20032月 第505号・内容・もくじ

リストボタン祈りをもって見る

リストボタン愛が冷える

リストボタン私たちを担って下さる神

リストボタン主があなたの永遠の光となり

リストボタンイエスのまなざし

リストボタンことば

リストボタン休憩室

リストボタン返舟だより


image002.gif祈りをもって見る

 ある方からかなり長い文を頂いた。そこには興味深いことも書かれていた。しかし、なにかが流れていない感じがあった。それはそこに祈りの心がないからだと気付いた。祈りなき心は自分や人間しかみることができない。そこには人間の感情や意図しかなく、狭さがあるばかりで、清い世界がない。彼方の永遠の世界に向かって流れているものがない。
 人間はみな小さいものであり、何かにいつもつまずいている存在であっても、祈りを知らされているときにはその人からどこか永遠につながるものを感じる。祈りとは遠くを見つめるまなざしである。大空や山のさまざまのもの、草木など自然の世界はその永遠につながっている実態をまのあたりに見せてくれている。私たち自身が狭く限定された存在であっても、私たちの魂が無限の世界である神を見つめるとき、その魂には永遠的な何かが与えられる。
 人を見るときでも、祈りなくば、好きか嫌いか、傾倒するか、見下すか、もしくは無関心かといった心で見ることになる。しかし、祈りの心があれば、そうした感情のいずれでもないところから見つめることができる。それは使徒パウロが繰り返し語っている、「主にあって」見つめることである。主イエスの心を頂いて見つめるとき、どんな人にも好きとか嫌いとかでなく、また無関心でもない心で対するようにと導かれていく。そのときにはみんな罪をもった弱い人間だということが見えてくる。
 神を信じないとき、理性的存在としては人間しかいないことになり、人間だけを見つめることになる。そうなると人間には、じつに大きな差があるというのが見えてくる。ある人は素晴らしい能力や力を持っているが、別の人は、見るも無惨な生き方をしていたり、何一つ仕事もできないほどに体も弱いとか能力もない、というように見えてしまう。そして自分が何とか上になりたいというような欲求が伴ってくる。
 しかしキリストの父なる神をいまも生きておられると信じるときには、その無限の愛や真実、広大さ、万能の力などの前には、どんな人間の力も無に等しいほどのわずかなものでしかないし、その力や能力すらも、神がその人にある期間委ねているにすぎない。それは死によって、すべて失われる。
 大空や星たち、山の渓流のせせらぎの音、風の音、野草や樹木たち、それらが私たちの心を広げ、深めてくれるのは、それらが祈らずして神と結びついているからだ。
 私たちもたえず祈りによって神を仰ぎ、神と交わりつつ生きるとき、この小さな存在から広がり、永遠の御国へと流れていく存在と変えられていく。

わたしたちはみな、…主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。(Ⅱコリント三・18

 


image002.gif愛が冷える

 戦争をやっても構わないという考え方は、相手の国の貧しい庶民がどのようになっても構わないという考え方が背後にある。それは主イエスが言われた、「愛が冷える」ことである。

…戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、気を付けて、うろたえないようにしなさい。そういうことは起こらねばならないが、まだ世の終わりではない。
民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。
しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。…
そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。
偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。
不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。(マタイ福音書二四・614

 一昨年のアメリカの世界貿易センタービルの破壊事件の報復として、アメリカが武力報復を唱えて実行したために、いっそう武力報復ということがあちこちでなされるようになってきた。
 イスラエルとパレスチナとの相互の武力報復とテロの悪循環はいっそうそのひどさを増しているし、ロシアとチェチェンとの紛争も同様である。
 さらにイラクに対する報復戦争が行われようとしている。こうした一連の動きの行き着く先はどうなるのか、何が待っているのかだれも知らない。
 もしこのような武力による報復ということを世界の国々が同様にやっていったらどうなるのか、日本の政府を代表して発言する立場にある官房長官が、日本も核兵器を持つようになることも考えられるなどと、言ったことがある。平和憲法とそれに深く結びついている非核三原則を真っ向から破るようなことを、こともあろうに政府の代表者がごくさりげなく言うのである。
 このようにしてつぎつぎと核兵器を世界の国々が持つようになったらどうなるのか、何が生じる可能性が濃厚になるのか。
 核兵器を持つとか武力をいっそう整えるといった主張は、もし外国が攻撃してきたらどうするのかという恐れがつねにもとにある。しかしその危険性と、武力をどんどん貯えて、それを他国も真似て世界が核兵器を装備した軍備拡張の競争となっていったときの危険性といずれが大きいのか、ということである。
 何もしていない国、平和を実践すべく、核兵器も持たず、いかなる戦争行為も行わないことを国是とし、他国の平和や教育、医療や、生活一般への援助を絶えず強力に押し進めている国があるとして、そのような国に、現在の世界の状況からみて、いったいどのような国がミサイルを撃ち込むというのか。
 武力報復は間違っているという主張がどうして通らなくなるのか、それは戦前と似ている。相手をできるだけ悪い者とみなし、それによって人間の攻撃心を刺激し、武力攻撃を正当化しようとする。
 しかし、実際に大きな悲劇的事態に直面するのは、政治の表面に立っている政治家でなく、一般の庶民、貧しい人々なのである。
 ある国が攻撃してきたらどうするのか、軍備を整えていなければ滅びるのではないか、といって軍備、ことに核兵器を持とうとする考え方をどの国も持つようになったらどうなるのか。こういう考え方を延長していくとどうなるのか。それはますます世界が核戦争の脅威にはまりこむということである。アメリカのビル爆破は通常の飛行機でなされた。しかし核兵器があの場に落とされたら、その被害の甚大なことは、到底あのようなビル爆破とは比較にもならない。
 ある国が危険だといって核兵器をますます世界の国々が持っていく方向はそうした危険な方向に進むことに他ならないのである。そうした核兵器は絶対に用いてはならないものであり、そうした方向でなく、たえずよきことを計り、国際的に発言し、そのために多くの労力と費用を用いていくこと、それが危険の伴わない、双方の国の庶民にとっても一番よいことなのである。
 戦争が起こるのではないか、たえずそのことが議論される今の時代を、二千年前にすでにキリストは預言していたと言える。
 すでにあげたように、キリストは「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。」と言われた。どの時代にもこうした状況は見られたのであるが、現在の日本や世界においても、国は国に敵対して起こるとか、地震や飢饉などが生じるといったことは、あたかも今言われたかのように現実味を帯びてきている。
 こうした危険性の到来も必ず起こることだと言われているが、他方で、神を信じて最後まで希望をもって耐え忍ぶ者は救われるという約束もまたなされている。
 神を信じるとは、朽ちる希望でなく、神に根ざす希望を与えられていることであり、どのような事態があってもなお、過去の二千年の間もそうであったように、キリストを信じる者には必ず救いの道が示され、この世界が最終的には光が支配するようになるという希望に満ちた世界を知らされているのである。
 そして周囲にいかに愛が冷えていくことがあろうとも、人間を越えた神からの愛をうけて生かされる道が示されている。

 


image002.gif私たちを担って下さる神

 私たちは日々何らかの重荷を背負って生きている。その重荷は、病気であったり、家族の問題、また仕事上でのこと、あるいは友人や異性などの人間であったり、また、世界の多くの国々では貧しさや内乱などで、生きることそれ自体が困難な重荷であったりする。
 地位がなくて、いつ辞めさせられるか分からない状態も重荷であるが、地位が高くて責任ある場合にも別の重荷がある。職業生活にはそれぞれに苦しみもあり重いものを背負っているが、その職業を辞めたら重荷がなくなると思っても今度は、退屈とか病気、将来への不安など老年のさまざまの重荷がやってくる。
 こうしたさまざまの出来事のゆえに生じる重荷とは別に、もっと内的な重荷がある。それは自分が正しい道から外れているということである。過ぎ去った日々を思い起こすとき、あの時には○○すればよかったとか、○○したのは大きな間違いだった、もう一度やり直しがきけばよいのだが…などといった過去に犯した罪ゆえの苦しみと重荷がある。それは過去にとどまらず、現在の自分についてもどうしても除けない自分の内なる罪ゆえに、生きることが重荷となってくる場合がある。それは朝目覚めたときに、そうした重荷が自分を覆ってしまいそうになり、これからまた背負わねばならない重荷を思って苦しい思いで起きあがる人も多いだろう。
 また重い病気で、苦しみにさいなまれ、治らないのではないかという恐れを伴った不安は生きること自体を重くしてしまうだろう。
 このように、この地上で生きるかぎり、私たちにはさまざまの重荷があり、その重荷を除くことはできないのである。
 私たち自身が自分の背負わねばならない重荷で日々苦しめられている。そのような私たちの実態を知ってくださっているのが、すべてを見通し、憐れんで下さる神のまなざしであり、その重荷を担って下さるためにキリストは来られたのである。
 キリストは救い主だと言われる。何からの救いなのか、それはこうしたさまざまの重荷からの救いである。病気や人間関係、家族問題などいろいろの問題を、根本から重くしているのが、私たちの罪であるが、それに私たち自身は気付いていない。
 私自身、キリストを信じるまでは、他人や社会の罪は絶えず思い起こされても自分の罪というのは分かっていなかった。
 福音書に書かれていることであるが、中風で起きあがることもできず、長年寝たきりであった人を運んできて、どうしてもイエスに会わせたいとの熱意から、入る場所もない状態だったので、家の屋根をもはぎ取ってイエスのいる場所の前につり降ろしたという人たちがいた。そのような主イエスへの絶大な信頼に応えて、イエスが言われた言葉は、その病気をいやしてあげよう、というのでなく、「あなたの罪は赦された」であった。中風の苦しみと差別に耐えかねてきたであろう病人や運んできた人たちへのねぎらいや癒しでなく、彼らがだれ一人気付かなかった罪、真実なる神から心が離れていることを見抜き、それが中風の苦しみを救いがたいものにしていたことを知っておられたのである。
 このように、重荷の根源が罪にあることを知っておられたがゆえに、キリストがこの世に重荷を取り去るために来られたとき、それは罪を取り除くためというのが第一の内容になった。そして十字架上にて死なれたのもその罪の力を取り除くためであった。罪の力は最大の重荷であるからだ。
 主イエスは罪の重荷を取り除くという大変なわざを、ただ信じるだけで可能な道を開いてくださった。これは驚くべき道である。どんな学問や経験、あるいはよい家庭などであっても除けない、人間の奥深い本性を、何一つ償いとか、修業、費用などをかけずに、それぞれがただ心の真実をもってキリストの十字架を罪の赦しのためと信じて受けるだけでよいのである。私自身がそのようなきわめて単純な信仰によって、罪の重荷を軽くして頂いたのである。
 しかし、その赦しが与えられてからも、人間には病気や家族、また職場などでさまざまの重荷が残っている。それをどうするかということになるが、そのことについても主イエスは、重荷を取り除いてくださる道を備えてくださった。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの首木
*を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
わたしの首木は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ福音書十一・2830より)

*)首木(くびき)とは、丈夫な横木で造られた道具で、二頭の家畜の首に固定させ、車やすきを引かせた。軛とも書く。

 この主イエスの言葉は、罪赦された者が日々の生活で出会うどんな種類の重荷であっても、主イエスを仰ぎ、私につながっていなさいとの言葉の通り、主イエスにいつも心をつないでいるかぎり、その重荷は必ず軽くされるという約束だと言える。
 そのようなことはない、重荷はいっこうに軽くならないと言う人もいるだろう。長く続く病気や人間関係からくる苦しみからいかにしても解決の道が見えないときには、たしかにそのような気持ちにもなる。しかし、そのような時にそれなら他のどんな解決の道があるだろうか。人間の重荷や苦しみには金や医者や家族、友人などによってもどうすることもできないことも多い。
 そのような重荷を主イエスのところに持っていくだけで、担って下さるという約束である。持っていくところのない重荷を、主が共に担って下さる。解決の道がいつまでも見えないときであっても、それでもなお主イエスの約束を信じ続けるとき、神の力はそこに必ず現れる。
 こうしたこの世の重荷を担うことについて、すでに主イエスより五百年ほども昔に書かれたといわれる書物では、神ご自身がそのような重荷を負いきれないで苦しむ者を、担って下さることが書かれている。

同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで
白髪になるまで、背負って行こう。
わたしはあなたたちを造った。
わたしが担い、背負い、救い出す。(イザヤ四十六・4

 苦しみのときに助けて下り、また、共に歩んで下さるということを約束して下さっている。その上に、私たちがもはや歩けないといったような弱り果てたときでも、神はさらに深い配慮をしてくださる。それはつぎの聖書の言葉にあるように、歩けなくなった者をそのままで担って下さるというのである。

彼らの苦難を常に御自分の苦難とし
御前に仕える御使いによって彼らを救い
愛と憐れみをもって彼らを贖い
昔から常に彼らを負い、彼らを担ってくださった。(イザヤ書六三・9

 そしてこうした「担う」神のすがたは、別の箇所でもこのように記されている。旧約聖書の神とは、しばしば裁きの神とか、怒りの神などと言われることがあるが、決してそのような単純なものではない。そうした裁きとか怒りといったことも、まちがった道に行くならば必ず破滅する、本当の幸いから引き離されてしまうという強い愛の心からの警告であり、裁きといわれるものも、そのような苦しみを与えて本当の道、神を信じる道に立ち帰らせる目的があった。
 人間には、だれにでも最後にだんだん重い荷となってくる、老年と病気、そして死ということがある。とりわけ死ということはいかなる人もだれかの死を代わりに担うことなどできない。死という厳粛な事実に対しては、いかなる権力者や科学技術、人間の助言や働きかけもすべて力なくうなだれるばかりである。
 このような死という事態が襲ってきたときでも、神は私たちを担って、本来ならだれもその重荷のゆえに越えることのできない川のごときものを越えて、神に担われて神の国へと、キリストのおられる光と愛に満ちた世界へと導いて下さるのである。私たちが地上にある間は、最も重荷となる罪を赦し、罪への罰を身代わりに担って下さり、さらに私たちが死を迎えたとき、本来なら命を失って闇のなかに沈んでいく存在であったものを担って御国にへと導いて下さる。
 私たちの信じる神とはこのように、最も困難な重荷を最後まで担い続けて下さる神なのである。

 


image002.gif主があなたの永遠の光となり

太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず
月の輝きがあなたを照らすこともない。
主があなたのとこしえの光となり
あなたの神があなたの輝きとなられる。
あなたの太陽は再び沈むことなく
あなたの月は欠けることがない。
主があなたの永遠の光となり
あなたの悲しみの日々は終わる。(イザヤ書六〇・1920

 太陽は永遠の存在だと古代の人々には思われていた。しかし、ガリレイが一六〇九年に、望遠鏡で月のような天体も地上の物体と同様な物質だということを観察して、ようやく天体も特別な、地上のものとは本質的に異なる物質ではないと考えられるようになった。
 しかし聖書の民は、太陽の光も神が与えたものにすぎないとの啓示を受けていた。そして天体ですら寿命があることの予感を与えられていた。
 
天の万象(太陽、星などの天体)は衰え 
*
天は巻物のように巻き上げられる。ぶどうの葉がしおれ
いちじくの葉がしおれるように
天の万象は力を失う。(イザヤ書三四・4

*)万象とは、あらゆる事物をいう。聖書では最初の書物である創世記の二章に初めて現れる。
「天地万物は完成された。」この箇所では「万物」と訳されている。また、次の箇所のように、太陽、月、星などの天体を意味するときもある。「また目を上げて天を仰ぎ、太陽、月、星といった天の万象を見て、これらに惑わされ、ひれ伏し仕えてはならない。」(申命記四・19


 この箇所では、永遠に変わらないもののように思っている天体ですら、衰え、巻き上げられるかのようになって消えていくということが啓示されている。
 しかし、世界のたいていの民族では太陽を永遠のものとみなして、それを神と崇めていた。エジプトやインド、そしてインカ帝国でも太陽を神と崇めていたし、古代ギリシャでも、アポロンという神は太陽神である。ローマのアポロはそのギリシャの神の名前のラテン語形である。日本でも天照大神(あまてらすおおみかみ)は太陽の神である。
 こうしてどの民族も太陽を神としているただなかで、聖書の民だけは、太陽のような絶大な存在すらも、神が創造した被造物の一つにすぎず、さらにその光も神がまず光を創造して、その光をもらっただけのものだと知らされていた。(創世記第一章)
 このように太陽や星々さえも、被造物であるゆえに、それらは神の御計画によって巻き取られ、消え失せるとすら言われているのである。それは例えば、人間が建物を造ったらそれを壊すこともできるのは当然であるのと同様である。
 太陽や星々が消えてしまうといったことは、現代の天体物理学でも明らかになっている。例えば太陽も宇宙に誕生してからおよそ四六億年、あと五〇億年余りは寿命があるとされている。最終的には太陽は白色矮星から小さな黒色矮星となり、銀河系のゴミのごときものとなって果てる。
 聖書ではこのような物理学的なこととは全く異なるが、その有限性を明確に述べている。
 宇宙物理学では、地球もいずれはるかな未来には、太陽が赤色巨星となっていくにつれて、地球は太陽に飲み込まれ、その高熱のために宇宙空間に蒸発してなくなるということしか分からない。それは実に空しい結論である。
 人間が死んだら体を構成していたタンパク質や脂肪、水、無機質などは、火葬にせよ、土葬にせよ、水中葬にせよ最終的には、二酸化炭素やイオウや窒素の化合物、水、あるいは金属化合物となって大気中や地中に帰っていく。太陽や地球も最終的には宇宙に帰っていくのも、人間の体が変化していく状態と似たところがある。
 要するにみんな消えていくということになる。科学が結論できるのはこのように、希望のまったくあり得ない未来像なのである。
 聖書ではそのような何の力にもならない未来像とは根本的に異なる未来を約束している。
それがこのイザヤ書の箇所にも見られる。
 太陽や星々、月などはすべて一時的な光である。永遠の光は神ご自身なのだということが力強く宣言されている。
 科学という学問によっては人間はこの大いなる宇宙の中で、将来は消滅してしまうという結論しか得られない。これこそ、神が私たち人間に、科学やその他の学問と異なる方向へと方向転換するようにとの強い促しなのである。
 聖書に記されている神の言葉は、あらゆる目に見えるものが最終的に私たちの光となるのでなく、神ご自身が光となって永遠から永遠に至るということである。なんと希望に満ちた未来観であろう。
 ここで注目すべきことは、神が光となるということに加えて、

「あなたの悲しみの日々が終わる」と言われていることである。
 この地上に生きる限り、私たちは数々の悲しみに遭遇する。外見からみて分からなくとも、心の奥深くに秘めた悲しみを持ちつつ、心にて涙を流しつつ生きてきた人々は数知れないだろう。人間関係の悲しみ、生まれ落ちたときから親もいないような人、親子や兄弟同士の反目、離反、そして職場や友人同士の中での無理解、中傷、さらに病気という重い荷物、ことにもう治らないと宣言されて痛みと苦しみのみが増し加わっていく絶望的な悲しみ、また老年の孤独と不自由、死に向かう悲しみもある。そして国家の内部での戦争や外国との戦争のゆえに傷つけられ、愛するものを奪われた悲しみ…、さらに、こうしたいわば外から来る悲しみと違って、自分の犯した罪によって取り返しのつかない事態になってしまったこと、あるいはそのようなことを引き起こしてしまう自分の罪深い本性のゆえの悲しみもある。
 こうした悲しみをまったく持たずに年齢を重ねていくことは一人もないであろう。
 身近に自分のことをかまってくれる人がいてもなお、いやすことのできない悲しみを抱えて沈むような心をもてあます人々もあるだろう。
 人間として生きる限り、だれもが直面せざるを得ない深い悲しみ、それを神が最終的に終わらせてくださるという。ここには、すでに述べたようなありとあらゆる悲しみをすべて見抜いておられた神のお心の一端を感じさせるものがある。

 主が永遠の光となり、
 あなたの悲しみの日々は終わる!

for the LORD will be your everlasting light,
and your days of mourning shall be ended.
NRS

 これは万人の心の深いところでの願いを成就して下さる神の愛を表している。どうしようもない暗い心、どのような慰めも人間の交際や娯楽もいっさいをもってしてもどうすることもできない人間の深い悲しみ、そのただなかに神は来て下さり、光を投げかけてくださり、いかなる深い悲しみをも終わらせて下さるという。何と喜ばしいこと、感謝すべきことであろう。
 悲しみの日が終わること、それは主イエスもはっきりと約束して下さったことである。

ああ、幸いだ悲しむ人々は。
その人たちは(神によって)慰められるから。(マタイ福音書五・4

Blessed are those who mourn,
for they shall be comforted.

この短い主イエスの言葉、約束のなかに、人間の持っているあらゆる悲しみに、御手を伸べてくださる神の愛が背後に感じられる。イザヤが世の終わりに成就すると預言したことは、キリストがこの世に来て下さったことによって、すでにそのことを信じる人にはその約束が成就されてきたのである。

 信じる者に悲しみへの深い慰め、励ましが与えられても、なおこの世には至るところにそうした悲しみを持つ人々はいるし、あらたな悲しみを生み出す戦争や貧困、飢餓、病気がつねに生じている。そうした世界の悲しみを最終的に決着させるために、キリストは再び来られるという約束が与えられている。このことを信じる信仰なくしては最終的に悲しみは終わらないからである。
 そのゆえに、聖書の最後の書である黙示録に、やはりこのことがはっきりと記されている。

わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。…
更にわたしは、聖なる都が神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。
そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。
…「見よ、…神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、
彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」(黙示録二十一・14より)

 この世にはどんなことがあっても修復されない悲しみがある。そのことを神はご存じである。それゆえにこのように今から二五〇〇年ほども昔から、そうした悲しみが終わる日が来ることが預言され、それはキリストによって信じるものに成就し、さらにこの世全体が造りかえられて、悲しみが終わる日々が来ると約束されて聖書はその結びとなっているのである。
 どのようにしてそんなことが生じるのかわからない。人間が死んでどのようなかたちで復活して、キリストと同様にされるのかわからないのと同様である。
 ここに信仰が必要とされる。信仰があれば、そうしたすばらしい約束を内に持つことができ、実際に深い悲しみに今、慰めが与えられることによって、世の終わりにも確かに聖書に書かれたようなことが実現するのだと予感することができる。
 主よ、そのような御国を来たらせたまえ!

 


image002.gifイエスのまなざし

 新約聖書で、ルカ福音書にだけ記されている、徴税人ザアカイの記事がある。現代の私たちの生活のなかで、徴税人といっても、今で言えば、税務署長といった仕事の人であり、大して関心もわかないであろう。どうしてこんな税金を集める人のことがとくに書かれているのか、初めて読む場合には疑問に思う人も多いと思われる。 この徴税人の記事を通して、現代の私たちにどういうことを告げているのか、考えてみたい。

…イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の長で、金持ちであった。
 ザアカイはイエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。
 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
 これを見た人たちは皆非難して言った。「あの人は罪深い人のところに行って宿をとった。」
 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。
人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ福音書十九・110より)

 当時のイスラエルの国では、税金を集めるという仕事が現在の日本とは大きく異なる意味があった。 この時代には、イスラエルはローマ帝国の支配下にあった。税を徴収するという仕事を、その支配下においていたユダヤ人を選んでさせていた。税をいくら徴収されるのか、現在のような広報や新聞などもなく、一般の人々にははっきり分からないことが多く、そこから不正をして、収める額以上の金額を自分のふところに入れるという徴税人が多くいたと考えられる。同胞がローマ帝国に侵略され、支配されているのに、その支配者の側に雇われ、命じられ、しかも自分のふところに勝手に税金からの金を取り込んでいるということになると、当然同胞のユダヤ人から強く憎まれることになった。
 それゆえ、当時の聖書学者たちからは徴税人は盗人と同様なものとみなされ、社会的にも公的な仕事からは徴税人とその家族たちは除外された。そのことは、福音書にあらわれる徴税人という存在が、盗人のような罪人や娼婦と同様に並べられていることからも推察できる。

…イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に…。(マタイ福音書二一・31より)
…人の子が来て、飲み食いすると、「見ろ、…徴税人や罪人の仲間だ」と言う。(マタイ十一・19

 また、当時のユダヤ人は、ユダヤ人以外の人(異邦人)と交際することすら律法で禁じられていた。それは次のような箇所からもうかがえる。

…彼らに言った。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。」(使徒言行録十・28より)

 そしてユダヤのすぐ北のサマリア地方の人とも交際していなかったことも新約聖書にみられる。「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。」(ヨハネ四・9より)

 このように異邦人は神の言(律法)を知らず、従ってそれを守ることもしない。そのため偶像を神とあがめているし、ユダヤ人の律法で禁じられていた豚などの動物も自由に食べる。だから異邦人は汚れており、交際してはいけないというのであった。
 しかし、徴税人はこうした規定にも背くことになる。異邦人であるローマ人と日常的に交わるからである。その上、彼らから徴税人という仕事をもらい、さらにユダヤ人から金をだましとったりして金持ちにまでなっているということであったから、ユダヤ人からは憎しみと軽蔑の対象になっていた。
 こうした背景を知っていなければこのザアカイの記事の意味は分からないのである。
 このような同胞からは見下され、憎まれていて誰が心の平和を感じるであろうか。徴税人という嫌われる仕事を選んだのは何か特別な理由、家庭の貧しさとかどうしても収入が必要な窮地にあったとかがあったのであろう。そしてその職務に忠実であったから、徴税人の長になっていた。しかしそうした地位が与えられるといっそう同胞のユダヤ人たちからは憎まれることになる。
 周りのユダヤ人の人々から日常的に見下され、社会的にも見放されていた状態からくる淋しさ、孤独、あるいは悲しみが彼の心を支配していたであろう。こうした心の問題は、おそらく彼の家族からもたえず持ち出されていたと考えられる。しかしそういう状態から脱出する道はまったく見えなかった。もしその徴税人という職業を辞めたとしても、到底まわりのユダヤ人たちは赦してはくれないだろう、収入は無くなる上にどこにも仕事をする場もないとなれば、生きていけない。とすればいまの職業を憎まれつつも続けるほかはない。それは将来にまったく展望もなく、希望もない生活であった。
 こうしたザアカイの心に、おそらくかつて耳にしたであろう、マタイ(レビ)という人のことがふとした折りに浮かんできたと思われる。マタイも同じ徴税人であった。しかし彼はその仕事中に、イエスという人から、「私に従って来なさい!」という一言で、徴税人の仕事を辞めて、イエスに従って行った。こんなことは前代未聞であり、同じ徴税人仲間の驚くべき出来事として、ザアカイのところにも届いていたと考えられる。
 それまでの収入や仕事そのものをも、ただ一言のもとに捨てさせる人間とはいったいどんな人間なのか、自分の現在のこの平安のない生活からの転換をさせてくれるような人かも知れないと淡い期待を持って、何とかしてイエスという人を見たい、と強い願いを起こした。
 しかし、人々はザアカイというと、自分たちから不当な税金を徴収して異邦人たるローマの人たちに収めている汚れた人間なのだと知っていたから、ザアカイを中に入らせるということもしなかった。彼は背が低かった、とわざわざ書いてある。背が低いということは、ただそれだけでも、見下す人ができるものである。ザアカイは政治社会的な意味においても、また宗教的な意味からしても、さらに体の特徴からしても背が低いということもあり、何重にも周囲の人から見下されていたのだとわかる。
 こうした状況にあったから、ザアカイが何とかしてイエスを見たいと思っても、イエスを取り巻く人混みのなかに入っていくこともできなかった。
 普通ならば、それであきらめるだろう。しかし、ザアカイの心の内に引き起こされたイエスを見たいとの強い願いは、手段を選ばなかった。彼は人に道を空けてくれ、自分も見たいのだといっても相手にされないのが分かっていた。それで周囲を見渡した。前方には一本の木があった。彼はそれを見て、唯一の手段としてその木に登ることをただちに決断した。それは徴税人の長としての振る舞いとしてはふさわしくないものであったといえよう。大人が、大勢の人たちのいるところで、木に登るなどということ自体が恥ずかしいことで決してできないようなことであったはずである。
 しかし、主イエスが持つ力に引き寄せられた魂は通常のあり方、常識といった枠にははまり切らなくなる。
 福音書の中に、中風で寝たきりの人がいて、その長い間の苦しみに接していた友人がなんとかイエスという驚くべき力をもったお方のところに会わせたいと熱望し、重い病人の体を担架のようなものに載せて運んできたことが書かれている。
 しかし群衆にさえぎられてどうしてもイエスに会わすことができない。それで彼らは、雨量の少ない地方ゆえに屋根の構造が簡単であったので、その屋根をはいで、イエスの前につり降ろすという常識では考えられないような手段に訴えた。するとイエスはそうした行動を責めるのでなく、そうまでしてイエスへの信頼を表した人たちのその信仰をほめられ、罪の赦しといやしを与えられたのであった。(マタイ九・18
 この人々と似たような心がザアカイのなかにはあったのであろう。主イエスが持っている、目には見えないある力によってザアカイは木の上に引き上げられるように登っていった。 イエスは自分とは遠いところにいる。すぐ側でイエスに触れている者、話しを交わしながら歩いていく多くの群衆たち、しかし自分はただ木の上から見るだけだ、そういう思いもつかの間であった。誰一人予想してもいなかったことであるが、イエスの方から目ざとくザアカイを見つけたのである。近づけないほど人が周囲を取り巻いていたから、ザアカイが走っていくのも目にとまらなかったはずである。まわりの人々からおそらくひっきりなしに問いかけられる言葉もあっただろう。そのようなイエスが、たった一人離れた場に行って、木に登った男などまるでわからなかったと思われる。しかし、意外なことはそのようなみんなが顧みなかったたった一人の人間を主イエスだけは鋭くとらえ、その心に長年積もってきたであろう孤独と悲しみをも見抜かれたのである。これは驚くべき愛の現れという他はない。人間らしい扱いを受けてこなかった一人の苦しみや悩み、社会から見放され、盗人のような罪人扱いをされてきて、まともな仕事にももはやつけなくなっていた人間、そこからどのようにしても脱することのできない袋小路にはまりこんだ人間の抱える重荷を、主イエスはいち早く見抜くことができたのであった。主イエスのまなざしこそは、すべてを越えて本当に必要なところを見抜くのである。
 そして木の下から、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい。」と呼びかけた。そのイエスの一言が、それまでのあらゆるザアカイの苦しみや重荷を解決するものとなった。自分の過去の罪、それは人間にはどうしても赦してはもらえないものゆえ、前進することもできず、立ち往生していた一人の人間に、明確な道を指し示し、そこにいっさいの解決があることをたった一言で分からせることができたのである。
 主イエスの愛のまなざしを受け、その個人的な呼びかけを聞き取った者は、ザアカイのように、主イエスが自分のところにきて、留まって下さるのを実感する。ヨハネ福音書で、「私の内に留まっていなさい。そうすれば私もあなた方の内に留まっていよう」(ヨハネ福音書十五・4)と言われているとおりである。
 私自身、キリストの福音を知るまではどのように考えても、学生仲間と議論しても、教授の話や講演などを聞いても道が見えてこなかった。周囲の者たちもそうした問題の解決をまったく知らなかったのである。そのような私にやはり、わずかの言葉で主イエスは根本的な転換を与えて下さった。
 そうした自分自身の経験から、このザアカイがイエスの一言で変えられたのも共感できる。それほどイエスの一言は力がある。それは神の言葉であるから。イエスの個人的な呼びかけによって、ザアカイは周囲の非難のまなざしを浴びせる人たちのただなかで、新しく生まれた宣言をすることができた。

…ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」(ルカ十九・8

 財産とは長い間かかって造ったものであり、それをたいそう重要だと考えていたからこそ貯えてきたのである。現在の私たちの感覚でいうと、財産とは土地建物や預金などを含むのであるから、相当な金額になるだろう。その半分をただちに他人に与え、さらに残った金額をも、不正な取り立てをしていた場合には、四倍にして返すとまで、宣言するというのは、驚くべき転換である。よほどの力が魂にはたらかないとこんな決断はできない。その財産に結ばれていたザアカイの魂は、主イエスの一言によってその金や地位の引力から断ち切られ、主イエスに結ばれたのであった。私たちに必要なのはこうした力ある言葉なのである。人間同士の議論は、雑誌、新聞やテレビなどに日々満ちあふれている。しかしそれらは知識は得るであろうが、生きる力は与えることができない。困難や苦しみのただなかにあっても、なお希望を持ち続けることのできる精神の力はそうした人間の議論では得ることができないのである。それはただ、真実な力の源である神から、そしてその神が私たちに送られた主イエスから来る。
 ザアカイは何もよいことをしたわけではない。それどころか、同胞から非難され、後ろ指をさされるような生き方をしてきたのである。にもかかわらず、主イエスは彼をだれもが見下すただなかで、神の愛をもって見つめ、名をもってザアカイを呼び出し、無条件で救いを与えられた。ここにキリスト信仰の本質がある。キリスト教という信仰は、なにかよいことをたくさんしなければ救われないというのではない。どこかの組織に加わらないと救いが与えられないというのでもない。あるいは多額の寄付金を献金しなければいけないというのでもない。病気で何もできなくても、また老年であるとか、貧しさや無学、過去に犯した罪がいかにあろうとも、ただこうしたキリストからの呼びかけを感謝して受けるだけで、救いへと、すなわち本当の幸いへと入れていただけるのである。
「今日、救いがこの家に来た!」 この主イエスの宣言によってザアカイの救いは家族の救いへの第一歩となったこともうかがえる。
 キリストによる救いは、このように不連続的なのである。いろいろとよい行いを積んで、経験を重ねて、あるいは宗教的修業をやってからようやく救われるのでない。今も活きておられる、キリストからの呼びかけを感じてそれを受けるとただちに救いはそこに来たのである。これは私自身が、ある日突然にして信仰を与えられたという経験があるゆえに、その真実性をいっそう強く感じる。
 もちろん徐々に救いの確信が与えられることも多い。しかし基本的には救いとはイエスの言葉、そしてイエスの力によってつねに不連続的に与えられるものなのである。キリスト者となってからも、私たちは罪を犯したり、意気消沈したり、力を失ったりする。しかしそこから主イエスをしっかりと見上げるとき、直ちに私たちにそこからの救いが与えられる。自分ではどうしたらよいのか分からないほどに苦しいときもある。それでも私たちが立ち帰れ!との促しにしたがって、主イエスを、神を見上げるときには、私たちの感情や気分の如何を問わずすでに救われているのである。
 「人の子は、失われた者を捜し出して救うために来た。」と言われた。イエスは捜しておられる。ザアカイのように、過去の罪によって苦しむ者、病気やさまざまの問題で疲れ、歩けないようになっている者たちを。主イエスの捜されるまなざしを感じて私たちがふり返るとき、私たちを神の愛をもった御手でとらえてくださり、御国へと歩む者として下さるのである。

 


image002.gifことば

151)絶え間なき祈り
‥‥キリスト者は絶え間なく祈るべきである。まさにキリスト者の命は祈りである。もし私たちが不完全であるならば、祈るべきである。もし信仰が足りないというなら祈るべきである。よく祈ることができないからこそ祈るべきなのである。恵まれても祈るべきであり、呪われても祈るべきである。天の高きに上げられるような時にも、陰府(よみ)の低きに下げられる時であっても私たちは祈る。私は力なき者、それゆえに私ができることは祈ることのみ。(「内村鑑三全集」第二巻249頁)

・日本において、内村鑑三は明治になってから以降、最近百数十年において最も力あるキリスト者であったと言えるだろう。その内村の力はどこから来ていたか、それはこの文章でみられるように、深い祈りにあったのがわかります。真に力ある人とは、このように自らの弱さを自覚し、そこから神に向かって心こを尽くし、精神を尽くし、理性的なものもすべてをあげて神に祈るとき、人間が持っていない力を与えられるのである。

152)…ただ、イエスの御名を繰り返し唱えることだけでも、神との交わりへの渇きを満たすのに十分なのです。…
 神はすべての人間の言葉を理解してくださいます。神のそばに黙ってとどまること、それはすでに祈りです。くちびるは閉じたままでも、心は神に語りかけています。そして聖霊によってキリストは、創造をはるかに超えて、あなたの内で祈ってくださいます。」(「テゼ その息吹と祈り」八九頁)

・主は私たちの心をすべて見ておられる。私たちが、イエス様、イエス様とか、主イエスよ、主イエスよ、または、主よ憐れんで下さい!といった最も単純な祈りを心から繰り返し祈るだけでも、聖霊を注いで下さる。わが内に留まれ、そうすれば私もあなた方の内に留まると主は約束して下さった。聖霊がとりなしをして下さるという使徒パウロの言のように、私たちかただ主の許にとどまるだけで、聖なる霊がとりなして下さる。

 


image002.gif休憩室

○現在(2月下旬)では、だいたい夜九時頃以降、頭上を見上げると、木星の強い輝き、そして澄んだ輝きがいつも見られます。金星、火星、木星、土星など惑星の名前は小学校のときからすでに、ほとんどの人は知っています。しかし、意外なことに、ほとんどの人がそうした星を見たことがないのです。これら惑星は、その強い輝きのゆえに見つけることも容易だし、宇宙への関心を呼び覚ますものです。夜の大空に輝くこうした星たちを見つめることは、その背後にそれらを創造された、神への思いへと結びつきます。地上の自然とちがって、いかなる人間の科学技術によっても破壊も汚しもできない宇宙の星たちは、数千年前と変わらぬ深い味わいのある輝きを放ち続け、心を開いて見つめるものに、言葉ならぬ言葉で語りかけています。

神が光を送ると、光は進み、
一声命ずると、光はおそれつつ従う。
星はそれぞれの場にて、喜びにあふれて輝き
神が呼ぶと、「ここにいます」と答え、
喜びつつ、自分を創造した神のために輝いている。(旧約聖書続編バルク書三・3335
*

 今から二千年以上も昔に書かれたこの文書にも、星の光も神がそのご意志に従って送っているのであり、その星は神の愛に満ちたご意志を受けているゆえに、喜びにあふれて輝いていると記されています。星を見てもただその無言の輝きを見るだけ、あるいはほとんど星を見たこともない人も今日の都会の人には多いと思われます。しかし、このはるかな昔の詩人は、星の光のなかに、神に結ばれている喜びを感じ取っていたのです。そのような喜びを感じる魂には、自ずからその喜びが自分にも伝わってくるでありましょう。共鳴するのです。

○先日、かなり遠距離の聖書集会に参加しての帰途、夕方に車のフロントガラスをう通して、前方に光を心を引きつけるような色合い、雲の形と動きに出会ったのです。そこからこの地上に沈黙のうちに、神の国からの光が放射されているかのようでした。神からの聖言も同様、目には見えないけれども、あの光のように私たちの世界につねに放射されているのだと感じました。

*)バルク書とは、旧約聖書の続編に含まれる書物で、バビロン捕囚とされた人たちの中で、バルクという人物が、バビロンにいる同胞たちに宛てた励ましや祈り、真理への讃美の書。

 


image002.gif返舟だより

○文集「野の花」についての関西在住の読者からの来信です。この方は私の大学時代からの信仰の友です。

…野の花のように、さまざまの色あいと輝きに満ちた文章が、記されていて肝銘を受けました。心に播かれた良き言葉は、長く思いめぐらすうちにいつしか成長するもののように思われます。…日夜のみ言葉に関わる活動がそのような良き言葉の輪を周囲に広げている様子が文集を読むと目に見えるようです。
 イラク問題、北朝鮮問題、パレスチナ問題、その他各地で起こる爆弾テロと今の世界にはあちこち暗雲が漂っているようです。
 「はこ舟」で吉村さんがイザヤ書によって述べられたとおり、光を見いだすことがとりわけ大切であると思います。心に光が射し込んでくる言葉を探したいと願われます。そのような言葉をたくさん運ぶ「はこ舟」に感謝しています。…

・聖書はいつの時代の闇をも照らす光に満ちており、その光の幾分かでも受け取った魂は、やはり何らかの光を周囲に投げかけるものだと思います。
 私たちがキリストの光をさらに受けて、それをまわりにも分かつことができるようにと願っています。

○次は無教会のキリスト者で、関西の大学で長く教鞭をとってこられた方からの来信です。

…日本のマスコミは、拉致といえば拉致(それも公けになるまでは黙しておいて)、ノーベル賞といえばそのことばかり大騒ぎして、最も大切な戦争責任のことや仰せの科学者の責任のことは、語らずじまいで、これは昭和初期の満州事変に太鼓を叩いたのと同じやり方です。時ますます悪化、責任の重さを覚えます。…

・政府やマスコミがある特定の方向に引っ張っていこうとするとき、それに抗して真理の側につくことは、上よりの力を頂き、たえず神の守りの内に置かれていなければ困難であるのは、戦前のキリスト教界の状況を見るとわかります。 主よ、とくにキリスト者がつねに聖書の真理に固く立つことができるように、守って下さい!
 
○関東地方に在住の方からの来信です。

…人生の目的と理想はキリスト信仰に生き、神の国に救われ、神の栄光を現すに在り。
「はこ舟」、「野の花」、メールの「今日のみ言葉」、集会のテープ、何もかもが私に語りかけてくれています。
 私一人が試練に置かれているのではないことを知ります。
今こそ、酸素は「生きよ! 生きよ!」と私に注いでくれています。すべては神の栄光のため。

・酸素吸入をしつつ、一人で自宅療養を続けられ、病気の重荷を主にあって担われている方です。私たちの礼拝集会のテープもこのような方に少しでもお役に立っていることは感謝です。いっそうの力を主が注いで下さいますように。