2002年12月 第503号・内容・もくじ
火を投じるために | 悲しみと幸い |
聖なる単純
闇夜の光なる星ー清さ
青一色の大空ー深さ
川の水の流れーいのち
いずれも、単純そのものである。
星は音も立てない、何千年も変わることなく全く同じような光で輝いている。なんの飾りもなく、ただ暗闇のなかで光を放ち続けているだけである。それでも不思議な力をもって、はるか昔から無数の人々の心を引きつけてきた。
澄み切った青空、それはただ青い色が空一面に広がるだけである。それが私たちの心に人間世界とまったく異なる深みのある世界を指し示してくれる。
水の流れ、それは透明でただ同じように水音をたてて流れているのみ。その単純な有様が心にいのちを与え、心にしみ通る音楽となって聞こえてくる。
深いものは単純である。ただ光り続けているだけなのに、衣装、飾り付けなどのいかなる人間的な装飾にもまして清い美しさを放っている。
神は単純さをうちに秘めている。
それゆえ、私たちもそうした単純さをもって見つめるときに、最も神の本質に近づける。
主イエスがつぎのように言われたことの意味の深さを感じさせられる。
「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である。
よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。(ルカ福音書十八・16~17)
火を投じるために
キリストはどんな目的で地上に来られたのか、それは今月号で述べたように、罪からの救いであり、救われた者が神(キリスト)と共に生きることができるようになるためであった。
このことと関連しているが、別の表現で言われたのがつぎの箇所である。
わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。
しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。
あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。(ルカ福音書十二・49~51)
火を投じるため、それは驚かされるような表現である。私たちはこのような表現によってあまりよいことを連想しないのではないだろうか。それゆえこの言葉の背後にある意味を考えようとしないことが多い。
火、それは聖書ではしばしば裁きの象徴として用いられる。
・主は硫黄と火とを主の所すなわち天からソドムとゴモラの上に降らせて…(創世記十九て・24)
・見よ、主は火と共に来られる。主の戦車はつむじ風のように来る。怒りと共に憤りを、火と炎をもって責められる。
主イエスは救いをもたらすためであって、裁きなどまったくしないと思いこんででいる人が多い。しかし、主イエスはしばしば悪の霊に取り付かれた人から悪霊を追い出したがそれは救いであるとともに、悪に対する裁きでもあった。
また、神殿は祈りの家であるべきなのに、商人たちが、売買の場としていることを指摘し、商人たちを追い出したり、机を倒したりされた。これは神の権威をもってされた一種の裁きである。
主イエスは神の愛や真実とともに裁きの力をも与えられていた。その力をもって人間を裁くとき、誰一人その裁きに耐えることはできない。
このような正義の力をもっておられるのであるが、それを人間に及ぼしてつぎつぎと滅ぼすのでなく、自分の身にそのさばきの火を受けて、自らが十字架の上での激しい苦しみに耐えられたのである。
たしかに主は火を投じられたが、それは当時の一般のユダヤ人や、キリストの前に現れた洗礼のヨハネが予想したような、天からの火や人間の武力でもって悪人を滅ぼすことではなかった。十字架で自分が苦しみの極限まで味わうことによって、罪の根源を滅ぼしたのである。
火が燃えていればと、どんなにか願っていることか!(四十九節)
この火ということではもう一つ別の意味が込められている。
それは聖霊の火ということである。聖書において初めて聖霊が弟子たちの上に豊かに注がれたのは、使徒たちが熱心に祈っていたときであった。
…一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
すると、一同は聖霊に満たされ、霊(聖霊)が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(使徒行伝二・2~4より)
このように、聖霊が炎のようなものにたとえられている。それは聖霊の力を象徴しているい。ここではとくに舌と関係付けられて言われているが、その時以後、聖霊によって火のような力をもって、神の言葉が語られることの預言となっている。主が心から望んでいたのは、この聖霊の火が燃えていることであった。
黙示録のなかには、「七つのともし火が、御座の前で燃えていた。これらは、神の七つの霊である。」(黙示録四・5)とあるが、ここにも、霊(聖霊)が燃え続けるものであることが暗示されている。このように私たちの心や、信仰、あるいはキリストの集会において、その聖霊のともし火が燃え続けているようにというのがパウロの願いでもあった。それはつぎの言葉からうかがえる。
だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけよ。
いつも喜べ。
絶えず祈れ。
どんなことにも感謝せよ。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることである。
霊の火を消すな。…
すべてを吟味して、良いものを大事にせよ。(Ⅰテサロニケ五・15~22)
私たちもたえず気を付けていなければ、聖霊の火が燃え続けていかない。この世にはいろいろの他の火が燃えているからである。さまざまの犯罪が生じるのも、あの人が!というようなことが起きるのも、それは、いわば異なる火が燃え移って、それによってその人間の行動が別人のようになるからである。
日本という国全体が、異なる火によって燃えさかるときもある。中国との戦争、太平洋戦争のときの日本はまさにそうであった。ただの人間(天皇)を現人神と偽って教え、戦争もその命令で開始し、天皇のためにアジアの国々の人々を殺し、それで王国を築き上げるなどと称していたのである。
聖霊の火が燃えていたらと、どんなにか願っていることか!
それはそのまま、現代の私たちの願いでもある。キリストは当時の人々から捨てられ、弟子たちにすら裏切られ、そのような残酷な刑罰と苦しみを受けることによって、聖霊の火を全世界の人々に点火されたのである。その時以来、人は心から求める者はだれでも与えられるようになった。
キリストによって聖霊の火は燃え始め、それは受け継がれていって二千年がすぎた。私も学生時代の最後の年に、思いがけずそのような火を魂に受けた。
この聖霊の火はどんなに消そうと思っても消すことができない。ローマ帝国や、日本の江戸時代の三百年ほどもの長い歳月、その全権力をもって滅ぼそうとした。しかしできなかった。今も、主イエスが望んでおられる通り、聖霊の火は世界に燃え続けている。私たちはたえずそこから新たな火を取って、燃やされ、エネルギーを与えられ、さらに別の人にも分かち与えることができるようにならせていただきたいと思う。
イエスが引き寄せた人々
十字架上で処刑されたイエスの体をどうしたかなどということは、聖書的にはどうでもよいことだと思われるであろう。それは、心の問題や真理に関わることを主題とするはずの聖書にはそのような雑事のようなことは記さないと思われるかもしれない。
しかし、聖書にはそのような遺体の処置に関する記述のなかにも、信仰にかかわる重要な意味が込められている。
イエスの遺体を受け取って、新しい墓に埋葬したい、という特別な願いを持っていたのは、十二弟子でもなく、主イエスと行動を共にしたとも記されていない人であった。それはアリマタヤのヨセフという人物である。だれも顧みないような、重罪人として処刑された人間の遺体をわざわざ引き取って、自分の新しい墓に入れるということ、それは、よほどの主イエスへの愛と尊敬の気持ちがなければできない。
そのために自分が周囲の人から批判され、地位が引き下ろされるかもしれない。けれども、主イエスはそうした危険をも顧みないほどに、このヨセフの心を自らに引き寄せたのである。イエスは、どんな状況であっても、さまざまの人間を引き寄せる。
イエスは誕生のときからすでに、はるか東方の博士たちを引き寄せた。砂漠を越えて、数百キロをはるかに越える長い旅路を危険を冒しても主イエスに会いたいとの切実な願いを起こさせる存在であったのがわかる。
また、イエスの一言、私についてきなさい!という一言で、ヤコブ、ペテロ、ヨハネたちは主イエスに引き寄せられ、従うようになった。そして、弟子のペテロに言われた、「あなたを人間をとる漁師にしよう」という主イエスの言葉は、イエスに向かって引き寄せる特別な力を、ペテロにも与えようという約束に他ならない。
また、当然毎日の生活の衣食のことについても、だれかがイエスの世話をしたのである。
そのような身の回りの世話をするための女性たちもまたつぎのように、イエスのもとに集められていったことも記されている。
イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち…そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。(ルカ福音書八・2)
ヨセフが自分の地位や将来において重大な損失となるかも知れないのに、あえて、主イエスの弟子であることを言って遺体を引き取るという、だれもしなかったことを申し出たのである。これは十二弟子たちすら考えもしなかったことである。
主イエスはさまざまの人を徹底して愛し抜かれた。(十三・1)その現れをここにも見ることができる。 だからこそ、このヨセフはこのように遺体を引き取ることを申し出たのであった。主イエスの愛に動かされたのでなかったらこのような行動をとることはあり得なかった。
私たちの言葉や行いは、主イエスを見つめてなされているか、あるいは人間の個人的な欲望や感情でなされているか、の二つに分かれる。イエスの愛を受けた者、実感した者は自ずからその主イエスを見つめて何事もするようになる。主イエスの愛を感じていない場合には、人間の欲望や、人間的感情や意思で行うようになる。その場合には愛といっても、自分を愛してくれる者だけへの感情であり、憎しみやねたみも当然つねに生じてくる。しかし、主イエスから受けた愛に動かされるほど、どのような状況やどのような人に対しても祈りの心をもって対するようになる。
主イエスが死に至る最後まで人間を愛し抜かれたということの他の例は、ルカ福音書に記されている。それは十字架上の重罪人のことである。そのような最後の場面においてすら、一人の犯罪人は主イエスの愛が伝わってきて、その愛に感じて悔い改めたのであった。
また、息を引き取るときに、ローマの将軍のような権力と武力のただなかで生きてきた人すら、つぎのように深く心を動かされ、イエスがふつうの人間でなく、神の本質をもった特別な人であることを示されたのであった。
百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。(マルコ福音書十五・39)
このように、主イエスは生きているときから、死の直前、そしてその死後もさまざまの人を引きつけていくのである。これは、つぎの主イエスご自身の言葉が実現していったのである。
わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」(ヨハネの福音書十二・32 )
このようなキリストの大いなる力は、地上に来られる前から神とともに存在していた。それはこの福音書の冒頭に書いてある。
万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 (ヨハネ一・3)
これは万物がキリストによって創造されたという宣言である。神とともに創造のわざをなされたというおどろくべき記述であって、一般の人が、キリストというと地上の人間のかたちをしていた時だけだと思っているのは、キリストのごく一部を知っているだけなのである。
また、ヨハネ十二章には、マリアが三百デナリもする高価な香油をイエスの足に塗ったこと、ルカ七・38には、罪深い女が、やはり高価な香油をイエスに塗ったことが記されている。こうした行動は、主イエスが人間の最も奥深い心を引きつけていくこと、主イエスの神からの愛に引き寄せられた者は、そのために自分の最も重要なものを捧げようとする心になっていくことを示している。
私自身も、二十一歳のときにキリストと聖書を知るまでは、キリストとはまったく無関係な人間であって、およそ宗教というものに心惹かれたとか、何らかの関心などは皆無に等しかった。それが、わずか古い小さな一冊の本の一頁によって、キリストに引きつけられるようになった。
人間世界には数々の心を引きつけるものがある。子供であっても上に立つことに目を注ぐ。子供仲間の上に立とうとする傾向である。趣味や娯楽、飲食なども引きつける。さらに異性は場合によっては全存在を引きつけるため、間違った異性愛のために生涯を破滅させてしまうことすらある。
女性であると、身を飾ることにたえず心が引かれて大金をはたいてしまうこともみられる。
こうしたさまざまのことに人間は引き寄せられるがそれらはたいてい、一時的である。どんな娯楽、快楽も生涯を通して引きつけるというのはまずない。けれども人間の最も奥深い本性を引きつける存在というのはたいていの人が経験していないことである。だからこそ、たえず自分を引っ張るものを変えているのである。 しかし、ひとたびキリストが私たちの心の奥深いところに宿るとき、キリストは私たちを日々、どこまでも引き寄せてやまない。なぜか、それはほかのあらゆる心を引くものの最善、最も美しいもの、最も力強いもの、最も変化あるものなどをすべて持っているからである。
イエスの遺体の処置というようなふつうは目にも留めないようなことについて、聖書はさらにもう一人の人物のとった行動を記している。それはニコデモという人物である。
ニコデモは、イスラエルの信仰のいろいろの派のうちでは、パリサイ派に属し、ユダヤ人議会の議員であり、律法の教師であり、指導者であった。そうした地位の高い人でありながら、イエスにどうしても尋ねたいことがあって主イエスを訪ねた。しかし多くのパリサイ派のユダヤ人はイエスを憎んでいたので、夜にわざわざ訪問したのである。
主イエスはニコデモに対して、こう言われた。
(聖霊によって)新たに生まれなければ、神の国を見ることができない。(ヨハネ福音書三・3)
この言葉はニコデモには理解できないことであった。たしかに聖霊によって新しく生まれるというようなことは、旧約聖書の膨大な内容にもほとんど記されていないことである。しかし、それでもニコデモは、分からないからといってあきらめることはしなかった。その後もずっと自らの内に、キリストに引き寄せられるある力を感じ続けていた。そしてそれがだんだんふくらんできたのが、キリストの処刑された時であったのであろう。
だれもが恐れて逃げてしまうようなただなかで、ヨセフという人が、ローマ総督に特に許可をもらって、イエスの遺体を十字架から降ろし、引き取ることを申し出た。その時、ニコデモも待ちかねたように、高価な香料などを多量に持っていった。その量はおよそ、三十三Kg にも達するのであった。(*)これは、大人一人で、かなりの距離を運ぶのはむつかしい重さである。遺体に塗る香料とかのたぐいはそのような多量を要しない。それにもかかわらず、ニコデモは多額の費用をそれに注いだのであった。
主イエスに引き寄せられた魂は自ずからこうした行動にと導かれる。周囲の者からみると、理解できない無謀なこと、無駄なことと見えるだろう。しかし、主の愛に動かされ、主への捧げものとしてそうせずにはおれない心になったのである。キリストは、そのような心にさせる力を持っている。
同様なことは、すでに触れた箇所にも記されている。これは主イエスが十字架にかけられて処刑されるときが近づいてきたときのことである。
そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」(ヨハネ福音書十二・3~5)(**)
この場合にも、キリストの弟子であっても、このようなきわめて高価な香油を一度に主イエスのために注いでしまうのはあまりにも無駄であり、浪費だと思われたのである。しかし、主イエスに救われた者はそうせずにはいられなくなったのである。それが、まず神を愛するということなのであった。そのような神(主イエス)への愛に応えて、神ご自身が必要なことをして下さる。
(*)聖書の原文には、「百リトラ」の量と書かれている。一リトラは約三二六グラムなので、百リトラはおよそ三十三Kgとなる。
(**)当時は一日の給料が一デナリオンと主イエスのたとえにあるので、現在の日本では、おおまかに言って一日一万円とすると、この香油は、およそ三百日分の月給にあたり、日本では三百万円ほどにもなる。
このように、主イエスの力は驚くべきものがあって、地上で福音を宣べ伝えておられたときにも、ハンセン病の人、貧しい人、重い病の人、さまざまの障害者といった多様な人々を引き寄せたけれども、死後もなおこうした地位の高い人、裕福な人をも引き寄せ、多額を捧げようとする心を起こさせたのである。
宗教というと、その強固な組織で縛られ、組織のトップの言うままに洗脳されていき、人間の個性や自由も奪われ、金も奪われていくといった暗いイメージを持っている人が日本では多いようだ。
けれども本当の神への信仰は、このように自発的であり、魂の奥から動かされて何かを捧げようとする心を起こさせるものである。それは人によって時間やエネルギーであり、祈りであり、愛の心であり、また物品や金であったりするであろう。どんな人でもこれらのうちの何かは捧げられる状況にあるので、神に深く引き寄せられた人間はそのように自発的に捧げていく道を歩み始めていく。
水野源三という人も寝たきりで何十年も生きた人であるから、物品や金などを捧げることはできなかった。しかし、その詩には、主イエスへの精一杯の心がにじみ出ており、彼が心を捧げていたのだとはっきりわかる。
私のようなものが 水野源三
主イエスの御姿は見えない
御声は聞こえない
だけど―
私のようなものが 喜びにあふれ望みに生きている
今年も毎朝
今年も毎朝
母に聖書を
一ページ一ページをめくってもらい
父なる御神からの
新しい力
新しい望み
新しい喜びを受ける
まだ母ら静かに眠る春の朝 寝床の中でみ言葉思う
イエスの遺体を取り下ろし、墓に葬るという目立たない行動は、一般の人にはほとんど意味のないことであっただろう。もうあのさまざまの奇跡を行って、権威と力をもって教えたその人は殺されてしまって、すべては終わってしまった。残された人々はだれもまだキリストの復活などは信じられなかったし、そのような無惨に死んだだけのイエスが神のように罪をあがなうなどとも、信じられなかった。十字架処刑の直後には、イエスに関わっていた人々には底知れない虚脱感があり、神への疑い、深い悲しみや裏切ったという苦悩、無力感だけが残っただろう。
しかし、そのような特別な状況のなかでも、キリストは人間を引き寄せ、精一杯の行動をとらせるのだということを、ヨセフとニコデモたちの記事が示している。死んでしまって何の意味もないような遺体にすら、そのような愛と真実を注ぐようにさせるのがキリストの力であったから、復活したキリストが絶大な力をもって、全世界の無数の人たちを引き寄せていくのは当然であった。この二人の記事はそうした以後の歴史に生じることを預言する象徴的な行動となったのである。
さまざまの困難な問題が生じて、どうなっていくのか前途が見えないような現在の世界においても、主イエスは昔と変わることなく、たえず新しく人間を引き寄せておられる。そしてそのような複雑きわまりないこの世にあって、罪を赦し、本当の平安を与えて、自分の大切なものを神に捧げていく人間が生み出されていくであろう。
キリストが地上に遣わされた目的
キリストは何のために来られたのかについて、たいていの人は、よい教えを説くために来たと思っているようです。仏教とかイスラム教、儒教というように、日本では宗教の名前に、○○教と付けています。これは、中国語の表記をそのまま持ち込んだものです。(*)
このため、キリスト教とは字の通り、「キリストの教え」だと思いこんでいる人が多数を占めていると思われます。立派な教えを説くために来たのだというわけです。 もちろんキリストは歴史上でかつてない深い内容をわかりやすい言葉で、しかも権威をもって教えられたお方です。しかし、キリスト教といわれている信仰の本質は決してそのようなキリストが地上でおられたときに話した教えにとどまるものではないのです。
(*)中国語では、キリスト教のことを、「基督教」と書きます。これは、現在の若い人なら、まちがって「キトクキョウ」と読む人が多いと思われる。中国語では、「基督教」と書いて「チィー トゥー チャオ」(ji du jiao)と読み、仏教も中国語で、フォー チャオ(fo jiao)と言う。
(**)英語では、キリスト教のことを、Christianity という。-ity の部分は、「性質、本質、状態」などを表す接尾語。ドイツ語では、キリスト教のことを、Christen-glaube (キリスト信仰)または、 Christen-tum と表していて、-tum の部分は、英語と同様に、本質や状態を表す接尾辞。「教」というような語を含んでいない。
それは新約聖書の最初にある、マタイ福音書の冒頭の箇所に記されています。
イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
主の天使が(夫のヨセフに)夢に現れて言った。「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(マタイ福音書一・18~25より)
初めて聖書を読む人は、ここではまず、聖霊によってみごもるということが不可解で、信じがたいことと感じることが多いのです。そして最初に書かれてある「系図」と称する名前の羅列とともに、意味が不明でまるで心を惹かない内容だと思って、後を読む気がしなくなる人もいます。
しかしこの系図と訳されている部分にも重要な内容が含まれています。(ここでは、それは触れませんが)そして、ここにあげた、聖霊によってみごもるということも、同様にまったく初めての人には不可解で受け入れがたいことです。そのために、聖書はわけのわからないことが書いてあると思いこむ人もいます。
この聖霊によってみごもるということ、それはふつうには私たちの周囲では聞いたこともないことです。しかし、聖書でいう神とは、万能の神であり、万能とはあらゆることができる神ということです。もし、聖霊によって身ごもらせることができないような神であれば、それは万能の神ではありません。
ということで、まだ一緒になっていない前に身ごもるなどということがない、というのは、そのような万能の神を信じない人であれば当然ですが、ひとたび一切のことができる神を信じるときには、そのような無限の力をもった神が無限の深い配慮と計画によって、歴史のなかで、一度だけ、このように特別にまだ結婚していない女性に身ごもらせるということも可能だということになります。
要するにそんなことがあるかどうか、それはひとえに万能の神を信じるか、信じないのかという単純な問題になります。
ここで、強調されているのは、「聖霊」ということです。新約聖書のこの最初のところで、いきなり聖霊という言葉が現れて意外に思うのは当然です。これは、聖書がいかに聖霊を重んじているかということの現れなのです。主イエスが生まれるときに、聖霊によって生まれたと記されており、また別のところでもこのことの重要性が強調されています。
祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている霊(聖霊)について言われたのである。(ヨハネ福音書七・37~39より)
この箇所では大切な祭りの最後の日、しかも大声で言ったと書かれています。これは特別な強調を感じる表現です。これはこの内容がとりわけ重要であったことを示しています。
主イエスがそれほどまでの力を込めて大声で語った内容とは、信じる者には、「いのちの水」が与えられること、そしてほかのいかなるものも満たすことのできない心の渇きをうるおすということであり、その命の水とはすなわち、聖霊のことであったのです。
キリストがもう今夜捕らえられて翌日には殺されるという最後の夜の夕食の席で語った言葉のなかでもとくに強調されているのが、聖霊です。
わたしは父にお願いしよう。父は別の助け主(弁護者)を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
この方は、真理の霊(聖霊)である。
世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。
しかし、あなたがたはこの霊を知っている。
この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。(ヨハネ福音書十四・16~17)
また、キリストの使徒たちが、世界に福音を宣べ伝える最初の記録が、新約聖書に記されています。そこにも、つぎのように聖霊の重要性が見られます。
イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。
そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。
ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。(使徒言行録一・3~5)
キリストが復活して四〇日にもわたっていろいろと教えられたのに、聖書ではそれらのことは、ここに書かれたこと以外はすべて省略しています。それは「聖霊」を与えられるということがいかに重要であるかを示しています。水による洗礼はキリストが始めたと思われていますが、ここでも書かれているように、キリストの道を備えたヨハネという人物がすでに水の洗礼をしていたのです。
復活されたキリストは、水による洗礼でなく、聖霊による洗礼、すなわち神の霊を注ぐお方であることが強調されているのです。
マタイ福音書の最初のところで、初めに引用したように、キリストの二つの名が示されています。
その一つは、イエスであり、もう一つはインマヌエルです。イエスとは、「ヤハウエ(神)は救い」という意味です。(*)
救いとは、たんに病気とか事故とかを治すということよりもっと深い魂の問題、つまり人間の心がどうしても正しいこと、真実なことに従えず、自分中心に生きてしまうという罪からの救いを与えるという意味です。病気が治っても、もしその人が自分中心に生きて、嘘をいうことも平気で、他人を愛する気持ちもないということなら、その人間は救われていないわけです。
(*)もともとのヘブル語は、イェホーシューアといい、イェの部分は、ヤハウエ(聖書にいう、天地創造をなし、いまも宇宙を支配されている神の名)の短縮形で、ホーシューアの部分は、「救い」を意味する。それでこの言葉の意味は「ヤハウエは救い」となる。それがヨーシューア、イェーシューアともなり、(これは旧約聖書のモーセの後継者であったヨシュアの名。)そこから、ギリシャ語で、イェースースという発音となり、それが英語のジーザス、ドイツ語では、イェーズス、中国語の耶蘇(イェースー)、日本語のイエスという発音にもつながっている。中国の耶蘇については、日本では中国語の発音でなく、日本の漢字読みにして、ヤソと読んでいた。
罪からの救いということは、キリスト教信仰は単に、隣人を愛せよとか、物を施せとか嘘をついたらいけないとかいうものと大きく異なっているのを示しています。そのような教えがキリスト信仰の本質でなく、そのような教えが実行できない心の傾向(罪)そのものからの救いこそがキリスト信仰の本質なのです。
つぎに、生まれる救い主の名前は、「インマヌエル」と言われています。この言葉は、「神、我らと共に」という意味です。(「イン」は「共に」、「(マ)ヌー」は、「我ら」、「エル」は、「神」を意味する言葉。)
キリストが来られたことによって、神が私たちとともにいて下さることが、はっきりとしたのです。というのは、キリストは神の本質をそのまま持っておられる方であり、キリストが私たちのうちに来られたということは、神が私たちのところに来られたということと同じです。
このことはキリスト信仰の最も重要な内容の一つでもあります。そのために、ヨハネ福音書でも同様なことがその冒頭に記されています。
初めに言(*)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。…
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
ここでの「言」とは、地上に来られる前のキリストを意味しています。この原語はロゴスであり、「言は肉となって…」とあるように、ロゴスなるキリストが肉体をまとって、人間のかたちをとって私たちの間に宿られたと記されています。(**)
(*)この「言」とは、キリストを意味しているのであって、ふつう私たちがだれでも使っている「言葉」とはまったく異なる意味で使われている。この言葉の原語(ギリシャ語)は、ロゴスという。これは、非常に多くの意味をもった言葉であるが、ギリシャ哲学では宇宙を支配する理性といった意味にも用いられる。ここでは、そのような意味を含んでいる。ギリシャ人にとってとくに重要とされていた宇宙の理性といったものがじつはキリストであったのだという意味もここにある。それと、旧約聖書で表されているように、天地創造が神の言によってなされたほどに、力ある本質を持っているという意味もある。こうしたさまざまの意味を含んでいるのがこの箇所のロゴスという言葉であり、そのようないっさいを持っておられるお方がキリストであると言おうとしているのである。
(**)「宿られた」の原語は「テント(幕屋)を張る」であって、砂漠地帯でイスラエルの人々が宿営したときに、神がともにおられる象徴でもあった神の箱(そこに神の言葉刻んだ石が収められていた)を幕屋に入れて運んだことを指している。
このことは、とくに重要なことであったので、ヨハネ福音書でも最初の部分に書かれているのです。それが、インマヌエルということの別の表現となっているのです。
宇宙を創造し、全世界を支配して導いている絶大な存在である神が、小さな人間である私たちとともにいて下さるということは、すでに旧約聖書から記されています。アブラハムやヤコブ、ヨセフといった創世記に登場する人物は神がともにおられたことがはっきりとわかります。
またその後にエジプトに奴隷として強制労働させられたときに、モーセが神から使わされて砂漠を越えて故郷に帰るとき、そこでもその荒野の四〇年という苦しい歳月の生活のなかで、神が人々と共におられたことも旧約聖書の出エジプト記に詳しく記されています。ここでも神がともにおられなかったら滅んでしまっていたのです。
神がともにいて下さるということが、キリストが来られてから以後の時代の決定的な特徴となりました。先ほどあげたヨハネ福音書の第一章に「言が肉体となって私たちの間に宿った」という、現在の私たちには不可解な表現も、じつはそのことを意味していたのであり、インマヌエル(神我らとともに)ということがたしかにキリストによって実現したということを意味しているのです。
神ご自身と同質であったお方が、人間の体をもって、(肉体をもった姿となって)私たちの間に宿られた、すなわち私たちの生活、社会のただ中に宿られたということです。
これは神が共におられるようになったということを意味しています。
旧約聖書の時代では、イスラエル人というきわめて少数の人たちにだけ、神は共におられたのです。しかし、新約聖書のキリストの時代から後には、一挙に世界のいかなる人も、分け隔てなく、求める者にはだれにでも共におられるようになったのです。
キリスト教というとキリストの教えを連想してしまうだけの人が大多数であって、今も活きて働いておられるキリスト(神)が私たちと共にいて下さることがその本質的な内容であるとは知らないのです。これはとても残念なことです。
ヨハネ福音書では、そのような共にいて下さるキリストのことを、とくに繰り返し強調しています。最後の夜の食事のときのつぎのような言葉があります。
「父は別の助け主(弁護者、慰める者)を送って、永遠にあなた方と共にいるようにしてくださる。」(ヨハネ福音書十四・16)
「私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛して、父と私はその人のところに行き、共に住む。」(同23節)
そしてこのようにずっと共にいて下さるようになるために、必要なことがあります。それが、つぎの主イエスの言葉です。
イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。(ヨハネ福音書十三・)
キリストによって足を洗っていただくということ、つまりキリストによる罪の清めを受けることです。そのためにこそキリストは十字架にかかって私たちのあらゆる罪を身代わりに背負って下さったのです。主イエスによって足を洗って頂く、つまり汚れたところ(罪)を洗っていただかねば、キリストとは何の関わりもなくなると言われます。私たちが十字架のキリストによって心の奥深い不真実である罪の力から解放され、赦され、清められるということが不可欠だというのです。そしてそれが出発点となり、さらに日々の生活のなかでもその汚れを主イエスによって清められねばならないということです。
十字架はだれもが知っているキリスト教のシンボルですが、なぜそのようになったのか、それはキリスト(神)が私たちと共にいて下さるようになるために、罪からの清めが必要であり、その清めを果たしたのが、十字架での死だったからです。
つぎの言葉もそのことを意味しています。
次の言葉は真実です。
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
キリストと共に生きるようになる。(Ⅱテモテ書二・11)
キリストと共に死ぬといっても分かりにくい表現です。これは、キリストが私たちの罪のために死んで下さったと信じるだけで、キリストとともに死んだと同様に扱ってくださるということです。そうすれば、私たちはキリストと共に生きることができるようになるという意味なのです。
キリストの霊(聖霊)を最もゆたかに受けた人は、たしかにパウロであったと思われます。だからこそ、彼の書いた手紙が断然多く新約聖書に収められているのです。そのパウロが特別に多く用いている表現があります。それは、「キリストにあって、主にあって」という言葉です。これは、パウロが百六十四回も用いているほどです。(*)
(*)キリストのことを代名詞を用いて「彼にあって」などとなっている箇所も合わせての回数。
なお、新共同訳では、「主と結びついて」と訳していることが多いが、原文は en kurio (in Christ)であって、「主の内にあって」という意味を持っている。
これほど多く用いられているのは、パウロにとって「生きることは、キリスト」であり、聖霊なるキリストの内に留まり続けて生きていたことがうかがえます。それほどにパウロにとって、キリストは神が我らと共におられるということを実現した存在であったのです。
そしてそのことは、単にパウロだけにとどまるのではもちろんありません。聖書に書いてあることは、どれも一種の約束で、そこに書かれていることはその程度こそ違え、信じる人にはだれにでも実現することなのです。
それこそ、私たちが聖書をいつまでも読み続けて飽きることがなく、そこから命をくみ取ることができる理由でもあります。聖書はたしかに生きた書物であり、そこにキリストが私たちと共にいて下さることを実感させ、実現させる導きをしているのです。
この地上に生きている限り、私たちはいろいろの問題に悩まされます。職業において、家庭の問題、また病気の苦しみ、孤独の淋しさ、将来の不安等など。そうしたときの最終的な希望は、死後の希望となって私たちの心を天にと引き上げます。
私たちの死後にこそ、完全な意味で神は私たちと共におられるようになると約束されています。パウロもそのことを強く願っていたことはつぎの言葉でわかります。
(自分の前途には)、地上で働くことと、この世を去って、キリストと共にいることの二つがある。自分としてはキリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。しかし、人々のためには、この地上に留まることが望ましい。(ピリピ書一・22~23)
こう言ってパウロは、この世を去るとキリストと永遠に共にいることを心に強く願いつつ、地上の使命を果たすべく、日夜主のために霊の戦いを続けたのです。
こうして、キリストが生まれるときにその名として記されている二つの名、イエスとインマヌエルは、キリスト教の本質を指し示しているのがわかります。イエスという名は、私たちを罪から救うことを意味し、インマヌエルとは、その罪の束縛から解放され、救われた者には神が共にいて下さるという生活になる。そしてこの神と共にある生は、人が背いて捨て去るのでないかぎり、この地上においてだけでなく死後も、私たちとともに永遠に続くことを指し示しています。
悲しみと幸い
多くの人には人知れず流す涙がある
だれにも言うことのできない悲しみがある
その悲しみを主だけはご存じである
ああ、幸いだ、悲しむ者は!
と主は言われた。
その悲しみの奥までも、主のまなざしは届くから。
その涙を知っていてくださると実感できるから。
イージス艦派遣
政府は、今まではその派遣について考慮してきたが、慎重論に配慮して見送ってきた。しかし今回のテロとの戦いを支援するという名目で、ついにイージス艦を派遣することに決定した。イージス艦は、一隻千二百億円という高価なもので、世界でも、アメリカとスペインの他には持っている国がないというだけでも、これが世界の先端をいく護衛艦であることがわかる。福祉関係予算などは今後もつぎつぎと削減していく方向にありながら、このような高価な護衛艦を四隻を保有し、さらに五年以内に二隻を追加することになっているという。
アメリカのテロとの戦いというが、テロというのは例えば暗殺といった形で、昔からあったし、どこからがテロで、どこからが独立への戦いなのか決して明確ではない。
また戦争はすべて本来は大規模なテロ行為であって、広辞苑には、テロとは「暴力或いはその脅威に訴える傾向」とあるが、戦争ほど、暴力を大々的に行うものはない。いろいろな独立戦争や民族対立の戦争は必ず暴力行為を伴うのであって、どこからがテロでなにがテロでない暴力行為や戦争なのかは到底明瞭に区別することはできない。
そのようなあいまいさを持つテロとの戦いと称するものに、日本が加わることになれば、今後アメリカが始める各地でのあいまいな「テロとの戦い」につねに加わっていくことになってしまう。現在の自衛隊そのものが、大規模な軍事力であってそれはすでにこの憲法の精神に反するものとなっているが、イージス艦のような優秀の機能を持つ護衛艦を遠くインド洋へ派遣し、今後もアメリカに追随してアメリカが起こす戦争には世界のどこにでも加わっていくことになると、それはいかなる国とも永久に戦争をしない、戦力も保持しないと定めた、日本国憲法の第九条の精神を根底からくつがえすことになっていくであろう。
日本はこの平和憲法を持っているがゆえに、どんな国にも相手からの疑念を持たれずに仲介できる立場があった。日本やアジアの国々の数千万の犠牲者のゆえに成り立ったこの平和憲法のゆえに、現在まで半世紀を越えて、日本は世界のいかなる国民をも自国の武力で殺傷するということなく歩んでくることができた。そして軍事予算である、自衛隊関係の費用も他国とくらべてずっと少なく抑えてきたからこそ、日本の経済的な繁栄にも役立ってきたのである。現在の平和憲法によって日本は過去五〇年間、いかなる損失を受けてきたというのであろうか。しかし、軍事力を増大させ、今回のように海外までその卓越した自衛隊の装備を派遣していくことになれば、世界に広がろうとしているテロの脅威は日本にも当然ふりかかってくる。例えば、ひとたび東京とか、大阪などの大都市であのようなテロが行われたら、その損害や影響は甚大なものがある。そしてそのようなことが生じれば、さらにまた軍事力を増大させて、テロを防ぐのだと言い出すであろうし、イギリスやフランス、中国などもさらに現在のような武力によるテロ撲滅という方向になるだろう。そしてさらにそれは新たなテロを生み出す…という悪循環が生じている可能性を色濃く持っている。
現在の日本のとっている方向はそうした可能性を高める方向へと進んでいるのである。それはテロを防止するのでなく、テロの範囲をさらに広範にさせる要因を含んでいる。
テロとの戦いには、平和主義に徹すること、武力を取らずに話し合いでもって解決を図ること、テロの温床となっている、貧困や差別などを解消していくための真剣な話し合いや、取り組み実践、そうしたことが最も効果的な戦いなのである。武力による戦いでなく、貧しさや差別、権力欲や不正などに対する目に見えない戦い、精神的な戦いこそが最も根源的な力を持っている。
ひとたび武力に訴えるとき、現在のイスラエルとパレスチナの紛争にあるように、果てしなく憎しみは広がっていく。そして新たな復讐心を生みだし、テロの温床となっていく。武力行為は、テロリズムを根絶するのでなく、その根をさらに広く深くしていくことにつながるのである。 日本人の考え方が、次第に武力を容認する方向に傾いているが、私たちは永遠の真理たる聖書に基づいてこのような方向が間違っていることを明確に知っておかねばならない。
ことば
(148)他のある者は自分の田畑をより立派にしたときに喜び、また他のある者は、生まれより善くしたときに喜ぶように、私は毎日私自身がより善くなるのがわかる時に喜ぶ。(エピクテートス(*)「語録」第三巻五章より)
何に喜びを感じるか、それによって私たちは自分の精神の成長を知ることができる。食物に喜び(快楽)を感じるのは、人間も他の動物にも共通している。人間は、財産や物、お金を増やして喜びを感じることもある。また、何かを学んで喜びや楽しみを感じるのは、人間の特質だといえよう。人から誉められたり、認められることも喜びになる。
しかし、物はなくとも、食物も乏しくとも、また人から誉められたりしなくとも、単独でも喜びを感じることができる驚くべき世界が人には与えられている。それがここでいう、自分自身がより善くなることを喜ぶことである。
聖書で約束されているように、私たちのうちに主イエス(神)が住んでくださるとき、その内なる主によって、直接に「あなたの罪は赦された!」とか「恐れるな、私が共にいる!」などの静かな語りかけを感じるようになり、そのことで私たちは実際に自分が善くされたことを感じて喜ぶのである。罪赦されることは、罪が清められることであり、確実に私たちは善くされたからである。また、恐れるなとの励ましで力を受けるとき、やはり私たちはこの世の悪に負けないで歩みを続けられるということで、たしかに善くされるからである。このように、主からの語りかけを感じることは私たちを必ず善くする。それはその静かなみ声そのものが、私たちの魂を清め、新しい力をも与えてくれるからである。
私たちが神ご自身を喜ぶことができれば、自分がより善くなっていることを実感させるものとなる。
(*)ローマのストア哲学者。(AD五五~一三五年頃)奴隷の子として成長したが,向学心があったため,主人は当時の有名なストア哲学者のもとに弟子入りさせ,後に解放して自由人としてやった。真理への愛(哲学)を教えて生涯を終えた。生涯,著作を書かなかったが弟子が書き残した語録などがあり、それは後のローマ皇帝マルクス・アウレリウスに大きい影響を与えた。
(149)「ありがとう」
…水野源三さんという方は、寝たきりで、小さい時から言葉も出せず、手も動かないで、それで伝道した方ですけど、その方が寝たきりのそういう生活のなかで、やがて亡くなるという前に創った歌を申し上げます。
「幾度もありがとうと声に出して言いたしと思いきょうも日暮れぬ」
私たちは口が利けますが、幾度も幾度も「ありがとう、ありがとう」と言いたい思いで生きているでしょうか。(「なくてならぬもの」三浦 綾子著 光文社)
(150)代わってくださった
どうしてこの私でなくてあなたが?
どうしてこの私でなくてあなたが?
あなたは代わってくださったのだ。
あなたは代わってくださったのだ。
(後に長島愛生園の精神科医となった、神谷美恵子が、二十一歳のときに、ハンセン病療養所に行ったときに作った詩)
弱い人、苦しい人、つらい人を見たときに、私たちがこのように、あなたは代わって下さったのだという思いを持つことができますならぱ、それこそが本当の愛だと思います。私があなたに何かしてあげるというのではなくて、私たちのために代わって下さった、その人に対する謙遜な思い。(同右 112頁)
休憩室
○再び、明けの明星、木星、火星などについて
前号で、今、明けの明星として夜明けの空に強く輝く金星のことを述べましたが、それ以来、何人かの人は金星を初めて見たとか、あんなに強い光の星だとは知らなかったと言われています。
ついでに、明け方まだ暗いうちに、金星よりも、高い北寄りの空に赤い火星が見えますから、それもぜひ見てほしいものです。それから、同じ夜明け前の南西の高いところには、やはりとても強い輝きの木星が見えます。ですから、天気のよい夜明け前の夜空には、東からは金星と火星、目を南西の高い空に転じれば、木星が競うように輝き、私たちの心を引き寄せてくれます。これらの星は、星座のことをまったく知らなくとも、その輝きの強さですぐにわかります。またこの三つを同時に見たことのある人はとても少ないと思いますので、神の創造された宇宙への関心を深め、天からの光の贈り物を受け取るためにも一度早起きして見て頂きたいと思います。
勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。…
わたしはまた、彼に明けの明星を与える。(黙示録二・26~28より)
このように、金星はキリストの象徴として、信仰を堅く持ち続けるものに与えられると書かれてあります。明けの明星のつよい輝きを見つめていると、いまから二〇〇〇年前の黙示録の著者がやはりこの星を見つめていて、キリストご自身をこの強い光と重ね合わせていたのだと思われ、私たちの心を時間と空間を越えて運んでくれます。
返舟だより
○…一度は通らねばならぬ人生の峠にさしかかっております。無力な私は、ただ、祈る他に道はありません。(中国地方のある方)
・困難な状況のもとにある方からの言葉です。御夫妻ともに老年を迎えて、いずれも病気や体力の著しい衰え、心身ともに弱ってきたなかで、若いときの体力や生活の力も失われていく状況において、長い人生における最大の苦境に置かれていると感じます。私たちはそうした苦しみは若い元気なときには実感としてはなかなか分からないことです。しかしこの世に生きることはそうした孤独な苦しみにじっと耐えていかねばならないところに置かれる人も多くいます。どうか主よ、そのような一人の生活、あるいは二人とも高齢化した中での病気と衰えで苦しみの内に人たちに、力と支えが与えられますように。またその苦しみが軽くされますように。
○前月に書いた、明けの明星に関して集会関係の人や、「はこ舟」読者の方からも初めて見たといわれる方がかなりいました。つぎにあげるのは、そのような一つの例です。
・当地は星空が降るように美しく、星の記事に関心があります。私は星の知識が何もありませんでしたから「はこ舟」を読んで星を探しました。明けの明星も観察することができました。今夜も澄み切った星空を眺めておりますと、東方の博士たちがイエス様の誕生を拝みに来た時のようすを思い、聖きクリスマスの近づきを感じ、ベートーベンの歓喜の歌が響いてくるようです。(関東地方の方)
○今月は、私たちの集会が発行している文集の発行と重なっています。文集は書く人も多く、内容もさまざまであり、そうした多様なものが主によって用いられますようにと願って編集をしています。「はこ舟」とは、書く人、内容ともに異なっていても、目的は同じで、神の言葉を語り、神のわざを証しすること、それによって神の栄光のためにそれらが用いられますようにということです。
○十二月の七日(土)~九日(月)は、偶数月なので、京阪神地方のいくつかの集会、家庭集会に参加してみ言葉を語る機会が与えられました。み言葉を中心として、老齢の人、若い人、また障害をもった人たちとともにみ言葉を学び、祈り、讃美できる幸いを感謝です。
○十二月は、クリスマスの月で、二千年前に生まれたということにとどまるのでなく、現在の私たちのところに来て下さることをとくに祈り、願う期間といえます。聖書の最後の言葉が
「主よ、来て下さい!
主イエスの恵みがすべての人々と共にあるように!」
となっています。その願いの気持ちは、黙示録が書かれて二千年ほどの経った現在の私たちの願いでもあります。
また、新年を迎える際にも、たんに年が改まって気分一新というだけでなく、私たちの魂がさらに神の霊によって、新しく造りかえられますように。