2004年2月 第517号・内容・もくじ
見つめること、見つめ返されること
冬は最も塁の美しいときです。湿気も少なく、大気は澄んでいるし、北風の強いときにはいっそう透き通るような夜空となり、澄んだ星の光が私たちに注がれてきます。ことに最近の夜空は、夕方には金星が見られ、それが沈んでまもなく東からは木星の透明な光が強く私たちを見つめています。南にはオリオン座の明るい星やシリウスや小犬座の一等星もあり、頭上には御者座のカペラや双子座の明るい星もあります。星をじっと見つめていると、ちょっと見たところでは何の心もない冷たい輝きのような星の光が私たちを見つめているように感じられてきます。
これは星にかぎらず自然の物は概してそのような性質を持っています。例えば、海の大波が寄せる音に聞き入ると、それは私たちに向かって語りかけるものとして感じられるし、山に入って大木のもとでたたずむとき、その樹木がやはり私たちに向かってなにかを語りかけてくるように感じるのです。これは神ご自身がそのような御性質を持っておられるからです。聖書のなかで、繰り返し神は、つぎのように「立ち返れ、私に帰れ」とか、「悔い改めよー」という表現で、神に魂の方向を向け変えるようにと語りかけておられます。わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した。わたしに立ち返れ、わたしはあなたをあがなったから。(イザヤ書四四・22)
悔い改めて、あなたがたのすべてのとがを離れよ。さもないと悪はあなたがたを滅ぼす。(エゼキエル書十八・30)
他の果てのすべての人々よ、わたしを仰げ、そして救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。(イザヤ書四五・22)
また、新約聖書においても、主イエスは神が最も喜ばれるのは、よいことをしたといって高ぶったり誇ったりすることでなく、自らの弱さや足りないこと、罪を悔い改めて神に立ち返ることだと言われています。
よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔い改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にはある。(ルカ福音書十五・ユこのように、旧約聖書から新約聖書に至るまで神は繰り返し、悔い改めること、神に立ち返ることを特別に望んでおられるのがわかるのです。
私たちがこうした神のお心に従って神に立ち返り、神を仰ぎ、見つめるとき、神ご自身もまた私たちを見つめて下さっているのが感じられてきます。
求めよ、そうすれば与えられる、という有名な言葉はこうしたことについても言えることです。
人間は社会的動物であると古くから言われています。それは単独では生きていけないこと、たえず人間同士の交わりが必要だということです。それは物質的な面でも言えます。衣食住のすべてにおいて、自分だけでそうしたものを作っていくことなど到底できません。私たちが使っている食品や住居、日用品などすべては他の人のさまざまの働きによって生み出されているものです。
しかしそうした物質的なことだけでなく、精神的なこと、霊的なことにおいても、人間は単独では生きていけない。それはだれでも感じていることです。一人でいるのがよいといっている人も、それは他者との交わりで傷ついたとかいやな思い出があるからに過ぎず、そういうことがなかったらよき人間同士の交わりを求めているのです。しかしそれでもこの世には実に多くの人間同士の行き違いがあります。他者とともに生きること、交わるということは、絶えざる誤解やつまずきを経験することでもあります。そうした現状においてこそ、私たちは私たちがどんなに罪深いことになっても、誰も赦してくれないような大きい失敗をしても、仰そたびに愛のまなざしをもって見つめてくれる存在があればどんなによいことかと思います。
聖書が指し示す神、そして主イエスはそうした存在だと感じます。
私たちが真実な心をもって仰ぎ、見つめるときには必ず見つめ返して下さるお方だということなのです。そうした神が創造した自然だからこそ、その多くは私たちが見つめるとき、やはりどこか私たちを見つめ返してくれるなにかを感じるのです。
自然のそうした雰囲気は、その創造主である神の愛を指し示しているということができるのです。
ヨセフの歩み
創世記三十七章から、最後の五十章まで、ヨセフの歩みが詳しく記されている。それは十三もの章を費やしている。アブラハムの記事は二十四ページを費やしているが、ヨセフの歩みについては、三十ページを超えている。
このような詳しい記述は何のためであっただろうか。それは、ヨセフの歩みが、後世にとってきわめて重要なことにつながっていくからであった。
それは、エジプトへの移住、そこで初めて民族としての増加、そして迫害、ついでモーセによる出エジプト、その途中において、神からの言葉、十戒というきわめて重要な内容をもったものが与えられた。
そのようなすべては、ヨセフの誕生とかかわっている。もし、ヨセフがなかったらこうしたすべてはどうなっていただろうか。
そしてその大きな歴史の出来事にかかわっていくはじめは、人間の弱さと罪が明らかに記されている。まず、父のヤコブは長い信仰生活にもかかわらず、最晩年になっても自我が抜けきれない人間であることが、ヨセフへの特別な偏愛に現れている。それはルカ福音書に現れるような、放蕩息子の父親とはまったくちがったごく普通の老人のようである。放蕩息子の父親は、自分の好みに合うからといって特定の息子を大切にするのでなく、かえって道を踏み外した者に深い愛を注ぐのであった。
また、ヨセフにしてもその生涯の出発点においては、兄たちのことを告げ口したり、両親や兄たちが怒るようなことを平気で話すような無遠慮な子供、得意がる子供として描かれている。ここには両親や兄弟たちへの尊敬の念に欠けるような分別のない子供のようである。また、兄たちも、ヨセフの年齢からすればそのような夢を語ったとしても、殺そうなどとまで考えるのはふつうでは考えられないほどであり、あまりにも大それたことである。
このように、ここに現れるヤコブ、ヨセフ、多くの子供たち、それらすべては信仰者としての強さや正しさ、勇気などに欠けているただの人間として描かれている。聖書はだれをも英雄とはしないのがこの長いヨセフの歩みの記事においてもはっきりと記されている。
ヤコブは人間的情愛でもって、ヨセフを愛していた。ヨセフもまた人間的な気持ちで得意になっていた。そうした情愛や高慢を打ち砕くことが必要であった。神に用いられる人間はつねにそのような苦しみや悲しみを主が与えることによってその自我を砕いていかれる。
なぜこのような不正やねたみ、依怙贔屓(えこひいき)などが書いてあるのか。それはそうした人間を用いて神は大いなるわざをなされるということであって、いかなる意味でも人間の功績でないということを示そうとしているのである。
人間が歴史を作っていくのか、それとも神がすべてを支配し歴史を動かしていくのか、これが根本問題なのである。すべての栄光を神に帰すること、そこにいっさいがかかっている。それができれば、私たちは永遠の祝福を受ける。しかし人間に栄光を帰する姿勢で生きていくとき、すべては消えていく。それはちょうど正反対の結果となる。
ヨセフの夢、それは預言であった。人間の心の告白であり、叫びであり、感動であるはずの詩が聖書では、同時にまた預言ともなっているのは驚くべきことである。
詩編二十二編などはことに、主イエスの最後の恐るべき苦しみの状況が、あのエリ、エリ、ラマ・サバクタニという叫びをはじめとしてさまざまのことを預言するものとなっているのがその典型的な例である。
そして、このヨセフの記事もヨセフ自身はまったく自分の気持ちで抑えられなかったから両親や兄弟に夢を話したのであったが、それは背後のおおきな神の御手による歴史の導きを表すものであった。神はいかなる妨げや人間の悪意や時代や社会状況の変動にもかかわらず、その御計画を成就していかれる。
新約聖書においても、最大の働きをしているパウロは、かつてキリスト教徒を迫害し、殺すことさえもしたというし、十二人の弟子たちのうちの一人は金でイエスを売るという裏切りをした。主イエスと最もちかくにいた弟子であったペテロは、こともあろうにイエスが捕らわれた後に動転し、三度もイエスなど知らないと激しく言う始末であった。ほかの弟子たちも逃げてしまった。
このような記述も、キリストの福音はごくふつうの人によって、あるいは重い罪を犯した人によっても伝えられていくということを象徴的に示している。
このことは、現代に生きる私たちにも大いなる希望を与えてくれるものとなっている。どんなにこの世が変ろうとも、また人間が弱々しくなろうとも、そうしたただなかに神はその御計画を行う器ともいうべき人間を起こし、弱い人間、罪深い者であってもその人間を造り替えてその御計画を担う者とされるのである。
この世のはかなさについて
わが国で古来広く読まれてきた文学のひとつは、平家物語である。そこに、平家がいかにして勢力を増大させて栄華を極めたか、それにもかかわらずいかに急速に権勢を失っていくか、また平家を滅ぼした源義仲や義経、頼朝らもまた短期間で消えていくことが記されている。
その長編歴史物語の冒頭につぎのような言葉がある。
祇園精舎の鐘の声、諸行無情の響きあり。(*)
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。(**)
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き者もついには滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ。
(*)祇園精舎とは、古代インドのコーサラ国の首都郊外にあった仏教の寺院。諸行無情とは、すべては移り変わるものであって、常であるもの(不変)は何もないということ。
(**)沙羅双樹とは常緑高木。インド北部原産。高さ40メートル。仏教では聖木とされる。
古代インドの寺院で響く鐘の音は、万物は移り変わるという言葉(詩句)を流し、川辺に咲く沙羅の花は釈迦が死んだときに、たちまち花が白色に変じて、盛んなるものも必ず衰えるときがあるという人生の道理を示したという。…
このように述べて始まる平家物語は、私の手元にあるもので小さい字で四百ページほどになる大作である。今から八百年ほども昔にこのような長編が書かれたということは驚くべきことと言えよう。
常人をはるかに超えた記憶力、構想力、知識や文学的感性、そして宗教的な感性を持っていた人だと考えられる。
この著者がこの長い物語の最初にこのような文章を持ってきているということのなかに、著者が何をこの物語に託そうとしたかがうかがえる。
それはこの世のはかなさであり、すべては、移りゆくということであり、そこからくる悲しみである。それは目の前の小さな出来事や自然界のことだけでなく、国家社会のような大きな場であっても、それは共通している。狭くもひろくも、一切はこのはかなさに覆われているということが根底に見られる。この平家物語には、悲しみとか涙といった言葉が数多く現れるがそれはこの冒頭のはかなさと通じるものがある。
そしてこのはかなさを表す第一として、祇王・妓女という二人の白拍子(*)のことが現れる。
彼女たちは、数年の間は世をときめく平清盛の寵愛を受けたが、仏御前という別の白拍子を清盛が気に入ったときから捨てられ、死ぬことを考えたが母親の説得で辛うじて死を思い止まり、二十歳前後でこの姉妹は尼となって、京都の嵯峨の奥にある山里の庵にて、母親とともに念仏生活に入ったと記されている。(**)
… そして夕日が西の山の端に沈むのを見ると、「日の沈むのは西方極楽浄土である。私たちもはやくあの浄土に生れたい。」
そう思うにつけても、過ぎた日の悲しいことが次からつぎに思い出され、ただ尽きせぬものは涙なのである。…
そうした涙のなかで過ごす母子三人のもとに訪ねてきたのが、かつて祇王のかわりに清盛の寵愛を受けた、仏御前であった。
彼女が言うには、「この世の栄華は夢の夢、富み栄えたところでなんになりましょう。…かげろうや稲妻よりも、もっとはかないのが人生です。一時の栄華に誇って来世のことを知らないとしたら、それは悲しいこと…。」
と言って、自分のゆえに、清盛のもとから追い出された祇王に赦しを乞い、ともに極楽往生の願いをとげたいと申し出たのであった。もし赦されないなら、どんな深い山のなかの苔の床や、松の根元にも野宿して、命あるかぎり念仏して極楽往生の願いをとげたいと必死に涙ながらに訴え、それによって祇王姉妹とその母らとともに、山里のさびしい庵で女ばかり四名が念仏によってその生涯を終えたという。
(*)白拍子とは、平安時代末期におこり鎌倉時代にかけて盛行した歌舞、およびその歌舞を業とする舞女。
(**)祇王寺として京都市右京区の嵯峨にある。
このように、哀れな女性の姿が記されているが、平清盛自身も、短い間の栄華ののちに、激しい熱病にかかって苦痛にさいなまれつつ死んだ。そして、平家はたちまちほろび、かつて清盛が一時的に都とした、福原(*)を平宗盛が最後にそこを去って逃げていくとき、かつての都を焼き払って西へと下っていく。ここにも、かつて栄華をきわめた平家が無残にも落ちていく様が哀しみをたたえてつぎのように記されてている。
(*)現在の神戸市兵庫区。平安末期、福原荘(しよう)として平清盛が領有、ここに別荘を営み、わずかの期間であったが、都とした。
…折から初秋の月は下弦の弓張月である。静かな夜は更けるにつれていよいよ静かに、住み慣れた都を離れてのこの旅寝に、夜露と涙は枕にその露けさを競うほどであった。
ただ、何もかも悲しいのである。
今はなき清盛が造ったいろいろの建物を見ると、それらは、どれもこれもここ三年ほどの間に荒れ果てて、年を経た苔が道をふさぎ、咲き乱れる秋草が門を閉じるばかり。
瓦にははやくもシダが生えて、垣根には蔦(つた)が繁っている。高い建物は傾き、苔むして、通うものはただ松風ばかりである。また、宮殿のすだれも落ちて寝所もあらわとなり、射し入るものはただ、月の光だけである。…
翌日にいよいよ福原の建物に火を放った。…この福原もさすがに名残おしかった。暁かけて峰になく鹿の声、渚(なぎさ)に寄せる波の音、袖に宿る月の影、千草にすだくこおろきの声、目に見、耳にふれるもの、ひとつとして哀れを誘い、心を悲しませないものとてない…。つい昨日のこと、木曽義仲の追討に向かったときは、兵は十万余騎もあったが、今日西海の海に舟をだそうとしている者はわずかに七千余り、…人里離れた海の波を分け、潮のまにまに流されていく舟は、さながら空の雲に漕ぎ消えていくかのよう。こうして日を過ぎて都ははるか雲のかなたとなってしまった。はるばる来たと思うにつけても、尽きせぬものはただ涙である。…一一八三年、平家はすべて都を去っていったのである。(「平家物語」巻第七より)
また、木曽の山中で成人した源義仲(木曽義仲)は、めざましい働きをしてわずか三年足らずで平家を打ち倒して、支配権を得たが反対勢力となった源義経らによって追撃され、わずか三十一歳で討ち死にした。ここにも急速に勢力を伸ばしたものが驚くばかりの短期間で没落していく様がやはり哀しみをもって記されている。
そのときから義経は平家追討を指揮して、屋島の合戦で闘い、壇の浦に追いつめて平家を滅ぼすという武士としては並びなきほどの働きをした。
しかし、それもたちまち兄頼朝の怒りとねたみを受けて、今度は追われる身となり、ついに東北の地まで逃げていったが頼った有力者の死後にその息子に攻撃されて自害して果てる。義経もまた三十歳ほどで世を去っている。
そのようにして日本を支配することになった頼朝もまた、征夷大将軍となってから七年足らずで落馬がもとになって死んだ。
義仲、義経、頼朝らは平家を滅ぼすという目的では同じであったが、互いに闘い合って勢いを消耗し、まもなく滅びていった。
勇ましい武士たちも、可憐な女たちも共通しているのは、地位が高かろうが低かろうが、また男女の区別もなく、みんな移りゆくものという認識であり、悲しみである。
この平家物語の最後の部分には、平家一族のうち、わずかに生き残った清盛の娘、建礼門院徳子が、京都大原の寂光院にこもって平家一門のための祈りで生涯を終えたことが記されている。
寂光院は、屋根瓦は壊れ落ち、そのために霧が入ってきて常に香をたいているようであり、雨戸ははずれてしまって、そのために月が常住の灯明をかかげているようであるというほどであった。近くの小川には、山吹が咲き乱れ、幾重にもかさなる雲の切れ目から、山郭公(やまほととぎす)の声が響いてくる。
古びた岩の間から落ちてくる水音さえも、意味深い。緑の薄絹のようにみえる蔦葛(つたかずら)のしげる垣根や、緑の眉墨(まゆずみ)のような緑の山々に囲まれて、建礼門院の住家はあった。
それは軒には蔦や朝顔がしげり、忍草(しのぶぐさ)(*)、にまじって、忘れ草(**)が生えている。屋根をふいた杉板もくされ落ちて、その葺いたところもまばらとなり、月の夜など、時雨も霜も、露さえも、月光とともに入り込んでくる。
このようなところに住んでいる、建礼門院は、そこを訪ねてきた後白河法皇に語って、悲しみの涙にむせび、ちょうどそのとき啼いた時鳥(ほととぎす)にあわせて次のように詠んだ。
いざさらば 涙比べん ほととぎす われもうき世に音(ね)をのみぞなく
(ほととぎすよ、さあ、お前と涙を比べあおう。私もこの憂いの世にただ悲しく声をあげて泣いて暮らしているのだから)
こうした悲しみの言葉が記されているが、その後病気になって息を引き取る。そのときに、西の方に紫の雲がたなびき、たとえようもない香りが部屋に満ちて、来迎の音楽が空に聞こえる…
こうして平家物語は閉じられている。
最後に浄土宗の教える浄土のことが現れるが、それまでの地上の生活は涙と悲しみ、寂しさで包まれている。
人間の世はどんなに地位が高くとも、低くともこうした万物の流転のなかにおいては悲しみしかない、死後の浄土からの迎えを待つだけなのだという教えが刻まれている。
日本で最も広く知られている文学のひとつがこうした悲しみと淋しさに包まれていることは、大学卒業してから平家物語を知るまでは予想しなかったところである。子供時代から、平清盛や義経、弁慶、また頼朝などの活躍を本で見ていてそうした悲しみとは反対の勇ましさやおもしろさが印象にあったからである。
浄土教という信仰もその悲しみをいやすものでなかったことは、すでに述べた平家物語の一部であっても、そこに流れている悲しみを見てもわかる。
しかし、この点において、キリスト教信仰は、人間の世のはかなさを思い、この世の悲しみを深く知っていることで共通しているが、たんに来世の浄土を願っているのみでなく、すでにこの地上において、深い喜びと力を与えられるという点で決定的な差があるといえよう。
それは、すでに旧約聖書の困難な時代に書かれた詩編に、神への大いなる讃美や喜び、感謝のあふれるものが多く含まれていること、最後の詩編が神への壮大な讃美(ハレルヤ)で終わっていることがそれを指し示している。
また新約聖書においては、そのはじめのところで、主イエスの誕生が天使によってつぎのように記されている。
天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。(ルカ福音書二・10)
キリストが来られたのは、人間に大いなる喜びを与えるためということが最初からはっきりと告げられているのがわかる。
また、キリスト教信仰によって人間に与えられる最も重要なものは、聖なる霊(神ご自身の霊)であるが、その聖霊がもたらすものは喜びである。
御霊(聖なる霊)の実は、愛、喜び、平和、…(ガラテヤ五・22)
あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。(ピリピ 四・4)
キリスト者にとくに与えられる喜びとは、なにかが自分の思うままになったとか、人から認められたという通常の喜びでなく、「主にあって」の喜びだと言われている。それは聖なる霊から与えられる喜びということと同じである。
また、主イエスが最後の夕食のときに教えた言葉にも、次ぎのように喜びの約束がある。
…わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。(ヨハネ福音書十五・11)
ここにも、主イエスが来られた目的が「わたしの喜び」すなわち、神の国にあるような清い喜びを与えるためであることが約束されている。
さらに聖書の最後の書である黙示録にも、暗黒の迫害時代にあってもなお、天の無数の天使たちの讃美を聞きながら生きることができるのが暗示されている。
そしてこの聖書が記されて以後二千年にわたって、世界の無数の人たちが主イエスを信じて、この世からは決して与えられない、魂の平和と喜びを与えられてきたという事実がある。こうした深い喜びがなかったらどうしてキリスト信仰を続けていく気持ちになるだろうか。
キリスト教信仰が世界に伝わった原動力は、罪赦され、主の平和を与えられる喜びであったのである。
人間の武力による勇ましさ、支配や栄華など、じつにはかなく、一時的なものである。それは現代においても同様であろう。
イエスからの聖なる霊を与えられなければ、この世はいかに力あるもの、権力ある国家であっても、すべて流れ去り、消えていくものでしかない。
いかにこの世を揺るがすような出来事であってもそれらはすべて過ぎ去っていく。ただ過ぎ去らないのは神の国であり、神の言葉であり、主イエスそのものである。
(*)シノブ・ノキシノブなどのシダ植物。
(**)ヤブカンゾウの別称。
パウロと彼を助けた人たち
パウロとはどんな人物であったのか、どんな心を持っていたのか、どんなことを見つめていたのか、そして何をしたのか、パウロの心は現代の私たちに通じるものがあるのだろうか。
それは新約聖書のなかのいろいろの書かれたものを見るとあらゆるキリスト者のうち最も高く引き上げられた人物としてのパウロが次第に浮かび上がってくる。
ここでは、ローマのキリスト者へ宛てた手紙(*)の一部からパウロの心がどのようなものであったかを調べてみる。
彼の書いた長い手紙の冒頭で、つぎのように書いている。
キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、――(ローマの信徒への手紙一・1)
このようにまず自分のことを「キリストの僕」である、と言っているが、この「僕」という言葉は、現在では私たちの生活の中ではほとんど使われない言葉です。そのために、まず第一にパウロが自分のことをこの言葉で表しているのに、その意味がはっきりしないので、読む者への印象がうすくなっている。
しかし、原文ではこの言葉は「奴隷」を表す言葉であり、じっさい次ぎのような箇所では奴隷と訳されている。
召されたとき(キリスト者となったとき)に奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけない。(Ⅰコリント七・)
その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてである。(ピレモン一・11)
これは、奴隷の所有者に対して、そこから逃げ出した奴隷がパウロと出会ってキリスト者となったので、パウロがその奴隷の主人であった人物にその奴隷を罰することなく、兄弟として扱うようにとすすめた箇所である。
このように、実際に奴隷という言葉であるから、パウロがそのような言葉をあえて用いたということの中にパウロが自分をどのような存在であるかをこの一言のなかに込めているその気持ちが伝わってくるように思われる。
キリストの奴隷、それはキリストを主人とし、キリストの言われるままに生きて、キリストのためには命をも捨てようとしている、それほどにキリストに忠実に生きたいという彼の願いが現れているし、そのようにキリストの持ち物として下さったことへの感謝も同時に込められている。
私たちは奴隷などという言葉は、アメリカの黒人奴隷の悲惨さを思い出すだけで、いまの自分とは何の関係もない言葉だと思っている人が多いだろう。しかし、私たちはつねに何かにとらわれている。それは人間であったり、金や健康管理であったり、また周りの評価であったりする。言い換えれば何かにとらわれていて、それがひどくなると何らかの奴隷となっていると言えよう。
私たちが何かに結ばれているというとき、一番よいものと結ばれていたらそれが一番幸いなことである。そして一番よいものとは、清さ、愛、正しさ、永遠性などすべてにおいて最善のものである神とその神と同質のキリストである。それゆえ、キリストと結びついていることが最高の幸いであり、そのような最善のお方の言われるままに従って生きることは最善の生き方だということになる。
パウロはそのことを、「キリストの奴隷」という独特の言葉で言い表しているのである。
その冒頭でこのように、自分がいかなる人間であるかを述べたが、この重要な手紙の最後の部分においても、彼がどのような心を抱いていたかを映し出す内容がある。
…あなたがた(ローマのキリスト者たち)のところに何度も行こうと思いながら、妨げられてきました。しかし今は、…何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していたので、
イスパニアに行くとき、訪ねたいと考えています。その途中でローマにいるあなたがたに会い、まず、しばらくの間でも、あなたがたと共にいる喜びを味わってから、イスパニアへ向けて送り出してもらいたいのです。
しかし、今はすぐにはそちらには行かないで、エルサレムにいる聖徒たち(キリスト者たち)たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。
マケドニア州とアカイア州(*)の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。…
それで、わたしはこのことを済ませてから、つまり、募金の成果を確実に手渡した後、あなたがたのところを経てイスパニアに行きます。
そのときには、キリストの祝福をあふれるほど持って、あなたがたのところに行くことになると思っています。
(*)マケドニアとは、ギリシャの北部の地域、アカイア州はその南部地方。
ローマは当時の地中海一帯の広大な領域を国土としていたローマ帝国の首都であった。パウロがふつうの人間であったら、そうした大都市に行ってそこでの伝道に加わってリーダーとしての経験を広くしておきたいと思ったり、そこで大都市の人々によって評価を高められたいと願ったかも知れない。
しかし、キリストの第一の使徒であったパウロは、そのような人間的な気持ちを全く持たなかった。彼は、「キリストの名がまだ知られていないところで福音を告げ知らせようと、熱心に努めてきた」(ローマ十五・20)と言っている。
この方針に沿って彼は、すでに福音が伝えられているローマにはわずかに立ち寄ることだけしか考えていなかった。パウロはつねに霊的なパイオニアを目指していたのである。
しかし、これは決してパウロだけのことではない。キリストを信じたときから、人は何らかの形でこうしたパイオニア的なスピリット(精神、霊)を与えられるのである。
キリストご自身が最高のパイオニアであったからである。全人類の歴史のなかで、最大のパイオニアは主イエスであった。すべての人間が持っている最大の問題である、罪ということ、魂の最も奥深いところにて持っている真実に背く傾向をいかにして除き去るのか、そうしたことは不可能であるとだれしも思った。だから旧約聖書の時代には動物のいのちを象徴する血によってでなければ罪の赦しや清めはあり得ないとされていた。
しかし、そのような最も人間の深い問題である魂の罪を除き去るという前人未到の領域に主イエスは入って行かれた。しかもそれは、十字架刑につけられるという考えられないような残酷な刑罰を受けることによってであった。
パウロは、キリスト教が生れた現在のイスラエル地方にとどまることなく、また、当時の世界の中心であったローマにも住む心もなく、彼が目指していたのは、当時の世界の果てといえるスペインであった。
しかし、パウロはローマやスペインにキリストの福音を伝えるために行くという前に、エルサレムにいる、ユダヤ人の貧しいキリスト者たちへの援助を届けるために行くのを優先させた。そして、万難を排してそのためにエルサレムに行こうとしたのが聖書の記述からうかがえる。
そのことは、使徒言行録に詳しい。
私は(神の)霊にうながされてエルサレムに行く。そこでどんなことがこの身に起こるか、何もわからない。投獄されることなど、苦難が私を待ち受けていることは、聖霊がはっきりと告げている。しかし、福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思わない。(使徒言行録二十・22~24より)
そしていよいよ地中海を渡り、エルサレムに近い地中海沿岸の都市に着いたとき、そこでキリスト者となった人々から涙を流し、強くエルサレム行きを反対された。それはその人々が聖霊によってパウロがエルサレムで危険な状態に陥るということを示されたからであった。
しかし、それでもパウロはつぎのように言ってエルサレム行きをあくまで実行することを告げた。
そのとき、パウロは答えた。「あなた方は泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟している。」(使徒言行録二一・13)
このような命をかけてもエルサレムの貧しいキリスト者たちに、ギリシャ地方で集めた献金を手渡すために行こうとしたのであった。彼には、ローマやスペインという地の果てにまで、キリストの福音を伝えるという使命を持っていたにもかかわらず、そして彼がローマに宛てた手紙を書いたのは、ギリシャの都市であって、そこからなら、ローマも近いにもかかわらず、そこからローマに行くよりはるかに遠いローマとは逆方向のエルサレムに行くというのである。
こうしたパウロの歩みを見ると、キリストの福音を最初に伝えたエルサレムのキリスト者となったユダヤの人々に対していかにパウロが深い感謝をもっていたかがうかがえる。どうでもよいと思っていたら決してこんなにまで多大の労力を払い、命をかけてまで、献金を持っていこうとは考えなかっただろう。
そして、パウロが、「互いに愛し合え」という主イエスの教えをこれほどまでにして実践しようとしていたのがわかる。エルサレムでは、ユダヤ人からの迫害を受けて職業的にも安定せず、貧しく苦しい生活をしていたキリスト者たちのことがパウロの心深くにいつもあったのであろう。マケドニアとかギリシャの都市の人たちが会ったこともなく、千五百キロ近くも離れたエルサレムのキリスト者たちに多くの献金を捧げるということは、当時のキリスト者たちがいかに信徒相互の間での深いつながりをもっていたかを推察させる。
パウロと人々との関わり
キリスト教の二千年の歴史では、じつにさまざまの傑出した人たちが現れている。キリスト教が伝わっていく過程で、ローマや日本、そして世界の各地では激しい迫害があり、そうした時に命を捨ててキリストに従った人たちは数知れない。
ほんの一例をあげれば、哲学の方面ではアウグスチヌスやカント、科学者ではファラデーやパスツール、音楽や美術では、バッハ、ベートーベン、モーツァルト、ミケランジエロなど、文学では、ダンテやトルストイ、政治の方面ではグラッドストンとかリンカン、福祉的方面では、ナイチンゲールとかマザー・テレサといった人々など、あげればきりがない。
こうしたきら星のような人々がキリスト教信仰のゆえに歴史に不滅の位置を残してきたが、そうした一切の人々にはるかにまさった位置を与えられているのが、パウロである。
主イエス以外にパウロほど、歴史のなかで絶大な働きをしてきた人はいないといえよう。それは彼が受けた神の言葉が聖書となり、すでにあげたような無数の人々の魂を生き返らせ、導いて、それがそうした大きい働きをなす基となったからである。彼らの働きを支えたのが聖書であり、パウロが受けた神の言葉がそうしたなかできわめて大きい働きをしたのである。
宗教改革者のルターや内村鑑三もまた、パウロの書いたローマの信徒への手紙によって、決定的な影響を受けた。
このようなパウロの働きを支えたのは、主イエスであったが、人間もまたパウロを支えたのである。そのことが、ローマの信徒への手紙の最後の部分(十六章)からうかがえる。(読みにくいので人名は○○としたのもある。)
…教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェベを紹介しよう。
どうか、…主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてほしい。彼女は多くの人々を助けたし、特にわたしをも助けてくれた人なのである。
キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。
命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝している。…
わたしたちの協力者としてキリストに仕えているウルバノ、および、わたしの愛する○○によろしく。…
主のために苦労して働いている○○と○○によろしく。主のために非常に苦労した愛する○○によろしく。
主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのである。(ローマの信徒への手紙十六・1~13より)
この手紙を見て、私たちはパウロを取り巻いた人々の働きやその人たちの心の動きをいくらかは実感することができる。
パウロはまず、女性であるフェベという人を第一に紹介している。古代において、否、ごく最近まで女性の地位は世界的に低く、男性がまず第一に念頭に置かれるのが一般的であった。日本でも系図にも名前すら女性には記されないという状態が長く続いた。そうした状況を考えるとき、三十名近い人たちの名をあげているのに、その第一に女性をあげるということは、異例のことであった。それほどに、フェベという女性は多くの人々を助け、パウロをも助けたのがうかがえる。迫害が始まっていた時代であり、キリストを信じるということは白眼視され、生活にも苦しみをもたらしつつあったと考えられる。
そのようななかで、黙って主への奉仕の心でそうしたキリスト者たちの困難を助けるということは神のなさるわざとして記憶されていたのであろう。
パウロは可能なときには、テント造りもしたとある。しかし、迫害され逃げていった見知らぬ場所で材料もなく、未知の人ばかりなのであるから、ただちにテント造りといった仕事で生計をたてられるなどということは考えられないことである。
そうした困難な折りにもフェベのような助け手から受けた献金などによって窮地を切り抜けられたということがあったと考えられる。パウロが困難な状況に置かれたことは使徒言行録に見られるとおり再三あったが、そうしたときのパウロの気持ちはつぎのような箇所からもうかがえる。
マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいた。外には戦い、内には恐れがあった。(Ⅱコリント七・5)
そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安であった。(Ⅰコリント二・3)
苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々であった。(Ⅱコリント十一・23)
こうした困難は数々あったが、そうした追いつめられた状況を多く経験したからこそ、そうした窮状を助けた人のことをいっそう感謝をもって記したのだと考えられる。
もちろん、フェベという女性はその一例であって、別のところでは、ギリシャの都市(ピリピ)の人たちに宛てた手紙において、つぎのように書いている。
ピリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、あなたがたのほかには一つもなかった。(あなた方だけが私を助けてくれた。)
また、テサロニケ(ピリピに近い都市)にいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれた。(ピリピの信徒への手紙四・15~16)
このように、パウロの遭遇したさまざまの困難において、思いがけない人物やキリスト者の集まりによって彼は支えられたのがわかる。
また、このローマの信徒への手紙の最後の部分で、フェベという女性に次いで書かれているのが、「プリスカとアクラ」という二人であるが、この二人は夫婦であって、プリスカの方が妻である。ここにも、意外なことに女性の方を先に書いている。つまり、使徒パウロの最大の重要な書簡で最後に名をあげて感謝を記している人たちの最初の二人がいずれも女性であったということなのであり、聖書においては、このように女性の果たす役割がいかに大きいかが暗示されているのである。
これは、福音書においてもみられる。
主イエスが復活したとき、最初に知らされたのは、意外にも十二弟子でなく、罪の女と言われていたマグダラのマリアやほかの数人の女性たちであった。復活とはキリスト教史上で最大の出来事といえる。それがあったからこそ、逃げてしまった弟子たちも新しい力が与えられ、キリスト教徒を迫害していたパウロもその復活の主イエスによってキリスト者と変えられたのである。
そのようなきわめて重要な出来事に女性が第一に接したということのなかに、当時低い存在だとされていた女性の存在そのものへの深い洞察が感じられる。
また、「主にある、選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女は私にとっても母なのです。」と言っていることからすると、ルフォスという人の母は、パウロには特別な関わりのあった女性であったのがうかがえる。
またこのローマの信徒への手紙の十六章の三十名近いリストのなかには、明らかに奴隷であったと推察できる名前もいくつかあるという。
こうした名前の列挙によって、パウロがさまざまの人たちによって、経済的にも支えられ、また命の危機があったときにも、助けられ、また母親のような愛をもって対した老婦人もあったのがわかる。
このように、多くの人たちがパウロという一人の使徒を支え、助けたのであって、決してパウロ一人の超人的な活動で福音が伝わったのでなかった。多くは名も知られてない人であったが、また地位の高いひと、奴隷のような人もいた。老人から若者、さまざまの人がパウロの周辺に置かれて全体として、ひとつのからだとなり、福音が宣べ伝えられていったのがわかる。
信じる人たち、キリスト者たちは「キリストのからだである」という特別な表現がなされる。これはこうしたパウロの具体的な関わりの記述からもうかがえるのである。
こうした状況はパウロだけでなく、それ以後のキリスト者たちの活動においても、ずっと見られたことであろう。キリストを信じる一人一人が、大きな木の一つ一つの枝のように用いられ、それが全体として一本の木となって、神の国に成長していったのである。
日露戦争から百年
朝鮮半島と中国の満州の支配権をめぐってロシアと闘った、日露戦争(*)から百年が経った。戦争はおびただしい人々が命を落とし、また重い傷を受ける。わずか一年半ほどの間に、戦死した人は八万八千名、傷ついた人三十七万名という多くの人たちが生じた。これは日本だけの数字であって、ロシア側でもきわめて多数の戦死傷者をだした。
このようなおびただしい人々を苦しめ、命を奪った戦争の目的はというとそれは満州や朝鮮を自分の勢力下に収めようとすることなのであった。自分の国でなく、他国の独立をふみにじって軍事的に圧力をかけ、朝鮮を日本の植民地にしていくひとつの行程となった。
この日露戦争は、日本が大国ロシアに勝ったとか、講和条約が不十分な内容であったといった観点からだけ日本人の記憶に残っていくことが多いが、この戦争の勝利は、朝鮮にとってみれば、他国が自分の国の支配権をめぐって戦争し、その結果は他国(日本)の植民地とされることにつながっていった。
このように戦争は、自国の膨大な人命や戦費の消耗だけでなく、相手国も同様なおびただしい犠牲を生じたし、さらに戦争の相手国でなかった朝鮮の人々には以後の長い植民地への歩みを決定づけるものとなったのであった。
日清戦争や日露戦争で、朝鮮を戦場および基地として戦い、一九〇五年には韓国の外交権を奪い、その権限は日本が派遣する統監が管理することになって、韓国は独立を失った。以後、日本の保護国としてしまった。さらに一九〇七年には朝鮮の軍隊を解散して抵抗勢力を解体し、ソウルに日本軍を配備した占領状態で併合を強行した。
そして、中国の東北部満州にも、勢力を伸ばし、中国から切り離して日本がその勢力範囲のなかに置いて、以後の進出を増大させ、彼らから不当な利益を奪っていくことになったのである。
そしてそれがのちの、太平洋戦争につながっていくことになった。
このような点を考えるとき、戦争は戦争を生み、弱い立場の者の命を奪い、何ら不当なことをしていない、朝鮮の人や満州に住む中国の人たちを長期にわたって苦しめ、さらに太平洋戦争に至っては日本や朝鮮半島の人たちだけでなく中国の広範囲にわたって侵略し、大都市を爆撃し、数知れない人々を死に至らしめ、フィリピンやインドネシア、ビルマ、タイなどといったアジアの国々まで戦火を拡大していくことになった。
このようなことを考えるとき、いっそう戦争ということの悪魔性を思わされる。戦争は本来なら何の関係もなく、互いに顔を合わせたこともなく、もちろん不正なことも互いにしたこともない人たちに激しい憎しみを引き起し、大量に殺害や略奪を生じていく。
このように、日露戦争は、太平洋戦争というアジアの歴史では最大の戦争を引き起こすことにつながっていったのであるが、当時は大部分の人たちが戦争に賛成し、戦争に勝利したときにも有頂天になる人も多かったのである。
こうした真理のみえない状況において、一部の人たちはその戦争の不正を鋭く見抜いていた。
ここでは、日露戦争が開始された直後(一か月後)に出された内村鑑三の「聖書之研究」での文章をあげる。
ああ、私はいかにして戦争を止めさせることができようか。私はいかにして人々を敵の弾丸にさらす惨事を止めさせことができるのか。彼らを失って孤独に泣く老いた母があるではないか。彼らが死んで飢えや寒さに叫ぶ未亡人と孤児があるではないか。これを見て、涙を流さないのは人にして人ではない。私は人が戦争万歳を歓呼するのを聞いて、到底その声を共にすることはできない。
私がもし、王ならば私は無理にも戦争を止めさせよう、また私がもし政府の要人であり、天皇に重んじられているような者であるならば、戦争を止めるよう諫(いさ)めてやまないであろう。
しかし、弱き私はただ、泣くに涙あり、祈るに言葉あるだけである。ああ、私はいかにして戦争を止めさせることができようか。
私はただ福音を説き、キリストの平和の福音を説き続ける。そして一日も早くこの世に天の国が来るようにと願う。これが私のなし得ることである。…
人々がその心に神の霊を宿すにいたるまでは、戦争の声は止むことはない。キリストにあって一人を救うことは、戦争の危害を一人だけ減らすことなのである。そして戦争はたんに非戦論を唱えて止むものでなく、キリストの福音を伝えてはじめて止むものである。
ああ、私は悟った。はるかな将来を見つめ、私の目前に目撃する戦争の惨事を根絶するがために、私が世にあるかぎり、さらに熱心にキリストの福音を伝えることに従事しよう。
(「「聖書之研究」一九〇四年三月」平易な現代文に直してある。)
この内村の文章が書かれてから百年、現代の私たちもやはりキリスト者として同じように思う。キリスト者の固有の使命は、永遠の真理たるキリストの平和(平安)を罪赦されることによって受け、敵のためにも祈れる心を神から頂いて、その真理を伝えるところにある。
わたしは、平和(平安)をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。
わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。(ヨハネ福音書十四・27)
たしかにキリストが与える平安(平和)は、この世が与えるような仕方とは全く異なっている。それは人間の努力とか話し合い、あるいは、武力によってではない。それはまず人間の根本にある闇である罪を知ってそれを赦されるところにあり、神の聖なる霊を受けることによって与えられるものである。
休憩室
○小鳥たち
わが家の前に、直径八〇センチ、高さ五〇センチほどの円柱状の水槽があります。そこに金魚を飼っているのですが、そこに水がいつも上まで入れてあります。
わが家の裏山は標高二〇〇メートルほどの低い山なので、谷にも水がほとんどない今の時期には、小鳥たちが朝から入れ代わり立ち代わり水を飲みにやってきます。
風もなく、暖かい日のときにはことにいろいろの小鳥がつぎつぎに来ます。キジバト、メジロ、ヒヨドリ、ヤマガラ、そしてふつうはなかなか人前に姿をみせないウグイス、それからこの辺では珍しいエナガなどです。
家に居るときは多くはないのですが、集中的に原稿を書いたりする日は終日在宅することもあり、そのときにはこうした小鳥たちが間近につぎつぎに見えるのはありがたいことです。
ウグイスは今は、ジッジッという地鳴きをして、低い茂みのなかを飛び回っているので、なかなかその姿は見えません。しかしこの水槽にはそばの茂みから突然現れてはひとしきり水を飲み、気持ちよさそうに水浴びをしてそれからさっと茂みに入っていきます。
また、ホオジロは水飲みにはまだ来ていないようですが、すぐ近くの木の梢にとまって、美しい歌を朝から歌ってくれることがときどきあります。
こうした小鳥たちの姿やたたずまいは、おそらく誰にとっても心あたたまるもの、安らぐ風情があります。翼を与えられ、軽やかに飛び、そして美しい歌を歌うものもあり、私たちが神への信仰に生きるすがたを表しているように感じることがあります。
ことば
(174)何にも目的がなく、いかに思索をしても決して、大いなる思想を持つことはできない。
大いなる思想は、人を助けようとする愛に燃えるとき、自ずからわき上がってくるものである。(「ロマ書の研究」内村鑑三著 第58講より)
・人を助けたい、苦しむ人、闇にある人に何とかして助けになるものを提供したい、との真実な願いのあるところ、何か道は示される。そしてそうした思いが神によって燃やされるところに、深い思想、信仰は生れる。それは論理的な精密さとか体系の大きさといったものとは違って、神からくる深さである。それは、神の愛に基づく心であり、それゆえに神ご自身が深める。
(175)彼は、自分の魂を知っていた。それは彼にとって尊い者であった。彼はそれを、ちょうど瞼(まぶた)が、眼を保護するように、護っていた。
そして愛という鍵なしには、何人も自分の魂のなかへは入れなかった。(「アンナ・カレーニナ」河出書房版 トルストイ著 392頁)
・人はだれでも自分の心、あるいは魂といったものにたいてい鍵をしめて他人が入らないようにしていると言えよう。トルストイが書いているように、心のなかに入るためには、愛をもってしなければできないというのは多くの人が感じているだろう。
人間を創造された神ご自身にもいわば鍵がかかっていて、自然のままの人間にはそれを開く鍵を持っていない。
人の心だけでなく、神の心にもそして神が書かせた私たちへの言葉といえる聖書も、また神のこの世に関する大いなる御計画もまた、同様である。さらに私たちの周りにある自然の世界も同様で、それらにははある種の眼にはみえない鍵がかかっていると言えよう。
黙示録では「封印された巻物」(黙示録五・1)と記されている。
私たちはまず信仰によって、さらに神への愛によってのみ、こうしたさまざまの世界へのとびらを開くことができる。
「 門をたたけ、さらば開かれる。」
(176)イエスは「求めよ、そうすれば与えられる」と言われ、すべての必要なものを求めよ、と言われた。イエスは繰り返し私たちを祈りへと招き、導き、励まし、勧め、また祈るように命じられる。祈りは救われた人にとって、生命の心臓の鼓動である。(「祈りの世界」38頁 ハレスビー著 「日本キリスト教団出版局」)
返舟だより
○「今日のみ言葉」一〇四 本当にありがとうございます。
『人はパンだけで生きるものではない。神の口からでる一つ一つの言葉で生きる。』 この短い聖句、なんて壮大で重い言葉なのでしょう。
私の人生もパンの奪い合いの人生であり、今もその延長線上にあります。目に見えない本当に大切なものを忘れがちであり、時には苛立ちや不安の中で生活している毎日です。
イエスが五千人にパンを与えた奇跡、その当時の人達は本当にイエスの言葉を聴き希望と喜びに満たされ、生きる力が湧き、あり余る程の充足感に満ち溢れた事でしょう。当時イエスの言葉を聴いた人達は誰も明日の糧を考えなかった事でしょう。そしてこの人こそキリストであると確信して家路に着いたでしょう。先生の短文を読んでいてそのような事を考え、言葉は神と共にあり、言葉は神であった事が実感として迫ってくるような気がしました。(近畿地方の方)
○はこ舟2004年1月号を読んで。
詩篇七十三篇については、悪しき者がなぜ栄えるのか、そのことに関しての我が悩み、そうした矛盾の解決の道はどこにあるかなどとありまして、はこ舟や元日礼拝のテープを参考に紙に写しながら読みました。
自分がふだん思っていることを語ってくれているなぁと思いました。ただ私の場合はまだ心が定まっていないと思います。
時に他人の行いに対して腹を立てている自分に気づき、ああ、こういうとき、相手の人がイエス様のことを知って罪が贖われます様に祈りなさい、と書かれていたなぁと思い出して心の中で静かに祈るようにしています。
どうかもっと聖霊が注がれて、イエス様を絶えず仰ぐことが出来ますように。
綱野さん、宮田さん、アシュレーをありがとうございます。毎月楽しみにしております。
集会の皆様に神様のご祝福がありますように。(関東地方の方)
○今月はいつもの、はこ舟、今日のみ言葉、に加えて野の花が届けられまして、御恵み
をたくさんいただきました。まことにありがとうございました。「野の花」の御一人
一人の文章を丁寧に読ませていただきました。どのかたも、みな、人に格好よいとこ
ろを見せた文章ではなくて、あるがままのご自分を神様に捧げていると思いました。
十字架にしかすがるものはない、とはっきりした信仰の原点に立っているのが感じら
れました。…心砕かれ、そして心洗われました。(関東地方の方)