20027月 第498号・内容・もくじ

リストボタン神の言葉

リストボタン神の栄光-真に重いもの

リストボタン小鳥への説教

リストボタン備えられる神

リストボタン新しいことを

リストボタンことば

リストボタン休憩室 自然の沈黙 天の川


st07_m2.gif神の言葉

 私たちは学校教育で多くの時間を勉強に費やした。そこで多くの言葉も学んだ。しかし、それはみんな人間の言葉であった。新聞、テレビ、雑誌など至るところで目にするのもすべて人間の言葉である。
 神の言葉などあるのかというのが一般の人の気持ちではないだろうか。
 神の言葉とは、永遠的な力をもつ言葉、時間や社会状況によって変わることがないし、どこの国の人であっても、身分や家柄、教養、学識などと全く関係なく働く力をもった言葉である。
 そしてそれはわずか一言であっても、その人の生涯を変えるほどの力を持っている。
さらに、その言葉は繰り返し学んでも、さらにその奥の意味が見えてくるために、はかりしれない実感を持たせるのである。
 私自身も、神の言葉について書いてある、たった一冊の小さな本の数行で生涯が変えられることになった。それは神の言葉の力だった。あの時の不思議な経験は忘れることができない。どんなに人間によって説得されても決して受け入れなかったであろうようなことが、わずか数分で私の魂の根本を変えるに至ったからである。
 また、神の言葉は文字すら読めない人であっても、病床で苦しむ者にも、また孤独や不安、死の苦しみと絶望のただなかにある人にすら、働きかけてその人間そのものを根本から変えることができる。
 聖書にも、十字架上で釘付けされるという最も残酷な刑罰、最も激しい痛みと苦しみを強いられる恐ろしい状況にあっても、神の言葉を信じた者が救いへと入れられる有様が記されている。
 混乱と汚れた言葉、不真実な言葉が洪水のようにはんらんしているこの世において、たしかに神の言葉は存在している。そして今も静かに働きかけている。
 人間の言葉に疲れた者、永遠不変の真実をもとめる者、みずからの存在の支えが欲しい者は、この神の言葉によって必ず満たされる。
 次に引用する聖書の言葉において、水とかぶどう酒、乳とか言われているのは、この「神の言葉」であり、神の言葉を生み出す「聖霊」のことである。

渇きを覚えている者は皆、水のところに来たれ!
銀を持たない者も来たれ。
穀物を求めて、食べよ。
来て、銀を払うことなく穀物を求め
価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。(イザヤ書五五・1

働きと休憩と

 ふつうの仕事には休憩は必須である。しかし、神とともに、神の国のために働くとき、休憩の時間はそれほど必要がなくなる。
 それは神の国のための働きはそれ自体が休憩の要素をうちに持っているからであり、魂の内なる休憩所を持っているとき、はたらきながらもいつでもその休憩所にて休むことができるからである。それは主の平安(平安)である。
 キリストが、明日は十字架で処刑されるという最後の夜、弟子たちにとくに与えようとされたのが、この主の平和であった。
 しかし、この主の平和もつねに心して主に求め、それを用いるようでなければ消えていく。それゆえ、一週間に一度の日曜日はふだんの仕事を休み、神の国のために心を働かせるのである。二人、三人がキリストの名によって集まるならば、祈りは聞かれることが約束されている。
 そうして毎週毎週、繰り返して主の平安、平和をたえず新しく受け取っていくとき、日常の生活のただなかにおいても、その主の平安を実感することができる。そして働きつつも休憩を感じることができる。

 


st07_m2.gif神の栄光-真に重いもの-

 最近の若者がなぜわざわざ面倒なことをして茶髪にするのか、黒い髪では「重い」のだそうだ。茶髪とは要するに、ヨーロッパの人たちの髪の色の真似であり、江戸時代が終わってから百三十年以上を経てもなお、ヨーロッパの真似をしなければ落ち着けないような心理がある。
 「重い」ものをさけて、ますます軽くなる現代の風潮の一つがこうした茶髪の増大にも現れている。書物にしても、字のつまった書物、古典といわれる内容の重厚なものなどは、大多数の若者には読まれていない。今から半世紀以上以前には、岩波文庫のような細かい字のぎっしり詰まった本が若者の愛読書であったことを考えると、この半世紀の間の、軽いものへの流れの甚だしさに驚かされる。
 政治も軽く、歌謡曲のような大衆的な音楽もますます軽く、若者向けの雑誌や週刊誌なども重みの感じられないような、娯楽や服飾、食事、異性問題やスポーツ関連記事などで埋まっている。
 こうした軽い方向へとすべてが流されていくように見えるただなかで、聖書だけは数千年前と変わらない内容の重みをもったまま、読まれ続けている。その内容がごく一部しか理解できなくとも、それでも全世界では圧倒的なベストセラーであり続けている。
 聖書ほど重い内容はない。愛とは、正義とは、生きる目的とは、罪とは、裁きとは何か、また命とは何か、死とは、歴史とは創造とは、そして世界の終わりにはどうなるのか…等々の古代から最も深遠な思想家や宗教が問題にしてきたことがぎっしり詰まっているのである。
 たった一言がある人の生涯を変えていくほどに、聖書の内容は力あり、重みがある。
それはどうしてなのか、この世界、宇宙のすべてを創造されて今も維持されている神ご自身がそこに存在しておられるからである。万物の創造者である、神の「重み」は全宇宙より重い。
 栄光という言葉がある。この言葉は、旧約聖書の出エジプト記や詩編、イザヤ書、エゼキエル書などにとくに多く現れる。
*この栄光という言葉の原語(ヘブル語)は、カーボードという。この言葉の形容詞や動詞の形は、カーベードであるが、この言葉の原意は、「重い」という意味を持つ。**

*)この原語とその関連語は旧約聖書全体では、367回現れ、そのうち、詩編では64回、イザヤ書63回、出エジプト記33回、エゼキエル書25回などと、一部の書物に特別に多く用いられている。(Theologiocal Word Book Of The Old Testament 426Pによる)こうした使われ方は、詩編やイザヤ書のような詩的な書物ではとくに神の栄光、神の霊的な重みを実感することが多かったこと、エゼキエル書はことに霊的な啓示の多い書物なので神の栄光を強く示されたのだと考えられる。
**)彼は老いて、(太っていて)重かったからである。(サムエル記上四・18)この「重い」という言葉の原語は「カーベード」である。


 澄み切った大空、夜空のきらめく星を見つめ、宇宙へと心を向けるとき、はるか古代から一部の人はそこに神の重みを実感していた。人間においても子供や、大人であっても精神的に浅い人間は、軽く感じる。他方、人生の中で幾多の苦しみや困難を乗り越えてきた人には独特の重みを感じさせるものがある。
 そのような重みの背後にある、究極的な存在こそは、あらゆる深い経験や苦しみの彼方にある神ご自身であり、この世界や宇宙全体を創造された神はまことに何よりも重い存在である。命は地球より重いと言われることがあるが、地球どころか全宇宙そのものより重い存在、すべての人間の命を集めたものよりはるかに重い存在が、それらを創造された神にほかならない。
 このゆえに、つぎのように旧約聖書の詩集(詩編)で最も有名な詩の一つが、神の重み(栄光)を歌っているのである。

天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう。(詩編一九編より)

 私たちの現代の言葉では、栄光と重みのあることとは全くといってよいほど関係していない。パウロのつぎの言葉も栄光と重みとが関連して述べられている。

わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれる。(Ⅱコリント四・17

 人間はいとも簡単に命を失う存在である。小さな鉄の球(弾丸)一発でも死ぬ。交通事故においても一瞬にして帰らぬ姿となってしまう。そのようなはかない、軽い存在であっても、神はここでパウロが述べているような、不滅のもの、永遠なる神の重み(栄光)を与えて下さるというのは、驚くべきことである。私たちが苦しみを神への信仰によって乗り越え、導かれていくとき、そこに神の栄光の世界がどこまでも広がっていることであろう。

 


st07_m2.gif小鳥への説教

 二千年にわたるキリスト教の歴史のなかでも、とりわけその影響力が大きく、多くの人に親しまれてきたキリスト者がいる。アウグスチヌスやマルチン・ルターなどはことに有名だが、ここで一部を紹介するフランシスコ*も世界中で広く知られている。彼は、特にキリストに似た人と言われるが、彼の言動を書いた、「小さき花」という書物にはさまざまの驚くべきことが書かれている。ここでは、そのうち十三世紀末の画家のジオットーも絵に書いた、有名な「小鳥への説教」を引用する。**

……… フランシスコが道ばたの木を見ると、その地方では見たこともないほどのあらゆる種類の小鳥の大群が見えた。木の下の地面にもたくさんいた。
 彼はこの小烏の大群を見ると、神の霊にみたされて、弟子たちに『ここで待っていなさい、あそこへ行って兄弟の小烏たちに説教したいから』といった。彼は地面の小鳥たちの方へ行った。
 彼が説教を始めると、木の枝にとまっていた小鳥たちは飛び下り、彼の周りに群れ、その衣にも触れたが、じっと動かなかった……。
 フランシスコは小烏たちに話した。
『わたしの兄弟である小鳥たちよ!お前たちは神に感謝せねばならず、いつどこでも神をほめたたえねばならない。というのは、お前たちはどこへでも飛んでゆけ、二、三枚の服、色もきれいな服装、働かなくともえられる餌、創造主のたまものである美しい歌声に、恵まれているのだから。
 お前たちは種をまかず、刈り入れもしないが、神はお前たちを養い、水を飲むための河や泉、身を隠すべき山や丘、岩や絶壁、巣をつくる高い木を与え、お前たちはつむがず、織らないが、神はお前たちや子鳥たちに必要な服を与える。
 創造主がお前たちをたいせつにされたのは、お前たちを愛している証拠である。だから、わたしの兄弟である小鳥たちよ、恩を忘れずに、いつも熱心に神をたたえなさい!」
 小鳥たちはみんなくちばしをあけ、はばたき、首をのばし、小さい頭をうやうやしく下げて、さえずり体を動かしながら、フランシスコのことばを喜んでいることを示した。
 フランシスコはそれを見て心満たされて喜び、小鳥の数がおびただしいこと、美しさ、様々の種類があること、親しみ深さに驚嘆した。
 それから彼は、鳥たちとともに創造主(神)を熱心に讃美した。そしてフランシスコは、小鳥たちに創造主をたたえるように、やさしく勧めた。さて、それがすむと、彼は小鳥たちの上に十字を切って祝福した。すると、小鳥は驚くべき
***歌を歌いながら飛び去っていった。………
 このような記事を見ても、現代の多くの人はなにも感じないで、小鳥に説教するなどということはあり得ないと思ってしまうかもしれない。
 この小鳥への説教はどのような文脈で書かれているかというと、フランシスコは、自分は祈りに集中すべきか、それとも折々に福音を説教すべきかということで、なかなか神の指示を受けることができなかった。そこで、彼ほどの深い祈りの人であったにもかかわらず、信頼する他者の祈りによって決めたいと願った。それは一人の姉妹クララと兄弟シルベストロであり、ともに祈りにおいて深い力をもった人であった。彼らにこのことを祈って神からの答えを求めると、兄弟シルベストロは、すぐにひれ伏して祈って神の言葉を求めたところ、「神がフランシスコを呼びだしたのは、彼自身のためでなく、彼に他の人の魂を得させるため、すなわち多くの人がフランシスコによって救われるためである」との、神からの言葉を与えられた。姉妹クララも同様の答えであった。
 このことによってフランシスコは、町々へと出かけていき、そこで神の言葉を宣べ伝えるようになったのであった。
 この小鳥への説教は、そのような伝道のために歩き続けていく途中の出来事であった。
 キリストの福音は、人間だけでなく、小鳥にも通じる力を持っていること、フランシスコのような特別に選ばれた人間には、人間以外の動物をも動かす力を与えられていたことがわかる。
 小鳥たちにも通じるということ、それはキリストの福音がどんな人間にも通じうることをも暗示している。その内容自体がどれほど理解できるかということでなく、福音が持っている霊的な力はどんな人にも働きかけ、影響を及ぼすということが暗示されている。
 また、フランシスコは神への讃美をつねに重んじていたが、その心が小鳥たちにも通じて、フランシスコからキリストの福音を聞いた小鳥は、「驚くべき、素晴らしい歌」を歌いつつ、大空へと舞い上がっていった。この小鳥たちの姿は、そのままフランシスコ自身のことでもあった。彼は生きて働いておられるキリストからの福音を聞いてから、それまでの物質的な富への執着が消え去って、神とキリストの無限の豊かさ、愛を歌い続けて天へと飛びかける魂となったからである。
 私たちも、キリストの福音を聞き、本当にキリストの愛に触れたときには、そのことの比類のない力を感じて讃美せざるを得なくなる。
 ここに出てくる小鳥のように讃美しつつ、神の国、天へと飛びかけるものでありたい。

*)一一八二年に、イタリアの首都ローマの北の小さい町アシジで生まれた。そのため、アシジのフランシスコと言われる。フランシスコは、イタリア語の発音では、フランチェスコとなる。カトリックでは「聖」をつけて聖フランシスコというが、プロテスタントでは、人間はどのような人も罪人であり、特別な存在でない。みんな同じような存在であり、神を父と仰ぐ「兄弟、姉妹」であって、本来は特別な敬称を付けるべきでないので、どのような人にも、「聖」という呼称をつけるべきでないという考え方が生じてくる。だから「聖フランシスコ」というようには言わない。
 なお、このフランシスコの名前をとったアメリカのカリフォルニア州にある大都市が、サン・フランシスコ(聖フランシスコという意味)である。
**)ここに引用したのは、ヨハンネス・ヨクゲンセン著「アシジの聖フランシスコ」と、フランシスコの弟子(フランシスコ会の無名の修道士)の書いた「小さき花」の二つを元にして引用した。
***)イタリア語の原文では、maraviglioso という語が小鳥の歌について二回用いられており、小鳥の歌が驚くべきものであったことが強調されている。英語のmarvelos にあたる語で驚くべき、不思議な、素晴らしいなどの意味を持っている。

 


st07_m2.gif備えられる神

 旧約聖書で最も重要な人物の一人がアブラハムである。アブラハムは旧約聖書を教典とするユダヤ教においても、モーセとともに最も重要な人物であるが、イスラム教にとっても、彼らの信仰の模範がアブラハムなのであって、そういう点からみると、現在も全世界にその影響を及ぼしているほどに重要な人物なのである。
 そのような特別に神に召された人物であるアブラハムについては旧約聖書に詳しく記されていて、後世の人間がどのようにアブラハムの信仰から学ぶべきかが浮かび上がってくるようになっている。
 ここでは彼に生じた出来事のうち、とくに備えをされる神ということについて見てみよう。 
 アブラハムの生涯にはさまざまのことが生じた。それらはつねに何らかの試練でもあった。まず、生まれ故郷を離れて、遠い未知の国、神が指し示す国に行けという神の言葉に従うことがそうしたさまざまの試練の出発点となっている。
 ようやくたどり着いた目的地において生活していてが、食料がなくなり、その地では生きていけない状態となった。そのために、遠いエジプトまで行き、そこでは自分の命の安全が保証されないという恐れのために、妻を妹と欺いて、エジプト王に妻を差し出して、窮地を逃れようとした。そのようなことをすれば、神の約束などすべて無にしてしまうことであったので、神みずからがアブラハムの弱さを顧みてその困難から救い出したのであった。
 また、他のところから攻めてきた連合軍に自分の甥であったロトとその親族が連れ去られてしまったが、その連合軍を追跡して戦いとなり、彼らを取り戻したこともあった。
 しかし、そのロトの住むソドムとゴモラの町が滅びることを知り、その町のために必死でとりなしの祈りをささげた。
 さらに、家庭の問題で悩み、ハガルを追い出したこともあった。
 自分たちが老年になるまで、子供が与えられず、神がかつてあなたの子孫は空の星のようになるとの約束がいくら待っても実現されないため、全くあきらめてしまっていた。
 しかし、驚くべきことに神の約束は実現してすでに老年になっていたアブラハム夫妻に一人子が与えられた。
 これは、神の御計画が実現するまでに、待つということがいかに重要であるかを示している出来事であった。そうした過程を通じて、アブラハムは、自分の弱さと限界、神の大いなる導きを学んできた。
 アブラハムが受ける神からの祝福は、彼ら自身が祝福の基となり、生まれる子供も星のように増え広がるということであった。
 しかしその一人子を神に捧げよとの命令が神からあった。老年になってやっと与えられた子供を神に犠牲の動物のように捧げるなどということがどうして神からの命令なのか、アブラハムは驚き、苦しみつつ神からの命令をどうすべきか夜通し苦しみ続けたであろう。
 しかしそうした長い苦しみののちに、まぎれもない神の言葉であることを思い、アブラハムはその神の言葉に従って、一人息子のイサクを連れて、神から示された土地へと旅立っていった。
 しかし、それほど大きな出来事であって、妻のサラも自分の子供が犠牲の動物のように捧げられようとしていることに対してどのように言ったのか、あるいは、アブラハムは妻にはこのことを話さなかったのか、それは全く記されてはいない。
 妻にはどう言って、イサクを連れ、従者も連れて遠い旅に出ることを話したのだろうか。
途中、三日もかかるような遠いところであった。そこまでの行程でアブラハムと子供との会話も記されていない。ただ、神の謎のような言葉の意味を深く思いつつ、祈りつつ歩いて行ったのであろう。
 神はこのように、全く人間には不可解なこと、しかも最も大切なものを奪うというようなことをされることがある。
 神が示した土地にようやく着いて、アブラハムがいよいよイサクを捧げようとしたそのときに、神が天使を通して備えられた羊が与えられた。
 この大いなる出来事のゆえに、アブラハムはそのことを場所に名前を付けることによって、記念した。

アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり」と言っている。(創世記二十二・14

 これは単にアブラハムに生じたことでなく、以後の無数の神を信じて生きる人々に対しての大きな約束となったのであった。
 アブラハムの場合はぎりぎりのところで神の奇跡がなされて、備えがあったのがわかる。しかし実際には、そのような大事なものを神が取り去ることも多くある。そのようなことを通して、神は祝福を与えられる。その大切なものが取り去られることがあっても、その場合には必ず別のものが「備え」として与えられる。
 悲しむ者は幸だ、その者は神からの励まし、慰めを受けると、約束され、心の貧しい者は天の国がその人のものとなると約束されている通りである。それは愛するものが奪い去られることがあろうとも、何よりもよい、天の国が与えられる(備えられる)という約束なのである。
 大切なものが失われるとき、私たちの心は自分の力がいかに無力であったかを思い知らされ、それまでの心の高ぶりとか誇りなどは打ち砕かれる。そこに「心の貧しさ」が訪れる。そうしてそのような心の貧しい者に神は、最大のよいものである天の国がその人のものであると言われたのであった。
 神は備えたもう、聖書に記されている神はたとえ大切なものが失われても、それにかわる必要なものを必ず備えてくださる神なのである。
 ここでは、信仰がどこまでも深まっていくとはどういうことか、また、その信仰の歩みに応じて与えられる神の備えとは何かが言われている。
 それは決して自分が人間的な気持ちから求めるものが与えられるということでなく、かえってそれを差し出さねばならないことが生じること、しかしそのようにして大切なものをお返しして初めて本当に重要なものを知らされ、与えられるということが示されている。
 キリストも命すら神にお返しした。そこから復活の命を与えられ、それが全人類に祝福の源となった。私たちが大切なものをお返しせねばならない事態になったとき、それは神がいっそう私たちを祝福の源にしようとされる前触れなのである。 
「ヤハウエ・イルエ」とは「ヤハウエは備えたもう」という意味である。
「神は備えたもう」ということは、実は旧約聖書の最初から見られる。聖書の最初の書物である、創世記にはエデンの園というのがある。そこには見てよく、食べてよいあらゆる果実が備わっていた。神は本来そのように人間に必要なものをすべてを備えていてくださるのである。しかし、アダムとエバが自分たちの罪によって神の戒めを破り、そこから追放された。そのようになるまでは神はすべてを備えておられたのであった。
 神の備えを人間の方から断ってしまったというのがわかる。
 ということは、人間が神の備えを心から感謝して受けようとするときには、神はエデンの園に見られたような豊富な備えをもって私たちを養ってくださるということになる。
 聖書においては、アブラハムの記事から始まって「備えてくださる神」のことは随所で見られる。
 モーセはアブラハム以上に重んじられている人物であろう。そのモーセは自分の力では同胞を救うことも全くできず、かえって自分の命が失われる危険に落ち込むことがわかった。その経験からだいぶ経て、結婚し、平和な生活を送っていたがそのモーセに、エジプトにいる同胞を救い出せとの命令が与えられた。そのような状況にあって、モーセは一人の羊飼いにすぎないのであって、いかにして大国のエジプトに行ってそこでたくさんの同胞を救い出せるのか、武力もない、部下となる人間もいない、たった一人でどうやって何万もの人々を救い出せるだろうか。まったくこのように何一つない状況のなかで、神はモーセを呼び出したのであった。
 しかし、神はまことに備えをされる神である。まず、モーセがエジプトに行っても、エジプト人や王に対して、口が重く語ることができないと言えば、モーセの兄のアロンをモーセの口のかわりにと備えられた。そして、それ以後も、何一つ持たないモーセにたいして、驚くべき奇跡を行う力を与え、荒野を四〇年もの間、導くだけの力を与えたのであった。エジプトを出てもシナイ半島は全くの砂漠であって、そこには水も食料もなかった。
そのような何一つない状況にあって、神が食物を備え、水を備えて人々は命をつなぐことができたのであった。
 このモーセの召命と砂漠での危険に満ちた長い旅は、何一つなくとも、神への信仰のみで神が備えられるという信じがたいようなことを後世の人々に証言することになった。
 こうした備えをされる神は、現代の私たちには驚くべきことである。人間の判断で備えをするのだ、それには金が何より必要だという発想に浸(ひた)されて育ったのが現代人なのである。
 こうした神の備えをしてくださる本質は、新約聖書の時代、キリストに至っていっそう明確となった。それは、主イエスの教えの根本はつぎのようなことであったからである。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
だから、明日のことまで思い悩むな。
明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の苦労は、その日だけで十分である。(マタイ福音書六・3334

 「これらのもの」とは、衣食住の必要なものということである。人間はまず真実な神のこと、神のご意志を求めて生きることが根本だ、その精神があれば、必ず必要なものは備えられるという約束である。
 明日のことも、神に委ねて思い悩むことはない、それよりもまず神の国と神の義を求めて生きることこそが大切なのだと言われている。
 この主イエスによる明確な備えの約束は、どこまでも及ぶ。それは死んだら何もなくなるという日本人の大多数の持っている考え方にも真っ向から挑戦するものといえよう。
 死んだ後は、人間がいろいろの供養とかをして、カミになっていく道を備えるというのが、伝統的な宗教の言うところである。しかし、そのような備えの仕方は、古代の迷信的な宗教が、本来ならば消えていくべきであったにもかかわらず、宗教に関わる人間の根深い金への欲望(戒名に高額の金を要求するなど)と、そうしたことをしないとたたってくるなどという周囲の人間の思惑によって造られてきたものである。
 主イエスはこうした備えでなく、神ご自身が、神を信じて召された者には、天の国に備えをしてくださっていることを告げられた。
 それは復活ということであり、霊のからだである。こうしていかなる貧しい者も、事故や思いがけない病気などで死んでいくものも、孤独のうちに死する者もみんな、完全な備えがなされていることになった。
 そしてさらに、この世の終わりにも、キリストの再臨と新しい天と地が備えられるという、壮大な備えが約束されている。
 人間が生きるとは、生まれてからすべては何らかの意味で将来のための備えをしていると言えよう。国家的にも政治とはそのような将来の備えをいかにしていくか、経済や軍事防衛、人口問題、環境問題、教育問題、医療等などすべてはそうしたことのためである。
 しかしそうしたことがかえって備えにならず、危険を生み出すことになる場合すらある。
軍事や防衛のために巨額の費用を使って武力の増強に努めることを、将来の備えと称し、備えあれば憂いなしというような日本の首相のような人間が多い。そのようなことをするから世界的にかえって軍事的緊張が増して、莫大な費用を使って武力を増大させ、紛争が生じるのである。それは備えどころか、足もとを揺るがすようなことであるのに、そのことが見えないのである。
 このような政治的、社会的な備えの仕方の間違いを洞察するためにも、一人一人の人間がまず、神による備えを実感することが求められている。私たちは日々の生活でまさにそうした備えを切実に求めているのである。それに気が付いていない人もあるが、その人間的な備えのために日々心配し、苦しんでいるというのが多数の人間の現状である。
 私たちの一番身近な備え、それは苦しみのとき、無気力になるようなとき、他人からの誤解や中傷、差別、あるいは病気などのときに、それにうち勝つ力である。私たちの心が萎えてしまうようなときに、私たちを立ち上がらせる力こそ、私たちにとって日々の備えなのである。
 備えられる神、それは私たちの日々の祈りによってそのことが実感される。キリスト者とはその心のかたわらに「祈り」といういわば万能の備えを持っている者といえよう。

 


st07_m2.gif新しいことを

 神は万物を創造されたお方であり、周囲の自然の風物を見てもわかるが、無限の多様性をもっておられる。道ばたの雑草といわれる野草たちの一つ一つを手に取って観察すれば、それがいかに複雑な仕組みを持っているかに驚かされる。また、毎日見られる雲の形や動き一つとっても、無数の変化ある形が日々に大空に現れる。
 神はたえず新しいものを創造される。その神からのインスピレーションによって、無数の作曲家たちが次々と起こされ、新しい音楽が生み出されてきた。絵画や文学などの方面も同様であり、科学技術で生み出されたものも同様に実に変化に富んでいる。そうしたすべての源が神であるから、神はいくらでも新しいものを生み出す力を持っておられるのが実感できる。
 実際、聖書にはそのような神のわざが随所に書かれてあるが、どのような事態になってもそこから新しいことをなされ、人々に絶望や悲嘆、意気消沈のただなかから、その新しく開かれた道を指し示し、実際に救いを与えてこられた。
 旧約聖書にはすでにそのような神のわざが数多く記されている。

見よ、新しいことをわたしは行う!
今や、それは芽生えている。
あなたたちはそれを悟らないのか。
わたしは荒れ野に道をつくり、砂漠に川を流れさせる。(イザヤ書四三・19

 かつて、モーセは神の指示により、神の力によって海のなかに水を作って民を導いたことがあった。そのようにいかに道がないところであっても、神は新しい道を開かれる。
 神に背き続けた結果、国は滅ぼされ、その中心であった神殿も破壊され、焼き払われた。そのとき、多くの人々は遠いバビロン(現在のイラク地方にあたる)に捕囚として連行された。
 それから半世紀を経て、バビロンにて捕囚となっていた人々が、イスラエルの地に帰ってくることができるようになった。それは、モーセの出エジプト記から、八〇〇年ほども後のことである。ここに引用したのは、その時に告げられた神からの言葉の一節である。
 砂漠を越えてはるかな遠い所へと多数の人が五〇年ぶりに帰っていく。そこには不安があり、恐れがあり、途中の生活や目的地に着いたとしてもそこでの生活に大きな心配がつきまとっていた。
 そうした状況のなかで、神は新しいことをなされるというメッセージが告げられたのである。人間的な判断によっては、いかなる道もない、ただ絶望的な状況しかなく不安あるのみという事態のなかであっても神はつねに新しいことをなされる。その新しいこととは、本来道もなく、水もない砂漠に道を造り、川を流れさせるということであった。
 このことは、この書物が書かれて二五〇〇年ほども歳月が過ぎ去った現在の私たちに対してもそのままあてはまる内容だとわかる。神が新しいことをされるというのは、単に珍しいことではない。ニュースのように時間的に新しいというのでない。それは、乾ききった私たちの心のただなかにいのちの水を流し、前途に向かって歩むべき道があることに目覚めさせるものである。
 誰でも水がなかったら渇きで死んでしまう。そうした「死」によって人間は、感動する心を失い、良きものへの憧憬をなくし、清いものに喜びを感じる心が消えて、逆に汚れたものに快楽を求めようとするほどになる。しかし、そこに神が新しいわざをなされるとき、私たちはよみがえり、永遠の道そのものである主イエスが内に住んでくださる。 人間の心は砂漠のように、いのちの水がなく、道もない。それは、真理を愛することができず、人への真実な愛もなく、少しのことで腹を立てたり、憎んだりねたんだりしてしまうことからもわかる。そして大多数の人が生涯を通じて見つめるべき道も分からないままとなっている。
 しかし神はそこに、泉をつくり、命の水を流し、川のように流れさせる。そのことを少しでも体験した者は、そのことに永続的な驚きと感謝を覚えるようになり、そのような不思議をされる神への讃美がおのずから生まれる。

新しい歌を主に向かって歌え。
地の果てから主の栄誉を歌え。
海に漕ぎ出す者、海に満ちるもの、島々とそこに住む者よ。
荒れ野とその町々よ。…村々よ、呼ばわれ。岩山に住む者よ、喜び歌え。山々の頂か
ら叫び声をあげよ。
主に栄光を帰し、主の栄誉を島々に告げ知らせよ。
(イザヤ書四二・1012より)
 
 地の果てにいる人たち、さらに島々に住み、また各地の町や村そして、山々からも神の栄光をたたえ、神がなされることへの新しい歌を歌おうと呼びかけられている。ここには海と陸、砂漠とオアシスなどが言及され、それは全世界の人々に呼びかけられていることを示している。それほどこの真理は特定の民族とか場所に限られることでなく、あらゆる地方のどんな人にも実現していく真理であるからだ。
 神の本当のはたらき、その御業を知らされるときには、どのような存在も新しい心にされ、神への感謝と讃美がおのずからわき起こるのである。
 このような霊的な新しさは、このイザヤ書では預言的に言われており、その実現ははるか未来のこととして言われている。
 そしてイザヤの預言が実現するのは、数百年も後のキリストの時代であった。
それゆえ新約聖書には、キリストによる新しい創造、魂が新しくされるということが多く記されている。

キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのである。
古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。(Ⅱコリント五・17

 このように、聖書は旧約聖書から新約聖書の双方にわたって、一貫して新しい世界がもたらされることを強調している。まだ、神を知らない者をもアブラハムのように、神ご自身が招き、そこに数々の新しいことを起こしていっそう神への信仰が深まるように導かれる。キリストの十二弟子たちも、主イエスご自身が神の国のことなどに無関心であった漁師や取税人のような人たちを招かれた。さらに、パウロのように背いているものをも直接に呼びかけ、招いてみずからの弟子とされた。
 共通しているのは、そのようにして招かれた者には、神(主イエス)ご自身がさらに新しいことをなされるということである。その人に神の言葉を与え、聖なる霊を注ぎ、新しく創造される。新しく造られた者は、さらに真理の世界へと限りなく歩みを続けていくので、絶えず学びを愛するようになる。新しく聖霊が注がれるときには、つねにどのような単調な生活といえども、そこに大きな意味を感じるようなる。
 はじめに引用したように、神は私たちに対してたえず新しいことを創造されているのである。

もう以前のことは考えるな。
過ぎ去ったことを顧みるな。
見よ、私は新しいことを行う!  
それはすでに芽生えているのだ。
あなた方もそれに気付くであろう。 

 この箇所についてある注解書はつぎのように述べている。
「教義的に固まった信仰がある。それは、新しいことを今も神は、本当に実現されるのだと信じて希望を持つことが全くできなくなっているような信仰である。そのような信仰は、何であれ非常に危険なのである。」(ATD「ドイツ旧約聖書注解」イザヤ書) 
 神への信仰があるといっても、たんに機械的に信仰箇条を唱えて信じているだけであるような信仰はかえって危険であるというのである。なぜなら聖書に現れる神とは本質的にたえず新しいことをなす神、創造の神、導く神であるからだ。信じる一人一人の中に住み、その一人一人に霊的に新しいことをされる神なのである。それは新しい感動であり、新しい道であり、新しい発想であり、新しい意味の発見であり、新しく働きかける相手を見いだすことであり、新しい人との出会い…等などである。主イエスからのいのちの水を注がれた者は、内部に一種の泉を頂いたようなものであり、そこから絶えずそうした新しいものがわき出てくる。

わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。
更にわたしは、聖なる都が…神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。(黙示録二十一章1~2より)

 地上にある間からすでに私たち一人一人に働いて新しい世界へと導く神は、究極的には万物を新しくされるという約束が聖書の最後の部分で記されている。このようにキリスト者の歩みは、地上においてまたその死後も含めてどこまでも、神による新しい創造の道を歩んでいくと約束されているのである。

 


st07_m2.gifことば

133)神の御心にかなうならば、ただその場所にとどまっているだけで、彼らは勝利を収め、み心に逆らって戦った場合には必ず敗北したのである。(フラウィウス・ヨセフス著「ユダヤ戦記第五巻」九)

・聖書に記されている戦いに関する基本的な考え方は、ここに引用したように、私たちが神に結びついているとき、神が戦ってくださるということである。現代の私たちの戦いは、パウロが教えているように、目に見える人間が相手でなく、目には見えない悪(悪の霊)との戦いである。そしてその場合も、この言葉にあるように、人間的な手段を揃えることでなく、神を信じて委ねていく時、神ご自身が戦ってくださる。主イエスが、「わた
しにつながっていなければ、あなた方は何一つできない。私にぶどうの木の枝のようにつながっているとき、豊かに実をむすぶ」と言われたことも同じような意味を持っている。

134)真理が天の星のように見えた。(ダンテ「神曲」天国編第二八歌より)

・神の啓示あるいは真理の象徴的な存在である、ベアトリーチェによる説き明かしを聞いたとき、ダンテの気持ちはこのようであったという。聖書という書物自体が、この世において闇のなかに輝く星のようなものである。キリストの存在も同様であって、私たちがキリストを信じている限り、その人の魂の内にあって、星のような存在であり続けるであろう。星はいかに地上世界が戦乱や病気、悪で覆われようとも決してその輝きを止めることはない。同様に、神の真理もキリストも人間世界のあらゆる混乱や動揺にも関わらず、星のようにその輝きを続けている。

135)キリスト教の極致
 「キリストは今なお活きて、われらと共におられる」、キリスト教の極致はこれである。
キリストがもし単に歴史的人物にすぎないのなら、キリスト教の教える倫理はいかに美しく、その教義はいかに深くとも、そのすべては空の空にすぎない。
 キリストが今なお生きておられないならば、われらは今日直ちにキリスト教を棄ててもよい。キリスト教の存在は、ひとえにキリストが今も活きておられるかどうかにかかっている。(内村鑑三・「聖書の研究」一九〇八年二月号」)

・キリスト教という宗教を、その「キリスト教」という名前の故に単に昔のキリストの教えを教訓としている宗教だと思っている人は実に多い。しかし、これは、仏教とか儒教とかいう中国の表現をそのまま取り入れたにすぎないのであり、キリスト教といわれる宗教は、そのような単なる教えでなく、内村が述べているように、日々生きて働くキリストに導かれ、力を与えられて、自分の罪赦され、神の愛を実感しつつ生きることである。

 


st07_m2.gif休憩室

○沈黙のなかで
 七月から八月は平地や低山では最も野草や樹木などの花は少ない季節です。山は緑一色で、ふつうの山道にもほとんど花を咲かせる野草は見あたりません。しかしそうした季節は、その緑の葉の内で、たくさんの日光の光を受けて、デンプンが造られています。そのデンプンによって、つぎの世代のための実をつくり、幹を伸ばし、太らせて成長していくための材料も造られているのです。その沈黙のなかにも、葉の内部を見るならば、光による複雑な化学合成や分解などの化学反応が日夜活発に行われているわけです。そしてそれらの葉も秋になると多くは枯れて地上に落ち、今度は無数のバクテリアの食物となっていき、葉に含まれていたミネラルはふたたび植物の肥料ともなっていきます。
 自然は片時も休むことなく、何も変化のないようなときでも、つねに働いているのがわかります。こうした働きの背後につねに今も働き、創造を続けておられる神がおられます。主イエスも「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」と言われています。(ヨハネ福音書五・17)私たちの心の内に、そのような主イエスが住んでくださるとき、私たちもたえず、神の国のために働く者と変えられていきます。それは病床にある人も共通です。ベッドで周りの人のために、祈ることも、神の国のための霊的な働きだからです。

○夏には花などは少なくなるけれども、そのかわりに日本ではセミがたくさん鳴き始めます。ヨーロッパの国々では雨量も少なく、昆虫類は日本よりはるかに少なく、セミもあまり見られないところが多く、日本に来てセミのコーラスを耳にすると何という鳥が鳴いているのかと不思議がるといいます。
 樹木の沈黙あり、セミのコーラスあり、緑の海あり、また涼しげな渓谷の流れの音あり、夏の山道もまた、神のはたらきを知らされる場となっています。

○夏の夜空を眺める機会は多くあります。夏は夜の涼しさを求めて野外に出ることが多いからです。そして夏の夜空といえば、天の川と、それにまつわる織女星(しょくじょせい・こと座の一等星ベガ)、牽牛星(けんぎゅうせい・わし座の一等星アルタイル)が知られています。
 しかし、最近ではその天の川を見たことがないという人が多数を占めるようになっています。都会に住む「はこ舟」のある読者が、天の川を見たいと書いておられました。夏の星座を知っている人なら、さきほどあげたこと座のベガや白鳥座のデネブという一等星や鷲座のアルタイルという星を見つけて、さらに南の空に見えるさそり座の一等星であるアンタレスをつなぐあたりに、白く見えるのですぐに見付かります。
 都会でなければ、これらの一等星はすぐに見付かりますからそれらの背後にある天の川もわかります。この天の川を見ていて思うのは、つまらないたなばた伝説などでなく、大空の広大さです。光の速さはよく知られているように、一秒間に三〇万キロ、一年では、九兆四六〇〇億キロメートルも進みます。しかし、天の川として見ることができる私たちの銀河系宇宙は、その直径がその速い光でも十万年もかかるほどの距離です。
そして最も銀河系に近いとなりのよく似た星雲であるアンドロメダ星雲は、地球から光が二百三十万年もかかって到達できるほどの距離なのです。そしてこのような星雲が宇宙には数知れずあるというのですから、その広大さは私たちの想像をはるかに越えています。天の川を見つめていると、そのような宇宙の広大無辺の一端に触れているのを感じて、神の創造の無限の大きさに驚嘆します。そしてそのような大いなる神が、宇宙の広大さに比べるとゼロに等しいような小さな一人一人の悩みや苦しみをもわかって導いて下さるということに、さらに驚かされるのです。