2004年3月 第518号・内容・もくじ
常に流れているもの | 祈りを欠くとき | 復活の重要性について |
こころのうた | 聖書における「仕える」意味 | 教育基本法の改定のこと |
南アフリカからの二人の参加者の言葉 | ことば | 休憩室 |
返舟だより |
常に流れているもの
早朝、小さな谷の流れのそばを歩いた。雨は最近ほとんど降っていない。しかし、清い水のせせらぎが響く。この水は、ずっと以前に降った雨が、山の土の深いところにまで入り、長い時間をかけて地中をとおり、この谷川に流れてきた。そしてつねにほとんど一定の水が日夜を分かたずに静かに流れている。
こうした水の流れは神の国よりながれる命の水を思い起こさせてくれた。それはいつも変ることなく、この世の深いところを通って流れ続けている。
この世に何事が生じようとも、霊的な深みを流れるこのいのちの水は、絶えることがない。
谷川の水、かつて私が若い日、山によく出掛けていたときにはそこに口をつけて飲んだものであった。しかし現在ではいろいろの汚れがあって安心して飲めなくなっている。
しかし、御国から流れる命の水は、いかなる時代の変化にもかかわらず、よごされることなく流れ続けている。そしてだれでもそれを口をつけて飲むことができるようになっている。
「さあ、かわいている者はみな水にきたれ!」(イザヤ書55章)
祈りを欠くとき
聖書の最初の人物であるアダムとかエバは祈ったとは記されていません。アダムはエバが与えられたとき、本当の助け手が与えられたとして喜んだと記されていますが、神への感謝を捧げたということはなかったのです。
また、エバにおいても、ヘビの誘惑に出会って神の戒めを破ってしまったこと、アダムにも罪を犯させたことに対して、神からその罪を指摘されたにもかかわらず、なおも自分を正当化しようとしました。そして神にその罪の赦しを願ったことも記されていません。
そしてエデンの園から追放されたときにも何らの神への祈りもなかったのです。
また、箱船で有名なノアは、当時の人たちがみんな悪に染まり、真実に背き続けて改めようとしないために、神の大いなる裁きがなされようとしたとき、ただノアだけはその神への従順のゆえに救われたのです。
そしてノアはその大洪水が長い間かかってようやく引いたとき、最初に舟から出てしたことは、周囲の見知らぬ光景に驚いて歩き回ったりすることでなく、神への感謝の祈りを捧げたということでした。
このように神に従い続けたノアでしたが、生活が安定しぶどうの栽培もして安楽に暮らせるようになってから、ぶどう酒に酔って裸で寝てしまうというようなことも生じました。
これは、安楽な生活が続いて祈りを忘れたからだと思われます。
同様なことは、ダビデにも見られます。旧約聖書の詩編は、後世の讃美歌、聖歌などの源流となり、きわめて重要なものとなりましたが、その詩編は多くはダビデの詩に由来すると言われています。そして当時の王から命をねらわれて迫害されつつも、武力でもって復讐しようとはせず、神に必死で祈り続け、神からの助けを受けて生き、のちにその神への忠実が祝福されて王となったのです。しかしそのようなダビデですら、王となって周囲の国々を平定し、支配を十分にするようになって、はなはだしい罪を犯してしまいました。それは後々まで取り返しのつかないような混乱をもたらすことになりました。
これも祈りがなくなったからだと思われます。物質的にも地位の上でも安定したものとなると、祈りに切実さがなくなります。そこから祈りそのものも次第になくなっていくことになり、そうしたところに悪の力が入り込んできたわけです。
ここに、神の園から締め出されていく魂が象徴的に記されています。神への祈りを持たなくなったとき、私たちはアダムのように、食べてはいけない木の実を食べようとする傾向を生じがちです。
他者のために祈るとは霊を注ぎだすことであり、そのためには神からの霊を受けていなければできないことです。そのために主イエスもまず神を愛し、隣人を愛せよと言われたのです。それは、まず神に祈り、神からの霊と力そしてみ言葉を受けて、その後に隣人のために祈れ、ということでもあります。
祈りを怠るところから、魂はさまよい始めるのです。
復活の重要性について
四月十一日はイースター(*)(復活祭、復活節)です。クリスマスと並んでキリスト教では最も重要な記念日(祝日)です。イースターは毎年固定した日でなく、「春分の日の後の最初の満月の後に来る日曜日」と定められているので、毎年変わっています。
クリスマスはキリストの家畜小屋での誕生や一般的にも誕生祝いというのは受け入れられやすいこと、またサンタクロースやクリスマスツリー、ケーキ、あるいはクリスマスプレゼントということで広く知られています。
しかし、キリスト教信仰にとってはクリスマスよりずっと重要な復活を記念するイースターのことは一般の人にとってはほとんどなじみがないという状態です。
復活ということがいかに重要であるかは、キリスト教の伝道そのものが、キリストの復活がなかったら行われなかったと考えられることからもわかります。
キリストの教えや奇跡をいくら目で見て体験しても、キリストが捕らわれるときにはみんな逃げてしまったり、一番の弟子であったはずのペテロすら、キリストの弟子でもなんでもないと、固く誓ってしまい、その後も逮捕をおそれて家にて潜んでいた、などからもわかります。
また、イエスの誕生は二つの福音書だけにしか書いてありませんが、復活はすべての福音書、使徒言行録、パウロの書簡など聖書のほとんどどの部分にも記されているのです。
弟子たちの最初のキリスト教伝道のときに語った内容は、「イエスは復活した」という単純な証言であったほどです。
このような重要性のゆえに、私たちもまた復活についてはつねに思いを新たにして学ぶ必要があると思われます。
復活とは死んだものが生き返ること、さらにキリストのように完全なものにされることです。さらに、罪のため死んだ状態といえる人間が罪の赦しを体験し、そこから新しく生まれ変わることをも復活と言われています。
死んだ者が生き返る、そんなことはあり得ない、と一蹴してしまうのがおそらく大多数の人の考えではないかと思います。
復活がないならどういうことになるかを考えてみます。そのときには、死んだらそれで終わりであり、人間とは年齢とともに体はあちこち故障ができて、ますます不完全になり、病気になり、体も精神も衰え、最後に滅んでしまうということになります。
しかし、もし復活があれば、どのような事態になっても希望はあり、闇は決して光に勝つことはできません。復活があるかないかで全くこの世に生きるということは違った世界になります。
復活がなく、死んですべてが終わるのなら、この世のあらゆる善いもの、美しいもの、愛のようなものも最終的にはみんな消えていくのです。それは希望が絶えることであり、すなわち絶望です。
また、キリスト教でいう復活とは単に弱さに満ちた肉体の命よきもや汚れたままの人間の心がそのままよみがえるのでなく、清く、永遠的なもの、神のような存在によみがえるということです。
キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる。(フィリピの信徒への手紙三・21)
ですから、復活があるというとき、永遠に滅びない真実や愛、清さや正義があるということは前提となっています。それは当然のことで、自然に復活するのでなく、神が復活させて下さるのであり、そのような力を持つ神は当然永遠に存在するお方であり、究極的な愛や真実、あるいは正義といったあらゆる善きものを持っておられる方であることが根本にあります。
最も大切なもの、それは永遠的なものです。ですから神が持っておられるような愛や真実、正義といったものがこの世で最も大切なものとなります。そうしたものをはぐくむことが最も重要な仕事になり、それを破壊しようとすることは、永遠の秩序に背くことであり、神からの裁きを受けてそこには祝福もなく平安もなくなるのです。
このことは、神の存在を信じない人でも、自分の心や周囲の人間を見ればだいたいわかることです。心に愛や真実に反対の憎しみや怒り、あるいは他人への中傷などをいつも持っていればそうした人の表情は曇り、目にもまた、その声にもある種の濁りが生じているのを感じることができます。
だからこそ、人を憎んだり、傷つけたり、その最もひどい形である命を奪うということが悪であり、決してしてはならないことになるのです。
なぜ人を殺したらいけないのか、ということに答えられない教師がいるといいます。もし、復活があり得ないで、すべては死んで消えていくのなら、殺すというような悪も、清い心もみんな最後は消えて同じになるのなら、少しはやく命を断っても同じということになってしまいます。
天才的数学者で物理学者であった、パスカル(*)は復活があるかないかで、人間の生き方にも決定的な違いをもたらすことをつぎのように書き記しています。
魂が死すべきものであるか、死なないものであるかを知るのは、全生涯にかかわることである。
魂が死すべきものであるか、死なないものであるかということが、道徳に完全な違いを与えるはずであるのは疑う余地がない。
どんな理由で、彼らは、人は復活できないというのか。生れることと、復活することと、かつてなかったものが存在するようになることと、かつて存在したもょが再び存在することと、どちらがいっそう困難なのか。存在し始めることのほうが、再び存在することよりも困難なのかどうか。(「パンセ」218~222より)(**)
(*)一六二三年~一六六二年。フランスの科学者,宗教思想家,文学者。16歳で、すでに数学者の仲間入りし、19歳で計算機を史上初めて考案した。23歳のときに今日「パスカルの原理」として学校でも教えられ、広く知られている物理学の法則を見いだしたという天才であった。
(**)パンセとは、フランス語で「思想」という意味の語。これは「考える」(penser パンセ)というフランス語の動詞の名詞形。
聖書においては、単に肉体が死んでも魂は残るとは言われていません。悪人も善人も同様に、死んだら魂が同じように残るといったことではないのです。悪事を重ね、悔い改めることもなくして死んでいった人、それは主イエスの言葉でいえば、「ぶどうの枝から切り取られて捨てられて焼かれる」というように表現されています。さきほど述べたように、悪をいつも心に抱いていればその人そのものからそうした善きものが焼かれて、よどんだ雰囲気が出てくることはそのような裁きを暗示するものです。
これは究極的な真実なものに意図的に逆らい続けていった人間の本質(魂)は、裁かれ滅んでいくということであり、逆にそのような真実な存在(神)に心を向け、犯した罪をも悔い改めて神に従おうとする人間の本質(魂)は、生きているうちからすでに永遠的なものに変えられる、そして肉体の死後もキリストに似たものに変えられるということなのです。
イエスは彼女に言われた、「わたしがよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。
また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。(ヨハネ福音書十一・25~26)
復活については、主イエスの生きていた当時も、世の終わりには復活がある、と一部の人々は信じていたことが聖書にも書かれています。
しかし、このように、世の終わりに初めて復活があるのではなく、イエスを信じたときからすでに復活したのだと言われているのです。
人間とは、心にどうしても真実な思いや相手への本当の愛を持てずに自分中心に考えたり行動してしまうということでもわかるように、霊的に深くみると死んだも同然だと言えるのです。
新約聖書に表れる最大の使徒パウロには、自分は死んだもの同然だという強い意識があります。
…善を行おうとする自分にいつも悪がつきまとっている。
…善きことをなそうとする意志はあっても、それを実行する力がない…
わたしはなんと惨めな人間なのか。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるのか。(ローマの信徒への手紙七・18~24より)
こうした記述をだれが自分とは縁のないものだと言えるでしょうか。
「自分は正しいことができているし、悪がつきまとってなどいない、人からもたいてい好かれている。生き生きと毎日生きている… 」などと思う人もいると思われます。
しかし、そうした人であっても自分に敵対する人のために心から愛の心をもって対することができるだろうか。非行少年やわるい道に落ち込んだ人、自分の子供や家族にひどい害悪を与えたような人を好意をもって見つめることができるだろうか。
また、日本では食物を贅沢に食べ散らしているが、現在も飢えて死に瀕している世界の無数の人が目の前に置かれるとしたら、そうした生活の不正はすぐに感じられると思います。
あるいは、会社や職場で、正しいことが行われていないのを知って果たしてそれをはっきりとその悪を止めるように言えるだろうか。
こうしたことはきりがないほどあります。このように考えればすぐにわかるように、人間の正しさとか自然の愛などというものは、影のようなもので、実態がなく、不正や冷たさで満ちているのです。こうした状況をキリストやキリストの霊を受けた人たちは何人にも増して鋭く見抜いていました。だからこそ、人間の自然な状態は死にたとえられているのです。
…死はすべての人に及んだ。すべての人が罪を犯したからである。(ローマ五・12より)
…自分自身を死者のなかから生き返った者として神にささげ…(同六・13より)
あなた方は以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのである。(エペソ信徒への手紙二・1)
このように死んでいた自分を救い出し、憐れんで下さって新しい命に生きるようにして下さったというのが、本当のキリスト者たちの共通の実感だと言えます。それは教えられてわかることでなく、そのように魂の深いところで感じることなのです。このようにして、肉体の死後の復活ということが、すでに地上に生きている間からその前味ともいうべきかたちで体得させて下さっています。
こうしたきわめて重要な意味を持っているからこそ、使徒パウロは、キリストが私たちの罪のために十字架で死んで下さったことと共に、復活を最も大切なこととして伝えたと言っているのです。(Ⅰコリント十五・3~4)
復活には「信仰と希望と愛」が固く結びついています。
信仰というのは、まずこのことは信じることから深い意味が示されていくことで、目で見てから受け入れるということではいつまで経ってもわからないままになるということです。
そして希望というのは、復活があるからこそ、どんな事態になっても私たちは希望を持ち続けることができるのです。死んでも終わりでなく、死とともに完全な復活へと変えられると信じることができます。
さらに、愛というのは、死ですらも私たちを呑み込んでしまわないようにして下さったということであり、それは、神の私たちに対する深い愛の表れなのです。
復活は、信仰と希望と愛という最も重要な三つのことの結晶だと言えます。
こころのうた
詩とは心に吹いてきた霊の風、あるいは心からあふれる水を言葉にしたもの。キリスト者の詩は神の国からの風をいわば他の人にも聞こえる音にしたものと言えます。ここには、私たちの徳島聖書キリスト集会に参加している方二名の詩をあげて短いコメントを付けました。そのうち、貝出さんの詩はここに収めたのとは別の詩が無教会の全国集会において、自作の詩と曲を歌って参加者の心に残されたこともありました。伊丹さんの詩は、「美研インターナショナル社」から発売された単行本に収められたものです。(なお、○を付けた短いコメントは編者吉村のものです。)
時 貝出 久美子
祈っても
祈っても
全く変わらないと
思えるときでも
静かに
静かに
神様の時は
満ちている
○神は私たちの考えや祈りを超えて、その御計画をなされている、これは私たちのキリスト教信仰の根本にあるべきことです。隣人を愛せよ、真実であれ、といった人間にかかわる教えだけがキリスト教でなく、宇宙全体を御支配なさっている神が、その大きな御計画をはるかな昔から現在にいたり、はるかな未来に向けて、大いなる計画を実現していくその過程なのだと信じることも、キリスト教信仰の重要な部分といえます。
野に咲く花は
野に咲く花は
ひとすじに
神の御旨を聴きて咲く
赤と聴けば主のために
白と聴けば主にならい
聖なる清らかな白に咲く
青と聴いた花たちは
天を仰いで祈りつつ
空ほど深い青に咲く
(詩集 「灯火のひとしずく」より)
○自然のたたずまいが私たちの心を惹くのはそれが神の御心のままに生き、また、御心のままになされているからです。神の真実や美しさ、清さ、力などが直接的に反映されているのが山や渓谷、大海原やその波、また野草や樹木などです。小鳥や犬、ネコのような動物もそれらの純真さのゆえにしばしば人間以上に私たちの心を慰めることがあるのも同様です。
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新しい歌 伊丹 悦子
私は主に歌を歌います。
主が私を豊かにあしらわれたゆえ。(詩編一三・6)
心の絃よ
鳴れ
あたなの
指が触れたから
傷んだままで錆びついて
死のうとしていた
わたしの心のの竪琴よ
久しく歌うことのなかった絃よ
鳴れ
しずかにそっと
あなたのみ手が触れたから
ふるえて鳴って行け あなたの後を
そして歌え 新しい歌を
あなたへのほめ歌を
そのもろもろの
くすしきみわざを
(詩集「いつかの空」より)
○自然の世界もそれ自体がしばしば竪琴となって、その音楽を響かせています。風の音、波、小鳥、風にそよぐ木々の音など。さらに星の光、雲の動き、青く澄んだ大空なども沈黙でありながら、そこに天の国の竪琴を響かせているのです。私たちの心もまた、神の御手が触れるとき、ひとつの竪琴となります。古びてしまい音の出なくなったのもあり、また弦が切れてしまったのもあり、あるいはもうかすかな音、響きの濁ったものしか出なくなったのもあるように思います。
主よ、私たち一人一人の魂に触れて下さって、私たちの心がみんな天の国の音楽を奏でる竪琴とならせたまえ!
聖書における「仕える」意味
キリスト教では、人間関係の本当のあり方をどのように記しているのだろうか。それは聖書によって知ることができる。
それはよく知られた「あなたの隣人を愛せよ」という一言に尽きると言えよう。しかし、ここで言われる「愛する」ということは、私たちが日常よくドラマや、会話、あるいは歌とか小説などで耳にする「愛」とは本質的な点で異なっている。
世間で話題になる愛とは、たいてい男女の恋愛のようなものか、親子愛、あるいは友情や自分の好意のもてる相手への気持ちなど、これらに共通しているのは、自分の心に合う相手への自然な感情を指している。だから自分を見下す者とか、差別や敵対する者への愛などはあり得ないということになる。
しかし、キリスト教での愛とはそうしたもともと人間に備わっている感情としての愛でなく、相手に最もよきものを提供する心を指している。だからそのような心は相手を選ばない。自分に好意をもってくれる人にも、また優れた人にもそうした愛は生じる。それはそのようなよき人がさらに善いものを与えられるようにとの心だからである。
さらに、そうした相手に最善のものが与えられるようにとの心は、自分によくないことをする人、間違った道に落ち込んだ人、あるいは敵対してくるような人にも働いてその人に善きものが与えられるようにとの祈りの心となる。
このような心によって人間に対することが愛であり、それを言い換えれば「仕える」ということなのである。
この点ではっきりとした意味がつぎの箇所でうかがえる。それはキリストは何のためにこの地上に来られたのかについての主ご自身の言葉である。
人の子(イエス)がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。(マルコ福音書十・45)
このように述べて、キリストの地上の使命は、人々に仕えるためであったと言われている。
しかし、 仕えるために主イエスは来られたといっても人間の言うままに何でもするというのでは決してなかった。かえって必要なときには人々の過ちや罪を厳しく指摘し、それゆえに激しく憎まれたほどであったし、弟子たちにも神の道に反する思いにははっきりと指摘して叱ったこともある。
こうした言葉の使い方から見てわかるのは、この箇所で使われている「仕える」という言葉は、神の愛の表れそのものだということである。
新約聖書で「仕えよ」と言われるときは、最も大切なものを相手に与えるという意味がこめられている。
例えば、主イエスにとっても重要なものはその命であった。それゆえに人間に仕えるために、来られた主イエスは自らの命を十字架にて捧げられたのである。
このように、聖書においては、仕えることと、愛することとが深いところで同一の内容を持っているのである。キリストが私たちのために死んで下さったことは、「仕える」ためであると言われるとともに、つぎのように私たちへの愛のゆえだと言われるのもこうした同一性がわかる。
…しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。(ローマの信徒への手紙五・8)
以上のような「仕える」という意味を知った上で初めて、人間関係の最も基本的なものといえる夫婦の関係について、聖書では次ぎのように言われている理由がわかる。
…キリストに対するおそれをもって互いに仕え合いなさい。
妻たちよ、主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。…夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためご自分を与えたように、妻を愛しなさい。(エペソ信徒への手紙五・21~25より)
人間関係についての基本的な心がまえをパウロはここにあげたエペソ信徒への手紙やコロサイの信徒への手紙などでも具体的に述べている。
まず、社会の最も根本にある夫婦の関係についてである。ここでは、妻に対しては夫に「仕える」ということ、それから、夫に対しては、妻を「愛する」ということが言われている。
しかし、「仕える」というとなにかマイナスのイメージしかないのが現代の状況だといえよう。仕えるということからは、自由がない、いやなことをさせられる、喜びもない、よいことがないというようなことを連想する。しかし、キリスト教において、仕えるということは、決してそのようなマイナスの内容でないのはすでに述べてきたとおりである。
そのことを考えるときに、不可欠であるのが、主イエスのことである。主イエスは、最後の夕食のときに、まず何をされただろうか。それは意外なことに、弟子たちの足を洗うことであった。足を洗うということは、当時は奴隷のする卑しい仕事ということになっていた。それは足は汚れている大地に触れるものであるが、その大地とは死人がいたり、偶像崇拝をする人たちの歩いたところであり、そのようなけがれた大地を直接に触れる足を洗うことは、一番身分の低い者がする仕事とされていたからである。
しかし、そうした奴隷がするようなことをあえて主イエスが最後の夕食をとる直前になさろうとしたから、ペテロはとても驚いた。「私の足など決して洗わないで下さい!」と強い調子で言ったのはそうした意味からであった。しかし、主イエスはもし私が足を洗わなければ、ペテロはイエスとは何の関わりもなくなると、言われた。それは、足を洗うということは汚れ、罪を清めるということであり、もし主イエスが私たちの罪の汚れを洗わないなら、私たちは汚れたままで滅んでしまうということなのである。
こうしたことは、私たちのふつうの人間関係についてもいえる。もし私たちが、自分の利益ばかり考えて行動していたら誰とも深い関わりはできない。相手に対して最もよいことを提供しようと思って行動してはじめて相手との関わりが生れる。真実な深い人間関係は、相手に対して主イエスがなさったように、本当に必要なこと、よいことをなそうとしないかぎり、生れない。相手から利益を得ることだけを考えると人間関係を分断させてしまう。主イエスが十字架にかかってまで私たちの罪の清めのために苦しまれたことは、仕えるということの究極的な姿なのであった。ここでパウロが言っているように、人間になにかをする場合でも、主に仕えるような心で行うことが、祝福の基となる。そのような心を主は見られているからであり、それは主が必ず祝福されるからである。
このように考えてみると、主イエスが言われているような意味において「仕える」ということは、古い道徳などでなく、自分自身のためにも相手のためにも、要するに人間関係において不可欠なこと、最も重要な姿勢であることに気付く。
教育基本法の改定のこと
最近、憲法と教育基本法の改定がよく議論に上るようになった。これは多くの内容を含んでいるが、ここでは、とくに戦前の教育の基本になっていた教育勅語と現在の教育基本法の精神の違い、なぜ、どのようなところを変えようとしているのか、それがなぜ問題なのかを考えてみたい。
教育によって日本人の考え方を変えようというのは、明治以来つねに政府が力を入れてきたところである。実際、戦前は教育勅語という教育の基本方針を作っていた。その教育勅語の冒頭の部分はつぎのように記されている。
朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克く孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々ソノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体の精華ニシテ教育の淵源亦実ニ此処ニ存ス…
このような文は現在の多くの人にとっては、意味不明になっていると思われる。これは要するに、教育の淵源(根本)は、天照大神ら神々や歴代天皇によってつくられた日本独自の国柄、あるいは国の成り立ち(「国体」)にある。それがあるから日本人は忠孝に励むなどの美点を持っているのだなどと言おうとしている。
教育の源が歴代の天皇にあり、という考え方から当然のことであるが、天皇が現人神として人間以上の存在として崇められた。しかし、現実には天皇といっても、ただの人間であり、歴史のなかを見ても、戦争などで人を殺すなどさまざまの悪をなしたことが記されている。(*)
それゆえ、教育勅語のはじめの部分にある、「皇祖皇宗(こうそ・こうそう)」というのが、天皇の誰を指すのかという議論がいろいろとあって、皇祖というのは、天照大神であるとしても、皇宗とはどの天皇を指しているのかがはっきりしないままに、これが絶対的なもの、永遠的なものとして唱えられてきた。
(*)例えば、有名な大化の改新とは、中大兄皇子(後の天智天皇)が蘇我蝦夷・入鹿の親子を殺して政権を握ったのであるし、十三世紀後半の亀山法皇が伏見天皇の暗殺をはかったりして、大きな混乱が生じて後の持明院統と大覚寺統の皇位争いのもとになったこともあり、またその後の南北朝の天皇をもとにした政権の争いは六十年も続いた。それは北は陸奥から、南は九州にまで及んだ大戦争となり、京都や近畿一帯で戦乱が行われたところでは寺院などだけでなく、何万もの民家も焼かれ、作物も荒廃した。双方の軍による略奪もひどく、白骨や死体が重なるといった状況を呈した。
これに対して、現在の教育基本法は、次のような内容がその冒頭にある。
我等は個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にして、しかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
これが教育基本法の精神となっている。明治の教育勅語の精神と大きく異なるのは、個人の尊厳を重んじること、真理と平和を願いもとめる人間ということが掲げられていることである。
これは、日本が引き起こしてアジアにも数千万の犠牲者を生み出した太平洋戦争への強い反省から生れているのはすぐに理解できる。
戦前の教育勅語では、天皇中心であり、天皇が父親となった国家が第一に重要なのだという考えがあった。そのために、個人の価値の尊いことなどは粉砕されてしまうことも生じた。それが戦争である。
また、教育の根源は天皇中心の国体(国のかたち)にあるということから、学問もその国体のためだとされた。
「わが国のあらゆる学問は、その究極を国体に見いだすと共に、皇運の扶翼をもってその任務とする。…今日の学問においては知らず識らずの間にこの中心を見失うおそれなしとしない。明治天皇の五カ条のご誓文のなかに、
智識ヲ世界ニ求メ 大イニ皇基ヲ振起スヘシ
と仰せられているのであって、如何なる学問に従事するものも、常に思をこの根本の目的に致し…」(「國体の本義」118~119頁)
明治政府は国民を強力に支配する方法としてこのように、天皇を前面に持ち出すことにしたのである。それは現在ですらも一部に残っていて、君が代の強制や公務員などに対してなされている元号(*)の事実上の強制などがそれである。
またさき程引用した文のあとには、教育に関してつぎのような文が続く。
わが国の教育も、また一(いつ)(**)に国体に基づき、国体の顕現を中心とし、肇国(ちょうこく)(***)以来の道にその淵源を有すべきことは、学問の場合と全く同じである。
わが国の教育は明治天皇が「教育ニ関スル勅語」に訓へ給うた如く、一に我が國体に則り、肇國の御精神を奉戴して、皇運を扶翼するをその精神とする。(同121頁)
(*)明治、大正、昭和、平成といった一世一元制の元号は天皇を現人神であることを国民の意識のなかに浸透させる目的で、明治になって考え出されたものであって、個人の名前を時間の単位としたのは、世界に例のないものである。
(**)ひとえに、専ら、全く
(***)国のはじめ
このように、学問も教育も天皇や皇室中心の体制をよくすることが究極的な目的とされ、そのような天皇中心の体制こそが教育の根源なのだとされていたのである。
ここには何かが中心になければ人間を引っ張っていくことができないために、天皇を持ち出したのであった。人間では絶対的な力に乏しいゆえに、生きている神(現人神
あらひとがみ)だという説明を作り上げてしまったのである。
こうした単なる神話、人間が造り出した物語を根拠として国の教育や学問、そして国家の方針までそれに従ってやっていくということは、そもそも無理なことであった。
砂のうえに建てた家のようなものだといえる。
事実そうした人間の作り事を基とした国家計画は挫折したが、単に国家の体制が壊れたというにとどまらず、おびただしい犠牲者が出る戦争を引き起こしていったのであった。
このような挫折から、新しい憲法やそれに基づいて教育の基本になる法律が作られた。それゆえ、平和を願い、個人の大切さを前面にだしたのである。
明治憲法のもとでは個人は大切なものとされず、国家というもののために個人がどのようにでも犠牲として使われるという体制であったからである。
それがはじめにあげたように教育基本法の精神をあらわす前文となっているし、さらに第一条に次のように記されて、重ねて強調されているのがわかる。
(前文より)我等は個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期する…
第一条(教育の目的)
教育は、人格の完成を目指し、平和的な国家及び社会の形成者として真理と正義を愛し、個人の尊厳をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神にみちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われねばならない。
日本がたどってきた戦前の道を考えるとき、こうした平和を重んじ、真理と正義を愛することを前面にだすべきことは当然なことであったし、天皇を現人神とする国家宗教が教育をも支配し、国を破滅に追い込むことになったことから、特定の宗教的なものを教えないということにもなったのであった。
このような考えから生れた教育基本法は、憲法の第九条の平和主義と密接な関係にあるのは直ちにわかる。
そして現在の自民党などが憲法とともに教育基本法を変えようとしているのは、太平洋戦争という大きな犠牲をはらって学んだはずのことをかなぐり捨てて再び、間違った道を歩もうとしている表れである。
教育基本法を変えようとする人たちは、日本の伝統や文化を重んじるように仕向けるということを繰り返し言っている。しかし、真理や正義以上に、日本の伝統や文化を重んじることによって何が生じたかは、戦前の状態がよく示している。日本の伝統や文化の代表的なものが天皇制だという主張はしばしばなされる。
日本には教育や人間のあり方の基本的なものがない。それゆえに、戦前は天皇というただの人間を現人神にまで持ち上げ、その天皇を教育の淵源であり、目的であるとして、国民を無理やりそのような偶像に結びつけていくというまちがいを犯してきた。
そして現在、ふたたび教育の場において、「君が代」のような天皇を祝う歌を強制していくということで、戦前と似たような状況を一部に作り出そうとしている。
また、武力を大きくして、敵を憎み、戦争をして弱い国を従えるということは、日本だけでなく、どこの国にもあるもので、いわば伝統である。それは自然のままの人間にきざまれた本性のようなものである。
しかし、こうした人間の罪深い本性であり、伝統ともいうべき傾向にまったく異なるあり方を指し示したのが、キリストであった。それゆえに人間の古い伝統的なあり方とは鋭く対立し、ついにキリストは十字架に付けられたのであったし、それ以後の歴史においても同様で、つねにキリスト教が初めて入っていくときには迫害が行われてきた。そして現代でも、キリスト教に属する発想はつねにこの世から好まれず排斥されようとしている。憲法の平和主義や教育基本法のなかに見られるキリスト教的な平和主義や真理をまず第一に置こうとする考え方を退けようとしているのが、現在の教育基本法の改定のうちにも見られる考えなのである。
日本の伝統や文化を真理以上に重んじていた戦前はどうなったのか、を考えて私たちは主イエスが言われたように、まず伝統とかでなく、まず神の国と神の義を第一とすることこそあらゆる場での目標となるべきなのである。
南アフリカからの二人の参加者の言葉
一年あまり前より、南アフリカ(*)からの参加者が短い期間でしたが共に礼拝集会に参加することができました。一人は、シポさん(男性)、もう一人は今年になってですが、メギさん(女性)の方です。いずれも鳴門教育大学への留学生でキリスト者の方でした。
そのお二人が、私たちの集会宛にお別れの言葉を書いて下さったので、ここにその訳文と原文を掲載します。南アフリカの黒人のキリスト者の方がどんなに感じられたのかに少しでも直接に触れて頂いてキリストにある人たちのひろがりとその共通性に少しでも触れて頂きたいと思うからです。
思いもよらない、地球の反対側にある国、南アフリカの黒人のキリスト者とこのように、ともに私たちのキリスト集会で礼拝を捧げることができるという恵みを頂いたことは、まことに神の計らいであったと感じます。いままではもちろんつながりは全くなく、私たちの多くの人とって南アフリカといっても、金やダイヤモンドの産地であるとか、アフリカの先端の国だとかいうおぼろげなイメージしかなかったし、現実的なイメージが湧かないはるかな遠い国に過ぎなかったのです。
しかし、お二人の参加によって、南アフリカという国が身近に感じられるようになりました。
(*)人口は約四三〇〇万人内訳は黒人(77%)、白人(11%)、カラード(混血)(9%)、インド系(3%)。 宗教は約八割の人がキリスト教。あとは、ヒンズー教、イスラム教、他
私が日本に来た最初の年は、(自分が参加できるような適切な)教会を強く願い続けた年でした。
私はこの教会(徳島聖書キリスト集会)に参加し始めてから、自分自身のなかに平安を感じるようになりました。
吉村先生が用いる教え方やその方法によって私はこれは、キリストの教会だということに気付いたのです。
神が吉村先生を祝福して、この教会がより賢明に啓発されますように。(光を与えられますように、導かれますように)
日曜日の礼拝のあとの説教(聖書講話)の後の短い英語による要約は非常に驚くべきものでした。私は、聖書講話の内容をすべて理解するために、時々日本人でありたいと願ったものでした。私は、日本語の聖書講話の内容のようには十分に得ていないことを感じました。
この教会(徳島聖書キリスト集会)のキリスト者たちの態度は皆同じように思えました。この集会の人たちは私に対してきわめて親切で、私への愛に満ちたものでした。
(この徳島において、私が)キリスト者としての生活を送ることができて感謝です。
私にして頂いたような親切を他の人たちにも続けて下さい。
この集会の特質はつぎのような点です。
1)聖書講話(教え)が、光を与えるものであること。
2)吉村先生を通しての神が語りかける仕方。
3)このキリスト集会はあらゆる人のために開かれていること。私は、身体障害者のために払われている特別な配慮に感動しました。私の教会では、そのような強い関心が障害者に対しては向けられていないのです。
この三つのことによって私はいっそうこの集会を愛するようになりました。そしてさらに愛することを学んだのです。
神は私たちすべてを愛して下さっています。私はあなた方すべてを愛し、そしてあなた方と別れてしまうのを寂しく思います。
私の心のうちで、いつかあなた方と再び合うこと願っています。
さようなら、クリスチャンのみなさん。さようなら!
My first yesr in Japan had been longing for church.I came to peace with myself since I started to come to this church.
The teaching and the way Yoshimura sensee gives us made me realize that this is the church of Christ.
May God bless Yoshimura sensee to enlighten this church wisely more and more.
The short summaries at the end of the sermon were very amazing. I had to
admitt that sometimes I wished to be a Japanese in order to understand everything.
I felt I do not get more like the Japanese sermon.
The behaviour Christians of this church seems the same to me.This congregation were quite kind and loving to me.
Thanks for living the Christian life. Keep it up to others too.
Uniqueness of this congregation;
1)enlightment of the teachings.
2)The way God speaks through Yoshimura sensee.
3)This congregation for everybody. I was touched by the high attention given
to the physically challenged(disabled).
In my church such people are not yet given this much attention.
This 3 things made me fall in love with congregation more and more. Hence I learned
to love more and more.
God loves us all.I love you all and I shall miss you all.
In my heart I hope we shall meet someday.
So long fellow christians so long!
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(以下は、メギィさんからの言葉です。)
初めに、私の主であり、救い主であるイエス・キリストの素晴らしい名によって挨拶します。
あなたがたと共にいることは、わたしにとって、驚きに満ちたことであり、祝福に満ちたことでした。
わたしは本当に喜ばしく思いましたし、祝福され、感動しました。それは、あなたたちがわたしをキリスト者の友として受け入れて下さったその仕方によってなのです。
善き神様があなたがたを豊かに祝福し、あなたがたの手の働きを祝福して下さり、あなたがたが、出るときも入るときも祝福してくださいますように。
ありがとう。
メギ
Firstly, Greetings in the wonderful name of my Lord and Savior Jesus Christ.
It
has been wonderful and full of blessings for me to be with you. I really
enjoyed and I was blessed and touched by the way you welcome me as a fellow
christian.
May the Good God richly bless you and bless the works of your hands, bless
you
when you go out and in.
Lastly, As I will be going home, I will think of you and I will pray for
you. If it happens that we do not meet again in this world, I hope to see
you there where all the saints will be.
Thank you
Maggie
ことば
(177)人間の生きる正しい目的は、絶えず神の慈愛を受け、それを他に分かち与えるということでなければならない。…多くの苦難を経験して、最後にようやく本当の生きる目的を悟る人たちもいる。しかし、生涯の終わりになってもそのような自覚に至らない人は、一生を半ば、あるいは全く踏み誤ったことを嘆かねばならない。(ヒルティ著「眠れぬ夜のために・上 八月二八日の項より」)
・Die MenschlicheLeben,musseinbestandigesEmpfangen und wiederAusgebenderFreundlichkeitGottes. …(初めの部分の原文)
・人間の生き方といったことについては実にさまざまの生き方がある。しかしだれもが可能で、しかも最善の生き方はここにヒルティが述べているような生き方であって、それこそ聖書が一貫して述べていることである。神は万能であるとともに愛であるゆえ、私たちがその弱さのなかから真剣に求めさえすれば神はその愛を下さる。そしてそれを生活のなかで分かつことが日々の目標となるという。このような生き方は才能とか地位、財産の有無、または健康か病弱かに関係なくだれにでも開かれている。
(178)十字架
それから彼はしばらくの間じっと立って十字架を見つめ、そして驚いた。十字架を見たために、このように重荷から楽になろうとは実に驚くべきことであったからである。それで彼は何度も見ているうちに、ついに頭の中の泉から涙が湧き出て頬を伝わった。
彼が涙を流しながら十字架を見つめていると、見よ、三人の輝ける者が彼のところにやってきて、「平安あれ」と挨拶した。第一の者は彼に言った。「あなたの罪は赦された」。第二の者は彼のぼろの服を脱がせて着替えの衣を着せた。(「天路歴程」86頁 新教出版社刊 参考のために、英語の原文を添えておきます)
He stood still awhile to Iook and wonder,for it was very surprising to him that the sight of the cross should thus
ease him of his burden. He looked therefore, and looked again, even till
the springs that were in his head sent the waters down his cheeks.
Now as he stood looking and weeping, behold three Shining Ones came to
him and saluted him, with "Peace be to thee." So the first said
to him,"Thy sins be forgiven." (Mark 2:5) The second stripped him of his rags. and clothed him with change of raiment.
・人間にとって最も重荷となるのは何か、それは本人が気付いているかどうかに関わらず、赦されない罪こそその重荷のもとになっている。人間はふつうの動物とちがって何が正しいか、真実かを直感的に感じ取る能力を与えられている。それゆえ、自分や他人が正しくないと感じること、すなわち罪の意識ははっきりと分からなくとも奥深くに眠っているように存在し続けている。その罪の意識は隠れたまま、人間を苦しめ、重荷と感じさせ、心に晴々とした軽い心を与えないようになっていく。それが人間の根本問題だと感じるときに、それを逃れさせてくれるものこそ、最大のもので、それこそ罪の赦しなのであった。この天路歴程においても、その罪の赦しこそが中心に置かれているのがわかる。ただ、十字架を仰ぐだけで、赦しを受けて心は軽くなるという実に不思議な体験をこの著者も与えられて、それこそが人生の転機となった
(179)平和
二人または三人の間での平和からのみ、私たちが希望するような大きな平和が、将来成長することが可能なのである。
(ボンヘッファー「信じつつ祈りつつ」83頁 新教出版社)
・主イエスは、「二人三人が私の名によって集まるところには私はいる」と約束された。ここでボンヘッファーが言っていることは、主イエスこそ真の平和の源であり、主イエスがなされることによって本当の平和がもたらされるということを思い起こさせる。罪赦され、神との平和を与えられて初めてそこに永続的な平和の基礎が作られたことになる。
休憩室
○セントウソウとセリ科の花
野草はたいてい二月の終わりになってもまだほとんど花は咲かせないのですが、まだ寒いうちからまず咲き始める木や草花もあります。梅や水仙、ジンチョウゲなどは香りもよく、話題にされて有名ですが、まったく話題にもならないけれども、心惹かれるようなセリ科の花もあります。
それはセントウソウ(仙洞草)で、白い小さな花を咲かせます。春のセントウ(先頭)に咲くと覚えると記憶に残るという人もいます。これはセリ科のうちで最も小さいものに入ると思われますが、純白のごく小さい花はルーペでみると、その可憐な美に驚かされます。山のやや日陰のところにひっそりと咲いているので、ほとんど気付かない人も多いと思われます。しかし、この花は「山路来て何やらゆかし」という感じをもたらしてくれるものです。
セリは春の七草として有名だし、多くの人が食べた経験もあると思いますが、セリ科には、私の手元にある図鑑でも四十種類を超えています。このような多様なセリ科のなかで、最大のものは高さが一~三メートルほどにもなる、エゾニュウという植物です。これは、昨年北海道の礼文島を訪れたときに見たもので、人の背丈を超えた堂々とした姿となり、海に向かって広がる山の斜面のあちこちに咲いていました。それはたくさんの白い花をセリ科独特の線香花火のような放射状に咲かせます。
徳島の高山で剣山やその周辺の山でも、シシウドというやはり二メートルほどになる大型のセリ科の植物があり、夏の高山の目を楽しませてくれています。
大きいものも小さいものもそれぞれに独特の味わいをもって生きて、花を独自に咲かせる、そうした植物のすがたに接して神のなさり方の一端を学ぶ思いがします。
○春の星座
春になると、オリオン座も西に傾いていきますが、その代わり東からは、しし座や乙女座、牛かい座があらわれます。金星はまだ夕方の空に輝いて見えます。そして北斗七星は北空によく目立つ姿となってだれでも直ちに見つけられます。夜10時ころには、しし座の一等星であるレグルスがほぼ真南の高い空に見え、そのすぐ左側に特別に明るい星、木星が見えます。そして目を東に転じると、明るい二つの星が見つかります。青く強い光の星は、乙女座の一等星スピカで、表面温度は二万度、太陽が六千度ほどなので、はるかに高温で、そのために強い白色に輝いて見えます。その北寄りには、オレンジ色でやはり強い輝きの一等星、アルクトゥルスが見えます。これは牛かい座の一等星です。これがオレンジ色に見えるのは、表面温度が四千度あまりで低いからです。北斗七星の弓なりになっている星を伸ばすと、アルクトゥルス、スピカへと達します。こうした星座のごく基礎的な知識をもって夜空を見るとそれだけでも、星の世界により身近となり、それを創造された神の偉大さに心動かされます。
返舟だより
○この三月に、三人の外国からの参加者がそれぞれ自分の国に帰って行かれました。そのうち、中国の許 英美(*)さんは、鳴門教育大学への留学生として来日され、二〇〇一年一月七日に初めて参加されてから、三年二カ月の期間、私たちの徳島聖書キリスト集会に参加されました。
(*)日本語風に読んで、「きょ えいみ」さんと呼んでいたが、中国語では 許(xu)英(ying)美(mei) シゥ イン メイ と言う。
許 英美さんは、中国の瀋陽(昔の奉天)に在住ですが、コリアン系(朝鮮民族)の方でしたから、時々韓国語の祈りや讃美もしていただきました。また、とても積極的に私たちの集会員の方々とも交わりを持ち、
四国集会にも参加していただいて、英美さんの属している中国の教会でもよく歌われるという「鹿のように」(リビングプレイズ69番)を韓国語で讃美してもらったこともありました。
英美さんは、私たちの集会に参加し始めた頃から日本語はかなりよくできていて、日常的な会話はほとんど不自由なくできていたので、交わりも多くなされました。
また南アフリカやザンビアからの留学生を私たちの集会に紹介して連れてこられました。
そのうち、南アフリカからの二人が許 英美さんの紹介で私たちとの集会に関わりができ、日曜日の礼拝集会にも参加されるようになっていました。
その二人のうち、シポさん(Sipho Dlamini シポ・ドゥラミニィ)も、やはり鳴門教育大学への留学生としてこられた方で、帰国すると教育指導主事の仕事をすると言われていました。シポさんは、去年二〇〇三年一月十二日からの参加で、一年二カ月ほど、私たちの集会に参加されました。
メギさん(Maggie Maluleke メッギィ・マルレケ)は今年に入ってから参加しはじめた黒人女性の方で、やはり鳴門教育大学への留学生で、自然科学の教師をしているとのことでした。
徳島では、黒人の方に出会うことは稀であり、そうした中でお二人の参加は私たちの集会にも、遠い南アフリカからの不思議な空気を運んで下さったし、キリストの大きな御手の広がりを感じさせてくれました。
地球の反対側にあり、はるかに遠く、皮膚の色もまったくちがっていても、同じキリストを信じる兄弟姉妹としての交わりが与えられることは驚くべきことでした。
鳴門教育大学から、私たちの集会場までは二十キロ以上あり、交通も不便なので、車を持っていない留学生としては普通ならなかなか来ることはできないのですが、集会の姉妹たちが送り迎えの奉仕をして参加できたのでした。
南アフリカからの二人は、日本語が少ししかわからなかったので、会話は少ししかできなかった人が多かったのですが、お二人が参加されているだけで、いつもの集会とは違った雰囲気になっていたものでした。
また、主日礼拝での私(吉村)の聖書講話のあとで、その内容を私が要点をまとめて短く英語で話していました。それは、何もわからないまま帰るのでは、遠くから参加しているのに申し訳ない、しないよりはましだろうという程度の気持ちで話していたのですが、とてもその聖書講話の英語要約を熱心に聞いていただいて意外なほどでした。
鳴門にも、徳島までの途中にも合わせると七つほども教会があるけれども、遠い私たちのキリスト集会に参加されたことに、神の導きを思います。
帰国されても、その信仰がいっそう強められ、主に導かれて歩まれますようにと祈りをもってお別れ会を終わりました。
○私は聖書を日々読むと言うことがまだないので、皆さんの話、「はこ舟」や文集「野の花」等がすごく貴重なものになっています。時には幾度も読み返します。だから、少しでも多く、集まりに行ければと思います。
イラクやアフガンで、当たり前のように、毎日、殺戮があること、同時テロのように、さっきまで元気だった人が一瞬にしてなくなる光景、おそろしいガンなどの事を考えると、少しぐらい具合いが悪くても守られて生かされていることに感謝だし、最後に残るのは「信仰」なのだなと思います、まだ信仰の弱い私ですがもっと神さまのほうを見て行きたいと思います。
(四国の方よりの来信)