2002年5月 第496号・内容・もくじ
私たちを守るもの
私たちは様々の危険のうちにある。病気や事故、また社会的な不安からくる危険もある。そして目には見えない悪の攻撃を受けること、正しい道からはずれるという危険もある。
そのようなただなかで何が一番私たちを守ってくれるのだろうか。それは、主の平和である。神からくる平和(平安)である。この世の平和とはまったく異なる主の平和が与えられるとき、私たちはさまざまの誘惑からも守られ、また苦しみに出会っても新しい力を与えられ、希望を持ち続けることができる。
主は近くにおられる。どんなことでも思いわずらうことを止めなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神にうち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るであろう。(ピリピの信徒への手紙四・7)
新緑
五月は初々しい緑の季節。冬枯れの木々も見違えるような生き生きした新緑に包まれる。そこにあふれる命の力は、この世の奥深くに存在する命を暗示している。そして次々と野草や花壇の花も開いていく。その細かなつくりや美しさをみるとき、この世界の背後にある、永遠の美というべきものをやはり象徴しているようである。
青い空、白い雲、それらの織りなす日々変わっていく風景、それらもまたそのかなたの清められた世界を指し示している。
ここも神の み国なれば
天地(あめつち)み歌を うたいかわし
岩に木々に 空に海に
妙なる 御業(みわざ)ぞ 現れたる
ここも神の み国なれば
鳥の音(ね)花の香 主をばたたえ
あさ日、ゆう日 栄えにはえて
そよ吹く風さえ 神を語る(讃美歌九〇より)
味わい、見よ! 詩編三四編より
どのようなときも、わたしは主をたたえ、
わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。
わが魂は主を賛美する。
苦しむ人よ、それを聞いて喜び祝え
わたしと共に主をたたえよ。
ひとつになって御名をあがめよう。
わたしは主に求め、主は答えてくださった。
あらゆる恐れから救い出してくださった。
主を仰ぎ見よ、そうすればその人の顔は輝く…
苦しむ人の呼び求める声を主は聞き、苦難から救ってくださった。
主の使いはその周りに陣を敷き、主を畏れる人を守り助けてくださった。
神を讃美するということは、よほど神からのよきものを与えられた経験をしないとできないことです。それが五節から十一節に記されています。
この詩の作者は、個人的な深い経験があったのがうかがえます。それは
「わたしは主に求め、主は答えてくださった。
あらゆる恐れから救い出してくださった。」
との表現からわかるのです。信仰とは、つねに個人的な経験がその基礎にあります。他人の経験や意見でなく、自分自身の苦しみや孤独、なやみのなかで神がして下さったこと、それが原点にあるのです。
そうした苦しみのとき、その叫びを神は聞いて下さった、という体験がなければいくら書物で研究しても、議論しても唯一の神のことはわからない。
この作者は、苦しむ人をいかに神が愛をもって助けて下さるかの実感を、「神が天使を送り、その天使が苦しむ人の周りを取り囲んで、助けて下さった」という言葉で表しています。
神は私たちの切実な願いや叫びに対してそのままで放置しておくことはなさらない。答えて下さる神である、そして私たちがただ仰ぐだけで、神の光を私たちにも注いで下さるお方であると言っています。これは生きている神、いまも私たちの苦しみやなやみを知ってくださっているということなのです。
こうした個人的に神の助けと答えを深く体験したゆえに、つぎのような勧めと結論がなされるのです。
味わい、見よ、主の恵み深さを。
いかに幸いなことか、主に信頼する人は!
主の聖徒たちよ、主をおそれよ。
主をおそれる人には何も欠けることがない。…
主に求める人には良いものの欠けることがない。
神はいかに良きお方であるか、その恵み深さ、愛の深さは味わうことができる、霊の目で見ることができるというのです。主に信頼することの中にこそ、真に永続的な幸いがある、祝福がある。そしてこの詩の作者が経験したところでは、私たちが真剣に神を信じて、畏れをもって神を仰ぐとき、何も欠けることがないと言えるほどに満たされるという経験を与えられることになりました。
これは神と心が結びついた人の共通した経験なのです。
詩編のなかで最も有名な詩編二三編にはそのことが心に残る表現で記されています。
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。
この世は、欠けていると思わせることが実に多い。新聞を見てもいろいろの悲しむべき事件が生じています。そうした状況は自分自身についても同様で、いろいろと自分の仕事の問題、健康上のこと、将来の心配、家族の問題などなど、「欠けることがない」などと心から言える人はほとんどいないと思われます。
しかし、この詩の作者は、現実に存在する敵対する者がまわりにいても、そこから主に求め、祈って神の驚くべきよき力が与えられたのです。
主は、正しい人(神に従う人)に目を注ぎ、助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。…
主は助けを求める人の叫びを聞き、苦難から常に彼らを助け出される。
主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる。
主に従う人には災いが重なるが、主はそのすべてから救い出し
骨の一本も損なわれることのないように、彼を守ってくださる。…
主はその僕の魂を贖ってくださる。
主を避けどころとする人は、罪に定められることがない。(詩編三四編より)
この詩の終わりの部分で、再び苦しむ者の叫びを聞いて下さる神として強調されています。繰り返し、弱く苦しめられている者の叫びには必ず耳を傾けて助けて下さると言います。これがこの詩の作者の確信となっているのがわかります。
そして自我のうち砕かれた人、生まれながらの自分を高しとする心が砕かれた人に近く、そのような心は自然に悔い改めて神へと向かうようになりますが、そのような心にこそ近くにいて下さり、救って下さる。 ここには、主イエスがこの詩の書かれた時代からはるか後の時代に、つぎのように述べたことを思い出させてくれます。
ああ、幸だ。心の貧しい者は!
天の国はそういう人たちのものだから。(マタイ福音書五・3)
この言葉にある、「心の貧しい」とは、この詩でいわれている、心砕かれた人、悔い改めた人ということです。
なお、「主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる。」という箇所は、英語訳のなかには、つぎのように訳しているのもあります。
主は落胆している者に近くおられる
主は、あらゆる希望を失った人たちを救われる。
The Lord is near to those who are discouraged;
He saves those who have lost all hope.(Today's English Version )
さらにこの詩の作者は、
「主に従う人には災いが重なるが、主はそのすべてから救い出し
骨の一本も損なわれることのないように、彼を守ってくださる。」
と述べて、ふつうの人の考えることとは大きく異なって、主に従って生きる正しい人ですらも、災いが重なるとまで言っています。神を信じること、神から愛されるとは、決して何も苦しいことが生じないのではない、かえって苦しみや悲しみが多くなることすらある。
しかし私たちには大きな希望があります。それはここで言われているように、いかなる災いが次々生じて来ようとも、神は必ず守って下さる。その魂が神の国の味わいを感じるようにしてくださるということなのです。
そしてこの詩の最後に、最も深い問題、すなわち罪のあがないと赦しのことが置かれています。それはこの詩の作者が罪の問題の深さと重大さを知っていたことがうかがえます。
主はその僕の魂を贖ってくださる。
主を避けどころとする人は、罪に定められることがない。
私たちの魂をあがなうお方、それは神です。新約聖書にはその神からあらゆる力を受けていた主イエスが十字架で処刑されることによって、信じる人たちの魂をあがなって下さったという事実があります。
こうしてこの詩は新約聖書の最も重要な真理、十字架上で神の子キリストが私たちの罪をあがなって下さったことを指し示しているのがわかります。
クローン人間
クローン人間とは、ある人と全く同じ遺伝情報を持っている人間をいう。このような人工的に同じ人間を体細胞から作るなどということは、以前では想像もつかなかったことで、科学者の間でも不可能とされていた。しかし、一九九七年に初めてイギリスで羊のクローンが作られてから、人間にもそのことが応用されるのではないかと案じられている。
クローン人間を作るには、男性または女性の体細胞から核を取り出し、女性から卵細胞を取ってそこから核を取り除く。そうして体細胞から取り出した核を卵細胞中に入れる。そしてその細胞を女性の子宮に移植して出産させると、もとの体細胞の持ち主である親と全く同じ遺伝情報を持ったクローン人間が生まれる。 羊でできたのだから、人間にもできることになる。そして体細胞を女性からとると、女性だけからでも、クローン人間は生まれることになる。このような技術が使われると、人間を尊重しない風潮がますます甚だしくなると案じられる。そして生まれたクローン人間の親は誰なのかという問題も生じる。普通に生まれる子供は父と母とそれぞれから遺伝子を半分ずつ受け継いでいる。だから父母は科学的にみても、半分ずつ関わっている。しかし、クローン人間では、体細胞を持っていた人の遺伝子を生まれる子供もそのまま持っているのであって、卵細胞を提供した女性の遺伝子は関わっていない。
こうした従来は考えたこともないような問題が生じるほかに、このような処置の過程で遺伝子に何らかの損傷を受けると、生まれる人間に悪影響を生じるという可能性もある。
例えば、最近報道された内容でいえば、世界で最初の体細胞クローン羊を作ったイギリスのイアン・ウィルムット博士は、これまでに作られたクローン動物すべての遺伝子に何らかの異常があるとの調査結果を発表した。博士は世界のクローン動物を追跡調査した結果として、胎盤が四倍に肥大しているとか、心臓の欠陥、体が巨大化すること、発育障害、肺の異常、免疫機能不全などさまざまの異常があったという。それゆえ、博士は「果たして正常なクローン動物がいるのだろうかという疑問に行き着いた」という。(「毎日新聞四月二九日」)
こんな状況を生み出すクローン人間の技術であるが、医学的にそれを利用して移植用の細胞や組織、臓器を作ることも考えられている。
しかし、全体として見ればこうした技術は科学技術によって人間を操作する方向へと向かい、人間のいのちが軽んじられる方向になるだろう。自然のままの川や野山が本来の姿であり、それが全体としてみれば最も人の心をも潤すのであり、人工的に公園を作っても、雄大な流れの大河や海、自然の広々とした海岸風景などには到底及ばない。
それと同様に、全体として考えるとき、女性一人だけでも子供を作ることができるなどというきわめて自然に反したことを実行するということからは、さまざまの予期しない難問が生じることが考えられる。
医学に用いられるといっても人間の心において重大な悪影響が予想される状況であればそうした方向は決して好ましいことではない。科学技術は概して自然に反したものを生み出していく。自動車にしても人間の体は時速百キロで激突することなどには到底耐えられないように作られている。だから自動車が衝突することで、深刻な傷を人間は受けてしまうか死んでしまう。科学技術が生み出した原子力エネルギーにつきまとう、放射線にはもともと人間は感知することもできないから、防御もできないように作られている。放射線を多く受けると、癒しがたい深刻な病気となって苦しまねばならなくなる。
現在の深刻な問題となっている地球温暖化、大気汚染なども同様で、自然に反したことを大規模にやっていくのが科学技術であり、(言うまでもなく科学技術からさまざまな利益も受けているのであるが)どうしても人間に害悪をも与えていく。
クローン人間の問題が、ほかの科学技術のことと大きく異なっているのは、新しい生命が誕生することとその生まれた生命はずっと後々まで子孫を産み、永久的な影響をもたらすということである。もし、遺伝子的に障害を受けるなら、それはずっと将来もついてまわることになるし、新しい命がそのような誕生のゆえに精神的にも不安定となる可能性もある。
クローン人間ができるとどうなるのか、詳しいことを知らなくても、同じ人間を作ることは大変な混乱が生じるのではないのか、人間を動物のように勝手にどんどん作っていくのではないか、などなど、いろいろと案じられている。
こうした問題においてキリスト教ではどう考えるのか。神だけが新しい生命を誕生をさせることができるのであって、クローン人間についても、受精卵が増殖していき、生物として成長していくのは人間がするのでなく、もとからそなわっていた力によってそうなっていくのであり、その成長させる力や遺伝子そのもの、遺伝子を構成している化学物質などは人間が作ったのでない。天地創造の主である神が造ったのである。人間が科学技術の力で作り出したものも、みな、もとはといえば人間が存在するまえから、そうした物質は神によって創造され、物質世界のさまざまの法則も人間の存在のはるか以前から、神によって創造されていたのである。科学技術の産物はそうした神のつくった科学法則を用い、神の創造された物質を用いているにすぎない。それらを工場や研究室で、造りかえるときに使う法則も人間が作ったのでなく、天地創造のときから存在している法則をある時に誰かが見いだしたということである。
このように考えると、科学技術のさまざまのことも、いわば神の手のひらの上で行われていることだといえよう。この神の手の上にいながら、あたかも人間がすべてを握っているかのような傲慢に陥るなら、必ず罰を受けるだろうし、神の手の上にあることを自覚してそこから神のために用い、神にひざまづく謙虚な心をもっているときには、神はそのような人間を必ずいかなる科学技術の悪影響にもかかわらず、救い出されることであろう。
多くの人間が自然を求めても、この世の力が押し流していく傾向にある。クローン人間というものもそのうちにどこかで作り出され、だんだん広がっていくことも可能性としてはある。こうしたことに漠然と不安を感じる人も多い。そしてその不安は相当現実的に起こりうることである。
もし私たちが人間の力だけしか信じないとすれば、こうした人類の未来はまことに暗雲のたれ込めた状態といえる。
しかし、キリスト者はこのような状況を知った上でも、希望が与えられている。クローン人間は遺伝子的にまったく同じ人間だからといって、悩みとか悲しみは同じではない。置かれた状況がそれぞれに異なってくるからである。生後の環境によっても大きく人間の心は変わっていく。
環境すらそのように変えていくのだから、万能の神の力が働くことによってどのようにでも変えることができる。私たちが信じる神は何でもできる神である。天地創造をされ、いまも万物を支え導いておられるからである。
クローン人間が、いかに遺伝子的に同じであっても、神は新しい霊を注ぐことができる。新しい創造と言っているほどである。キリスト教の最も重要な弟子となったパウロも、キリスト者を迫害し、殺すことさえしたというのに、キリストに出会って、主の力を受けて、全く新しく造りかえられた。
遺伝子が同じであっても、神はその人間を霊的にはまったく異なるように造り変えることができる。
殺人のような重大犯罪を犯してもなお、心からなる悔い改めによって、そうした悪事とはずっと縁がなかった者のように変えられるのと同様である。死んだ者すら、死して三日にもなる人間すら造りかえて新しい命を吹き込むことができることを考えればそのこともうなずける。
キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる。(ピリピ書三・21)
私たちの世界には、クローン人間のようなさまざまの不可解なこと、あってはならないようなことが生じていく。その先はどうなるのかという漠然とした不安が生じてくる。しかし、聖書に記されている神は、万能の神であっていかなるそうした思いがけないような事態が生じてもなお、私たちに希望の光を与え続ける神なのである。
憲法を変える問題
憲法のどこが問題なのかよくわからないで、なんとなく戦後五〇年以上も経ったのだから変えたらよいだろうなどと思っている人が多い。住んでいる家も五〇年も経ったらリフォームしたり、立て替えるのが当たり前だ、衣服も何十年も着られない、車でも何でもある程度使ったら新しいのに替えなければなどといったような気持ちで、憲法をも変えないといけないなどと考える人が多い。
しかし、現在問題になっている憲法を変えるかどうかということは、衣服とか家、あるいは車などとは根本的に違う。憲法がうたっている最も重要ないくつかのこと、平和主義、国民主権、基本的人権の尊重などは、普遍的な真理を持っているのであって、古くなるということがない。
ことに現在一番問題となっている、平和主義ということは、聖書でははるか数千年も前から人類の究極的なあり方だと記されているほどである。今から二千七百年ほども昔に書かれた旧約聖書のイザヤ書という書物ですでにつぎのように記されているのは驚くべきことである。
主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる
彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。(イザヤ書二・4)
現在の憲法は太平洋戦争において、日本が広大な中国やフィリピン、インドネシア、ビルマ、タイなどアジアの広い地域において戦争を行い、数千万の人々を殺傷したこと、そしてそこでは無数の人々が家族を殺され、障害者となり、人生を破壊された人、家族の平安を奪われた人などはかりしれない害悪を及ぼしたという深い反省に立って作られている。それは憲法の前文を見ればわかる。
再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し…
日本国民は恒久の平和を念願し、…平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して…
我らは平和を維持し、…
我らは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
我らは…自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって…
このように、「平和」とか戦争をなくすること、自国中心に考えて他国を侵略してはならないなどという言葉が繰り返し現れる。ここには、太平洋戦争のような悲劇が二度と起こらないようにという切実な気持ちがにじみ出ている。そしてその目的のためには、最も根源的な道は武力を持たないこと、いっさいの戦争を捨て去ることである。それゆえにその道を取ったのが日本の憲法なのであった。
この平和憲法に反対する人は、武力で守る必要がある理由として、警察を不要とする人はいない、だから軍隊も必要だという人がいる。
しかし、警察は国内の犯罪者を取り締まるのであって、警察によって、数百万人が殺されたとか、警察が大空襲を行ったとか、あるいは無実な人が、家庭を無数に破壊されるとか、広大な世界が戦火に遭うだとかはあり得ない。内戦による大規模な殺害なども、軍隊が主となって行われてきたのであって、警察ではない。
また、ある国が警察の人員をふやしたからとて、他国が競争して警察の規模を大きくしていくなどということも考えられない。
他方、軍隊が動き出して、戦争となるときには、数千人どころか、数万、数十万といった人々が殺されたり傷つけられたりしていくことすらあるのであって、警察と軍隊とを同列において、警察が不可欠だから軍隊も不可欠だなどというのは、こうした事実を十分に考えていないからである。
そして軍隊の場合は、一国が軍備を増強すれば、隣国も触発されて多大の軍備増強に向かうということは歴史的にもよくあったことであるし、現在もインド、パキスタンとの核兵器装備など多く見られるところである。
日本が今後も守られていくためには、戦後五十年余り他国を軍事力で脅かすこともなく、実際に戦争にも参加することなく、平和主義を守ってきたその方針を守り続けることである。それが真の意味で日本を守るのである。
軍隊を造って、アメリカの言うままに、世界のどこにでも軍艦を派遣してアメリカと共同して戦争に加わるという方が、はるかに危険性が高い。軍隊を用いないで、平和主義で一貫していくことこそ、世界につねに新たなメッセージを送り続けることになる。
人間を本当に大切にしようとする考えからは戦争は生じない。戦争によって数知れない人々が死んだり、障害者となったり、家族を奪い取られたりするからである。
万一侵略されることがあっても、武力でなく、ねばり強い反対の意思を表していくことこそ、最も力ある守りの道である。
憲法が全く問題がないかといえば、変えるのが望ましいような点ももちろんある。例えば天皇に関する内容が憲法の冒頭にあるというのは、不適切である。天皇は象徴にすぎないのであって、それが憲法の最初にあるというのは戦前において、つぎのように天皇が絶対的とされていて、天皇に関することが最も重要なものとみなされていたため、憲法の最初に置かれていたことからきている。天皇にかんすることは、もっと後に位置づけするのが適切である。
それから環境問題のような戦後かなり経ってから次第に大きい問題となったことについての条項を入れることも望ましいことであろう。
しかし、こうしたことは、現在のままであってもとくに大きな不都合はない。環境に関することもそのための法律を制定し、国や地方の政治を行う上で、いくらでも力を注ぐことはできるのである。
しかし、憲法の平和主義を変えることは、きわめて重大な問題を引き起こすことになる。去年問題になったアフガニスタン攻撃にインド洋まで自衛艦を派遣したが、後方支援という名でアメリカの戦争に加わることになっていくなら、それは戦争そのものに巻き込まれることを意味する。アメリカはまた、イラクへの武力攻撃を計画していると伝えられるが、それにも加わっていくなら、日本はイラクとも戦争をすることになりかねない。
日本が武力攻撃されたらどうするのか、そのために有事法制という名の戦争のための法律をつくるという。しかし、日本のような戦後五〇年以上、他国に戦争をしかけたこともなく、戦争はしないというのが国是である国が武力攻撃されて侵略されるというような可能性がいったいどれほどあるというのか。
そもそも、過去数千年の日本の歴史をとってみても、外国から突然にして侵略されたということは一度もない。十三世紀に蒙古軍が攻めてきたことがあっただけである。現在のような状況で、何にも他国を武力で支配するとか、攻撃もしていない文明国にいきなり攻め込むなど、きわめてありそうもないことである。
それよりもはるかに可能性が高いのは、アメリカに追随して、戦争に荷担して泥沼状態になり、周辺の多くの国々からも敵国とみなされていくことである。アメリカのいうままに後方支援していくなら、世界のあちこちに敵国をわざわざつくって日本がそうした国々から攻撃を受けるという危険にさらされることになっていく。それがはるかに危険度が高い。
そうした方向に対して、日本が平和主義を守り、軍備を縮小して、軍備費という巨大な金額を他国の福祉や医療、生活の安定のために用いていくなら、そのような国をいきなり武力攻撃などする国があるだろうか。そんな可能性はきわめて少なくなるだろう。
軍備のためには巨額の費用がかかる。性能のよい戦闘機一機が百億円、一隻のイージス艦(*)を導入するだけで千三百億円以上というおどろくべき費用となる。
しかもこれらは、国民の生活に有益なものをなに一つ生み出すことがない。ほかの費用、環境問題や、都会の緑地整備、品種改良とか医療や大学の基礎研究、山村の生活援助、学校の一学級の児童生徒の数を減らす、教師の数をふやすなどなどはそこに費用を用いてもそこからあらたな有益なものが生み出される。外国への教育や生活、医療などに対する適切な援助も同様である。
しかし、軍事費用はいかに巨額のものを使ってもただそれだけで終わる。災害地の復旧などに自衛隊が働くということも、本来はそのようなはたらきのために別に部門をもうけて強化するほうがよいのであって、そうした目的のためなら、一機百億円もの戦闘機などまったく不要なのである。
さらに、軍事費の増強は、国民生活を圧迫するだけでない。他国をも刺激して、他国も財政が貧しいのに、いっそうの軍備増強をさせていくことになり、その国の生活をも圧迫するということにつながっていくし、さらには、軍備増強は戦争の危険性を増大させていくことになる。もしもそうした軍備増強の果てに実際に戦争が生じるなら果てしない悲劇が生み出される。
このように考えると、軍備増強の方向は闇の方向に向かっていくことに他ならない。
現在の小泉政権の危険性はここにあるのであって、靖国神社への参拝を子供だましのような方法で、いきなり行い、周到に準備していたにもかかわらず、「今朝思いついて実行した」などと国民を欺くようなことを言っているのである。直前に中国を訪問し、かつての中国との戦争に反省しているふりをしたのに、このような方法で靖国神社を参拝強行したことで、中国の代表者が、信義を守らないとして非難したのは当然だろう。
こうした状況を考えると、現在の憲法を変える必要はないのであって、最近の自民党や外務省などの腐敗ぶりを見るにつけても、そのような自民党が熱心にやろうとすることは国民のためかどうかがはなはだ疑わしいし、もし憲法を変えると今でさえ巨額の費用を軍事費に使っているのであるから、ますます公然とそうした方面に使おうとするだろう。そしてアメリカのいうままに世界のあちこちに戦闘機や軍艦を派遣するというような状況となって戦争に巻き込まれる可能性が一段と高まる。それこそが、日本の平和と安全をおびやかし、同時に世界の平和をも乱すことになっていく。日本が今までのように、武力によって国際紛争を解決しようとせず、平和主義を貫いていき、軍事費を削減し、それをアジア、アフリカ、中南米などの貧しい国々への福祉のために用いていくこと、そのようにすることが日本と世界の平和を実際的にも進めていくことになる。
また、憲法を変えるという人たちは、それがアメリカの押しつけ憲法であるからと言う。しかし、日本の敗戦時のときの指導者たちは戦後日本の方向をどう考えていたか、全く国民のためを思っていなかったのである。例えば、一九四五年八月六日、広島に原爆が落とされ、一瞬にして二〇万人ほども死に、さらにその数日後、ソ連が日本に戦争をはじめ、満州地方に激しい攻撃を開始した。そしてその同じ日に、二発目の原爆が長崎に投下された。その同じ日になされた閣議では、当時の阿南陸軍大臣は「一億マクラをならべて倒れても大義に生くべきなり」と主張した。
また、陸軍大臣の布告として、発表されたのは、「全軍将兵に告ぐ。ソ連、ついに皇国に冦す。…断固、神州護持の聖戦を戦ひ抜かんのみ」というような内容であった。
つまり、日本人がみんな死んでも、天皇中心の国家体制を守るための戦いを続けるべきだというのである。軍の指導者たちも同様な意見であった。このような驚くべき発想で戦争が行われていたのであった。
また、日本の降伏条件を定めたポツダム宣言を受け入れる決定がされた時でも、当時の政府の考え方は国民を第一に守ることでなく、「今や、最悪の状態に立ち至ったことを認めざるを得ない。正しく国体を護持し、民族の名誉を保持せんとする最後の一線を守るため、政府は最善の努力をしつつある」というものであった。国体、すなわち天皇の支配体制を守ることが唯一の目標とされて、降伏をも受け入れるという状態なのである。
こうした発想は、天皇が敗戦の日にラジオ放送で国民に発表したいわゆる「玉音放送」においても、同様であった。
「朕ハ、ココニ国体ヲ護持シ得テ、忠良ナル爾(ナンジ)臣民ノ赤誠ニ信倚(シンイ)シ…神州ノ不滅をシンジ…国体の精華ヲ発揚シ…」
と言うのがそれである。天皇が最も重要なこととして繰り返し強調しているのは、国体すなわち、天皇が日本を支配するという方式を守るということなのであった。国民の生活と命のことが肝心であるのに、それらには触れてもいない有様である。
このような考え方の者が戦争を指導していたのであるから、戦後のことも、国民を主体に考えるはずがなかったのである。敗戦後にできた内閣は、なにを第一に考えたか、天皇制を守ること、天皇が以前と同じように国家の元首として支配し続けるということを掲げたのであり、従来の秩序をできるだけ残そうということを考えたのである。当然、人々を苦しめてきた治安維持法、治安警察法などを温存していき、当時の岩田法務大臣は天皇制の議論をしようとするものには、不敬罪を適用して逮捕すると言明する状況であった。
それゆえに、一九四五年十月に、連合国軍総司令部(GHQ)は治安維持法や治安警察法などの撤廃や、治安取り締まりの中枢であった内務省警保局を廃止し、内務大臣や警察官僚を大量に辞めさせることを要求した。これが契機となって東久邇内閣は退陣し、幣原内閣が生まれた。
このように、当時の政府は頭の切り替えなどはできずに、明治以来の天皇中心の考えがしみこんでいたのである。彼らがどうして憲法を造りかえようなどと考えるだろうか。
敗戦後の内閣は憲法を改正する積極的な意思もなかった。しかし、敗戦後二ヶ月後に、マッカーサーから憲法の改正を示唆されてからその方向に動きだした。しかし数ヶ月後に出されたのは、天皇が統治権を全面的に持っているということなどは、以前の大日本帝国憲法(*)とまったく変わらないものであった。わずかに、第三条の「天皇は神聖にして犯すべからず」というのを、「天皇は至高にして…」と変えただけなのである。
(*)大日本帝国憲法より
第一条 大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す
第三条 天皇は神聖にして侵すべからず
第四条 天皇は国の元首にして統治権を総攬(そうらん *)し、し此の憲法の条規に依り之を行ふ (読みやすくするために、カタカナの部分を平かなに変えてある。)
(*)総攬とは一手に掌握すること。
そのような状況であったから、GHQが自ら憲法草案を作って政府に示したのであった。もし、そのとき、日本の自主性に任せていたら、明治憲法とほとんど本質が変わらないものとなっていて、もちろん平和主義、つまり戦争放棄や軍備撤廃などの条項も入ることはなかったのである。
実際、憲法だけでなく、治安維持法や治安警察法などの撤廃もGHQ(連合国軍総司令部)の強力な指導のもとになされていった。農地改革も政府案では地主を温存させるものであったから、やはりこれもGHQが徹底した改革を指導した結果、長い間農村を支配していた地主制度が一掃されたのである。その他、婦人の解放、労働者の団結権の保障、学校教育の自由化、経済の民主化など、こうした各方面に及ぶ大改革はすべて、連合国軍総司令部(GHQ)の強力な指導のもとになされたのであった。
これらの改革があったからこそ、学校教育も国民がだれもが中学教育まで保障されるようになり、小作人の多かった農村の苦しい状況も大幅に改善され、女性の権利や労働者の権利も認められるようになっていった。そしてこれらの改革によって日本人は現在も大きな恩恵を受けている。
以上のように、連合軍総司令部の強力な指導がなかったら、これら一切は行われなかっただろうし、行われたとしても憲法のようにごく小規模の改変でしかなかっただろう。それらはみな、いわばGHQの「押しつけ」によって始まったのである。
内容そのものがよいかどうかなのであって、押しつけが悪いなら、それらの教育、農地改革、経済改革、女性や労働者の権利の保障などもみな、棄てるべきものとなるがそんなことはだれも言わない。これにらっても、憲法が押しつけだから変えるなどという議論は間違っているということになる。
肝心なことは、その内容が正しいものであるかどうかであって、それが正しいものならば、押しつけであっても、それを守り尊重していくことが重要なのである。押しつけでなく、自主的に決めたということが、国民や日本の前途に悪いものであるなら、それは撤廃すべきことである。
日本の降伏に関する処理を決めたポツダム宣言の受け入れそのものも、諸外国から押しつけられたのである。その強力な押しつけがなかったら、日本の天皇や政府、軍部支配者たちははまだまだ数知れない国民の命を奪う戦争を続けていただろう。
日本の憲法もまた、こうした一連の動きのなかでなされたのであって、もともと戦後の内閣は憲法を根本から変えるなどは考えていなかったのだが、そのことはこうした一連の動きを見てもわかることである。連合国軍総司令部(GHQ)の強い要求がなければ日本はまったく古い体制のままで戦後を歩むことになったのである。
こうしたことから考えてもわかるが、憲法が押しつけだから変えるなどというなら、古い治安維持法の撤廃や農地改革、教育改革などさまざまのことも変えねばならないという議論になるがそんなことはだれも言わない。
テロについては、げんにアメリカの世界最高の設備をもってしても去年のニューヨークの事件のようなことが生じたのである。テロとはどのように防備しても本来生じうるものである。根本的なテロ対策とは、そうした武力に頼ったり、さまざまな組織の改編とか戦争対策でなく、日本がつねに世界の平和と福祉のためにエネルギーと資金をも使っているという事実である。
そうしたことは、個々の人間でも周囲の人たちにつねによきことを計っているなら、自然と周囲にわかるように、おのずと世界にはわかることである。そのような世界の平和と福祉のために貢献している国をテロで襲うなどということはきわめてありそうもないことである。こうした武力によらない方法こそが根本的なテロ対策であり、また戦争を起こさない、加わらない道なのである。
このことは、新約聖書において、キリストやパウロが繰り返し述べている隣人への愛と、敵や迫害するもののためにも祈れという精神とも合致するものである。
(*)イージス艦とは、アメリカ海軍が開発した新型艦対空ミサイルシステム(イージスシステム)を装備した艦艇。強力なレーダーとコンピューター、ミサイルをもち、同時に飛来する10以上の目標を迎撃できる。防衛庁は洋上防空体制の一環として87年に導入を決定した。イージス(Aegis)とはギリシア神話のゼウスが女神アテナに与えた盾のこと。
キリストの愛・聖霊・平和
私たちがキリストを信じ、愛しているとき、互いに信じる者同士も主にある愛をもって関わることができる。主イエスは「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」(ヨハネ福音書十四・15)と言われたが、その掟と訳されている言葉の内容とは、互いに愛しあうということであった。すなわち、神(主イエス)を愛することが原点であり、そこから互いに愛し合うこと、仕え合うことが生まれる。
主イエスも、一番重要なこととして、神を愛し、隣人を愛することと教えて、まず神を愛することをあげられた。
しかし、私たちが神を愛する前に、すでに主は私たちを愛されたのであって、最初の出発点は、私たちが神を愛したことでなく、神がまず私たちが気付かないうちから愛して下さっていたことである。キリストが最後の夕食を迎えるときにも、わざわざ弟子たちの足を洗うということをされた。それは主イエスの弟子たちへの深い愛の象徴的行動であった。
イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。 (ヨハネ十三・1)
このように私たちがまず神を愛したのでなく、まず神の方から、主イエスの方から私たちを愛して下さったということは、聖書で繰り返し言われている。
わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからである。(ヨハネ第一の手紙・四・19)
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。( ヨハネ第一の手紙四・10)
パウロも同様にこのことを強調している。
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示された。(ローマの信徒への手紙五・8)
このように、まず私たちへの神の愛があった。そのことを知ると、私たちにもおのずから神を愛し、主イエスを愛する心が生まれる。そこからキリストの戒めである、互いに主にあって愛し合うということが生まれてくる。
私たちは単に信じているだけなのか、主イエスを愛しているのかが問われている。主イエスへの愛がなければ、戒めも守れない。自分を愛してくれるものだけに好意を示そうとする、それは聖書の愛でなく、人間の好き嫌いの感情であり、それは特定の人のみに注がれる差別的な感情である。そこからは決して真実なものは生まれず、分裂や混乱、ねたみなどが生じる。
キリストへの愛を持つことができるのは、神からの多くの愛を頂いたゆえであり、その愛によって無差別的な愛が初めて生まれる。
まず神を愛し、キリストを愛するときに与えられるのは、真理の霊、すなわち聖霊であると言われている。この聖霊のことを、新共同訳聖書では「弁護者」と訳している。 この原語は、パラクレートス(*)というギリシャ語である。これは、「そばに呼ばれた者」の意である。そこで、「助け主」(口語訳、新改訳)「慰め主」「励ます者」」など、いろいろに訳されている。(**)
これらの訳語のすべてをもっているのが、原語なのである。
(*)para は「側に」、kletos とは、kaleo(呼ぶ)から生まれた言葉で、「呼ばれた」という意味。それで、parakletos とは、「側に呼ばれた者」という意味になる。
(**)英語でも、Comforter(慰め主)、 Helper(助け主) , Advocate(弁護する者), Counselor(助言者)、 Paraklete (原語のギリシャ語の音写)などといろいろに訳されている。
弁護者とは、私たちが罪あると指摘され、裁かれるときでも、そばに立って私たちはあがなわれた者だと弁護してくれるお方だからである。私たちの生活のなかで、繰り返す失敗や罪をとがめられる、そうした責めから守り、いやしてくださるお方だからである。罪を赦されることが一番の慰めであり、励ましであり、力づけであり、助けることでもある。罪に沈んでいくこと、滅びゆくことから助けて下さるから「助け主」(Helper)なのである。
この弁護者(助け主)とも言われる聖霊が与えられると、「主の平和」が与えられることにつながっている。主イエスは、聖霊が弟子たちとともにいつまでもいると言われると共に、神とキリストがその人の弟子のところに行ってともに住むともいわれ、さらに、主の平和を弟子たちのところに残し、平和を弟子たちに与えると言われた。
このように、神、キリスト、聖霊が信じる人のもとに共にいると言われ、主の「平和」がそのことと深く結びついているのがわかる。神や復活のキリスト、あるいは聖霊が人のところに住んで下さることによって、主の平和を与えられるというのである。
しかし、弁護者(慰め主)、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。
わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。
心を騒がせるな。おびえるな。
『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。(ヨハネ福音書十四・26~28より)
このように平和を強調しているのは、このヨハネ福音書が書かれた頃は、ローマ帝国がますますその領土を拡大しつつあったときで、時のローマ皇帝ドミティアヌス(在位AD八六~九一年)は自分のことを「主」とか「神」と呼ばせて崇拝させることを強化していた時であった。
他方、ローマ帝国はこの時代には、広大な地方を平定し、地中海世界の覇者となった古代ローマの支配下に保たれた平和の時代が訪れた。これを、パックス・ロマーナ(PAX ROMANA ラテン語で 「ローマの平和」の意味)という。しかし、この平和は武力と支配、搾取のうえに成り立っていた平和にすぎなかった。
これに対してキリストは、こうした剣や人間の欲望によるによるみせかけの「平和」でなく、ゆるがない神からの平和を与えると約束されたのであった。
聖霊が戻ってくるとき、私たちはこの世の平和とは本質的に異なる平和を与えられる。それは神が与える平和。現在の世界においてもこの問題が新たな重要性をもって迫っている。武力による平和か、キリストが約束する武力とは関係のない平和の方向を目指すのかである。
この箇所で私たちは、主イエスが平和といって何も困難が生じないようなことだけを言っているように受け取るならそれは重要なことを見落としていることになる。
なぜなら主イエスは私の平和を与えると言われたが、それはその平和を受けて自分だけがそこに安住するためでないことは、この平和という言葉がどういう状況を見つめつつ言われたかを考えればわかる。
さきほどの箇所をもう一度注意して見てみよう。主の平和を与えると約束されたがそのすぐ後で、
心を騒がせるな。おびえるな。
と言われている。このことは、当時の弟子たちが、恐れを感じる状況にあったことを暗示している。もし恐れがないようなのんびりした状況ならば、このような言葉を伝える必要がない。
私たちが平和とか平安という言葉で思い浮かべがちなのは、ゆったりとして家族そろって健康であって、社会的にも穏やかな状態などである。そのような平和も感謝すべきものであろう。
しかし、ここで主イエスが言われたのは、おそれ、おびえるような状況のただなかにおいて与えられる平和である。キリスト者たちは以後長い迫害の時代を耐えて行かねばならない。それはまさしく恐れとおびえがある状況である。しかしそのような状況にあってもひるむことなく、信仰を守り、み言葉を伝えていくためには、神からの特別な賜物がぜひとも必要であった。それが主からの平安、主の平和なのであった。
キリストが地上からいなくなった後には、聖霊が弟子たちのところに来ることが詳しく説明されているのが、ヨハネ福音書の十四章であるが、その章の最後に、「立て、さあ、ここから出て行くのだ。」という言葉がある。しかし、実際には主イエスの教えはその後の十五章もずっと続いている。そのため、この言葉は、象徴的な意味が込められていると考えられている。主の平和を受けた者は、おのずから主のこの呼びかけを心に聞き取るというのである。自分だけでその平和を持っているのでなく、主の平和を与えられた者は、立ち上がって、各自の場から出ていき、この世のただ中で証しをするために、主の平和が与えられているという意味が背後にある。
それほどに、主の平和というものは力あるものであり、自然とそとにあふれ出ていく本質を持っているということが暗示されている。
ことば
(128)喜びの心の源
一般に現代の人たちに欠けているのは、とりわけ、喜びの心である。その他の点ではすぐれた人たちですら、喜びの心がない。…喜びの心を妨げるのは、いつもその人の自愛心や我意や、あるいは何らかの怠惰である。
神への完全な従順こそ、喜びをうる条件である。
喜びの心は、神へ従順であることの偽りない証しであり、それはだれでも立てられる証しである。(ヒルティ著 「眠れぬ夜のために・上」の序文より)
・ここで言われている喜びは、ふつうの娯楽や交際、旅行などの楽しみや喜びでなく、それらとは全く別のところ、神から来る喜びのことを指している。娯楽や交際などのことが全くできないような人でも、例えば病床にあるような人でも、与えられ得るような喜びをいっている。そして聖書で約束されている喜び、使徒パウロがガラテヤ書で「聖霊の実」としての喜びに触れているが、それもこのような性質の喜びである。
(129)聖書と聖霊
聖書知識だけでは人を救うことはできない。聖書知識に加えて聖霊の力をもってして人の霊魂は救われるのである。聖書そのものは死せる文字である。…
聖書を学ぶ理由は、聖書によりて救われるためでない。聖霊を身に招くためなのである。聖霊が、聖書知識に点火して、死せる霊魂を活き返らせるのである。(内村鑑三著「聖書之研究」一九〇七年三月号より)
・聖書に関する知識だけでは、魂の救いに至らないのは、キリストの時代に聖書の細かな知識をもっていて人々に教えていた律法学者やパリサイ派の人たちがかえってキリストの真理を受け入れることができず、逆にキリストを殺そうとするほどに誤ってしまったことはこれを示している。この内村の言葉は、パウロの次のような言葉がもとになっている。
(私たちは)文字に仕える者ではなく、霊(聖霊)に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。(Ⅱコリント三・6)
(130)そこでは、私たちは安らぎ、見るであろう。私たちは見て、そして愛するであろう。私たちは愛し、そして讃美することになろう。これが、終わることのない終わりに私たちの目にすることである。(「神の国」第二七巻30章 アウグスチヌス著)
There we shall rest and see, we shall see and love, we shall love and we
shall praise. …(EVERYMAN'S LIBRARY 「THE CITY OF GOD」の英訳文)
・これはアウグスチヌス(*)の大作、「神の国」の最後の部分の一節である。私たちに与えられる最終的な恵みと祝福はこのように、主の平安のうちに憩い、主のみ顔をくもりなく見ることが与えられる。それは何らの妨げなく主との交わりに置かれるということであり、さらに神へのまったき愛のうちに生きることになり、神をかぎりなく讃美するような状態であろう。それは終わることのない終わり、つまりそのような状態は世の終わりに訪れるが、この終わりの祝福された状態はもはや終わることがなく、永遠に続くという意味である。これらのことは、聖書に記されてている。その一つをあげておく。
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。(Iコリント一三・12 )
(*)古代の指導的なキリスト教著作家(教父)として最も重要な人物で,かつヨーロッパのキリスト教を代表する一人。その理論は中世思想界に決定的な影響を与えた。著書「神の国」「告白録」「三位一体論」など。(AD三五四~四三〇)
休憩室
○ウグイス
我が家では、毎日ウグイスの美しいさえずりが聞こえてきます。ウメにウグイスという言葉もありますが、ウメの咲く頃にはほとんどさえずっていなかったのですが、新緑の美しい現在では間近にその歌が聞こえてきます。ちいさな体からあのような澄んだ声、しかも大きな声が出されるのには驚かされます。自然の中からの音は水の音、風にそよぐ木々の音などとともに小鳥のさえずりは心に神の国からの水を注いでくれるものです。
○ウツギ(ウノハナ)
五月になると、低い山地ではあちこちにウツギとそのなかまが見られます。谷間の木々の緑があふれているようなところに純白のウツギが咲いているととりわけ美しく感じるものです。ウツギ(空木)とはこの木の幹が中空なのでこの名があり、ウノハナというのは、卯月(陰暦四月)に咲くからとも言われますが、卯の花が咲くから卯月というのだとも言われます。古来、ホトトギスなどとともに、初夏の代表的風物の一つとされ、白く咲き乱れるさまは、雪、月、波、雲などにたとえられたということです。水晶花、夏雪草(なつゆきぐさ)、垣見草(かきみぐさ)その他いろいろな名前があります。
多くの人が、ウツギという花で思い出すのは、つぎの歌ですが、現在では様々の庭木があるためか、ウツギを庭に植えているのはほとんど見かけたことがありません。
うの花の 匂う垣根に
ホトトギス 早も来鳴きて
しのびねもらす 夏は来ぬ
これは佐々木信綱作の「夏は来ぬ」の一節です。しかし、ウノハナには香りはなく、この歌で言われている、うの花が匂うというのは、「色が映える」とか、「生き生きとした美しさなどが溢れる」意味だと考えられます。なお、こうした意味では、讃美歌にも「星のみ匂いて」(讃美歌一一五番一節)のようにあります。
この歌でもホトトギスとともに歌われていますが、この季節には確かに現在もホトトギスが飛来してきて、その印象的な強いさえずりを聞くことができます。
お知らせ
○第二九回 キリスト教四国集会(無教会)は六月十五日(土)~十六日(日)の二日間、徳島市での開催です。五月三十一日が申込締め切りとなっていますので、参加希望の方は申込をして下さい。申込先はこの「はこ舟」の末尾に書いてある住所、電話などを用いて、吉村まで。
この四国集会が、主の祝福されるものとなり、「主の平和」が参加者に与えられ、聖霊の注がれる集会となりますように。