20037月 第510・内容・もくじ

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st07_m2.gif終わることのない対話


神との対話は長く続く。信仰を与えられて以来、もう三五年以上になる。
 この長い歳月、一日中、神または主イエスとの会話を忘れていて、一度も神との対話をしたことがなかったという日はなかった。たとえ、山々を何日も超えての山旅をしているときでもそうであった。人の住んでいるところから離れて、山里や海の波の聞こえる浜辺に立つときなど、いっそう主イエスのほうから、神様のほうから私に語りかけて下さるように感じてきた。
人間との会話、それは会っているときだけのことが多いし、離れても語りかけているのは、特別な事情がある人、祈りという形で語りかける必要があるとき、神とその人をみつめて祈るときである。問題がある程度解決されたときには、波が引くように心のうちにおける、その人との対話は少なくなる。
また、人は、時と状況によっては、よき語りかけでなく、憎しみとか妬みのまじった語りかけ、非難や怒りの声で特定の人に心の内で語っていることもあるかも知れない。
そうした人間への語りかけとは全く違ったものが、神への語りかけであり、神からの語りかけを聴こうとする姿勢である。
若き日に、神を知らされ、キリストが十字架で死なれた意味を示され、それを信じて受け取ったときから、始まった神(キリスト)との対話、それは止まることがなかった。
苦しみのとき、追い詰められたとき、また病気のとき、なすすべもない八方塞がりのとき、またもう祈る気にもなれないという気分が心をかすめるとき…などなど、そのようないかなる時であってもなお、神との対話は止まることがなかった。
もう止めようと思ってもうちに促すものがある。そして神に向かって語りかけている。答えのようなものもない、ずっと膠着状態で、もう祈っても神は答えては下さらない、無力感が覆いそうになるとき、そう感じてもやはり、しばらくするといつしかその苦しみや心が雲のかかったような状態になってなお、神を仰ごうとする心を感じる。
神は私の祈りの心をしっかりと捕らえて下さっているのである。祈りが小さく、浅くなることもある。それでも、消えてはしまわない。風に揺られ、吹き消されそうになりつつも、なお祈りのともしびは燃え続けてきた。
それは神は祈りを求められ、その祈りを聞いてくださるのがその御心だからである。
旧約聖書の創世記に、神は人間に、神の息を吹きかけたとある。また、神のかたちに創造されたという。それゆえに、私たちは、神との対話すなわち神への祈りは魂のふかき所からの願いであり、魂の本能というべきものなのである。
悲しみや苦しみ、悩みを訴える祈り、将来への不安を訴える祈り…それらの傷ついた心から発せられる祈りは、最終的にはすべて一つにまとめられて、神への感謝と讃美となっていくように、主が導かれる。
旧約聖書の詩集である詩編が、神への讃美を重ねて波のように注ぎだす内容のもので終わっているのも、私たちの祈りが、最終的には神への讃美となることが期待されているからである。


 


st07_m2.gif何をしているか分からなかった

わずか十三歳なのに、小さな子供の命を奪った少年が、どうしてあのようなことをしたのかと言われたら、「何をしているか分からなかった」と言ったという。何をしているか分からない、それはあのような特殊な事件を起こしたからそう言ったのだと思うかもしれない。しかし、人間はいつでも、自分が何をしているか分かっていると言えるだろうか。
主イエスは、自分が十字架につけられたとき、そのようなことをする人々のことを、次のように言われた。

そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ福音書二十三・34)

心の目がくもっていて、自分がしていることがどんなに罪深いことか、それが自分に必ず裁きとしてもどってくることが分からないのである。人間はじつにしばしば自分がやっていることが分からない。
聖書でもそのことは最初の書である創世記から強調されている。アダムとエバがヘビの誘惑によって、食べてはいけないと言われた木の実を食べて、エデンの園から追放されることが書いてある。それも彼らは自分たちが何をしているか見えなかったからであった。それがどんなに恐ろしい結果を招くか、一時的なことだ、どうでも大したことでないなどと軽く考えていたことが、いかに重大なことにつながるか全く見えなかった。
この創世記の記事は単に神話的なものにすぎないと思い込んでいる人が多い。しかし、これは現在もつねに生じていることなのである。食べてはならないもの、つまり、してはいけないことであるのに、それが分からない、自分が何をしているか分からないために、人生の道を誤って重い苦しみを背負って生きなければならなくなるのは実に多い。
モーセに導かれた人々が、モーセに逆らおうとして神のさばきを受けて滅んでしまったこと、それも彼らが自分たちが何をしているか分からなかったのである。
ダビデのような信仰深くて勇気と決断の優れていた人であっても、心がゆるんだときには自分が何をしているのか分からなくなって、重い罪を犯してしまったのである。
このように、人間は頭が働いて動物と異なるといっても、動物すらしないようなひどいことをして重い罰を受け、自分も家族も生涯続く苦しみへと投げ込まれる人たちもいる。
キリストですら、こう言われた。

そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。(ヨハネ福音書五・19

自分からは何事もできないとは驚くべき言葉である。キリストですら、というよりキリストだからこそ、自分からは何もわからず、父なる神を見て初めてなすべきことが分かると言われる。主イエスはそれほど、父なる神のことがはっきりと見えたのであった。
人間は自分が何をしているか、その本当の意味がわからないものであるからこそ、神は主イエスと聖霊を人間に与えて下さって、主イエスに従い、聖霊によって霊の目を開かれる必要があったのである。
聖霊が注がれて初めて、私たちは何をしているかはっきりとみえるようになる。

主よ、いつも私たちに聖霊を与えて下さい。そして自分が何をしているのか、神の前に正しいことなのかどうかがわかるようにして下さい。



st07_m2.gif大いなる導き

私たちが生きるということは、導かれるか、それとも自分の考え、意志で生きていくか、それとも他人、周囲の考えに従って生きていくかということになる。かつて私は自分の考えや周囲の考えによって生きていた。周囲から認められること、認められるような何かができることをいつも目標としていた。それは私にとって、勉強であった。学校の成績をよくすることであった。
その後徐々に自分の考えというのが、どんなに頼りないか、思い知らされていくことになった。今から思ってみても、真実なものはどこにもなかった。みんな一時的なものであって、その場限りの考えで動いていたのであった。
聖書の世界に眼を開かれてみると、そこには、私が二十年あまり生きてきたなかで、知ったどんな考え方よりも、広く、深く、かつ、堅固なもの、動かないものがあるのに気づいた。

私たちは自分の考えで生きていけると思っている。しかし、聖書はそうした常識をはじめから一貫して打ち破っている。
それは、エデンの園の記事にも見られる。人間の周囲にはあらゆるよいもので満ちていた。しかしそれを感謝することもなく、それを創造した神に心を結びつけることもしなかった。
そこに、誘惑する者がやってくる。ヘビとされているが、それはこの世の神に敵対する力を象徴している。
神があらゆるよいもので満ちているようにして下さっているにもかかわらず、ヘビの言葉でエバはただ一つ食べてはいけないという実を食べてしまう。さらに夫であるアダムにも働きかけアダムも同様な罪を犯してしまう。
この記事は、自分の考えで物事を決めようとする場合、つねにこうした真実なものから引き離そうとする力(誘惑する力)によって判断の誤りを生じる。それは神のご意志に背く方向である。
聖書は、どのような理性的な人でも、またいわゆる頭のよい人でも同じように誤りを犯してしまうことを指し示している。
私たちは、何者に導かれているのか、それは子供のときには両親、まもなく、幼稚園や学校の先生、友達、そして周囲の考え方、会社の考え方などである。また新聞やテレビなどによっても大きく引っ張られている。
自分はどんなものにも導かれたり、引っ張られたりしないという人もいるかも知れない。しかし、それは錯覚にすぎない。自分の判断ということ自体、周囲の人たちによって左右されているからである。
例えば、太平洋戦争のときなど、ほとんどの国民が天皇を現人神だと信じ、アメリカは悪い国だ、鬼畜米英などといっていた。それらを自分の考えだと思っていた人も、それからわずか数年後の敗戦となった後には、アメリカやイギリスを鬼畜米英などという人はほとんどいなくなった。このように自分の考えといったものも、他人の考えのコピーにすぎないことが実に多い。
そのような実態があるから、人間は厳密にいうと自分の考えで動いているなどとはたいてい言えないのである。自分の考えとは実は他人の考えにすぎない。
となると、私たちが生きる頼りとなるのは、自分でも他人でもない存在、すなわち人間を超えたお方ということになる。それは聖書でいう神であり、キリストのことである。
アブラハムははるかな古代において、導かれて生きるという人生を最も明確に表した人のうちに数えられる。
導きは、突然にやってくる。アブラハムにおいても親族や住み慣れた故郷を離れて、神が示す新しい土地に旅立てという言葉が聞こえた。それはそれまで自分の考えで生きてきた人生が全く転換する言葉であった。自分が住んでいたところから、遠く離れたところに行け、という命令、それはアブラハムだけのものでは決してない。
人間は本質的に、動物とちがって、このように人生のある時に、神の言葉に従って、導かれていくという歩みをするように創造されているのである。それが罪を犯した者を導く神の愛なのである。罪の本性が入り込んだ人間にとって、そのままでは、必ず自分中心の罪の歩みをしていく、それは滅びへと向かうのみ。
それを滅びから救う道へと引き戻すために、神は呼びかけ、神の呼びかけに従って歩む生活へと導くのである。
神が導かれる生活に入ったからといって、安楽ばかりでは決してない。アブラハムにおいても、神が示した土地に行ったのであったが、飢饉によってそこでおれなくなったり、エジプト王に危うく妻を奪われてしまうところであったり、アブラハムの妻サラと、その仕え女であったハガルとの間に深刻な争いがあって、サラが、ハガルを追い出したために、ハガルは死ぬ寸前までになったこともあった。
 このように、神に導かれていく生活といっても、危険や困難、そしてさまざまの悲しみも生じていく。そのただなかで、神はそのわざをなされていく。
 モーセも同様である。イスラエルの男子として生まれたが、不思議ないきさつから、エジプトの王女に拾われ、王子として育てられた。しかし、大人になって、同胞のイスラエルの人間が苦しみに遭遇しているのを見て、自分の力と判断で助けようとした。しかしそれは無残にも砕かれて、助けるどころか自分の命が危なくなって、はるか遠くのミデアンにまで、生きるか死ぬかの瀬戸際をさまよいつつ逃げていかねばならなかった。そうした経験によって自分の意志や判断で生きることがいかに、力ないことか、実を結ばないことかを思い知らされる。
 その後に、神が現れ、そこからモーセは神の導きを受ける人生へと変えられていく。
 自分の力や判断で生きていこうとすることは、このように、むしろ神から離れていくことが多い。自分の意志や善意がすべてであるが、それがいかに弱いか、またいかに善意が報いられないか、悪が強いかを思い知らされる。そうして次第に理想など持ってもなんにもならないとか、人間嫌悪や、自分だけが正しい人間なのだといった高慢な心になっていく。
 パウロはそうした例であった。自分の考えや判断で生きていこうとしたが、それは真理とは正反対であり、真理を与えられたキリスト教徒を迫害して殺すことまでした。それでもなお一直線に迫害への道を歩んでいたとき、神からの直接の語りかけによって、パウロは方向転換をさせられた。そして自分の学識や考え、判断で生きていくのでなく、神の導きによって生きていく新たな道を歩み始めたのである。
 ダビデも元々は羊飼いであった。羊飼いのままなら、自分の考えや家族の考えの通りに生きていっただろう。しかし、ある時に神によって招かれ、王となる道へと導かれていく。そして当時王であったサウル王からのさまざまの迫害を受けて危うく殺されそうになることも何度もあった。そのような苦難のなかで、詩が生まれ、それが旧約聖書のハートといわれる詩編の母体ともなった。そして彼の信仰がますます試練にあって深められていく。そして彼自身はまったく王になろうという気持ちはなかったにもかかわらず、王となっていく。彼のような、数々の危険をも主に導かれ、信仰も深められたものであっても、心が緩んだときに、大罪を犯してしまう。それは神の導きに背いて自分の本性に引っ張られたからであった。人間はどんなに長く信仰に生きていても、なお神に背いて神の導きから背き去ることがある。ダビデの大きな罪はそれを物語っている。
しかしそこからでも、なお立ち返ることによって再び神の導きに入れていただくことができる。ダビデは家庭の深刻な騒乱を招き、そのために、甚だしい苦しみを受けたが、悔い改めによって神の導きに再び入れていただいた。
しかしそうした苦難と悲しみによって、一度神の特別な導きの生活を歩んでいた者が、その神の導きに背いて、人間の欲望に従おうとすることがいかに重大な結果を招くかを思い知らされたのであった。
 預言者とは、偶像崇拝に伴う堕落を警告し、偶像崇拝がいかに人々を迷わせ、社会を腐敗させるかを警告するために遣わされた人々であった。この預言者と言われる人たちは、人生のあるときに徹底して神の導きに従って、神の言葉を語るように命じられた人である。
その間の状況はとくに、エレミヤにおいてよくわかる。エレミヤは、青年時代に突然神からの呼び出しを受けて、どんなに自分は神の言葉など告げられないといっても辞退することは許されず、神の言を担って語る者とされた。それ以後は、命を狙われるような困難、危険のただなかであっても、そして周囲がまったくエレミヤの預言を聞き入れず、かたくなな心によって彼を迫害し続けてもなお、神の導きのままに周囲の支配者たち、民衆の考えに対抗して神の言葉を語り続けたのである。
 
 新約聖書においても、神の導きに生きる姿ははっきりと記されている。ヤコブやペテロ、ヨハネたちの召された記述にも、それは明らかである。漁師としてその仕事中において主イエスの呼び出しを受け、その言葉に従って、主イエスに従うようになった。
ペテロについては、主の導きに従っていきつつも、主イエスが再び来られるときには、私をあなたの右、左において下さいとか、だれが一番偉いかとかの議論をしていて叱責されたこともある。また、主イエスが十字架に付けられるということを予告したとき、そんなことがあってはいけないと、主イエスをいさめることすらしたが、そのときには主イエスから「サタンよ退け!」ときびしく叱責された。そして主イエスがいよいよ捕らえられるというとき、自分は死んでもあなたについていく、とまで確言したのに、逃げてしまい、三度も主イエスを否認したこともあった。こうしたことは、人間が神の導きに生きるようになっても、絶えず気をつけていなければ、自分の考えや周囲の考えに従っていくようになる危険性を表している。
 それだけでない。復活のキリストに出会い、聖霊を豊かに受けてもなお、割礼問題で、大きなつまずきをして、信仰によって救われるという基本的な真理からそれることすらあって、パウロから面と向かって叱責されたこともある。
 そして、ペテロの最後は、新約聖書には書いてないが、新約聖書から少し後に書かれた文書には、そのことが記されている。
 ネロ皇帝の迫害を逃れて、ローマから逃げていくことを信徒たちから勧められ、逃げていく途中、主イエスが現れた。ペテロは、「主よ、どこへ行かれるのですか」(クォ ヴァディス ドミネ Quo Vadis Domine ) と尋ねた。主イエスは、「お前が、ローマのキリスト者たちを捨てて、迫害を恐れて逃げていくから、私がもう一度ローマで十字架にかかるために行くのだ」との答えがあった。それを聞いたペテロは、自分の非を悟って、ローマに引き返し、逆さ十字架にかけられて殉教したと伝えられている。(*
 このペテロの生涯は、導かれる歩みであった。人生のある時期に主が現れ、個人的に呼び出しを受け、主に導かれる歩みを始める。しかしさまざまのこの世の誘惑によって主の導きから離れて自分や周囲の人たちの考えに従おうとする。しかし、主はそのようなときにも警告を与え、適切な機会を与えて主に導かれる歩みへと引き戻される。

*)このことは、新約聖書の外典に含まれる、ペテロ行伝(紀元180190年頃に書かれたという)に記されている。ペテロが逆十字架に処刑されたということも、この書にみられる。これは、後にポーランドの作家、シェンキェヴィチによる大作、「クォ・ヴァディス」(一八九六年)に心を動かす記述で描かれて世界的に広く知られるに至った。この作品は、日本でも今から百年ほどまえから紹介されている。彼は、一九〇五年、ノーベル文学賞を受賞した。

 聖書以外にもこうした導きについては、大文学にも見られる。ダンテの神曲はそのような導きの生涯をテーマにした深遠な作品である。地獄編はたんに地獄に落とされている描写が興味深いといったものでなく、神の道からはずれるとき、どのような目に遭うのか、それを理性的に深く知ることを意味している。私たちの人生においても、神を知らなかったときにいかに苦しんだか、それを思い起こさせるものがある。そのようにして、神に背いた生活の苦しみを徹底的に思い知らされて、神を知らされ、罪の赦しと清めを受けていく生活となる。そしてさらに、御国への歩みへと続き、聖書にあるように、神とキリストとの深い交わりがどのようなものであるかを、ほかにはだれもなし得なかったような表現でなされていく。それが煉獄と天国である。
 ダンテの神曲の冒頭で、人生の半ばにおいて、暗い恐ろしい森にあったこと、思い返すだけでも、身震いするほどであった。そこからようやく光に包まれている丘に着いて、そこからその煉獄の山に上ろうとしたが、そこに人間の古い欲望や高慢など古い人間そのものといえる、妨げるものが行く手を阻んだ。そしてダンテは登るのをあきらめようと、後ずさりしていった。
 その時、何者かが眼前に現れたため、ダンテは、「憐れんで下さい!」と叫び、その現れた人こそが、ダンテを導く人だとわかった。ダンテは自分のうちに潜む貪欲とか本能的な欲望や高慢などに、立ち向かおうとしたができないのを思い知らされ、人間を超えるより高い力によって導かれるのでなければ正しく歩めないのを悟ったのである。
 ダンテを導く者は、ダンテよりも千三百年ほども昔の、ウェルギリウスという古代ローマ最大の詩人であった。このウェルギリウスは、神のご意志を受けた者からの命令でダンテのもとに遣わされる。
 このように、ダンテのような意志強固だと思われるような人であっても、自分の力で光の射す清めの山に登ることはできない、ただ引き返すのみであった。
 天国にしても、神の導きを象徴するベアトリーチェという女性によって導かれていく。そして神の愛をしばしば天的な響きの音楽のなかで、知らされていく。
 このようなダンテの神曲と共に、導きをテーマにした世界的に知られたキリスト教文学は、ジョン・バンヤンの「天路歴程」である。この世の罪から救われたいと、家族やまわりの人たちが引き止めるのを振り切って旅立った人が、途中のいろいろの困難や試練に出会いつつも、キリストの十字架によって重荷を下ろすことができ、神の導きによって滅びの世から、天の国へと歩んでいく過程を記したものである。
 また、旧約聖書の最も有名な詩として知られているのは、詩編二十三編であるが、これも、神による導きによって生きることの幸いを歌っている。

主はわが牧者である。
私には乏しいことがない。
主は私を導いて緑の野に伏させ、
憩いのみぎわに伴って下さる。
そして魂を生き返らせて下さる。
主は御名にふさわしく
私を正しい道に導かれる。
たとい、死の陰の谷を歩むとも、私は災いを恐れない。
あなたが私と共にいて下さる。

これは、詩編のなかでも最も有名な詩であるが、それが、神の導きをテーマにした詩であるということは、暗示的である。やはり人が最も心に求めているのが、こうした生きた導き、万能の神の御手による導きに生きるということなのだと思わされる。
こうした重要なことを示しているのが、使徒への呼び出しであった。主イエスは、「私についてきなさい。」と言われたが、そのことに従って、ペテロやアンデレ、ヨハネたちは、イエスについて行った。すなわち、主イエスに導かれる生活へと転じたのである。
使徒ペテロ(シモンとも言う)に対して、主イエスが語りかけた最後の言葉は、やはり導きということであった。
イエスは、ペテロに三度も「シモン、私を愛しているか。」と繰り返して問われたあとで、つぎのように言われた。

はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。
しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」(ヨハネ福音書二十一・8

これは、若いときには、人間はだれでも自分の意志や考え、希望で生きている。しかしキリストの弟子となり、聖霊を与えられて生きるようになったからには、自分の意志とは別の意志、神の意志により、神に導かれて生きるようになるということを表している。

使徒パウロもキリスト者の生き方というのは、導かれて生きるのだということを強調していて、その導きは神の霊によるということがはっきりと言われている。

神の霊によって、導かれる者は、みな神の子供たちである。(ローマの信徒への手紙八・14

使徒たちの伝道の記録である、使徒言行録にはいかに弟子たちが聖霊によって導かれていたかが、具体的に記されている。

彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロ(パウロの別名)をわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」(使徒言行録十三・2

主が決めておいた仕事とは、異邦人への伝道である。パウロのようなキリスト教界で最大の働きをした人物は、決して自分の希望や意志で異邦人への伝道という大仕事に志したのではなかった。この箇所が示しているように、聖霊によって命じられ、それに従ったのである。
このように、聖書によれば、信仰をもって生きるということは、単に復活や十字架ということを言葉のうえで信じているというのでなく、そうしたことを信じた上で、神あるいは聖霊に導かれて生きることなのである。
そうした導きを受けるために第一に必要なことは、私たちの罪が赦され、そこに聖霊が注がれることである。
日本の代表的作家とされる、夏目漱石の「心」という作品がある。
これは、自分が愛する女性を自分の友人にとられそうになった先生といわれる人物が、その友人に対して心ない言動をとる。それによってその友人は自殺してしまう。その原因をただ一人知っている先生はだれにもそのことを話すことができず、一人悩み苦しみ、その解決ができないことに追い詰められ、ついに自らの命を断つという内容である。自分の犯した罪、それが赦されない罪として人を苦しめていく様が描かれている。
罪の赦しへと導かれない人間は、良心的であろうとするほどこのように追い詰められ、苦しみは深まる。
しかし、漱石の「心」は、どこにもその解決が示されていない。このような作品を読んだだけでは、人は自分の内なる赦されない罪によって苦しめられるのみである。
使徒パウロが、自分はどうしても善いことができない。してはならないと思っていることをしてしまう、自分は死のからだを持っていると、深く嘆いている箇所があるが、まさに、罪に苦しめられた人はだれでも、こうした自分自身への絶望のようなものを感じたことがあるだろう。
だからこそ、人間は人間を超えた存在によってまず、罪の赦しへと導かれる必要が生じる。

導きということは、単に個々の人間だけについていえることでない。それは、キリスト者全体が、キリストによって導かれていくことである。

わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。…
わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。(ヨハネ福音書十・1416より)

このように、羊飼いであるキリストがすべてのキリストを信じる人たち、その集まり全体を導いて一つの群れとすると言われている。こうした全体としての導きは、人間だけでなく、この世界のすべてが一つとされることが約束されている。

こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられる。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのである。(エペソ書一・10

神の導きということは、この世界や宇宙全体にもかかわっているものであって、たんに偶然的にこの世界が動いているのでもなければ、悪や人間が動かしているのでもない。それらすべてを超えた神が導き、最終的に一つとされるのである。このような大いなることは、人間が考えて生み出したことではない。ただ、神が選んだ人に啓示したことであり、私たちキリスト者もそのような大いなる導きの世界へと招かれているのである。
(なお、これは、七月二十日の主日礼拝に日本キリスト教団・利別教会で話した聖書講話(説教)とほぼ同じものです。)


 


st07_m2.gif北海道でのこと

瀬棚聖書講習会について

七月十八日(金)の夕方から二十一日(月)の昼まで、北海道の日本海に面した瀬棚郡瀬棚町にて、第三十回瀬棚聖書集会が開催され、今回初めてその集会にて聖書の講話を担当することになりました。北海道は三十八年前に学生のとき、山ばかりを登ろうと考えてテントなども携行して一人で出かけて以来のことでした。
今回の聖書講習会では、天の恵みを数々受けて祝福された数日間でした。多くの人たちによる準備や当日の私たちへのお世話、また徳島聖書キリスト集会の人たちには私の体調が最近すぐれなかったこともあって、とても心にかけて祈りをもって備えて下さって、主にある愛を感謝でした。
一週間前には、阪神方面での聖書講話を三日間かけて担当する予定でしたが、二日間に短縮したり、北海道に旅立つ一週間ほどは、一〇日ほどは集会も休み、体調がもとに戻ることを第一にして備えることにしました。この数日間、主がともにいて、支えて下さったのを感じています。
私たちの集会員あるいは参加し始めている人、それから県外にいるかつての集会員も加わり、五名がともに参加できたことも感謝で、埼玉県から参加された栗原 庸夫(つねお)兄たちとともに、瀬棚の人たちとの合同の集まりのような面もありました。
 数カ月まえにはそういった町の存在さえも知らなかったところでしたが、今回のような聖書を中心とした集会が三十年ほども続けられていることに驚くとともに、それが酪農をやっている人たちが大部分を占めていると知っていっそう意外な気がしていました。
全国にこうした夏期の聖書講習会のようなものは多く開催されており、農業をしている人が多く加わっている集会も知っていますが、酪農業をしているひとがほとんどであるような集会というのはきいたことがなかったからです。
 北海道に着くと、肌寒く、体調が十分でなかったこともあって、その気温の低さが予想外でした。これは例年にまして寒いとのことでした。
 車で今回の集会の責任者である西川 譲(ゆずる)兄が迎えに来ておられ、私たち四国からの参加者五人と、埼玉県の栗原兄たちを車で運んで下さいました。走り出してまもなく、湿地の原野に、アヤメかノハナショウブと思われる野草の花が点在していて、他にも関西では見られない花があちこちに見られ、山間部になると、オオウバユリの野性的な姿も多く見られました。
北海道の瀬棚町といっても、四国の人にとってはほとんどが知らないと思われます。この日本海側の人口三千人ほどの町に、いまから百年余り前に、同志社大学出身の一学生(志方 之善)がこの地方に入ったのが、キリスト教が入った最初で、その後、その志方(しかた)と結婚した、日本で初めての女医となった、荻野 吟子(おぎの ぎんこ)もキリスト集会であったので、この夫妻によってキリスト教の種が蒔かれました。それ以来、この地方や隣接する地域にキリスト者の開拓者が入ってきて今日に至るまで、キリスト者たちの多い集落となって続いてきたということです。 
 今回の集会にて印象的であったのは、酪農業をしながら三十年という長い間を、最初に開拓に入った人たちとそのつぎの世代の人たちが一緒になって開催していること、夏の聖書集会の責任は、次の世代の人たちにゆだねられて、若い世代が去年から企画運営しているということでした。開拓した世代の人といっても、まだまだ現役で酪農をやっておられる人たちであり、十分に聖書集会も企画運営できる人たちであるけれども、若い人たちへの信仰的訓練と、信仰の受け渡しという意味を兼ねてなされていることと思われ、このことも異例のことだと感じました。
 今年はとくに寒くてセーターなどが不可欠の状態で、外には真夏とは到底思えない春先のような冷たい風が強く吹いていて、夕日の射す瀬棚の町の風景と周囲に広がるうねうねとした丘陵とあいまって日本ではない、どこか外国にいるような感じがありました。
 集会は部分参加の人が大部分で、乳牛に関係した仕事を朝に夕にしつつ、集会に参加するという状態で、これも他ではない形です。何らかの形で参加していた人たちは連れてきていた子供も含めると四十人ほどはいたように思います。子供たちと、その若い親、さらにその親と三代の世代が集まるという集会で、もとは、ある方の孫が生まれたときに、若い世代に何とかキリストの福音を伝えたいという願いから始まったとのことで、長く横浜の堤 道雄氏が年に一度瀬棚町に来られて聖書講話をされていたということです。
 関西では考えられない、広大な森林や原野、点在する酪農家、となりの家が時にははるか遠くにあるという環境のなかで、自然一色に包まれて、そこでキリストの福音を信じて信仰を続けて来られた人たち、素朴さと生活に密着した力が感じられ、その背後にそうした人口三千人ほどの小さな町にも長い年月を導かれたキリストの力が実感されたことです。 
 今回は、ちょうど、四十年前に地元教会のワークキャンプ(キリスト者の若い人たちが何らかの仕事を泊まりがけでする。この地域ではとくに酪農を実際に手伝いをする)に参加していた人たちが今は全国に散在しているが、その人たちが四十年ぶりに一種の同窓会をすることになって、その八人ほどの人たちとも教会の礼拝や食事など部分的にともに参加することにもなりました。
 今回は聖書講話が中心で、土曜日から月曜日まで七回ほど(主日礼拝説教も合わせて)、合計時間では、七時間ちかい時間がそれにあてられていましたので、なるべく変化をつけるために、旧約聖書と新約聖書の双方を用いることにし、旧約からは創世記と詩編、新約からはマタイ福音書とパウロの手紙から選びました。
二十日の日曜日には、日本キリスト教団の利別(としべつ)教会の主日礼拝での聖書講話(説教)を担当することになっていて、創世記からの聖書講話を三十分ほど語りました。その日は、前述の四十年ぶりのワークキャンプの同窓会に参加した人たち(東京や埼玉など)、そして私たち、それから地元の教会関係の信徒とその子供たちも集まったために、全部合わせると六十人以上は参加していたようでした。
礼拝のあと、そのような遠くいろいろの地方から参加した人たちを歓迎するために、教会にて特別なメニューでの昼食となり、交流の機会ともなりました。
この瀬棚地方といっても、大多数の「はこ舟」読者の方々には未知のところと思いますので、少し説明をしておきます。北海道南部の日本海側にあり、函館と札幌のほぼ中間部といえる位置にあります。
札幌からでも、一部(札幌-小樽間)高速道路を用いても四時間半ほどもかかるところです。
瀬棚という所は、広大な北海道のなかで私たちには全く未知のところでしたが、そこにおられた人々のうちには、以前から私たちの集会のテープや「はこ舟」誌を毎月一度お届けしていた方のご子息や孫にあたる方々が参加されていると知って、神の導きの不思議を感じたことです。ことに、今回の聖書集会の責任者であった、西川 譲さんの祖母であった、西川 ことさんは、今から一年半あまり前に、私が静岡での合同集会に聖書講話に出向いた際に、会場となっていた二階にも上がれない状態であったけれども、熱心な方で参加の気持ちが強く、何人かの人が車椅子に乗せて運び上げて参加されたのでした。その後数カ月で、西川 ことさんは九十歳で天に召されたのです。そのようなわけで、特別に印象に残っていたのでした。
また、この瀬棚聖書講習会で以前の責任者であった野中正孝さんのご両親は一九九五年からの「はこ舟」の読者で、時々来信あり、奥様はすでに四回も脳の切開手術をされたこと、その後も後遺症や糖尿病など病気の苦しみのこととともに、「はこ舟」を楽しみに待っていると書いてこられたのを覚えています。(九九年十一月の来信)
そうした方のご子息やその孫に当たる若い人たちが何人も参加されているのを知って、とても思いがけないことでした。
また、日曜日の礼拝のあとで、会場となった利別教会に属している方が来られて、「祈の友」会員であることを言われ、このようなところにも祈りの友としての結びつきが与えられていることも感謝でした。

 


礼文島でのこと

今回は、聖書の講習会の後で礼文島を訪れることができ、いっそう強い印象を与えられて帰途につくことができました。
四十年近くまえに、学生時代に礼文島で数日間とてもお世話になったKさんのところにできれば行きたいと願っていました。Kさんご夫妻はたまたま山道で出会った行きずりの山登りしている学生にすぎなかった私に、それまでの経験では考えられないような親切と好意を注いで下さったのです。
 私はどうしてこんな全くの他人にこんなにしていただけるのかわかりませんでした。日本の最北の島では自然の人間に与えられている、神のかたちとしての善意がそのまま保たれているのかと強い印象を受けたのです。
 礼文島から始まって二〇日あまりを一人で、テントも持って、大雪山とか十勝岳、羅臼岳、雌阿寒岳など、北海道の山々に登り、また人の行かない湖や海岸などをたずねて歩き続けたので、その印象は今もそのままに鮮やかですが、そのような自然とそこに住む人間の真実な心が織りなされるときにはいっそう深いところに刻まれるものです。礼文島でのKさんご夫妻との出会いはまさにそのようなものでした。
今回は健康上の問題もありましたので、無理かもしれないと思っていました。しかし、数十年も機会はなかったのですから、今回を逃せばもう二度とその機会はないと思われました。わずかの時間でも…と考えて、思い切って予定に組み込みました。
私が教員を十年ほど前に退職したときに、記念の旅行券を支給されていたのですが、いままではずっと夫婦で旅行するといった機会がなく、そのままになっていました。しかし、今回初めてその機会が与えられ、旅行券も使うことができることになり、それを用いて、わずかの時間でしたが、礼文島を訪れ、三十八年ぶりに再会することができました。
 大学二年のときに初めて訪れてからもう何十年にもなりますが、それ以来しばしばKさんご夫妻は私に礼文島にくるようにと招いて下さっていました。しかし、日本の最北の島でもあり、はじめからそんな機会はないだろうと思ってあきらめていたのです。
今回せっかく訪問できても、午後五時すぎに着いて、翌日の朝十一時にはもう離れるということで、かつてお世話になった人と会うことだけできたらと思っていましたが、その人の家に着くと驚いたことに、その方のご子息夫妻や孫など親族の方々が集まっていて、私たちを歓迎して下さり、その地方の珍しい海の幸などたくさん用意して待っていて下さっていたのです。Kさんのお孫さんもすでに結婚されている方が多いようでしたが、一人のお孫さんは、ボーイフレンドとともにその場に加わっていました。
 全くの他人にすぎないし、もう四〇年ほども会ったこともない、ゆきずりの旅人であった私に対して、そのような形で迎えて下さることが驚きでした。
その人の前述の人とは別の孫であるYさんがお母さんとともに夕方近いのに、私たちを車に乗せて下さって、高山植物が咲き乱れる美しい場所へとつれて行ってくれました。そこからは、海を隔てて、富士のような美しい姿で利尻岳(標高千七百メートル余)が海の中にそびえているのが正面に見えて、それを見ている足元には、数々の高山植物群落が四国では考えられないほど豊かに咲き誇っている光景が広がっていました。
それは、他では見られないような静けさに満ちた光景であり、ほとんど人もおらず、海中に浮かぶ雲をまとった神秘的な山と海、そして九州、四国、近畿地方などでは決して見ることのできない高山植物の大群落は、神の創造された特別な園に置かれた感がありました。
それは三八年前に初めて見て以来、ずっと心に焼き付けられていた光景でしたが、前回はゆたかな植物群落のことは少ししか見ることができなくて、知識もわずかであったのですが、今回はそれ以来四〇年ちかく、いろいろの地方の植物に接してきて、植物に関する知識もはるかに増加していたので、いかにこの地域が、貴重な植物たちが一面に広がっているか、その豊かさに息をのむほどでした。
これは、私にとっては、たしかに「神の言葉」でありました。神の国のことをいろいろと私に語りかけてくるものであり、それはいまも心に響いているのです。この世の汚れと不真実に満ちた世にあって、神は自然のなかに御国のおもかげを刻みつけておられるのでした。
他の地域なら、高い山を長時間かけて登り、ようやく一部の地域にて見いだせる貴重な植物たちが、ここではあふれるばかりに育っていて、私に語りかけてくるのです。そしてまだ、一〇代であった頃、山という自然によって初めて目に見える世界と異なる清い世界、力に満ちた世界をほのかに感じた私にとって、今回の礼文島で接した自然は、神の国を思わせる美と清いものに満ちた世界を新たに刻みつけてくれた思いでした。
夕暮れ近くであったゆえに、他の人もほとんどおらず、火山特有の一面に広がるなだらかな草原状の山にあって夕日が射していて得難い美しさのひとときを恵まれたのです。
 瀬棚という地では神とキリストを信じる人たちの織りなす場にて新しい息吹を受け、神がいかに歳月を超えて人間を導き祝福を与えられるかを目の当たりにして、神の生きた導きを知らされました。
また、礼文島においては、かつて何のゆかりもない他人にも、心からの親切をもって対して下さり、四〇年近く一度も会ってなくともなおつながりが消えることのなかった人間の好意、そしてそれを包む美しい自然がやはりともに神の愛や万能の力を指し示してくれたのです。

 


st07_m2.gif休憩室

○火星
空の星もほとんど見られないような都会にいても、今回の火星の大接近によって、とくに明るく見えるので容易に観察できると思われます。深夜十二時頃に南東のほうの空を見ると、とても明るい、赤い星が見つかります。それが火星です。地球の仲間である惑星であのように赤いのは、火星だけで、そのために火星という名称がつけられています。火星は二年二カ月ごとに接近するので、二年前の六月二十二日にも接近していたし、また二年後の二〇〇五年十月三〇日にも再び接近します。しかし、今回のように近づくのはおよそ六万年ぶりで、再び今回のように近づくのは二八四年後ということです。
今回の明るさは、最大のときで、マイナス2・9等で、木星が最も明るいときでも、マイナス2・5等、恒星のうちで、最も明るい大犬座のシリウスは、マイナス1・5等なのですから、その明るさが想像できると思います。なお、宵の明星とか明けの明星として知られている金星はマイナス4・4等の明るさで、これは別格です。
現在では、夜空の星や野の花といった、神の創造の雄大さや美しさに直接に触れる機会がますます少なくなりつつあり、それが子供の心の荒廃にも関係しています。子供に伝えるためにはまず大人がそうした自然に心を向ける必要があると思われます。

○礼文島で見られた植物たちのうち、いくつか印象に残った花を書いておきます。
・レブンウスユキソウ(礼文薄雪草)これは、有名なヨーロッパアルプスなどで知られているエーデルワイスとよく似た花です。美しさの点からいえば、ほかにたくさんの花があるのですが、この花は高山の厳しい気候のなかで咲き、白い星のように見えるので、とりわけ有名になっています。
この名前のエーデル(edel)とは、ドイツ語で「高貴な」という意味、ワイスとは、weis で、英語のwhite 、つまり「白」の意。ドイツ語では、ヴァイスと発音します。それで、この名前の意味は、「高貴なる白」という意味になります。この花はスイスの国花であり、また世界的に有名となった、ミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」の中の曲の名としても知られています。

・エゾニュウ…これは、礼文島の山地にとりわけ目立つ大型のセリ科の植物です。春の七草の一つである、セリの花をぐんと大きくしたようなものです。高さは一~三メートルにも達するものです。ニュウとはアイヌ語だといいます。アイヌの人たちもこの花に関心を持っていたのがうかがえます。これは、東北地方から北海道、そして樺太や千島の山中に生える野草です。
・イブキトラノオ…徳島県では剣山やその近くの塔ノ丸などの高い山で見られる、長い穂の様な形をした花ですが、礼文島ではたくさん咲いていました。しかも剣山周辺のものよりも、大型で花も大きいものでした。
・エゾカワラナデシコ…四国では山を歩いていてもごく少数しか見られないカワラナデシコですが、礼文島では、平地に近いところでも咲いており、少し山道をあがると、たくさん咲いているのが見られます。草丈は低いのですが、美しさは変わりません。中国のナデシコであるセキチクやアメリカナデシコと区別して、日本のナデシコなので、ヤマトナデシコとも言われますが、この花の持つ雰囲気はたしかに日本女性の本来のよさを感じさせるものがあります。

 


st07_m2.gifことば

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善は一つも失われない
かつて存在したものは、存在し続ける
悪は空であり、無である
善は善として存在し続ける
地にてはきれぎれの弧であっても
天にては完全な円  (ブラウニングの詩より)

・これは、キリスト教における基本的な確信です。神はいっさいの善いことの源であり、神ご自身は永遠の存在です。それゆえに、善そのもの、善きことそのものは、人の目には一時的に消えたように見えても決して消えてはいないのです。善いことはごく断片的にしかない、いくら善いことがあっても、じきに消えていくように見えます。それがここでいう、「きれぎれの円弧」のように見えるということです。しかし神の国においては、つねに完全な円として、すなわちいかなるものも害することもできない完全なものとして存在し続けているのです。
 神の愛や、美そのもの、清いもの自体は、地上でどんなに小さなものに見えようとも、また時に消滅していくように見えても、完全なかたちで存在しつづけているわけです。

 


st07_m2.gif返舟だより

○毎月、「はこ舟」をご恵送賜り、ありがとうございます。私は一九五三年に、病気がいやされて上京しました。聖書を手にして間もない私が田舎から心に刻んできたのは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ福音書六・33)ただ一句でした。
学問なし、健康に自信なしの私を以来支えて下さった聖句でした。しかし、その意味はわかりませんでした。わからないけれども、神様、イエス様の存在を信じ、迷いながらも道草を食いながらも、信じる歩みを続けることができ、「これらのものはみな、加えて与えられる」恵みを体験できました。
それだけに、「はこ舟」五月号、六月号における「神の国」についての解きあかしを感銘深く拝読いたしました。三回繰り返し拝読しましたが、これからも読ませていただくことと存じます。
「復活も、十字架」での罪の赦しも、神の国(支配)が直接的に実現したことを意味している」、「神の国」の中にキリスト教のすべてが満たされているのだと思います。…(関東地方の読者から)

○お祈りと充実して深いみ言葉を有難うございます。本当にそうだなぁ!と、ハッと揺さぶられたり、四国の風に…当たりたいなぁ!!と、郷愁を覚えながら、ここで今できることを模索しています。
…濃霧がかかっても雨上がりには、なお一層さやかに、より近くに雄大な山々が姿を現します。そして 神様の御まなざしを想います。
…私は「はこ舟」のメッセージを重く受け留め、平和と反戦の課題を、地域の人たちと祈り、考えて行きたいです。(関東地方からのメール)

○毎号感銘を受けています。今月号、「神の国とは何か」に特に…。再読三読を誘われるほど。今回の記事は長文にもかかわらず最後まで休まず(小生は視覚障害者)読み終えました。 (中部地方の方)