2002年4月 第495号・内容・もくじ
落ちた者
社民党の次の代表者になるのではと思われていた女性代議士が秘書の報酬に関する流用問題で、辞職する羽目になった。社民党は現在の平和憲法を守ろうとする政党であり、憲法の平和主義を変えようとする方向へとその道が整えられつつある現在の政治状況においては貴重な存在といえる。しかしそのホープとされていた人が見る見るうちに落とされていくのを国民は目の当たりにした。
ある女性タレントが、新聞で彼女のことについて、「自民党の狸おやじにかみついたら、反撃を受けて一撃で倒されてしまった」というようなことを言っていた。彼女は、心身ともに相当な痛手を受けているようだ。
政治の世界に限らず、この世では、こうしたことはよく起こる。絶えず権力や金の力などが渦巻いているのが政治や現実の社会の状況である。そこでは油断しているとすぐに倒されるし、また自分が原因で倒れることもある。
雪印の問題も同様である。それまで好調であった企業も一部の社員の正義感の欠如や油断から、してはならないことをやりだし、それが止まらなくなる。それを外部に漏らされるとたちまち、突き落とされてしまう。プロ野球のようなはなやかな世界も数年前までたぐいまれな監督として有名であった者でも、不都合な出来事が生じるとたちまち落ちていく。そして今回の雪印のように、企業などではひとたび落ちてしまうと、もう二度と立ち上がれないということもしばしばみられる。
聖書の世界ではどうだろうか。
この世の世界では、裁判になるような罪とか失敗、不正によって落ちていく。そしてそれは一部のものと考えられていて、落ちこぼれとにならないようにと巧みに罪をも隠し、弱者を押しのけようとする傾向がある。
しかし、聖書の世界では、そのような一部の者だけが落ちていくのでなく、人間がだれしも持っている自分中心の考え方、不信実、愛のないことなど、はじめから罪深い存在であって、楽園から追放された存在であり、人間はみなあるべき正しい所から落ちている者である、とみられている。滅びのなかに突き落とされた存在、それが人間なのである。この世でどんなに成功しようとも、もてはやされていてもそれでもやはり突き落とされた存在であり、滅び行くものでしかない。人間はみんなそうした自分中心の罪というなかにあり、死ぬとたしかに闇のなかに落ちていくことになる。
こうしたすべてが落ちていく状況にあって根本的な救いの道、落ちている者を引き上げるために来て下さったのが、キリストであった。キリストは一人高いところにあったのでなく、人間と同じところに立たれて、みずからも人々から捨てられるという道を歩まれたのであった。
キリストは最初に故郷に近い町で、神の言葉を宣べ伝えたとき、ただちに人々の怒りを買った。
人々は皆怒って、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。(ルカ福音書四・29)
主イエスはこうした危険な状況からその伝道の生涯を始めることになった。そしてそれから三年後、ついに裏切り者によって売り渡され、十字架にかけられて重罪人として処刑されることになる。この世から突き落とされてしまったのである。
福音宣教に関わる者は以後の長い歴史においてこのような危険に遭遇することがたびたび起こる状態となったのである。イエスが直面した危険は、以後の歴史においてキリスト者たちが真理を伝えようとするとき、繰り返し経験されていくことの預言となった。
主イエスを崖から突き落とそうとするこの世の力は、ずっと主イエスの生涯のあいだ続いた。
そしてイエスという存在は闇に葬られたと思われただろう。十二人の弟子たちですら逃げてしまい、筆頭の弟子すらも三度も主イエスを否定したほどなのだから。
しかし、どのように突き落とそうとする力が強くとも、神はそうしたあらゆる闇の力にまして強い。
殺されてこの世から抹殺されたと思われたにもかかわらず、キリストは三日目にはよみがえった。そしてその復活の力をもって弟子たちに新しい力を注ぎ、命をかけて福音伝道をする者と変えていった。
復活とは、突き落とそうとするいかなる力にも勝利するという力である。
キリスト教そのものが、国家権力の総力をあげて突き落とされようとしたのであった。じっさい、紀元六十四年には、当時の皇帝ネロによってローマの大火の原因がキリスト教徒にあるとされ、多数が逮捕された。それ以来、三百年近い年月にわたって、ローマ帝国の武力によってキリスト教はこの世から突き落とされようとしたのであった。
日本の江戸時代においても同様である。やはり同じように数百年という長い間にわたって、キリスト教は突き落とされる状況に置かれていた。
しかし、それにもかかわらず、キリスト教は落ちたままではいなかった。不死鳥のようによみがえってきた。それはキリストご自身が闇に突き落とされて三日目によみがえったからであった。キリストと結びつくものはなんでもそのような不滅の力を与えられてきたのである。
すでにキリストはつぎのように約束している。
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ福音書十一・25~26)
もしも、復活がなかったら、私たちはすべてこの世から得体の知れない闇の世界、死の世界へと突き落とされていくものでしかない。どんな権力者も、王者もみな同様である。
しかしキリストの復活があり、信じる者には、その復活の力が与えられるゆえに、私たちはどのような所に落ちていったとしても、ふたたび新しい力を与えられて立ち上がることができると約束されている。
しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。(イザヤ書四十・31)
同じこと(繰り返しということ)
キリスト教の伝道においては、同じことを繰り返し告げる。キリストの真理は変わることがない。だから、当然キリスト教の文書も本質的には同一のことが書き続けられていく。
そのことを表面的に受け取ると、また同じことが書かれていると思う人もあるだろう。しかし、キリスト教の真理においては、本質的に同じことを書くことこそが重要なのであって、読む者の関心を惹くために興味本位で書くことはキリスト教の真理にそぐわない。
その点で、対照的なのは、新聞やテレビ、週刊誌、雑誌などである。それらはつねに目新しいことを書き続けなければならない。その理由は、単純なことである。つまり同じことを書いては売れないからである。それがどんなにつまらないこと、または、社会的に良くないこと、いまわしいことであっても、人々の関心を引くようなことであれば、書きつづける。
使徒パウロもその伝道の記録でもある使徒行伝で見ると、つぎのように繰り返し同じことを語り、証ししていることがうかがえる。
キリスト教徒を迫害する指導的人物であったパウロは、迫害のさなかに天からの光を受けて、回心する。回心の後にただちにパウロはキリストの福音を宣べ伝え始めたことがつぎのように書かれている。
サウロ(パウロのこと)は、すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。 (使徒行伝九・20)
また、現在のトルコ地方にある、アンテオケという都市では、つぎのように語っている。
こうして、…、人々はイエスを木(十字架)から降ろし、墓に葬った。しかし、神はイエスを死者の中から復活させて下さった。…わたしたちも、…あなたがたに福音を告げ知らせている。すなわち、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのである。…
しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかった。だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされる。
(使徒行伝十三・29~39より)
ギリシャのテサロニケという都市では、パウロはつぎのように語った。
「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」と、また、「このメシアはわたしが伝えているイエスである」と説明し、論証した。(使徒行伝十七・3 )
さらに同じギリシャの都市アテネでも次のように宣べ伝えている。
さて、神は…、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられる。それは、キリストによって、この世を正しく裁く日を決められたからである。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証を与えられた。」(使徒十七・30~31)
また、エルサレムで捕らえられたとき、最高法院(日本で言えば国会のようなところ)でユダヤ人相手に自分の行動を説明したときにもつぎのように語っている。
パウロは、議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派であることを知って、議場で声を高めて言った。「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」
(使徒行伝二十三・6)
以上のように、パウロの最初の伝道における内容の要点は、キリストがふつうの人間でなく、旧約聖書に現れたような預言者と同列の人間とかでもなく、「神の子」すなわち神と同じ本質をもったお方であることが語られている。それは、死に勝利して復活したそのキリストにパウロが出会って変えられたからであった。そしてあたかも神があらわれるように、キリスト教徒を迫害しているパウロに現れ、パウロのいっさいを変えてしまい、彼に命じて復活のキリストを宣べ伝える者とされた。
パウロに実際に復活したキリストが現れ、現実にそれまでの彼の信仰の根本が変えられたため、彼にとって復活を疑うということはなく、キリストの復活こそがキリスト教の伝道において最も重要なことになった。そしてその復活があったからこそ、キリストは神の子であり、神と同じ力を持っているからこそ、人間の罪をもぬぐい去ることができる。それがもう一つのキリスト教中心的内容となった、私たちの罪のためにキリストが十字架の死をとげて下さったということである。パウロは、それによって人間の罪が赦され、罪の束縛から解放されたという確信が与えられたのである。
このように、パウロの宣教の内容の本質はきわめて単純であって、それはキリストが復活した、だからこそ神の子であり、その死は人間の罪をあがなうものであったということに尽きる。この単純な真理をパウロも行く先々で繰り返し宣べ伝えていたのであった。ギリシャの都市コリントに宛てた彼の手紙には、その二つを最も重要なことと明確に述べている。パウロはどこに行ってもこの真理を繰り返し宣べ伝えていたのがうかがえる。そしてそこには聖霊の助けと祝福がつねにあったからこそ、短期間にておどろくべき多くの人たちがキリストを信じるようになっていったのである。
最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものである。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、…、また聖書に書いてあるとおり、三日目に復活したこと…。( Ⅰコリント十五・3)
ふつう、繰り返しというとつまらないと思う者が多いだろう。しかし、キリスト教そのものもこのパウロが宣べ伝えた単純な真理を繰り返し語ってきたのである。どうしてそれが飽きることなく、繰り返し語られ、しかも新しい力をもってつぎの世代にも受け継がれてきたのだろうか。
それは、そこに聖霊が伴っていたからである。どんなに同じことを語ろうとも、そこに主がともにおられ、神の権威と力を伴わせるときにはその単純な、繰り返されてきた言葉がおどろくべき力を発揮する。
私自身も、パウロが強調している真理、キリストが十字架にかかって死んだことは私たちの罪からの解放のためであったということの簡単な記述を見て、ただそれだけでキリスト者へと変えられたことを思い出す。それは作者の文章の巧みさでもなく、知識や洞察の深さによるものでもなかった。そこに聖なる神の霊が働いたからであった。
疲れている人、心身の弱っている人に対して、キリスト教関係の讃美がふしぎな力を発揮することがある。つい先日も、そうした人に続けて出会ったばかりである。病気で弱っていた人が、讃美歌を聞いていると、新しい力を注がれていったのである。
讃美歌の言葉そのものは、同じ言葉の繰り返しであり、曲そのものも同じ曲を繰り返し、何十年も歌っている。にもかかわらず、その歌はあらたな力をもって、聞く人、讃美する人に迫ってくることがある。それはそこに聖なる霊がはたらくからである。
キリスト教の内容について私たちが書いたり、語ったりする内容もいくら繰り返しであっても構わない。そこに聖霊がはたらくとき、それはどんな目新しいことや高度な学問研究などにもまさって力を発揮する。単なる繰り返しと感じさせない力が現れる。しかし、そうした聖霊が伴わないなら、繰り返しはじつに退屈で、良きはたらきもなく、かえって真理への関心を失わせるものとなるだろう。
他方、どんなに目新しい記述も一時的な関心をひくとか、知的な興味を満足させることはあっても、聖霊が伴わないときには、魂の救いとか霊的な力にはならない。
専門的な学識の深さや、あるいは百科事典的な知識でもなく、ただ聖なる霊がそこにはたらいて下さるかどうか、そこにすべてがかかっている。
アンクル・トムス・ケビン(その二)
「アンクル・トムス・ケビン」の中から (その2)
前回にごく一部を紹介したが、何人かの方々から感想などを頂いた。そして私の周囲の人たちも子供向けのものしか読んでいないし、そのためにこの本は子供のための物語だというように思っていたというのが多かった。またずっと以前に読んだが、もう一度読んでみたいという方々もおられた。
それで、今回もこの本の内容の紹介を続けたい。
これは小説である。しかし、すぐれた文学作品は単なる作り話ではない。それは人間の深いところをじっさいに流れる共通の感情を明らかにし、私たちが気付かなかった清らかさや美しさ、あるいは神の愛などをあざやかに浮かび上がらせてくれる特質がある。本来なら眠ったまま、あるいは耕されずにいたであろう、私たちの魂のある部分が耕され、深められ、そして清められるのである。そして固まりかけていた心がよみがえるような思いを与えてくれるものである。
つぎにあげるのは、奴隷のトムが慣れ親しんだ主人のもとから、売られていくときの状況である。
トムの小屋の窓越しにその二月の朝は、灰色で、ぬか雨が降っていた。打ちしおれた人々の顔には、悲しみに閉ざされた心の影が映っていた。…クローばあやはもう一枚のシャツをテーブルの自分の前にひろげていた。彼女は、…ときどき顔に手をやって、頬に流れる涙を拭いた。
トムはそのそばに聖書を膝の上にひろげて、頬杖をついて、すわっていた。しかし何も口をきかなかった。まだ早かったから、トムの子供たちは小さな粗末なベッドで一緒に寝ていた。
優しい誠実な心を持ったトムは立ち上がって、静かに近寄って子供たちを見た。「これが見納めだ」と彼は言った。
クローばあやは声をあげて泣き出した。
「あきらめなきゃならないなんて、おお、神様、どうしてそんなことができるでしょう?あんたがこれから行くところについて何かわかっていたら。どんなふうに扱われるかわかってたら。奥様は一、二年のうちに買い戻せるようにやってみるとおっしゃる。だけど、ああ、河下へ行って帰って来たものなんかありゃしない。あんたは殺されちゃうだろう。栽培地じゃひどくこき使うって話を聞いたことがあるよ」
「クロー、どこにだって、ここと同じ神様がいらっしゃるよ」
「そうかね」とクローばあやは言った。
「いるとしておこうよ。しかし神様もときどき恐ろしいことをなさるものだ。私にゃ安心できないよ」
「わしは神様の御手の中にいるのだ」とトムは言った。
「何ものも神様がなさる以上のことはできないよ。それが、わしが神様に感謝するただ一つのことなんだよ。それに、売られてミシシッピ川の下流へ行くのはこのわしで、おまえや子供たちではない。おまえたちはここにいれば無事だ。何か起るとしてもわしにだけ起るんだ。
神様がわしをお助け下さるだろう。わしにはわかってる」。
○「神はどこにでもおられる、そうしてどんなに悪がひどいことをしようとも、神はそれらすべての上におられて、最終的には救って下さる」、これが、家族と引き離され、激しい強制労働が待ち受けている南部へと売られていく絶望的な状況にある奴隷トムの唯一の希望であった。これは、使徒パウロが、つぎのように述べていることを思い出させるものがある。
兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまった。
わたしたちとしては死の宣告を受けた思いだった。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになった。
神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけている。(Ⅱコリント一・8~10)
そして、こうした困難にあっても、「神は必ず助けて下さるということを知っている」と確信している。この確信もパウロの持っていたものであった。それは本当に助けてくださるかどうかわからないが一応信じるというようなものでない。「知っている」のである。信仰は単なる根拠のない希望でなく、一種の知識となる。よく知られた著作家のつぎの文もそのことを述べている。
だれでも信仰の一時的な動揺を完全に免れるわけにはいかない。さもなければ、「信ずる」とはいえないであろう。しかし、信仰上の経験を重ねるうちに、信仰がしだいに一種の「知識」となる。(ヒルティ著 眠れぬ夜のために・上 四月四日の項より)
………………
自分自身の悲しみに耐えて、自分が愛している者を慰めようとする健気(けなげ)な男らしい心!
トムは、こみ上げてくるものをこらえていた。しかし彼は勇気を出して強く語った。
「神様のお恵みのことを考えようよ!」トムは…体を震わせて、そうつけ加えた。
「お恵みだって!」とクローばあやは言った。
「そんなもの私にゃ見えないよ。これは間違ってる!こんなことになるなんて間違っているよ!だんな様は借金のためにあんたを売っちまうようなことをしてはならなかったんだ。だんな様はあんたのおかげで二回以上も助かったんだ。あんたを自由にしなければならないのだ。何年も前にそうすべきだった。今だんな様は困っていなさるのは確かだ。でもそれは違うと思うよ。なんと言われても私の考えを変えることはできないよ。あんたは忠実だった。あんたは自分のことをする前にだんな様のことをして、自分の女房や子供のことよりも、だんな様のことの方を考えた。
それなのにあの人たちは自分の苦しみから逃れるために、心にある愛や心の血を売り飛ばすあの人たちはいまに神様のお裁きを受けるんだ!」
「クロー、もしおまえがわしを愛していてくれるなら、おそらくわしたちが一緒に過す最後の時に、そんなふうに言わないものだ。なあ、クロー、だんな様の悪口は一言だって聞くのはわしは辛いよ。…
天におられる主を仰がなければいけない。主はすべての上におられるんだ。雀一羽も御心なくば、落ちないんだ。」
○神からの恵みのことを考える、そのことは、キリスト者に与えられた特権でもある。聖歌のなかにも、つぎのような歌詞のものがある。
望みも消え行くまでに 世の嵐に悩むとき
数えてみよ主の恵み 汝(な)が心は安きを得ん
数えよ主の恵み 数えよ主の恵み
数えよ一つずつ 数えてみよ主の恵み(聖歌六〇四番、新聖歌一七二番)
苦難のときには災いや苦しみのみが心に浮かんでくる。それらをつぎつぎと数えてしまう。そのような時にこそ、過去に受けた主からの恵みに思いを注ぎ、そこからいまの苦しみや困難からもきっと助け出して下さると信じる心を強められる。
パウロのつぎのような言葉もこうした状況を知った上で言われた言葉だと考えられる。
そして、いつも、すべてのことについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。(エペソ人への手紙五・20 )
いつも神に感謝せよ、と言われてもいま困難と苦しみのただなかにあるときにはどうして感謝できようか。それができるのは、ここで言われているようにかつての神からの恵みを冷静に思い起こすことによってのみ可能なのである。
奴隷をどうしても売らざるを得なかったシェルビー氏の夫人はそのような悲しむべきことになってしまうのを、どうすることもできなかった。彼女ができることはただ、心からの愛と祈りの心をもって、奴隷たちの前に出ること、そうして将来、買い戻すと約束することであった。つぎはそうした場面である。
………
その時男の子の一人が「奥様がいらっしゃるよ」と叫んだ。「奥様だって何もできやしない。何しにいらっしゃるんだか」とクローばあやは言った。シェルビー夫人がはいって来た。クローばあやは明らかに不機嫌な様子で椅子を勧めた。夫人はそういうことは気づかないようだった。彼女は青ざめて、憂わしげだった。
「トム」と彼女は言った。「私…」
そして急に口をつぐみ、黙りこくっている一家の者を見て、椅子に腰を下ろし、ハンカチーフを顔に当てて、涙を流し始めた。
「まあ、奥様、もう何も、何も」
今度はクローの泣く番だった。しばらくの間彼らは皆一緒に泣いていた。
そして身分の高い者も低い者も、みんな一緒になって流すこうした涙のなかに、虐げられた者の悲しみと怒りはすべて溶け去っていったのであった。
ああ、苦しみにあえぐ人たちを訪ねたことがある人たちよ、あなたは冷たい心で与えた、金で買うことができるどんなものも、真実な同情の心から流した一滴の涙ほどの価値もないことを知っているだろうか。
「トム!」とシェルビー夫人は言った。「私はおまえの役に立つようなものを何も上げることができない。お金を上げたら、取られてしまうだろう。
でも、本当に心から、神様の前で、私はおまえのことは忘れない、お金が自由にできるようになったら、お前の行き先をつきとめて、必ず、すぐにおまえを連れ戻しますからね。その時まで、どうか神様を信じていておくれ!」
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○売られていくトムはただ、神にのみ望みを託していた。そして今後の過酷な生活をもそれによって耐えていくことができると信じていた。神は信仰を持つからといって困難や苦しみに会わせないという保証はない。しかしそうしたあらゆる困難からも、必ず共にいて助け出してくださるということを確信していたのであった。
そして、自らの力ではどうすることもできない夫の事業の状況のゆえに、夫の手によって所有している奴隷が売られていくことに耐え難い思いをもっていたシェルビー夫人もまた、神に望みを託していた。この物語に現れるキリスト者たちは、奴隷を所有していた立場にいた者も、売られていく奴隷も、そして逃亡奴隷を危険を犯してかくまって、逃がしてやる人たちも、真剣なキリストへの心、信仰を持っていて、その信仰が生きて働いているのが感じられる。
トムの売られていく状況と並行して描かれているのは、やはり売られることに決まった若い女奴隷と子供のことである。この女奴隷はエリザという。彼女がシェルビー氏の家から売られる寸前に命がけで逃げ出して氷の流れる危険な川を渡り、迫り来る追っ手から逃れて、倒れたところを救い出されたことは前回に少し記した。つぎはその助けられた家での出来事である。
エリザは自分を介抱してくれる、その家の夫人をじっと見つめた。
「奥様」と彼女は突然言った。「奥様はお子さまを亡くしたことがおありでしょうか?」
この問は思いがけなかったし、まだ生々しい彼女の心の傷に深く触れた。それはこの家の一人の愛らしいヘンリーという子供が葬られてから、やっと一ヶ月がたったきりであったからである。
「では、私の気持ちをおわかり下さるでしょう。私は二人の子供をつぎつぎに亡くしました。この子だけが残りました。しかし、この子が売られようとしたのです。もしそんなことになれば私は生きていけないと思いました。それでこの子を連れて夜逃げたのです。追いかけてきた人たちにもう少しで捕まるところでした。私は冷たい水を流れる氷の上を跳んで川をかろうじて渡ったのです。最初に気がついたときに一人の人が私を助けて岸にひきあげてくれたことです。」…
エリザを助けた人の家は、上院議員のバード氏の家であった。彼は逃亡奴隷をきびしく扱うようにという法案を通過させるのに力を入れた人物であるが、その夫人のメアリは奴隷の苦しみに深く感じる人であった。そうしたところにエリザが運ばれてきたのであった。
そしてエリザの苦しみと非常な命がけの逃亡の旅を聞いて、バード氏も心を動かされた。そしてエリザを自分の地位が危なくなるようなことをしてでも、逃がしてやろうとするのであった。
そしてこの死ぬかも知れないと覚悟しつつ、幼い子供とともに逃げていこうとするエリザへの思いやりが生まれてきた。
彼は扉の所で、ちょっと立ち止って、少しためらいながら言った。「メアリ、おまえがどう思うか知らないが、あのタンスには、亡くなったヘンリーのものが、いっぱいはいっていたはずだね」そして彼はそれだけ言うと、扉をしめて出て行った。
妻は彼女の部屋に続いた小さな寝室をあけて、ローソクを手に取り、タンスの上に置いた。それから鍵を取出してそっとタンスの鍵穴にあてて、突然手を止めた。…バード夫人はそうっとタンスをあけた。
そこにはいろいろな形の小さな服やエプロンや、靴下などがはいっていた。爪先がすり切れた一足の小さな靴さえ中からのぞいていた。おもちゃの馬やこまやまりもあった。
それはバード夫人が、愛児が亡くなったとき、涙をながしながら張り裂けるばかりの心で集めた形見の品であった。彼女はタンスのそばに腰を下ろし、頭を抱え、涙が指を伝ってタンスに流れるまで泣いた。
そして突然頭を上げると、急いでなるべくきれいで役に立ちそうな品を選んで、それを集めてひとまとめにした。
「お母さん」とそれを見ていた、彼女の子供が、やさしく彼女の腕に手を触れて言った。
「誰かにおやりになるの?」
「可愛い子供たち」彼女は優しくしかも真剣に言った。
「もしあの可愛いヘンリーが天国から見ているとしたら、私たちがこんなことをするのを喜んでくれますよ。普通の人にこれをあげようとは思いません。でもね、母さんは、私よりももっと苦しみ悲しんでいる一人のお母さんにあげるのですよ。神様がこの品物と一緒にお恵みを下さるように」
自分の悲しみをすべて他の人の喜びへと実らせていく清らかな魂がこの世にあるものである。そういう魂をもっている人のこの世の望み(子供)は、多くの涙とともに土に埋められても、それは種のようにやがて花を咲かせ、芳香を放って、よるべなき人々や悩める人々の心の傷をいやしてくれるものなのである。
今、明かりのそばにすわって、そっと涙を流しながら、頼るもののない放浪者(逃げている奴隷のエリザ)に与えるために自分の亡き子供の形見を揃えている、思いやり深い婦人はそうした人間の一人なのである。 …バード夫人は大急ぎで小さいきれいなトランクにいろいろなものを入れて、それを馬車に乗せるようにと夫に言ってから、エリザを呼びに行った。彼女は子供を抱いて現れた。急いで馬車に乗せると、エリザは馬車から手を差し出した。それにこたえて出されたバード夫人の手と同じように柔らかく、美しい手であった。
エリザは大きな黒い瞳に、はかりしれない真剣な意味をこめてバード夫人を見つめて、なにか言おうとした。彼女の唇が動いた、一、二度言おうと繰り返した、が、声にはならなかった。― そして決して忘れることのできない表情で天を指さして、崩れるように座席に腰をおろして顔を覆った。戸が閉められ、馬車は動き出した。
She fixed her large, dark eyes, full of eanest meaning, on 'Mrs. Bird's face, and seemed going to speak. Her lips moved,--she
tried once or twice but there was no sound,--and pointing upward with a
look never to be forgotten, she fell back in the seat, and covered her
face. The door was shut, and the carriage drove on.
○エリザはバード夫妻からの特別な愛情を受け、逃げていくことができた。このような追いつめられた弱い女奴隷の心には万感胸に迫るものがあっただろう。そして彼女ができたことはただ、無量の思いをこめて恩人を見つめ、天にいます主を指し示して、神からの祝福を祈って別れることなのであった。
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南北戦争という悲惨な戦争も引き起こすことになった奴隷差別問題、そのあとで、奴隷解放令が出されたが、このような歴史的な状況から生み出された小説はおそらく二度と書かれることはないであろう。それゆえに、少しでもこうした小説の内容に触れていただきたいと思った
前回述べたように、トルストイが特別にこの本を高く評価し、またスイスのキリスト教著作家のヒルティが、最も書いてもらいたかった書物としてあげているのは、この本の内容にある。この世の悪や罪などを描くことだけにおわっている通常の小説などと根本的に違うのは、この本が、そうした現実の悪のただなかにおけるキリストの愛と光が示されている点である。
どこへ行くのか
シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」(*)(ヨハネ十三・36)
このヨハネ福音書における言葉は、弟子のペテロが、イエスはこれからどうなるのかという単純な質問だと思ってはいけない。そこにはさまざまの問題が秘められているのである。
どこに行くのかという問いは私たちの奥深くにある。生きている間も私はこのまま生きていってどこに行くのか、自分の人生はどうなるのか、どんな状態になっていくのか、死ぬときはどうなってどこで死ぬのだろう、死んだ後はどこへ行くのか…等などである。
明日のことも誰一人確言できないのがこの世である。大会社であっても、不正が発覚して数ヶ月もしないうちに会社が消えていくという事態にもなる。政治家も同様である。今をときめくような力を持っていた者もそうした不正が暴露されると、たちまちかつて想像したこともないようなところへと赴かねばならなくなる。
さらにこの人間社会全体はどこに向かっていくのか、環境汚染問題、温暖化、資源枯渇などなど真剣に考えると将来、人類はどこに行くのかという大きな問題に突き当たる。
地球や太陽すらどこへいくのか、という問題があり、五億年、十億年といったきわめて長い時間を見るなら、地球や太陽の死という問題すらはるかな前途には控えているのである。
こうした様々の分野で「どこへ行くのか」という問いかけは生じる。その中で究極的問題はやはり、私たちは死ぬとどこへ行くのか、死のかなたに何があるのか、という問いである。
なぜなら、環境問題にしても、地球や太陽の「死」ということですら、究極的には「死」の問題であり、死のかなたには何にもないのか、それとも何かが存在するのかという問題に直面する。
こうした身近な毎日の生活や個々の人の人生だけでなく、あらゆる問題は最終的にはどこに行くのかという問いかけをつねに私たちに投げかけてくる。
人間全体は、どこへ行きつつあるのか全くわかっていない。科学者も同様であって日本で最初にノーベル賞を受けた湯川秀樹氏も単に将来については暗い、不安を持っているだけであった。
こうした本来あらゆる人間が持っている、「自分はどこへ行くのか」「この世界はどこへ行きつつあるのか」というようなすべての問題の究極的な解決は、死に勝利したキリストが与えてくれる。主イエスが行くところは、無ではない。闇ではない。死後の不気味な沈黙や恐ろしい霊たちのいるような世界でもない。
それは、光であり、真実であり、慈しみそのものである神、永遠の存在者である神のところへである。死んだらこのような輝かしいところに行くとは当時はまだ確信はなかった。弟子たちにとっては、死んだらどうなるかという問題については、最大の疑問符のままであった。
イエスが行くところは、イエスを信じる者もまた行くことができる。イエスがこの世に来るまでは人間は究極的にどこに行くのかわからなかった。旧約聖書の世界ですらそれははっきりとはわからなかった。
そうした全世界の人類があいまいであった問題に明確に答えたのが、キリストであった。キリストこそは道であり、真理であり、命そのものであるという宣言がそれである。そしてその道によって父なる神のもとに行くという宣言である。
キリストを信じて、道であるキリストによって父のもとに行くためには、重要なことがある。それは自分というものが砕かれねばならないということである。ペテロは「あなたのためなら命をも捨てる覚悟がある」とすら言い切った。しかし、キリストの行くところ、すなわち神の国に行くために不可欠なのは、そうした自分というものが砕かれることであるのをペテロはまだ知らなかった。自分の弱さや罪を思い知らされ、あらゆる誇りが一掃されなければ本当にキリストの行くところには行けない。自分の力でそうした自我をうち砕くことはできないので、キリストの十字架を信じて自我の罪を拭って頂かねばならないのである。
わたしの父の家には住む所がたくさんある。…行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
(ヨハネ福音書十四・2~3より)
この箇所は、キリストがいるところ、すなわち死後の天の国に信じる者も迎えられて、キリストと共にいるという約束であると考えられる。しかしそのような死後の問題だけを言っているのではない。十三章の三十一節から始まる、最後に残す教えは、どれも単に死後のことを述べたのではない。すべて現在のこと、弟子たちがキリストの死後にいかに生きるべきかという問題であるからである。キリストは死んでも父のおられる霊的な家(場所)にいる。そして信じる者もキリストのいる霊の家にともに住むことができる。「あなた方を私のいるもとに迎える。私のいる所にあなた方もいるようになる」これは、二十三節の「私を愛する人は私の言葉を守る。私の父はその人を愛し、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む」といわれていることと同じことを別の表現で表していることなのである。
我々人間は、そしてこの世界や宇宙は、究極的に「どこへ行くのか」、この問は万人の問である。意識しなくとも、人生の歩みのどこかでこの問が浮かび上がり、その答えを探そうとする。しかし大多数の者は、その答えを得ることができないで老人となり、真の平安を知らないままにこの世から去っていく。
ペテロがキリストに向かって発したこの問いに対するその答こそは、私たちが究極的に与えられたいと欲しているものにほかならない。
(*)この言葉は、新約聖書の外典である、ペテロ行伝(**)のなかに出てくる。そしてこの書物のペテロの言葉をもとにして、有名なポーランドの作家、シェンケビッチの代表作は「クォ・ヴァディス」という題名をとってい。「主よ、どこへ行かれるのですか」というのはラテン語では、ドミネ、クォ ワーディス Domine, quo vadis ? という。ドミヌスとはラテン語で「主」という意味、その呼格が、ドミネ Domine となる。 qou は英語のwhereで、「どこ」、ワーディスは「行く」というラテン語 vado の二人称単数形。 )
(なお、新約聖書の外典とは、新約聖書のうちには含まれなかったが、古代によく読まれていた文書。ペテロ行伝は、紀元二世紀の終わり頃に書かれたと考えられているから、古くから知られていたのがわかる。)(**)ペテロ行伝のなかからこの「主よ、どこに行かれるのか」という箇所を含む部分を下に引用する。
ペテロは悪意をもった人々によって殺されそうになる。そこで、彼の身を案じる人は、使いをペテロのもとに走らせ、事情を明かした上で、ローマから去るようにと言わせた。他のキリスト者たちも、ローマを去るよう説き勧めた。そんな彼らにペテロは、「ローマから逃げ出せというのか」と言った。すると、「いえ、逃げるのではありません。あなたはこれからも主にお仕えすることのできるお方だから、別の場所に行って安全な地で、伝道して欲しいのです。」
ペテロは兄弟たちに説得され、ねらわれているのは自分一人だといって、誰にも自分のために苦しませたくないからと、一人でローマの町を出て行った。
ペテロが市の門を通り過ぎようとしていた時、主イエスが向こうの方からローマの町に入って来られるのを見た。それを見て、ペテロは、「主よ、何処へ行かれるのですか」(Domine, quo vadis ?)と尋ねた。主は彼に答えた、「私は十字架に掛けられる為、ローマに入って行く」。
ペテロは驚いて彼に問い正した、「主よ、もう一度十字架に付けられるつもりですか」
「そうだ、ペテロよ。私はもう一度十字架に付けられるために行くのだ」と答えた。そう答えて、主は天に昇って行かれた。
ペテロは非常な驚きに打たれて見送った。しかしその後でハッと我に帰った。
「私は人問的な思いわずらいにとらわれて、主の御心が何であるか問おうとしなかった。これまで大切な事は主の命じられた通りにしてきたし、少なくとも主に力づけられてから行動した。
私は不信仰なことをした。それでまたもや主を十字架につけてしまうところだった」と自分の罪を悔い改め、ローマに帰った。(新約聖書外典 ペテロ行伝・三五より)
休憩室
○なぜ、バラ科なのですか?
サクラやウメはバラ科なので、アンズもきっとバラ科でしょう。何でバラ科なのでしょう、と毎年思います。全然バラと似ていないから。学者達の考える事は分からないとよく思います。(大阪の読者から)
・大阪のある方からの質問です。私たちが神の創造された自然に向かうとき、深く知るほどに奥がいくらでも深いのを知らされます。サクラやウメがバラと似ていないのに、どうして同じバラ科なのか、というようなことも、実はより深く観察すると、確かに似ているのです。
バラというとき、華麗な大型の園芸のバラを思い出しますが、野生のバラが元にあります。野生のバラとして代表的なのが、ノイバラ(野イバラ)であり、ほかにテリハノイバラ(照り葉
野イバラ)もあります。ふつうに野バラといっているのはこれらを指すことが多いのです。このノイバラの花とウメやサクラの花を比べると確かに外見的にも似ていると感じるはずです。
さらに細かく見ると、バラ科では、葉が互生(*)すること、托葉(**)があること、花が両性(おしべとめしべがある)、かつ放射対照であること、さらに、がくは5枚、で花弁(花びら)も同数、つまり5枚あること、そして雄しべは多数ある。(10~20本)などといった共通点があるのです。つまり、よく似ているのです。
花の色、葉の形、大きさ、などがずいぶん違っていても、上のような共通点によって同じグループの植物だとわかるのです。
このようなより詳しい自然(植物)に関する知識も、いっそうそれらを創造された神への思いを強めてくれることにつながります。自然に関する知識も私たちが信仰なければ、自慢とか誇りにつながることが多いのですが、それらの奥深い自然の背後に、神の御手があることをつねに思うとき、神の栄光をたたえる心へとつながっていきます。
(*)ゴセイ 植物の葉が茎の各節に一葉ずつ付いている。
(**)タクヨウ 葉の付け根にある葉のようなもの。
○五つの惑星が並ぶ!
四月中旬から五月中旬頃まで、水星、金星、火星、木星、土星が並んで見えるというめずらしい状態になります。ただし、水星は太陽にごく近いので、晴れている時、注意深く西の空を見ていないと見つけることはできません。これらのうち、金星と木星は強い輝きなので、晴れてさえいれば、必ず見つけることができます。夕方の西の空の低いところに強い輝きで光っているのが金星です。それよりもっと高いところに見える強い輝きの星が木星です。この二つはまずだれでもが夕方薄暗くなろうとするころに西の空をみるとわかるはずです。
ことば
(126)絶えざる祈り
神との交わりには、特別の時刻や時期(朝夕など)や姿勢や身振りなどを全然必要としない。反対に、最も簡単な言葉、あるいはただ心に思うだけで十分である。いろいろな外的な用意はかえって妨げになることが多い。
最も大切なのは、われらの主とたえず心のつながりを持つことである。使徒パウロはこれを「絶えず祈る」といっている。
祈りは単純、かつ誠実に、すこしも形式にこだわらずに、なさねればならない。それだけでなく、なお祈りに対する神の答を聞くことができなくてはならない。そのためには、日常の騒々しさや利己心にすこしも妨げられない、微妙な心の耳が必要である。(ヒルティ 眠れぬ夜のために 上・一月二十一日の項)
○ここでヒルティが最も重要だと述べていること、「我らの主とたえず心のつながりを持つ」 ということは、キリストのよく知られたぶどうの木のたとえと同じことを意味しています。
わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。(ヨハネ福音書十五章より)
このことが、「絶えず祈る」ということの本当の意味だと言っているのです。そして、この絶えず、主と心のつながりを持つというところから、自ずから導かれることが、神からの答えを聞き取るという姿勢です。神(主イエス)との霊的な交流を持っているならば、当然神からの語りかけもあり、それを聞き取る耳も持っているということになります。
・原文のニュアンスを知り、ヒルティのいわば肉声に少しでも触れたいという方がいるようなので、「祈りは単純…」以降の原文をあげておきます。 Mann muss nicht bloss einfach, aufrichtig und ohne jeden Formalismus, bitten, sondern auch die Antwort horen konnen. Dazu gehort ein feines , vom Gerausch des Tages und der Eigenliebe ganz unbehindertes inneres Ohr.
(127)一日のはじめに
主イエス様、この一日を始める前に
今 わたしは あなたのところにまいりました。
あなたに触れていただくためです。
どうか あなたの目を
わたしの上に しばらくのあいだ注いで下さい。
あなたの確かな友情が、
今日のわたしの労働と共にありますように
騒音のあふれる砂漠のようなこの世界にあって
あなたへの思いが絶えることがないように
どうか わたしをあなたで満たしてください
あなたの祝福する日の光が
わたしの思いの高みを満たしますように
そして わたしを必要とする人々のために
わたしに力を与えてください
(「祈り―信頼の源へ―」 マザー・テレサ ブラザー・ロジェ共著」より)
返舟だより
○「主よ、憐れみたまえ」の祈り
インターネット・メールの「今日の御ことば」(*)の、イザヤ書三三章2節の御ことばの学びには、とても恵まれました。「憐れんで下さい」という祈りには、こんなに深い思いがこめられているなんて、思いもしませんでした。字面(じづら)だけの意味でしか、使っていませんでした。喜びも悲しみも、そして願いもこめられている祈りなんですね。それに、自分にはどうしようもなくて、ただイエス様におすがりするしかないという、本当の謙遜な心の状態が、現れている祈りですね。
教えていただき感謝でした。学びを頂戴して以来、この御ことばを祈りの度に、使わせていただいております。私は、家族の事でここ数年、重荷を負っていますので、御ことばが心にしみます。
神様にお頼りできる幸いを感謝せずにはいられません。 (インターネット版「はこ舟」読者。関東地方の全盲の方)
(*)「今日のみ言葉」は、私(吉村)が、毎月数回、インターネット・メールで希望の人に送っているものです。み言葉とその英語訳、それについての簡単な説明、そして季節の野草などの写真とその説明などを付けているものです。
ここで言われている「今日のみ言葉」は、今年三月七日に送信した内容についてのものです。「はこ舟」読者には、インターネットに未接続の方もかなりおられるので、三月七日の内容を下に引用しておきます。(植物の記述は四月十一日のものです)
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今日のみ言葉 60 「朝ごとに」 (イザヤ書 33:2)
主よ、我らを憐れんでください!
我々はあなたを待ち望む。
朝ごとに、我らの腕となり、
苦難のとき、我らの救いとなってください。
LORD, have mercy on us,
we wait for you.
Be our arm every morning
and our salvation in time of distress.
主よ、憐れんで下さい!という叫びは、新約聖書にも、いろいろみられます。例えば、二人の盲人が主イエスが来たのを知ると、大声で叫んでこういったのです。
「主よ、憐れんでください!」
追いつめられた人々、地位も、学問も、また金もない人たち、そのような弱い立場の人たちにも与えられていること、それはここにあるように、主に向かって、「憐れみたまえ!」と祈ること、叫ぶことです。
この叫びは、どんな状況にある人にもできることです。健康な人、病気の人、また地位の高い人、低い人に関わりなく、大人、そして子供、老人などなど、だれでもできます。
そして、病気の苦しみで、また人間関係のあつれきによって、あるいは、仕事の上の問題とか、生きるとは何であるのか、分からなくて苦しんでいるとき、そして誰もがそこに向かっていると言える死が近づいているときに、私たちの魂の深みから生じる叫びはこの「主よ、憐れんで下さい!」という叫びなのです。
私たちの日常生活で、いろいろの罪を犯すとき、そのような罪の赦しを願う心もまた、「主よ、憐れんでください!」ということです。神の憐れみによってのみ、私たちの罪は赦され、清めを受けるからです。
朝ごとに、私たちは罪や悪の力に負けないように、新しく神の力を与えられる必要があります。それゆえ、「主よ、どうか私たちの腕となって下さい、私たちの力となって下さい…」という祈りが自然なものとなります。そして主はそのような願いを聞いて下さるのです。
主よ、憐れみたまえ!という祈りは、私たちの祈り、願いを最も簡潔に現したものといえます。
ミサ曲の中にも、「キリエ、エレイソン」というのがあります。これはギリシャ語で、「主よ、憐れんで下さい!」( kurie eleeson)という意味なのです。この短い一言のなかに、私たちの悲しみも苦しみもまた、願いも込めることができるのです。
(ここに植物の写真がある)
ジロボウエンゴサク 02.03.26 徳島県海部郡
山の渓流沿いにしずかにその可憐なすがたを見せていたものです。小さい植物ですが、誰しもがこの花を見れば近寄って見ると思われます。私は県内のあちこちを移動することが多いのですが、この植物は一箇所でしか見たことがありません。滅びないで生き続けてほしいものです。
関東地方以西,四国,九州などに分布。次郎坊えんごさくという名前は、一部の地方ではスミレを太郎坊と呼び,これを次郎坊と名付けたと言われます。
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○三月号の「アンクル・トムス・ケビン」についての紹介文について返信がありましたので、その一部をあげておきます。
1)三月号のストー夫人による、「アンクル・トムス・ケビン」のところは感動のあまり、繰り返し輪読させて頂きました。…(関東地方の方)
2)このたび、S兄から関西無教会小史と○○をお送りくださり、吉村兄から「はこ舟」四五四号をお送り下さり、ありがとうございます。
実は私は三月十日(日)集会の当番の折りに、讃美歌21の二一一番(朝風静かに)を選び、ストー夫人のことに触れ、シュバイツァーと野村先生のことについて語ったばかりでした。その直後、両兄からそれぞれストー夫人に関する文章と○○をご恵送いただき、見えざる糸で結ばれているのを感じました。両兄にあつくお礼を申し上げます。…(九州の読者から)
・右の来信によれば、三名がほぼ同時に、ストー夫人のことについての文章とかコメントを全く離れた別々のところで書いたり話したりしたとは不思議なことです。ストー夫人が「アンクル・トムス・ケビン」に主にうながされて注いだ内容を現代においても、浮かび上がらせるようにとの主のお計らいのように感じたことです。
3)「アンクル・トムス・ケビン」、なんという美しい内容でしょう。私は原作は読んだことはなく、子供向けに書かれたものと、かなりよくできていると思うテレビ映画だけです。今このストー夫人の勇気と信仰の本、「アンクル・トムス・ケビン」を読もうとしてももう体力的にも、目にも無理になってしまいました。日本語訳の本が高価だということは残念です。家に帰ったら原書を買って、トムと少女エヴァの言葉と思いだけでも、読めたらいいと思います。エヴァが死が近づいたのを予感したときの表現、キリスト者はこのように、死を迎えられたら何と嬉しいことでしょう。原作の一部を読ませていただいてありがとうございました。(関東地方の方)
4)「アンクル・トムス・ケビン」についての説明で、素晴らしい本であることを認識させられました。(関東地方の方)