20034月 第507号・内容・もくじ

リストボタンもう一つの戦い。

リストボタン最も大切なもの

リストボタン鹿のように谷川の水を求めて

リストボタン価格と価値

リストボタン聖書の詩から(詩篇第一編より)

リストボタン休憩室

リストボタン人の考えと真理

リストボタンことば

リストボタン返舟だより


st07_m2.gifもう一つの戦い

 イラクでの戦争は終わりに近づいているという。しかしその後にどのような地域的な紛争や、混乱が生じるかはだれも予見できない。人間は本質的に自分中心であり、自分の民族や自国に益となること、自分の支配権、自分の権力などを欲し、奪おうとするからである。
 日本は国内では表面的には内戦もなく、平和である。しかしそれで問題は解決はしない。小さな人間の集団において、議論や権力である種の戦いに勝ったようでも、精神的な意味において、また霊的には敗北ということはいくらでもある。
 最近の日本人の心がだんだんよくなっていると感じる人はどれほどいるだろうか。ごく少ないのではないだろうか。自殺も年間に三万人もあることもそれを暗示しているし、若い世代の人たちの行動を見ても、人間の心に巣くう闇を感じさせられることが多く、それは内的な戦いに破れていく姿を現していると言えよう。
 キリストはいとも簡単に、当時の権力者たちによって捕らえられ、処刑されてしまった。そこにはなんら勝利のようなものはなく、全面的に敗北と思われたであろう。
 しかし、キリストは実は、決定的な勝利を得ておられたのである。だからこそ、それ以後、キリストを迫害したローマ帝国の体制が崩壊し、キリスト教を受け入れることにもなったのであるし、キリストの真理を否定しようとする力に対して、徐々に勝利を世界的におさめてきたと言える。
 私たちの心の中には、つねに悪が戦いをしかけている。その戦いに負けるか、それとも勝利していくか、それは外側の世界がどのようになろうとも、つねに続く戦いである。そしてその内面での戦いに勝利するものこそ、本当の勝利者と言える。
 そしてそうした勝利を得る者となるには、権力も金も学識や健康ですら必要でない。ただ、主イエスを信じるだけでよい。それはキリストがすでにそうした内面の戦いの勝利者だからである。

神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからである。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰である。(ヨハネの第一の手紙五・4



st07_m2.gif最も大切なもの

 私たちが最も大切なものということで、何を思い出すでしょうか。まず、命、家族、お金、健康、仕事、…といったものがほとんどの人で共通していると思います。それらは子供でもだれでもわかる大切なものだと言えます。
 しかし、それらは大切なものですが、 共通していることとしては、いとも簡単になくなってしまうということです。人間の命は、一瞬の事故で失われ、弾丸のような小さな鉄の塊によってすら、瞬時に破壊されてしまいます。家族も同様です。事故や病気で、またそうでなくとも、ちょっとした一言でも心が通わなくなり、冷たい関係になってしまい、そういう状態がひどくなっていくと、大切だという気持ちどころか、いなくなったらよいとすら思うようになるほどです。それが離婚といった形にも表れていきます。 
 それらのもう一つの特徴は、簡単になくなるというだけでなく、心の深いところを満足させないということでもあります。どんなにこの命があって健康であっても、心が感謝や喜びで満たされているということにはなりません。
 逆に貧しく、健康でなくとも、感謝をいつも持って生きている人もいます。
 このように、最も大切なものと思われているものも、それがあまりにもはかなく、消えていくということのゆえに、人間生活全体にはかなさや空しさを感じさせるものとなっています。
 最も大切なものと思われている命や家族、友人の愛や健康…すべてが死とともに消えていく、それなら今の生活も崩れ落ちる寸前だと言ってもよいわけです。あと五〇年、六〇年あるといっても、それらは永遠の時間から見れば、一瞬のようなものです。過去の無数の人間たちもみんな消えていったのです。
 そのような、死によってよいものも悪いものもすべてが消えてしまうという常識に対して、全く逆に最もよいものに変えられて永遠に続く存在とされる、という驚くべきことを啓示して下さったのが、キリストの復活です。復活とは死に打ち勝つ力が存在するということです。
 死とはあらゆる権力や金、人間的な愛や仕事など一切を滅ぼしていく力です。そのような根源的な力に勝利する力ということですから、この世のあらゆる困難な問題にも打ち勝つことができるわけです。それは私たちの力でなく、神の力であり、天地万物をも創造した神の万能の力だからです
 死という最大の力に打ち勝つということは、死に至らせる悪(罪)の力にも打ち勝つということです。
 それゆえ、パウロがなぜ、聖書のなかで、「キリストが私たちの罪のために死んで下さったこと」と「キリストの復活」を最も大切なこととして伝えたと言っているのかが分かります。

最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、…また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと…(Ⅰコリント 十五・4

 罪とは真実と愛の神に背くようなあらゆる心の動きを含みます。その罪の行き着く先は、滅びです。自分中心の心はその人自身の魂のよい部分を次第に滅ぼしていき、ついには真実な存在からも自ら離れていってしまいます。それは生きているときからすでにその人の目の輝きがなくなり、声や語ること、その表情などにも生き生きしたものが消えていくことで、その人が滅びに向かっていることを暗示させる場合があります。
 
 復活という言葉は、私たちの日常生活ではほとんど聞くことがありません。死人の復活などおよそあり得ないことだ、と思いこんでいるのが大多数の日本人の実態だと思います。
 しかし、私にとっては、自分自身のなかで、新しい命を実感してきたので、最も身近なことでした。また、現在の私たちのキリスト集会の人たちにおいても、以前は闇であった人たちが復活の主の力を受けて、新たにされていったのを目の当たりにしてきたこともいろいろとあります。
 こうしたことは、つぎの聖書の言葉を思い起こさせるものがあります。

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は決して死ぬことはない。」(ヨハネ十一・2526

 悩みや罪のゆえに、死んでいるのも同然になっていた心の状態が、主イエスを信じて新しい命に生き始めたからです。「死んでも生きる」という言葉は、すでに死んでしまった者も、よみがえるという意味のほかに、そうした意味をも含んでいるのです。
 こうした経験を与えられた人は、無数におり、そうした人々によって復活は最大の重要事となって伝えられてきました。それゆえおのずと復活の日、つまり日曜日に集まるようになり、それが今日では世界的に日曜日が休みとなることにつながったのです。日曜日とは、復活の記念日とし、復活の主に礼拝を捧げる日として休みとなってきたのです。
 このように、復活ということは、自分の内的な経験や周囲のキリスト者たちの経験で身近なものであり、また日曜日が休みとなっているその出発点でもあるゆえに、制度的な方面からいってもごく身近なものといえます。
 復活を信じるとき、私たちの将来はどうなるのか、そのことについて聖書のメッセージを見てみます。

キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。(ピリピ 三・21

 ここに私たちが最終的にどのように変えられるかということが、記されています。私たちが幼い頃から聞いてきた言葉は、「死んだら終わりだ」ということです。これは死んだら何にもなくなるということです。しかし、それなら人間はみんな死んでしまうのだから、最終的にはみんな終わりだ、ということになってしまいます。
 しかし、聖書では、神とキリストをただ信じて罪赦されて生きた者は、最終的には、キリストの栄光ある体と同じ形に変えて頂けるということです。キリストのからだとは、神と同じような体です。
 人間は罪深く、かずかずの過ちを犯し続けるものであるのに、そのような汚れた者、弱き者を、根本から造りかえて、キリストと同じように変えられるということは、真に驚くべきことです。それは、万物を創造し、支配している無限に大きい力によるからです。
 私たち人間が欲しているのは、力です。赤ちゃんが本能的に母親にすがるのは、幼児にとって母親が絶対的な力を持った存在だからです。子供になって、友達に頼るのはその友達が力を持っているからです。あるいはグループで上に立ちたいのも力を求めるからですし、学校で成績やスポーツに力を入れるのも、やはり上に立つことが力とつながっているからです。
 また、少しでも大きい会社に入ろうとするのも、そのような会社がより力があり、報酬も多くもらえる、金もまた人間を支配したり、物を購入することができるので、力を持っています。それゆえに人はだれでも金を求めるわけです。
 このような力を求めるという、人間の幼児からの本能というべき傾向は、国際的な問題でも現れます。今回のイラク戦争も軍事力という力を重要視し、それを用いることを強硬に求めたからでした。戦争は、武力という力を双方が用いようとする戦いだといえます。そして太平洋戦争では、そうした武力の究極的のものといえる、原爆が使われ、たった一発で二〇万もの人が死んでしまったのです。
 このように、地上では力を求め、力に頼ることからあらゆる紛争、戦いが生じるのがわかります。地位が高いことを求めるのも、高い地位が力を持っているからです。
 こうした地上のあらゆる力とまったく異なる力があります。それが神の力であり、死にも打ち勝つ力です。そのような力は当然、悪にも打ち勝つのです。
 こうした絶大な力を世に現して、それを信じる人がだれでも受け取れるように道を開いて下さったのが、キリストの復活ということでした。だからこそ、キリストの弟子たちが最初にキリストを宣べ伝え始めたとき、その内容は、キリストの復活であったのです。

…すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。…… ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。
 神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と驚くべきわざとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。
このイエスを…、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。
 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。(新約聖書・使徒言行録2章より)

 これは、使徒の代表的人物であったペテロの初めての伝道の言葉として聖書に書かれているものです。以後二千年にわたって続いていくキリスト教伝道の、第一声ともいうべきものは、きわめて単純な、「イエスが復活した」という証言であったのでした。
 ここには、隣人を愛せよとか、敵のために祈れ、あるいは偶像を信じてはいけない等などにはまったく触れられていません。それはいくらよい教えを聞かされてもそれだけでは、力は与えられないからです。実行していく継続的な力が与えられるのでなければ、こうしたキリスト教の教えなど到底永続的に実行できるものではありません。
 このことは、ペテロ自身、キリストから三年もの間、親しく教えを受けて、その奇跡を数多く目の当たりにしてきたのに、主イエスが捕らえられるとき、ひどい裏切り行為を犯してしまったのを見てもわかります。
 単なる教えでなく、教えを実行する力が与えられるのでなかったら、いかに多くの教えを受けても実を結ぶことはないのです。
 私たちは、復活の力を与えられているゆえに、今のこの世においても神の力を与えられつつ生きることができるし、さらに肉体の死のあとでは、キリストの栄光のすがたと同じ姿に変えられるという比類のない約束を与えられ、必ず実現される希望を与えられています。キリストの復活こそは、私たちの生きた希望の源なのです。

 


st07_m2.gif鹿のように谷川の水を求めて

 私たちのキリスト集会でもう十数年前からよく用いてきた親しみやすい讃美に、「鹿のように」というのがあります。
 この讃美の歌詞は、旧約聖書の詩がもとになっています。

涸れた谷に鹿が水を求めるように
神よ、わたしの魂はあなたを求める。
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て
神の御顔を仰ぐことができるのか。(詩篇四二・23
*

 聖書が書かれた地方ではいかに水が貴重であるか、谷といってもふだんはほとんどは水のない涸れたものばかりで、いつも流れている川らしい川といえば、日本であれば小川のようなヨルダン川があるだけです。水を飲まねばすぐに死が待ちかまえています。水は生命線なのです。日本のように至る所に小川や谷川があるのとは全く異なっている厳しい状況なのです。そうしたところで必死に水を求めてさまよう鹿のように、私は必死で神を求める。ただ神のみが私の魂を満たすお方だから…  こうした内容の詩で、主イエスの言われた、「飢え渇くように、正しいことを求める」心がこの詩には表されています。

*)この詩には、作曲家のメンデルスゾーンも曲をつけて、ちょうど詩篇と同じ番号の作品番号四二となっています。また、讃美歌21の一三〇番(涸れたる谷間に)、一三一番(谷川の水を求めて)一三二番(涸れた谷間に)も、やはりこの詩篇四二編を内容とした讃美歌ですし、新聖歌にも二曲が取り入れられています。

 この詩篇には多くの曲が付けられていますが、讃美歌などに採用されている曲よりも、おそらくだれの心にも親しみやすいのは、はじめに述べたゴスペル的讃美だと思われます。
 この曲は十年余り前の、徳島で開催された無教会のキリスト教全国集会においても、聴覚障害者とともに手話讃美にも用いた讃美ですし、県の郷土文化会館での市民クリスマスでも、私たちの集会員と他の聴覚障害者の多い教会の人たちとともに手話讃美をしたことがあります。
 さらにこの讃美は去年二〇〇二年の十二月に徳島市文化センターで行われた、市民クリスマスにおいても、鳴門教育大学の音楽の教授が、よい曲だとしてコーラスの曲目に取り上げ、さらにその教授の定年退官記念の演奏会にも曲目の一つとされていました。
 そうしたことからも、私たちにはいっそうなじみ深い讃美となっている曲です。
ここでは、紹介のためにその讃美の訳と原文を書いておきます。

鹿のように

鹿が水を求めてあえぐように
私の魂はあなた(神)を求めています。
あなただけが、私の心の願い
私はあなたを拝することを心から願っています。
あなただけが、わが力、わが盾
あなたにだけ、私の霊が従うように。…
私は金銀よりも、あなたを求める。
あなただけが、私を満たすことができる。
あなただけが、本当の喜びを与えるお方
そして私の瞳(といえるほどに大切な存在)
あなたは私の友であり、兄弟です。
本当はあなたは王であるのに。
私はあなたを、愛しています。ほかのどんなもの、いかなるものよりも。

As The Deer
  (Marty Nystrom

As the deer panteth for the water
 
So my soul longeth after Thee
You alone are my heart's desire
And I long to worship Thee
(chorus)
You alone are my strength
 my shield
To You alone may my spirit yield
You alone are my heart's desire
And I long to worship Thee

I want You more than
gold or silver
Only You can satisfy
You alone are the real joy-giver
And the apple of my eye

You're my friend
And You are my brother
Even though You are a King
I love You more than any other
So much more than anything

 この讃美を作詞作曲したのは、マーティ・ニストロムという人です。この作者自身が、多くの自作の讃美のなかでもとくにこの「鹿のように(AS THE DEER)」を、心に大切に思っている作品であったのがうかがえる次のような文を書いていますし、そのCDのタイトルにも、この讃美の歌詞の一節を用いています。
 それは「私の心の願い(My Heart'Desire )」というタイトルです。日本では現代のアメリカの讃美作者の信仰に触れることは少ないと思われるので以下にこの作者の短文をあげておきます。なお、作者の生の声に触れるために一部の原文を添えておきます。
………………
「あなた(イエス)だけが私の心の願い」(You alone are my heart's desire) この神に向かってなされた告白は、「鹿のように」という讃美の歌詞の中に含まれています。この歌を書いたのは数年前のことですが、これらの言葉は、私にとっては、イエスを私の心の王座(最も重要なところに)留めておくために絶えず思いだすものとして留まり続けてきました。
 私はこの言葉を私の重要な決定をしなければならないときに、個人的な基準として用いてきたのです。生きることや伝道の必要からくるいろいろの求めによって心が動揺するときに、この言葉によって心が呼び覚まされる思いになったのです。
 私はこれらの言葉によって、私の心や考え、あるいは行動が神から迷い出たとき、それは罪だと知らせてくれたのです。
 あらゆる人間の心には渇きがありますが、それはただイエスだけが満たすことができます。
 しかし私は、この渇きをいろいろの物事や人間関係やキリスト教関係の奉仕によっても満たそうとしてきました。
 そうした時いつも、忍耐強く、恵み深い救い主イエスが私を主のもとに引き戻して下さったのです。
 これらの礼拝の讃美があなたを創造し、あがなって下さったお方(神とキリスト)との親しい交わりを求める心をさらに新しくしますように。
 あなたが「神ご自身の心にかなった」者となりますように。

(なお、この讃美の曲を知りたい方は、末尾の住所かメールで連絡下されば、インタ-ネットメールでこの音楽ファイル(MIDIファイル)をお届けできます。)
ホーム・ページ係りのもの付加:メールで希望の場合は、右よりお申し込みください> 鹿のように・・・MIDファイル希望メール。

 


st07_m2.gif価格と価値

 この世的な人間とは、「この世のいろいろのものの価格(値段)を知っている、しかしそれらの価値を全く知らない人間」だと言われる。
 価格と価値、このふたつの言葉は、文字も発音も似たようなところがあり、意味も部分的に重なっているところもあるために、この違いがはっきりと知られていないと言えます。
 たしかに価値があるから価格(値段)がたかくなるわけです。そのために価格と価値を同じものだと錯覚してしまうことが非常に多いといえます。
 しかし、さきにあげた言葉の意味は、価値という言葉を、神の前での価値というようにより正確にいう必要があります。真実で愛の神がどのように価値あるとみなすかということです。
 この世的に生きるのが上手な人間とは、その価格を知っている、計算で考える。これをすればどれほどの金が入るか、どんな名誉が入るか、といったことをまず考えてしまう。
 ものを見ても、例えば家を見るとそれがどれほどの価格なのか、衣服や車など、また出世や仕事でも、いくらの収入があるかといったことです。
 世の中はそうした「価格」で動いているといえるほどです。毎日、株がいくらになったということが報道されているのも、株の価格の如何によっては、会社の存亡にかかわってくるからです。何かをする場合でも、金にならなければやらない、というのは当然のこととなっています。
 しかし、ここでそうした金に関係のない、いや、金に決して換えられない価値の世界があることに気付くとき、ものごとを価格でなく、価値という面から見ていくことに変えられていきます。例えば、空の青い風景やそこに浮かぶ真っ白な雲は、価格は何もない。値段などそこには議論にもなりません。
 しかし、そうした自然の風景は、私たちの魂にとってそれをよく用いる人にとっては大いなる価値をもってきます。それはたった一つの聖書の言葉も同様です。わずか数行の聖書の言葉など、価格はなにもつけられません。しかし、その価値は時として絶大なものがあります。それは人間の一生を変え、その変えられた人間の生涯の活動によってその人の周囲にも大きな変化がもたらされることがあるからです。
 私自身にとっても、その人生の歩みを根本から変えられたのは、わずか数行の聖書の言葉であり、その聖書の短い言葉についての説明でした。それは私にとってはほかのどんなものにも変えられない価値を持ったことになります。
 路傍の小さな野草の花であっても、それは価格という面からみれば何の値打ちもない。しかし、それが心開かれた人にとっては、大いなる価値を持つのであって、心の栄養となっていくのです。
 キリストは、当時の人たちにとって何らかの物を生産するのでもなく、何も価格のあるものを生み出すことはないと思われました。それどころか当時の学者や指導者たちの腐敗や間違いを厳しく指摘したために、自分たちの地位とそこからくる権威やもうけなどを奪われると思って、キリストを捕らえ、とうとう殺してしまったのです。
 金になることに使えない人間、自分たちが金を獲得しようとして不正なことをやっていることを指摘するような人間は邪魔者だということになったのです。わずか三年の活動で十字架にかけられて処刑されてしまったキリストは、この世の価値としてはいわばゼロだとされてしまったわけです。
 しかし、そのようなキリストがどれほどの価値を人類全体に対して持っていたかは、その後の歴史が証明していきました。キリストは、本当の愛とか真実とかについて、その最も深い意味を人間に教え、それをこの歴史のなかに刻んできたし、今日では当たり前となっている福祉といった考え方もキリストのなかから生じてきたわけです。
 また、この世においては、まず健康で、知的にも優秀な人間が価値あるものと見なされます。だからこそ、有名大学へと多くの人は目指すのであり、企業も有名大学出身者を採用しようとするわけです。
 病気や障害者であって、ふつうの会社の仕事もできない状態であればそれだけで、この世では価値のないものと見なされることがあり、就職もできなくなってしまいます。
 学校の教員になるにも、大学を卒業して、教員免許を持っていなければもちろん教員としては価値なきものとされて採用の範囲外に置かれてしまいます。
 しかし、ひとたび神のみまえでの価値はどうかということになると、この世とはまったく異なってきます。それは、どんな人でもかけがえのない価値を持っていると見なされるからです。
 ある人が重い犯罪を犯して、死刑になるとすれば、その人はこの世では価値はゼロどころかマイナスであるからその存在を抹殺してしまうということです。しかし、神はそのような人であっても、神のみまえに悔い改めることを望んでおられます。キリストは、そうした重い犯罪人であって、もう殺されてしまうという寸前の人が、悔い改めてキリストへの信仰を表したとき、その人に「あなたは今日、パラダイスに入る」と約束されたのです。
 これはこの世の価値と、神のみまえでの価値とがいかに異なるかをはっきりと示す例です。
 また、つぎのような主イエスの言葉も同様です。

悔い改める一人の罪人については、悔い改めの必要がない(と思っている)九十九人の正しい人たちよりも大きな喜びが天にある。(ルカ福音書十五・7

言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。(ルカ十五・10
 これらの箇所は、神がどんなことに価値を見いだしておられるかを示しています。人間に関して大いなる喜びが天にあるのは、人間がいろいろのよい行いを重ねることや、有名になること、あるいは地位が高くなったりすることでもない、ただ私たちが、心から悔い改める心だと言われています。それは私たちが、自分の心がどうしてもよくならないことを思い知って、神に心の方向を転じ、それを赦して下さいと、主に祈り願う心、その単純なことが一番喜ばれるというのです。
 天や天使たちのところで大きい喜びがあると特に記されているほどに、この悔い改めの心、神に立ち帰る心は価値あるものだということです。
 この世では、このような心は金の計算にはならず、なんの価値もないとみなします。だから新聞、テレビなどでもそんな罪からの悔い改めなどということはまったく相手にされていないのです。そうしたマスコミで大々的に取り上げるのは、金の関わること、つまり政治や経済、また金のからむ犯罪や事故、またプロスポーツなどのことなどです。
 有名になること、地位があがること、財産がゆたかになることなど何の関係もない人々、病気やからだの障害、あるいは老齢などで、価格(金)に関わるようなすべてが失われてしまった人たちはこの世では価値なきものと見なされることが多いのです。
 しかし、神はそうした人たちが、日々神に立ち帰り、主を仰ぎ見ることを一番価値あるものとして喜んで下さるという、その証しとして、そのような単純な心で神を仰ぐ者には、生きているときから天の国の賜物が与えられると約束されています。

 ああ、幸いだ。心の貧しい者たちは!(マタイ五・3

 私たちはどんなに信仰をもっていても、信仰の歳月を重ねてもなお、心のなかでふとした罪、愛でなく怒りとか無関心や憎しみを心によぎらせたりすることがあります。そのような弱いものであっても、そのときに気付いて、キリストの十字架を仰ぐとき、そのような私たちをも愛するものとして受け入れて下さる神の愛を実感することができます。まわりのすべての人から見下されようともなお、神のそうした愛の一瞥があるなら私たちはそれに耐えることができ、かえって人間の無理解のただなかにいっそう深い平安を感じることができるものです。
 人間はその弱さのために、価格のあるものに目が奪われそうになりますが、神は一貫してこの世の価格とはまったく異なる、真に価値あるものを大切にして下さっています。私たちも主イエスにつながるとき、価格でなく、神のみ前での価値あるものを見つめて生きるように導かれるのです。

 


st07_m2.gif聖書の詩から(詩篇第一編より)

いかに幸いなことか…
主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、栄える。

神に逆らう者はそうではない。
彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
神に逆らう者は裁きに堪えず
罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。(詩篇第一編より)

 旧約聖書における詩は、詩編と称されるものだけでなく、イザヤ書やエレミヤ書などの預言書にも多くみられる。詩経、文選、唐詩など中国の詩、万葉集、古今集などの日本などにも残されている詩との大きな違いは、単に人間の感情にとどまらず、神との関わりのなかで生み出された詩であるということである。
 私たちの心はさまざまのことによって動かされる。そしてその心の動き、感動ということは、身近な植物のすがたや夕日や青空、雲の動きによっても生じるし、また人間同士の関わり、親子、友人、異性などによっても生まれる。ことに異性によって心が動かされるということは、古今東西を問わず、日本や中国の詩集を見ても実にたくさん見られる。
 しかし、聖書にみられる詩はその点において、根本的な違いがあるのに気付かされる。聖書に収められた詩集である詩篇には、単なる恋愛歌や、親子、友人との愛情のようなものは一つも収められていない。
 詩篇の冒頭の第一編には、詩編一五〇編全体の精神が込められた詩が置かれている。
 ここには、単に花鳥風月のすがたに感じるというのでなく、神の厳然とした摂理への感動がある。この世界は表面的には偶然から成っていて、強いものが弱いものを餌食として成り立っているように見える。しかし、その背後には、科学的法則のように不変の法則がある。そうした法則への感嘆の心と讃美の心がここにある。人間は何に心を動かされるか、乳児のときにはミルクを与えてくれる母に心が動かされ、ひかれるのであって、これは野生動物と同様なところがある。そこから、次第に食物といった本能的なものから広がって、人間関係の中で自分と共通の楽しみを与えてくれる心通う友、同性、異性を問わず心動かされるようになる。さらに、そうした目にみえる益を与えてくれる人間だけでなく、花や山川、小鳥などの存在によっても心が動かされるようになっていく。それが広がって、国家社会などの問題にも心の関心は広がっていく。
 しかし、もし私たちが天地創造の神、無限の深みをもった真理と愛の神を知らなかったら、そこまでで止まってしまう。
 世のなかの詩はみんなこうした段階にとどまっているのを感じさせるものである。人間の世界ばかり、目に見える世界だけで動いているという感がある。
 こうしたこの世の詩と根本的に異なる詩こそが、聖書の詩である。
 それはこの詩篇第一編にもみられるように、神中心とした心の感動である。それは平板な記述ではない。この世というのは、一見不正と偶然、強いものの支配といった状況が目にとまる。しかしひとたび心の目、霊的な目をもって見るとき、愛と真実にみちた神は存在し、その神がいっさいを支配しておられる、そこにこの詩の本質がある。
 こうした驚くべき神の御支配とその力の世界全体への浸透に対して、そのことを知らされた者は、沈黙していることができない。またそのような生きてはたらく神への呼びかけを止めることができない。その神からの語りかけ、神に示されること、神によって変えられたこと、それらが波が押し寄せるように人の心にうち寄せ、また人の心からも神にむかって送り出されていく。それがこの旧約聖書の詩である。
 神が天地万物を支配されている、そのことを最も深く実感させるのは、人間の精神の世界、心の問題においてであろう。いかに驚くべき花の美しさがあっても、悪がはびこり偽りが最終的に勝利してしまうのだとしか思えない心にはその花の美しさもある種の哀しみをもよおすものとなりかねない。こんなにも美しい花、純粋な自然であっても空しく悪によって滅びるのだ、悪が自然を破壊していけば最終的には消滅してしまうのだという気持ちになってしまう。
 しかし、悪が勝利するのでなく、最終的には愛なる神が勝利するのであれば、自然の美しさもそのような神を象徴的に表しているものとして受け取ることができる。はかない美しさということでなく、永遠の神の美しさの象徴として感じることができるのであって、それは花のはかなさとかでなく、神の岩のごとき永遠不動性とともに、美と清さの究極的存在としての神をも思い浮かべることができ、それに接する私たちの心をも清めを受けることができる。
 こうした、神の悪への支配と勝利ということは、もっとわかりやすい言葉で言えば、完全な善きこと、美しきこと、きよいこと、また真実なことが、憎しみや殺意、ねたみ、不真実、自分中心的欲望などなどにうち勝つのだということである。しかもその勝利は一時的とかだれかの空想などでなく、いかなることにもまして確たる真理であるということなのである。
 このことに気付かされた者は、心を動かされずにはいられない。それが自然科学の法則と同様に不動の法則であるということで、そこに心動かされた人は、詩篇の作者にとどまらず神を信じ、主イエスを受け入れた人たちのなかから数かぎりなく現われていった。
 そしてキリスト以後は、十字架で主イエスが死なれたということが、人間の罪をあがなうことであり、それを信じるだけで、罪が赦され、清められるということがわかった。その罪は、私たちの心に長く積もっていた不快なもの、重苦しいものであり、それを放置しているとだんだんと人間そのものを圧迫していくものとなのである。
 キリストの十字架の死が、罪というまったく一見関係のないようなことに、深くつながるのだと実感しとき、そこに驚くべき法則を見ることができる。それは信じたらただちに、罪の赦しを与えられ生活が変わっていくという事実がある。そしてその事実は千年、二千年の歳月が流れても変わることがない。
 その十字架によって罪赦されるという簡明な真理への驚きは以後無数の詩を生みだしていくことになった。それは曲が付けられて、多種多様の讃美歌、聖歌、ゴスペルソングなどとなって現在もつぎつぎと生み出されている。
 このように、聖書に関わる詩というものは、神中心に生み出されていく。
 
 この詩篇第一編において、真の幸いとは、み言葉を中心にすることだと言われる。

いかに幸いなことか…
主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
(詩篇一・3

their delight is in the law of the LORD,
and on his law they meditate day and night.
NRS

 ここで、主の教えと訳された原語(ヘブル語)は、トーラーという。この語は旧約聖書では二二〇回ほど用いられており、律法、おきて、教え、規定、教訓などと訳されている。現代の私たちに入ってくる訳語は「神の言葉」であろう。その人の喜びが、神の言にあるとき、その人は大いなる幸いにあるといわれている。神の言葉を喜びとするとは、神の言を愛していることであるから、ここでは「主の教えを愛する」と訳されている。またその神の言葉を昼も夜も口ずさむとは、神の言がいつも魂の奥深くにあって、離れることがない状態を表している。私たちの心には、何がいつもあるだろうか。多くは、日常の生活のなかのことであろう。子供のときは食物、遊び、あるいは勉強のこと、友達のこと、大人になれば仕事のこと、家族や職場の同僚、地位役職のこと、そして世間の出来事のこと等などがつぎつぎと心に流れこんでくる。そうしたことはすべてこの世のことであり、移り変わるものである。
 しかし、この詩篇第一編においては、神の言が第一の関心事となっており、周囲の人間のこと、仕事のことを考える場合でもまず神の言をめぐってそれらが考えられるのである。主イエスが、まず神の国と神の義を求めよといわれた精神がここにある。
 しかもそれは喜びが伴っている、それは神の言葉への愛があるからである。神のおきてなどというと到底喜びなどが沸いてくるようには思えない。日本語の訳語一つでまるで感じが変わってくるのである。
 神の言葉は愛なる神のお心の現れであるなら、その神の言葉を思うことは、喜びとなるのが本来だと言える。神の言葉が喜びに感じられないということは、すなわち神ご自身をも喜びをもって思うことができないということになる。
 神を喜ぶ、これこそは私たちの究極的な目標である。人間の目的は神を喜ぶことであり、これが与えられている人はすでに人生の目的を達していると言われているほどである。神を喜びとすることは、その人の心のなかで、神の勝利がなされていることであり、悪への誘惑にうち勝ったしるしであり、たえず光に向かって日々を過ごしていくようになった魂を現している。
 この詩篇の冒頭にそのような、神を喜び、神の言葉を喜びとする魂のすがたが描かれているのは詩篇全体を思い浮かべるにおいてもとてもふさわしいものとなっている。
 ここで、口ずさむと訳されている原語は、「思う、考える、瞑想する、黙想する」などという意味にも訳されている。英語訳では、ここにあげた新改訂標準訳(NRS)も meditate (黙想する、瞑想する、十分に考える)と訳しているのが、多数を占めている。
 神の言葉をいつも心に思い、神の言葉に沿って物事を考え、神の言葉によって力を与えられ、神の言葉によって前途への希望を抱きつつ歩む、そうしたみ言葉中心の生活の祝福は主イエスも語られた。

あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。(ヨハネ十五・7

 望むものが何でも与えられるという約束はすばらしいものである。しかしその前提条件がある。それが、主イエスにいつもつながっていて、主イエスの言葉がつねに私たちの内にとどまっているということとされている。これは、詩篇第一編の、主の言葉をつねに思っているということと同様な意味を持っている。
 このように主イエスの内にとどまるときには、私たちが望むものが与えられる。それは霊的な賜物であり、目には見えない天の国の良きものである。それがこの詩篇では、「実を結ぶ」と言われている。実とは、何か。それらはパウロが、愛、喜び、平和…と言ったが、そうしたものは神の持ち物であって、天の国にあるものと言える。そうしたものが、確かにその程度は人によっていろいろであろうが、与えられるようになる。
 
 一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(ヨハネ十二・24

 一粒の麦が死ぬということ、それはみ言葉がその人の魂に深くとどまっている姿である。私たちが人間的なものに深く結びついているとき、自我が私たちのうちに大きく居座っているときには、神の言葉はとどまることができない。そこにはいつも自分の人間的な願望や他人からの言葉、マスコミや新聞、雑誌にあらわれている多種多様な人間の言葉ばかりがとどまってしまう。
 み言葉が心につねに宿っているとき、いのちの水がその魂を浸し、そこに緑の木が生えてきて、実を結ぶ。
 大地からは春になると、つぎつぎと草木の芽が出てくる。雨が降り、水にうるおい、地中の養分があり、太陽の輝く時間が長くなり、温度が適当になるときにそのように成長がみられる。私たちにおいても、み言葉をいつも思っているときには、そのみ言葉が、養分であり、雨水であり、暖かさだといえる。
 預言者という人たちは、そうした神の言葉に深くとらえられ、いかなる批判や中傷に直面しようとも、神の言葉から離れずに、み言葉によって生じた正義や忍耐、同胞への愛をもって語り続けた人だったのである。
 こうしたみ言葉によって祝福された状態は、いのちの水にうるおっている状態として記されている。これは、私たちの言葉で表現するとすればこのようにしか表せないのであろう。
聖書の最後に置かれている、黙示録においても、最終的に悪が滅びたのちに来る世とは、やはり、命の水でうるおされ、そのゆえに実り豊かな状況だと象徴的に記されている。

天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。
川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。(黙示録二十二・12

 このようなうるわしい姿と鋭い対比が、この詩篇の後半部でみられる。

神に逆らう者はそうではない。
彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
神に逆らう者は裁きに堪えず
罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。(詩篇第一編より)

 すなわち、神に逆らう者のたどり行く道が記されている。悪人とか神に逆らうということは、聖書においては、真実と正しさに満ちた神に逆らうということであり、純粋な愛に反対の心ということである。それは不正であり、不真実であり、憎しみや高慢、あるいは無関心ということである。こうした心を抱いているとき、最終的には当然その人の心はすさんで、固くあるいは汚れてしまうということは容易にわかることである。嘘をついて、人を欺いていてそのような人の心が清く、愛に満ちたものになるなどだれも考えたりしないだろう。
 しかし、日本人はほとんどが唯一の神などいないと思っているので、神に逆らうとかいっても何ともないという人が多い。しかし、それは単に神を言葉の上で信じないということでなく、真実そのものを否定して、嘘や不真実であることを平気でやるということである。こうした心を持っている者、しかも悔い改めも受け付けないような人は、その人間そのものが軽くなってしまう。
「風に吹き飛ばされる籾殻」のようになるという。真実を与えられている人ほど、どこからともなく、その人から重みが感じられるようになる。旧約聖書で「栄光」と訳されている原語(ヘブル語)は、「重い」という言葉から作られている。神の栄光を知るとは、神の霊的な重みを実感するということでもある。神のもっておられる果てしない多くのものを知るのは確かに重みを与えられることになる。
 しかしそうした真実を原理的に否定するような心は、確実に軽くなり、神の重みとは正反対の状態となっていく。それがここにいう、「風に吹き飛ばされる」ということである。
 そしてそのような人間の魂は最終的には、滅びてしまうのである。人間はすべて滅びるものだと考える人は多くいる。しかし、キリストの復活がなされたということは、こうしたあらゆる滅びへの力に抗して、いかなることによっても決して滅びない神のいのちが与えられるということなのである。

 


st07_m2.gif休憩室

○復活祭について
 日本ではキリスト教の最大の祝日である復活祭(イースター)はほとんど知られていません。
 クリスマスすなわち、キリストの誕生を祝うということは誰にでもわかりやすく、また普通の人も誕生祝いということは広く行われていてなじみがあります。またプレゼントをしたり、子供の心にも入りやすい上、サンタクロースやクリスマスツリー、クリスマスソングなど、神やキリストを信じない人たちにもなじみやすいものが多いからです。ことに、日本では、クリスマスプレゼントやクリスマス商戦、クリスマスパーティといったキリストや聖書と直接に関係のないことで用いられ、最近ではお正月以上に店も繁盛するとのことです。
 しかし、復活祭ということはそれに比べて比較にならないほど知られていません。それは誕生というだれにでもわかりやすいことに比べて、復活ということはふつうにはおよそあり得ないこととして受け止められているからです。その上、復活祭が毎年その日が変わる移動祝日であるということもなじみを薄くしています。
 これは旧約聖書にある過越の祭りが、春の満月の夜に守られていた地方があり、
*またローマ地方ではその満月の次の日曜日に復活祭を守っていたので、古代において、いろいろと議論が重ねられた結果、現在では、「春分の日(三月二十一日頃)の後の、最初の満月のつぎの日曜日」という分かりにくい決め方になっています。

*)小アジア地方(トルコ半島)では、旧約聖書に由来する過越を、キリスト教の過越として守っていたキリスト者たちがいた。それは旧約聖書にあるように、ニサンの月の十四日(満月の夜)に守られていた。ニサンの月とは旧約聖書に出てくるユダヤ人の暦の月で、現在の私たちの暦の正月のような、第一の月である。いまの太陽暦では三~四月の頃に対応している。過越の祭りとキリストの復活がどうして関係づけられているかというと、キリストが十字架で処刑されたのは、ユダヤ人の過越の祭りの時であり、その祭りのときに捧げられる小羊として、主が死なれたと信じられたからである。

 また、キリストの復活が日曜日であったことから、世界的に日曜日が休みの日となっていますが、その制度を初めて日本が取り入れたときは、明治政府ですが、その政府はその成立の時から、江戸幕府と同様に厳しくキリスト教を迫害していたのです。しかし外国の強い抗議に直面して、ようやく一八七三年(明治六年)になってキリスト教を邪教と見なし、迫害する姿勢を止めたのでした。
 そしてその翌年に文部省は官立学校の日曜休日制度を定めたのです。その後一般にも日曜日の休日制度が徐々に広がっていくことになったのです。
 キリスト教を全面的に否定して迫害していた政府であったゆえ、そのキリスト教の中心となる日曜日の休日制度を取り入れるという際に、キリストの復活のゆえに日曜日が休日となっていて、それは復活の主への礼拝の日なのだというようなことを、国民に説明することは到底できなかったわけです。
 現代の私たちにとっても、二千年前にはじまったように、日曜日ごとに、主イエスの復活を記念し、その復活のいのちを新しく受けるということができれば、最も望ましいことと思われます。

○春は、キリスト者でなくとも、死んだようになっていた冬枯れの木々がいっせいに芽吹き、野草も花を咲かせ、花壇にも色とりどりの花が咲いて、復活させる神の力を視覚的にも感じさせてくれる季節です。植物は季節によって定期的に新しくよみがえったような新緑や花を咲かせますが、人間は、そのように定期的に季節によって新しい命を与えられることはありません。私たちが心から求めるのでなかったら、神の復活の命は与えられないからです。「求めよ、さらば与えられん」(マタイ福音書七・7)という言葉の通りです。

○聞き取ること、読みとること
 手話にしても英語のような外国語にしても、自分の思っていることを手話で現したり、英語で話し、書くことは何とかできても、手話を読みとることや外国人の英語を聞き取ることはまた別の難しさがあります。 手話も一つの外国語のようなものですが、自分の思っていることを手話で表すには、数ヶ月時間をかけて手話表現を覚えていけば相手に手話で通じるようになりまが、ろうあ者が話している手話を読みとるのは、人によって地方によって、異なる表現や省略もあり、また手話のはやさが早いこともあり、とても難しいものです。私も手話を長く使っていても、初対面のろうあ者の場合など、なかなか読みとりができない場合があります。これは英語などでも同様です。英語を読み話すことと、聞き取ることは別のことで、耳が慣れていないといけないし、国によって、また人によってアクセントも違っていたりで難しいことです。
 主イエスや神に対しても、私たちが思っていることを話す、祈ることは簡単です。そこに心も込めずに習慣的に主の祈りを唱えることもあります。
 しかし、神からの語りかけを聞き取ることは全く別のことです。 神はいろいろの場合に、いろいろのものを用いて私たちに語りかけておられます。時には個人的な祈りのなかで、また歩いているとき、本を読むとき、礼拝集会や祈祷会のとき、さらに病気や何らかの苦しみのときなどいろいろの状況にて語りかけておられます。また、樹木や野草などの花など、植物の姿や、夜空の星や夕焼、山の谷川の流れなど、神は万能であるゆえ、また霊的存在でどこにでもおられるゆえに、そうしたものを通して語りかけておられるわけです。私たちも一層そうした神からの語りかけを聞き取ることができるように、霊の耳を敏感にしていただきたいものです。

 


st07_m2.gif人の考えと真理

 人の考え、意見といったものは、時代や状況によって実に目まぐるしく変わる。一人の人間をとってみても、十年前、二十年前とではずいぶん考え方や行動は違ってくる。
 国や社会も同様である。文部省の方針もゆとり教育の重要性を説くかと思えば、基礎学力の不足だといって、今度は予備校的な競争教育が重要だといったりする。六十年ほど前は、天皇は現人神だといって、全国の教育の場でも教えていたが、敗戦の後には、当たり前のことであるが、自ら人間宣言をした。
 また、その頃は、アメリカやイギリスのことを、鬼畜米英などと言っていた。敗戦とともに今度はアメリカ追従となって、アメリカがなにか一番良い国であるかのように言われるようになっていった。
 憲法第九条も、成立したときには、毎日新聞の世論調査(一九四六年五月)では、七〇%が戦争放棄条項に賛成しているので、大多数はこの平和主義憲法に賛成していたのである。
 「聖戦」ということは、イスラム原理主義者と言われる人たちがよく口にすることであるが、日本も今から六〇数年前には、有名な学者たちもそんなことを言っていたのである。一九四一年十二月に出された米英への戦争開始のときの天皇の文書(詔書)の解説書にはつぎのように書いてある。
「世界戦史の上での真の聖戦というべきものは少ない。そうした中で、皇国日本が米英に対してなした宣戦こそは、大義名分の旨に合致し、東亜共栄圏の確立、世界新秩序の創建に邁進する上において、まさに真の聖戦である。」(一九四二年三月発行の「宣戦大詔謹解」序文)
 しかも、これは、久松潜一、平泉澄といった東京帝国大学教授ら有名な学者の執筆になるものである。
 こんな意見が、日本の代表的学者が書いていたし、それを日本の代表的新聞も掲載していたのであった。しかし、その後わずか四年も経たないうちに訪れた敗戦によって、このような考え方は根本から否定されていったし、国民も大多数は米英との戦争が聖戦だったなど、だれも本気で言う人はなくなった。
 こうしたさまざまの変化はつねに見られる。そうした変化の著しい人間の意見や考え、世論といったものに対して、全く変わらないのが、聖書にある真理である。

主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。(旧約聖書・イザヤ書二・4

 ここに記されたことは、今から二七〇〇年ほども昔の預言者が、神から直接に啓示された真理であり、主イエスが次のように言われたことも、同様な究極的真理であって、この真理性は、数千年を経ても変わることはない。

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ福音書五・4344)

 世論や政治家たちがどのように考えを変えようとも、こうした聖書の真理はそれらに全く影響を受けずに、輝いている。それがどれほど現在の人が実行できるか、だれがその真理を信じているかということでなく、いかに少数の人しか信じていなくとも、真理は真理である。
 それはちょうど、夜空の星が人間のいかなる変化や混乱にいっさい影響を受けないで輝いているのと同様である。

 


st07_m2.gifことば

154)ひとは他人からなにも得ようと思わないなら、全く違った目で彼らを見ることができ、およそそのような場合にのみ、人間を正しく判断することができる。(ヒルティ著「眠れぬ夜のために」上 四月二十一日)

 このような態度を他人に対して持つためには、自分が精神的に満たされている必要があります。自分の内にいつも不満や満たされるものを感じていないなら、どうしても他人に求めることになります。
 神によって、キリストによって霊的に満たされているときに初めて私たちは、他人に何かを求めるということがなくなっていきます。私たちは、たいてい特定の人からの好意、愛、評価を求めてしまいます。そうなると、どうしてもその人に気持ちが引き寄せられ、正しい判断や理性的に考えられなくなっていきます。私たちが間違った判断や行動をしてしまうのは、人間関係において、いつも他人から何かを得ようと、無意識的にすら考えてしまうからと思います。そんなことは思っていないという人でも、他人から批判の言葉や、見下されたら腹を立てます。それは、その人が他人からのよい評価を求めているからです。

155)愛からなされることは、いかにそれが小さく、また取るに足らないものであっても、全く実り多いものである。神は人がいかに多くのことを成し遂げるかというよりも、いかに大きな愛をもって働くかを見られるからである。
 多く愛する者は、多くのことをなす。(「キリストにならいて」第一編十五・12より)

・ここで言われている愛とは、もちろん人間の自然に持っている愛でなく、神からの愛を指している。人間が持っていると思われている愛は、必ず自分への見返りを期待するものであり、それは愛でなく自己愛の一種といえるからである。
 この言葉は、主イエスが言われた、「人が、私につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(ヨハネ福音書十五・5)を思い起こさせる。主イエスにつながっているとは、主イエスの内にとどまっているといしことであり、それは右の言葉のすぐあとで、「わが愛のうちにとどまれ」(同9節)と言われているように、主イエスの愛、神の愛のうちにとどまることである。主イエスの愛のうちにとどまって、何かをなすときには、主が働かれる。
 「多く愛する者は、多くのことをなす」これは、神の愛をもってなす者は、外見ではいかに小さいわざのように見えても、神の目から見れば多くのことをなしているとみなされるし、逆にいくら社会的に目だったことをしても、自分の利得とか名誉のためになしているときには、愛からなされておらず、神の目からはそれはとるにたらないことと見なされる。

 


st07_m2.gif返舟だより

○私たちのキリスト集会では、もうずっと前から、クリスマスの特別集会とともに、復活祭(イースター)にも特別集会をするようになっています。それは、いつもの日曜日の礼拝集会とちがって、「子供とともに」とか、「讃美のひととき」、「証しと感話」、それから「食事と交流の会」などのプログラムをもうけて、とくにふだんは礼拝集会などに参加していない人たちにも働きかけて、最も重要な「復活」ということの真理に触れて頂くという目的です。
 特別集会とすることによって、一ヶ月以上前からそのイースター集会が祝福されるようにと、祈りをもってそのことを覚え、備えていくことで、主がそこに働いて下さり、ふだん参加していない人や初めての方なども参加されて、いつもそこに新たな神の恵みを与えられて感謝です。

○…ストー夫人の「アンクル・トムス・ケビン」の言葉のなかに、聖霊に導かれた言葉のあるのに今も心の糧を与えられています。フローレンス・ナイチンゲールについて、また内村鑑三の文語の文章を、現代文にわかりやすく直した文を読み、益を受けています。…(関東地方の方)

・この方は、八〇歳を越える方ですが、この方が、今年三月二四日に書いた原告意見陳述書を送って下さいました。これは、テロ対策特別措置法と自衛隊の海外派兵に反対する原告団、二百五十三人による訴えに伴って書かれたものです。
 自分はかつての日本軍人として誇りをもっていて戦争に加わっていたが、敗戦のときにいたベンガル湾の島から無事、生きて帰ることができた。二六歳までは、明治憲法のもとに生きて、それ以後は日本国憲法のもとで生きてきた。そのために、「このふたつの憲法の中に生きてきた者として最も深い印象は、日本国憲法がいかに優れた憲法であるかを身をもって体験したことであります。…」そのあとで、この二つの憲法の本質的違いを列挙し、とくに最近の自衛隊派遣や新しい法律制定のことへの強い反対を述べています。
「…この日本の自衛艦派遣を可能にした法律、テロ対策特別措置法を憲法違反と言わずして何を憲法違反というべきでしょうか。私たちの誇りとする平和を守ってきた憲法第九条が無視され、蹂躙されることにこれ以上黙することができず、テロ対策特別措置法海外派兵違憲訴訟の原告の一人に加わった次第であります。三権分立、司法の権威を守る裁判長が、この法律の違憲性を直視して、歴史に残る英邁(えいまい)な判断を下されんことを国民の一人として心からお願いするものであります。」
 一切の戦争に加わらないとする、日本の平和憲法の精神こそ、現代のような不安定な時代にいっそう重要性を帯びていると考えます。そしてこれは、聖書にあるキリストの精神にもかなうものであり、キリスト者としてもこの憲法をなし崩しにしようとする勢力に反対するものです。