20028月 第499号・内容・もくじ

リストボタン神の心と戦争

リストボタン主の山に備えあり

リストボタン目に見えない力-キリスト教における聖なる霊-

リストボタンことば

リストボタン休憩室

リストボタン返舟だより


st07_m2.gif神の心と戦争

 八月は第二次世界大戦を思い出す。日本はもう半世紀以上、他の国に武力攻撃をして殺傷するということはなかった。それは平和憲法のおかげであった。いっさいの戦力を持たないという規定が現在では、世界のトップクラスの兵力を持つ自衛隊を持つ状態となっている。
 聖書の思想は単純率直である。戦争は人を殺すことであり、それは最大の悪である。愛とは生かそうとする心であるが、戦争の思想は敵を徹底的に殺そうとする。キリストは、たった一人の傷ついた者をも生かそうとするのに、戦争は何千、何万という人たちを平気で、傷つけ、その生涯を破壊していく。
 すでに旧約聖書から、神の心は弱い者、傷ついた者をいつくしまれることが記されている。

わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。わたしはわが霊を彼に与えた。
彼は国々の人々に道をしめす。
彼は…傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。(イザヤ書四十一・13より)

 そして主イエスはどのような使命をもって地上に来られたのかについては次のように記されている。

暗闇に住む民は大きな光を見、
死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。(マタイ福音書四・16

 キリストは暗闇に住む民にかつてない永遠の光を与え、死に瀕する人たちには生きる希望と力を与えるために来られたのである。
 しかし、戦争とは、まさに無数の人たちを暗闇に投げ込み、平和な生活を送っていた者たちをも死の苦しみへと突き落とすものに他ならない。

 さらに、次の箇所を見てみよう。これはキリストが何のためにこの世に来られたかを説明している箇所である。

目の見えない人は見え、
足の不自由な人は歩き、
ハンセン病(*)を患っている人は清くなり、
耳の聞こえない人は聞こえ
死者は生き返り、
貧しい人は福音を告げ知らされている。(マタイ福音書十一・5

*)従来は、「らい病」と訳されていたが、最近ではこの病名は使われなくなったので、「重い皮膚病」とも訳されている。しかし、単に重い皮膚病のためにキリストは来られたのでない。それならなぜ、ほかにもいくらでも重い病気はあるのになぜ、皮膚病だけ重いものが取り上げられているのかが説明できなくなる。当時は社会的にも見捨てられ、汚れた者とされて顧みられなかった最も恐ろしい病気としてのハンセン病の人のいやしのために主イエスが来られたのである。

 キリストはこうした最も圧迫されている人たち、苦しみや悲しみのただなかで打ちひしがれている人たちを助けるために来られたのであった。
 こうしたすべてを考えるとき、武力をもってする戦争というのは、見える人の目をつぶし、元気な人の手足を砕き、生きた人を殺し、自然や産業を破壊して人々を貧困のただなかへと突き落とすものとなるのであって、キリストのお心とは全く正反対のものであることが明確になる。聖書を片手にしてこともあろうに、報復の戦争を「聖戦」だ、などというアメリカの大統領や彼に盲従する人たちは、全く聖書を知らない者の言うことと同じなのである。
 「あなたの敵のために祈れ、報復は私のすることである。」というのが、神とキリストのお心であるのが、聖書から明確になってくる。
 
 しかし、現代の日本の状況を見ても、単に戦争がないだけでは人間の心は神のお心にやはりそぐわないものとなっていくことを知らされる。人間はもともと、罪深いものであって、そのままでは戦争がなくとも、別の悪の力に引っ張られていくのである。
 日本が戦争をしなくなって、五十年以上が過ぎた。しかしその間、人間の心はより一層清く、心は神のお心にかなうような真実な状態になってきただろうか。本当の清い愛が深まったであろうか。
 大多数の人たちの見るところでは、そのようなことは全く見られない。むしろ逆に退廃的になったり、虚弱な精神になりつつある。
 戦争は悪のあらゆる総合物であり、あらゆる堕落と退廃が伴う。他方、何も戦争がなくも、人間精神は落ちていくのである。
 こうした双方の危険性をキリストははっきりと知っておられた。私たちが「まず、神の国と神の義を求め」、神から聖なる霊を与えられてそれに従って生きていくのでないかぎり、どのような状態であっても、いかなる国や制度においても、人間の精神は次第に汚れていくのである。
 外的な戦争は何としても生じないように、またその戦争に巻き込まれないように心せねばならない。それとともに、内的な悪との戦いはつねに生じているのであって、その戦いに負けるならば、その人間がすることは、最終的には崩れていく。
「私はすでに世に勝利している。」と宣言された主イエスの力を受け、従っていくことこそ、真の勝利への道であり、そのような人は決して武力による戦争などを支持しない。ここにこそ、外的そして内的なあらゆる戦いを終わらせる道があるのを知らされる。

 


st07_m2.gif主の山に備えあり

 旧約聖書で最も重要な人物の一人がアブラハムである。アブラハムは旧約聖書を教典とするユダヤ教においても、モーセとともに最も重要な人物であるが、イスラム教にとっても、彼らの信仰の模範がアブラハムなのであって、そういう点からみると、現在も全世界にその影響を及ぼしているほどに重要な人物なのである。
 そのような特別に神に召された人物であるアブラハムについては旧約聖書に詳しく記されていて、後世の人間がどのようにアブラハムの信仰から学ぶべきかが浮かび上がってくるようになっている。
 ここでは彼に生じた出来事のうち、とくに備えをされる神ということについて見てみよう。 
 アブラハムの生涯にはさまざまのことが生じた。それらはつねに何らかの試練でもあった。まず、生まれ故郷を離れて、遠い未知の国、神が指し示す国に行けという神の言葉に従うことがそうしたさまざまの試練の出発点となっている。
 ようやくたどり着いた目的地において生活していたが、食料がなくなり、その地では生きていけない状態となった。そのために、遠いエジプトまで行き、そこでは自分の命の安全が保証されないという恐れのために、妻を妹と欺いて、エジプト王に妻を差し出して、窮地を逃れようとした。そのようなことをすれば、神の約束などすべて無にしてしまうことであったので、神みずからがアブラハムの弱さを顧みてその困難から救い出したのであった。
 また、他のところから攻めてきた連合軍に自分の甥であったロトとその親族が連れ去られてしまったが、その連合軍を追跡して戦いとなり、彼らを取り戻したこともあった。
 しかし、そのロトの住むソドムとゴモラの町が滅びることを知り、その町のために必死でとりなしの祈りをささげた。
 さらに、家庭の問題で悩み、ハガルを追い出したこともあった。
 自分たちが老年になるまで、子供が与えられず、神がかつてあなたの子孫は空の星のようになるとの約束がいくら待っても実現されないため、全くあきらめてしまっていた。
 しかし、驚くべきことに神の約束は実現してすでに老年になっていたアブラハム夫妻に一人子が与えられた。
 これは、神の御計画が実現するまでに、待つということがいかに重要であるかを示している出来事であった。そうした過程を通じて、アブラハムは、自分の弱さと限界、神の大いなる導きを学んできた。
 アブラハムが受ける神からの祝福は、彼ら自身が祝福の基となり、生まれる子供も星のように増え広がるということであった。
 しかしその一人子を神に捧げよとの命令が神からあった。老年になってやっと与えられた子供を神に犠牲の動物のように捧げるなどということがどうして神からの命令なのか、アブラハムは驚き、神からの命令をどうすべきか夜通し苦しみ続けたであろう。
 しかしそうした長い苦しみののちに、まぎれもない神の言葉であることを思い、アブラハムはその神の言葉に従って、一人息子のイサクを連れて、神から示された土地へと旅立っていった。
 しかし、それほど大きな出来事であって、妻のサラも自分の子供が犠牲の動物のように捧げられようとしていることに対してどのように言ったのか、あるいは、アブラハムは妻にはこのことを話さなかったのか、それは全く記されてはいない。
 妻には、愛する一人息子であるイサクを連れ、従者も連れて遠い旅に出ることをどのように話したのだろうか。途中、三日もかかるような遠いところであった。そこまでの行程でアブラハムと子供との会話も記されていない。ただ、神の謎のような言葉の意味を深く思いつつ、祈りつつ歩いて行ったのであろう。
 神はこのように、全く人間には不可解なこと、しかも最も大切なものを奪うというようなことをされることがある。
 神が示した土地にようやく着いて、アブラハムがいよいよイサクを捧げようとしたそのときに、神が天使を通して備えられた羊が与えられた。
 この大いなる出来事のゆえに、アブラハムはそのことを場所に名前を付けることによって、記念した。

アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり」と言っている。(創世記二十二・14

 これは単にアブラハムに生じたことでなく、以後の無数の神を信じて生きる人々に対しての大きな約束となったのであった。
 アブラハムの場合はぎりぎりのところで神の奇跡がなされて、備えがあったのがわかる。しかし実際には、そのような大事なものを神が取り去ることも多くある。そのようなことを通して、神は祝福を与えられる。その大切なものが取り去られることがあっても、その場合には必ず別のものが「備え」として与えられる。
 「悲しむ者は幸だ、その者は神からの励まし、慰めを受ける」(マタイ福音書五章)と、約束され、心の貧しい者は天の国がその人のものとなると約束されている通りである。それは愛するものが奪い去られることがあろうとも、何よりもよい、天の国が与えられる(備えられる)という約束なのである。
 大切なものが失われるとき、私たちの心は自分の力がいかに無力であったかを思い知らされ、それまでの心の高ぶりとか誇りなどは打ち砕かれる。そこに「心の貧しさ」が訪れる。そうしてそのような心の貧しい者に神は、最大のよいものである天の国がその人のものであると言われたのであった。
 神は備えたもう、聖書に記されている神はたとえ大切なものが失われても、それにかわる必要なものを必ず備えてくださる神なのである。
 ここでは、信仰がどこまでも深まっていくとはどういうことか、また、その信仰の歩みに応じて与えられる神の備えとは何かが言われている。
 それは決して自分が人間的な気持ちから求めるものが与えられるということでなく、かえってそれを差し出さねばならないことが生じること、しかしそのようにして大切なものをお返しして初めて本当に重要なものを知らされ、与えられるということが示されている。
 キリストも命すら神にお返しした。そこから復活の命を与えられ、それが全人類に祝福の源となった。私たちが大切なものをお返しせねばならない事態になったとき、それは神がいっそう私たちを祝福の源にしようとされる前触れなのである。 
「ヤハウエ・イルエ」とは「ヤハウエは備えたもう」という意味である。
「神は備えたもう」ということは、実は旧約聖書の最初から見られる。聖書の最初の書物である、創世記にはエデンの園というのがある。そこには見てよく、食べてよいあらゆる果実が備わっていた。神は本来そのように人間に必要なものをすべてを備えていてくださるのである。しかし、アダムとエバが自分たちの罪によって神の戒めを破り、そこから追放された。そのようになるまでは神はすべてを備えておられたのであった。
 神の備えを人間の方から断ってしまったというのがわかる。
 ということは、人間が神の備えを心から感謝して受けようとするときには、神はエデンの園に見られたような豊富な備えをもって私たちを養ってくださるということになる。
 聖書においては、アブラハムの記事から始まって「備えてくださる神」のことは随所で見られる。
 モーセはアブラハム以上に重んじられている人物であろう。そのモーセは自分の力では同胞を救うことも全くできず、かえって自分の命が失われる危険に落ち込むことがわかった。その経験からだいぶ経て、結婚し、平和な生活を送っていたがそのモーセに、エジプトにいる同胞を救い出せとの命令が与えられた。そのような状況にあって、モーセは一人の羊飼いにすぎないのであって、いかにして大国のエジプトに行ってそこでたくさんの同胞を救い出せるのか、武力もない、部下となる人間もいない、たった一人でどうやって何万もの人々を救い出せるだろうか。まったくこのように何一つない状況のなかで、神はモーセを呼び出したのであった。
 しかし、神はまことに備えをされる神である。まず、モーセがエジプトに行っても、エジプト人や王に対して、口が重く語ることができないと言えば、モーセの兄のアロンをモーセの口のかわりにと備えられた。そして、それ以後も、何一つ持たないモーセにたいして、驚くべき奇跡を行う力を与え、荒野を四〇年もの間、導くだけの力を与えたのであった。エジプトを出てもシナイ半島は全くの砂漠であって、そこには水も食料もなかった。そのような何一つない状況にあって、神が食物を備え、水を備えて人々は命をつなぐことができたのであった。
 このモーセの召命と砂漠での危険に満ちた長い旅は、何一つなくとも、神への信仰のみで神が備えられるという信じがたいようなことを後世の人々に証言することになった。
 こうした備えをされる神は、現代の私たちには驚くべきことである。人間の判断で備えをするのだ、それには金が何より必要だという発想に浸(ひた)されて育ったのが現代人なのである。
 こうした神の備えをしてくださる本質は、新約聖書の時代、キリストに至っていっそう明確となった。それは、主イエスの教えの根本はつぎのようなことであったからである。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
だから、明日のことまで思い悩むな。
明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の苦労は、その日だけで十分である。(マタイ福音書六・3334

 「これらのもの」とは、衣食住の必要なものということである。人間はまず真実な神のこと、神のご意志を求めて生きることが根本だ、その精神があれば、必ず必要なものは備えられるという約束である。
 明日のことも、神に委ねて思い悩むことはない、それよりもまず神の国と神の義を求めて生きることこそが大切なのだと言われている。
 この主イエスによる明確な備えの約束は、どこまでも及ぶ。それは死んだら何もなくなるという日本人の大多数の持っている考え方にも真っ向から挑戦するものといえよう。
 死んだ後は、人間がいろいろの供養とかをして、カミになっていく道を備えるというのが、伝統的な宗教の言うところである。しかし、そのような備えの仕方は、古代の迷信的な宗教が、本来ならば消えていくべきであったにもかかわらず、宗教に関わる人間の根深い金への欲望(戒名に高額の金を要求するなど)と、そうしたことをしないとたたってくるなどという周囲の人間の思惑によって造られてきたものである。
 主イエスはこうした備えでなく、神ご自身が、神を信じて召された者には、天の国に備えをしてくださっていることを告げられた。
 それは復活ということであり、霊のからだである。こうしていかなる貧しい者も、事故や思いがけない病気などで死んでいくものも、孤独のうちに死する者もみんな、完全な備えがなされていることになった。
 そしてさらに、この世の終わりにも、キリストの再臨と新しい天と地が備えられるという、壮大な備えが約束されている。
 人間が生きるとは、生まれてからすべては何らかの意味で将来のための備えをしていると言えよう。国家的にも政治とはそのような将来の備えをいかにしていくか、経済や軍事防衛、人口問題、環境問題、教育問題、医療等などすべてはそうしたことのためである。
 しかしそうしたことがかえって備えにならず、危険を生み出すことになる場合すらある。軍事や防衛のために巨額の費用を使って武力の増強に努めることを、将来の備えと称し、備えあれば憂いなしというような日本の首相のような人間が多い。そのようなことをするから世界的にかえって軍事的緊張が増して、莫大な費用を使って武力を増大させ、紛争が生じるのである。それは備えどころか、足もとを揺るがすようなことであるのに、そのことが見えないのである。
 このような政治的、社会的な備えの仕方の間違いを洞察するためにも、一人一人の人間がまず、神による備えを実感することが求められている。私たちは日々の生活でまさにそうした備えを切実に求めているのである。それに気が付いていない人もあるが、その人間的な備えのために日々心配し、苦しんでいるというのが多数の人間の現状である。
 私たちの一番身近な備え、それは苦しみのとき、無気力になるようなとき、他人からの誤解や中傷、差別、あるいは病気などのときに、それにうち勝つ力である。私たちの心が萎えてしまうようなときに、私たちを立ち上がらせる力こそ、私たちにとって日々の備えなのである。
 備えられる神、それは私たちの日々の祈りによってそのことが実感される。キリスト者とはその心のかたわらに「祈り」といういわば万能の備えを持っている者といえよう。

 


st07_m2.gif目に見えない力-キリスト教における聖なる霊-

― キリスト教における聖なる霊 ―

 キリスト教とは何かといえば、単にキリストの教えだと思っている人が大多数を占めているのではないだろうか。ソクラテスやプラトンのような哲学者、あるいはシャカ(ゴータマ・シッダルタ)、孔子などの教えと同様な一つの古代の聖人の教えだと考えている場合がほとんどである。
 しかし、キリスト教といわれているものは、決してそのような教えが本体ではない。実際、一般には、キリストが始めて教えたと思われている、「隣人愛」ということも、つぎのように旧約聖書にすでに記されている。

復讐してはならない。人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。(旧約聖書 レビ記十九・18

 また、主イエスは失われた一匹の羊を探し求めるというよく知られた記述も、つぎのようにやはり旧約聖書にすでに見られることである。レビ記とはモーセが神から受けた教えとして伝えられているものであり、モーセとはキリストよりも千三百年ほども昔の人物である。

まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。
牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。…
わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。
                        (旧約聖書 エゼキエル書三十四・1116より)

 また、キリストの教えとして代表的な、山上の教えにはつぎのよく知られた言葉がある。

ああ、幸いだ。心の貧しい者!
なぜなら、神の国はその人たちのものだからである。
ああ幸いだ、悲しむ者たち!
なぜなら、その人たちは(神によって)慰められるからである。(マタイ福音書五・34

 この言葉は、つぎの旧約聖書の言葉をより明確に表現したものだといえる。

わたしは、高く、聖なる所に住み
打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり
へりくだる霊の人に命を得させ
打ち砕かれた心の人に命を得させる。(イザヤ書五十七・15より)

 打ち砕かれた人とは、心に何にも支えとなるものがなくなった人のことであり、それは心の貧しい者なのであり、また、悲しむ者でもある。大切に思っていたものが、失われ、また自分が生きていても何の役に立つのだろうかといった疑念からくる悲しみもある。いろいろの悲しみや空虚な心をかかえて苦しむとき、そこからキリストに求めるならば、神の国が与えられ、それは神の励ましと慰めを受けることができる。

 このように、キリストが教えられたこと自体は、旧約聖書にもよく似た内容がしばしば見られる。
 そのようなことを知ると、いったいキリスト教の独自性はどこにあるのかと思う人もいるであろう。キリスト教の独自性は、教えの内容よりも、つぎのような点にある。
 それは、人間のすがたをしていながら、神と同質のお方としてキリストが地上に現れたこと、そして神の力と権威をもって数々の驚くべき奇跡をなされ、十字架で処刑されたが、その十字架の死こそが、万人の罪を背負って死なれたということであった。また、死んでから三日目に復活されたこと、このこともキリスト教の独自な内容である。
 それらとともに、もう一つ、旧約聖書においてもごくわずかしかみられない重要な内容がある。
 それが、目には見えないが、聖なる霊が生きて働いており、私たちにも与えられるということである。この聖なる霊は、神の霊、聖霊、主の霊、キリストの霊など、いろいろに表現されているがいずれも同一のことを指している。
 
 キリスト教というのがキリストの教えだと思っている人にとっては、聖霊を与えられることこそは、キリスト教の中心にあるなどと言われると驚いてしまう。キリスト教は単なる教えでない。そのような教えがキリスト教の本質であるならば、それはとっくに滅びてしまっていただろう。
 なぜなら、キリストの教えをすぐそばにいて、キリストが十字架で殺されるまで、三年間最も身近にいて、たえずその教えを聞き取り、さらに主イエスのなされるあらゆる驚くべき奇跡をも目の当たりに見ていた弟子たちですら、キリストが捕らえられたときには、みんな逃げてしまったし、弟子たちの代表格であったペテロすら、キリストの逮捕のときに、自分も同罪で捕まえられることを恐れて、三度もイエスなど知らないと強く否定してしまったほどであった。
 これは、単なる教えがキリスト教の本体でないということを鮮やかに示している出来事である。
 いくらよい教えを受けて、そのときは感心して受けたように見えても、困難のときにはたちまちそのような教えなどは吹き飛ばされてしまうのである。
 どのようなことが生じてもなお、変わらぬ心で神に従っていこうとする心は、単なる教えでなく、強制でもなく、生まれつきの性格や意思の強さなどでもない。
 そのような心こそは、聖なる霊が生み出すものであり、聖霊の賜物なのである。
 聖霊については、新約聖書のさまざまの箇所に記されている。とくに、ヨハネ福音書、使徒行伝、使徒パウロの手紙などに多く見られる。
 ここでは、ヨハネ福音書からまず聖霊がどのような存在かを学びたい。
 主イエスが捕らえられて殺される前夜に、弟子たちとともに最後の夕食をされた。これは、レオナルド・ダ・ビンチの「最後の晩餐」という絵で広く知られている。なおこれは決して「晩餐」などという言葉で表現されるようなごちそうの会ではなく、きわめて質素な最後の夕食であった。この絵ばかりが有名で、その最後の夕食のときに語ったとされる長い、深い意味の込められた教えは一般にはほとんど知られていない。
 それは、キリストが山に登って教えた、「山上の教え」とともに、「別れの教え」としてきわめて重要な内容なのである。そのなかに、聖霊についても繰り返し説明されている。

わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者(パラクレートス parakletos)を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。(ヨハネ福音書十四・1617

 主イエスはまもなく十字架に付けられて殺される。そうすれば弟子たちは一体どうなるのか、数百年もの間、待ち望んできた救い主、メシアが現れたというのに、わずか三年で無惨にも殺されてしまうのなら、まったくそれはメシアでもなかったことになるし、弟子たちはすべてを捨てて主イエスに従ったのにこれもまた空しかったということになる。 
 こうした虚脱状態に陥ることは必然的であった。それゆえ肝心の導き手が殺されてもなお、神の御計画は続いていく、いっそう発展していくということを知らせることが不可欠であった。そしてキリストはやはり、世界の救い主であり、メシアであることを、弟子たちが世界に知らせるという重要な任務を与えられる必要があった。それを導くのが聖霊なのである。聖霊が与えられなかったら、弟子たちは、キリストを裏切って逃げてしまい、三度もイエスなど知らないと大きな偽りまで公言してしまった、哀れな敗北者の集団と化していただろう。じっさい弟子たちは、キリストが捕らえられて以後は、部屋に閉じこもって、内側から鍵を掛けていたほどであった。
*

*)その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。(ヨハネ二十・19より)

 こうして、単に教えだけでは何の力にもならないということが、鮮やかに示されている。このように、恐れて閉じこもっていた弟子たちのただなかに復活のキリストが現れ、「聖霊を受けよ」と言われた。聖霊が与えられてはじめて、耳で聞く教えだけでは決して与えられないものが、与えられるからである。
 このような重要な存在を指して言うのに、ことにヨハネ福音書だけが、すでに記したように「パラクレートス」というギリシャ語を用いている。
 パラとは、「側(そば)」、クレートスは、カレオー(呼ぶ)という動詞がもとにあってその受動態の形をしている。すなわち、パラクレートスとは、「側に呼ばれた者」という意味を持っている。何のために側に呼ばれたのか、それは「慰めるため、力づけるため、罪赦された者だと弁護するため、とりなすため、訴えを聞いてくれる相手になるため、助け主となるため、」なのである。
**

**)この言葉の原語がこのようにいろいろの意味を持っているために、外国語訳もさまざまになっている。(Helper(助け主)、Paraclete(パラクレート これはどの英語にも訳せないとの考えから、原語のギリシャ語をそのまま)、Counselor(相談相手)、Advocate(弁護者、代弁者)、Comforter(慰め主))
 
 このような多様な意味を持っている言葉をヨハネがとくに用いたということは、聖霊が多様なはたらきをする存在であることを指し示そうとしているのがうかがえる。ヨハネ福音書だけでも、そのはたらきはさまざまに記されている。
 
 まず、聖霊とは、「永遠にあなた方と一緒にいる」(ヨハネ十四・16存在だと言われている。主イエスが殺されても、そのかわりに永遠にともにいて下さるという。そういう存在は神しかいないし、神とともにいるキリストだけにあてはまる。また、私たちの地上のいのちはごく短いのであって、永遠に私たちとともにいるという表現がされているのは、私たち自身も聖霊とともにあることによって永遠的な存在に変えられるということが暗示されている。

 また、この聖霊は「ともにいる」だけでなく、信じる人たちの「内にいる」とも言われている。そして主イエス御自身があなた方のところに戻ってくる、「父なる神とわたし(イエス)は、キリストを愛する人のところに行ってともに住む」とも言われている。このように、聖霊はキリストが処刑されてのちに、弟子たちに与えられると約束されているが、その聖霊と、復活したキリスト、そして神とは同一の存在として扱われているのがわかる。
 つぎにこの聖霊は、たんに内に住むだけでなく、「真理の霊」(17節)であるから、つぎのようなはたらきも持っている。

しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。(ヨハネ十四・26
 
 真理の霊であるということは、何が真理か偽りかを見抜く霊であり、したがって人間に関わる精神的な真理、霊的な真理はことごとく知らされていくという。このことは、学校教育や家庭教育、社会に出てからの職業経験からも教えられることはないので、このキリストの言葉はとくに重要なものとなる。
 神に関すること、この世は何が支配しているのか、死んだらどうなるのか、世の終わりはどうか、何が正しくて、何が悪なのか、裁きはあるのか等などに関して、正しく知らされることは、学校や社会、家庭でもまったく期待できない。
 聖霊とは、こうした人間にとって最も重要な問題について、教え、また思い起こさせるものだという。
また、「父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」(ヨハネ十五・26より)と言われているように、キリストも単に古代の偉人といった認識でなく、神と等しい存在だということ、キリストがすべてを持っているということも、聖霊が教える。聖霊なくば、キリストは過去の人間であって今は活きて働いてはいないと思ってしまうだろう。
 ヨハネ福音書では、以上のように聖霊についていろいろと語られているが、さらにつぎのように、そのはたらきがキリストによって言われている。

 今わたしは、わたしをお遣わしになった方(神)のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。
 むしろ、わたしがこれらのこと(地上から去っていく、つまり殺されるということ)を話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。
 しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。
 わたしが去って行かなければ、弁護者(聖霊)はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。
 その方(聖霊)が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。
罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、
義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、
また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。(ヨハネ十六・811
  
 ここでは、いくつかに分けて聖霊のはたらきが言われている。しかしそれは必ずしもわかりやすいものではない。
 まず、どこへ行くのかとも尋ねようとしないとあるが、すでにペテロは主イエスに「どこへ行かれるのか」と尋ねている。(十三・36節) ここにあげた箇所は、そのように尋ねたがだんだん主イエスの話を聞いていると殺されるのは確実な様子だと分かってきた。メシアがそんなに殺されるなどと考えたこともない弟子たちにとって不安と悲しみと絶望的気持ちがつのり暗い心になって沈んでしまったために何も問わなくなってきたということである。
 そうした前途が見えない悲しみのなかにあって、主イエスはそのような悲しみを持つべきでない、なぜかというと、世界を変えていく最も重要な存在である聖霊が注がれるためには、主イエスは殺されねばならないということを説明している。
 死んだら終わりだというのが当時の弟子たちの気持ちであった。そしてそのような気持ちは現代も同様である。しかしそのような心は、聖霊が注がれるということが事実なら、全く異なってくる。
 キリストが殺されるという悲劇的な出来事は、聖霊が与えられるという、最大のよいことが生じるための通過点に過ぎないのである。
 聖霊の働きは何か。この箇所では三つに分けて説明されている。それらは、「罪と義と裁き」について明らかにするということである。
 この表現は分かりにくい。どうして聖霊が来ると罪について世の誤りについて明らかにするのだろうか。 なぜ、「罪とは私(キリスト)を信じないことである」と言えるのだろうか。(九節)
 聖霊は、罪がどういうところにあるかをはっきりと示すのである。世の中の人は、罪とは盗み、殺すなどだと知っている。そのような悪いことが罪であることは、なにも聖霊などというものがなくてもだれでも分かっていると、考えるだろう。
 しかし、聖霊が明らかにするのは、そんな新聞やテレビなどで知られているような罪を明らかにするのでなく、人間はだれでもそうした盗みや憎しみの根を持っているということである。それが何らか特別な状況が生じたときに、新聞で見られるような、実際に目でみえる形で行われるのである。そうした根はみんな持っているのであって、人間すべて罪人というのはそうした意味からである。キリストのことが分かって初めて、私自身も人間の心には真実に反する思いや考えが深く宿っているのを知らされたことであった。
 キリストはそのような、罪深い人間を救い出すために来られたお方である。しかし、そのような存在などいらない、罪などないと思いこむところから、さらに罪は心にはびこっていく。
 問題はその現実から救われる道がある、そのような罪深い人間の状態が変えられていく道があり、まったく異なる世界、神の国があるということなのに、それを信じようとしないことである。すべての人の罪が赦され、光と真実な世界が開かれていて誰でもが招待されているのに、それを否定し、背を向けて踏みにじろうとすることである。そのような心から、悪はいくらでも増大していく。私たちがいくら学問があり、頭があり、金を持っていても、そうしたこの世に存在する救いの道を信じないで、神の真理を否定するなら、そうした能力は必ず悪いほうに使われてしまい、罪は増大するばかりとなる。このように、罪とは、キリストを信じないところからますます力を持ってきて増えてしまうのである。
 主イエスを信じないばかりか、イエスは神を汚しているなどとしてイエスに憎しみを抱いて殺そうとまで考えるようになった当時のユダヤ人の指導者たちもこうした深い罪のなかにあった。そして現在の私たちにとっても、イエスを究極的な救い主として受け入れず、拒むならばやはり罪はいっそう深まってしまう。
 
 つぎに義について。なぜ、キリストが父のもとに帰ることが「義」なのか、一見しただけでは、分かりにくい。義とは正義のことである。正義とは、悪の力に負けないで、正しいことを貫くことであり、悪に勝利することである。正義の人とは、悪に負けないで悪にうち勝っている人である。とすれば、最大の悪に勝利することこそ、最大の正義であるということになる。
 そして最大の悪とは、罪の力であり、一切を滅ぼす力である死の力である。だから罪をほろぼし、死にうち勝つ力こそ最大の正義だということになる。それはまさにキリストである。キリストが死にうち勝ち、復活して「神のもとに行く」ということは、そういう意味で最大の「義」を世の中に明らかにすることなのである。
 次に「裁き」について、ここでは、「この世の支配者が断罪されることである。」(十一節)と訳されているが、原文は「すでに裁かれている、裁かれた状態にある」という意味(現在完了形)である。だから、これと全く同じ形の表現は、ヨハネ三・18では、「すでに裁かれている」と訳されている。
 すなわち、表面的には、この世の支配者がイエスを裁いたと見えるが、実は、神の子であるキリストを受け入れず拒否して殺したということのなかに、すでに裁きが行われているということなのである。裁きははるか未来になってやっと行われるのでなく、現在すでに行われているということなのである。

 つぎに、聖霊の働きは「真理をことごとく悟らせる」といわれる。悟るといっても、頭の中での知識ではない。地球の内部の化学組成とか、植物の無数の葉の数や形をすべてわかるとか、明日のことを言い当てるとか、アメリカや他の国の人口や産業の構成を言い当てるなどの知識でない。
 そのためには、「私は道であり、真理であり命である」というキリストの言葉を思い出すとよい。聖霊が与えられて真理がわかるとは要するにキリストが深く分かるということである。キリストが分かるとはキリストの力、真実や愛、正義などが分かることである、それが分かるとはそうした愛や真実が与えられなければ分からない。すなわち、キリストそのものが私たちに与えられる、パウロが言っているように、キリストが内に住んでくださることによって愛も正義も真実も全身で体得できるようになるということである。
 そして最後には、聖霊が与えられるとき、その人は栄光をキリスト(神)に帰するようになる。聖書とはまさにそうした本である。「聖霊は私(キリスト)に栄光を与える」(十四節)
 聖書はどんな人間にも栄光を帰してはいない。アブラハムもダビデもモーセもみな罪ある人間にすぎない、その弱い人間を用い、導き、大きいわざをさせたのはまさに神であり、キリストに他ならない。人間のあらゆるわざの背後にキリストの導きと力を実感するようになること、それが聖霊の働きなのである。
 聖霊を受けていないときには、当然、人間をあがめる。スポーツなど最近のサッカーや、野球などでみられるように、ほかのいかなる人間の活動領域でも決してあり得ないような、大きな紙面をさいて、特定の人間を大きく映し出したり特定の人間を大々的にほめあげたりしている。人間に栄光を帰している典型である。
 しかし、聖霊が注がれたときには、決してそのような特定の人間に栄光を帰することがなく、キリストと神に栄光を帰するようになる。だからこそ、主の祈りの最後にも、「御国も力も栄光も永遠に神のものです」といって絶えず私たちの心をキリストに、そして神に向けるようにと祈るのである。
 まことに聖霊こそは、現代の私たちの個人的、また社会的なあらゆる問題を解決する鍵なのであって、私たちの祈りと願いは聖霊をゆたかに注いでくださいということに集約される。

 


st07_m2.gifことば

(今回は、去る八月に京都桂坂で行われた、無教会のキリスト教合同集会において、一部の人たちと読んだテキストから選びました。いずれも内村鑑三の「聖書之研究」の巻頭言からです。)

136)信仰の道
    信仰は第一に誠実、第二に信頼、第三に実行である。
これら三者のうち、どの一つを欠いてもその信仰は、本当の信仰ではなくなる。人は信仰によりて救わるというのは、このような信仰によりて救われるという意味なのである。このほか別のかたちの信仰や救いがあるのではない。信仰の道というのは、大空に輝く太陽のように明らかである。(一九〇八年六月)

・神に対して真実な心をもつこと、そして自分の抱えている問題や悩みを神に信頼して委ねていくこと、さらに聞き取った神の言葉、神のご意志に従って日々を歩んでいくこと、これらの三つが確かにキリスト信仰の基本姿勢となっている。


137)逆境の感謝
 逆境を嘆くことをやめよ、この曲がった世にあっては順境こそむしろ嘆くべきものである。我ら世に逆らって立った者にとっては、逆境は我らのあらかじめ予想したところである。我らはかえってこれを歓び、昔のキリスト信徒とともに「イエスの名のために辱め(はずかしめ)を受くるに足る者とされたことを喜び」て神に感謝すべきである。使徒行伝五章四十一節。(一九〇八年十月)

・キリストは世に逆らって生きていかれた。それゆえにわずか三年で捕らわれ、十字架刑に処せられた。私たちもそのようなキリストに従う限りは、この世では評価されず、また程度の多少はあれ、キリストの御名のために苦しまねばならないことは当然のことなのだ。

138)完全なるこの世
 この世は不完全きわまる世であると人はいう。確かに自分の快楽を得ようとするためには実に不完全きわまる世である。しかし神を知るためには、そして(神の)愛を行うためには、私はこれよりも完全なる世について考えることができない。
 忍耐を鍛錬しようと、寛容を増そうとして、そして愛をその極致において味わおうとして、この世は最も完全な世である。私は遊ぶ所としてこの世を見ない。鍛錬場としてこれを理解している。ゆえにこの世が不完全であるのを見ても驚くことはしない。ひとえにこれによりて私の霊性を完成しようと考える。(一九〇九年二月)

・この世は悪がひどく力を持って働いている。どこに神がいるのかという疑問はしばしば聞いてきた。しかし、自分が神からの罪の赦しを受けて、苦しみや悲しみのときに励ましを受けて新しい力を受けるときには、確かに神はおられるというのを確信するようになる。また、ひとたび主と結びつけられるとき、少しながらも、神から頂いた愛を行っていくことができるようになり、そのとき、この世は愛という最も重要なものを行う機会で満ちているのだとわかる。このことについて、興味深いことにヒルティもほとんど同様なことを書いている。

139)ひとたび完全に愛の国に入ってしまったら、この世はどんなに不完全であっても、美しくかつ豊かなものとなる。なぜなら、この世はいたるところ愛の機会にみちているからだ。(ヒルティ 眠れぬ夜のために上 十月七日)

・自分が愛してもらおうと思ったり、楽しもうと思うとこの世は妨げに満ちている。しかしひとたび、神からの愛を頂き、それをこの世で用いようとするときには、至る所でそうした機会に満ちていることに気付く。最も重要なよきものを生かして使うことが至る所にあるという点では、この世は不思議なほどによく創造されているのがわかる。


140)私が理想の人
 善き人は必ずしも私の理想の人ではない。わが理想の人は勇者であることが必要である。真理と正義のために情と闘い、慾と闘い、友と闘い、家と闘い、国と闘い、世と闘う者であることが必要である。私は自分のをもって多くの善き人を見た。しかし勇者を見たことはきわめて稀だ。私は完全なる人を求めない。厳しい戦士を求める。
 私の理想の人は、世と相対してひとり陣を張る者である、終生の孤立に堪えることができる者である。

・やさしい人、知識を多く持っている人、能力のある人、いろいろと神は用いられる。けれども、内村が理想とするのは、「戦う人」であった。キリストはやさしい人、奇跡をする力のある人、旧約聖書に通じた知識にも豊富な人であった。しかし世が重んじている権力者や指導者などをも全く意に介せず、神の真理のみを語り続けた。いかに敵対する人がいようとも、それに決してひるむことなく勇気を持って語り続けたお方であった。

141)庭園の奇蹟 
 過去の奇蹟についての議論は教会に譲ってよい。私には他の奇蹟がある。ガリラヤ湖畔においてではない。私の家の狭い庭園において大なる奇蹟は行われつつある。
 黒い土から野百合は白き花びらを織り出し、ダリヤは赤い衣裳を紡ぐ。ビヨウヤナギは黄金色に輝き、ナデシコに紅白が織りなされる。神は私の庭園におられるのである。私は教えてもらうための教師を要せず、花の間を歩き巡って直ちに神に教えられる。(一九〇九年七月)

・自然に親しむこと、日常出会う自然を見つめるとき、そこに尽きることのない、神のわざに触れる思いがする。ことに日本はこの点では、四季折々に樹木や草花はつぎつぎと異なる姿を見せ、山々も緑一色から紅葉の季節、冬枯れ、そして雪景色などじつに多種多様である。
 こうした自然のたたずまいに触れて、その繊細さや美しさを味わうだけでなく、その背後の創造主たる神の御心にふれ、神の万能と広大無辺に触れる窓口となる。

 


st07_m2.gif休憩室 「真白き富士の根」と讃美歌

○「真白き富士の根」といえば、今から九〇年ほど昔、鎌倉の七里ヶ浜で逗子開成中学生の乗ったボートが遭難し、十二人の生徒の命が失われたことを記念して歌われたものだと知られています。
 真白き冨士の根 緑の江ノ島 仰ぎ見るも今は涙
 帰らぬ十二の 雄々しき御霊に 捧げまつる 胸と心

 この事件は、一九三五年に映画化もされ、この曲はその主題歌として広く知られるようになったとのことです。私も子供のときに七里ヶ浜のことを母から聞いたり読んだことを覚えています。
 そういうわけで、私はずっとこれは日本の歌だと思っていたら、そうでなく、原曲は今から百六十年ほど昔にアメリカ南部讃美歌集に讃美歌として掲載されたものです。作曲者は、インガルス(JEREMIAH INGALLS) です。その讃美歌の歌詞は、つぎのようなものです。

「主が、その庭(garden)に入って来られる。そうすると、ユリは成長し、茂ってくる」
The Lord into His garden comes
The lilies grew and thrive

 そのために、この曲名は、GARDEN と名付けられたのですが、これが間違って、作曲者の名だとされて、ずっとこの曲の作曲者は、「ガードン」ということになってしまいました。(讃美歌には作詞者、作曲者名と別に、讃美歌の楽譜の右上の作曲者名の上に、その曲名が記されています。)なお、作曲者は、インガルス(Jeremiah Ingalls)です。インガルスは、もとは、讃美歌とは関係のないふつうの曲であったものの一部をとって、それを編曲して現在の曲にしたということです。 
 現在発行されている、一般向けの歌集にもこの曲は含まれていることが多いのですが、それらも作曲者は「ガーデン」となっています。最初の頃にこの曲を紹介した人が間違って書いたことが、ずっと受け継がれてしまった例です。
 このように、もともとアメリカで、讃美歌として用いられていたのが、日本では全く違った内容の歌として用いられ、しかもそれが広く日本全国にまで広がっていきました。現在五十歳以上の人は、この「真白き冨士の根」という曲は誰でも知っているはずです。
 これが日本で讃美歌として収録されたのは聖歌(一九五八年発行)で、キリストが再び来られるのを待ち望む再臨の歌となっています。(聖歌六二三番)
 そして去年新発売された、新聖歌にもこの讃美はおさめられています。(新聖歌四六五番)しかし、ここに書いたような事情を知らなかったようで、作曲者は、不明(Anonymous)となっています。
 歌詞は次の通りです。

(一)いつかは知らねど 主イエスの再び この世に来たもう日ぞ待たるる
その時聖徒は 死よりよみがえり 我らも栄えの姿とならん

(二)悩みは終わりて 千歳の世となり あまねく世界は君に仕えん
荒野に水湧き、砂漠に花咲き み神の栄えを仰ぎ得べし

(三)されば萎えし手を強くし もとめよ 弱りし膝をも 伸ばして歩め
約束のごとく 主は世に来たりて 迎えたもうべし そのみ民を

(四)その日を望みて 互いに励まし 十字架を喜び負いて進まん
嘆きも悩みも しばしの忍びぞ たのしき讃えの歌と変わらん

 このように、もとは、讃美歌としてアメリカで用いられたのが、日本にきて遭難事故の悲劇を歌う歌として広く知られ、それが再び、讃美歌として今回の新聖歌にも掲載されています。
 「真白き冨士の根」としてはもう過去のものとなって歌われなくなっていますが、この讃美は今後も再臨の歌として長く歌い継がれていくと思われます。こうしたところにも人間の考えや思いを越えた不思議な神の導きを感じさせられます。(以上の内容は、「讃美歌・聖歌と日本の近代」九三~九八P 音楽之友社 一九九九年から得たものです。)

 


st07_m2.gif返舟だより

○京都・桂坂での集会
 八月三日(土)~四日(日)の二日間、京都西部の桂坂のふれあい会館において、第二回目の近畿地区無教会 キリスト集会が行われました。もともと、この合同集会の母胎となったのは、毎年行われている四国での合同集会に参加していた近畿の人たちが、大分以前から、神戸、大阪狭山市、京都大山崎などの地で交代しながら、集会を初めていたものです。しかし、京都大山崎の集会の責任者が召されたことがあり、一時休止状態となっていました。その後、私(吉村)が、教職を退いて、京阪神のそれらのいくつかの集会に偶数月に出向いてみ言葉を語るようになりました。また、それとは別に、徳島で長くおられたS.SH.夫妻が京都桂坂に転居されることになりました。ちょうどその桂坂に宿泊できる施設があるので、それらの各地の集会が合同して集会を持ったらどうかと、大阪狭山市のMS姉が提案され、京阪神の有志の信徒の方々のご協力によって、去年からその地で合同集会が開催されることになりました。
 今回のプログラムはつぎのようでした。テーマは、「苦しみの時にも」とされ、とくに苦しむ人たちへの関わり(入佐さんの講話)、苦しみの意味とそこからの救い(聖書講話)について語られました。

三日(土) 13時~1420分 開会礼拝 「いと小さき者の一人に」A.I 
      1430分~1730分 自己紹介、証し、発題など。
      1930分~21時 夕拝 聖書講話 吉村 孝雄
四日日  630分~730分 朝の祈り グループ別 近くの公園にて
     10時~12時 主日礼拝 特別讃美 聖書講話 吉村 孝雄
     午後は、読書会。テキストはジャン・バニエ著「心貧しき者の幸い」の中から「苦しみの神秘」、内村鑑三とヒルティの短文集。

 開会礼拝の講話で、I(いりさ)Aさんは、若い時から大阪の大阪市西成区の釜ヶ崎(愛隣地区)にて、ボランティアとして日雇い労務者と共に歩んで来られたご自身の経験を、キリスト信仰をもとにしつつ、語られました。主の前に低くされ、上から何かをしてあげるという姿勢でなく、共に歩もうとされているのが感じられ、主がIさんを動かしてきたのだとわかりました。キリストはそのような働き人を古代からつぎつぎと起こされてきたのを思います。今後とも一層、主の祝福と導きを受けて歩まれますようにと祈りました。
 今回も、徳島からは十二名ほどが参加して(聴覚障害者も一名参加)、京阪神のキリスト者の方々と共に学び、讃美し、祈り合って主にある交わりを深めることができました。参加者は、大阪、京都、兵庫、徳島のいつもの府県からの参加者のほかに、遠く鳥取や、滋賀、高知からの参加者もあり、約四十名ほどが集まりました。また、中高校生や二十歳代の若い人たちも五名ほど参加できたことも感謝でした。
 京阪神のそれぞれの集会の方々の祈りと準備、当日のお世話をありがとうございました。

○特別集会の恵み

 京都桂坂の集会もそうですが、毎年の四国集会や全国集会、あるいは、私たちの集会だけで行う特別集会など、ふだんの日曜日ごとの礼拝集会とはちがった形で行われる特別集会はまた別な恵みがあるのがわかります。いつもの日曜日の集会には決して来ないような人が参加されたり、長い間参加していなかった方がそのような特別集会には思いがけず参加する、また、信仰が弱っていて長く集会に参加していなかったような人が参加して新しい力を受けたり、またいつもと違った聖書講話が心にとくに深く入ってきたりします。
 それから意外な出会いがそうした特別集会で与えられることもあります。そしてその出会いがまた新たな人や集会との交わりとなり、さらに相互の集会にとっても祝福となる場合もあります。 
 それは一つには、そうした特別集会には日頃からの準備として、祈りを続けていくこと、多くの労力を注ぐことなどから、主がとくに目を注いでくださり、祝福を与えて下さるのだと思われます。
 いつもの日曜日ごとの集会を大切にしつつ、こうした特別集会もまた主がさらに祝福して下さって御国の栄光のために用いられますように。

○関東地方の方からの来信より。

 …イエス様に目を向け、歴史を支配して下さる神様を信じるとき、希望を持って世界の平和のために祈り続けることができます。日本の若者に、また政治家に神を畏れる信仰を与え給えと祈る毎日です。
 平和憲法の存在が危うくなりかけた今、高齢の夫とともに何度か東京まで出かけ、有事法案反対の集まりに参加し、デモにも加わっています。今黙って見過ごしていると、流されてしまっては一生後悔するだろうと思うのです。

○九州の読者よりの来信です。
 今日は「はこ舟」により一人で聖日を守らせて頂き感謝でございました。
「神ともにいます」ということ、旧約聖書の冒頭より、新約聖書のヨハネ黙示録に至るまで、神は信じる者と共にいて下さり、現在も共にいて下さいますことを詳しく、わかりやすく説いてくださり、聖言に取り囲まれているような、心の熱くなるのを覚えました。