20041月 第516・内容・もくじ

リストボタン心を与える神

リストボタン雪のように白く

リストボタン愛と悲しみ

リストボタン苦しみを通って

リストボタン憎しみが消える道

リストボタン休憩室

リストボタンことば

リストボタン返舟だより



image002.gif心を与える神


人間は心を与えることはできるだろうか。金は与えることはできる。地位も与えることもできる。技術も与えることができよう。しかし、心は与えることはできない。清い心や真実な心あるいは正義に従う勇気などを与えようと思っても、自分の最も身近な家族にも与えられないのに気付かされる。
それは当然だろう。もともと私たちはそうした本当によいものを持ってはいないのだから。私たちは自分自身にすら、清い心を造り出したりできないのである。
しかし、神はできる。神こそは、私たちにそのような心を与えて下さるお方である。

わたしは彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが、彼ら自身とその子孫にとって幸いとなる。
わたしは、彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。またわたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにする。(エレミヤ書三十二・3940

わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。(エゼキエル十一・19

ここに引用したエレミヤ書、エゼキエル書はともにいまから二千五百年以上も昔の預言者である。このような古い時代から、神は私たちの生まれつきの心を鍛えるとか成長させるというのでなく、新しい心を新たに与えて下さるということが記されている。これは驚くべき深い見方である。
自分という人間そのものと分かちがたく結びついている心、それと全くことなる神の国のものといえる清い心を与えていただけるというのである。
そしてこうした預言の言葉のとおりにそれから五百年以上のちになって、心を与え、新しい霊を与えて下さるお方が現れた。それが主イエスであった。
心が壊れてしまったとか、心が汚れてどうしようもないように感じる人、暗い心がどうしても変わらない人、あるいは生きる力が出てこない心をもてあましている人、そうした人は、まったく新しい心を共に神からいただこう。そうしたすべての人々に、主イエスは、「求めよ、そうすれば与えられる」と今日もうながしつづけておられる。

 


image002.gif雪のように白く

水は不思議な性質を持っています。人間の体重の60%以上を水が占めていることからもその重要性がうかがわれます。栄養分を溶かして体全体に運び、酸素も全身に運んでいます。さらに筋肉で生じた熱を運び、また体内で生じた不要物や有害なものも水に溶ける形にして排出されるということで、体内から十二%の水が失われたら死んでしまうと言われています。
そのため、水だけあれば、食物を摂らなくても人間は3040日程度生きられるが、水がなかったら、二週間も生きられないといわれています。
そのように私たちが生きていくにも絶対不可欠な水ですが、その水はまた、地球上の植物や動物などの生命を支えています。
このように人間だけでなく、地球全体を見てもきわめて重要なものですが、さらにその現れ方も不思議なものです。
空気中には水がたくさんあります。しかし目には見えません。それは気体(水蒸気)の状態で存在しているからです。
その水が、温度が下がると気体のままでいられなくなって小さな液体の水、水粒になります。それが雲です。雲の白い姿、その形は無限な多様性を持っていますし、夕暮れや朝などの太陽の光を受けるときには、驚くばかりの色合いにもなって壮大な芸術作品が大空に展開されます。
そのような美しさとともに、膨大な水の集まりである海は深い青色となり、大空の青とともに私たちの心を引きつけ、清めまた高めてくれる働きを持っています。
さらに、大気中の水蒸気が冷えてできる雪は、それが液体のときに見られるような白とか海などの青い色とはまったく異なる純白となります。
このように、水は目に見えない形、雲の白やグレー、夕日などの赤や赤紫、川や海の青や緑、そして雪の純白と、その色彩も実に多様なものとして私たちの前に現れます。
このように、水は私たちに最も身近なもので、自分のからだを維持し、命を支えてくれていることから始まって、地上の生物を支え、また芸術的な点でも、空の雲や川、海、そして雪などのように実に深いものを与えてくれています。
そうしたなかで、聖書において、雪の白さというものが、罪との関連で特にあげられています。
古代の中国人が考えた、雪という漢字を見てみます。彗星の彗という漢字は、細い穂や竹枝をそろえて手で持つさまを示したものであり、雪という漢字の下の部分は、この彗の下の部分と同じであるとされています。そのため、雪とは、「雨+彗(すすきなどの穂でつくったほうき、はく)」の会意文字で、「万物を掃き清める」という意味を持っていると、漢字の字源辞典で説明しています。
すべてを純白にし、汚れたものも、見にくいもの、古びたものもみんな覆ってしまう、雪が一面に降ると、確かに万物の汚れが掃き清められたような状態にしてくれます。数千年も昔の中国人は、雪を、あらゆるものの汚れを清めるものというイメージを持っていたのがうかがえるのです。
聖書においても、雪の白さは、罪からの清めと関連したつぎの箇所が知られています。

…主は言われる。
たとえ、お前たちの罪が緋(ひ)
*のようでも、雪のように白くなることができる。
たとえ、紅のようであっても、羊の毛のようになることができる。(イザヤ書一・18

… わたしを洗ってください雪よりも白くなるように。(詩編五十一・9

*)緋とは、鮮やかな朱色のこと

雪を見てまず美しいと感じるのが暖かい国の人の受け止め方ですが、ここでは、神の愛を深く感じることに関連して思い出されているのです。
ことにはじめに引用した箇所は、今から二千七百年ほども昔に書かれたと考えられている書物であるのに、神が人間の重い罪を赦して下さるお方であるとはっきりと記されています。
緋色のような罪と言われているのは、朱色のように著しく目立つ罪、どこから見てもその罪がはっきりわかるほどの明らかな罪、といった意味あるいは、人を殺すときの血の色を連想することから、最も重い罪といったことが含まれていると考えられます。そのようなひどい罪であっても、人が立ち返ることによって神に従うことによって一方的な赦しを与えられるということです。
それはその後七百年ほども後になって現れたキリストの赦しの愛を予告するものとなっています。
どんなに過去に、だれの目にも明白な汚れた罪、また重い罪を犯していても、ただキリストがそれらを赦して下さるために十字架について下さったと信じて仰ぐだけで、それが赦され、雪のように純白にしていただけるというのです。人間の努力では到底、過去のさまざまの罪を消すことも清めることもできないのであって、それは本当に驚くべき神のわざです。
私たちも雪を見るとき、こうした数千年前の預言者の心に投じられた神の愛を思い起こし、いっそう神からの清めを受け、雪のように白くしていただきたいものです。

 


image002.gif愛と悲しみ

キリストの福音*とは、その名のとおり、喜びのおとずれであり、知らせである。私たちの最大の問題である、心の中の問題、そのなかでも一番奥深いところにある罪に苦しむ人間に対して、その根本的な解決の道を知らされた者は、どのような状況にあっても、深い平安と喜びを感じる。そこから自然にその喜びを伝えようという気持ちになる。
そのような心に真正面から対立してくるのが、現実のまわりの厳しい状況である。キリストの十字架の死が、私たちの罪を赦すこと、あがなうことだと、単純に信じるとよいのであるが、それをどうしても受け入れず、罪などないとかキリストの十字架は罪をあがなう力などないといって、受け入れない人がきわめて多いことに気付く。
それはパウロの時代から見られたことであった。

…何度も言ってきたし、今また涙ながらに言うが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多い。
 彼らの行き着くところは滅びである。彼らは…、この世のことしか考えていない。(ピリピ書三・1819より)

キリストの十字架に敵対するとは、ふつうには耳にしない表現である。十字架とは私たちの罪を担って死なれたということである。それに敵対するとは、そうした死は必要ない、キリストは十字架にかかってまで、私たちの罪を清めようとされたが、罪そのものがないなどという場合である。
 しかし、自分の罪を認めようとしないで、歩むときには必ずその人の心は次第に固くなり、よきものを感じたり、心動かされることがなくなっていく。それは滅びという状況である。
そのような人々に対してパウロは、涙ながらに言うと書いている。神の愛に敵対する者に対してもそういう人々を憎むことなく、また見下すこともなく、深い悲しみをもって見つめていたことがうかがえる。
また、他の箇所でも次のように、パウロの涙を見ることができる。自分が去ったあと、キリスト教の真理を曲げて真理でないものを教えて人々を惑わす者が表れることをパウロは予見していた。そしてさらにこう言っている。

…あなたがた自身の中からも、いろいろ曲ったことを言って、弟子たちを自分の方に、ひっぱり込もうとする者らが起るであろう。だから、目をさましていなさい。
そして、わたしが三年の間、夜も昼も涙をもって、あなたがたひとりびとりを絶えずさとしてきたことを、忘れないでほしい。(使徒言行録二十・3132

涙をもって、それは単なる一時の感情ではない。それとは逆に、相手がどのようであっても、変ることなき愛のしるしであった。背く者にさえも心からの愛をもってする、それこそ神の愛であり、それは神とともに永遠的な起源をもっている。そのような愛から注がれる心からの涙であった。
主イエスも、自分を受け入れようとしないエルサレムの人たちを見て、涙を流された。

…いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた、「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら......しかし、それは今おまえの目に隠されている。
いつかは、敵が周囲に塁を築き、おまえを取りかこんで、四方から押し迫り、おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来る。(ルカ福音書十九・4143

この主イエスの深い悲しみは、まもなく歴史の中で実際に生じたことによって、イエスが時間を越えてその背後にあるものを見抜いていたことを示している。
紀元七十年に、ローマの将軍によって、エルサレムは攻撃され、数えきれない人々が殺され、最も重視していた神殿も破壊され、炎上してしまった。
こうした事態をそれが実際に生じる四十年も前から、はっきりと予見されていたのである。そして数知れない人々の命が失われ、神の約束の地であった場所から追い出され、以後は国なき民となり、そこで生じる人々の悲しみを主イエスは何十年も前から、それを自分のことのように、実感して、深い悲しみにおそわれたのだとわかる。

人間は、他者によくないことがあったらすぐに怒ったり、見下したりする。それでもどうにもならないときには見捨ててしまう。
パウロは、さらに、キリストを信じる者が、怒り、憎しみ、悪口などよくない言動をすることによって神の霊(聖霊)が悲しむことを知っていた。

…悪い言葉を一切口にしてはいけない。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。
神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されている。 (エペソ信徒への手紙四・2930

愛は、高ぶらず、ねたまず、すべてに対して希望をもって見つめると言われている。そうして愛はまた、悲しむということができよう。愛なき者にも悲しみはある。しかし、神を信じる者の悲しみは、人間の悪に対してそれが除かれるようにとの祈りをこめた悲しみであり、神の力がそこに働くようにとの願いを伴った悲しみであるだろう。
このような、涙と悲しみは、旧約聖書から見られる。そのなかでとくに読む者の心に深く残るのは、預言者エレミヤの涙である。

わたしの頭が大水の源となり、わたしの目が涙の源となればよいのに。そうすれば、夜も昼もわたしは泣こう、娘なるわが民の倒れた者のために。(エレミヤ書八・23

エレミヤとは、キリストよりも、六百年ほども昔の預言者である。国が真実の神でない偶像を拝むことに傾き、宗教的指導者、政治家たち、また民衆の心も荒廃してついに神のさばきを受けて、滅びることになる。それは当時の大国、バビロン(新バビロニア帝国)が攻撃してきたことによって現実となった。そのときに神によって神の言葉を語り、警告し、本当に歩むべき道を指し示したのが、エレミヤである。
当時の荒れ果てた社会の現状を神がいかに見ているか、それをエレミヤはまっすぐに人々に語った。しかし、そうした神からの直接的な警告の言葉をも、人々は聞き入れず、背くばかりであった。エレミヤはその状況を目の当たりにして彼らが滅びていくのが確実に霊の目で見えたのであった。そのとき、エレミヤは怒り、汚れた行動に走る人々を見下し、見捨てるのでなく、深い悲しみをもって見つめ、祈り続けたのであった。
そのエレミヤの愛ゆえの悲しみがここに引用した言葉に表れている。今から二千六百年ほども昔に、このように一人の人間の深い悲しみ、滅びゆく人々への深い愛ゆえの悲しみが記されているのは驚くべきことである。

あなたたちが聞かなければ
わたしの魂は隠れた所でその傲慢に泣く。
涙が溢れ、わたしの目は涙を流す。
主の群れが捕らえられて行くからだ。(エレミヤ書十三・17

ここには、神の言葉に聴こうとしなかった、神の民の都が滅ぼされ、人々は多くは殺され、町や精神的な中心であった神殿も焼かれ、多数の者は遠いバビロンへと捕虜となって連行されていったことを悲しむエレミヤの心が表れている。
彼らがエレミヤを通して語られる神の言葉を聞かないなら、ふつうなら怒り、彼らに絶望して見捨てる気持ちになるだろう。しかし、エレミヤは彼らの傲慢と背信に涙をもってした。
私たちの心が固く浅い場合には、愚かなことをしている人を、見下したり、そのために苦しみにあったりすると、いい気味だと思ったりする。しかし、神の愛は、そうした人から悪の力、悪の霊が追い出されて、そのような悪人の心が清められ、罪赦されること、そこから神を信じる人間として生まれ変わることを願う。
キリストの教えとして最もよく知られていることの一つは、つぎの言葉である。

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ福音書五・4344

エレミヤは、隣人である同胞の人々に対して、かれらが救われるようにと繰り返し語ってきた。しかし人々は従わなかった。そればかりか、エレミヤに敵意を抱き、エレミヤを殺そうとまでするほどであった。
それにもかかわらず、エレミヤは彼らを愛し続けて、この主イエスの言葉のように、敵対する人々を愛し続け、祈りをもって見つめ続けたのである。
「父の涙」という讃美がある。その折り返しの部分をつぎに引用する。

十字架からあふれ流れる泉
それは父の涙
十字架からあふれ流れる泉
それはイエスの愛

この讃美においても、父なる神の涙は、イエスの愛、神の愛のあらわれだと歌われている。
神の愛をもって、背く者たちを見つめ、正しい道に立ち返らせようとする。しかしその愛にもかかわらず背き続ける者が実に多い。そしてその背きの結果は、自分自身が苦しみ、平安なく、喜びなく、生きる力も失われていき、心の清さもなくなって、最終的には死とともに滅んでしまう。そのことをすべてを見抜くまなざしで見つめる神は、深い悲しみをもち、涙をもってそれを見ておられる。
深い愛は同時に深く悲しむ。このような人間の最も深いところでの心の動きについては、今から二千五百年ほども昔にすでに、聖書に記されている。

彼は卑しめられて人に捨てられ、悲しみの人
**で、苦しみを知っていた。また忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
まことに彼はわれわれの苦しみを負い、われわれの悲しみを荷なった。ところが、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。(イザヤ書五十三・34より)

この有名な箇所は、はるかな古代から、神の特別なしもべは、世間からは評価されず、棄てられる。しかし、そのしもべは、悲しみの人であり、深い悩みと苦しみを知った人であり、それは、我々人間の苦しみ、悩み、悲しみを荷なったのであった。そのような驚くべきしもべが存在することを、類まれなほどに霊的に引き上げられた魂が、神より直接的に示されたのであった。神の愛とは、人間の悲しみや苦しみをあたかも自分のもののように感じて荷なって下さるものである。そのような愛を一身に受けて、人間の悲しみと苦しみを荷なって軽くすることのために、地上に現れたのがそのしもべなのである。


*)「福音」とは、中国語の訳で現在の中国語聖書もこの語を用いている。日本語と思い込んでいる言葉が実は中国語であり、それをそのまま日本に持ち込んで日本語とし、本来の中国の発音とは異なる、日本的な発音で用いているのである。例えば四福音書の一つである、ルカ福音書は医者のルカによって書かれた。そのルカは中国語では、「路加」 と書く。もちろん中国語であるから、これは日本語のように、「ロカ」とは、読まない。しかし、聖路加病院のことを、まちがって「せいろか」と読んでいる人が多い。病院関係者や、有名出版社の人ですら、まちがって読んでいるのに、驚かされたことがある。また、これを中国語だと知らず、当て字と思っている人もいる。これはキリストの弟子の名前であるから、日本語として読む場合には、当然「せいルカ」と読むのが正しい。キリストのことを「基督」と書くことがあるが、これも中国語の表記であって、「きとく」などと読んだら間違いであるのと同様である。この中国語の発音は、チィートーであるが、日本語風にしてキリストと読んでいる。なお、「耶蘇」も、「イエス」の中国語表記であるが、これも当て字のように思っている人がいるが、これも中国語で、yesu(イェースー) と発音する。それをその漢字のまま日本語の発音にして、ヤソと読んで日本語であるかのように用いている。

**)悲しみの人と訳された原語(ヘブル語で、マクオーブ makob)は、「悲しみ、悲哀」の他に「苦しみ、痛み」などとも訳される。口語訳、新改訳、関根訳などは、「悲しみの人、悲哀の人」と訳しているし、外国語訳のうち、英語訳についていえば、KJV、RSV、NIV、NJBなども、「悲しみの人」 a man of sorrows と訳している。新共同訳は、「痛みを負い」と「人」を入れずに訳している。

 


image002.gif苦しみを通って(詩編七十三編より)

この世に生きるかぎり、私たちはだれでも悩み、苦しみを持っている。一見そうしたものがなにもなさそうに見える人であっても、その心の奥に取り去りがたい問題を抱えているものである。そのような問題はないという人もいるかも知れない。しかしそうした人の傍らにこそ、困難な問題が待ち伏せているかも知れないのである。
この世で生きるかぎり、どこまで行ってもそれはやはり何か心を曇らせたり、悲しみに沈むようなこと、落胆させることにつきまとわれるであろう。
旧約聖書の詩編はさまざまの詩が集められている。そのなかには、そうした苦しみと悩みのゆえにあやうく道を誤りそうになった一つの魂の歩んだ道がありありと見えるような詩もある。ここではそうした内の一つをあげて、遠い昔に生きた人間の足跡をたどってみたいと思う。

神は正しい者に対して、また心の清い者にむかって、
まことに恵みふかい。
それなのにわたしは、あやうく足をつまずかせて
まさに倒れるばかりであった。

これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、
その高ぶる者をねたんだからである。
彼らは死ぬまで彼らは苦しみを知らず
からだも肥えている。
だれにもある労苦すら彼らにはない。
だれもがかかる病も彼らには触れない。
高慢は彼らの首飾りとなり…
心には悪だくみが溢れる。…
そして彼らは言う。
「神が何を知っていようか。いと高き神にどのような知識があろうか。」
彼らはいつまでも安らかで、富を増していく。

わたしは心を清く保ち
手を洗って潔白を示したが、むなしかった。
日ごと、わたしは病に打たれ
朝ごとに懲らしめを受ける。
「彼らのように語ろう」と望んだなら
見よ、あなたの子らの代を
裏切ることになっていたであろう。

わたしの目に労苦と映ることの意味を
知りたいと思い計り
ついに、わたしは神の聖所を訪れ
彼らの行く末を見分けた
あなたが滑りやすい道を彼らに対して備え
彼らを迷いに落とされるのを
彼らを一瞬のうちに荒廃に落とし
災難によって滅ぼし尽くされるのを…

わたしは心が騒ぎ
はらわたの裂ける思いがする。
わたしは愚かで知識がなく
あなたに対して獣のようにふるまっていた。

あなたがわたしの右の手を取ってくださるので
常にわたしは御もとにとどまることができる。
あなたは御計らいに従ってわたしを導き
後には栄光のうちにわたしを取られるであろう。…
わたしの肉もわたしの心も朽ちるであろうが
神はとこしえにわたしの心の岩
わたしに与えられた分。

見よ、あなたを遠ざかる者は滅びる。
御もとから迷い去る者をあなたは絶たれる。
わたしは、神に近くあることを幸いとし
主なる神に避けどころを置く。
わたしは御業をことごとく語り伝えよう。

*************************************
「私は危うく足をすべらせ、まさに倒れるばかりであった。」
この詩の作者は、あるときに信仰の危機に陥ったことがある。それはもう少しで、信仰を失い、滅びに落ちていく寸前まで行っていたのがうかがえる。どのような人であっても、時として大きな動揺に落ち込むことがある。
例えばモーセのことを考えてみる。彼は歴史のうちで最も大きな足跡を残した一人であり、深い信仰と勇気によって耐えがたい困難にも屈することなく、エジプトという大国の権力のもとにあった民を導きだし、砂漠でのあらゆる困難にも耐えて多くの民を約束の地まで、導いた人であった。そのようなモーセですら、その信仰が動揺したことがあったため、そのことで、目的の地、神の約束の地に入ることができないと言われたのである。
*

*)主はモーセとアロンに向かって言われた。「あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない。」(民数記二十・12

こうした動揺は、この詩の作者の場合は、何によって生じたのだろうか。それがつぎのことである。

「悪しき者が栄える」というこの世の現実によってである。これは私たちの身近なところから、社会的な問題や、国際的な状況を考えても至る所で見られる。心に神を信じないで、嘘や不真実な態度をもってしている者がかえって楽しく、幸福そうに生きていることはいくらでもある。真実に生きようとしてかえって苦しめられ、痛めつけられ、悲しみや悩みに生きなければならないということは周囲にも見られるし、どこの国にもあった、迫害のきびしい時代にはキリストを信じるだけで、大きな苦しみに直面して、命さえ奪われることにもつながっていった。
神が愛であるなら、そうして真実であるなら、どうしてこうした不可解なことが生じるのか、それがこの詩の作者にも切実な問題として浮かび上がって行ったのである。
安楽に過ごし、幸福そうに見える者たちは、つぎのように見えたのである。

「死ぬまで彼らは苦しむこともなく、肥え太っている。誰にでもあるはずの労苦もなければ、病気にすらかからない。そして心には悪いことを考え、弱い者を見下し、暴力、武力をもって人に偽りを言う。」

その上、彼らは信仰とか神の導きとか支配ということについては全く問題にせず、そうした信仰をあざけり、神は何を知っているのか、何も知らないからこそ悪をこんなにのさばらせているし、よい事も悪いことも同じように起こるのだ…などと神をあなどり、神を信じる者たちを見下している。
このような悪しき者たちが悪を重ねても何の罰もないということ、そしてそのような人たちから、神などいない、神は何にも見ていないのだ、神を信じるなど無意味で愚かなことだと見下される。信仰をもって生きようとする者に対して、このように嘲られるということは、はるか昔から絶えず、つきまとってきたことなのである。
この問題は、聖書では、とくに旧約聖書のヨブ記という書物に詳しく記されている。神を信じる者にふりかかる理由なき苦難や悲しみ、それは一体どんな意味があるのか、神がおられるのならどうしてそんな理不尽なことがおきるのか、神を信じる者には幸いが注がれるというが、まったくその逆だと思えるようなことが実に多いというこの世の現実をいわば命がけで体験させられた人の内面的な記述であるといえる。
このような他人からのあざけりに出会ったとき、それに耐えることができなくなって、信仰が揺らぐことがある。そしてその揺らぎが大きくなり続けてついに信仰を失い、サタンの力に取り込まれてしまうこともある。そのよく知られた例が、ユダである。ユダは、キリストの十二弟子の一人として、数えきれないような人間のなかからとくに選ばれてキリストの弟子となった。しかし、現実の数々の不可解な出来事、主イエスが、いつまで経っても社会的には、まったく力もなく、改革などもできるような人間でない、ハンセン病や目の見えない人、耳の聞こえない人、重い病人たちを重視して彼らとのかかわりを重んじられた。そして、ユダヤの国の再建といった大きいと見えることについては、いっこうに口にされない。おそらくは、そうしたいろいろのことへの疑問がふくらんで、ついにキリストへの信仰を失い、こともあろうに、そのキリストを計画的に裏切り、金で売り渡すというような、神を信じない者でも簡単にはできないようなことを犯してしまった。
このように、信仰の動揺はどこまで堕ちていくかわからない。
この詩の作者も、現実の不可解な悪がはびこっている出来事、自分がどのように願っても聞き入れないように見えるなどのことが続くとますます神の存在そのものがわからなくなってくる。
この詩の作者は、病気にもさいなまれていたことはつぎの言葉からもうかがえる。

日ごと、私は病に打たれ、朝ごとにこらしめを受ける。(14節)

この点でも、旧約聖書のヨブ記に表れるヨブという人物と同様である。病気はいつの時代でもその病状がひどくなればなるほど、耐えがたい苦しみとなり、祈ることも他人の話を聞くことも受け入れることもできないほどになる状況となることが多い。
このような時、神を信じない、善の力をも信じないで、不正を働き、弱い者を苦しめている実態にふれるとき、人は最も動揺する。病気の苦しみがひどいとき、それが治らないときにはそれだけでも、神はおられるのか、どうしてこの苦しみはいやされないのかと神への疑問、不信となりがちである。
このように、精神的にも、肉体的にも打ちのめされたこの詩の作者は、もう少しで、「神などいないのではないか、神に頼っても助けてはくれないのだ。神が善人を助け、悪人を裁くなどといっても、そんなことは見られないではないか…」と、周囲の人に言ってしまうところであった。
そのことを、次のように言っている。

…「彼ら(神を否定する人々)のように語ろう」と望んだなら、
見よ、あなたの子らの代を裏切ることになっていたであろう。(15節)

このような、神に対する疑問や不信は、聖書そのものにも記されている。旧約聖書の伝道の書にもつぎのように記されている。

すべての事はすべての人に同じように起こる。同じ結末が、正しい人にも、悪者にも、善人にも、きよい人にも、汚れた人にも、いけにえをささげる人にも、いけにえをささげない人にも来る。善人にも、罪人にも同様である。(伝道の書九・2

また、やはり旧約聖書のヨブ記において、一人の心身ともに苦しみにさいなまれる人間の告白を聞くことができる。ヨブという人は、日々神に祈りを捧げる信仰あつい人であったが、突然に家族の死や財産を失い、さらに自分も苦しみのはなはだしい病気になってしまう。どんなに祈っても平安がえられず、訪ねてきた友人も自分の苦しみを理解せずに、かえってヨブは罪あるからそのような苦しみに遭うのだと叱責する。
ヨブは妻からも棄てられ、友人たちからも理解されず、病の苦しみに耐えがたい状況となり、神などなにも助けてはくれない、正義の神などというのはないのだという心の動揺に揺さぶられていく。そこからつぎのようなうめきが生じたのであった。

…皆同一である。それゆえ、わたしは言う、「彼は罪のない者と、悪しき者とを共に滅ぼされるのだ」と。(ヨブ記九・22

このような信仰を揺るがすような誘惑にかられて、もし自分が周囲の人々に、神などいないとか神がいるかも知れないが、悪をも裁くこともせず、真実な人にも何も報いてはくれないなどと、言ってしまったら、それこそ、長い歳月を受け継がれてきた、神の民の神への信仰をも揺るがすことになってしまっただろう。それは、未来の世代に最善のものを受け渡していかねばならないのに、まちがったものを受け渡すことになり、それでは未来の世代を裏切ることになっただろう…と言っているのである。
しかし、こうしたいろいろの心の動揺を、神にすがり続けることにより、辛うじてこの作者は、乗り越えることができた。それは、つぎのように記されている。

わたしは神の聖所に入り、ついに、彼らの最後を悟った。
あなたが滑りやすい道を彼らに対して備え、彼らを滅びに落とされるのを
彼らを一瞬のうちに荒廃に落とし、災難によって滅ぼし尽くされるのを(1719節)

これこそ、この作者の決定的な転機であった。長い間の苦しみや悩み、そして神などいないのではないか、という黒い雲がその心をおおうとき、最大の危機が訪れた。そしてそのぎりぎりのところで、神にすがり続ける心が、神の憐れみを受けて、この作者は、「神の聖所」に入ることができた。それは、実際の聖所であったかも知れないが、霊的な祈りのうちでの聖所でもあったであろう。現代の私たちには、後者の意味となる。
祈りのうちに、また時が来て、この作者は神よりの啓示を受けたのである。それは、悪の滅びであった。それまで自分をあれほど苦しめ、悪の力が神より強いのではないかとすら思わせ、信仰そのものが崩壊の危機に瀕していたほどであったが、そこまで動揺させる悪の力に支配されようとしていたが、この作者は、時が来て一瞬にしてそれまでの深い謎から解き放たれたのである。神は現に存在しておられる。その神は悪をいとも簡単に崩壊させることができる。そして悪の最後がどうなるかを、まざまざと霊的な目で見ることができたのである。
先にあげた、ヨブ記という書物も、長いヨブの苦しみに対して、どんな宗教的な議論や説得、あるいは、過去の経験もなんにも役に立たなかったが、苦しい長い日々ののちに、時至って神がヨブに直接に答えられた。その神からの語りかけによってヨブはようやく悪との戦いから開放されることになったのである。
このようにして、窮地を脱した作者は、かつての自分を思い起こす。

わたしは心が騒ぎ、はらわたの裂ける思いがする。
わたしは愚かで、(神がいかにこの世をご支配されているかについての)知識がなく、あなたに対して獣のようにふるまっていた。(2122節)

実際、かつての自分を振り返るとそれは獣のようであったことを思い知らされる。獣、それは神を知らない。祈ることも、目に見えないお方に信頼することも知らない。そして自分の欲望や本能、あるいは目先のことだけに動かされている。神によって目に見えない力の存在を明らかに知らされたとき、かつての自分がいかに愚かであったかがはっきりと分かってきたのである。
ひとたび神からの啓示を明確に受け取ったこの詩の作者は、新しい歩みへと進む。それは、それまでどうしても分からなくなっていた神の生きた導きにあるという確信であり、実感であった。現実の世の中において、数々の混乱や汚れ、不信や悪があっても、たしかなある力が自分をとらえ、その生きた御手が自分を彼方の御国へと導いて下さっているということである。このような、生ける導きこそが、キリスト者がつねに必要としていることであり、それこそが、私たちに平安を与えてくれるものである。

しかし、私は常にあなたと共にあり、
あなたは、わたしの右の手をかたく取られる。
あなたは御計画に従ってわたしを導き
後には栄光のうちにわたしを受け入れて下さる。

私にとってあなたの他に、天には誰もなく、
地には、あなたを離れて私の慕う者はない。

わが肉とわが心は衰える、
しかし、神はとこしえにわが岩、わが命である。

見よ、あなたを遠ざかる者は滅びる。
御もとから迷い去る者をあなたは滅ぼされる。
しかしわたしは、神に近くあることを喜び、
主なる神に信頼し、
そのすべての御業を宣べ伝えよう。

この詩の作者は、長い苦しみの後にようやく神の固い導きの手を自らに感じて、この確かな御手の実感から、これは永遠まで、なくなることはないことを知った。いまだ復活という信仰はほとんど見られなかったキリスト以前五百年以上も昔の時代にあって、この作者は、「後には、栄光のうちに私を受け入れて下さる」という確信を持つに至った。深い生ける神との交わりは、死によってそれが失われるものではないという啓示を伴っていたのである。
たとえ自分の肉体や心が老齢のゆえに衰えようとも、神は岩のごとく私の救い主であり続ける。
そして悪を放置する神でなく、繰り返し神からの語りかけを受けてもなお、それを拒み、受け入れようとせずに、悪の道を歩み続けるかたくなな心に対しては、神は必ずそのことを罰せられる。これは単なる信仰でなく、現実に私たちの周囲でいくらでも見ることができることである。悪の道、不信実な行為を続けていたらその行き着く先は滅びであること、心がだんだん壊れていくか、それとも老化して生きた喜びや感動をまるで感じなくなっていく。これこそ、裁きである。
神の近くにあるという実感は、それが何にも代えがたいことを知る。それとともに、そのような生きて働く神、私たちを導き続ける神のことを何とかして伝えたいと願うようになる。それゆえ、この詩の作者は、最後に「神のみわざをことごとく語り伝えよう」との言葉で結んでいる。
自分が神から与えられた経験が奥深いゆえに、それを黙っていることができない。聖書には、この内部から動かすエネルギーを神が与えること、そこから聖書の唯一の神への信仰が伝わっていくことが示されている。
これは聖書の特質だとも言えよう。詩編だけを見てもこのような箇所はつぎのようにいくつもある。

わたしの口は恵みの御業を
御救いを絶えることなく語り
なお、決して語り尽くすことはできない。
しかし主よ、わたしの主よ
わたしは力を奮い起こして進みいで
ひたすら恵みの御業を唱えよう。
神よ、わたしの若いときから
あなた御自身が常に教えてくださるので
今に至るまでわたしは
驚くべき御業を語り伝えて来た。…
私が老いて白髪になっても、私を捨てず、御腕の業を、力強い御業を
来るべき世代に語り伝えさせてください。(詩編七十一・1518より)

この詩には、神がなさったこと、神のみわざを今までも絶えることなく語ってきたが、今後とも、老年に至るまでも語り続けていきたい。どうか、神よ、私を助けてください、という切実な願いがにじみ出ている。

わが神、主よ
あなたは多くの驚くべき業を成し遂げられる。
あなたに並ぶものはない。
わたしたちに対する数知れない御計らいを
わたしは語り伝えて行こう。(詩編四十・6

ここでも、神の驚くべき、不思議なわざを経験したということがもとにある。自分が何ごとであれ、深く経験したことがすばらしいこと、喜ばしいことであればあるほど、それを黙っておれなくなるだろう。これは信仰と無関係のことでも同様である。しかし、それと聖書の語り伝えようとする心との違いはどこにあるだろうか。それは、信仰と無関係なことなら、相手が関心を示さなかったり、時間が経つと気持ちが変わっていつかなくなってしまう。しかし、神によって動かされた感動は、また神がうながして語り伝えようとされる。それゆえに伝えようとする心が弱まることがない。人がもう伝えまいとしても内なる何かがうながして伝えさせようとするからである。
こうした、内なる働きかけによって、すでに旧約聖書の時代から神がなさる大いなるわざを経験し、苦しみにある者への助けの体験はずっと語り伝えられてきた。
新約聖書の時代になり、そうした流れの上に、さらにキリストが十字架による罪の赦しと、復活という他にはなにものも代えることのできない大いなる出来事が加わり、それを体験した者はさらに新しい力とうながしを内に持つことになったのである。
キリストの十字架と復活以前に、キリストが誕生したとき、最初に知らされた羊飼いたちは、その驚くべきイエスの誕生のことを人々に知らせた、と記されている。(ルカ福音書二・17
また、いのちの水ということは、永遠の命、あるいは聖霊を言い換えた言葉として、ヨハネ福音書ではとくに重要な言葉であるが、そのことについて、井戸端で主イエスとの会話のときに、そのいのちの水を与える者こそは主イエスであるということを知らされたサマリアの女は、そのことと共に自分の過去を鋭く見抜いたことに、非常な驚きを覚え、せっかく運んできた水瓶や汲んだ水をそこに置いたまま、告げ知らせに行ったことが書かれている。

…女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。
「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」
人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。(ヨハネ福音書四・2830

この何でもないような記事は、すでに述べてきたように神によって起こされた感動はだまっていられないものであり、それはただちに外部に向かって告げ知らせたいという強い衝動を引き起こすものだと言おうとしているのである。そして実際に多くの人たちがその女の生き生きとした証言に動かされてイエスのもとにやってきたのであった。
基本的にはこれと同様のことが、以後もずっと全世界で生じていったのである。
イエスの十字架と復活、そしてそれに続く聖霊の注ぎはその深い感動の原点となった。
聖霊が注がれるまでは、十字架の処刑のときも逃げてしまい、イエスの弟子ですらなかったと強く言い張ってしまったペテロたちであったが、聖霊が注がれることによって別人のようになった。
そして多くの人々の前で、イエスの復活を驚くべき力をもって証言しはじめた。

…しかし神はこのイエスを復活させられた。私たちは皆、その証人なのです。…
そしてイエスは神の右に上げられ、私たちに約束のとおり聖霊を注いで下さった。…
だから皆ははっきりと知らなくてはならない。
あなた方が十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(使徒言行録二章より)

このようにしてキリスト教の伝道は始まったのである。これを見てもわかるように、キリスト教伝道ということは、決して組織が命じたり、強制したり武力で制覇したりすることとはかかわりのないことであった。たんに、無学な漁師であったペテロが我が身に生じた決定的な体験、罪赦され、新しい神の力を与えられ、生きた主イエスのみ声を聞いて導かれるというただ、それだけのことでなされていったのである。
その後、パウロというユダヤ人はキリスト教徒たちを激しく迫害して殺すことまでしていた。しかし突然、天からの光を受けてそれまでの一切が砕かれ、自分の重い罪を知らされた。そればかりか、その罪を赦され、力を与えられたという点ではペテロと同様であった。そしてその経験をもとにして、生きたキリスト、聖霊によって導かれて、ただちにキリストのことを証言する生涯へと変えられたのであった。
歴史はこうした人間がつぎつぎと二千年にわたって生み出されてきたことを記している。私たちがいま、キリストの福音を知らされているのも、過去の長い歳月、途絶えることなく、泉がわくようにしてこうした人々が生み出されてきたからである。それは人間の努力によらず、組織の力でなく、また偶然でもなく、ただ神ご自身が人を動かし、証言する人たちを絶えず生み出してこられたからなのである。
そしてこれからも、いかなる時代になろうとも、神はその御計画に従ってそうした人間を生み出し、キリストの福音を世の終わりまで伝えさせていくことであろう。

 


image002.gif憎しみが消える道

テロとは憎しみである。その憎しみを滅ぼす方法を世界は考えているはずだ。そのための方法として、テロを武力で攻撃することが最善だとアメリカや多くのアメリカに加担する国々は考えている。
そして日本も、人道支援だなどと表面をとりつくろって、そのアメリカに率先して協力してきた。
そしてそうした日本の行動を首相や自民党が強く推進している。自民党のなかでも、イラク派兵に反対するかつての有力者を、党内の結束を乱すとして、非難する動きが強まっている。
特定の考え方に従わない者を糾弾し、排除しようとするのは、とくに、戦争にかかわる場合はその傾向が強まる。
戦前には、政府の方針に逆らう者、平和主義を主張するものを、危険思想と称して弾圧していった。戦争を推進する考えこそ、測り知れない人々の命を奪うものであり、それこそ最大の危険思想であるのだ。
今回もすでにマスコミに報道を自由にさせないようにしようとする動きが見られる。
石破防衛庁長官が陸上自衛隊先遣隊のイラク派遣を命じた九日、防衛庁は主だった報道機関に対し、自衛隊に関する現地からの報道を「可能な限り控えるよう」申し入れた。続いて十三日には、自衛隊の三幕僚長による定例の記者会見を廃止する意向を明らかにした。
このような相次ぐ動きは何を意味するだろうか。戦地での活動となると、敵とみられる相手への武器使用、あるいは自衛隊員の被害などで、国民の監視があると都合が悪いようなことが生じる可能性が高い。もし、そうなると、イラク派兵への反対が強くなる。それは政府や自民党など派兵を推進した側への批判となり、つぎの選挙での影響が大きくなる。こうした観点から事実から目をそらせようということなのである。
これは、戦前には重大なことにつながっていった。国民に真実を知らさず、大敗を喫しているのに、勝利だとかまったくの嘘の報道を繰り返ししていった。そして国民を欺きつづけ、ついにおびただしい犠牲を生んでいったのである。
このような戦前の動きの後を追っていくようなことが続いている。国民も次第にイラク派兵の危険性を思わずに、慣れていく傾向が生れるであろう。
しかし、イラク派兵とは要するにアメリカの軍事攻撃、イラク戦争の後始末の一環にすぎない。全体としてアメリカの戦争行為を支持し、加担していくことである。これは今回の戦争が開始されたとき、首相はいちはやくそれを支持したことからもわかる。
このような戦争行為やそれを支持する活動によってテロはなくなるのか。それが根本問題である。はじめに述べたように、テロとは憎しみが根源にある。テロとの闘いとはそれゆえ、憎しみとの闘いである。それならば、憎しみは、武力攻撃という憎しみによってなくすことができるだろうか。決してそうでない。かえってその憎しみに火をつけ、一層憎しみを先鋭化し、内にこもらせていくだけである。
それが、イスラエルとパレスチナのテロと武力攻撃のの応酬や、現在も止むことなきイラクでのテロに表れている。
憎しみを滅ぼすことは、決して武力ではできない。一時的に武力で押さえつけることはできよう。しかしそれは憎しみを滅ぼしたのではない。新たな憎しみの種を蒔いたのであり、さらに新たな憎しみに点火したのにすぎない。
憎しみを消すには、憎しみとは正反対のものによってしかできない。それが武力をとらないでする方法である。そのことを日本の平和主義憲法は指し示しているのである。
平和を主張する憲法のおかげで、日本は過去六十年近くどこの国をも武力で攻撃をもせず、また攻撃もされなかった。そして日本は世界的には、この六十年近く、他国を武力攻撃するようなイメージはなかったと言えるだろう。科学技術が盛んな国、経済の豊かな国、独自の文化を持つ国としてイメージではなかったか。そしてそうした、平和主義の憲法をを六十年近く持ってきた国、その間どこにも軍隊を派遣したことのない国、平和を目的とする国連を資金的に強く支えてきた独自の平和主義を実践する国として浸透してきたのではないか。だからこそ、目にみえない守りの壁が世界のなかで作られてきたと言えるだろう。
そうした世界的な信頼を今回のイラク派兵によって投げ捨ててしまったと言えよう。日本独自の平和主義を世界に指し示し、実践していくことによって目に見えない平和の砦をつくるという道があったのを、今の首相や与党はいとも簡単に打ち壊してしまったのである。
しかし、真理は真理である。そしてキリストの時代から真理は世の多くの人たち、ことに権力者には受け入れられないという実態がある。その意味では現在の首相や自民党などの動きは目新しいものではない。
こうした状況において、多くの人が受け入れないとしても真の道は聖書とくにキリストやパウロの言葉のなかにあることを繰り返し主張していかねばならないと思う。

 


image002.gif休憩室

冬の星、カノープスなど
冬は寒くてゆっくり夜の星を観察するのにはふさわしい時ではないかもしれませんが、一年のうちで、最も美しい星々が数多く見られる季節です。オリオン座、大犬座、小犬座、双子座、雄牛座、御者座などにある一等星たちが、せまい範囲に集まっていて、私たちの心をはるかな大空へと引き上げてくれるばかりか、それらの神秘な輝きを与えた創造主へと呼び寄せられる気持ちになります。
今年の冬の空には、双子座のなかに、土星が見えるし、深夜ころには、東から恒星で最も明るいシリウスよりもさらに強い光で輝く木星が昇ってきます。というわけで、目で見えるものとしては、ほかの何ものよりも私たちの心を清め、引き上げるものである星が心にも刻まれるような季節です。
オリオン座のなかの一等星である、ベテルギウスという赤い星は、赤色巨星で、太陽の八百倍ほどもあるという大きさです。夜空に輝く星たちのうちでも、最も大きい星ではないかと言われているほどです。
また、私の住む徳島県小松島市では、天気がよく、北風の吹く夜には大気が澄み切っていて、南の空低いところに、シリウスに次いで明るい恒星として知られている、りゅうこつ座(*)のカノープスという一等星が見えます。このカノープスという星は、関東あたりでは、地平線近くになり、建物のかげになったり、大気の汚れのために、めったに見られない星で、それを見ることができたら長生きするとかいう言い伝えがあるほどで、老人星とか、寿星などという名前もあります。淡黄色で光度マイナス○・七等。
この星は、わが家からは割合よく見えて、中学生のころ、このカノープスという星を何とかしてみたいと思って、冬の星空の南の低い空を晴れているときはいつも探していたら、あるとき、南の低いところ、遠方の低い山なみのすぐ上に、明るい星を見つけ、これがもしかしたら、あの探していたカノープスかと胸をおどらせて星座で正確な位置を調べたところ、やはりそうであったので、とてもうれしく思ったのを覚えています。それ以来、冬の木枯らし吹く月のない夜にはおのずと、南の正面の空に輝くオリオンや、シリウスなどと共に、低い空のカノープスを探しています。今年ももう何度か目にとまったものです。

*)龍骨とは、船底の中心線を船首から船尾まで貫通する、船の背骨にあたる材。

 


image002.gifことば

171)私たちはかぎりある失望を受け入れねばならない。しかし、限りない希望を決して失ってはならない。(「キング牧師の言葉」32頁 日本キリスト教団出版局)

・この世ではつねに何らかの失望を私たちは経験せざるをえない。というより、自分の周りで生じること、世の中の出来事は、子供のときからずっと絶えざる失望の連続であるとも言えるだろう。希望をもてるようなことがあると思ってもそのうちにそれも失望になることが多い。
しかし、そうしたなかで、万能であり、愛の神を信じるときにのみ、私たちは決して壊れることのない希望を持つことができる。「信仰と希望と愛はいつまでも続く」と言われているとおりである。

172)すべての行為の前に、神のみ言葉を思い浮かべることは、なんと大切なことであろう。そのような人はどんなに試みられても心配はない。
み言葉のない人は、天から声が届かないゆえに、最後には絶望に陥る。
ただ、空虚な心に駆り立てられる。(ルターの「卓上語録」167頁 教文館)

・神の言葉によって導かれることは、神の祝福を受ける。まず神の国と神の義を求めよ、そうすれば他のことは添えて与えられると主イエスは約束された。このルターの言葉は、何かを行おうとするとき、まず自分の考えや知識、欲求で行動しようとするのでなく、神の言葉を思い浮かべることによって、神のご意志を知った上で、神ご自身に導かれていくことの祝福を説いている。

173)良心の曇った者たちは、お前の言葉を厳しすぎると思うだろう。しかし、お前は一切の偽りを捨てて、
お前が見てきた一切の姿を明るみに出せ。…
お前の言葉は、はじめは苦いかもしれない。
*
しかし、ひとたび体内に取り入れられるならば、
それは命の糧となるものを後に残すはずだ。
お前の叫びは、さながら疾風のごとく鋭く、
高い頂きを強く打つ。(ダンテ「神曲」天国編第十七歌より)

○ダンテは自らの著作の重要な使命の一つは、高い頂き、すなわち当時のローマ教皇など、地位高い人々の不正、さらには当時の多くの人たちの間違いを明らかにし、神の真実を指し示すことだと知っていた。彼は永遠の真理を語ることが自らに託されていることを自覚していた。ダンテが語る言葉は、それゆえに預言者的であり、聖書における預言者のように、聞く者に苦みを感じさせるであろう。しかし、それを心開いて聞き取ろうとする者には、霊的な栄養となり、新しい歩みをもたらすことになる。
神の言葉、真理はこうした特質を持つ。はじめの苦い味わいを退けて、表面的にあまい言葉を追いかけ、取り入れようとする者は、そこに魂の栄養はなく、害悪を取り入れたことを知らされていくであろう。
しかし、真理の言葉を取り入れ、内に消化する者は、たしかに命の糧を得ることになる。
なお、ヒルティはこのダンテの言葉を、最晩年の著作である、「眠れぬ夜のために」の扉に掲げていて、彼がその著作の真理性を確信して世に送り出したのがうかがえる。

*)参考のために、以下三行の原文と、英訳をあげておく。
Che se la voce tua sara molesta
nel primo gusto,vital nutrimento
lascera poi ,quando sara digesta.

If thy voice is grievous at first taste,
it will afterwards leave vital nourishment when it is digested

 


image002.gif返舟だより

○「はこ舟」読者の方々からの来信です。
*
…語られる一言一言が私の魂に響きます。いのちの力を与えられます。
「歌いにくい」と言われる讃美歌21のなかに、すぐれた讃美があることご紹介下さりありがとうございます。
少しでも歌えたらいいなと思います。毎号書いて下さる自然を通しての神への思いは全く共感、同感でたのしみにしています。
吉村さんの平和への思いと反戦の信条、教えられます。憲法がなしくずしにされているいま、すごく無力感にとらわれますが、歴史を支配される神により頼み、希望を抱きます。…(関西地方の方より)

*
…「はこ舟」十二月号を読んで、いろいろな人生体験を通し、すべてが神の御計画が成就されていくことが分かりました。吉村様が自分の希望でなかった道につぎつぎと導かれて現在に至っている様子が手にとるごとくに知らされ、神の御手によって生かされていること、神の導き給う恵みを感謝申し上げます。…(関東地方の方)

*
… 暮れに十二月号が届かなかったので、案じておりましたが種々のご都合でしたとのことで安堵いたし、うれしく拝読致しました。…(関東地方の方)
・この方のように、十二月号の発行が遅れたのでいろいろの方がご心配くださって、電話やハガキなどで問い合わせもありました。日頃からの変わらぬご加祷とご支援を感謝です。

*
…自衛隊の海外派兵には反対、同感です。ネオコンのブッシュ氏に追随して天与の平和憲法を改悪しようとしている、タカ派の小泉政権、また野党の民主党までが憲法を改悪を企画していることに、心痛みます。神の御憐れみを祈り続けます。…(北海道の方)