st07_m2.gif聴かれない祈り

 私たちは日常の生活のなかで、祈りや願いを誰でも持っている。そしてその願いは時によっては切実なものになる。難しい病気や突然の事故に遭遇してで苦しむとき、身体の障害に悩まされている場合、主よ、癒して下さい、どうか健康を回復して下さい、と必死になって祈る。
 また、とくに家族に困難な問題が生じたときも、他人なら時折思い出して祈るということで済んでも、最も身近な存在である家族に関する困難な問題は忘れることができないであろう。それが十年、二十年と続くこともある。
 その問題が深いものであるほどに、日夜祈らずにはいられなくなる。
どうかこの難しい問題を解決して下さい。またともに祈ることができるよう、同じ方向、神を見つめて生きて行けるように、どうか主よ、あなたのわざをなして下さい・中ヲ等など、身近な者への祈りは、止むことがないであろう。
 しかし、そのような切実な祈りであっても、私たちが願うようには聴かれないことも多い。そのような聴かれない祈りに耐えかねて、神に向かって祈り願う心が旧約聖書の詩編にも見られる。

主よ、帰って来てください。
いつまで捨てておかれるのですか。
あなたの僕らを力づけてください。(詩編九十・)

いつまで、主よわたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。
いつまで、わたしの魂は思い煩い、日々の嘆きが心を去らないのか。いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。(詩編十三・2

 聴かれないように見える祈り、もう神は聴いては下さらないのではと思えるときでも、それでも私たちは祈り続ける。私たちの時と神の時が異なるゆえに。神は真実な神、憐れみの神であるゆえに。神の時が来るならば必ず、神は最善のことをなして下さると信じるゆえに。


st07_m2.gif真理への嘲笑

 神に寄り頼むことは、神を信じない人からはあざ笑われることもある。
主イエスも、ユダヤ人の会堂の責任者の娘が死んだと知らされ、その娘を救おうとされたとき、周囲にいたユダヤ人たちはあざ笑った。また、捕らわれたイエスはつぎのようなひどい扱いをされ、嘲笑されたのであった。

そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、
茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。
また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。
このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。(マタイ福音書二七章より)

 真理は救いを与え、主の平安を与える。しかし、真理につながろうとするとき、私たちは世の人から重んじられるどころかかえってこのようなひどい取扱いを受けることがある。歴史上を見ても、長い迫害の時代はまさにこのような状況が数百年も続いたのであった。
 しかし、主イエスは言われた、

義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ福音書五・1012


st07_m2.gif悲しみを知って下さる神 (詩編五十六編より)

神よ、わたしを憐れんでください。
わたしは人に踏みにじられ、私に敵対する者が、絶えまなくわたしを苦しめる。
彼らの力をなぜ、私は恐れるのか。わたしはただ、あなたに依り頼めばよいのだ。…
彼らは、わたしの言葉をたえずあざけり、その計画はわたしを害なうことに向けられる。…
あなたはわたしの歎きを数えられた。…
あなたの皮袋にわたしの涙を蓄えてください。

神を呼べば、敵は必ず退き、神はわたしの味方だとわかる。

神の御言葉を賛美します。主の御言葉を賛美します。
神に依り頼めば恐れはない。人間がわたしに何をなしえようか。
神様、あなたに誓ったとおり、感謝の献げ物をささげよう。
あなたは死からわたしの魂を救い、
突き落とされようとしたわたしの足を救い、
命の光の中に神の前を歩かせて下さる。

 私たちはどうすることもできない苦しみにあるとき、ただ、「神様、憐れんで下さい!」と祈るほかはない。その叫びを発する相手(神)を与えられていることが幸いなのだ。この詩の作者は、著しい苦しみと圧迫のただなかにいたのがうかがえる。
 絶え間のない圧迫と苦しみにおいて、もう耐えられないと思うほどであった。この詩を作った人の周囲には、どのような理由かは分からないが、この作者に対しては絶え間なく攻撃がなされていた様子である。つぎつぎと混乱が生じ、そこに乗じて侮辱し、嘲笑する者がいる。
 しかし、そのような誰一人わかってもらえる者がいないような状況において、この作者は、神に叫ぶ。神こそはそうした魂の孤独な戦いにおいて支えて下さる唯一のお方であるから。
  そのことをこの作者は、神が自分の嘆きを数えて下さっている、と実感しているし、さらに私の涙を皮袋にたくわえて下さいと祈っている。
 神と祈りのなかでの交わりを持つとき、ほかの人にはわかってもらえない心の奥深い嘆きと苦しみをも神は一つ一つ知って下さっている、という実感を持つことができる。日夜変わることのない苦しみであり、それが数えられぬほどのものであっても、なお神だけはその一つ一つを見ておられる。また、私たちの悲しみの一つ一つをも覚えて下さるお方でもあること知っていた。神の皮袋に自分の涙の一滴一滴をたくわえて下さいとの祈り、それはどんな奥深い悲しみもただ、神だけは知って下さっているという実感から生まれた祈りなのである。
 そうした個人的にふかく神と結ばれた魂は、その時が来たならばその重苦しい闇から救い出される。この作者もまた神の言の力を知らされ、その言の通りに救いを受けて、神の言への深い感謝と讃美を捧げるようになる。
 信仰に生きるとは、こうした経験を重ねていくことであるだろう。死ぬほどに苦しい事態から助け出された経験、もう闇に沈んでしまうという絶望的な状況から、命の光のなかへと移された奇跡を実感すること、それが神を信じる者に与えられた恵みだと言えよう。


st07_m2.gifキリストが変えて下さったこと

 聖書は旧約聖書と新約聖書の二つがあり、その二つを合わせて聖書といいます。しかし、旧約聖書と新約聖書では大きく異なっている点があります。キリストによって変えられたことはきわめて大きいのです。
 旧約聖書で言われている神と、新約聖書での神とはもちろん同一であり、その神の本質は変わることがなく、神への信仰の本質も変わりはありません。そのことはつぎのように表すことができます。

 唯一の神がおられ、その神は、天地万物の創造者であり、愛と真実、そして正義の神であること。それゆえ、罪を悔い改める者は、赦しを与えるが、真実に背き続ける者に対しては必ず裁きを与えるお方であること。神は、永遠に存在すること。神は生きて働いておられること。
 このことは、つぎのような箇所にもはっきりと記されていますが、旧約聖書の全体がそのことを示していると言えます。

主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」(出エジプト記三十四・67
 旧約聖書の神は、義の神であり、裁きの神であるが、新約聖書の神は愛の神であるなどということが言われたりします。しかし、旧約聖書をよく読んで見ると、すでに引用した箇所以外にも、神は愛の神でもあることがはっきりとわかるのです。旧約聖書の詩編はそうした神の愛に動かされた人の心が深く刻まれています。また、旧約の預言者たちは、神の愛と義を宣べ伝えていたといえるのです。
 
 ここではどんなことがキリストによって変えられたのかを見ておきます。
(1)旧約聖書では、ただ神だけが崇拝の対象であったけれども、新約聖書においては、神とキリスト、そして聖霊も同じ神の異なる現れであって、同質であるということが啓示されました。このことを三位一体という言葉で表しています。
 ですから、旧約聖書ではただ神だけが罪を赦すことができたのですが、新約聖書では、キリストも罪を赦すことができるお方であることが示されていますし、神に対して祈るのと同様に、主イエスに対しても祈ることができるようになりました。
 このことはきわめて重要なことであり、キリスト教の根本をなすことでもあるので、ヨハネ福音書では、その冒頭にキリストが神と同質であることが明確に記されていますし、ヘブル書でもやはり冒頭にそのことを記しています。

初めに言(キリストのこと)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言は、自分の民(イスラエル)のところへ来たが、民は受け入れなかった。・中ヲ言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。(ヨハネ福音書一章より)
 
 この箇所は、マリアから生まれる前、永遠の昔からキリストは存在していたこと、キリストは神と同質であることが記されていて、そのキリストのことを「言」と言っています。これはギリシャ語ではロゴスと言いますが、これはロゴスというギリシャ語がもともと、単に「言葉」という意味だけでなく、「理性、万物を支配する根源的なあるもの」という意味を持っていたので、その言葉が使われたのです。この箇所はキリストは肉体をもって、普通の人間としてイスラエルの民のところに遣わされたが、人々はキリストを拒んで十字架につけて殺してしまったことを指しています。

 つぎにヘブル書にもキリストが神と同質であることが記されています。

神は、御子(キリスト)によって世界を創造された。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられるが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座に着かれた。(ヘブル書一章より)

 このような箇所以外にも、パウロの手紙などでも多くの箇所で神とキリストの同一性が語られています。それほどにこのことは重要なことであったのです。

(2)救いはただ信仰による。
 旧約聖書の時代には罪の汚れは、祭司が動物の血を用いた特別な儀式をしてはじめて除かれるということになっていました。

一般の人のだれかが過って罪を犯し、禁じられている主の戒めを一つでも破って責めを負い、犯した罪に気づいたときは、雌山羊を引いて行き、その山羊を殺して祭司はその血を指につけて、・中ヲ祭壇四隅の角に塗り、残りの血は全、祭壇の基に流す。
捧げた人は雌山羊の脂肪をすべて切り取る。祭司は主を宥める香りとしてそれを祭壇で燃やして煙にする。祭司がこうして彼のために罪を贖う儀式を行うと、彼の罪は赦される。(レビ記四章より)

 このような複雑な儀式をして初めて罪が赦されたのです。
 しかし、キリストの時代になってから、ただキリストを信じるだけ、キリストの十字架上での死によって私たちは罪の力から救い出されたと信じるだけで、罪からの救いが与えられるということになりました。旧約聖書の時代から比較すると考えられないほどに単純にして明確となったのです。

(3)復活について
 旧約聖書の時代には死んだら黄泉(よみ)の世界に行って、暗く影のような状態でいると思われていました。死んだ後に復活するという信仰は、旧約聖書の大部分においては見られません。ただ、ダニエル書とか詩編の一部、ヨブ記など、キリストの時代に近い時期に書かれたと考えられている文書には、少し死後の復活ということが暗示されているだけです。
 しかし、キリストが復活されてから、信じる者はすべて復活する、霊のからだに復活すると約束されています。

(4)旧約聖書の神はおそれ多い神であり、一般の人々は神のもとに出ることができなかった。モーセが十戒を受けるときも、民はモーセが神に近づくために上ったシナイ山に近づくだけでも、殺されると記されているほどです。また、人間は汚れているので、神を見ると死ぬとされていたのです。
 しかし、キリストは神のことを「父」と親しく呼ぶことを示されました。これは、旧約聖書時代にはなかったことです。モーセもエレミヤやイザヤ、あるいはダビデなども神のことを「父」と呼んだことはなかったのです。
 神を父と呼べるということは、それまでは遠い存在であった神を、最も身近な存在として私たちは祈り、語りかけることができる存在であることをキリストが初めてはっきりと示されたと言えます。このゆえに、日々の祈りでも、神に向かって親しく「天のお父さま」と呼びかけることができるようになったのです。主イエスが示された、主の祈りでも、その冒頭に、「天にいます私たちの父よ」という呼びかけから始まっています。

(5)旧約聖書では、一夫多妻が認められていたが、新約聖書では明確な一夫一婦となった。
 旧約聖書の最大人物の一人、アブラハムはサラとハガイという二人の女性をめとったとあります。また、ヤコブもレアとラケルという二人の女性以外にも、レアの召使いであったジルパ、ラケルの召使いのビルハという女性たちも妻のようにめとったことが記されています。
 そしてこのようなことは、悪いこととは言われておらず、そうした何人もの女性から生まれた子供は対等の存在であったことがわかります。またダビデも多くの妻を持っていました。
 しかし、キリストの時代以降は、結婚とは、一人の夫には一人の妻が正しい関係となり、それはキリストとキリストの集会を象徴的に表すという重要な意味をもつようになったのです。

(6)前項と関係しますが、旧約聖書では、割礼をしていない者は断たれる。とはっきり言われています。割礼という、身体の一部を傷つけるようなことをしなかったら、神の民ではなくなるということでしたが、新約聖書においては、割礼は救いとはまったく関係がないという真理が明らかにされました。

(7)汚れとか、特定の食物の禁止について
 豚やイカのような食物を食べたり死体に触れると汚れるとされ、その汚れを清めるためにはまた儀式が必要となったのです。
 また、旧約聖書では、つぎのように書いてあります。

脂肪はすべて主のものである。脂肪と血は決して食べてはならない。これはあなたたちがどこに住もうとも、代々にわたって守るべき不変の定めである。(レビ記三・1617

牛、羊、山羊の脂肪を食べてはならない。・中ヲ燃やして主にささげる物の脂肪を食べる者はすべて自分が属する民から断たれる。鳥類および動物の血は決して食べてはならない。血を食べる者はすべて自分が属する民から断たれる。(レビ記七章2327より)

 しかし、キリストはつぎのように言われました。

口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。・中ヲ
すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。(マタイ福音書十五章より)

 このように、人間の汚れは、口から入る食物から来るのではなく、心にあるさまざまの悪い思いによって汚されるのだと教え、食物によって汚されるなどということは有り得ないことを指摘されたのです。これを見ても、いかに旧約聖書とキリストの教えが隔たっているかがわかります。

(8)武力による戦争
 旧約聖書では、戦争は数多く記されています。神ご自身がそうした戦いを命じて、敵を滅ぼせと言われることもありました。
 しかしキリストはそうした武力の戦争を全面的に反対され、キリスト者の戦いは、悪の霊との戦いであることを明確にされました。このことは、主イエスご自身の言葉に、「剣を取るものは皆、剣によって滅ぶ」(マタイ福音書二六・52)とあります。また、キリストは、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と、人間に対する究極的な姿勢を指し示されました。悪人を殺すことによってでなく、悪人の心に宿る悪が除かれ、聖霊が相手に注がれるように祈ることがキリスト者のあり方だと教えられたのです。そして、キリストの霊を最もゆたかに受けた使徒パウロは、今月号に詳しく書いたように、「キリスト者の戦いは、目に見える人間に対するものでなく、悪の霊に対する戦いである」と明言しています。
 
 以上のように、旧約聖書と新約聖書では大きく異なっている点がありますが、それはキリストがそのすべてを変えられたのです。しかし、そのキリストの重要な変革を無視して、旧約聖書時代のことをそのまま、キリスト教だと言い出す人たちはいつの時代にもいました。
 キリストと神が同一の存在であるのに、旧約聖書のように、神だけを崇拝するといい、キリストは人間だと称するのは、キリストと聖霊が神と同質であることを受けようとしない誤りです。現代のエホバの証人もその誤りを犯しています。
 また、一部のプロテスタント教派には、豚とかタコを食べてはいけないなどという禁令を持っているのも、食物に関するキリストの変革を信じないからです。
 またモルモン教のように、旧約聖書時代の一夫多妻を主張する教派もありますがこれも結婚に関するキリストの革命的な教えを受け取らないところからきています。
 また、エホバの証人のように、血を食べてはいけない、そこから輸血をしてはならないなどというのも、全くキリスト教とは関係のない主張だとわかるのです。
 さらに、善行とか特定の儀式をしなければ救われないというのも、救いに関するキリストやキリストの霊を最もゆたかに受けたパウロの信仰を正しく受け取らないところから生じています。
 前号でも述べたとおり、キリスト教国といわれる国やイスラム教が戦争を肯定しているのも、旧約聖書の聖戦というのをそのまま受け入れているからですが、これもキリスト者の戦いが、特定の人間や国家に対するのでなく、悪の霊に対する戦いであり、敵のために祈れというキリストの真理を受け取らないところから生じたことです。
 私たちはキリストの本当の真理を知るためにも、旧約聖書と新約聖書を共通して流れているものと、大きく変えられた点を正しく認識する必要があるのです。
 そうでなければ、神の御意志でないことを、まちがって神の意志だとしてしまい、多くの罪を犯すことになるからです。


st07_m2.gifキリスト者の戦いと武器

悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる(*)悪の諸霊を相手にするものなのです。
だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、
平和の福音を告げる準備を履物としなさい。
なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。
また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。
どのような時にも、霊(聖霊)に助けられて祈り、願い求め、すべてのキリスト者たちのために、絶えず眼を覚まして根気よく祈り続けなさい。
また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。
わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。

*)新約聖書の時代には、天といっても、単一でなく、さまざまの天が階層をなしていると考えられていた。ヘブル語やギリシャ語でも、「天」という語は聖書では複数で用いられていることも、古代人が天というのをさまざまの層からなっていると考えていたことを暗示している。「キリストもすべての天を越えて高く上った」(エペソ書四・10)と記されている。パウロも第三に上げられたと言っている。(Ⅱコリント十二・2

 この聖書の箇所で、キリスト者の戦いとはどういうものか、そしてその戦いに与えられている武器(武具)とは何であるかが詳しく書かれている。
 まずはっきりしているのは、キリスト者の戦いは、「血肉に対するものでない」ということである。血肉とは、人間のことであり、個々の人間やその人間の集まりである社会、国家などであるがキリスト者の戦いはそうした目に見える人間ではないといわれている。 この聖書の言葉が明らかに示していることは、キリスト教は武力による戦争を否定しているということである。歴史の中で、多くの国々がキリスト教国と言われながら、武力の戦争を行ってきた。これらはみなこの聖書の言葉に照らすとき、キリスト教の教えに反する行動であったのがわかる。よく一般の人が十字軍などの例をとって、「キリスト教も戦争をしてきた」などというが、それは大きな間違いであるのがわかる。
 キリストご自身も、「剣を取る者は剣によって滅ぶ」と言われ、弟子のペテロが剣を抜いて敵に切りかかろうとしたのを戒めて、剣を納めさせたことが記されている。
 また「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と教えられ、自らもいかなる敵対者に対してもいっさいの武力を用いようとはせず、捕らえられて十字架刑にて殺されるに至ったのである。
 これは、キリスト教の歴史で最初の殉教者となったステパノの例でもよくわかる。彼は、ユダヤ人の歴史上での罪を指摘したとき、彼らの激しい憎しみを受けて、町の外まで引きずっていかれ、ユダヤ人から石を投げつけられて死ぬほどになった。その時であっても、なお、ステパノは敵対する者たちを撃退しようとせずに、「主よ、この罪を彼らに負わせないで下さい!」と祈って息絶えたのであった。
 キリスト教とはこうした生き方を究極的なものとして指し示している。
 この時、ステパノは敵と戦わなかったのか、そうでない。彼らを支配する目には見えない力、悪の霊との激しい戦いをしていたのであった。悪の霊との戦いは、神を見つめて、悪事をなす人たちの心からその悪の力(霊)が除き去られるようにと祈ることである。ステパノはまさにそうした戦いを最後まで続けていたのであった。
 そしてこのような憎しみのなかにあってもなお、神を見つめ、神の愛をもって祈りを注いだことで、悪の霊との戦いに勝利しつつ、天に帰ったのである。
 ここでわかるように、初めての殉教者であるステパノも武器を持っていた。身を守る武具を身に着けていたのがわかる。
 それはどんな武具であり、どんな武器であったのだろうか。
 ここにあげたエペソ書でそれを見ていきたい。
 まずつぎのように言われている。

立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、
平和の福音を告げる準備を履物としなさい。(エペソ書六・14

 まず、衣服を身に着けるとき、帯をしっかり締めることが最初になすべきことであり、そのために、パウロは、真理の帯を締めよと言われている。ここで真理と訳された言葉は、アレーセイア(aletheia)といって、他の箇所では「真実」とも訳されているし、文語訳聖書では「誠」とも訳されている。(「汝ら立つに誠を帯として腰に結び・中ヲ」)
 私たちが歩みを始めるときにまずなにをもって立つのか、それは真理であり、真実である。主イエスは別のところで、こう語っておられる。

まことの礼拝をする者たちが、霊と真理(真実、まこと)をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。(ヨハネ福音書四・23

 このように、神を礼拝するということは、形式や特殊な宗教的な服装、あるいは場所とかが重要なのでなく、まず、真実の心をもって、神の霊を受けつつなすことである。
 このような姿勢こそが、悪の霊と戦うときの出発点なのである。
つぎに、「正義を胸当てとして身に着けよ」と言われている。
 このようなたとえは、私たち現代人にはわかりにくく、読み飛ばしてしまうことが多いのではないだろうか。なぜパウロがこうしたたとえで語っているのか、立ち止まって考える必要があるだろう。
 正義の胸当てを着けるとは、人間の自然な正義感をしっかり持て、ということなのだろうか。そもそも、正義とは私たちが持っているものだろうか。
 それに関しては、世の中で自分こそは正義の側に立っていると思っている人がいるかも知れないが、聖書の立場に立つときそうした自分の正義、人間が持っている正義などというものは根本から崩れ落ちてしまう。
 パウロは旧約聖書を引用してその代表的な文書でつぎのように述べている。

「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。・中ヲ誰一人神の前では義とされない。(正しいとはされない)」(ローマの信徒への手紙三・1012

 このように、正義の胸当てを着けるといっても、私たちは生まれつきの正義などは持っていない。生まれつきの正義感は、時代や状況によって大きく変化する。例えば、江戸時代であれば、親が不正な仕方で殺されたら、その仇討ちをしなかったら、正義感が許さないだろう。忠臣蔵が有名なのは、その正義感、忠実さに感動するからでもあるだろう。しかし現代において、仇討ちといってだれかを殺せば、それは殺人という最大の罪になる。また太平洋戦争では、ほとんどの人が、鬼畜米英といって、アメリカやイギリスなどを攻撃して多量に殺すことが正義だと思いこんでいたのである。
 このように、人間の正義感などというものは実に当てにならないものである。だからパウロも、神という絶対的な正しいお方の前では、一人も正しいと言える人はいない、みんな不正なものにすぎないと言っているのである。

 こうした事実を知っている者にとって、「正義の胸当て」を着けるとはどういうことなのかと戸惑うだろう。
 しかし、私たちには、まったく別の正義があり、神の前ですら、正しいとして下さるような正義を与えられると約束されている。それは、キリストを信じることによって、だれもが神の前で、もうそれでよいのだ、正しいのだとされるというのである。それが「信仰によって、義とされる」という意味なのである。義という言葉は、聖書に特有のものであり、一般の人は現代ではほとんど、「義」などという言葉を使わない。しかし、このもとにある原語(ギリシャ語)は、「義」も「正義」も同じ言葉なのである。(ディカイオシュネー dikaiosune
「信仰によって義とされる」という表現は、新約聖書で最も重要な言葉のうちに含まれるが、それは、キリストが私たちのために十字架で死んで下さった、それが私たちの罪をぬぐい去るためであったと素朴に信じるだけで、神は私たちの過去の罪をないものとして扱って下さり、私たちが、驚くべきことに、神の前でも正しいとみなして下さるということなのである。
 私たちが正義の胸当てを着けるとは、キリストを信じる信仰によって、神に義とされたという実感を深く持って初めて、悪の霊との戦いが可能になると言う意味なのである。
 私たちの心の奥で、やましさが残っていてそれが絶えず私たちの魂の奥で攻撃してくるとき、私たちの魂は揺さぶられ、到底悪との戦いにはならない。
 
 つぎに、言われていることは、次のことである。

平和の福音を告げる準備を履物としなさい。(15節)

 平和という言葉は、国家どうしの戦争がない状態を連想させるだろう。とくに現在の世界情勢のようなときには、いっそう国家間の平和を思い出すと思われる。しかし、ここでは、そのような意味での平和を告げることは内容としては言われていない。キリスト教の福音でいう平和とは、第一義的には、神と人との平和のことである。(この神との平和があってはじめて、そのような人間の集まりも全体としての平和が生まれる。)

このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており・中ヲ(ローマの信徒への手紙五・1

 神との間の平和とは、ふつうのマスコミや、一般の日本の文学などではまったく使われない表現である。私たちはふだんは、真実に反すること、愛に背くことを数々行っているし、そのようなことを実際に行っていなくても心の中で、行っていると言えるだろう。神とは、真実そのもの、愛そのものであるから、そうした人間の状態は神に背いている状態であり、神との戦いの状態にあると言える。そのような状態が変わるためには、人間の側の背きが根本から変えられねばならない。キリストを信じて、そうした背きが十字架でキリストが死ぬことによって変えられたのだと、信じて初めて、私たちの背きが赦されて神の前に正しいとされる。
 そうして初めて私たちは神との間に平和を与えられたと言える。このような神との間の平和こそ、キリスト教が最も力を入れて宣べ伝えている内容だといえよう。
 そうした神との平和、神によって罪が赦されて神を心から「父よ!」と言えるようになること、それが福音の内容なのである。
 こうした神との間の平和を告げ知らせること、その準備をいつもしている。それがパウロがここで勧めていることだ。悪の霊との戦いのさなかにおいても、福音を告げる備えをしている、それほどに何が生じようとも、福音伝道を第一にしていたことがうかがえる。 
なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができる。(16節)

 盾とか、火の矢などという表現もまた、現代人にはわかりにくい。しかし、パウロが言おうとしていることは、よくわかる。悪をなす者たちは、つねに悪意の火の矢を射ようとして待ちかまえている。そしてその悪人や迫害する者たちの放つ矢は火の矢であるという、それは人間に当たれば、効果が大きく建物ならば、火で燃えてしまう強力なものとなる。
 先ごろのテロ事件もイスラム原理主義の一部の人たちの激しい敵意や憎しみがアメリカの最大級のビルに、いわば火の矢となって打ち込まれた事件であった。そしてそのすぐ後、アメリカは逆に報復の火の矢、憎しみの火の矢をもって、テロを起こしたと見られる人々に向かって攻撃しているのである。
 私たち一人一人の生活においても、憎しみの火の矢は信仰なければ、心の奥深く突き刺さって苦しみ続けることになる。聖書に現れる人たちは、神こそ、私たちの頼るべき岩であり、またさまざまの危害を防いで、私たちの心身に悪意の矢が当たらないようにして下さる。こうしたことは詩編にも多く歌われている。つぎのはその一つである。

主はわたしの岩、・中ヲわたしの盾、(詩編十八・3より)

 ここで言われていることは、悪の霊との戦いにおいても、つねに悪は人間を使って、その攻撃をしかけてくる。その時、神は万事を支配されているという信仰こそ、主が私たちの盾であることを知らされるのである。

 次にキリスト者の攻撃の武器は何だろうか。

また、救いを兜(かぶと)としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。(17節)

 救われたという確信こそが、兜(かぶと)となる。兜は最も重要な頭を守る武具である。救いを兜としてかぶるとは、救われたという確信をしっかりと持っていたら、私たち人間の中心にあるものは、破壊されない、ということであろう。主イエスによって救われたという確信がなかったら、到底悪そのものと戦うことはできない。それどころか、悪のただなかに引き込まれてしまうだろう。
 それではキリスト者の攻撃の武器となるものは何であろうか。
 霊の剣、だと言われている。それは神の言。どうして神の言が聖霊の剣だと言えるのだろうか。
 剣とは最も攻撃的な武器である。剣で相手を一撃のもとに倒すことができる。それと同様に、私たちに悪の霊が襲ってくるとき、神の言にすがることによって、悪を撃退することができるという意味が含まれている。
 このことで、よく知られた例は、キリストご自身が示されたことである。主イエスはその伝道の最初に、悪魔によって誘惑を受けた。そして神から与えられた力を自分の欲望のために使おうとするのか、あるいは神のため使おうとするのかが、問われた。そのとき、主イエスがその誘惑を退けたのは、複雑な議論とか、自分の考えとかでなく、神の言であった。旧約聖書で主イエスより数百年も昔に言われた神の言そのものであった。

イエスは答えた。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」 (マタイ福音書四・4

 このようにして、悪魔からの重ねての誘惑をすべて、旧約聖書に書かれた神の言をただ持ち出すだけで、悪魔は退いて行ったのである。ここにもいかに神の言が力あるものかがはっきりと示されている。
 私たちにとっても、この世のさまざまの出来事や誘惑に動揺するとき、神の言にあくまですがっていくときには、そうした誘惑する悪の霊を退けることができるというメッセージが込められている。
 このように、キリスト者が悪の霊との戦いをなすにあたって、自分を守る武具と、敵を攻撃する武器をゆたかに与えられていることを覚えて、戦いへと歩みだすよう、うながされている。
 この霊の戦いの記述に並んで、次は何を書いてあるかというと、パウロは自分自身のためにも祈って欲しいと繰り返し求めている。

また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。
わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。(1920節)

 パウロほどのキリスト教史上で、最も大いなる働きをした人であっても、なお人々に対して祈って欲しいと願っている。というより、そのようなキリストの霊を豊かに受けていたからこそ、互いに祈り、祈られることの重要性を深く知っていたのである。
 キリスト教の集会や教会(エクレーシア)というのは、キリストのからだであると言われている。目には見えないキリストのからだであるからこそ、互いに祈り合うということが自然なはたらきとなる。
 こうしてキリスト者の戦いという内容についての箇所は、祈りへの言及をもって終わっている。
 祈りがいかに戦いにおいて重要であるか、それは、すでに旧約聖書にも記されている。
モーセが手を上げていたら、戦いに勝ったが、手を下げると敵が勝った。しかし、モーセの手が重くなったので、他の人が、モーセの手を支えた。(出エジプト記十七・11より)
 手を上げているとは、神に祈っているという象徴である。神に祈り続けていることは、神の力を受け続けていることであるから、戦いに勝つ、しかし手を下ろすとそれは祈りを止めることであり、敵が勝ってしまう。そこでモーセの仲間がそのモーセの祈りをともに支えたということである。
 また、イスラエルの人々が長い荒野での放浪を終えて、目的地のカナン地方に入っていくとき、エリコという町全体が、城壁に囲まれていてその門が堅く閉ざされ、だれも入ることができなかった。そのときに、主は民を指導していたヨシュアに言われたことが、つぎのようなことであった。
 
七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい。七日目には、町を七周し、祭司たちは角笛を吹き鳴らしなさい。
彼らが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、その音があなたたちの耳に達したら、民は皆、ときの声をあげなさい。町の城壁は崩れ落ちるから、民は、それぞれ、その場所から突入しなさい。(ヨシュア記六・35

 これは、驚くべき記述である。神への礼拝をつかさどる祭司の人たちが神の言をおさめてある神の箱を先頭にして進んでいき、七日目に七回、町を取り囲む城壁をまわって角笛を吹き鳴らすなら、ほかの方法では打ち破れない堅固な城壁が崩れ落ちるというのである。ここには、七人、七日目、七周というように、七という数字が繰り返し使われている。これは、神の御意志にかなうことを象徴している。私たちの祈りが神の言を第一に重んじる姿勢を保ち、神の力に全面的に頼る姿勢を持っているなら、大きな敵の力も神が崩されるということを意味している。
 
祈りと戦い
 キリスト者の戦いは、目に見える人間やその集まりである国家とかでなく、目に見えない悪の霊との戦いである。とすれば、すでに述べたように祈りはその戦いの最も重要な場になると言えよう。祈りなくば、戦えない。主イエスは、「つねに目を覚ましていなさい。」と言われた。それは、つねに祈れということでもあった。
 これは、パウロの手紙を見てもよく現れている。
パウロはローマにいる信徒に次のように心からの願いを述べている。

兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、霊(聖霊)が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください。
わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように・中ヲ(ローマの信徒への手紙十五・30

 ここで、「熱心に祈って下さい」と訳されている箇所の原文(ギリシャ語)は、「祈りの内で、ともに戦って下さい」(*)であって、単に祈りが熱心であることを求めているのではない。

*)この箇所の原語は、シュナゴーニゾマイ(sunagonizomai )であって、シュン(共に)と、アゴーニゾマイ(戦う)の二つから成っている言葉である。この後の方の、アゴーニゾマイ(戦う)という語は、実際に例えば、つぎの箇所のように、「戦う」と訳される言葉である。

わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。(ヨハネ福音書十八・36

 このような祈りにおいて戦うということは、他にもみられる。

彼は、あなたがたが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています。(コロサイ書四・12

 ここでも、「熱心に祈っている」と訳された原文は先にあげたのと同じ表現、「祈りの内で、戦っている」という表現なのである。

 福音伝道はつねに戦いがつきまとう。それは自分の内なる罪、他の人間を動かしている罪との戦いであり、悪の霊との戦いである。キリストの生涯ははじめから悪との戦いから始まっていた。
 主イエスが生まれたとき、当時の王は、イエスを殺そうとして、行方がわからないとみるやそのあたりの幼児を皆殺してしまったと記されている。このように生まれたときから悪はイエスに襲いかかってその力を失わせようとしているのがわかる。
 そして、成人してこれから福音伝道の生涯に入るときには、故郷のナザレにて会堂で聖書を読まれが、その直後にユダヤ人から激しい憎しみを受けて、イエスを町の外に追いだし、山の崖まで連れて行き、突き落とそうとまでしたのであった。(ルカ福音書四章より)
 この事件も、主イエスが伝道をしようとしたら、たちまち悪の霊が働いて伝道の働きを破壊しようとしたのがわかる。
 こうして主イエスは生涯の出発点か悪との戦いから始まっているのであって、決して自分だけの研究とか付近の人たちの歓迎するような状態ではなかったのである。
 キリスト者とはキリストにつく者であるからには、キリスト者にもなんらかの戦いが生じるのは当然だということになる。しかし、その戦いには、武器もあるし、すでに勝利している保証すら与えられている。

あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。(ヨハネ福音書十六・33より)


st07_m2.gif休憩室

○十一月中旬に、松山を経て四国の西の端、佐多岬半島を経て大分から阿蘇を通り、熊本にまで初めて車で通る機会がありました。ちょうど、秋の紅葉の季節で、山々の随所に赤く、黄色、褐色の葉が見られ、彩りゆたかな行程でした。佐多岬半島の山間では、あちこちに真っ白い花びらをもつ、リュウノウギクが見られて目を楽しませてくれました。このキクは徳島ではわずかしか見られないのに、佐多岬半島では多くの群生が見られて、大分県に渡った所でも、海岸沿いの山肌にこの白いリュウノウギクがよく見えました。地域によってある野草の分布が大きく異なる例だと感じます。

○冬が近づいて夜空は星たちの美しさが目立つ頃となっています。夜十時頃に東の空に向かって立つと、まず目に入る際だって明るい星、じっとまばたきせずに輝いている星が見えます。それが木星です。またその南(右方)にはオリオン座が見えています。そしてオリオン座の上方に雄牛座の一等星(アルデバラン)が赤く輝きそのすぐ横に並んで見えるのが土星です。土星はまはたきをしないこと、アルデバランは赤い星であることなどから、この区別はすぐにできます。一年中で最も明るい星が多く、しかも天の一部分に集まるようにして輝いているので、月のない澄んだ夜には壮観ともいうべき星の輝きを見ることができます。
 
○柿の木
 わが家にはもう五十年以上も実をつけ続けている渋柿の木があります。なにも肥料もやらず、剪定などもほとんどしないのに、毎年実をつけます。柿の実る頃は葉も色づき、実も秋の空や緑の山に映える赤い色となり、秋らしい雰囲気をたたえてきます。そのような中で、実は熟柿となり、甘く柔らかくなります。柿は葉が薬用ともなり、実は栄養豊かな食物、そして秋になると外観は秋らしさを添える木であり、日本で古来親しまれてきたのもうなづけます。また柿の学名は、Diospyros kaki(ディオスピロス カキ) と表され、その前半の Dios とは、ギリシャの神を表し、pyros とは、穀物(小麦)を意味します。それで、柿の学名は、「神の食物」という意味になります。このような学名がつけられたのはそれが栄養豊かで美味であるからだと思われます。


st07_m2.gif返舟だより

○九州への旅
 十一月十六日(金)から十九日(火)まで、松山、大分、熊本、福岡県などにて聖書の言を語る機会が与えられ、広島県では二箇所の教友を訪ねて讃美や聖書の言とともに主にある交わりを与えられて感謝でした。また、最後の日には、以前から訪問したく思っていた愛媛県東部の若干の「祈の友」会員を訪ねることができました。
 み言葉それ自身の力がはたらき、各地でいっそう神の言が一人一人の心に留まり、力を発揮するようにと願っています。
 やはり、パウロも言っているように、手紙とか電話だけでなく、「顔と顔を合わせて見る」ことの大きい意義を感じます。主を信じる者が二人、三人と集まるとき、主がそこにいて、よきものをそれぞれに与えて下さるという気がします。し
 大分市から、秋色濃い山々の連なるただ中にある、九州中央部の竹田市を通り、阿蘇方面に向かいましたが、途中で、気温の低さなどから竹田市が山々に囲まれたかなりの標高の場所だとわかりました。今年の三月号の「はこ舟」に書いたことですが、江戸時代のキリシタン迫害が厳しくこの山里の竹田の村にもなされ、つぎのような出来事があったと記されています。
 大分県竹田のある村はキリシタンが多かった。村長もキリシタンで、二人の息子と長男の妻もその子たちも信徒であった。領主は、この一家がキリシタンをやめるならば他はみのがしてやろうともちかけた。村長はどうすればよいかと困り果て、家族の反対を押しきって、独自の判断でキリシタンをやめるという誓いの文を提出した。
 村長である父は息子にいった。
「おまえたちは自分で誓いの文を提出したのではないから、知らぬふりをしておればよい。それが多くの人々を苦難に会わせないためなのだから」と。
 しかし、二人の息子は承知せず、領主のいる城へ、わざわざ自分たちはキリシタンであると名のりでたのである。
 幕府にキリシタンはいないと報告したばかりの領主は動揺し、二人を捕え、父にキリシタンを辞めるよう、説得させようとしたが、父は息子たちの真実な信仰に動かされて拒否した。こうして二人の息子は火刑に処されることになった。
 けなげであったのは殺されることになった長男の妻である。彼女は役人の脅迫に従わなかったため、腰巻ひとつの裸にされ、ざらざらして肌を刺す俵の中に頭だけだして入れられ、七日間、部屋にとじこめられた。
 七月の暑いさかりであった。それでも屈しない彼女を、役人は夫と義弟の処刑場に引きだし、かれらが火あぶりにされて殺されるすさまじい光景を見せ、背教しなければおなじ刑罰をうけることになろうと説きつけた。
 しかし、彼女はただ、「どんなことがあってもキリシタンであることをやめはしない」と答えるだけであった。
 役人は、いった。「もしおまえが死んだら、七人の子どもたちは身よりのない孤児になってしまうだろう。そんな不人情な母親になってよいのか」。
 これに対して、その女は答えた。「無慈悲なのはあなた様方で、わたくしではございません」。
 ついに問答に疲れはてた役人の手で、彼女は斬首された。首斬り役人が刀をふりあげてから二度、背教の意志はないかと聞いた。髪をたばねて首をすっかり見えるようにした女は、二度ともはっきりと「否」と答えた。(「日本の歴史・第十七巻」より。小学館刊)
 私は竹田市を通る間、このキリシタン迫害のことが念頭から去りませんでした。数百年の昔、この美しい自然のなかで家族とともに平和に生きることより、キリスト信仰のために、苦しめられ、殺されることをあえて選んだ人たちのことがたえず心に浮かんできたのです。それで、その記事を再び引用しました。

○この迫害の事実からもわかりますが、信仰を与えられたからといって、私たちの悩みや苦しみが消えるわけではなく、時には、また人によってはそのゆえにさらに大きい悩みや問題を抱えることになる場合があります。旧約聖書にもそのような例は多く見られます。もう、神は助けては下さらないのか、という深刻な悩みも生じることがあり、モーセやエレミヤ、エリヤ、ダビデなど、またヨブといった代表的人物にもそのようなことが見られます。それでもその困難な道を主がともに歩んで下さっていると信じて歩むとき、たしかに主はわが岩、わが助けとなって下さるのであろうと思われます。

○読者からの来信より
 季節によっていろいろの自然のことが述べられていて、そこに神様が創られた自然の美しさや、やさしさ、また偉大さが読んでいる文章のなかに現れています。神が言っていることや、救いのこと、気付かない点をいつもたくさん気付かされます。また聖書を読むときに以前よりもっとわかりやすくなりました。自分のなかに、神の言に関して知恵と知識が増し加わっていることにうれしく思っています。 私は盲人が見えるようになったという聖書の記述は、自分とは直接に関係のないひとつのイエス様の奇跡だとしか思っていませんでした。しかし、本当は私自身が目の見えない、また、足の悪い、耳の聞こえない者だったのですね。・中ヲ(最近「はこ舟」を送付希望されたある読者から)

・聖書はいつもほかの本やマスコミ関係の情報からは知ることのできない視点や英知を与えてくれます。書かれた神の言ですが、そこに聖霊の働きが加わると、生きて働く力となるのを感じる書物だといえます。しかし何らかの説明がなされないと分からない場合も多く、私自身も数多くの書物や人から聖書の真理を教えられてきたものです。日本に今後ともいっそうこの聖書の真理が広く知られて、唯一の神を知る人が起こされますように。


st07_m2.gifお知らせ

○来年の四国集会
 来年度、徳島市で行われる、第二十九回 キリスト教四国集会(無教会)は、徳島市の眉山会館にて、五月十一日(土)~十二日(日)までの二日間で行われることになりました。従来の会場は障害者用の設備がなく、不便なこと、やや狭くて収容人員を越えたことなどの理由から、会場を変えました。また、冷房で体調を崩す方もおられるので、冷暖房の要らない気候のよい時を選びました。予定に入れておいて下さい。詳しい内容は、来年にお知らせします。

○毎年発行しています、文集「野の花」の原稿を募集します。
・対象 集会員、「はこ舟」読者の方。
・字数 原稿用紙で二千字以内。
・内容 聖書の学びから、証し、信仰にかかわる体験、意見、今後の希望、集会のあり方等など自由です。ただし、内容や表現を若干縮小とか訂正することがあります。
・提出方法 パソコンでインターネットに加入している方は、インターネットで送って下さい。(それと共にコピー紙に印刷して手渡して下さい。校正がはやくできるからです。)
 またワープロはできるがインターネットに未加入の人は、ふつうのコピー紙に印刷して提出してください。(原稿用紙よりもワープロで印字して頂いた方が好都合です。スキャナで読みとりできますので。)いずれも経験のない方は原稿用紙に書いて提出して下さい。
・締切 十二月十六日(日)
・提出先 吉村まで 〒7730015 小松島市中田町字西山91の14 電話0885323017
○今年のクリスマス特別集会は十二月二十三日(日)午前十時からです。