2002年3月 第494号・内容・もくじ
神の喜ばれるもの
聖書に示されている神は、決して難しいことを要求されない。本来私たでも、いつでもできること、すなわち幼な子らしい心をもって、神を仰ぐことである。
この単純なことを最も神が喜ばれるということは驚くべきことであり、大きな福音である。
これは、罪をおかしたときにも赦しを求めて神を仰ぐことであり、喜ばしいことがあったときも感謝を捧げて上を仰ぐことであり、生きる道に迷うときには、歩むべき道を示したまえと仰ぐことであり、苦しみのときにも救いといやしを願って主を見つめて祈り願うことである。
このような単純なことを、最も神は喜ばれ、それを待っておられる。
このことは、キリストより数百年も昔にすでに預言者によって言われている。
地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。(イザヤ書四五・22)
上を仰ぐ、心からなる愛のまなざしは、それを受けられる神のがわからは、たしかに最もきれいな型通りの祈りより、もっと値打のあるものである。
われわれもまた、小さな子供や、さらに小動物のそのような物言うまなざしを、どんな美辞麗句よりも愛するのである。(ヒルティ)
善の宣伝(宣べ伝えること)の重要性について
この一年ほどは外務省や自民党にかかわる不正に国民はたえず驚かされてきたと言えよう。新聞、テレビなどのマスコミもそうした不正を報道し、外務省や自民党が少しでもその悪を止める方向に進むようにと、世論を導こうとしてきた側面もある。しかし、多くの週刊誌などは鈴木宗男代議士のことを大々的に取り上げることで、かつてないほどに売れるという商魂からやっている側面も強くみられる。
外務省に関わる数々の驚くべき不正や嘘を知らされ、国民はあらためて、外見がいかに立派そうでも内面はまったく別だと言うことを思い知らされている。
マスコミがいくらこうした不正を報道しても、そのことも必要なことであるが、それだけではこの不正の根源はどうすることもできない。こうした明白な嘘、悪の行いを報道することによって、国民は悪を退ける力が少しでもつくだろうか。逆である。悪をつねに見せつけるほどにかえって人間は悪に引き込まれてしまうからである。今まで外務省を他の省庁よりもランクの高いものとして見ていた国民も、なんだ、外務省も他と同じか、それ以下だとの思いを抱いただろう。そして結局人間とはこんな嘘や不正が当たり前なのだと思って、悪の力に引き寄せられる気持ちになってしまう場合が多いのでないか。
そうした点から考えると、マスコミは日本中に悪の力がいかにつよいか、いかに日本の中枢にまで浸透しているかを大々的に宣伝していることになる。
しかし、人間に本当に必要なのは、悪の宣伝でなく、善の宣伝である。善の力、真実の力がいかに強いかといとうことを知らされるのでなければ、悪を宣伝するほどに人間は悪へと傾斜していかざるを得ない。
そういう意味で、キリストが宣べ伝えたこと、
神の国が近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。(マルコ福音書一・15)
というメッセージの意味の深さを知らされる。神の国とは神の正義と真実による御支配であり、そのような御支配がキリストが地上に来られたこととともに近づいて、いますでにここにある。だからそのキリストを受け入れ、救い主として信じてその喜ばしい知らせを信じよということなのである。これは、神の力、すなわち宇宙をも創造して今も支配している力であり、人間の深い悪、罪をもぬぐい去る力の到来を宣べ伝えることであって、現代のようにマスコミによって悪がくまなく宣伝されている状況においては、とりわけその重要性を感じさせるのである。
聖書を注意深く読んでいくと、そこには善の力がいかに強いか、いかなる悪にも勝利する力であるかがじつにさまざまの方面から詳しく書かれているのに気付く。現代のような悪の宣伝が洪水のようにあふれている時代にますます神の言葉たる聖書の重要性が浮かび上がってくる。
アンクル・トムス・ケビン(アンクル・トムの小屋)から
このアメリカのストー夫人(*)による小説は、世界で最も大きな影響を与えた小説の一つだろう。それはアメリカの奴隷解放に大きな影響を及ぼした。この小説は深いキリスト教信仰に基づいており、かつ著者自身が奴隷制の悲惨さをも見て、実際に逃亡奴隷を助けることにも関わったし、何とかしてこの悪の制度を変えねばという、信仰に基づく情熱的な心で書かれている。
それゆえ、この小説は決してたんなる子供向けの物語でなく、社会的な悪に対してキリスト者はいかに対処するべきなのか、国家そのものが悪をなしているときに、その悪い法律に盲従していいのか、というきわめて社会的な、そして困難な問題をも同時に含んでいるのである。ここには、聖書に記されているように「人間に従うよりも、神に従うべきだ」(使徒行伝五・29)という、悪との戦いの精神がにじんでいる。
しかし、残念なことに、日本では、子供向けに簡略にした物語としてしかほとんどの人は知らないし、大多数の人は、この物語の全体を(簡略版でなく)、大人になって読んだことがないと思われる。しかし、この小説には、単にアメリカの黒人奴隷の解放に関わる歴史的な重要性があっただけでなく、現代の私たちにとっても、キリスト者のあり方についても心に響く内容が多くみられる。
その中には、その時代においてどうしても必要であったから、神が書かせたのではないかと思われるような雰囲気が流れている。
これは、もともと奴隷制に反対する立場の新聞に連載されたもので、最初から現在のような形で書き始められたのでなく、彼女によると終わりの方の内容から浮かんできたという。
この小説を書くきっかけは、義妹によって、「奴隷制がいかにいまわしい制度であるかを、国中が感じるようなものを何か書いて欲しい」と、熱心に頼まれたことであった。大きな影響を持つようになった書物とか仕事は、しばしば自分からの発意でなく、他人からのうながしや暗示によると言われるが、この小説の場合もそうであった。それは、神が義妹を用いて、ストー夫人にこの小説を書くように導いたと言える。
この小説が出版されるとたちまち世界的に広がり、数多くの版が現れ、海外の訳も出た。出版されてから二十七年ほど経った一八七九年の時点で、イギリスの大英博物館には、アンクル・トムス・ケビンには、絵入り本なども含めて、四十三種類もの版が出版され、十九種類の翻訳が置かれてあったという。
以前に販売されていた、角川文庫とか新潮文庫本などの入手しやすい全訳本が現在ではなくなっていて、新訳もあるが、かなり高価な本(**)となっているので、一般的ではない。それでこの本の中から印象的な内容を短いコメントを付けて抜粋してみる。なお、英語の原書は現在でも数多くの版が出版されていて、インターネットで簡単に入手できる。日本語訳を持っている人は、比べながら重要箇所を参照することで、ストー夫人の直接の表現に触れることができる。(***)
(*)ストー夫人 Harriet Elizabeth Beecher Stowe (1811―96) アメリカの女流小説家。牧師の家庭に生まれる。聖書に基づくキリスト者の立場から『アンクル・トムの小屋』(1852)を書き、奴隷制反対の感情を全米的に盛り上げ、南北戦争の気運を促進した。この小説は一八五二年刊。出版後一年で30万部以上を売り尽くし、十年たらずの間に三百万部が読まれるほどになって、世界的な名声を得た。ケンタッキーなどの農園を背景に、黒人奴隷トムがたどる悲惨な境涯が、トムの深いキリスト教信仰を軸にして語られている。一時はやさしい主人セント・クレアとその娘エバのもとで幸福に暮らすが、二人の死によりふたたび売られて悪魔のような奴隷商人レグリの手に落ち、鞭(むち)と責め苦で非業の死を遂げる。この小説に対してなされた、奴隷制を擁護する人たちの激しい攻撃に対し、作者は『アンクル・トムの小屋への手引』を著し、この物語の真実性を例証した。
(**)「新訳 アンクル・トムの小屋」明石書店刊 628ページ 六五〇〇円
(***)例えば、アメリカのSignet Classic シリーズの「Uncle Tom's Cabin」は1966年の初版以来、四十年近く経った現在も発行されていて、700円ほどで購入できる。
アメリカで、黒人奴隷を持っていた人が、会社の倒産によって奴隷を売らねばならなくなった。そのジョージという名の奴隷はやはり黒人奴隷のエリザと結婚していた。自分たちが売られていくことを知った、ジョージはひそかに命がけの脱走を計画する。
「何をなさるつもり?ジョージ、悪いことはなさらないでね。あなたが神様を信じ、正しいことをするように努めていれば、神様があなたを救って下さるわ。」
「俺は、おまえのようなクリスチャンじゃないんだよ。エリザ。俺の心は苦しみであふれている。俺は神様なんぞ信じることはできない。なぜ、神様は世の中をこんなふうにしているんだ」
「ジョージ、私たちは信仰を持たなければならないわ。私たちに悪いことが起こっても、神様はできるだけのことをしておられるのだと、信じなければならないって、奥様も言っておられたわ。」………
「エリザ、俺のために祈っておくれ。おそらく、神様はお前の言うことは聞いてくださるだろう。」
「ジョージ、あなたも祈って。そして神様を信じていて下さい。そうすれば、悪いことはしたくならないはずよ。」
○当時の黒人たちにはおよそ神などいないと思われるような理不尽なこと、暗黒の力に支配されているかのような悲惨なことがたくさんあった。しかし、不思議なことに、そうした苦しみと悲しみとそして重い労役のただなかにおいても、愛の神を信じる人がつぎつぎと生まれていった。
ここに現れるエリザという女も同様であった。どんなに苦しみが生じてもなおかつ神の愛と導きを信じ続けていくところに、悪に打ち倒されない力が生まれてくるのであった。
○奴隷トムを所有していたのは、やさしい主人(シェルビー氏)であったが、商売の仕事がうまくいかなくなって、どうしても所有している奴隷を売らねばならなくなったのである。その時にその夫人がつぎのように述べている。
「こんなふうに、愛するエリザたちを売ってしまわねばならないとは、これは奴隷制度に対する神様ののろいだわ。むごい、あんまり、むごい、ひどいこと。…私たちの国の法律のもとに一人でも奴隷をおいておくことは、罪悪なのです。私はそれをいつも感じていました。子供のときからもそう感じていました。教会に行くようになってからは一層強く感じました。…奴隷制度が正しいものだと考えたことがないこと、奴隷を持つのは気がすすまなかったということはご存じのはずよ。…」(第五章より)
○この物語の主人公である、奴隷トムの特徴はつぎのように述べられている。
彼が特にすぐれていたのは、祈りであった。その祈りは、心を動かす率直さと幼な子のような熱心をもってなされ、聖書の言葉が豊かに息づいていた。
彼の生命の中には、聖書の言葉がすっかり消化され、彼自身の一部となり、ひとりでに彼の口から、無意識のうちにしずくのようになって出てきたのであって、そのような祈りはなにものも及ぶところではなかった。
彼の祈りは、聞く人の神へと向かう心に強く働きかけて、彼のまわりの至るところで、共感の祈りを呼び覚まし、トムの祈りの声がまったく消えてしまうほどであった。(第四章より)
○祈りは、人を現す。いつも実際に祈っている人と、ふだんあまり祈っていない人の祈りは自ずから違ってくる。隠れたものは現れるものであって、隠れた祈りを日々続けているときには、その祈りは人前で祈るときにもその霊的な雰囲気が自ずからにじみ出るものである。
祈りをたんに人間的な言葉をつらねて祈るのでなく、御心に従って祈るように聖書では記されている。
それゆえに、私たちの祈りのなかでもみ言葉に自然にうながされるように祈ること、み言葉をそのまま祈ることの重要性を知らされるのである。
主イエスも、すでに祈りを多くしていたはずの弟子たちに、どんな祈りが最も深く、またすべてを包むものであるかを「主の祈り」によって示している。
○親しかった仲間の奴隷が売られることに対して、残された奴隷たちは怒った。そして奴隷を買うために来た商人が、その奴隷に逃げられていらいらしているのを見た。
「いい気味だ!」クローばあやは憤然として言った。あいつは心を改めないなら、いつかひどい目に会うだろう。神様があいつを呼びつけてお裁きになるよ。」
「あいつは、地獄に行くね、きっと」小さいジェークが言った。
「当たり前だよ。あいつはたくさんの、たくさんの、人の心を引き裂いた。…」クローばあやは厳しく言った。
「悪いことをしたやつらは永遠に焼かれるのだろう、きっと。」子供のアンディーが言った。
「それが見られたら嬉しいんだがなあ」と小さいジェークが言った。
その時、一つの声が響いた。
「子供たち!」みんなはぎくりとした。トムであった。彼はそこに来て戸口のところでそうした会話を聞いていたのであった。
「子供たち」と彼は言った。
「あんた方は自分が言っていることの意味がわからないのじゃないか心配だ。子供たち、恐ろしい言葉はいつまでも消えないものだよ。考えただけでも恐ろしいことを言っている。どんな人間に対してでも、幸いを願わなければらないよ。」
「あいつらのために祈ることなんかできるものか。あいつらはとても悪いんだから」
「草や木だってあいつらを非難するだろうよ。」とクローばあやが言った。…
「迫害するもののために祈れ、と聖書には書いてある」とトムは言った。
「あいつらのために祈れって?」クローばあやは言った。「ああ、それはあんまりひどいじゃないか。私にゃできない」
「そう思うのは当たり前だ。クロー、そしてそういう感情は強いもんだ。」トムは言った。
「しかし、神様の恵みはもっと強いんだ。それにあんなことをするような人間の哀れな魂はどんなに気の毒なものか、考えなくちゃならないよ。おまえは自分がそんな人間じゃないことを神様に感謝しなきゃならないよ。そういう気の毒な魂が、どんな目に会わされるかということを考えたら、私は本当に何万回でも売られたほうがましだ。」
○このトムの言葉のように、キリスト教の迫害の時にはいつも敵対する者のためにどうするかが問われていった。そしてキリストの霊に導かれた少数の者たちは、最初の殉教者ステパノのように、いかなる迫害のときでも敵を憎むことなく、その敵のために祈り、幸いをすら祈ったのであった。そしてそうした祈りの心は、ただ生きたキリストだけが与えることのできるものであって、彼らの祈りの背後にあったキリストが、その福音を広げていくように導いたのである。
つぎにアメリカ上院議員のバード氏夫妻が現れ、夫人のメアリーが言う。
「この地方に逃げてくる哀れな黒人奴隷たちに飲食物を与えることを禁じる法律が通りそうだというのは本当でしょうか。そんな法律が討議されていると聞いたんですけれど、キリスト者の議員だったらそんな法律は通過させないと思いますわ。…そういう法律はあまりに残酷でキリスト教的じゃないと思いますわ。ねえ、あなた、そんな法律は通過しなかったのでしょうね。」
「ケンタッキー(アメリカ合衆国中央東部の州)から逃げてきた奴隷を助けることを禁じる法律は通過したのだよ。あの向こう見ずな奴隷廃止論者があまりやりすぎたものだから、ケンタッキー州の連中はひどく神経質になって、それをしずめるには何とかしなければならなくなったようなのだ。もうキリスト教的とか、親切とかいってはいられないのだ」
「それで、その法律ってどんな法律ですの? 逃げてきた哀れな奴隷の人たちに一夜の宿を与えることまで、禁じやしないでしょうね。温かい食物や、古い着る物を少しやったり、静かに仕事をやらせることまで禁じるというのじゃないでしょうね。」
「いや、そうなったんだよ。おまえ。…」
バード夫人は穏やかな青い眼と血色のよい顔色と、特別にやさしい声をもったはにかみやの小柄な女性であった。…しかし今、彼女は、顔を赤くしてすばやく立ち上がった。それはいつもの様子とは全く違っていた。そして断固とした態度で夫に歩み寄り、きっぱりと言った。
「ねえ、ジョーン。あなたがそういう法律はキリスト教的であると思っているのか知りたいの。」
「残念ながら、そう考えたのだ」
「ジョーン、あなたは恥ずべきですわ。かわいそうな、家庭も住むところもない人たち!恥ずべき汚らわしい法律ですわ。私は機会があり次第、そんな法律は一人で破ってしまいます。機会が与えられるとよいと思います。女として、そのような人たち、哀れな飢えている人たちに、かわいそうに一生の間、虐待され、圧迫されてきた奴隷であるという理由で、温かい服やベッドを与えてやることができないとしたら、世の中はどんなにか悪くなることでしょう。…
ジョーン、私は政治については何もしりません。でも、私は、私の聖書を読みます。そうすると、飢えた人に食物を与え、着る物のない人には着せてやり、頼りのない人は慰めなければならないということがわかります。私はそういう聖書の教えに従いたいのです。」
「しかし、おまえが法律に反して奴隷にそんなことをしたら、大きな社会的な災いを引き起こすだろう。」
「神様に従うことは決して社会に災いを引き起こすものではありません。そんなことあり得ないということはわかっています。神様がお命じになることは、いつだって一番安全で間違いのないものなのです。」
…
「私、あなたがそういうことをなさるのを見たいわ、ジョーン。本当に。例えば、吹雪の中に、一人の黒人奴隷を追い出すようなことを。」
「残念だがそうする。非常につらい義務だろうが。」
「義務ですって。そんな言葉を使わないで。それは義務などでないことはわかっています。奴隷が逃げるのは、寒さや飢え、恐怖にあまりにも苦しめられ、しかも誰にも助けてもらえない時なんですよ。
法律があろうとなかろうと私はやります。そうすれば神様は私を助けて下さるでしょうよ。」
上院議員のジョーンとメアリ夫妻が、このような議論があった後で、逃げてきた黒人奴隷のエリザが子供とともに、寒さのために衰弱しきってジョーンの家にたどり着いた。追跡してくる奴隷商人たちの手から逃げるために、川を流れる氷の上を命がけで飛び歩いて逃げてきたのであった。
意識不明になっていたが、正気になったとき、バード夫人は言った。
「どこから来たの?」
「ケンタッキーからきました。」と女は答えた。
「いつ?」今度はバード氏が言った。
「今夜」
「どうやって来たのです?」
「氷の上を渡って」
「氷の上を渡って来たって!」
「そうです。神様がお助け下さったから私は氷の上を渡ってくることができました。私を追いかけてくる人たちがすぐ後ろに迫っていたからです。他に方法がなかったのです。やれるとは思いませんでした。ああしなければ、死ぬだけでした。
やってみなければ、神様がどんなに大きな力で助けて下さるか誰にもわからないのです。」
○このエリザの言葉には、作者のストー夫人自身が、逃げてきた奴隷を助けることに関わったこと、そしてその際の困難や危険をも、神の助けを与えられて導かれたという経験が感じられる。実際、ここでエリザに言わせている言葉は、現在でも生じることなのである。
困難や苦しみのとき、どちらを選ぶかという難しい選択をせねばならない状況に置かれたととき、本気で神を信じて、決断したときにだれも予想しないことが生じた、例えば、助けとなる人が現れたり、必要な物や金が与えられたり、状況が変わって危険を逃れたり…ということである。
私自身もそのようなことをいくつか思い出す。こうしたことを経験すると、この不可解な、謎に満ちた世界、偶然と悪が満ちているだけの世界のようであっても、その背後に驚くべき真実な神の御手が働いていることを知らされるのである。
○トムが奴隷として売られて行ったのは、セント・クレア家であった。その家では、愛する娘(エヴァ)が病気がちであった。彼女の病がだんだん重くなってきたある日のことがつぎのように記されている。死を前にして、恐怖とか不安でなく、逆に主の平安を与えられていた魂のすがたがつぎのように心に残る表現で記されている。
エヴァは心の中で天国が近づいたという静かな喜ばしい予感に確信を持っていた。
夕日のように静かな、しかも秋の明るい静けさのように美しい境地にあって、
彼女の小さな心は安らかであった。
it rested in the heart of Eva,
a calm,sweet,prophetic certainty that heaven was near;
calm as the light of sunset,
sweet as the bright stillness of autumn,
there her little heart reposed,…(アンクル・トムズ・ケビン第二十四章より)
そしてさらに、このエヴァが自分の行くところは主イエスのもとであるということを言うが、それはつぎのように表現されている。
私たちの救い主キリストの家へ。
そこはそれは喜ばしく平和なところなのだわ。
そこでは、すべてがとても愛すべきところなの!
To our Saviour's home;
it's so sweet and peaceful there,…
it is all so loving there!
○このような、深い信仰を持っていたエヴァは、この後まもなく、天のふるさとへと帰っていく。後に残されたのは、愛する娘を失って悲嘆にくれるその家の主人(セント・クレア)であった。しかし彼は娘が深い信仰を持っていたにもかかわらず、どうしても神を信じることができない。
「トム、私は信じない、信じられない。私はなんでも疑うくせがついてしまっているのだ。聖書を信じたい、しかしだめだ。」
「ご主人様、愛の深い主にお祈りなさいませ。 …主よ、信じます。私の不信を救って下さい …、と。」
「 ……私にとっては、エヴァも、天国も、キリストも、何もない。」
「ああ、旦那様、あります!私は知っているのです。本当です。」トムはひざまづいて言った。
「信じて下さい、旦那様、どうか信じて下さい!」
「どうしてキリストがいるっていうことがわかるんだ。トム? お前、見たことなんかないじゃないか。」「私の魂で感じるのです。旦那様、今だって感じています!
ああ、旦那様、私は年取った女房や子供たちから引き離されて売られた時には、悲しみのあまりほんとにもう少しで死んでしまうところでした。何もかも奪われたように思ったからです。
そのとき、恵み深い主が私のそばに立って言われたのです。 …『恐れるな、トム!』 …
主は、哀れな者の魂に光と喜びを与えて下さいます。あらゆるものを平和にして下さいます。 … …私は哀れな人間ですから、自分からこんな考えがでてくるはずはないのです。主から出た考えなのです。」
トムは涙をぽろぽろ流しながら声を詰まらせて話した。
……セント・クレアは頭をトムの肩にもたせかけ、その堅い、忠実な黒い手をしっかりと握った。「トム、お前は私を愛してくれるんだね」と彼は言った。「私はお前のように、心の善い正直な心をもった人間の愛などを受ける値打ちなどないのだよ。」
「旦那様、私よりもずっと旦那様を愛しているお方がいますよ。恵み深いイエス様は、旦那様を愛しておられます。」
「どうしてそれがわかるんだ、トム?」
「私の魂の中でそれを感じるのです。 …『キリストの愛は人知を超えるもの』なのです。」
(「アンクル・トムズ・ケビン」第二七章より)
奴隷トムの主人であった、セントクレアは「今も、キリストがいるということがどうしてわかるのか?見たことがないではないか。」とトムに問いかけた。これは現在もほとんど誰もが問いかけることであり、これと同様に語るキリスト者に対して不思議に思うことであろう。
キリストは確かにおられる、それはなぜか。トムは「魂で感じる」と言っている。これも現代のキリスト者も共感する言葉であるだろう。
信じるとは全くいるかどうかわからないのを、いるとすることである。しかし、キリスト者は単にどちらかわからないのを信じるのでなく、キリストがおられるのを、魂において実感するのであって、そこから本当の力も励ましも感じるようになる。
「アンクル・トムズ・ケビン」という書物は、小さい字で書かれた文庫本で上下2冊、七四〇ページにもなる分量であるが、あちこちにこのようなキリストの心と聖書の精神が見られる。
いかなる書物も、アメリカの歴史において「アンクル・トムズ・ケビン」ほどに直接的で、しかも力ある影響を及ぼしたものはない言われている。奴隷たちの受けた苦しみや弾圧を、生き生きと描いて、この本は特に北部アメリカの人々の奴隷制への反対の感情に火を付け、奴隷解放へと導く大きな力となったと言われる。
作者のストー夫人と同時代のトルストイやヒルティなどもこの作品を高く評価したのであった。
このストー夫人の名作は、ロシアを代表する大作家トルストイが、その芸術論で、「神と隣人に対する愛から流れ出る、高い、宗教的、かつ積極的な芸術の模範として、シラーの「群盗」、ユーゴーの「レ・ミゼラブル」、ディッケンズの「二都物語」、ドストエフスキーの「死の家の記録」などとともにあげている。(「芸術とは何か」第十六章)
また、ストー夫人やトルストイとも同時代であった、スイスのキリスト教思想家ヒルティも、この作品については、こう言っている。
あなたはどんな本を一番書いてもらいたいと思うか。この場合、聖書の各篇は問題外としよう、同じくダンテも競争外におこう。 … …
わたしの答えは、ストー夫人の「アンクル・トムズ・ケビン」、デ・アミチスの「クオレ」、テニソンの「国王牧歌」である。 そのあとに、ゲーテ、シラー、カーライルなどの幾冊かの本がつづき、ずっとあとに、たとえばカントやスベンサーがやって来る。(「眠れぬ夜のために下」七月十六日の項より」)
書店で販売されている、世に文学作品といわれるものの中で、小説、物語などのたぐいは無数にある。しかしそれらのうちのきわめて多くのものが、たんに罪を描くのが内容となっていると言えるだろう。すぐれた人間を描く伝記文学にしても、その人間の良い点ばかりを書いて英雄視したりして、現実の人間の罪をもったすがたを正しく描かれていないことが多い。人間を偶像化して描くことはそれ自体が罪なのであって、真理にかなった書物とは言い難い。
どうしてこのようになるのか、それは当然である。真の光、いのちの光というべきキリストを信じず、生きているキリストを実際に感じていないならば、光を指し示す内容を書くことはできないからである。
そのようななかで、このストー夫人の作品は、この世の闇のただなかにおける、神の愛が主題となっている貴重な作品である上に、当時の社会的な大問題に正面から取り組むという広い視野をも同時に持っている内容となった。
ヒルティがどんな作品を書いて欲しいかとの問に、この「アンクル・トムス・ケビン」を第一に上げているのも、この世で最も大切な神の愛についてこの小説が強い印象を与える内容となっているからであり、それはまさに永遠の神の言葉たる聖書そのものの主題にほかならない。
弟子たちの足を洗うキリスト(その一)
最後の晩餐という言葉は、広く知られています。レオナルド・ダ・ヴィンチという天才画家がその場面を描いたことで、教科書にも必ずといってよいほど取り上げられてきたためです。しかし、その絵だけが知られていて、その最後の夕食のときに、どんなことを教えたのかはキリスト者がほとんどいない日本人にはあまり知られていません。
さらに、その夕食の直前に主イエスが何をされたのかに至っては、ごく一部のキリスト者にしか知られていないと思われます。それは弟子たちの足を洗ったということです。
さて、過越祭の前のことである。
イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、愛し抜かれた。(最後まで愛された)
夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り…、(ヨハネの福音書十三・1~3)
この数節にキリストの本質と使命が圧縮されています。
まず、「過越祭」(*)ということが、最後の夕食のことを書き始めるに当たって記されています。このことは、十二章の冒頭にも、「過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこは死者の中から復活させたラザロがいた。」と特に書かれて、読者の関心を過越祭へと導く役割を果たしています。それは、地上に来られたキリストの目的に関わることだからです。
過越祭において、十字架刑で殺され、血を流すことは、はるか昔の出エジプトのときの過ぎ越しのことが、霊的な意味において実現することなのだということなのです。
(*)キリストよりも千数百年の昔に、モーセがエジプトで奴隷のようにこき使われていた人々を神の導きによって導き出すとき、小羊の血を塗ったイスラエルの人々の家には神のさばきが過ぎ越したという重要なことを記念する祭り。
あなたたちのいる家に塗った小羊の血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。
(出エジプト記十二・13)
イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り…
この短い一言は、イエスの死は、神の定めた御計画によるものであり、神の定めた時が来たから、地上の生活を終える。キリストが殺されて滅んでしまって、いなくなるのでなく、父なる神のもとに帰ることだと言われています。すべてを愛と真実をもってなされたような、神と等しいお方を、十字架につけて、重罪人として殺すこと、それが単なる悲劇とか悪の勝利でなくて神の深い御計画であって、最善のことがなされたということです。
つぎに「愛し抜かれた」とありますが、原文は口語訳のように「最後まで愛された」とも訳される表現です。(英語訳ではそちらの方が多数を占めています。)ここにもイエスの本質が記されています。人間がどんなに不真実であってもなお、イエスは私たちをどこまでも愛し続けて下さっている。世の終わりまで共にいるということは、世の終わりまで愛し続けて下さるということです。
この世が不正や悪や不真実で覆われているとき、ただ一つだけ、いかなることがあっても消えることなく、弱ることなく続いている愛があるということは驚くべきことです。
パウロの言った有名な言葉、「信仰と希望と愛はいつまでも続く」というのも、神の愛について言われている言葉です。
イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り…、
すべてを委ねられたとは、神の持っておられるすべてがキリストにあるということです。だから全知であり全能であり、また真実とか正義、愛などあらゆる神の本質がキリストにもあるということになります。このことは、すでにヨハネ福音書では、冒頭の第一章に記されています。このことを信じないときに、他の宗教も同じだなどという考え方になっていきます。
キリストにすべてが神から委ねられているからこそ、私たちはキリストに対して神に祈るように祈ることが赦されるのです。
(イエスは、)食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。(ヨハネの福音書十三・4~11)
これで最後という夕食のときに、イエスがなされたのは、驚くべきこと、だれも予想すらできないことでした。それは水をたらいに汲んできて、弟子たちの足を洗い始めたということです。だいたい、足を洗うということは、現在でも、病人以外では他人にしてもらうということはふつうはまずないことです。老人の背中を流してあげるとかは耳にすることはあっても、足を洗ってあげたというのは、母親が幼児の外で遊んで汚れた足を洗ってやるというようなこと以外には、耳にしないことです。
当時は現在のようなきれいで丈夫な履き物もなく、非常な乾燥地帯だから、足はずいぶん汚れるはずです。その上、当時はイスラエルの人にとっては汚れているとされた異邦人も多く、路上で死んだり、戦いのために血を流したりすることも多く、そのような地を歩いていく人には汚れがつきまとうということが言えます。そのような汚れを洗うというのは、そのころは非常に数が多かった奴隷のするような仕事であったと言われています。
こともあろうに、そうした汚れに関わることを主イエスが直接にしようとされる。弟子のペテロはそんなことをメシアであり、未来の王であるようなお方がするなどとはもっての他と、「私の足など決して洗わないで下さい!」と思わず言ってしまったほどです。
しかし、主イエスは、「もし、私があなたの足を洗わないなら、私と何の関係もなくなる。」と、これも驚くべきようなことを言われたのです。じっさいにこの場面ではこの主イエスの言葉は理解しがたいことのはずです。足を洗ってもらわなければ、イエスと関係がなくなるとはどういうことなのか、誰一人わからなかったのです。現在の私たちも、ここを初めて読んだときには、おそらくたいていの人が何のことかわからないと思われます。
文字通りの意味で、イエスが足を洗わねば、イエスと何の関係もなくなるという意味ではないのはすぐにわかります。文字通りに取るなら、イエスが実際に足を洗えるのは、この十二弟子だけであって、他の人間はみなイエスと関係なくなるというようなことになってしまいます。そんなことはもちろんあり得ません。 それではどんな比喩的な意味がここに込められているのか。
それは、足を洗うとは、汚れを除くということなのです。イエスによって私たちは日々の汚れ、罪を清め、赦して頂かねば、イエスとは関係がなくなる。
イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。…」 (ヨハネの福音書十三・10)
弟子たちはいつ体を洗ったのか、体を洗ったのなら、足もきれいになったのではないか等などの疑問が生じます。この言葉を理解するには、少し後に出てくるつぎの箇所が参考になります。
わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。(ヨハネの福音書十五・3)
イエスの話した言葉を信じることによって、その人間の本質は清められる。 なぜかといえば、主イエスの言葉を信じることは、それを語ったイエスを受け入れることだからです。
しかし、そのようにして清めを受けても、日々の生活のなかでさまざまの罪を犯し、間違いを繰り返すのが私たち人間の実態です。そのような私たちの日々の汚れを主イエスによって清めて頂くことが、キリストによって「足を洗って頂く」ということです。
罪が清められないのに、そのまま生活していくとき、それは神との間に壁をつくることです。そのためにますます神から離れ、人間中心の心で生活していくようになります。そのことがイエスとは関係がなくなるということです。そのことは、べつの箇所で言われているように、キリストというぶどうの木から切り離されるということです。そうなれば、枯れてしまうと言われているように、霊的な養分を受けられなくなるから実際にその人の魂は枯れていく、滅んでしまうということになります。
ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。( ヨハネの福音書十三・14 )
「互いに足を洗い合う」とは,現在の私たちにとってどういうことを意味するのか、それは他の箇所によってよりはっきりとこの言葉の意味が浮かび上がってきます。
当時のユダヤ人は、異邦人を汚れた者とみなし、外国人と交際したり、訪問したりすることすら禁じていました。(使徒行伝十・28)そして動物や人間の死体に触れても汚れると考えていました。道を歩く際にはそうした汚れを受けることにつながります。そういう意味で足とは最も汚れた部分だということになります。そのような足を洗うということは、実際、だれもやりたがらないのは当然です。
このことを、現在のキリスト者にあてはめて考えてみます。キリストを信じる者同士が、罪などに対して、それを洗おうとしないとは、その罪を見て、その人を見下したり、排斥したり、憎んだりすることです。そしてそれを洗い合うとは、互いの罪を見てもそれを祈りをもって、その罪が清められるようにと願い、罪を犯すような心がなくなるようにと祈りの心をもって対することだと言えます。
こう考えてくると、「互いに足を洗い合う」とは、同じヨハネ福音書に現れる「互いに愛し合う」ということと同じ意味を持っているのがわかります。キリスト教でいう、愛とはこうした人間の奥深い出来事である罪を赦すというところにはっきりとその力を現すからです。神の愛もやはり、私たちの罪を清め、赦すためにキリストを送って来られた点にあると言われている通りです。
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 (ヨハネの福音書十五・12 )
このことは、とくに重要なことであるので、ほかの箇所でもつぎのように繰り返し言われています。
互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。 (コロサイ人への手紙三・13 )
互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。 (エペソ人への手紙四・32)
だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。 (ヤコブの手紙五・16 )
このようにキリストを信じる者同士の特質は、「互いに…しあう」というところにあります。その原点は、キリストがまず私たちにそのように罪を赦し、汚れたところを洗って清めて下さったというところにあります。
こうした重要な教えは、ユダの裏切りという記述にはさまれるようにして記されています。このことは、キリストの愛は、サタンの攻撃のただなかで行われたという意味が込められています。サタンは人を攻撃し滅ぼそうとする、しかし、キリストのわざはそのただ中で行われ、神のわざであることが明らかにされるのです。現在においてもどのように、サタンが勢いをふるっているように見えても、そのただ中で、キリストの力はそのわざをなしている。そしてそのことが最も現れるのは、私たちが互いに、相手の罪をキリストからの愛をもって赦し合い、互いに祈り合うことにおいてであるとされています。そのことが神の力が泉のようにあふれていくことにつながるのだとわかります。
詩の中から
詩人の魂
彼の魂には、歌うたう小鳥がいる
そして金剛石のような思想や黄金の言葉
山、牧場、家畜の群
これらもみな、その魂のうちにある。
さらに、喜びと悲しみ、闇と光
日の光と陰、昼、夜
悪を憎む心と、正義への愛、
滅びることのない業をなそうという
永遠的で、絶えることなき祈りと
いやすことのできない渇きとは
みな、詩人の魂のうちにある
THE POET'S SOUL
Within his soul are singing birds,
And diamond thoughts and golden words,
Mountains,meadows,lowing herds,
Within his soul;
And joy and sorrow,darkness,light,
Sunshine and shadows,day and night,
Hatred of wrong and love of right;
And one eternal,constant prayer,
A hunger and a thirst are there,
For deathless deeds to do,to dare-
Within his soul.
(Robert Loveman)
○これは、内村鑑三が欧米詩人の作を日本に紹介するために編集した詩集「愛吟」の冒頭に置かれた詩である。これが最初に置かれているということは、このような魂こそ詩人のものだと内村自身が共感したからであろう。
詩人の心とは何か。それはこのように、美しい自然に感じる心であり、魂のうちにいつも音楽がある心であり、この世の苦しみや悲しみを感じ、天来の光を受けつつ、闇の正体をも見抜く心であり、さらにそうした闇のただなかにあって永遠の光を見つめ、その光に導かれて朽ちることのない働きをなそうとする心である。主イエスは「ああ、幸だ、義に飢え渇く者は!」といわれたが、正しいへの強い願いと祈りがこの詩人の魂にも感じられる。
森
日がひかりはじめたとき
森のなかをみていたらば
森の中に…人をすいよせるものをかんじた(八木重吉作)
○日の光を受けて、森は育つ。その森には樹木たちが黙して立つ。ただそれだけなのに、不思議な力を持っていて、人間を引き寄せるものがある。それは沈黙の力であり、その一つ一つの樹木にいわば神によって育てられてきた時間の長い蓄積があるからだろう。そこには人間にあるような私利私欲がない。ただ神とともに成長してきた姿がある。人間は揺れ動いてとどまれない。そのような動揺ある存在は、そのゆえにこそ、動くことなく、ただ沈黙して存在しつづける木々に、森に心惹かれる。人間の集まりは騒然としてくる。しかし樹木たちの、とくに大木たちの森には森厳とした雰囲気が満ちている。
森
森はひとつのしずけさをもつ
いちどそのしずけさにうたれたものは
よく森のちかくをさまようている (同右)
○森の持つ深い静けさ、それは無限の静けさをたたえた神から来る。森の静けさに打たれるとは、神の静けさに打たれることである。山の持つ深い味わいもここからくる。
ことば
(124)キリストがヨハネ福音書のなかで、ニコデモとの対話(*)において語っているように、神の霊は思いのままの時に、思いのままのところに、風が吹くように行くのである。
あなたがその霊を呼ぶことはできない。(神の)霊があなたを呼ぶのである。
いつでも、そのような呼びかけがあれば、一切をさしおいて直ちにそれに従う覚悟をしていなければならない。というのは、それは、夜の静かな時ばかりでなく、時にはちょうど多忙をきわめている瞬間にも、訪れることがあるからだ。
その時こそ、「しもべはききます、お話しください」と言うべき時であり、その度ごとに、あなたが真と善とにおいて、大きな躍進をとげる時である。(ヒルティ著 眠れぬ夜のために下 三月十二日の項より)
(*)風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである。(ヨハネによる福音書三の八)
(**)サムエル記上三・10
○新約聖書が書かれているギリシャ語では、「風」も、「霊」も同じ言葉、pneuma (プネウマ)である。神の霊(聖霊)は、神ご自身の御計画に従って、ある人に、ある集まりに注がれる。人間的な手段ではそれを呼ぶことはできない。
しかし、待つことはできる。キリスト教が弟子たちによって初めて宣べ伝えられるというその出発点において、弟子たちは聖霊が与えられるように祈って待ち続けるようにとキリストから命じられた。彼らはその言葉に従って祈りをもって集まり、そこで祈りを続けているときに神からの聖霊が豊かに注がれたのであった。(使徒行伝二章)
(125)聖霊を消してはならない
「聖霊を消してはならない」(テサロニケ前書五章十九節)。
聖霊は自分一人が楽しむために我らに与えられるのではない。聖霊はその力によって神の事業をなすために我らに注がれるのである。聖霊を注がれてそれに従おうとしない者は聖霊を隠す者である。神の恵みを拒む者である。そのようなことをすれば、聖霊はついに自分を離れ去って、私はふたたびその恵みを受けることができなくなってしまうであろう。(「聖書之研究」一九〇五年 内村鑑三)
○キリストの最初の弟子たちも、聖霊を受けたとき、ただちにそれを用いて神の国のため、福音宣教を始めたのであった。神の国のために用いさせて頂くことを、つねに願って求めるとき、聖霊は与えられ、そのわざは祝福される。
休憩室
○春の花
春には多くの花がいっせいに咲き始めます。ウメ、サクラなどの樹木の花をはじめ、スイセン、チューリップ、アネモネ、フリージャなどと花屋にもよく見られる花が多くあります。それらの色や形も鮮やかで目立つものももちろん美しさも姿も多くの心を惹くものです。
他方、野草には、春先に山のやや湿ったところなどで咲いているセントウソウなど、純白のその花の直径はわずかに数ミリ程度ですが、手にとって見て、さらにルーペで見ればその美しさは心に残るものです。決して花屋にも出ることなく、花瓶にもいけられることもない小さい花なので、山道でしか出会うことはありません。しかし、こうした花に山の自然の中で出会うとどこかほっとするような気持ちにさせてくれるものです。人間の商魂や収集欲などに汚されない野草だからです。
「あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである」(ルカ福音書九・48より)
聖書のなかにはこのように、小さき者を重んじる言葉がいろいろあります。自然のままの人間は、たえず大きいものを求めます。大きい家、よい成績、スポーツなどでは優勝、多くの金、さらに大きい国、強力な軍備などなど。しかし、キリストの心は小さいもの、取るに足らぬようなもののなかに大きい意味を発見することを教えてくれます。
聖書のなかにも小品であるけれども、心に残る内容のものも収められています。例えば、旧約聖書のルツ記です。ここには、信仰と勇気と愛が見られます。ルツという一人の異邦の女性がいかにして、キリストの祖先の一人となっていくかが描かれています。
また、新約聖書のなかでは、フィレモンへの手紙は、わずかに一ページ余りの短い手紙ですが、そこにキリスト信仰はどのように人間を変えていくかが記されており、印象深い内容となっています。
○星
春の星というとまず北斗七星です。北の空にちょうどひしゃくを立てたような形になってはっきりと見えてきますから、だれもがすぐに見つけることができます。これは星座でなく、大熊座という星座の一部分です。このわかりやすい形のため、また北極星を見つけるための手段としても、世界中で昔からどれほど多くの人たちの心をさそってきただろうかと思います。
昔は、電気がなかったので、夜は大多数の人々にとって、室外も室内もともに真っ暗であったわけです。油を灯火として使うということは、とても高価すぎて庶民では到底長い時間を使えなかったので、夜の長い時間は本当の闇であったと考えられます。そこで星を見つめる時間もはるかに多かったと考えられます。電灯がなくともはっきりと見えるものは、星や月だけであったからです。
日が暮れてからの長い時間は、夜空の星を見つめ、闇に輝く光のことに心を向けるための時間であったように感じられます。
星を見ながら古代の人たちは何を考えたのだろうか。聖書の神を信じた人々は、星を通して、天地を創造された大いなる神の御手を思い起こした人たちも多かったはずです。今も、あわただしく、騒音や人工的な光が満ちている中、夜空の星たちは、「静まれ、天地創造造の神へと心を向けよ」と語りかけているように思われます。