200311月 第514号・内容・もくじ

リストボタン聖なる大路

リストボタン海と風を静める

リストボタン目を覚ましていること

リストボタン渇きを満たすもの 詩篇四十二篇

リストボタン政治と信仰

リストボタン休憩室

リストボタンことば

リストボタン返舟だより



st07_m2.gif聖なる大路

この世には、さまざまの道がある。どこに続いているのかわからない。その道を歩いていけば、行き着く先は、闇であり、抜け出すことのできない迷路や出ることのできない沼のようなところに続くのもある。崖から転落するような道もたくさんある。オウム真理教のような新興宗教などもそのようなものが多い。組織の奴隷のようになったり、金やエネルギーだけでなく、心まで奪い取られることもある。
また、目に見えないものは信じないという道を日本人の大多数は歩んでいるが、その道の行き着く先は、滅びしかないということになる。死後は目には見えないものになるのであり、目に見えないものは存在しないと信じて生きていくなら、当然、死後は一切が無となり、それは滅びに他ならないからである。
名誉や事業の成功、遊びや快楽を求める道も、いずれそれらは行き詰まり、道はなくなっていく。人間は老年になるとともに、能力は衰え、病気がちとなり、事業も、遊びも名誉も追求できなくなっていくからである。
そうしたこの世の道とまったく異なる道が、聖書では古くからはっきりと示されている。

…荒れ野に水が湧きいで
荒れ地に川が流れる。…
そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ
汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ
愚か者がそこに迷い入ることはない。(旧約聖書 イザヤ書三五・68より)

この言葉は、神によって救いを受けた者が歩む道を指し示している。そこには、この世の荒野のただなかにあって、天よりの水が流れ、うるおされる。そしてはるか前方へと続くまっすぐな大路がある。そこにはこの世の混乱した道、さまざまな悪しきものが入り込む道と違って、神に導かれる者だけしか入ってこない。
それは人間的に見れば、主イエスが言われたように、狭き門から入る道であり、その道は細いと見える。しかし、それは霊的には何者も破壊することもできない大路であり、神の国へとまっすぐに続いている道である。
時代がどのように変わろうとも、政治や社会のしくみがどうなろうとも、この道は過去数千年の間、変わることなく人間の前に、与えられ、存在してきたし、これからも存在し続ける道である。魂の目にこの聖なる大路を見つめて、歩ませて頂きたいと思う。

 


st07_m2.gif目を覚ましていること

この世は、絶えず何かを拝もうとさせる。それは、地位の高い者や有名人という人間であったり、権力や、金であったり、人からの評価や生活の安定、あるいは人間との表面的な和であったりする。それらを重要なものとして、第一にすることをたえず、求めてくる。ときには強要してくる。
こうしたことは、家庭や、学校、また社会のなかでも至るところにある。
現在の学校教育では、成績という数字であらわされるものが第一であるかのように思い込まされるし、自分が一番大切だといって、自分を第一にせよと言われたり、「君が代」という天皇讃美の歌を歌うことを強要されているのもそうした一例である。
戦前は日本では、天皇を現人神(あらひとがみ)として拝むことを強要された。また、現在では、国際的には、アメリカはイラク戦争など、自国のやり方を何でも正しいと言わんばかりに他国にも迫ってきて、日本も含め、多くの国々がアメリカの力を第一に置くように仕向けられている。
また、現在でも地域では、近くの神社の一員であることを当然のごとくにしようとし、それを拝むようにと仕向けられる。会社でも、その会社の不正や間違ったことをも利潤のためならば、それを拝め、すなわち黙認せよと迫ってくる。
世の中は、たえずこうした一種の偶像を拝むようにと圧力をかけてくる。
それゆえに、主イエスはその伝道の生涯のはじめにつぎのような試みを受けたのであった。

…更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。
すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」(マタイ福音書四・810

新約聖書のなかで、主イエスがたえず目を覚ましておれ、と言われたこと、また使徒パウロがしばしば、たえず祈れと教えているのは、このような誘惑に負けないためである。

 


st07_m2.gif海と風を静める

聖書において、海というのは特別な意味をもっている。
新約聖書で、「海」と訳されている原語は、サラッサ(thalassa)というが、これは、一般的な海を表す言葉であるが、地中海や、紅海をも指すこともある。また、広大な水のひろがりをも意味するので、湖にも用いられる。
海であっても大きな湖にしても、嵐が生じて波が激しくなると船も人をも呑み込んでしまう。ひとたびそれに呑み込まれるならば、二度と帰って来ないのがほとんどで、どこまで深いのか昔は全く分からなかったし、深い海の底は真っ暗な闇が包んでいるということから、海はラハブという悪魔的なものが住んでいると思われていた。旧約聖書で、次のような箇所は、それを示している。

…あなたは海の荒れるのを治め、その波の起るとき、これを静められる。
あなたご自身が、ラハブ
*を殺された者のように打ち砕き、あなたの敵を力ある御腕によって散らされた。(詩編八九・10

*)ラハブとは、古代の神話に出てくる海に住む怪獣で、神に敵対する悪の力の象徴として言われている。

また、黙示録では、「私はまた、一匹の獣が海の中から上ってくるのを見た。…頭には神を冒涜(ぼうとく)するさまざまの名が記されていた。…竜(サタン)はこの獣に自分の力と王座と権威を与えた…」とあって、海に悪魔的なものが住んでいることが暗示されている。そして黙示録においては、つぎのように記されている。

…わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。(黙示録二十一・1

このように、特に海も存在しなくなっていると記されていて、ここにもサタン的なものの住む海が新しい天と地には存在しないことが示されている。
海の持つ力、それは人間を捕らえ、闇に引き込んで滅ぼしてしまう力の象徴である。そうした闇の力に打ち勝つのが、神であるということは、すでに引用した箇所が示している。

…あなたは海の荒れるのを治め、その波の起るとき、これを静められる。(詩編八九・9

これは、単に自然現象としての海の荒れた状態を静めるということにとどまらず、海の荒れた状況は、そのままサタン的な力を表していて、それをも神は支配し、静めることができるということである。
そしてこのような、神の力を全面的に受けてこの世に来られたのが主イエスであった。
それゆえ、主イエスもこの詩編の引用文にあるように、海で象徴される闇の力、悪の力を支配するお方であることが記されている。つぎの箇所はそうした例である。

…その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
イエスは起き上がって、風を叱り、海に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や海さえも従うではないか」と互いに言った。(マルコ福音書四・3540

主イエスが共にいても、嵐は生じる。突然に突風は吹いてくる。これは、当時のキリスト者たちの実際の経験であった。このような嵐で激しい波が生じ、かつ風に吹きあおられて、弟子たちも大声で叫び、慌てふためいている。
すべての弟子たちが、はげしい波に襲われて、舟が転覆して、今にも死ぬかもしれないという動転した気持ちになっているのに、主イエスはなんと眠り続けていたという。これは私たちなら、眠り続けるなど到底考えられない状況である。
これは、荒海にたとえられるこの世において、まさに沈んでしまおうとするほどに、困難な状況を示している。そして弟子たちは必死で主イエスに助けを求めて叫んでもイエスは眠っている。
このことは、現実のキリスト者たちの置かれた状況をよく表している。この福音書が書かれた時代にすでにキリスト者たちは厳しい迫害を受ける状況となっていた。その困難は、激しい突風が起こり、船は波をかぶって水浸しになり、波にのまれそうになった状況にたとえられる。そして弟子たちは「主よ、助けて下さい。舟が沈んでしまう!」との叫びをあげる。そうした追いつめられたなかで、必死に助けを求めるとき、主がようやく起き上がって、彼らを脅かしていた、風と海を叱った。するとたちまち静まったという。
ここに、キリスト者たちを襲ってくるさまざまの迫害の嵐や心の激しい動揺の嵐において、必死で主に助けを求めて叫ぶときに、主イエスの力が働いて、悪の力が退けられ、そこに大いなる平安が訪れたことを暗示している。
また、もう一つの海の力と弟子たちの動揺に関する記事がある。
それは、「海(湖)の上を歩く」として知られている。

夜が明ける頃、イエスは海(湖)の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。…イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。
しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。
そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。(マタイ福音書十四・2532より)

ここにも、海の力を支配し、その上を歩くイエスの姿がある。世の中に働く悪の力がいかに大きくとも、その上を歩まれるのが主イエスなのであり、それゆえ、弟子たちももし主イエスに従って、ただ主イエスのみを見つめていくなら、この世の力に引き込まれて沈むことなく歩むことができるということなのである。 また、この世は海のように、サタンが支配しているようにみえる。そしてどんなに叫んでも神は何も助けてくれないというようにも見える。しかし、ひと度神の力が発揮されるならば、荒れ狂う海の力はただちに治められるということである。
海とは、イザヤ書や詩編などに見られるように、聖書の民にとって、また広く世界的にも恐ろしいもの、底知れないもの、闇などといったものを象徴的に現すものとみなされていた。
そしてこの世が、動揺し混乱に陥るのは、そうした悪が働いている業であるとの見方がある。しかし、神は、そのような闇の力、混乱を起こし、この世を悪の支配に呑み込もうとする力を、打ち砕き、静めることができるという確信がここにある。
新約聖書の主イエスが、波を静め、吹きすさぶ嵐をとどめる力があるのは、このような旧約聖書の預言の完全な成就者であるということが示されているのである。

この世とは、海に象徴される、サタンが働いているところである。そこから私たちを揺り動かし滅ぼしてしまおうとする力がある。じっさい、マタイ福音書では、嵐と訳された言葉は,セイスモスと言って、もともとは、セイオー(揺れ動かす)という言葉の変化形なのである。この世はたえず揺れ動かすものに満ちている。そのただなかで、イエスはまったく沈黙して、眠っているかのごとくである。しかし、それは決して私たちを放置して、滅びにまかせるためではない。

マルコ福音書五章において、主イエスは一人の人間と出会った。その人は、精神的には極限状態に追い詰められていた人であった。その人とは、

この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。
これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。
彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。(マルコ福音書五・35

これを見てもいかにこの人が驚くべき悲惨な状況にあったかがわかる。
心の働きが全く破壊されていて、自分で自分を打ちたたき、足枷でつながれ、鎖で自由を奪われてもなお、それを断ち切ってしまうほどの異状な力をもっていた。しかしその力は悪から来ていたので、どんな人もこの人を静めることができなかった。そのような人でも、かろうじて生きていたのは、誰かがこの人に水や食物を与えていたからであったろう。それはおそらくは親であったと考えられる。そのような異状な状況に置かれてしまった人間を親以外には誰も継続的に面倒をみることはしなくなるだろうからである。
このような生きていてももはや死んだような人間、それゆえにこの人は墓場を住まいとしていたと書かれているが、そうした人間に主イエスは真正面から立ち向かわれた。
そしてそうした恐るべき状況になっていた人が驚くべきことに、主イエスに対して、「神の子」と言っていることである。神の子というのは、単に神が創造したというのでなく、神と同質であるということである。それは弟子たちですら、なかなかわからなくて、嵐や海を静める御方だと分かってもなお、「一体、この御方はどういうお方なのか?」(マルコ四・41)と驚きと疑問の声を発したほどである。
そしてもっと後になって、主イエスが、私のことを何と思うか、預言者エリヤとかヨハネの生まれ変わりだとか言っているが、あなた方は何と思うか、との問いに対して、ペテロが「あなたこそは、神の子です。」と言ったとき、それは、人間の知恵や考えではそのことはわからない。父なる神の直接の啓示によって、そのことが示されたからわかったのだ。と言われたことがある。
そのように弟子たちですら、主イエスのいろいろの奇跡や力を見て、またその教えを知って、ようやくイエスが神の子であると知ったほどであるのに、この心の病にとりつかれていた人は、一見してただちに主イエスを、神の子だと見抜いたのである。このように、サタンは独特の鋭さをもって神の世界のことを見抜く。そして見抜いたうえで、その力を振るおうとするのである。
しかし、ここでは、悪の霊は主イエスの力に恐れをなして、どうか豚の中に逃がしてくれと頼んだ。主イエスがそれを聞いて許可すると、悪の霊は一斉に豚の中に入り込んで、海になだれ込んだ。これは不可解な記事であるが、ここで言われているのは、悪の霊が退けられてサタンのいる場である、海に戻されたということである。
そしてその悪の霊が追い出されたとき、その人は、それまでとはまったく打って変わって見違えるようになった。かつての混乱と激しい異常行動、叫び、わめくような行動がすべてなくなった。そして静まった。
これは主イエスの驚くべき力であった。主イエスは、いかなる混乱や闇の力をも静める力がある。人間の手では回復はあり得ないという絶望的状況にあってもなお、そのただなかに力を注ぎ、そうした悪を支配している力をとどめ、退け、静める力がある。
そのようにして与えられた、静けさこそ主の平安である。これこそ、主イエスが最後の夜に、弟子たちに約束したことであった。
現代の世界も、外においても、内においても大いなる混乱が満ちている。若い人たちの心にも、至るところに悪がはびこり、混乱が満ちている。そうした悪の力を静めるのは主イエスの力であり、主イエスの言葉であり、主イエスの御手による他はない。そしてその御手の働きを心から待ち望む者には、必ず主の平安が与えられる。
そこから私たちの本当の人生が始まる。

 


st07_m2.gif渇きを満たすもの 詩編四十二編

この詩は、詩編の第二巻の最初に置かれている詩である。なぜこれが最初に置かれているのか、そのことを考えるときに、その前の四十一編の終わりの言葉は、第一巻の最後の言葉ともなっているが、「主をたたえよ、代々とこしえに。」という言葉で終わっていることに気付かされる。
こうした締めくくりの讃美の後に、この四十二編がある。その最初に置くべき讃美はどのようなものであるべきか、祈りと熟慮の上でこのように配置されたと考えられる。
詩編の第一巻の最初の第一編の内容が、詩編全体の要約と考えられるものが置かれているように、詩編の第二巻の最初にも冒頭に置かれた意味がある。

涸(か)れた谷に鹿が水を求めるように
神よ、わたしの魂はあなたを求める。
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。
いつ御前に出て神の御顔を仰ぐことができるのか。
昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う
「お前の神はどこにいる」と。…
なぜうなだれるのか、わたしの魂よ
なぜ呻くのか。
神を待ち望め。(詩編四十二・16より)

ここでは、まずこの詩の作者の強い渇き、神への渇きの思いが記されている。この詩の作者は、今から二千数百年以上昔の人であると考えられている。そのようなはるかな古代に生きた人間の魂の最も奥深い部分がこの詩に現れている。この詩の私たちへの意義は、単に、そうした古代の人間の心の状況を知るためだけでは決してない。この作者の経験した苦しみや叫び、そしてそのただなかでの神への飢え渇きこそは、神が背後におられて導かれたことを示している。そこに神のご計画があり、この詩は神の深いご意志が表されているゆえに、こうした詩が人間の詩であるにもかかわらず、神の言葉として旧約聖書に収められているのである。

鹿が谷川の水を求めるというのは、日本とこの聖書が書かれたユダ地方では全く状況が異なっている。日本のような雨の豊かな、至る所で谷川のあるところでは、鹿は必死になって飢え渇くということがない。それゆえ、私たちはパレスチナの状況をまず心に留めておかねば、この箇所にある鹿がいかに必死で水を求めているかを思いみることもできない。
それは命懸けである。広大な領域において、わずかに水が出ているところは数えるほどしかない。木一本もない乾燥した地方で、水がなかったらそのまま直ちに死につながる。ここで水を求めるというのは、死か命か、という二者択一なのである。
人は何を求めているだろうか、人間は、何かに飢え渇いている。それは幼い頃は、母親の愛である。友人の友情である。また認められることである。そして、人間だけでなく、動物にも共通なという意味で最も根源的なのは、本能にかかわる食物や、性に関わる飢え渇きであろう。
私の高校時代を考えてみると、それは成績をあげることに飢え渇いていた。また、スポーツの選手とか企業、政治家などもみんな成績を上げることに飢え渇いている。その度合いがひどくなると、争いとなる。奪い合いとなる。他人の持ち物を奪い、不正な方法によって金を得ようとしたり、他人の配偶者を奪っていこうとする。
また、動物として最も強力な飢え渇きは本能にかかわるものであり、食物と性に関わる飢え渇きはそれを求めて激しい戦いとなることがある。それは、社会的、国際的なレベルとなると、戦争となる。かつての日本は「満蒙(満州と蒙古)は日本の生命線」などといって、他国の領土を飢え渇くように求めて 、その結果、戦争を中国にしかけて太平洋戦争となっていった。
また、現在の深刻な問題の一つは、男女の性にかかわる飢え渇きが不正な方法で満たそうとされていることである。そのために、本来新しいいのちが生まれるという深い意味のある、性ということが、一時の性に対する飢え渇きを満たすために用いられ、それが、人工妊娠中絶という形で胎内の赤ちゃんの命を奪う事態となっている。
十一月に行われた無教会のキリスト教全国集会において、ある産婦人科医が告白したように、ある時期までに、勤務医として、つぎつぎと、堕胎を担当させられて、そのことに耐えられなくなって、スタッフに集まってもらって、祈った。そしてその後は、そうしたことを一切しないようになったという。現在はその医者はキリスト教の病院に勤務している。しかしそれまでに、一千もの胎児の命を奪ってきたという。一人の産婦人科医でもこのようなおびただしい数であるから、全体では恐るべき数となるだろう。実際、人工妊娠中絶で失われていく胎児は、年間で百万人を超えるという。
*

*)厚生省発表の人工妊娠中絶件数と出生数という統計報告では、一九九七年の中絶件数は、約三十四万人であった。しかし、闇中絶を望む人が多いので、中絶の正確な実数はつかめていない。中絶に必ず使われる薬の年間使用量から推測すると、数百万件にも及ぶとも言われている。

このように飢え渇きというのが、正しく満たされないときには、戦争や堕胎のように多くの人たちを犠牲とするような不幸な結果を招くことになっていく。
それらの飢え渇きが満たされないときには、不満や怒り、また妬み、不安などいろいろな感情が生じる。さまざまの社会的な不正、汚職、犯罪などは、すべて、人間の本能を満たしたい、上になりたい、認められたい、力をふるいたい、安楽な生活をしたい、といった飢え渇きを間違った方法で満たそうとするところから来る。
宗教の世界でも、上になりたいという飢え渇きは、キリストに三年間も従った弟子たちですらそれに打ち勝てなかったことが記されている。主イエスがもうじき、自分は十字架につけられると予告しているのに、弟子たちはだれが一番えらいかとか、イエスが王となったときには、自分たちをその右左において下さいなどと願う始末であった。それは、いかに人間は、信仰をもってもなお、人の上に立とうとするような、飢え渇きから自由にはなれないかを示している。
そうした間違った飢え渇きがいやされたのは、キリストの復活のあと、聖霊が注がれることによってであった。聖霊が注がれなかったら、彼らのそうした飢え渇きはいやされることがなかった。
正しい飢え渇きとは何か。それは、神に、神の愛や、清さ、そして神の真実や、義に飢え渇くことである。
義とは、正しいことである。しかし、人間はすべて正しさを持っていない。使徒パウロが述べているように、絶対的な正義である、神の前では正しいものはいない。一人もいない。

…次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。
悟る者もなく、
神を探し求める者もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。(ローマの信徒への手紙三・1012

自分自身を振りかえってみても、確かに正しい者でなかった。しかし、キリストを信じることによって驚くべきことに何も正しいことができてなくとも、神の前に正しいとして下さるのだと知らされた。
主イエスが言われた、「義(正義)に飢え渇く者は幸いだ」とは、どういうことだろうか。それは、ふつうなら、「正義」を行う人間は、幸いだ、というだろう。しかし、主イエスは、そうはいわれなかったのである。義に飢え渇くということは、自分は正しいことができずとも、正しいことを心からねがうことであり、自分自身が、汚れていても、その汚れ、罪が清められて正しい者とされたいという強い願い、飢え渇くを持っていることである。
また、自分の家族、また集会、職場の人たちや組織、さらには日本や世界、それらが神の前にて正しいものとされるようにとの飢え渇きである。
新聞やテレビのニュースを見ると、数々の犯罪が行われているのがわかる。それを私たちはどう見るか。単に驚いたり、おそれたり、あるいは嫌悪感を持つだけで終わるのでなく、そこに神の国が来ますようにとの飢え渇きをもって、祈りをもって見つめるのが正しいあり方だと言えよう。
義に飢え渇くとは、神の正しさを飢え渇くように求める心である。それは、言い換えれば神の国に飢え渇くことである。神の国とは、神のご支配である。神が私たちの魂の罪を支配することで、私たちは清められる。また神の国が私たちの家庭や集会に来ることによってそこは清められる。
ここから、主イエスがなぜ、たえず祈るべき内容として、「御国が来ますように」との祈りを教えられたかがわかる。この祈りは神の国に飢え渇く心があればあるほど、日毎の祈りとなる。
また、主イエスが教えた内容でやはり重要なものとして、山上の教えというのがある。そこではキリストの教えのエッセンスが記されているが、その冒頭に「心の貧しいものは幸いだ!」というのが記されている。これは、飢え渇く心とは、心の貧しい状態に他ならないからである。心が自分の安楽や誇り、自分の力に満足していれば、それはここでいわれている、心の貧しい状態ではない。心貧しいとは、心に飢え渇きをもっている状態である。自分は何一つ持っていない。しかしそのなかに、神の力や神の清さを心から求める渇きがある。
ダビデはかつて、サウル王のねたみのゆえに、王から追われて命をねらわれているときには、必死で神にすがり、そこから多くの詩も作られた。その詩が数千年の歳月にわたって、無数の人間の魂をうるおし、力づけ、また預言ともなってきた。
しかし、そのようなダビデであったが、国を平定し、支配領域が広大となるにいたって、慢心し、昼頃起き出すという状況にすらなったとき、バテセバという女性の美しさに惹かれて大いなる誘惑に引き込まれた。ダビデは最も恐るべき罪を犯して、しかもその罪の重さには、その女性が妊娠して子供を生んだあと、ナタンという預言者によって直接に指摘されるまで気づかなかったというほどであった。
飢え渇く心は、当然のことであるが、いろいろなことが満たされているときには生じない。ダビデも安全なく、孤独でさまようときに最も神の力を、神のはげましを飢え渇くように求めていた。
キリストの第一の弟子であったペテロは、自分は殺されることがあっても、イエスに従っていきますと、力強く約束したのであったが、いざ、イエスが捕らえられていくと、他の弟子とともに逃げていき、その後三度もイエスなど決して知らないとちかくにいた人に誓って言ったほどであった。それほどまでに自分というのが弱く、もろいものだと思い知らされ、自分の罪を深く知らされた。その罪をイエスによって赦され、イエスが「約束された聖霊を祈って待ちなさい」という命令に従って、ほかの人たちとともに真剣に祈り、待ち続けた。そこには、必死に神を求めて飢え渇く心があった。こうした飢え渇きの心に応えて、主イエスは、聖霊を注ぎ、裏切ってしまったペテロを再び立ち上がらせ、キリストの死後最初に、キリストの復活の福音を宣べ伝えるものとならせたのである。
しかし、そうしたペテロであったが、初期のキリスト教指導者としての地位が確立されて、安定したためか、キリストの福音の根本問題で大きなつまずきをして、後からキリストの弟子となり、伝道者となったパウロに面と向かって叱責されたほどである。
このことも、神への飢え渇きがなくなったときに、人はいかに信仰を持っていたとしても、神からの新鮮な命が注がれなくなって、大きなまちがいを犯し、誤った道へとはまり込むということを示している。
神への飢え渇きは、終わりがない。神とは無限の愛や深さ、清さ、正しさに満ちたお方であるゆえに、もう自分は十分にそんなものを持っているという人はあり得ない。
アッシジのフランシス(イタリア語読みでは、フランチェスコ)という人がいる。(*)彼はとくに学問もなく、権力もなく、姿も美しいわけでもないのに、世の多くの人が従おうとする。それはなぜなのかと、一人の弟子が尋ねた。そのとき、フランシスは、つぎのように答えた。

「あなたは、世の人が私の後を追うわけを知りたいのか。それはどこにおいても、善悪をごらんになる、神の目によるのである。その聖なる目は、罪びとの中でもわたしより悪い、わたしより役立たぬ、わたしより罪深い者を見出さなかった。
 主はご計画のふしぎなわざを実現するのに、わたしより悪い被造物がないのでわたしを選び、世の貴い人、偉大な人、美しい人、強い人、賢い人を恥ずかしめ、それによっていっさいの力と善とは、主から出て被造物からは出ず、また 何ものも主のみ前には優れたことのないことを、悟らせてくださるのである。
 まことによきものを与えられた者は、主によってそのよきもの(栄光)が与えられて栄えるのであって、すべての栄えと誉れは永遠にただ主ひとりに帰せられる。」(「聖フランシスコの小さき花」第九章より )

このように、後の時代に、キリストにとくに似た人と言われて、聖人と言われた人であるが、自らは、最も低い者にすぎないというはっきりとした自覚を持っていた。これは、パウロがキリストの事実上最大の弟子であったが、罪人の頭であるとまで言っていることに共通している。
このように自分を低く実感すること、それは神のまなざしを与えられていてはじめてできることであろう。人間的な目で見れば、人間の優劣とか上下などが大きいものと見えてくる。しかし神の目を与えられるとき、そうした人間的なものは消えていく。そして自分の小さいこと、弱いことがはっきりと見えてくる。それによってその貧しさを満たして下さる神を切実に求めるようになる。同時に、神の無限の豊かさがありありと示されてくる。
このように、聖人とまで言われて特別なへりくだった心にされて、神の豊かな賜物を受けた人とは、決して生まれつきそうであったのでも、人間的な努力でそのような聖性を獲得したのでもなく、ただ自分の小さきことを深く知って、そこから他の何ものにもまして、真剣に神を求めた人なのであった。そのような飢え渇きに応えて、神がご自身の持っておられる無限の豊かさを与え続けたのだといえよう。
パレスチナの荒野では、水を求めるのは命がけである。見渡すかぎりどこにも木も草も生えていないような砂漠のようなところで、水がなければそのまま死に至る。日本では、どこにいっても、谷に水が流れているのとは全く異なる。魂にいのちをもたらす、いのちの水は、ただ聖書で示されている神のところにしかない。それのみが命を支えるのであって、ほかは精神の荒野が見渡す限り広がっているのである。
そうしたことをはっきりと知らされたとき、私たちも一頭の鹿のように、全力をあげていのちの水を持っておられる神を探し、キリストを求め続けていきたいと思う。

*)今から八〇〇年ほど昔の人で、フランチェスコ修道会の創立者。イタリア中部アッシジ生れ。謙遜と服従、愛と清貧の戒律によって修道生活の理想を実現した。アッシジの聖フランシスと言われる。アメリカの大都市、サンフランシスコとは、聖(サン)・フランシスコという意味で、彼の名前がその都市の名前の起源になっている。ここに引用した「小さき花」は、彼の弟子が記した伝記で、小鳥への説教など、フランシスコの生涯の驚くべきことも記されている。

求めよ、さらば与えられる、という有名な言葉は、もし私たちが正しい方向に、神とキリストに求めていくならば、こうした魂の飢え渇きが必ず満たされるということである。それはルカ福音書に示されているように、聖霊が与えられるときには私たちは満たされる。そのことは、ヨハネ福音書にとくに印象的な言葉で記されている。それは永遠の命であり、満ち満ちているものからくみ取ることであり、私たちの魂からいのちの水が流れだすことである。

 


st07_m2.gif政治と信仰

先頃の、無教会の全国集会で、平和憲法を守るといったことは、政治問題か信仰の問題かという議論があった。政治の問題はキリスト教の全国集会では取り上げるべきでないという人もいた。しかし、そもそも政治とは何か。一般的には、衣食住の問題が中心にあるように思われている。しかし、本当は、政治とは人々の集団を正しく導くことでなければならないのであって、単に衣食住を整えることであってはならないはずである。しかし、実際には、食べさせること、政治とは、要するに国民を食べさせること、経済問題だといった意見もよく言われるし、今回の総選挙で、一番の関心事は、年金問題とか経済の問題であったといわれるのもそうしたこととつながっている。
しかし、現在の日本は食物も有り余るほどである。しかし、国民全体が、とくに若い世代の心が善くなっているとはほとんどの人が感じていないはずである。
経済問題がうまくいくとは、要するに十分な衣食住があるということだ。日本は世界では最もその方面ではうまくいっているといえる国の一つである。アジア、アフリカなどを中心として世界には飢えに瀕している人たちが八億にも達するとも言われている。そうした状況に比べるなら、日本の状況は彼らにとっては信じがたいほどの豊かさである。
しかし、そうした豊かさがあれば、それでよいのか。現在の日本のとくに精神的状況は、暗雲が漂っている。今月号でも触れたが、ことに若い世代の人たちの性に関する乱れとその結果としての、人工妊娠中絶が年間百万件にも及ぶという状況は、何を意味しているのだろうか。それは、人間が闇の世界に落ち込んでいることを如実に示している。殺人とは最も重大な悪であることは誰もが認めている。しかし自分たちの快楽を楽しむために胎内の生命を断つことは、殺人と全く関係のないことであるかのように、現在は公然と行われている。しかし、現実に胎内の顔も、手足もある赤ちゃんが取り出され、それを目のまえにして、その命が抹殺されていくのを見て、平気でいられる人はほとんどいないであろう。
これは、いくら食物が十分であっても、今後の日本は人間の最も大切な部分で崩壊していくのではないか。
そしてこのようなことは、いくら軍事力を増強しても、どうすることもできない。軍備を整備したところで、また、何らかの方法でテロを抑止させることができたとしても、やはりこのような人間の深い内面の崩壊は止めることができない。
また、経済問題がいくら向上してもこうした問題には何ら改善することはできない。
それは、政治の根本は、経済問題や安全保障問題でなく、国民を正しく導くということだということが忘れられているからである。
この点で、今から二五〇〇年ほども昔の中国の思想家
*が、「政とは正なり」と簡潔に述べているのは印象的である。**
人間が正義にかなったものとなるのが本来の姿であるから、自らがまず正しいことを求め、そこから他者を正しく教え、導くこと、それが「政」の根本だというのである。
また、つぎのようにも記されている。

もし、不正な者を殺して正しいことを守らせるようにしたらどうか、と問われて、孔子は答えた。「政治をするのに、どうして殺す必要があるのか。あなたが善くあろうとするなら、人民も善くなる。上に立つ者は風であり、人々は草である。草は風にあたれば、必ずなびくものだ」(「論語」顔淵第十二)

*)孔子(前551~前479)中国、春秋時代の学者・思想家。その言行録は「論語」に記されている。
**)政治の「政」という漢字の左部分は、「正」であり、右の部分は、「打ちたたく」という意味をもっている。この漢字そのものが、「政」とは、「正しく打ちたたく」という意味を持っているのがうかがえる。


罰を厳しくしても悪そのものはなくならない。政治にかかわるもの、上に立つ者がまず善を求めていくなら、自ずから人々もそれになびくという。
テロについても、相手がテロをやったから、こちらもテロの一種ともいえる武力攻撃をやるのだということでは、よくなるはずがない。これは悪には悪をもって対するということだからだ。
論語に書かれているような考えは、聖書には一段と深い視点から、よりいっそう明確に記されている。この孔子が生まれる五十年ほど前に、ユダの地で、祖国が滅びようとするときに現れた預言者がエレミヤである。彼は自分の国が外国(バビロン)の攻撃を受けて滅びようとしているときに現れ、それが単なる軍事的な装備や経済問題で滅びるのでなく、国民の心が真実の神から離れて、まちがったものに結びついているからだと示された。
つぎにエレミヤ書の中から、国家の災いは、真実な神に背くことによって生じるということが、神からの言葉として、繰り返し告げられているのを示しておく。

…「立ち帰れ、イスラエルよ」と主は言われる。
「わたしのもとに立ち帰れ。呪うべきものをわたしの前から捨て去れ。そうすれば、再び迷い出ることはない。」
もし、あなたが真実と公平と正義をもって
「主は生きておられる」と誓うなら
諸国の民は、あなたを通して祝福を受ける。(エレミヤ書四・12より)

…エルサレムの通りを巡り
よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか
正義を行い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう。(エレミヤ書五・1

…主はこう言われる。ユダの王の宮殿へ行き、そこでこの言葉を語って、
言え。「ダビデの王位に座るユダの王よ、あなたもあなたの家臣も、ここの門から入る人々も皆、主の言葉を聞け。
主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない。…
もしこれらの言葉に聞き従わないならば、この宮殿は必ず廃虚となる。」(エレミヤ書二十二・15

聖書においては、個人としての人間、その人間の集合体の国家も、滅びるのか祝福されるのかは、まったく同一の原理、すなわち真実な目に見えない存在たる神を第一に重んじるかどうかなのである。
そしてこれは現在においても、いっそう切実な問題となっている。
政治においても個々の人間においても、原理は同じである。人間の集団だからといって、どうして正しいこと、真実なことがないがしろにされていいか。個人において悪であるならば、個人の集合である国家においても悪であることは必然的である。例えば、嘘をつくこと、盗むこと、殺すことなど、個人が行えば、犯罪である、それならば、国家が行っても同様に悪である。
聖書はこうした基本をじつに明確に述べている。人間が真実な神を求めるべきであるなら、国家も同様なのである。人が、まず神の国と神の義をもとめるべきならば、国家も同様だというのである。
このように考えてくれば、信仰と政治ということは決して別々のことでないことは、明らかである。エレミヤ書などはまさに、信仰と国家、社会の政治がいかに不可欠に結びついているかを一貫して述べている。
私たちは、憲法問題にしても、永遠の真理に照らして考えるとき、はたして武力を増強させ、海外にも自衛隊という武力を派遣していくことが日本や世界にとって、真によきことに結びつくのか、熟慮せねばならない。
そうした道とは全くことなる方法によって、国民の正義に対する感覚を鋭くし、その感覚の上に立って、世界の福祉や平和に貢献し、それによって自ずから世界の国々に信頼されること、それが最も国を守ることになるのである。
神は万能であり、人間や国家の根本がまちがっていたら必ず何らかの方法をもって裁きを与えるお方である。私たちは世の風潮に揺り動かされることなく、千年、二千年の歳月をも生き抜いてきた真理に従いたいと思う。
「まず神の国と神の義を求めよ、そうすれば衣食住のことはそれに添えて与えられる」と主イエスは言われた。神の国とは、愛と真実の神の御支配をもとめることであり、敵のために祈れる心をもとめることでもある。この言葉は、個人にとっても、国家にとっても変わることなき永遠の真理なのである。


st07_m2.gif休憩室

○佐多岬半島と大分での植物
返舟だよりで書きましたように、去年と同様に、十一月の中旬に四国を横断し、松山を経て、九州に向かって長く伸びている、佐多岬半島を通って、大分に渡り、そこから、九州の山地を横切って、熊本に行きましたが、佐多岬半島と大分から阿蘇山にかけての山地にいろいろの秋の植物が見られて、秋の紅葉ととも、神の芸術品を味わうときともなりました。
秋の山には、野菊のたぐいが多く、植物に関心のある者には同じ道であっても、喜ばしいものです。そのなかでも、佐多岬半島にとくに多いのは、リュウノウギクで、真っ白いやや大きめの花を咲かせて、よく目立ちます。徳島県ではあのような群生は見たことがなく、ときたま少し見かけるくらいですが、佐多岬半島では、山の道路の両側にあちこちに群生しており、道行く人に秋を告げ、神への讃美をたたえているように感じました。
また、九州の大分から阿蘇へ通じる山道、竹田市に至る高原の道では、四国ではあまり見かけない黄色の野菊、シマカンギクがあちこちに見かけました。また、赤いカラスウリが手の届かないところに、美しい色を見せていました。その他にも、ヤマシロギクやノコンギク、シラヤマギク、ヤクシソウといった野菊の仲間も見られました。
野菊というと、一つだけと思っている人もいるようですが、野に咲くキクの仲間は数十種類もあって、秋に多くみられます。
また、やはり佐多岬半島の山道で、車道から少し入ったところの自然の水が流れているところで、オランダガラシがあり、だれにも気付かれていないようですが、そのワサビに似た味を久しぶりに味わったものです。
秋の山道は、車で走る場合でも、そうした野生のキクなどの花々とともに、空の青と山の緑と紅葉や褐色や黄色に色づいた木々、そして時折みかける色づいた赤や黒の実をあちこちに目にすることができて、自然の豊かさを強く感じさせてくれるものです。同じ道であっても、植物は絶えずことなる姿を提示していて、飽きることがありません。
時折、車を止めて少しだけ山道を歩くといっそう周囲の草木が近づいて語りかけてくるように感じるものです。
聖書と、歴史と天然、この三つはつねに神の大きな御手のわざを私たちに知らせてくれています。

 


st07_m2.gifことば

169)単純な生活
…これから後、あなたの生活は、「祈り願い、受け取り、与えること」であり、考えることや行いにおいてもひたすら単純さを目ざすことになる。(ヒルティ著「眠れぬ夜のために・下」 112日の項より)

・神に祈り、神より受け、神から受けた愛をもって与える。 この三つのことからなる単純な生活が私たちの最終的な生き方となるという。新約聖書にはそのことがすでにはっきりと記されている。

心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛せよ。隣人を自分のように愛せよ。(マルコ福音書十二・3031
求めよ、そうすれば聖霊が与えられる。(ルカ福音書十一章911参照)

人間の生き方は実にいろいろとあるようにみえる。けれども、究極的な生き方はヒルティがのべているように、とても単純なものだと言える。私たちの現実は弱く、あるべき姿にはるかに遠い。しかし、そのような私たちができることは、神を信じて、その神がもっているあらゆる豊かさ、聖霊を少しでも分かち与えていただくことである。そしてその与えられたものを他者に分かつことなのだという。

170)祈りの人
祈りの人とは、単に祈りをする人ではない、祈りによってすべての事をなす人である。
更に進んで、祈りによるのでなければ、何事もすることができない人である。祈りによって学ぶ人である、祈りによって戦う人である。
すなわち自分の力によってするのでなく、神の力によって万事をなす人である。…
祈りの人とは、祈りは真実の力を持っていることを確信している人である、これに天地を動かすに足る力があることを信じて疑わない人である。
宇宙において最大の力を持っているのは、霊である神であることを知り、霊の誠実によって神に近づき、神から超自然的の力を受けようと願う者である。(内村鑑三・全集 第18 199200頁 口語的表現に変えてある。)

・主イエスは「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。私につながっていなさい。つながっていなければ、自分では実を結ぶことはできない。」と言われた。主イエスにたえず結びついているとは、ここで内村が言っているように、たえず祈りの心をもっていることと同じである。

 


st07_m2.gif返舟だより

○…毎月「はこ舟」をありがとうございます。初めて手にしたときは、難しいなあと頭をひねりながら読んでいましたが、最近は「はこ舟」を読むのが楽しくて、意味深い事を教えて頂けるので、「そうなんだ」「そうなのか」と何かを発見する喜びのような感動が起こります。「聖書を一章ずつ」「今日の力」という本、そして「はこ舟」の一ページを最小限読むことにしています。楽しみの日課となっています。(近畿地方の読者から)

・私は、聖書の意味の深さをますます知らされているのですが、はこ舟においても、聖書が伝えようとしている真理のメッセージの一端を少しでも紹介できたらというのが、願いです。

○はこ舟十月号をお送りいただき、ありがとうございました。これほど私の心の痛みをとかしていただいたことはございませんでした。感謝でございました。…(関東地方の方)

・どの記事が印象に残ったのか、わかりませんが、主が用いられるとき、小さなものでも、予想していなかった働きをするのを感じています。

○…「はこ舟」八月号を読んで、特に「よきものを見つめること、否定すること」「人間の弱さ」の文章に心が動かされ、いままでに感じたことのない気持ちになりましたので、書かせていただきました。何か、すーっと入っていけるという感覚か、自分の力を抜いていけるという感覚かわかりませんが、いままで遠くに感じていたものが近づいたという気持ちにおおわれました。
放蕩息子の話はこれまで、何度か「はこ舟」のなかで読ませて頂きましたが、勧善懲悪の考え方がしみ込んでいる私には、(放蕩な限りを尽くした息子を、悔い改めたからといって罰することもなく、喜んで受け入れるというのは)、どこかで受け入れられないものを感じていました。それは悔い改めて帰って来た弟を受け入れようとせずに、父の愛にみちた対応を非難した兄の気持ちと重なるところです。
八月号のなかの「自分中心に考えることが、大切なことを見る目を曇らせてしまう」という一文が、深く心にしみました。
これまでどれだけ自分中心に生きてきたことか、自分を出すことが強く生きるということだと、真剣に考えていました。しかし、今、自分の力を抜き、他者にゆだねることによって、よき結果をもたらすことになるということがわかり始めてきました。そうした姿勢が、広く事物を見渡せることにつながると思えます。
自分は弱いものだと思っていましたが、年を重ねると強く生きられるとも信じていました。しかし、最近では六十歳を目前にしてますます弱くなっています。いろいろの不安に襲われます。一方で、草木やいきものに慰められるのも事実です。それらが、神によって造られ、神から人間に向かってある意図されたものが込められているのを知るとなんだか安心に変わるような気がします。…(四国地方の読者から)

○大変わかりやすい平易な言葉で、福音の真理が語られております御誌に、心からの感謝をもって、繰り返し読ませていただいております。「受け身に生きる」「語りかける神」など、聖書のみ言葉とその御心が直接に伝わってくるように思えます。私どもも、これから集会などで語りますときに、大いに参考にさせていただきたいと願っています。…(関東地方の方)

○大分の集会のときも、四曲ほど私が選んだ讃美をしていただきましたが、そのうち、讃美歌21469番「善き力にわれ囲まれ」という讃美の歌詞は何人かの方々に、とくに今回のテーマであった、「終わりなき希望」との関連で印象に残ったようでした。
ヒトラーの迫害によって、敗戦直前に処刑された、ドイツの牧師、ボンヘッファーの獄中での詩に基づく讃美でした。もうじき殺されるというような悪の力のただなかに置かれていても、彼は、つぎのように書いています。「善き力に われ囲まれ 守り慰められて、世の悩み 共に分かち、 新しい日を望もう。 たとい、主から差し出されるさかずきは苦くとも、恐れず、感謝をこめて、愛する(神の)手から受けよう。善き力に守られつつ、来るべき時を待とう。」
私たちも、心を暗くさせるような出来事が多い昨今ですが、そうしたただなかで、神の善き力に囲まれているのを実感し、神の時を待ち望んでいきたいものです。