2004年4月 第519号・内容・もくじ

リストボタン野の花を見よ リストボタン苦しみの後に リストボタン祝福の源 リストボタンテロとの戦い
リストボタンことば リストボタン休憩室 リストボタン返舟だより



image002.gif野の花を見よ

主イエスは当時の人々のまちがった形式的宗教を根底からの改革を指し示したお方であった。社会的指導者に対しても遠慮なくそのまちがいを指摘した。そして祖国が真の神に立ち返らないことから、裁きが間近に迫っていることを見抜き、深き悲しみをもってそれを見つめた。主は、社会的、政治的にも深い洞察をもっておられた方である。
そのようなイエスが言われた有名な言葉がある。

…野の花がどのように育つのか、注意して見よ。
働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。(マタイ福音書六・2829

ソロモンとは、イエスより千年ほど昔の王で、英知においても優れていたが、神殿や宮殿を二十年もかけて築き、おびただしい富をもっていたことで知られている。さまざまの金銀の道具もゆたかに備えていた。
彼らの民族の歴史上でもかつてないほどの栄華を極めた王であっても、それは路傍の野草の一つにも及ばないと言われたのである。
野草を心して見るときには、どんなこの世の豪華なものよりもすばらしい美と驚くべき仕組みが見出せるというのである。
同様にもし、私たちが見る目をもっていたら、世の中で目立つ俳優、スポーツ、政治などの人々よりはるかにすぐれたものを、身近な人々、また小さき人々のなかに見ることができるであろうし、さまざまの出来事においても、その背後の神の導きを見るとき、そこにも驚くべき御手のわざを感じることができるであろう。

平和への道

現代の世界は、平和への道を見失っている。国連も、アメリカが始めたイラク戦争についてもリーダーシップをとることができなかった。アメリカもようやくみずからの過ちに気づき始めている。
日本も真の平和への道が六〇年前に明確に憲法第九条となって、示されたにもかかわらず、その道を見失いつつある。アメリカやイギリスはイラク戦争を始めた根拠に対して重大な疑いが国民の間にもだんだんと大きくなりつつある。そしてそれに同調したスペインは撤退することを決定した。
しかし、日本はそのまちがった方針で始めたイラク戦争を率先して同調したにもかかわらず、首相を支持する人が驚くほど多い。
これは日本の政府や国民が真の平和への道が分からなくなっていることをはっきりと示していると言えよう。

すでに今から二〇〇〇年も前に、主イエスはつぎのように言われた。
…エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。
しかし今は、それがお前には見えない。…」(ルカ福音書十九・4142より)こう言われて、エルサレムが敵によって激しい攻撃を受けて廃墟となることが預言された。そしてその預言通り、主イエスが十字架で処刑されてから、四〇年もたたない紀元七〇年にローマの将軍ティトスは、皇帝から全権を託されてエルサレムを攻撃し、神殿を炎上させ、当時の歴史家のヨセフスによれば、捕虜になった者は九万七〇〇〇人、ローマ軍の攻撃によって生じた死者は一一〇万人にも達したという。(ヨセフス著「ユダヤ戦記」第三巻192頁)こうしてエルサレムは徹底的な荒廃にさらされ、主イエスの預言が驚くばかりに成就したのであった。
このような滅びの原因は何か、それは主イエスの言葉によれば、「神の訪れるときを知らなかったから」である。それは、キリストが神の真理をもって、神の訪れとして来たのにそれを拒み、その真理を知ろうとしなかったからである。
現在の私たちにおいても、同様なことが言える。平和への道、それは太平洋戦争のおびただしい犠牲者によって、いかなる武力をも国際間の紛争を解決する手段としては用いないという原則である。それは遠く旧約聖書にすでに源流がある。(*)そして

主イエスによって確固とされた真理である。
日本の憲法の平和主義はその延長上に生み出されたものだと言えよう。
この平和への道を無視し、まちがった道に踏み込もうとしているのが現在の日本である。
私たちは聖書によって真の平和への道を証し続けなければならない。

*)見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る…
わたしはエフライムから戦車を
エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ
諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ
大河から地の果てにまで及ぶ。(旧約聖書・ゼカリヤ書九・910より)

このように、真の王とは、武力や豪華な外見をもって飾るのでなく、みすぼらしいロバに乗ってくるような謙遜なお方である。そしてそのような王によって、武力による戦いは終わり、真の平和がもたらされる。そしてその平和は世界に及ぶ。
この預言は、今から二五〇〇年ほども昔に言われたものであって、目に見える世界では、それに反することが続いているが、キリストによってたしかに霊的に成就されていきつつある。



image002.gif苦しみの後に (近畿地方のある方より送られた詩)

後ろを見ないで 前を見よ
自分を見ないで キリストを見よ
人を見ないで 造り主を見よ、と教えられて

なるほど 本当にそうだと
思い、けんめいにそうしようと
つとめているのだけれど 性懲りもなく
その反対を 繰り返しているわたし

果てしもない 私の愚かさ みにくさ
こんな私なのだから 死んでも当然と
思うのだけれど その先に
両手を広げて 待っていて下さる
キリストの姿が見えるのだ

骨の痛みに耐えがたい思いをしながら
十字架のキリストを思っている
十字架に釘づけられたキリストは、
手も足も全く動かすこともできず
息することもままならない

その苦しみの中で イエス様は
「罪を彼らに負わせないで下さい」と
父なる造り主に祈ったという
なんという大いなる愛であろう

しかし、私は手も足も動かすことができている
三度の食事も運んでもらっている…
その私がどうしてキリストの愛を拒むことが
できるだろうか。…
そう思う一方で、なにかにふれると
すぐ舞い上がり さまよい出る 浅はかな私
私のすべてを十字架につけ
「どうぞ あなたの御手で私をとらえ
離さないで下さい!」と祈るのみ。

○これは、四月中旬にある方からFAXで送られてきたものです。(一部省略)
脊椎の圧迫骨折で二カ月ほど入院されていたとのこと。その間のきびしい試練に耐えかねる思いであったが、そこから苦しむ者、重荷を負う者は私に来たれ、との主イエスの言葉のように、キリストへと心を向け、痛みに耐えながらキリストの十字架の苦しみと痛みを深く思ったようです。
十字架は、私たちの生き方の模範でもありますが、それ以上に私たちの魂の深いところで巣くっている罪を明るみに出し、その罪を赦して下さる象徴ともなりました。そしてさらに、私たちが苦しむときに思い浮かべることによって苦しみを耐える意志と力を与えられるというような、さまざまの意味において十字架が大切に思われています。
聖書の中にも、著しい苦しみに耐えがたく、神に日夜叫び続けている魂のすがたが記されているのがあります。長いので一部省略し、また一部表現をわかりやすくしてつぎに引用しておきます。

主よ、わたしを救ってくださる神よ、
昼は、助けを求めて叫び
夜も、祈り続けて御前にいます。
わたしの祈りが御もとに届きますように。
わたしの声に耳を傾けてください。
わたしの魂は苦しみを味わい尽くし、
死ぬばかり。…
あなたは私を、影に閉ざされた所、暗闇の地に捨ておかれる。…
あなたはわたしから
親しい者を遠ざけられた。…
苦しみに目は衰え
来る日も来る日も、主よ、あなたを呼び
あなたに向かって祈りの手をあげる。…
主よ、わたしはあなたに叫ぶ。
朝ごとに祈りを捧げる。
主よ、なぜわたしの魂を突き放し
なぜ御顔をわたしに隠しておられるのか。
わたしは若い時から苦しんで来た。
今は、死を待つばかり。…
主よ、あなたは、愛する者も友も
わたしから遠ざけてしまった。
今、わたしに近いのは暗闇だけ。…(詩編八十八編より)

こうした激しい苦しみと耐えられないほどの孤独が襲ってくることがある、それをこの詩は明らかに示しています。事実長い歴史のなかで、このような恐ろしい苦しみに打ち倒され死ぬばかりとなり、ついにいのちをも失った殉教者も数多くいます。
主イエスご自身が、十字架にかけられたとき、「主よ、主よ、なぜ私を捨てたのか!」と激しい叫びをあげられたことが二千年の間、人々の心に響いてきました。
神がおられても、また神は愛の神であってもなお、こうした苦しみが襲いかかることがある。そしてキリスト教の真理はそのような暗い谷間をも通って伝えられてきたのです。
それはこの真理がいかなる事態にも耐える力を与え、それに勝利していくということを実際に示すためでもあったようです。
そして地上ではついに得られなかった安住の地を、かなたの国、神の国に得たいという希望を持ち続けていく、力強い信仰と希望を与えられていったのです。
現代に生きる私たちもまた、それぞれが大きな重荷や苦しみに直面していくことはだれにも起こりうることです。
そしてそのときにこそ、こうした詩を書いた人の苦しみや、十字架の主イエスのになった重荷と苦しみの意味が深くわかり、同時に主イエスからの力をも受けることになるのです。



image002.gif祝福の源
    創世記に見るユダのすがた

旧約聖書にあらわれるユダとは、アブラハムの子孫の一人である。(*)ユダヤ人という名前のもとになった人物であり、キリストも十二弟子や使徒パウロもユダヤ人であった。そして彼らの行動や神から受けた言葉を書いた新約聖書は旧約聖書とともに全世界に広がっていった。そして全世界に今もその影響を及ぼし続けている。
そのユダというのはどのような人物であったのか、創世記を通して学んでみたい。

*)アブラハムの子がイサク、そのイサクの子がヤコブであり、そのヤコブの子供のうちの一人がユダである。キリストを裏切ったユダというのが知られているが、そのユダよりも千数百年昔の人物である。ユダという名は、聖書においては、ヤーダー(感謝する、讃美する)という語と関連があるとされ「主を讃美する」という意味と説明されている。(創世記二九・35

旧約聖書の巻頭の書、創世記におけるユダに関する最初の記述は、弟ヨセフが見た特別な夢に怒り、自分たちがあたかもヨセフにひざまずくような内容であったため、またヨセフの父親からも年寄り子ということで、特別に大事にされていたことから、強くねたむようになって、ほかの兄弟たちとともにヨセフをひどい目に合わせようとした。他の兄弟たちはヨセフを殺そうとしたが、「そんなことをしても何の得にもならない、外国人に売ろう」と提案し、通り掛かった外国人に売ってしまうことにしたのであった。(創世記三十七章)
このように、ユダの最初の記述は人間として何にも優れたところのない人間、ねたみゆえに弟をすら外国人に売ってしまうような人間として記されている。
つぎの記述は、彼の結婚と家庭についてである。ユダの子供は何人も生れた。長男の嫁はタマルという名であった。しかし、長男は罪のゆえに神に罰せられて死んだ。当時は長男が子供が生れないで死んだときには、次男と結婚して子供をつくり、長男の子として扱うということになっていたから、タマルは次男と結婚した。しかし次男は自分の子にならないのを知っていたので、子供が生れないようにした。そのような態度は神のご意志に背くことであったために、次男も亡くなった。こうしてタマルという女性は結婚した二人の夫に次々と死なれてしまった。
ユダは、自分の長男や次男もタマルと結婚したらつぎつぎと死んでしまったので、三男をタマルに与えるのを恐れた。内心は三男とは結婚させないつもりでいたのに、結婚させるようなことを言って、三男が成人するまでタマルには実家に帰っているようにと言った。
かなりの年月が経った。その間タマルはずっと三男と結婚して子供をつくることを待ち望んでいた。しかし義父であるユダはそのことを放置したままにしてあった。
そしてユダの妻が死んだとき、タマルは義父のユダが近くにやってくるのを知った。彼女は、妻を失った義父によって、子をもうけようとしたのである。
タマルは未亡人を示す着物を脱ぎ、ベールをかぶって身なりを変え、ヤコブを待ち受けた。三男が成人したのに、自分がその妻にしてもらえない、と分かっていたからである。
ユダは彼女を見て、顔を隠しているので娼婦だと思った。ユダは妻を亡くした後の淋しさからか、嫁のタマルだとは気付かず、タマルを求めて関係を持った。そのとき、タマルは、自分と関係を持つなら何を報酬としてくれるのかと求めた。ユダは、小羊をやろうといい、その保証としてタマルの求めるままに、自分の印章と杖を与えた。
ユダはそれを渡し、彼女の所に入った。彼女はこうして、ユダによって身ごもった。
数カ月経って、ユダは嫁のタマルが何者か男と関係をもって妊娠したということを知らされた。
ユダは激しく怒って言った。「あの女を引きずり出して、焼き殺してしまえ。」
ところが、引きずり出されようとしたとき、タマルは義父のユダに使いをやって言った。「わたしは、この品々の持ち主によって身ごもったのです。」彼女は続けて言った。「どうか、このひもの付いた印章とこの杖とが、どなたのものか、お調べください。」
ユダは調べて言った。「わたしよりも彼女の方が正しい。わたしが彼女を三男に与えなかったからだ。」(創世記三十八章より)

この章は、ほとんどの人にとって読んで心の休まるとか励まされると感じる箇所ではないだろうと思われる。ここに現れるのは、世継ぎという重要なことにおいて、結婚したのに人為的に子供をつくらないようにした次男、そして、やはり重要なことにおいて約束を破ったユダ、そのユダはさらに、道端で出会った女が娼婦だとおもって、その娼婦と交わった。これは非常に罪深いことである。
しかし、ここではタマルの真剣な、そして大胆な行動が特に目を引く。ここに書かれているようなことをすれば、彼女の希望通りにいかないことは十分にあり得ることであった。彼女は、もはや自分には夫が与えられないと知ったとき、じっと手をこまねいて悲しんだり、憎んだりしてはいなかった。普通ならこのいずれかになるだろう。
彼女は、全く異なる方法、だれもが考えることもしないようなことを考え出した。それは、神殿娼婦のようになってユダを誘い込むことであった。
タマルはもしも失敗したら、自分は焼殺される、または致命的な悪評がたって、生きていけなくなるのいずれかとなってしまう。万一そのようになってもタマルは構わないと考えたようである。
ユダは、嫁のタマルに、三男が成人するまで、自分の実家(両親のところ)に帰っていなさいと言って、三男が成人すればタマルをその妻にする予定を告げていたにもかかわらず、その約束を守らずに放置しておいた。タマルは、三男が成人するまでの何年もの間、待ち続けたが全く顧みられなかった。それでは自分はこのままくち果てていくしかないと思った。現代なら、言葉で抗議するであろうが、このような古代においては、出された嫁が義父に対して約束不履行だといって抗議することなどできないことであったと考えられる。
それゆえ、タマルはこのまま老齢化して、子供をつくれずに空しく死んでいき、神から託されたものを受け継ぐことなしに死んでしまうのか、それともすべてをかけて子供を得るために自分に与えられた機会を用いようとするのかの二者択一に迫られた。そしてタマルは後者を決断したのである。
こうした、必死の思いというのはかなえられる。この旧約聖書に記されていることは、三千数百年も昔のはるかな古代のことであり、タマルがとった手段そのものはもちろん現代にはとてもあてはまるものではない。しかし、なぜ聖書はこのような記事をあえて載せているのであろうか。
それは、タマルのように真剣にすべてをかけて求めるその心の激しさを、私たちに示しているのが感じられる。主イエスも、求めよ、さらば与えられる、と約束された。神の国を求める熱心が現代のキリスト者に最も求められていることである。
このタマルの例だけでなく、旧約聖書には、ラハブとハンナという二人の女性の例がある。いずれも今から三〇〇〇年以上昔の人であるが、その真剣な願いが主によって聞かれたのである。
ラハブは遊女であったが、神の僕であったヨシュアの率いるイスラエルの人たちが自分の町に入ってくることを知って、命がけで彼らを守ったのである。その町の人たちはすでに、モーセに率いられた人々が、彼らの信じる神の力によって、大国エジプトの軍の攻撃に対して、葦の海の水を干上がらせて軍を滅ぼし、民を導いたことなどを聞いて知っていた。
しかし、ヨシュアや彼とともに進んでくる民に敵対し、彼らの信じる唯一の神を信じようとしなかった。そのようなかたくなな民族のうちにあって不思議なことであるが、遊女という卑しめられた立場にあった一人の女が、ヨシュアやその人々の信じる神を信じたのであった。そして失敗すれば自分が殺されるという危険をも顧みず、神につく選択をしたのであった。そのことが、神の大いなる祝福を受けて、キリストの先祖の一人となったのである。
まず、神の国と神の義を求めよ、という主イエスの言葉は、そのように求めていくとき、どのような困難からも救い出される、死という最大の危険からも救われて永遠の命を与えられるということである。
そしてこのような唯一の神を見出すこと、その神への信仰は、だれもが予想できない人に与えられる、そこに人間の予想をはるかに超えた神のご計画があり、神の御手が働くということも暗示されている。
また、ラハブよりも後の時代に現れたハンナ(*)という女性も重要である。
当時は一夫多妻は許されていたときであり、ハンナの夫は、もう一人の妻を持っていた。その妻は子を生んで、ハンナを見下し、苦しめた。その苦しみと悲しみの中から、ハンナは神の宮に行ったときに、必死になって長時間心を集中して祈り続けた。子供を与えられるのなら、自分のものとせず、神に生涯を捧げる子供にしますと言って神に叫び続けたのである。
そばにいた祭司が酒に酔っているのかとまちがったほどであった。しかし彼女の思いのすべてを神への祈りに注いでいるその真剣さに祭司も彼女を祝福して、そこからハンナは子供を生むことになった。そしてその子供が偉大な預言者サムエルであった。彼の名前が、旧約聖書のサムエル記につけられている。そしてそのサムエルは、イスラエルの最初の王、サウルを王となすべく聖なる香油を注いだ。さらに、サウルが神から退けられた後、ダビデに香油を注いで王としての権威を与える人物となった。(サムエル記上十章、十五章)
このようにして、ハンナの悲しみの中からの真剣な祈りは後の歴史においてきわめて重要な人物を生み出していくのにつながっていったのである。
このように、この創世記のタマルやラハブ、そしてハンナという地位が高くもない、ただの女性がその命がけの決断や祈りによって、大いなることが起きるように神はなされた。タマルやラハブのことは、新約聖書の最初の書物である、マタイ福音書の冒頭にその名が記され、この女性たちの意義が歴史に刻まれていることを指し示している。
そしてこのような内容は、現代に生きる私たちにとっても暗示的である。
いかに地位もなく、また見下されている存在であり、とるに足らないと思われる者であっても、真実な祈りやただひとすじに神に求める心があるとき、神はそのような心を覚え、祝福してくださるということである。神の祝福には外見的な力、権力、富などは何の関わりもない。主イエスの、「貧しき者、悲しむ者は幸いだ!」という言葉の意味が、こうしたタマルやハンナの姿を見てもうかがえる。

*)ハンナとは、「恵む」または「憐れむ」という意味のヘブル語(ハーナン)から作られた人名。これにヤハウエという唯一の神の名の省略形(ヤーとかヨという語になる)が合わさると、ヨ・ハナン「ヤハウエは、恵み(憐れみ)である」という意味になる。ヨハネという名前はこのギリシャ語形。新約聖書に現れるキリストの弟子に、ヨハネがいたことで、世界的にこの名が広く用いられることになった。英語では、ジョン(John)、ドイツ語では、ヨハン(Johann)とかヨハンナ、ヨハンネス、フランス語では、ジャン(Jean)などという人名となって刻まれている。

タマルは命をかけた決断をしたがもしも、証拠となる印章を持っていなかったら、義父によって処刑されていたのであった。そのようなユダ自身、大きい罪を犯しているのがこの三十八章だけでもわかる。
しかし、彼は自分で、焼き殺せとまで命じた女が、自分よりも正しいと率直に認めたところに、救いがあった。多くの人の前で、自分が恥ずべきことをしたのが、さらけ出される。ふつうなら、自分はそんなことをしていないともみ消したり、あるいは、その印章は、自分が落としたのだとかいって罪を認めなかったら、ユダはのちに書かれたようには決してならなかったであろう。
犯した罪を認めること、それがきわめて重要であるということが、創世記のこうした記述のなかにも示されている。
ユダについては、つぎに現れる内容は、弟ヨセフとの関連である。
ヨセフがエジプトに売られていった後に、さまざまの不思議ないきさつを通り、神の守りと祝福によってエジプトの王に次ぐ総理大臣といったような高い地位につくことになった。そしてヤコブや子供たちは飢饉で苦しみ、そのためにカナン(今のパレスチナ地方)の地から
エジプトまで行って食物を購入に出た。そのときにかつて自分たちが売り渡して、父のヤコブは死んだと偽っていた弟のヨセフがエジプトの最高権力者となっているのを知らずに、出会った。そのとき、ヨセフは兄たちが昔のように兄弟を売り渡したりするような心を持っていないかどうか、正しい人間になっているかどうかを試すために、計画をたて、ヤコブの末っ子のベニヤミンを連れてくるようにと命じた。そうでなければ、再び会うことを許さないとして、カナンに帰した。
ヤコブの息子たちはエジプトから持ち帰った穀物を食べ尽くしたとき、どうしても再びエジプトに行って、穀物を購入しなければならなくなった。しかし、それには、ヨセフが命じたように、末っ子のベニヤミンを連れて行くのでなかったら、穀物を再び購入もできないのである。そのとき、ユダは父のヤコブが、非常に苦しみ悲しむのを見てこう言った。

あのベニヤミンのことは私が保証します。その責任を私に負わせて下さい。もし、あの子をお父さんのもとに連れ帰ることができなかったら、私が生涯その罪を負い続けます。

こう言って、父親を慰め、多くの兄弟がいたが自らが全責任を持つからと、ベニヤミンを連れてエジプトに出発することになった。
エジプトに着いて穀物を多く持って帰途についたが、思いがけずベニヤミンの袋のなかに、宰相ヨセフの使っている銀の杯が見つかり、盗みだと疑われた。ただちに引き返して尋問されることになった。
そのとき、兄弟たちの中からユダが深い悲しみをたたえて宰相のヨセフに言った。

「御主君に何と申し開きできましょう。今更どう言えば、わたしどもの身の証しを立てることができましょう。神が僕どもの罪を暴かれたのです。この上は、わたしどもも、杯が見つかった者と共に、御主君の奴隷になります。」(創世記四十四・16

この言葉のなかに、かつて自分たちが兄弟であるヨセフを殺そうとし、売り渡すことまでしたこと、そして父にはヨセフが野獣にかまれて死んだと偽って、おおきな悲しみを与えていたことなど、はるか昔の罪がよみがえり、その罪のゆえにこうした苦しみに会うのだと思い知らされたのである。
ここに、ユダの特質として、罪の認識が示されている。これはたしかに聖書の特徴であって、人間が真実であるかどうかは、自分の罪をどれほど自覚しそれを悔い改めようとしているかにかかっているとの見方が底流にある。
そしてヨセフは、さらに兄弟たちの心を試すために、他のものは帰り、ベニヤミンだけが奴隷となれと命じたのである。
このとき、再びユダは言った、
「…もしこの末っ子のベニヤミンを残して帰れば、父はこの子と深く結びついているから、あまりの衝撃に死んでしまうでしょう。それはわたしどもがそのように追いやったことになるのです。ですからどうかこのベニヤミンの代わりに、私を奴隷として残し、ほかの兄弟たちとベニヤミンを父のもとに帰らせて下さい。どうして私は父のもとに帰れましょうか。父に襲いかかる苦しみを見るに忍びないのです。」(四十四・3234より)

このように、ユダは全身全霊を注ぎだして宰相となっているヨセフに訴えた。自分が生涯奴隷となってもよい、その代わりどうかベニヤミンを帰らせ、父を苦しめないで下さいと、必死で願うユダの心には、かつての罪のためにこうなったのだと深く自覚している姿がある。
このように、罪を知り、深く悔い改めるという姿を、創世記ではとくに強調しているのがわかる。
ユダはもともとは最初に書いたように、兄弟を売り渡す計画に加わり、また、成人しても嫁のタマルのことで偽り、娼婦と交わるというような罪を犯した人物として描かれている。
それが、このように自らを犠牲として父を守り、父の最愛のベニヤミンをも守ろうとするように変化しているのには驚かされる。こうした深いところでの変化をもたらしたのは、彼の悔い改めにあったのである。
罪を知り、神に向き直ってその罪の赦しを求める心、それは過去のどのような罪をもぬぐうものであると言おうとしているのが分かる。
キリスト教の特質は新約聖書に入り、キリストが来られて完全に現れる。しかし、ここで見たような罪への悔い改めとそこに与えられる祝福ということは、すでに旧約聖書の最初の創世記からこのように記されているのである。
このようなユダの大きい変化があればこそ、創世記の終わりに近いところで、つぎのようにユダが特別に祝福された者といわれている。

ユダよ、あなたは兄弟たちにたたえられる。あなたの手は敵の首を押さえ
父の子たちはあなたを伏し拝む。
ユダは獅子の子。…
王権はユダから離れず
統治の杖は足の間から離れない。
ついに…、諸国の民は彼に従う。(創世記四九・810より)

これは、不思議な驚くべき預言である。これが言われたときから数百年も後に、実際にダビデ王がユダの子孫から現れることになって、多くの周辺の国々がダビデの王権に服することになった。
それだけではない。新約聖書にはこの箇所はキリストをも預言するものだと受け止められている。

ユダ部族から出た獅子、ダビデのひこばえ(*)が勝利を得た…(黙示録五・5

とあり、キリストのことをこの創世記の箇所で「獅子の子」と書かれてあるのを引用してある。

*)ひこばえとは、切った草木の根や株から出る新しい芽のことで、キリストはダビデの子孫であることを示す言葉。

そしてユダの子孫からキリストが生まれ、たしかにキリストは、王としての権威を持って、霊的に現在も支配されている。ユダというただの人間、大きなあやまちを犯し、罪深い人間であった者が、その罪を知って悔い改めるときには、大きな器として用いられることを示している。
今日の私たちにおいても、神の用いる器となること、それは自分の努力や生まれつきの能力とは異なる神の選びによるが、他方人間の側から見るなら、深い罪の認識とその悔い改めの心、赦しを感謝をもって深く受けとるところに祝福の源泉があると言えよう。



image002.gifテロとの戦い

アメリカの大統領や日本の首相が繰り返し口にする言葉は、テロとの戦いということだ。しかしそもそもテロとは何なのか。(*)個人が爆弾を抱えて人込みのなかにて爆発させるとテロといって、犯人と言われる。
しかし、アメリカの軍隊が攻撃して六〇〇人もの人々を死に至らせたらそれは軍事攻撃という。そして彼らを犯人とは言わない。
 こんな奇妙なことはない。テロとの戦いをする、テロをなくすると言いながら、その当事者が相手をはるかに上回るテロをやっているのだからである。
さらに、大規模な戦争となって、国家が大々的に敵国に爆弾を雨のように降らせ、ビルを爆破し、無数の人々を殺傷しても、軍事行動とかいったり、太平洋戦争のときの日本もそうであったように、そうした大規模なテロ行為を国中が喜んだりする。

*)テロとは何かについては、いろいろの定義や説明が行なわれてきた。
広辞苑では、テロを「暴力或いはその脅威に訴える傾向。暴力主義。」と説明している。
また、大日本百科全書では、次のように説明している。(部分的な抜粋、要約)
「強制の手段として恐怖もしくは暴力を系統的に用いる考え方ないし行動。フランス革命期のジャコバン派の恐怖支配(regime de la terreur)に由来するとされているが、テロリズムの実践は人類史上きわめて古い。
第二次世界大戦のとき、ユダヤ人が、ヒトラーによる命令のために、大量虐殺されたこともテロである。しかし、これら歴史上の例からもわかるように、権力を持つ側が、それに反対する人たちを弾圧するときに行なうテロがあるのに対して、逆に政府や権力者に対してその支配をくつがえそうとして行なうテロがある。テロリズムの語の意義はかならずしも一元的ではない。」
また、欧州連合(EU)は、テロを「一国または複数の国、そしてその機関や国民に対し、それらを威嚇し、国家の政治、経済、社会の構造を深刻に変容させる、あるいは破壊する目的をもって、個人または集団が故意にはたらく攻撃的行為」と定義している。
また、「人命または器物への脅威をもって、政治的意図を達成しようとする行為」と言うように定義されたりもする。
二〇〇一年九月十一日にアメリカの世界貿易センタービルが破壊されたとき、ブッシュ大統領は「これは戦争だ」と言って、その攻撃にはアフガニスタンという国家の後ろ楯があるとし、そこからアフガニスタン攻撃を正当化した。このように、九月十一日の事件の最初から、テロと戦争とは区別をつけることができないものであったのがうかがえる。
ここにあげたような定義に見られるように、政治的意図をもって他者の命を奪おうとするような行為がテロであるなら、戦争こそは、最大のテロである。
 テロとの戦いとはテロをなくするための戦いである。それなら、戦争という行為をなくすような働きこそ、テロとの戦いの最大のものとなってくる。
 憲法第九条の平和主義は、そうした観点から暴力、武力をもって他国の人間の命を奪うことを永久に放棄するということなのである。それは国家的テロである戦争行為から、どれほど多くの人命が失われ、それをはるかに上回る人々がからだを壊され、家庭も破壊されて苦しみ続けることになったか、そのことを深く受け止めたからこそ、日本人も制定当時、全面的に賛成したのであった。
 テロとの戦いと称して軍事力にまかせて相手を攻撃することによっては、テロを誘発しているのと同じである。事実、イラクでのテロが一層激しくなったのは、アメリカが自国の兵が殺されたということで、激しい攻撃をして六百人もの人々の命が奪われたからであった。
 テロとは暴力であり、武力であるから、それをなくするのには、武力や暴力を使っていてはなくなるはずがない。こんな当たり前のことが日本の首相や与党には分からないのである。
 今回の人質事件にしても、テロをなくすためには自衛隊とかの軍事力では役に立たないだけでなく、逆効果であるからあのように、個別に小さい働きながら地道にやっていこうとしたのであろう。
 テロに屈するとは、自衛隊を撤退させることでなく、憎しみを相手に持つことである。テロとは憎しみであり、テロに屈するとは憎しみという感情に屈して相手を憎むようになったとき、テロを一番深いところで押し進めている闇の力に屈してしまったことになる。
 テロに屈しないとは、あくまで相手を憎むことなく、従って暴力、武力で復讐しようとせずに話合いで解決しようとすることである。
 かつて、黒人差別の激しいとき、マルチン・ルーサー・キング牧師は、クー・クラックス・クランのような、激しいテロ集団の暴力による攻撃に対しても、決して相手に暴力で仕返すことをしないという方針で運動を続けた。
 そうした態度を堅持することこそが、テロに勝利することである。
 相手のテロに対して復讐すること自体、すでにテロに敗北しているということになる。
 こうした基本的なものの考え方は、すでに二千年も前に新約聖書に明確に記されている。
 むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。(ローマの信徒への手紙十二・2021

 テロという悪に勝つ唯一の道は、暴力や武力でなく、武力以外の善をもって、相手に対処していくことである。
 この非現実的と思われるようなことこそ、究極的な対処の道である。アメリカやそれに協力している三十カ国以上の国々はアメリカのまちがった武力による対処を応援するかたちとなったが、それによって一層イラクはテロという暴力が双方で横行する事態となってしまった。それは彼らの考えが間違っているということを示すものである。
 キリストは「私の国はこの世のものでない」と言われた。キリスト者の真の祖国は、使徒パウロも言ったように、日本でもアメリカでもなく、天の国である。その国から派遣されたかたちになっているキリスト者は、地上のまちがった方法でなく、いかに地上の人たちに受け入れられなくとも、最も賢明な天の国の方策をつねに指し示すことが求められている。



image002.gifことば

180)(キリスト者の)最悪の罪は祈らないことである。キリスト者のなかにも、だれの目にも明らかな罪、言動が一致していない状態を見ることはまことに意外なことであるが、これは祈らない結果であって、祈らないことへの罰である。…
祈りは食物と同様に、新鮮な力と健康の感覚をもたらす。人は飢え渇きを覚えて祈りへと駆り立てられ、祈りによって、戦いのために新たにされ、力が与えられる。精神もからだも常に活ける神を求め叫び続けている。(フォーサイス著(*)「祈りの精神」1315頁より)

・キリスト者は神を知った者、そしてその神はいっさいのよいことを持っておられるお方。とすればその神に祈り、求めることはごく自然で当然のことになる。
自分のうちなる汚れや罪を清める力もまた神が持っておられるし、神もそのことを願っておられるのだとしたら、その神に求めようともせず、自然のままの悪に心をゆだねていることはたしかに、キリスト者がなおも犯していく罪、悪の源だと言えよう。そこから不和や愛の欠如、正しい感覚がなくなること、この世の快楽や娯楽に負けることにもつながっていくといえよう。
祈りによって私たちはたしかに心が清められ、それによってからだも力づけられることをしばしば経験する。祈りがなければ心もよどんだままであり、人間的なものに惹かれやすくなる。
人間とは心身ともにその深いところで神に向かい、神からの力を受けようとしている存在と言える。
*)一八四八年イギリス生まれ。牧師、神学者。ここに引用した書は、一九一六年にイギリスで発行され、一九三三年に日本でも翻訳が出版されている。彼の記念碑には、彼の十字架信仰を記念して、「十字架によって光へ」(Per Crucem Ad Lucem)と記されているという

181)この世界におけるただ一切の善き事だけを報道して、悪だの、くだらぬ事柄には見むきもしないというような新聞なり、評論誌なりを、われわれは持つべきである。それを読めば、この世には一体どれほど多くの善事がなされており、特に最初は邪悪だったものが善に転じたり、善に仕えるようになるものがどれほど多いかも、はじめて分るであろう。
「神は、神を愛する者たちとともに働いて、万事を益となるようにして下さる」(ローマ人への手紙八の二八)。これこそ、正しく、しかも永続的な楽観主義である。このようなことを、われわれは生涯において、それが単なる「偶然」とは思われないほど、たびたび経験するものである。(ヒルティ著・眠れぬ夜のために下 四月二十日の項より )
・このような新聞とかはごく小さな規模のものでしか存在できないであろうが、キリスト教関係のさまざまの印刷物は本来はそのようなものを目指して作られ、発行されていると言えるだろう。このことは、また私たち一人一人が、たえず「善きこと、美しいこと」に目を留め、悪しきことに直面してもそこに神の御手が触れて、それが転じて善きになると信じること、そしてそのようにする神の御手を見つめていることの重要さを示している。
悪を見つめてばかりいたら私たち自身もいつのまにか悪に呑み込まれてしまい、染まっていくであろう。
すべてを転じて善きに変える神の御手を思っているなら、実際にそのように悪いことやよくないことが転じて善きに変えられていくのを見ることができる。またはそのようになることを信じて待つようになる。
聖書はそうした意味で、最善の書であり、聖書に書かれている人間の罪や悪も最終的には滅ぼされ、善きことに変えられていくことを克明に記してある書である。
そうした本当の楽観的な見方へと指し示すように、そしてつねに清いこと、良いこと、美しいことを発信する情報源として、青く澄んだ空、夜空の星の輝き、野草などはその単純な美しさを人間に向けている。

182)われらはこの世の旅路の途上で
  ただ休むように生まれてはいない。…
(この世的な)安らぎに心をだまされてはならない、
  この世での真の安らぎはただ一つ、
大いなる目標への確信にある。

願うのは、ただ勇者の力が与えられることだけです。
  地上では敵のさなかにあって
  困難な働きにおいて戦いをさせてください。
  天上の救われた人びとの家に行ってから、
  私は平和のナツメヤシの枝をかざしたい。(ヒルティ著 眠れぬ夜のために上 三月二十五日の項より。)

・人間はたえず娯楽などの安楽を求める。しかし、この地上ではそうした安楽に身をゆだねていたら滅びへと向かっていくであろう。私たちの安らぎは、信仰のうちにある。神の国に導かれているということ、神の国のためのはたらきに召されているという確信のうちに憩いがある。
私たちの願いは、それゆえに困難から逃れて安らぎを得ようとすることでなく、そうした困難に向かう力であり、この世の力と闘うことが私たちの地上のつとめなのである。
そしてそのような歩みのなかにこそ、主イエスが約束された、「主の平安」が与えられるし、さらに神を信じる者には必ず究極的な平和がある。それは地上の生活を終えて天の国に帰ったとき。そのときこそ「主の平和」を心かぎり喜ぼう。



image002.gif休憩室

○植物のすがたと人間
春は花や樹木、野草の季節です。だれもがそれらがいっせいに芽を出し、花を咲かせる姿に接します。それらは単に自分自身のために咲いているのでなく、また私たちの心の世界、精神の世界や霊的なことをも暗示するものです。
初々しい新緑のすがたは、私たちに常にいのちの世界を知らせてくれます。枯れたようになっていた木がめざましく芽を出して(*)、生き返ったような姿となるのです。それは復活のいのちを私たちに告げている姿でもあります。キリスト教で最も重要な復活ということを、春の樹木、野草たちは私たちに告げているし証ししていると言えます。
また、花を咲かせること、その後で実を結ぶことも聖書に出てきます。
…わたしは彼らのそむきをいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからである。わたしは…露のようになる。
彼はゆりのように花咲き、ポプラのように根を張り…(ホセア書十四・45

これは、私たちが罪を知り、悔い改めるとき、神の愛と恵みは露のように注がれ、それによって私たちは花咲き、根を張るようになる、ということです。人間がその内面において花のようになるためには、心の方向転換が基礎にあるということなのです。
花の後に実がなります。その実はよき影響を世界に及ぼすシンボルだと言われています。

…後になれば、ヤコブは根をはり、イスラエルは芽を出して花咲き、その実を全世界に満たす。(イザヤ書二十七・6

私たちも実をつけるとは、自分だけの幸福を求めるのでなく、神によって花開いたものは、他者にも何らかのよきものを提供できる存在と変えられるということです。
…荒野と、かわいた地とは楽しみ、さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、さかんに花咲き、かつ喜び楽しみ、かつ歌う。(イザヤ書三十五・12

ここでは、神の祝福を受けた魂は花を咲かせる、それは喜びの花であると言われています。しかも、砂漠に花咲くといわれているように、もともと何のうるおいもなかった荒れ果てたところであっても、ひとたび神のいのちの水を受けるときには、喜びの花を咲かせるというのです。花は、主にあっての喜びを象徴しているといえます。
以上のように、植物のすがた、花などはすべて霊の芽を開いて見るのなら、多くの霊的な暗示に満ちているのがわかるのです。

*)聖書にも、神が選んだ者の杖は枯れたものであったのに、御手が触れることによって「芽を出して、つぼみをつけ、花を咲かせて実をつけた」と記されています。 (民数記十七・2023

○いつくしみ深き

讃美歌のうちで最も多く歌われてきたのは、おそらく「いつくしみ深き」(讃美歌312番)でありましょう。それは日曜日ごとの礼拝や夜の家庭集会、あるいはキャンプとか聖書講習会、さらに結婚式や葬儀や記念会(死後1年目とかに行なわれる召された人を記念する会)などにも用いられます。厳粛な礼拝から野外の集会や葬儀、結婚と性格の異なる集会においても、すべて使うことができる讃美というのはそう多くありません。
それは、友となってくださる主イエス、罪赦してくださるイエスのことをだれの心に入るようなわかりやすい言葉とメロディーで歌っているからだとおもいます。
この曲は、「星の界(よ)」という題名で、一九一〇年四月、「中学唱歌」に発表されて以来、今日まで九〇年以上にわたって親しまれてきたものです。

月なき み空に きらめく光
ああその星影 希望のすがた
人智は果てなし 無窮の遠(おち)に
いざその星影 きわめも行かん

百年近く前の言葉なので、わかりにくいところもありますが、讃美歌で最も日本で親しまれている曲が、同時に星を歌った唱歌として広く歌われてきたのも、神の導きのひとつのような気がします。

○春の代表的な野草としては、ほかにいろいろ美しいものもありますが、高山や海岸などとか特殊なところでなく、まれにしかないものでもなく、生活している場の近くで見られるものとしては、やはりスミレがあげられると思います。
それゆえに、芭蕉も「山路来て なにやらゆかし すみれ草」と詠んだのであり、この句がとくに有名なのも、スミレそれ自体が多くの心を惹くものであり、その心をこの句が適切に表現していると受け止められてきたのだと思います。
最近では、スミレの見つかるような山路もだんだん少なくなり、スミレそのものもなかなか見つからなくなっています。
しかし、私たちの心がスミレを創造された神と結びつくとき、この世の生活が「山路」を歩むことであり、いかに問題が多いこの世であっても、そこに「なにやらゆかし」と感じるような出来事に出会うものです。
聖書のなかで、使徒パウロが、「つねに喜べ、感謝をせよ」と勧めているのも、こうした経験があるからだと思われます。



image002.gif返舟だより

○南アフリカに帰った、メギィ・マルレケさんから、メールが届きました。彼女は、お別れ会のときに、今後も私たち徳島聖書キリスト集会のことを覚えて祈りますと言われましたが、その後も私たちを覚え、祈りを続けておられることを書いてこられました。訳はなるべく日本語として普通の表現にしてあります。原文を添えてありますから、メギさんのニュアンスを汲み取ることができると思います。
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こんにちは、先生!
メギィです。私は、無事祖国に着き、私の家族たちも守られていてよき状態です。私は、先生と、奥さんと、集会全体のことを忘れてはいません。私はみなさん方の暖かい歓迎と、善意についてこちらで語ることを止めることができませんでした。
私は、私たちがどこかでなんらかの形で会うという感じがしています。でもそれがどこで、またどのようにしてなのかは分かりません。神だけが、私たちが再会するための適切な時をご存じです。
あなたの奥さんと集会の人たちに、よろしく伝えて下さい。そして、私が約束を今もなお守っていて、あなた方集会の人たちのために祈っていると伝えて下さい。
私はみなさんを愛しています。それは、みなさんが、私の皮膚の色に関わりなく、愛して下さったからです。
善き神が、あなた方と、あなた方の手のわざを豊かに祝福して下さいますように。そしてあなた方の健康を守って下さいますように。私はみなさんがとても私によくして下さったので、忘れることができません。言葉ではよく表せないのですが、あなた方は確かに私の人生にとってひとつの祝福となっています。

メギィ
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Hello Pastor!

Maggie desu, I arrived well and safely at home and my family is happy and fine. I did not forget about you, your wife and the whole congregation. I could not stop talking about your warm welcome and the goodness you showed us. I still have the feeling that we will meet somewhere somehow but I do not know where and how only God knows the right time for us.
Say hello to your wife and the church and tell them I am still keeping the promise, I am praying for the church and I love them all for you have shown your love regardless of my color.
May the good God richly bless you, the works of your hands and keep you in good health, I miss you people you have been so good to me I do not know how to explain it but it is true you are really a blessing in my life.

Maggie

○つぎは関東地方の方から、インタ−ネットで寄せられた感想です。

聖書における「仕える」意味…「はこ舟」を1回目読んだときはまだよくわからなかったです。テープ(*)が送られてきて、コロサイ書の箇所を聴いていたところ、この「仕える」意味について講話の中で解き明かしがありました。これを聴いて理解することが出来ました。もう一度はこ舟に帰って読んでみたところ、今度はよくわかりました。
 「仕える」とは、相手にとって最もよきものを提供する心。また憎しみの対象となってしまった人に対しても、その人に善きものが与えられるように祈ること。
ただ一時的な憎しみの対象に対してはすぐにこのような気持ちに切り替えることが出来るのですが、数十年の憎しみの対象に対してはなかなか簡単にはいきません。いくら頭でそう思おうとしても、心の隅に必ず黒い点があるのを私は否定することが出来ません。主よ、お赦し下さい。どうぞ少しずつでも結構ですから、私の中のこの黒い点を小さくして下さい。
 聖書は自分勝手に解釈してはいけないことを痛感しました。また、はこ舟とその月の講話は密接につながっているのだということが今年の元日礼拝以後やっとわかりました。

*)「テープ」とあるのは、私たちの日曜日の主日礼拝と火曜日夜の夕拝のテープを定期的に購入して聞いておられることを指しています。もう八年ほど前から、希望者には、日曜日と火曜日の礼拝テープを郵送しています。一カ月では、約8〜10本となり、その他に、綱野 悦子さんが主として視覚障害者のために作成している毎月一回発行の「アシュレー」というテープも希望される方もおられます。費用はテープを聞いたあと返送する場合と、送られてくるテープを購入する場合とに分かれます。返送するときには、送料として一カ月五百円、テープを購入する場合は、テープ代金と送料共で一カ月千五百円程度です。

○最近の世界及び国内の動きに目を向けるとき、魂の救いの重要性と共に、救いにあずかった者として歴史に責任を負わされているという意識を強く持たされます。
その意味で、先月号の「日露戦争百年」と今月の「教育基本法改定のこと」というメッセージは深く考えさせられました。(中部地方の方)

○年を寄せて、あまり聖書も簡単に読めなくなりましたが、吉村様の文章で若い頃に読んでいた箇所が頭によみがえってきて、親しみを覚えています。
そして全文を読み終わって、「休憩室」のところへ来ると、花とか小鳥などの何気ないありさまが心に満ちてきて喜ばしくなって参ります。
近頃の私は、ほとんど聞こえなくなって、どこへ行っても耳が一番辛い不自由さに、時々やり場のないのをどうすることもありません。でも、耐えていきます。私のためにお祈りお願いします。(四国の方)

・この方は、耳がだんだんと聞こえなくなり、今では、ほとんど聞こえないために、人間の交わりのなかに入っていくことが苦痛となり、老齢とも重なって一人でいなければならない状況のようです。テレビやラジオ、美しい音楽など一切を味わうことができないため、また人間との会話もできないため、心が沈みがちとなっています。一般の人は、人生の途中で耳が聞こえなくなるということが、どんなことか、ほとんど考えたこともない人が多いと思います。盲人は出歩くことや室内での動作などきわめて不便、不自由になりますが、人のなかに入っていきますと、目が見えないことを忘れるほどに自由に心おきなく話ができます。しかし、聴覚障害者は、人の中に入っていくことが著しい苦痛となるのです。
こうした孤独な戦いを日々背負わされている人にとって、ただ神とキリストだけは、心おきなく語り合える相手だと言えます。

○十年の歩み
この四月で、私が教員を退職して、み言葉を伝えるための働きのための生活を始めてからちょうど十年になります。この間、とくに徳島聖書キリスト集会に集う人たちから絶えざる祈りと支えをいただき、また県外においても、集会の有志が「福音の種まき会」というかたちで支えて下さるということもあり、また、この「はこ舟」誌の読者の方々も私の働きを覚え、祈りやはこ舟協力費という形でともに歩んで下さったことを思います。
日曜日ごとの集会、ほかの日の各地での家庭集会、県外での集会などそうしたいろいろの場でみ言葉を語ることが継続できたのは、ひとえに神の導き、そしてそうした多くの方々の祈りと支えによるものでした。
今後とも、このキリスト教の真理が伝えられ、かつて私もそうであったように、真の光がわからずに苦しみのさなかにある人たち、病や孤独にある人たちのところに、神の言葉がとどくよう、そして罪の赦しを与えられ、救いを実感することができますようにと願っています。
そしてそのために、いままでもそうであったように、共に福音のために歩んで下さいますようにと祈り、願っています。