともなりません。しかし、アオジやホオジロなどはいつも透き通ったような声で、ふつうに歌っているのがそのまま、神への讃美として聞こえてきます。
返舟だより
○「はこ舟」誌の名称について
この小さな印刷物に、「はこ舟」という名をどうして付けたのかと思われる人もいますので、少し説明しておきます。「はこ舟」は今からちょうど四十四年前の四月に創刊されました。一九五六年のことです。
信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために「はこ舟」を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となった。(ヘブル書十一・7)
私たちは、心弱き者であり、しばしばつまずくものであり、正しいこと、愛にかなったことがなかなかできない者にすぎません。しかし、そうした弱き者も、ただ主イエスを救い主と信じて仰ぐだけで、救いの「はこ舟」に助け上げられることが約束されています。「私たちはノアのように正しい人でなくとも、ただ、キリストの名を信じるだけで、正しい者と認められる。
それゆえ、この救いの「はこ舟」に早く乗り込んで、まさに来ようとしている恐ろしい滅びの世界から救われるように、みなさんにお知らせする手紙代わりのプリントの名とした。・・」
と「はこ舟」の創刊号に当時の無教会の徳島集会の代表者であった、太田米穂は書いています。
○返舟だよりとは、「ヘンシュウだより」と読みます。ときどきこれも何と読むのかと思う人や、間違って読む人もいます。これは、はこ舟を創刊した太田氏が、「編集だより」というのでは、ありふれているので、「はこ舟」の「舟」と、「舟を返す」という言葉をかけて、「返舟だより」という造語を「編集だより」のかわりに使ったのです。
お知らせ
○今年の第27回四国集会は愛媛、香川両県の共催という形で、松山市で行われます。
主題 神の審判
・期日 5月27日(土)午後一時から28日(日)12時まで。
・会場 松山市道後町二丁目12番11号 電話 089ー925ー2013
愛媛県障害者更正センター 道後友輪荘(電話 089ー925ー2013)
・会費 大人 八千円(一泊二食会費込み)
・聖書講話は、各県の四名が担当。愛媛(早瀬)、香川(山崎)、高知(林)、徳島(吉村)
・その他、交流会、証し、特別讃美、自由発言など。
・申込先は、北条市光洋台二~40 但馬 明 (電話 089-994-0656)
○筆者(吉村 孝雄)の電子メールアドレスが変わりましたのでお知らせしておきます。
typistis@ma10.alpha-net.ne.jp
徳島聖書キリスト集会集会案内
・場所は、徳島市バス中吉野町4丁目下車徒歩四分。
(一)主日(日曜日)礼拝 毎日曜午前十時三十分から。
(二)夕拝 毎火曜夜七時三十分から(旧約聖書を学んでいます)・なお、毎月第四火曜日の夕拝は移動夕拝で場所が変わります。
☆その他、土曜日の午後二時からの手話と聖書の会、日曜学校(日曜日の午前九時半から)、海南、北島、国府、藍住、徳島市住吉などでも定期的な集会があります。また祈祷会が月二回あります。問い合わせは左記へ。
・代表者(吉村)宅電話(FAX) 08853-2-3017 ・E-mail:typistis@m10.alpha-net.ne.jp
・集会場の電話 088-631-6360