2001年12月 第491号・内容・もくじ
山・神の勝利の力
先日、何年ぶりかで、徳島県南部で続けている集会の帰途に、山に上った。いつもはそうした時間的余裕がないので、できないことであったが、その時は少々の時間を取れるようであった。それで付近の植物を調べようと思ったのだった。県南部には私の住んでいるところとは違った植物がしばしば見られるからである。
しかし杉の樹林帯で日が当たらず、そのため野草がほとんどなく、もう少し上って調べて見ようと思い、進んでいってとうとう頂上まで上ることになった。
六百メートルにもならない山であったが、頂上からは延々と北方につらなる山がそれこそ波のようにうねってみえた。
快晴の秋空のもと、青くかすんだ山々、遠くに近くにと広がる山なみ、久しぶりにみるその揺るぎない壮大な光景に心が引きつけられてしまった。そのとき、私の心に浮かんだことは、神の力であった。悪に勝利する神の力がはるかな山なみと重なり合って感じられたのである。
山と神の勝利、それは本来何の関係もないことだ。しかし私の心には澄み切った大気のなかに海のようにひろがる眼前の山なみを目にして、そのように清い美しさは、神が悪や汚れに勝利した姿と浮かんだのであった。
私は大学一年の後半のころから山の深い味わいに目を開かれていた。その泰然としたすがたは、このすべてがうつろいゆく世にあって別世界の存在を暗示するものであったし、山々にみなぎる清い雰囲気と力ある姿は、弱く醜い人間の心やその世界とは際だった対照をなしていた。
あなたは大能を帯び、そのみ力によって、山々を堅く立たせられる。(詩編六五・6)
私は、山に向かって目をあげる
わが助けは、どこから来るか
天地を創造した神より来る (詩編十二・1)
主よ来たりたまえ
クリスマスから新年にかけての季節は、多くの人が何らかの期待をもって迎えることが多いだろう。何か新しいものが与えられたい、という願いをもってこのときを過ごすことも多いはずである。過ぎた年に心身を苦しめることがあった人はそれをぬぐいさってくれるものを求めるだろうし、今年こそは今までにないよきことが生じるようにとの願いをもっている人も多いだろう。 しかし、単に年が新しくなったからといって、よいことが生じるとは限らない。逆にいっそう不安や困難が待ち受けているかも知れないのである。 そうした不安定な状況にあっても必ずよいこと、新しいことが期待できることがある。それは、キリストが私たちのところに来て下さることである。主イエスが来て下さるとき、過去の失敗も罪も清めてくださるうえ、それらをも善きに変えてくださる。そしてどのようなことが生じようとも、それに耐える力、勝利する力を与えて下さるからである。 クリスマスも、じつは、そのキリストが世に来て下さったことを感謝し、受けた恵みを分かち合い、さらにいっそう私たちの苦しみや闇のなかに主イエスが来て下さるようにと願う時である。
年が改まったという一時的な新しさでなく、キリストが来られるとき、すべては本質的に新しくなる。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなった。」 (Ⅱコリント五・17 )
長く待ち望んでいた主よ、早く来て下さい
人々が罪に縛られているのを解放して下さい
主よ、主よ、人々を救って下さい!
主よ早く来て下さい。平和の花が咲く国を建てて下さい
主よ、主よ、人々を救って下さい!
万能の力をもった王である主よ、早く来て下さい
悪が支配しているかのようなこの世界にきて、御支配なさって下さい
主よ、主よ、人々を救って下さい! (讃美歌九十四番より)
報復戦争の波
飛行機を用いたテロで巨大なビルが破壊されて三千人余りが死んだことの報復として、アメリカはアフガン攻撃を始めた。それはまったく憎しみには憎しみをという感情をむき出しにしたものであった。そしてテロを支えていた組織と言われるタリバンを追いつめている。そして、一部の者はそれを見て、アメリカの武力攻撃は成功したなどと思っている。
しかし、そのアメリカの考え方と同様な考え方によって、イスラエルはパレスチナを攻撃し、戦車、戦闘機などを動員しての本格的な戦争の様相を帯びてきた。これを指導するイスラエルの首相は、その戦争を「テロとの戦いである」と言ったし、「これは容易な戦争ではない。短い戦争でもない。だが、我々は勝利する。」とも言ったと報道されている。直接にパレスチナ自治政府がテロをやったわけではないにもかかわらず、パレスチナへの戦争を始めたが、この考え方はアメリカが、タリバンが直接にニューヨークのビルを破壊したわけではないのに、タリバン攻撃をしているのと同様である。
シャロン首相は、アメリカのブッシュ大統領が言ったのと同様な言い方をし、武力攻撃を加えているのである。
憎しみは憎しみを生み、暴力は暴力を生む。アメリカのアフガン攻撃は、イスラエルとパレスチナにも新たな憎しみの火をつけたことになった。それだけでない。中国政府もチベット自治区や新彊ウィグル自治区の独立への動きを軍事力で弾圧しようとする動きをも正当化させたり、インドネシアでも、一部の州の独立運動を武力で弾圧する口実にされている。
こうして、憎しみには憎しみをもってし、テロにはさらなる軍事力という一種のテロで対抗するというアメリカのやり方は、世界のあちこちに憎しみや報復、武力弾圧の波となって伝わりつつある。
どのような理由があっても、暴力に対するに、暴力で向かうなら決して究極的に善きものは生まれないのである。
平和へのたゆまない努力、話し合いという方向を決して捨ててはならないのである。しかし、現実の世界を見ると国際連合とか国どうしの話しあいもなされてきたのに、いとも簡単に少数の人間によって武力への道が開かれてしまう。
暴力(軍事力)では本当の解決にはならないこと、さらに人間の話しあいですら、安心できる解決にならないことを知った者は、古くから聖書によって伝えられてきたキリストの道こそが究極的な平和の道だと知らされる。それがどんなに小さいことのように見えても、真理はそこにある。ここにこそ、あらゆる問題の解決がある。
奇跡について
奇跡とは、本来生じないようなことであり、だれにでも生じることがないこと、不可能なようなことが生じることだと思われています。例えば、水がぶどう酒に変わったり、水の上を歩くとか、天から火が降ってきたり、治るはずのない難病が突然いやされるとか、死んだ人が生き返ったりするなど、です。
しかし、聖書をよく読むと、キリストが行った奇跡というものは、実はほとんど生じることがないようなきわめて稀な出来事でなく、その逆であって、霊的なことに置き換えてみると本質的には誰にでも生じるようなことなのです。
例えば、五つのパンと二匹の魚しかなかったのに、主イエスが祈って、祝福すると、それが男だけでも五千人が満たされるほどになったという記事があります。
これなど途方もないことだ、普通なら絶対に生じないようなことだ、こんなことはあるはずがない、聖書は起こるはずがないことを書いているなどと思ってしまって、聖書を読む気がしなくなるという人もいるかもしれません。
しかし、これはよく考えてみると、歴史のうえでもつねに見られた出来事であったのです。
キリストの福音そのものが、このパンの奇跡だということができます。大工の息子として、暗く汚れた家畜小屋で生まれたイエスはまったく取るにたらない存在であったのです。しかしそのイエスが五千人どころか無数の人々を満たし、さらにそれが消費しつくされることなく、次の世代へと受け継がれて行ったのです。これはまさに、五つのパンと二匹の魚が男だけでも五千人という多数を満たし、残ったものでも十二のかごにいっぱいであったということを意味しているのです。
また、私たちがキリストの祝福を受けるとき、どんなに小さいものであっても、多くの人々に届くものとなることをも指し示しています。私たちが祈ること、書くこと、なすことが主イエスの祝福を受けるならば、だれも予測できないような大いなる働きをするようになるということなのです。
実際、キリスト教の二千年の歴史というのは、五千人のパンの奇跡の連続であったのだとわかります。小さな人物、無視されてしまうような出来事をも神は用いて、そこから数しれない人たちの救いと祝福につながっていったからこそ、キリスト教は厳しい迫害にもかかわらず決して滅びることなく続いてきたし、世界に広がってきたのです。
また、死人をよみがえらせるということも、本来絶対できないことだ、あるはずがないことだと思いこむ人がほとんどです。しかし、聖書では、ふつうの人間は死んだと同様なのだという見方を持っているのです。真実の愛や、正しさを持っているのか、ということを厳密に問いつめていくならば、だれもそうした真実な愛、貧しい者、醜い者、悪い者などへの心からの愛や祈りが持てない状況にあるからです。それは魂が死んだ状態にあるからであって、そうした愛とか、正義とかができないのです。
だから、そのような死んだ状態にある者がキリストの霊を受けるときには、その不可能であったことが可能となり、死んだ状態のものが、生き返ったことになるのがわかります。それが死人がよみがえるということが誰にでも生じるはずのことだという意味です。
キリストは実際に万能のお方であり、死んだ者をも生き返らせることができました。しかしそれはそのたった一人だけに生じることでないということを指し示すことが目的であったのです。
キリストが海の上を歩いたということも、キリストにだけ起こったことでなく、じっさい、ペテロもキリストをしっかり見つめているときには海の上を歩くことができたが、まわりの風と波を見たとたん、沈み始めたのです。海というのが、悪の力を象徴として意味されていることがわかれば、これは迫害の時代のキリスト者たちの経験を示していることだとわかりますし、またそれはあらゆる時代のキリスト者たちの経験ともなってきたことです。
キリストは確かに文字どおりに海をも歩くことができた。しかしそれはキリストだけがこんなわざができるといってその特別な能力を誇示するためでなく、キリストを信じる人がだれでも、それと本質的に同じことができるという約束であり、預言でもあったのです。
私たちもまた、キリストだけを見つめていると、たしかにこの世の悪を踏んで歩んでいくことができます。海の上を歩くとは、海によって現されている悪の力に支配されず、逆に悪の力の上を歩む、神の力によって前進していくことができるという約束です。
また、生まれつき全盲の人の目を開けたということも、私たち自身がキリストの力を受けるときには、神のこと、永遠の命のことなどに対しては全くの盲目であったのに、そうしたことが見える(分かる)ようになってくること、そしてさらに私たちがそれを他者に伝えることができると、その相手の人もまた霊的世界に対する目が開けていくことがあります。
このように、聖書で奇跡と言われていることは、じっさいに古い聖書の時代にその通りに生じたことであるけれども、私たちのただなかに、生活の中で生じるという約束なのだとわかります。
奪われること、与えられること
この世では長く生きるにつれて、得ることも多いが、次々と奪われることも多い。その第一は、健康であり、体力である。職業も定年ということで止めざるを得なくなる。家族もまただんだん少なくなる。そして趣味とか娯楽などもだんだんとできなくなっていくし、食事などの楽しみもまた、次第になくなっていく。ことに病気の種類によっては、いちじるしい食事制限を強制されるし、病気が重くなると歩くことも、食事すらできなくなる。あげくの果てには、ベッドに縛られた状態になってしまうことすらある。
若いときのあれほどの健康、自由、楽しみ、旅行、友人、職業、家庭、遊び…等などはすべて徐々に奪われていく。自分がどんなにそれらをしっかり持っていたいと思ってもむりやりにもぎ取られていく。
老年になって病気で入院するとき、そうした喪失が一挙に押し寄せてくる。
その時、もし逆に与えられるものがなかったら、到底心を安んじて毎日を過ごすことはできないだろう。
聖書にある有名な言葉「求め続けよ、そうすれば与えられる。門をたたき続けよ、そうすれば開かれる。探せ、そうすれば見いだす。」は、こうした老年期になっていっそう光を帯びてくる。
つぎつぎと失われていくことばかり多い日々にあって、なお、新しく与えられることがあるのだ。「求めよ、さらば与えられん」という主イエスの言葉は、老年になったらこの言葉は通用しない、若いとき、元気な時だけに通用する約束だなどとは言われていない。奪い取られていくただなかにあっても、私たちが真剣に主を仰ぎつつ求めるときには与えられるものがある。目には見えない宝、神の国の宝が与えられる。
ああ、幸いだ、心の貧しい者は。
というのは、その人たちには、神の国が与えられるから。
と主は言われた。次々に奪われていくこの世にあって、心(霊)において高ぶりや自慢を持たず、人間の持っているものの限界を知り、幼な子のような心で主を仰ぐときには、最大の宝といえる神の国が与えられるという。すべてが失われ、奪われていく過程で、心が砕かれるとき、信仰なくば、絶望でありいい知れない悲しみや淋しさであるだろう。しかし、信じる者には神の国が与えられる。
わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。(ピリピ書四・19)
私たちが不十分と感じても神は十分なものを下さっている。パウロのような歴史上で最大のはたらきをしたキリスト者であっても、なお、自分に欠けたところ、病気の苦しみを訴えて求めたが、神からは「神の恵みはお前には十分である」との言葉があった。あれほど聖霊がゆたかに与えられた人であっても、なおそのようにいつも十分に神の答があるとは限らないのがわかる。長く、繰り返し祈り続けて、それが聞かれない苦しみをもさんざん味わったあげくにようやく神からの応答を受けたということである。
私たちもいくら祈っても聞かれないと思うような時でも、それが神の十分な恵みだと、神からの直接の語りかけを受けるとき、初めて主の平安を与えられるのだと思われる。
死に勝利すること
死とはどういうことなのか、単にすべてがなくなってしまうことなのか、私たちはすべて死というものに向かっていると言える。死とは何かを知らないで毎日を過ごすということは、いわば列車に乗っていてその目的地を知らないで乗っているということになる。目的地を考えないで、列車に乗る人などいない。しかし人間の最終駅と言える死ということを考えないで生きている人が実に多いのは不思議なほどである。しかもその目的地のことを間違って受けとめている人が圧倒的に多いのである。
列車の目的地が列車ごとすべて破壊されるような所なら誰も平気で乗ってはいない。しかし、死んだらすべてが終わる、身も心もなくなり、破壊されると信じていながらその重大性を心に留めないで生きている場合が多数を占めているようである。
哲学も宗教もみんな死とは何かということ、死を克服する道はあるのかという問題に特別な関心を抱いてきたのは当然である。
ギリシャ哲学の代表的人物であるソクラテスは殺される前につぎのように述べている。
死を恐れるということは、英知がないのに、あると思っていることにほかならない。なぜなら、それは知らないことを知っていると思うことだからだ。というのは、死を知っている者は、誰もいないからである。もしかしたら、それは一切の善いもののうちで、最大のものかも知れないのに、彼らはそれを恐れている。あたかもそれが害悪の最大のものだと知っているかのようにだ。
私は死後のことについてはよく知らないから、そのとおりに知らないと思っている。しかし、はっきり知っていることがある。不正なことをするということ、神でも人でも自分よりすぐれている者があるのに、これに従わないということは悪であり、醜いことであることを知っている。だから私は、はっきりとはわからない死を恐れたりは決してしない。(ソクラテスの弁明二九A~B)
このように、死ということを恐れず、死刑を受けたのは、死そのものが何であるか定かではないが、神からの指図というものに従った結果であるという。
そして、別のプラトンの著作では、ソクラテスはつぎのように述べている。
私がこれから行く死後の世界は、第一にこの世の神々とは別の賢明で善い神々のもとへであり、またこの世の人々よりもすぐれた、すでに亡き人々のもとへであると考えている。だから私は死を厭わないのである。・中ヲこの上もなくよい主人(神々)のもとへ行くということは、なにかこのようなことで断言できることがあるとすれば、これこそまさにそうだということを知っておいてもらいたい。私は死んだ人にとっては、何かがある、しかも昔から言われているように、善き人々にとっては悪しき人々にとってよりもはるかによい何かがあるという希望を持っているのだ。(「パイドン」63BC)
このように言って、死の彼方にあるものを断言できないにしても、善き神々のもとへいくということへの強い希望を持っているのを現している。しかしこの死後どうなるかは、おぼろげで、ソクラテスやプラトンほどの天才的哲学者であっても、なお確言できないことであった。
こうした死に対する不明瞭な思いは、旧約聖書においてもみられる。
聖書においても当然死とは何かということは、最大の問題であった。しかし、旧約聖書においては、死とはなにか、死の彼方にはなにがあるのかということについては、驚くほどわずかしか書かれていない。旧約聖書の根本となっている創世記から申命記までの五つの書物はモーセ五書とも言われているがそこに現れる信仰の人たちは、死後の希望ということは何も触れていない。
最初の人間として名が知られているアダム、ノアたちも単に「死んだ」と記されているだけである。また信仰の父として現在まで計り知れない影響を及ぼしてきたアブラハムにしても、
アブラハムの生涯は百七十五年であった。
アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。
(創世記二五・7~8)
と記されているにすぎない。現在では国や民族の名として知られているが、イスラエルという名はもともとヤコブの別名として神から与えられたものであったが、そのように重要なヤコブもまた、「ヤコブは、息子たちに命じ終えると、息を引き取り、先祖の列に加えられた」(創世記四九・33)と書かれているだけである。
また、旧約聖書最大の重要人物といえるモーセについては、つぎのように記されている。
モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった。(申命記三四・7)
このように活気ある状態であったにもかかわらず、モーセの死後はどうなったのかについては全く触れられていない。
つぎに旧約聖書の詩編のもとを書いたとされる武人であり、王にもなり、また音楽もよくしたダビデの最期も同様であって、つぎのように書かれている。
ダビデは先祖と共に眠りにつき、ダビデの町に葬られた。(列王記上二・10)
このように、旧約聖書を読んで驚かされることは、死というものに対して、死後はどうなるのかという疑問とか記述がほとんどないということである。いかに優れた神の僕であってもみんな、先祖の列に加えられたとか、眠りについてという、死の別の表現をとっているだけである。
死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず、
陰府に入ればだれもあなたに感謝をささげない。(詩編六・6)
このように、旧約聖書においては、死後の世界というのは、はっきりとはわからないが、何の希望もなく讃美も感謝もないような、影のような世界であると考えられていたのがこうした詩からもうかがえる。この点では、ソクラテスやプラトンらが持っていたような、何か善いことがあるという希望も記されていないほどである。
こうした死後の世界がどうなるのかわからないという状況から、次第にキリストの時代に近づくにつれて、死はすべてのことが終わる時でないということが示されてきた。例えば、キリストよりも一六八年ほど以前に書かれたというダニエル書には、死者の復活ということが記されている。
しかし、その時には救われるであろう、お前の民、あの書に記された人々は。
多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。
目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々はとこしえに星と輝く。(ダニエル書十二・2)
ダニエル書は、キリストより一六八年ほど昔に書かれた文書だとされている。当時、パレスチナ地方を支配したアンティオコス・エピィファネス四世は、ユダヤ人に対して厳しい迫害を加えた。(そのことは、ダニエル書以外では、旧約聖書続編のマカベア書に詳しく記されている。)
そのような苦難の時期においてとくに死を越えた命ということが啓示されたのである。主イエスもダニエル書からの引用をしている箇所があり、主イエスが自分のことを人の子と言われたが、その表現もダニエル書に現れる。
このように、復活ということがだんだんと啓示されてきたが、そのことが、完全に啓示されたのが、キリストが現れて、復活したからであった。
人間は死んだら終わりでない、死後に復活するということは、新約聖書のあちこちで書かれている。
そしてヨハネ福音書においてはそのことがとくにラザロという一人の人物の復活のことを詳しく記すことによって、復活ということを読む人に証言している。
ラザロとはマリアとマルタの兄弟であった。病気が重くなり、マリアたちが人を遣わして、ラザロが病気だと言わせた。
しかし、主イエスは、「この病気は死で終わるものでない。神の栄光のためである。」と言われた。しかし、ラザロは死んだ。その後でイエスは、そのラザロのところにやってきた。
少し前に、マルタたちは、主イエスを信じて昔から預言されていたメシアであると信じた、そして主イエスから直接に、私を信じる者は、死んでも生きる、といわれ、このことを信じるか、と念を押されたのであった。そしてそのとき、マルタは「はい、主よ、あなたが、世に来られることになっている神の子、メシア(救い主)であると信じます」と言っている。
このように主イエスを何百年も昔から預言されていたメシアであると信じていても、マルタは、一度死んでしまった者が復活するということはとうてい信じられなかった。そこまでは信じることができなかった。マルタは、死んで四日も経っている人は復活することは有り得ないのは当然だと堅く信じていた。これは、主イエスをメシアと信じてもなお、変わらなかった。それほどに死というのは、メシアですらも取り返しのできないことだという思いが存在していた。
そのような考えは現在のほとんどの人間が持っている。死んだら終わりだ、死んだ者が復活するなど有り得ないということである。
主イエスはこうした世の常識を根本からくつがえす目的でこの世に来られた。死に対する勝利こそは主イエスが来られた最大の目的なのであった。罪の赦しということも、じつは罪に死んでいる人間の罪を赦し、清めてよみがえらせるためであった。復活も、四日も経って生き返らせることは不可能な状況から、神の命を与えてよみがえらせることである。このような最大のことをするために主イエスはすべてのものを奪っていく悪の象徴としての死への憤り(怒り)を持って墓に入って行かれた。
入り口は、石でふさがれていて、四日も経っている、死の臭いがする、それはいかなる観点からしても命があるなどとは考えられない状況であった。そのようなところにイエスは入って行かれる。
これは現在の世界がそうではないか。私たち自身の魂がそうではなかったか。石で塞がれているような、閉じこめられたところであるうえに、死の臭いがするような人間の心に、また人間社会のただ中に入って行かれる。そしていかなる人間もできないようなわざをして下さる。
主イエスがラザロのところに入っていくときに祈りがあった。死から生への大いなる奇跡をなすための準備というのは、悪の力への怒りを持ちつつなされた神への祈りであった。
「父よ、私にいつも聞いて下さったことを感謝します。また今もいつも聞いて下さることを知っています」と言われた。原文は単にこのように「私に聞く」という表現である。これはつぎのようにヨハネ福音書に繰り返し出てくるのと同様な表現である。
「羊は羊飼いの声を知っているから、ついていく。しかし、ほかの者には決してついていかない。その声を知らないからである。」「わたしの羊はわたしの声を聞く」(*)(ヨハネ十・4、5、27など)
(*)羊とはキリストを信じる人、羊飼いとは、主イエスのこと。
このようにキリスト者とは、キリストの声を聞いてそれに従っていく者であると言われている。キリストご自身が、父なる神の声に耳を傾け、その声の語るままに、自分も語り、また神のわざをなす力も与えられていたのである。
人間は悩みや苦しみが深いほどに、だれに言っても聞いてはもらえないという気持ちになる。そして何も言わなくなる場合もある。しかし、主イエスは心から仰ぐ者を必ず聞いて下さる。
キリストが、死んで四日も経っているラザロをよみがえらせるという、最も困難なことをなすにあたって、つねに聞いて下さる神であることを確認している。
イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞いてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。」(ヨハネ十一・41~42)
この霊的なつながりがないところでは祈っても聞いてはもらえないだろう。
私たちも自分の心の願いや苦しみを神(主イエス)が聞いて下さっていると実感できていれば、すでにそのときに、何にもかえがたい神の愛を受けているのがわかるので、そのような愛を注いで下さる神だから、必ず私の願いも聞いて下さって、最善にして下さるとの安心感が生まれる。神が聞いて下さっているのを実感することができるということは、神と心のつながりが保たれているということであり、神からの静かな語りかけをも聞くことができているということである。
こうして私たちの心(霊)が神と結びついているとき、まちがったことを求めることがなくなる。こうした心持ちを、聖書では使徒ヨハネが神から受けた言葉として、つぎのように語っている。
何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞いてくださる。これが神に対するわたしたちの確信である。
わたしたちは、願い事は何でも聞いてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かる。(ヨハネ第一の手紙五・14~15)
ラザロの復活に関する長い記述の最後はどんな内容で締めくくられているだろうか。それは、イエスの一言である。
「ラザロよ、出て来なさい!」
この一声によって、死んで四日も経って死の臭いがたちこめるような人間が、起きあがって出てきたと記されている。
ここには、私たちの世界の最大の問題がいかに解決されるかが、きわめて簡潔に、驚くべき単純さで記されている。
これは実際に二千年ほど昔に生じたことであった。
ほとんどの人は、こんなことは有り得ないと思っている。
しかし、キリストは二千年間、無数の人をたちかえらせ、新しい命を与えてきたし、今も与え続けている。キリストの存在は人類の歴史のなかで、最大の奇跡であり、そのキリストならこうした奇跡もできるはずである。神の子であるとはそういう意味なのである。万能の神と同じ力を持っているということなのである。
このキリストの一言が重要であるのは、それが昔起こった一回きりの奇跡でないという点にある。今もどうすることもできないほどに弱りきった魂、死んだも同然の人間に対して、個人的に名を呼び、その死のような世界から、「出て来なさい!」と力強い声で呼びかけられているのである。
その呼びかけは過去二千年にわたって、世界に響いてきた。そしてその呼びかけによって死んだ者が本当に新しい命を与えられて、墓場のような暗い世界から脱することができてきた。
自分は死など関係ない、という人もいるだろう。元気はつらつとして仕事に精を出している人も多くいるかもしれない。
しかし、人間は本当に正しいこと、真実なこと、無条件的な愛を持って生きているのか、と問われるとき、いったい誰が自分は正しい、神という絶対的な正しさや真実さを持った方の前でも正しい、正義の人だなどと主張できるだろうか。だれもできない。
そのことを、使徒パウロは彼の最も重要な著述、ローマのキリスト信徒への手紙の中で旧約聖書の記述を引用しながらつぎのように述べている。
では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのか。全くない。すでに指摘したように、・抽F、罪の下にある。
次のように書いてあるとおりである。
「正しい者はいない。一人もいない。
悟る者もなく、神を探し求める者もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ローマ・三・9~12)
このように、誰もが、神の前では正しいとは言えない。それは善いことができない、どうしても不純なものが混じってしまう、自分中心という目には見えないもので縛られているという状態なのである。それは、死んでいるとも言える状態である。
このことを、パウロはやはり同じ手紙のなかで次のように述べている。
「死はすべての人に及んだ。すべての人が罪を犯したからである。」(ローマ五・12)
このように、より深い観点から見ると、人間はみんな死を帯びている。そして戦争や殺人、性の乱れなど数々の悪事は、いわば死の臭の現れだと言えるだろう。
世界はいつの時代にもそのような意味では死の臭いがたちこめている。
キリストはそういうところに来て下さり、死という最大のものを克服し、勝利するために来られたのであった。死臭のするところから、出てきなさい! それがキリストの呼びかけでありその声を聞いて従っていく者がキリスト者だということになる。
ヨハネは自分の魂の奥深くにてイエスの声を聞き取り、その声こそは世界を死から救うということを感じとったのである。そしてこのラザロの出来事に託して、全世界の人、あらゆる人たちにそれを伝えようとしたのであった。
使徒パウロ自身が、やはり自分はどうしても善いことをすることができない、自分は死のからだであると嘆いているが、そこから主イエスによって「パウロよ、出てきなさい!」との呼び声を聞いて、その死の体に新しい命を与えられて、立ち上がることができたのである。
ラザロの復活ということが特別に詳しい記述がされているのも、すべての人間にとって根本的な死ということへの勝利はどこにあるのか、それはだれによってなされたのか、ということが内に秘められているからである。
「あなた方はこの世では苦難がある。しかし、勇気をだしなさい。私はすでに世に勝利している」
これは、十字架につけられる前夜の最後の夕食のときに語ったと伝えられている。ここで勝利しているとは、この世のさまざまの誘惑や憎しみ、敵意、本能的欲望などすべてに勝利したということであるが、究極的には、最大の破壊力を持っている死の力にも勝利して下さったことをも意味している。
いかなる絶望の状況にある人でも出てくることができる。死の世界から脱して命を与えられる。さらにイエスは、死を象徴する巻いた布をほどいて、行かせよ、との言葉でこの長いラザロの復活の記事が終わっている。私たちも罪の力にひどく縛られていた者であったが、その罪の束縛から解放されて、神の国目指して「行け!」と言われている。
ここに、死という最大の力に勝利するイエスの力が劇的に表現されているし、それが、死の世界のただなかに住む、私たちへのメッセージとなっている。
神、われらと共に
キリストが生まれるとき、天使が父のヨセフに現れて、生まれる幼な子の名前についてつぎのように告げた。
主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(マタイ福音書一・20~23)
これはキリストが生まれるときに生じた最も重要なことの一つなので、クリスマスの時には必ずといってよいほど思い起こされます。
ここにキリストのふたつの名が現れます。それは、イエスとインマヌエルという名です。これら二つはいずれもヘブル語で、イエスの方は、「ヤハウェ(神の名)は救い」という意味であり、インマヌエルというのは、「神、我らと共に」という意味です。(ヘブル語でイムは「共に」、ヌーは「我ら」、エルとは「神」を意味する)
この二つにキリストが地上に来られた意味が込められています。
イエスと言う名は、神は救いであるという意味ですが、救いとは、罪からの救いを意味しています。単に、苦しいことや、病気、人間関係からの目先の一時的な救いのためではないのです。いろいろの苦しみの背後には、人間の本質が真実なものに背を向けて人間の欲望とか自分の益を中心に考えてしまうということが罪であり、その根源的な傾向を改めて神中心に考えるようになることが、救いということです。
そのために、その罪を除くため、人間の罪を身代わりに背負うために、キリストは十字架にかけられたわけです。キリスト教のシンボルが十字架であるのは、このイエスの名前と意味を現しているのです。
このことがキリスト教といわれる信仰の中心であるために、聖書でも繰り返し強調されています。私たちのこの罪深い性質を日々思い知らされるとき、その罪の赦しがなかったら、前に進むことができないのです。
それとともにもう一つの、インマヌエルという名前は、一般の人には、ほとんど知られていないと言えます。
インマヌエルと呼ばれると旧約聖書で預言されているけれども、ふつうにはキリストのことをインマヌエルなどとは全く言わないし、キリスト者でもふつうには使っていない言葉です。
しかし、神が私たちと共にいて下さるということは、聖書全体を貫いている重要な真理です。
アダムは真実の神に対して不信実になったゆえに、楽園から追放されたとあります。それは神がともにいるという幸いな状態が壊されたということです。そしてその子供である、カインも神に背いて、自分の弟を理由もないのに殺害してしまった、その罰として地上をさすらう者となりました。
しかしそれでもなお、そのような重い罪を犯したカインに対してある守りを与えて、特別にしるしを付けて、カインに出会う者が彼を撃つことがないようにされたと書かれています。このような罪犯した者ですら遠くから見守り、完全には見放さなかったというのです。ここに、神がいかに人間と共にいて守って下さろうとするお方であるかが記されています。
アダムの別の子孫たちはすべて長寿を与えられたがみな、死んでいった。しかしエノクという人だけは、「エノクは神とともに歩み、神が取られたので、いなくなった」という特別な記述がされています。ここには、当時はまだ神とともに歩むということが稀であり、そのうちでも、人間が直接に死を見ないように「神が取る」というようなことはほかに例がなかったことと考えられます。
旧約聖書の代表的な出来事は、奴隷になっていて四百年も苦しんでいた人々が、モーセによってエジプトから脱出して、神の約束の地まで四十年もかかってたどりついたことです。
その間、砂漠のような乾燥した水も食物もほとんどないような荒野を数十万もの人々がどのようにして耐えて、前進することができたのか、どう考えても不可解なこと、謎のようなことです。その間のことを書いてあるのが、出エジプト記です。
困難な荒野の生活を支えたのは、神がともにおられたからでした。そのことを人々がつねに実感できるようにと、移動式の聖所である幕屋を造ることを神は命じています。
また、彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである。(出エジプト記二五・8)
幕屋というのは一般には使われない言葉です。これは、聖書において、荒野をさすらう民のためのテント式の聖所を意味しています。困難を極める砂漠的な地方での長期にわたる生活の中心として、神がともにおられることを象徴するものでした。
そしてその書物の最後には、つぎのように書かれています。
旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れた。そして人々はすべてそれを見ることができた。(出エジプト記四十章より)
この意味は、どんな時にも神が人々と共におられたこと、その神の導くままに移動していったということです。このように、出エジプト記に記されている神の民の特徴は、どんなことがあっても、共にいて導く神を与えられていたことです。
これが、いかなる困難にあっても神の民が滅びなかったことの最大の理由だと言えます。
新約聖書においては、神がともにいて下さるということは、一般の人にはわかりにくい表現ですがヨハネ福音書では第一章に書かれています。
言(ことば)は肉となって私たちの間に宿られた。(ヨハネ福音書一・14)
この短い表現にはさまざまのことが含まれています。しかし、ふつうには使われない表現があって、初めて読む場合には意味がよくわからないのではないかと思われます。
言(ことば)とは、単なる私たちの会話の言葉とは違うのです。この原語はギリシャ語でロゴスといって、これは、宇宙を支配している目に見えない あるもの、理性というようなものをも意味する言葉でした。一般にはキリストというと、二千年前に生まれたイエスという人のことだ思われています。しかし、聖書では、キリストはそれ以前から、永遠の昔から存在していて神と共にあった、あるいは神であったと言われています。
そして二千年前に人間のかたちをとって(肉となって)、人々の間にこられて住むようになられたということなのです。
ここで、「宿られた」と訳されている原語(スケーノオー skenoo)は、ふつうに使われる「住む」という言葉でなく、じつは「幕屋を張る」と言う言葉です。(幕屋、テントは、スケーネーという)これは、黙示録以外の新約聖書ではほかには一度も使われていない言葉です。ヨハネがこのキリストの使命を一言で現すために特別な意味をこめて用いたのがうかがえるのです。モーセに導かれてエジプトから脱出した人々が死と隣り合わせていた砂漠地帯の困難な生活を支えていたのが、幕屋といわれる移動式の聖所(礼拝場)でした。それと同様に、キリストが人間のすがたをして来られたのも、私たちの数々の困難のある現実の生活のただなかに、宿って下さるためであったと言おうとしているのです。
黙示録では、この「幕屋を張る(スケーノオー)」という言葉は、最後に近いところに、あらわれます。
わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。・中ヲ
そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み(幕屋を張り)、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示録二十一・1~4より)
ここでは、この世の究極的なすがたが象徴的な表現で書かれています。聖書における最後の言葉とも言えますが、それが、神がかつての荒野のさすらいのときにつねに人々と共にいたように、世の終わりには、永遠に神が人とともに幕屋を張って住んで下さるということです。
こうして聖書は私たち対して、出エジプト記から黙示録まで、「神は、人々のただなかに住んで下さる」と言おうとしているのがわかります。
キリストの本来の名前はイエスです。この名はすでに述べたように、「救い」という意味を持っていますが、その救いとは罪からの救いです。キリストが十字架にかかって死なれたこと、それは人間の持っているどうしようもない深い罪を担って死んで下さった、それによって私たちを悪の力から買い戻したということであったのです。
それによって私たちは神とともにいることができるように整えられたと言えます。罪から救われた人間が、その後はどうなるのか、それが、神がともにいて下さるということです。
肉体をもって地上に来られたイエスが死んだのちに、復活して、聖霊として存在するようになったのも、信じる者すべてのところにつねにともにいて下さるためでした。肉体をもったままでは、ごく限られたところでしか存在できない、しかし聖霊は、いつでもどこでも存在できるからです。
さらに使徒パウロはともにいて下さる主イエスについて深い啓示を受けています。それは、私たちの生活のなかで共にいて見守り、導いて下さるだけでなく、私たちの内に住んで下さるということなのです。人間の一番深いところ、その魂をいわば宮としてそこに住んで下さるということほど、ともにいて下さる神を感じることはないと言えます。
あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿である。(Ⅰコリント 六・19)
といい、また、つぎのようにも言っています。
生きているのは、もはやわたしではない。キリストがわたしの内に生きておられる。(ガラテヤの信徒への手紙二・20)
このような直接的な表現のほかに、パウロが特別に用いているのが、「キリストの内にあって」とか「主の内にあって」という言葉です。これはパウロが実に一六四回も使っている表現なのです。キリストはたんにはるか昔に生まれただけのお方ではない、いまも生きておられ、そのキリストの内に自分は置かれているのだ、またキリストご自身も自分の内に住んで下さっているのだということがパウロを支えていたことであったのです。そのようにとくにキリストのうちにあったからこそ、彼の書いたものが、ほかの弟子よりも多く新約聖書に含まれるようになったと考えられるのです。
ヨハネ福音書でもこれと同様なことは、キリストこそがぶどうの木であり、その内に留まれ、そうすればキリストも私たちの内に留まって下さる(*) ことが繰り返し強調されています。これがよく知られたぶどうの木のたとえです。(ヨハネ福音書十五章)
(*)なお、新共同訳では、ぶどうの木に「つながる」と訳しているがこの箇所の原語はメノー(meno)であって、これは、「留まる」という意味である。ヨハネ十五・4「わたしにつながっていなさい。わたしもあなた方につながっている。」という箇所の原文の直訳は、「わたしの内に留まれ、そうすれば私もあなた方の内に留まる」であって、単に平面的につながるのでなく、「内に」留まることが強調されている表現となっていて、パウロがよく用いている、「キリストの内にある」というのと同じ内容を持っている。
このように主は私たちといつも共にいて下さるけれども、しばしば神はともにおられるのだろうかと疑問になることもあります。つぎつぎと続く困難に直面したとき、耐え難い苦しみに出会ったときなどそうした気持ちになることはだれにでもあると思われます。そのようなときに、一人だけで祈るのでなく、二人、三人で祈ると主が共にいて下さるのを強く実感できることも多くあります。そのことを、主はつぎのように約束されたのです。
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。(マタイ福音書十八・20)
神が私たちとともにいて下さるということは、旧約聖書から新約聖書にいたるまで、以上のようにさまざまの箇所で、またいろいろの表現によって繰り返し強調されています。 神がともにいて下さるのでなければ、この、暗雲の漂う世界にどうして心安んじて生きていけるでしょうか。共にいる存在として私たちはたいてい、人間を求めます。幸福な結婚、家族、友人それは本当に得難い賜物であると言えます。しかし、それらがみな得られる人はごく一部に過ぎないのです。また、そうしたものを持っていても、病気や事故、人間の心変わりのためにいつ失われるかわかりません。さらに最も深い悩みや苦しみはどんな人にも本当にはわかってはもらえないのであり、ただ神のみ、生きて働くキリストのみがわかってくれるものです。
それゆえに、主イエスは聖霊として、また内に住んで下さる神として、私たちといつもともにいて下さることを約束し、聖書全体がそのことを証ししているのです。
お知らせ
○大阪の大川四郎さん他有志の人たちによって三十年ほども続けられてきた、中高生のための聖書の学びや交流の集いが来年もつぎのように開催されます。
第六十一回関西中高生聖書講座
期日 二〇〇二年三月二十三日(土)~二十五日(月)
場所 奈良カトリック野外礼拝センター
講師 津崎哲雄
テーマ 「わたしの中のせかい、世界の中の私」
参加費 五千円(遠隔地からの参加は旅費一部補助)
申込先 〒五三二ー〇〇〇二 大阪市淀川区東三国三ー一〇ー三ー五〇九 大川 記代子
返舟だより
○今年も多くの読者の方々のお祈りと支えによって「はこ舟」が継続できましたこと、感謝です。また、友人、知人に送付、または紹介して、み言葉の伝達に用いてくださった方も多くおられます。限られた時間のなかで続けていることなので思わぬ見落としや不十分な点があるかと思われますが、それらの欠けたところも主がどうか清め、補って用いてくださるようにと願うばかりです。
○ある読者からの来信です。
「毎月のはこ舟を心して読ませて頂いています。十一月号の『聞かれない祈り』は主人を入院させている今、つくづく身にしみて読んでおります。…」
何らかの重荷を背負ってこの一年を過ごされた方も多いと思います。どうか新しい年には、主イエスがいっそう近くに来て下さってその重荷を担ってくださいますように。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ十一・28)の約束が一人一人の上に実現するよう、祈ります。
○今年は九月のアメリカで生じたテロ事件のために世界的に重苦しいものがたちこめた年になってしまいました。しかし、キリストはそうした闇にこそ来て下さる、求める者の近くに来て下さることが約束されています。過去二千年の間、たしかにそのような光として来て下さったのです。新しい年には、そうしたキリストによる平和が一人一人の心に与えられ、そこから人間社会の平和も来ますように。
H/P担当者より
今月の聖句は(内村鑑三所感集のページ)へ追加されました。