20046月 第521号・内容・もくじ

リストボタン目には見えない

リストボタン神の言の学び

リストボタン神のわざ

リストボタン魂を燃やすもの

リストボタン成功と失敗

リストボタン一つになる目的

リストボタン伝道について

リストボタン自衛隊の多国籍軍への参加

リストボタンことば

リストボタン休憩室

リストボタン返舟だより



image002.gif目には見えない

美しい夕焼けがある。山にも清い風がふき、谷川にはこの世のものでないような音楽を奏でながら水が流れている。
また、所々には心惹かれる野草たちの群生がある。
しかし、そうしたすべてがみえても、その背後でそれらを創造し、支配されている神の御手は見えない。
それを見るのは心の目、霊の目であり、神によって新しく作られた心である。
自然は壊されるし、またその美しさも永続的ではない。しかし、その自然を支える神の御手は永遠である。

 


image002.gif神の言の学び

神のことばを学ぶ集まり、日曜日ごとの礼拝集会や家庭集会がある。そこでの目的は単に聖書の内容に関する知識の習得ではない。
その学びのとき、集まりにともにいて下さるキリストから目には見えないものを受けるためである。それは聖霊といわれる。聖霊は魂の平安を与え、また静かな神の国の喜びや力をも伴う。
それゆえ同じ讃美を歌い、同じようなことを学んでいるとしても、新しさを感じさせてくれる。
神の霊が働くとき、わずか一枚の葉であっても、一輪の野草の花であってもまたいつも目にする夕日の輝きや雲の流れであっても、そこに私たちは新鮮な何かを感じる。そして御国へと引き寄せられる。それらの自然もまた神の言葉によって創造されたものであり、聖霊が働くことによって神の言葉の持つ力の源へと招かれるのである。
神の言葉の学びについても、ギリシャ語などの聖書の原語あるいは歴史や地理などいかに多くの聖書知識を学んでも聖霊が働かないなら、かえって負担になることもある。神の見えない力が注がれ、聖霊の祝福があるとき、わずかの知識であってもみ言葉が力となり、光となる。

 


image002.gif神のわざ

この宇宙を創造し、いまも生きて働いておられる神が存在するかどうか、このことは人間にとって最大の問題である。
生きて働いている神とは、弱い者への愛に満ちた神であり、求める者に力と愛を注いで下さる神である。そして死の力や悪をも支配し、最終的に悪を滅ぼす力をもった神のことである。そのような神がいるか、それともいないのかによって、私たちの人生は全く違ってくる。
そのような神などいないと信じる人生はなんと味気ないことであろう。それは人間しかいないということであり、人間の愛や真実しかよいものはないということである。しかし、人間が持っている愛など、いかにもろくはかないことであろう。いかに真実そうにみえる人間もふとしたことからどんなに心のなかで不信実な思いを抱いたり、実際に不信実な言動をしてしまうことか。ことに、重い病気、死の近づく状況にあって一体人間に何ができるだろう。
そのようなことは、自分の心のなかを見つめるだけでわかる。人を愛するなどといっても、数知れない病人や苦しみのただなかにある人がいる。自分の周りにもいろいろといるが、もっと広くみれば日本のどこにでも、また世界では食べ物もないような飢えている人が何億人もいる。そのようなすべてに私たちが愛を抱くなど到底できないことである。
それどころか、苦しむ人や死に近い状況の人にそれがたった一人であっても、どれほどの心からの愛を抱いてなすことができるか、を考えても人間の愛の無力さを思い知らされる。
神がいないなら、人間はどんなに努力してもよいことをしてもみんな死に呑み込まれていくのであって、要するにすべては消えていき、空しい。
けれどももしすでに述べたような生ける神がおられるなら、それは全く異なってくる。万能でしかも愛に満ちた神がおられるなら、いかなる状況に陥っても私たちが心から神の助けを求めて叫ぶとき、必ず顧みて下さる、死がおそってきても死を超えた命をあたえて下さって、神のもとに導いて下さるのである。
神を信じられないという人は、よく周りの悪のはびこった状況をいう。こんなに世界に悪があるのにどうしてそんな神がいるのかと。神のわざなどどこにもないと言うのである。
たしかに私たちの周囲や新聞のニュースなど、目にみえる状況を見るだけではどこに神がいるのかと思う。
しかし、一度神を信じるとき、そのようなただなかにおいても、たしかに神は私たちの魂に近づき、私たちの心にほかでは与えられない平安を与えられ、支えられる。ことに私たちの弱さ、醜さなど私たちの罪への赦しを実感した者は神のわざを疑わなくなる。
神のわざは私たちが信じて、その方向に進めばますます明らかに示される。踏み出さない者にはいつまでも分からない。しかし、神を信じないなら、何かよいことをしても、心の奥では自分がしたのだという誇りのようなものが生じてしまう。そして他人の評価を求めてしまう。しかし、キリストを信じてキリストと結びついているとき、初めて私たちは自分の弱さを深く知っているために何かよいことができてもそれは神の助けによると実感するようになる。そのような主に結びついた心でなすとき初めて、神のわざが身近なところになされているのがわかってくる。

 


image002.gif魂を燃やすもの

この世ではいろいろの火が燃えている。それは競争心という炎であったり、金や名誉、権力欲であったりする。特定の相手への憎しみであるということもある。そうしたものが複雑に混ざり合ってこの世のさまざまの出来事が生じているし、大規模となると国家間の戦争という悲劇も生じる。
無数の人々が生活しているところに、爆弾を投下してそれによって人々がどんなに苦しまねばならないか、そんなことを一向に考えないほどに、戦争を推進したりするときにはいわば悪魔の火が政治家や軍人、そして国民にも燃えているのである。
先頃生じたわずか十一歳の女子児童が計画的に同級生の命を断つなどという考えられないようなこと、それもまた、そのような恐るべきことをしてしまった女の子の心のなかに、ある不気味な火が燃えていたからだといえよう。
そのような、闇の火も燃えているが、また、神の火もまたこの世にあって燃えている。
聖書にも人間を深いところで動かすものを「火」と見ている。
主イエスは次のようなことを言われた。

…わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。
(ルカ福音書十二・49
この言葉には二つの意味が重ね合わされていると考えられる。ほかの箇所を参照することで、主イエスが言おうとされていることが浮かび上がってくる。
それは、キリストの先がけとして来た、バプテスマのヨハネは、自分は水で洗礼を授けているが、キリストは「聖霊と火によって」洗礼を授けると預言した。たしかにキリストは火のような激しさをもって、真実なものと不真実なものを明らかにし、悪への裁きをされる御方である。別のところで、主イエスが、「私は剣を投げ込むために来た」という驚くべき言葉を出されている。それも「火を投げ込むために来た」というのと、通じるものがある。
しかし、他方では火とは、聖霊を表している。キリストが十字架で処刑されたのち、弟子たちがそれまでは自分たちも捕らわれることを恐れて、何をする気力もなくおびえていたのが、まったく新しい人間になって、力強くキリストのことを宣べ伝えるようになったのは、聖霊が注がれたからであった。その聖霊のことを、「炎のような舌」と記している。これは今月号の別の文に記したような意味があるが、聖霊とは火のごとくに燃えるもの、そして他へと燃え移っていくといえるような本質があると言おうとしているのである。
パウロが、「(神の)霊の火を消してはいけない。」(Ⅰテサロニケ五・19)と言っているのは、私たちが人間的な考えになったりするとき、神からの火を消すことになってしまうからである。
私たちの内に燃えるものがなかったら、生きていても何か空しいと感じるであろう。人間は動物と違って、目には見えない水によってうるおされ、また目には見えない火によって燃やされていなければならないのである。
私たちの内部に点火するのは誰か、それこそキリストである。
復活したキリストが、ある村へと急ぐ弟子たちのそばにいつのまにか静かに立って歩いていた。そのとき、弟子たちはそれが復活したイエスだとはとても分からなかった。不思議な力に押されるように彼らは共に歩んできた人を引き止めて、一緒に食事をした。その時、弟子たちの目が開けてイエスだと分かった。そしてこう語り合った。

…二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
(ルカ福音書二十四・32

この二人の弟子たちは、イエスが神の子と信じてずっと従ってきた。しかし、イエスは十字架にて無惨にも処刑されてしまった。そのため暗い表情で心は闇と悲しみで包まれて歩いていた。そこに復活したイエスが近づき、語りかけた。
弟子たちはまだそれがよみがえったイエスであるとは、分からなかった。しかし、彼らの心はイエスの語りかけを受けただけで、燃え始めた。イエスが近くにいて下さること、それが私たちの心に点火することになり、イエスの個人的な語りかけこそは、私たちの魂を燃えたたせる力を持っているのである。
私自身もかつてはさまざまの問題をかかえて、自分自身のことだけでなく、人間や将来の世界がどうなるのか、それにまったく希望がもてなくなって心は闇に閉ざされていた。
そのようなときに、キリストを知らされ、聖書の内容が初めてわかり始めた。それはまさに闇に点火されたのである。そしてそれまでどんなに人間同士で語り合っても決して満たされなかった心の奥深い部分がうるおされ、満たされて何かが燃え始めたのを感じた。そしてそれは数十年を経た現在も燃え続けている。

♪御恵みの高嶺に ついに登りたる身には
見渡すかぎり ただ 神の御栄えのみ

日々主イエスと歩み ややに御姿を映し
ただ神より来たる 愛に満たされつつ

心は燃ゆ 心は燃ゆ 御霊の火にて燃ゆ(新聖歌 411より)

 


image002.gif成功と失敗

私たちはよく成功したとか失敗だったという言葉を耳にする。
自分の思い通り、あるいはそれ以上にものごとが進んだときには、成功というし、自分の予想通りにならなかったときに失敗という。それは表面的な結果に基づいて言われることが多い。人々の評価や自分自身の気持ちをもとにしていうのである。
キリスト教の伝道においても、成功と失敗ということが言われる。たくさん人が集まったら成功だと思われている。たしかに、せっかくの特別集会をして、ほとんど人が来なかったら失敗だと思うのは簡単だ。
しかし、だからといって多く人が集まったらそれだけで成功とかいう言葉を使えるだろうか。新約聖書には、新共同訳、口語訳、新改訳など代表的な日本語訳のいずれにも「成功」という訳語が一度も使われていない。
だれでも、うまくいくか、結果が悪いかは大きい関心であるにもかかわらず、新約聖書の四〇〇頁にもなる文書ではそうした言葉が出てこないのは、新約聖書の著者は「成功」といった世間の人たちが最大の関心事とすることと全く異なる考え方を持っていたからである。
人間の計画や事業については、成功か失敗かということがいえるが、神の事業ならば、失敗というものはなく、すべてが神の御計画通りにすすんでおり、最終的には、次の聖書の言葉で記されているように、すべてはキリストのもとに一つにまとめられる。

…神はこの恵みを私たちの上にもあふれさせ、…秘められた計画をわたしたちに知らせて下さった。…
こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられる。 天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのである。(エペソ信徒への手紙一・910より)

私たちも信仰によってなすとき、それは神の事業と変えられる。たとえ悪人であっても、悔い改めて、信じるだけで正しい人間であると認めて頂けるのと同様である。
キリストはどうであったか。
わずか三年の伝道の働きは最後は大多数の人によって見捨てられ、あざけられ、極悪人同様の刑罰を受けた。
主イエスは、ハンセン病や盲人をもいやし、死人すらよみがえらせた。そのようなめざましいわざをしたにもかかわらず、だんだん地位の高い指導者的人物から嫌われ、憎しみを受けて神を汚すという重い罪を犯したとして十字架刑にされた。
三年間ずっとそばにいてイエスの働きを見続け、その奇跡を目の当たりにした弟子たちもみんな逃げてしまった。そうした状況を見るとき、イエスの伝道は成功などというものとは全く異なるものであり、だれが見ても失敗としか言いようがないような出来事であった。
しかし、そのような失敗と見えるただなかに、神の勝利があった。それゆえに主イエスは息を引き取るときに、「すべてが全うされた」と言われたのである。そして以後二〇〇〇年にわたって、イエスのなされたことは全くの勝利であり、神ははじめからイエスの働きが「成功」となるようにと計画されていたのである。
このように、新約聖書においては、成功か失敗かでなく、勝利かそれとも敗北かということが問題とされている。
神に結ばれているものは、いかなる事態が生じようとも、必ずすべてが最善になされる、言い換えれば勝利となる。だから、それはどんなに失敗のように見えても「成功」なのである。
この世的には全くの失敗として見えるようなことであっても、霊的にはまったき勝利でありうる。あの、十字架でイエスとともに釘づけられた重罪人も、彼の人生は全くの失敗であっただろう。しかし、息を引き取る間際にイエスを信じて悔い改めたことによって、それ以後今日に至るまで、ずっとキリストの証人として世界に知られるようになり、勝利の人生と変えられたのである。
私たちもこの世的には失敗と見えようと、神の勝利を与えられてこの地上の生活を歩みたいし、また、最終的には、そこから御国へ必ず入れていただけるという希望が与えられている。

 


image002.gif一つになる目的

…ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、…わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。…
つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。
あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。(ピリピ信徒への手紙一・2730より)

「キリストの福音にふさわしい生活をせよ」この日本語の訳を見るだけでは、ごく当然のことを言っているようにみえる。 しかし、「生活を送れ」と訳されている原語
*は「市民として生きる」という意味であって、ここでは、天の国の国民(市民)としてふさわしい生活をすることが求められている。
同じフィリピの信徒への手紙の少し後の方で、次のように書かれている。

私たちの本国は天にあります。 (フィリピ三・20
(口語訳では、「私たちの国籍は天にある。」と訳されている)
この本国とか国籍と訳された原語
**は、さきほどの「生活を送る」と訳された言葉とよく似ている。新約聖書では、この箇所だけに使われている言葉であり、さきほどの「生活を送る」と訳された原語もこの箇所以外には使徒言行録で一度だけ使われている言葉である。
このような新約聖書ではめずらしい言葉があえて使われている理由は、私たちは天の国の民であり、国籍は天の国にある。そこからこの地上に派遣されていると言える状況なのである。だから、私たちは天の国の人間らしく生きるように、というのがこの箇所でのパウロの意図であっただろう。
外国に行ったとき、そこではたった一人の日本人であっても、その人の行動で、日本全体のイメージが変ることがある。
私たちのキリスト集会に、一年ほど参加された南アフリカの方があった。それまで集会の多くの人にとっては、遠い南アフリカのイメージというのはほとんどなかったと思われるが、参加していたその二人の人を通して南アフリカのイメージを抱く傾向ができる。
そのように、私たちキリスト者は天の国の民なのであって、周囲の人たちも私たちを見ることで天の国を類推することになる。

*)ポリテュウオマイ(politeuomai)という語。これは、都市とか町を意味するギリシャ語のポリス(polis)から作られた言葉で、「市民として生きる」という意味がある。
**)ポリテュウマ(politeuma)といい、「国」の意。


それではその天の国の市民としての生活の具体的なあり方とはなにか、 それは、一つの霊によって、一つの心になって、共に戦うことであった。その戦いは、人間や組織に対するものでなく、その背後にある悪の霊に対する戦いである。ここにパウロの強調点がある。
キリスト者とはなにか。それは信徒同士、また他者に対しては互いに赦し合うこと、互いに仕えあうということが第一に言われている。それとともにもう一つ重要なことがある。それがここで言われている、一つの心、一つの霊となって固く立ってともに悪の霊と戦うことなのである。
キリスト者の生活にこうした点がどれほど意識されているだろうか。私たちの相互の愛はうっかりするとなれあいになる。自分の気に入った者同士の「愛」に終わってしまう。しかしそれでは、通常の人間の愛と同じような次元になってしまう。
キリスト者の愛は、まず弱い者や滅びようとするものに向かうべきだし、さらに敵対する者や悪しき者にまで及ぶのがキリスト者としての愛だと言われている。
そして、そこからさらに、ともに戦うという姿勢が生じる。自分の気に入った者だけと仲良くするという次元にいる者はとても、共同して悪に対して戦うというところまでいかないだろう。それは自分の内なる自我、人間的な感情に負けているからである。
パウロはこの手紙において、「共に戦う」という言葉を繰り返している。キリスト者は、哲学的に深く自分が理解できたからそれで解決したとかあるいは仏教的な悟りを得たとかいうのでなく、救われた者はほかの同じように救いを受けた人たちとともに、一つになって、悪そのものとの戦いに加わるのがあるべき姿だからである

 


image002.gif伝道について

伝道というと、キリスト教伝道であって、キリスト以後のことと思われている。しかし、すでに旧約聖書の詩編においては多くの箇所で、神の真理を宣べ伝えようというあふれ出る心が記されている。

…地の果てまで
すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り
国々の民が御前にひれ伏しますように。…
わが魂は必ず命を得

子孫は神に仕え
主のことを来るべき代に語り伝え
成し遂げてくださった恵みの御業を
民の末に告げ知らせる。(詩編二十二・2832より)

ユダヤの小さな民族だけが唯一の神を知らされていた。しかしその真理を知らされた人はそれが現在の自分たちだけの狭いところにとどまるものでなく、世界の人々への普遍的な真理であることを知っていたのがこの詩によってもわかる。

…わたしの口は恵みの御業を
御救いを絶えることなく語り
なお、決して語り尽くすことはできない。
しかし主よ、わたしの主よ
わたしは力を奮い起こして進みいで
ひたすら恵みの御業を唱えよう。
神よ、わたしの若いときから
あなた御自身が常に教えてくださるので
今に至るまでわたしは
驚くべき御業を語り伝えて来た。
わたしが老いて白髪になっても
神よ、どうか捨て去らないでください。御腕の業を、力強い御業を
来るべき世代に語り伝えさせてください。(詩編七十一・1518より)

旧約聖書は民族的で狭いと受け取られることが多いが、詩編やイザヤ書などには神の真理が世界に伝わることを確信して、そのことを願い、祈る心がはっきりと見られる。
それらの書は霊的なもので、直感的に神から啓示を与えられているものがしばしばあるゆえに、数百年という時間を超えて真理を知らされているのがうかがえる。
このように、神の真理を知らされた者は黙ってはいられない、内にうながすものによって語らずにはいられないというように働くのである。それがみ言葉の力であり、神のなされる働きだと言えよう。
このような内面から動かす力について、使徒パウロはつぎのように述べている。

もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはならない
。そうせずにはいられないからである。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸
*なのです。(Ⅰコリント九・16

*)新共同訳では「不幸だ」と訳しているが、原語(ギリシャ語)は、「ウーアイ ouai」という語で、間投詞。英語ではよく似た woe(悲しむべきことだ!)をあてている。日本語でも言葉にならない、悲しみのとき「ああ!」と思わずうめくような声である。

パウロはキリストのことを深く直接に知らされた者として、黙ってはいられなかった。せずにはいられないのである。もしその内なるうながしに逆らっていくならそれこそ、悲しむべき事態となるというのをパウロははっきりとわかっていた。
このように、「せずにはいられない、キリストのことを語らずにはいられない」というように動かすのが、主イエスの霊であり、聖霊なのである。
新約聖書では福音書の次ぎに置かれている使徒言行録には聖霊がいかにキリスト者を動かしていったかが最もはっきりとしたかたちで記されている。
弟子たちはイエスの母マリアたちとともに、熱心に心を合わせて祈っていたとき、「炎のような、舌が一人一人の上にとどまった」という。
それは、聖霊の働きがとくにみ言葉の伝道ということに関係してどのような性質を持つかが示されている。それは、火のような力があり、燃えるような本質だということである。使徒パウロも、「霊の火を消してはいけない。」(Ⅰテサロニケ五・19)と言っている通りである。
霊の働きは、火のように燃え広がっていくものであり、また火が物を燃やしてまったく異なる灰にしてしまうように、聖霊も古い人間を燃やしてしまって、新しい人間にする働きがあるといえよう。
また、「舌が一人一人の上にとどまった」とは、聖霊が福音を語らせるものである、だまっていられないように、それぞれの言葉で語らせるという側面を表している。これは、使徒行伝の記述では、さまざまの国々の言葉で語りだしたということであり、それはキリストの福音が世界の国々に伝わっていくということを預言的に表すものとなっている。
そして個人においても、病気の人、健康な人、社会的に地位の高い人、あるいは貧しく地位もなにもないような人、それぞれが独自の言葉で語るようになるとの預言とみることができる。
事実、これ以後のキリスト教の進展は、あらゆる国へと広がっていったし、地位の高い人や低い人、病人、健康な者、障害者、大人や子供、老人などあらゆる階層の人を含むようになった。
聖霊を受けたということが、福音伝道の出発点となった。単に主イエスの教えを聞いたり、共に生活したり、さまざまの奇跡を見たりしただけでは、福音伝道の力を与えられなかった。主イエスが地上に生活していたときには、イエスから直接に送り出されたことがあった。しかしそれはまだ、聖霊を受けたのではなかった。聖霊とは、キリストの復活以降に与えられるようになった霊である。イエスに命じられて、一時的に悪霊を追い出したり、病人をいやしたり、神のわざをなすこともできた。
そのようなわざを一時的にできたとしても、永続的に続けていくことはできなかった。それをなさしめたのが、聖霊である。
ペテロたちは、イエスを殺すことすらしたユダヤ人たちのただなかで、イエスの復活を宣べ伝えはじめた。これはとても危険なことであった。うっかりすれば自分たちもキリストと同様にとらえられるかもしれないからである。
しかし、そのような恐れをも超えてペテロはキリストの復活を証しした。それは自分の内から出てくる人間的な意志ではなかった。人間的な考えでは到底イエスに従っていくことはできない、かえって裏切ってしまったという苦い経験がペテロの心のなかには常にあったであろう。
ペテロをうながしたのは自分の考えや他人からのうながしや勧めでもなければ誰かの強制でもなかった。ただ聖霊のみが臆病になっていたペテロを押し出したのである。
そして神殿といえば地方からでも多くの人たちが集まってくるところであり、人々の注目するところであった。そのような場所で、少し前に重大犯罪人として処刑された人のことを宣べ伝えるということは当然危険が伴うのが予想される。しかしペテロはそのような危険や困難を思って恐れるのでなく、聖霊のうながしのままに語った。このようなペテロの姿を見て、いかに聖霊が人間のあらゆる思いを超えて働くかがうかがえる。
神の言葉を語らせるのも、また聖霊である。つぎのような聖句はそのことをはっきりと表している。

…祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。(使徒四・31

また、パウロがヨーロッパ(マケドニアやギリシャ)に伝道をしようと思ったのでなく、トルコ半島で伝道を続けようと思っていたのに、聖霊、イエスの霊がそれを許さなかったと記されている。(使徒言行録十六・67
危険を犯してエルサレムへ献金を届けるために出発するときも、「霊にうながされて行く」(同二〇・22)とある。
パウロの伝道の根本にあったのは、未信仰の人への愛であった。神を知らず、苦しみと闇のなかにある人への深い悲しみであったし、キリストを知らされたらいかに生活が変るかを自分自身で知っているだけに、その変換をなすことのできない人への深い悲しみがそこにあった。

…だから私が三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。… (同二〇・31

このような、愛があるだろうか。自分の党派を拡大したりするのが秘かな目的であったりすることがあまりにも多い。
しかし、パウロは彼らが神を知らなかったら思い知らされるであろう苦しみやなやみ、暗い状況、そして最終的に受ける裁きのことを思って涙が自然に出てくるのであった。
信仰と希望と愛、そして主イエスも一番大切なことは、神を愛し、人を愛することだといわれた。
伝道の基本もここにある。
私においても、キリスト教に対して自分で入りたいと思ったこともなく、宗教全般を無視していたし、何ら心惹くものも感じていなかった。私には、子供のときから大学四年の六月にキリスト教に出会うまで、宇宙を支配したり、創造したり、人間を愛をもって導くような存在のことなど全く頭に浮かんだことすらなかったし、そのような話は学校教育では全く耳にしたことがなかった。
そのような私を駆り立てたのは、まさしく聖霊であり、生きて働くキリストであった。そうした自分自身の経験から、伝道とは聖霊が、またキリストが直接に人間に働きかけてなされることだと分かる。
神の言葉が伝わっていくのは、聖なる霊の働きによる。聖霊とは、またキリストの霊であり、神の霊でもある。(*)それゆえ、神の霊が導き、力を与え、福音をうける人をも備えられるのである。
パウロはキリスト教がヨーロッパの宗教となるにあたって、最も大きな働きをした人物と言える。そのパウロが出発するときは彼自身がそのように伝道に行きたいと思って計画を立てて実行したのでなく、意外なことに、聖霊が祈っている人々に告げたと記されている。

…彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロ(パウロ)をわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた(み言葉を伝えるという)仕事に当たらせるために。」
そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。(使徒言行録十三・23

これが、使徒パウロが初めて本格的な伝道に出発するときの状況であった。このように、パウロ自身の気持ちでも計画でもなかったのであって、人々が真剣に祈っているときにその人々に聖霊が告げ、人々は祈ってパウロたちを送り出したのが伝道の出発点であった。
ここにも伝道というのが、一人がするものでなく、キリスト者の共同のはたらきの内になされるものだということが示されている。
また、第二回目に再びパウロは伝道の旅に出発するが、それは第一回の伝道の旅のときに訪問した町へもう一度行き、キリスト者となった人たちを励まし、信仰のすすめをするというのがパウロの目的であって、パウロはその他の地域には行くつもりはなかった。
しかし、その伝道の途中で、パウロが目的としていた小アジア(現在のトルコ地方)地方をさらに訪問しようとしていたとき、意外にも聖霊がパウロたちの行動を禁じるということが起こった。これはパウロが初めてヨーロッパ伝道へと赴くきっかけがなんであったかを示す重要な出来事であった。

…さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられた…。ビテニア州(小アジアのある地方)に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。
それでトロアスに下った。その夜パウロは幻を見た。そのなかで一人のマケドニア人が立って「マケドニアに渡ってきて私たちを助けて下さい」と言ってパウロに懇願した。パウロがこの幻を見たとき、私たちはすぐに マケドニアに向かって出発することにした。マケドニア人に福音を宣べ伝えるために神が私たちを呼ばれたのだと、確信したからである。 (使徒言行録十六・610より)
そして初めてキリスト教がヨーロッパに渡ることになり、それはマケドニア(現在のギリシャ)のフィリピであった。
現在ではキリスト教はヨーロッパの宗教だと思われているが、たしかにヨーロッパに伝わってから全世界に伝わることになった。日本にもヨーロッパに伝わったキリスト教の伝道者が、遠くアフリカやインドをまわって日本に達して初めて日本にキリスト教を伝えた。そしてそのカトリックのキリスト教が迫害されてごく少数となっていた江戸時代の末期に、ヨーロッパからアメリカ大陸に伝わったキリスト教がアメリカの宣教師によって伝えられることになった。
このように、キリスト教は現在のイスラエル地方において生れたのちに、西方に伝わって全世界へ広がったのであって、東あるいは北にあるロシアやイラン、イラク地方やインド方面へとはわずかしか伝わっていかなかったのである。
*

*)東方にはキリスト教の一派であるネストリウス派が伝わった。それはイラン、インド、中国へと伝わり、中国では景教として知られている。しかし、14世紀後半に起こった明の時代になって厳禁されて後を断つに至った。

このような、キリスト教のヨーロッパへの広がりはとくにパウロの働きによってなされたが、それはすでに見てきたように、パウロ自身の計画とか周囲の人たちの派遣といったものではなく、直接に神からの啓示によってうながされたのであった。
このようにキリスト教伝道をなさしめる原動力は聖霊であったが、それは神の霊であり、キリストの霊であり、生けるキリストのことなのである。
*

*)それは次のような箇所をみればわかる。
…神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいる。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していない。
キリストがあなたがたの内におられるならば、…。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら…
(ローマ八・911より)

このように、キリスト教の広がっていく原動力となったのは、人間の計画や意図ではなく、そうしたあらゆる人間の思惑を超えた神の御計画と神の力が注がれてなされていったことなのである。
そのような神の計画を担うのは人間であって、特定の人間だけでなく、複数の人間の共同の働きとして行なわれていく。
すでに主イエスは自分単独でなく、十二人の弟子たちとともに行動され、また女性たちも加わっていたことが聖書には記されている。
パウロも最初の伝道の旅には、バルナバと共に行動し、第二回目の伝道にはシラスや医者であったルカという人物をも同行した。ルカは三回目の伝道の旅にも同行したことが、使徒言行録によって知ることができる。
伝道に同行するというだけでなく、パウロの伝道によってキリスト者となったフィリピの信徒たちはパウロに対して同じ主にある深い共感と祈りをもって霊的な戦いを共にしつつ、パウロの伝道を助けたのである。
キリスト者となるということは、目に見えない悪との戦いに入ることであった。
そしてその戦いとは特定の人間とか組織への戦いでなく、それらを動かす悪の霊との戦いであるなら、キリスト者の戦いはいつも共同の戦いとなる。
それゆえ、今月号の「一つになる目的」の文でも引用したように、フィリピの信徒への手紙においても、パウロは信徒たちが自分の戦いと同じ戦いを戦っていると述べているのであるし、また次ぎのように信徒に自分を祈りをもって支えてくれるようにと願っているのである。

…兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、
また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。(テサロニケ信徒への第二の手紙三・12より)

パウロの伝道がこうした信仰を与えられて間もない人たちによって、その未熟な信仰からくる祈りによっても支えられていたのがうかがえる。そしてそれは祈りだけでなく、パウロが困難な状況に置かれたとき、とくにフィリピの信徒たちは具体的な援助、すなわちお金や生活を支える物をもってパウロを助けたことが記されている。

…フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。
また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。
(フィリピ信徒への手紙四・1516より)

このようにパウロはキリストの福音を人々に伝えたが、そこでキリストを信じた人は、パウロを祈りと献金などによってたえず支えていったのがうかがえる。こうして神はキリストの福音がさまざまの人たちの共同の働きとして伝わっていくようになされたのである。
またパウロはエルサレムにいるキリスト者たちを助けるために、わざわざ献金を集めるという働きもした。それは遠い地域にあっても、互いに祈り会い、助け合うことが不可欠であったからである。このような具体的なことも新約聖書には記されている。
パウロはまた、み言葉を伝えるためには何でもすると言っている。

…わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、…ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。
律法のない人には律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。
弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。
…福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。
(Ⅰコリント九・1923より)

現代の私たちにとっても、キリストの福音を伝えるためにどんなことでもするという人は少ないだろう。しかし、一度キリストの福音が魂に根ざすとき、その福音のために何かをしたいという気持ちになっていく。それは貧しい人たち、病気の人たちへの何らかの配慮や奉仕となったり、献金や捧げ物となったり、あるいは讃美を歌うことであったり、福祉的な仕事であったりする。
私たちができること、それは各人にとっていろいろである。職業を持っている人なら、その職場においてキリスト者であることを周囲の人たちに告げておくだけでも伝道になるし、キリストに従う者としての心をもって職業にかかわることで、周囲の人たちにもキリストを指し示すことになる。また、必要なときにキリスト教の印刷物や書物を紹介したり、集会の案内をしたりできる。
そして自宅や病院にて過ごす人であっても、自分の友人や知人などに印刷物や手紙、メールなどによって知らせることが可能となる。
そうしたことが十分にできないという人は、祈りができる。一人一人名を思い起こして祈ることが相手の人に神からの祝福を近づける働きにつながっていく。
キリストのことを伝えるのが伝道であるが、牧師でなければできないとか、聖書の詳しい知識がないといけない、信仰生活の経験がないとできない…などという先入観を持っている人もいる。
しかし、新約聖書において、キリストのことを伝えた人はだれであったか。キリストがとくに選んだ十二人のうちで、最も重んじられたのは、ペテロ、ヤコブ、ヨハネたちであったが、彼らはいずれも漁師であって、学問的な知識など一切なかった。宗教的な経験を積んだということでもなかった。ただ、主イエスに呼び出されたということだけであった。そしてキリスト者とはキリストに呼び出された人たちである。それゆえに、キリスト者となったらだれでもキリストのことを伝えることができるようになっている。
このことは、新約聖書の他の箇所を見てもうかがえる。キリストの誕生のとき、当時の宗教家とか社会的指導者とか知識人とかでなく、無学な羊飼いにまず知らされた。そして羊飼いたちは自分達が知らされたイエスの誕生のことを、黙っていることはせず、すぐに「羊飼いたちはこの幼な子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。」(ルカ福音書二・17と記されている。
また、当時差別されていたサマリア地方の女が水汲みに来ていたが、その井戸のところで主イエスに出会った。そしてイエスによって自分の過去のことを見抜かれ、またかつて経験のない権威を持っていること、また直接にメシアだと言われて、水汲みの仕事をおいてすぐに町に帰っていき、人々にイエスのことを伝えた。それによって人々はイエスのもとに来て、多くの人々がイエスの言葉を聞いて信じた。(ヨハネ福音書四・2841より)

このようにして、福音のために何かできることを各人がなしていく時、それによって真理が伝わっていく。しかし、一度聞いて信じたとしても、それを持続していかねば意味がない。聖書の神を信じるということは、永遠の真理を信じるということであり、最も純粋な愛や正しさ、清さといったものが、決して壊されることなく存在しているということを信じることである。神とはそのようなものをすべて完全に持っておられる方だからである。
このような究極的に良いものの存在を信じることは、周囲と対立していくこともある。そうした対立に負けないで、あくまで真実な神を信じ続け、キリストによる罪の赦しを常にうけつつ歩むことは、自分一人だけでは難しいことがしばしばである。
だからこそ、聖書でも、すでに述べたようにつねに共同の働きのなかで生きていくことがすすめられている。信じる者たちとは、本来は兄弟姉妹であるならば、当然ともに支えあうことが重要となってくる。
ここから日頃の集会、共同の礼拝がいかに大切かが浮かび上がってくる。
集会を持たなければ、聖書の真理を伝えること、伝道は難しい。それは継続ができないからである。一度あるときに神を信じたといっても、それを継続するためにはたえず新しく聖霊やみ言葉を受ける必要がある。
それについて最も重要なのはやはり日頃からの日曜日ごとの礼拝であり、またその他になされる聖書の学びの集会である。
聖書という書物は数千年も昔に書かれたものであるから、まず、聖書が書かれた原語がまったく日本語とは異なるために日本語の意味がすべてだと思って読んでいると実は原語の意味やニュアンスがかなり違っていたということもある。
また、自分だけで読んでいたのでは、本質的な意味を取り違えることもしばしばあること、また重要でないと思って軽く見過ごしている言葉のなかにも重要な意味があることもしばしばである。私自身、初めて大学四年のときに京都の無教会のキリスト教集会に参加したとき、創世記の一頁ほどを一時間以上もかけて説明されたのに驚いたのである。聖書とはこんなに意味が深いのかとその時初めて知らされた。
また、集会によって信徒相互の交わりが与えられる。これは特に重要なことである。ヨハネ福音書でまず、言われているのは、信徒たちが互いに愛し合うということである。それによって私たちは神を無視するこの世の流れに押し流されずに、兄弟姉妹たちによって支えられて、信仰の道を歩んでいくことができるようになる。
またそのことによって周囲の人たちにも私たちがキリストに従っているものであることを示すことになり、それがキリストを伝えることにつながるといえよう。

…あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。
(ヨハネ福音書十三・3435

そして集会に継続して参加することによって、信仰を持っている人たちの歩み方、苦しみや困難にも打ち負かされないで生きていくのを見て、そこにも神の導きと見えざる神の御手の働きを知らされるのである。
キリストを信じる人たちは、キリストのからだである、と言われている。それほどまでにキリスト者は一つなのである。
このように一つのからだとしてキリスト者たちは歩んでいくのがあるべき姿なのであり、み言葉を伝えるという働きもそのなかでなされていく。

御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えよ。(テモテへの第二の手紙四・2

どのように人々がかたくなに見えても、一度キリストの言葉を本当に受けたものは、それを伝えずにはいられなくなる。相手がそれを受け入れないことはよくある。しかし、相手の受け入れがよいとか悪いとかに関係なく、究極的な真理はいつも前進していく。世の終わりまで。
主イエスの種まきのたとえにあるように、キリストの福音という種を蒔き続けると、ときには荒野に落ち、藪や岩石などの上に落ちたり、鳥が来て食べてしまうことがある。
しかし、そうした状況においても、良き地に落ちて豊かに実を結ぶのも必ずある。福音が全世界に宣べ伝えられることは、神ご自身の計画だからである。

 


image002.gif自衛隊の多国籍軍への参加

これは、憲法第九条をさらに骨抜きにするまちがった決定である。このような重要な問題を国会でも議論せず、また国民全体に直接に説明をしようともせずまず、与党にすら先立って、アメリカの大統領にまず、参加を表明したという。
しかも、日本が独自の指揮権を持つことができるという、了解を米英政府からとったというが、それはたんに、在米、在英大使館の各公使による口頭での確認にすぎなかったという。
そして通常国会が終わるという国会での議論の余地もない時期に決めてしまった。こうしたあまりにも拙速なやり方は、首相の目が国民でなく、アメリカにばかりむけられているのがはっきりとしている。イラクの捕虜虐待のような世界の世論が厳しい批判を浴びせているときであっても、日本の首相はアメリカに対してはっきりとした批判もしようとしなかった。
多国籍軍といえば、十数年前の湾岸戦争のことを思い出す人も多いだろう。一九九一年一月、アメリカ軍中心の多国籍軍は60万人に達していたが、それが砂漠の嵐作戦を開始した。アメリカ軍戦闘機部隊及び艦船からの巡航ミサイルが首都バグダッドの他イラク全土の拠点を空爆し全面戦争状態に突入したのであった。それ以外にもソマリア、ルアンダ、アフガニスタンなどにも多国籍軍が派遣された。こうした軍事行動は当然、次のような憲法第九条の精神とは全く相いれない。
「日本国民は、…国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」
それゆえ、従来の日本政府も一九九〇年十月に当時の中山太郎外相は国会での答弁で、「多国籍軍への参加は憲法上許されない」とした。
それを人道支援に限るとして、突然参加を表明した。日本がすでに単なる人道支援にとどまっていないで、アメリカ兵の輸送を支援しているのであって、それは間接的ではあっても、すでに軍事行動の一貫をなしているのである。
こうした方向の行き着く先は何であるのか、首相や与党はまるで見ようとしない。アメリカに追随しなければ日本の経済が立ち行かないといった恐れから何でもアメリカのいう通りに従っていくような方針は大きな災いを将来に残すことになる。
日本はその豊かな経済力を用いて、あくまで軍事力を行使しない支援活動をイラクだけでなく、世界の貧しい国々や問題をかかえている国々に行なうべきであって、それこそが将来的に最も国際的に信頼されることになる。

 


image002.gifことば

186)…フランシスコは常に進歩しなければ、退歩するだろうと恐れ、すべての時間を心を高め、英知を得るために与えられた聖なる時として用いた。

(「アシジの聖フランシスコの第二伝記」第6194 チェラノのトマス著 )

・私たちは前に進むのでなければ、後退する。日々の生活のあらゆる時がそのまま前進の時となるようでありたい。

187)神を求め、神を見出し、神をあなたの力にしてほしい。
もし神がおられなければ私たちの努力はことごとく空しくなり、私たちが夜明けだと思っていても闇夜となってしまう。神がおられないなら、人生は決定的な場面のない無意味なドラマとなってしまう。
しかし、神がおられるなら、私たちは絶望的に疲れた状態であっても、希望の力を取り戻すことができる。
神がおられるから、私たちは真夜中のような暗い状態から喜びの夜明けへと起き上がることができるのである。(「キング牧師の言葉」72頁 日本キリスト教団出版局)
・キング牧師は黒人への差別との戦いに生涯をかけた人であった。恐ろしい憎しみを受けて命の危険を感じさせるような状況にあって、彼はこの言葉にあるように、つねに神への信仰によって新たな力を得てきた。私たちも真剣に求めさえすればどんな状況にあってもそこから光を見出し、立ち上がる力を与えられるであろう。

188)神への愛だけが、われわれを徹底的にエゴイズムから解放することができ、またすべての本当の自己改善の始まりである。
この神への愛がとりわけ強くならないかぎり、人間愛、人道、倫理などといっても、そのうしろになんらの力も持たない空語にすぎない。(ヒルティ・「眠れぬ夜のために上六月13日」)

・私たちが神を愛するとき、初めて私たちは他者を愛する力を与えられる。そのことは、愛は聖霊の実であると聖書に記されている。単なる人間的な愛は真の愛の影にすぎないゆえに、何の力もないと言われている。

 


image002.gif休憩室

○六月の花といえば、私には野草ではウツボグサ、樹木の花ではクチナシがまず思い浮かびます。両方とも野生のものはあまりみられないのですがいずれも自然の中で咲いている姿は心惹くものがあります。インターネットで希望者に送付している「今日のみ言葉」にも、私の撮ったこの二つの写真を入れましたが、クチナシの野生などあるのですか、とか、もう何十年も見たことがないとか、全然野生のものは知らないといった人たちが多かったのです。
私は子供時代からわが家のある山に自然に生えたクチナシはその純白の花が目立っていたし、香りの優れていることと、花をとってカザグルマのようにしたりして親しんできたのです。
また、やはり家の周辺の山でときおり見かけたのは朱色のツツジです。これはふつうのツツジがすべて咲き終わった六月ころに咲くので何というツツジなのかと名前が知りたかったのですが、ずっとのちになってヤマツツジだとわかりました。このような幼少の頃に刻まれたものはいつまでも心に残っていて、それが心の土壌となっているのを感じます。

○蛍
わが家に帰る少しの山道に六月の短い間、蛍が見られます。年間を通して水が流れているごく小さな谷はだいぶ離れたところにあるのでそこで育ったと考えられますが、そのような小さな流れでよく絶滅せずにいるものだと思います。闇夜に光る蛍、そのゆったりした点滅は心に柔らかい光をも投げかけてくれるものです。
こうした植物や虫たちの、しかも清い美しさを伴う姿と、子供たちのゲームなどに見られる騒々しく闘争的な内容といかにかけ離れていることかと思います。
自然が失われた都会において、人間がこうした自然の単純な美しさや清い姿に触れる道は失われてしまいましたが、私たちが生ける神と深く結びつくときには、そのような自然そのものを創造した神に結ばれることになるので、おのずから自然のもつ静けさや清い美にも触れることになると思います。

 


image002.gif返舟だより

○六月十二日(土)~十三日(日)の二日間、高知市桂浜にて、第三十一回のキリスト教・無教会四国集会が、高知聖書集会の主催で行なわれました。四国四県と神戸大阪などから四十三名ほどの参加でした。今回はテーマが「伝道」ということで、四県の担当者による聖書講話もそのテーマに沿ってなされました。また証しも六人の人によってなされました。
そのほかには特別讃美や朝の祈祷や全員が集まっての感話、意見などを出し合う集まりも夜のプログラムにありました。
この二日間の集会で初めての参加者や久しぶりに出会う人など主にある交わりも与えられ、新たな霊を受けたことを感じました。日曜日ごとの集会では与えられない神からの恵みと横のつながりを与えられるので、やはりこうした特別集会、合同集会の祝福を改めて感じた二日間でした。
来年は徳島の主催ですので、今から祈りをもって準備していきたいと願っています。
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来信から
○数年前に夫が召され、またこのごろの世相に心が重く沈みがちな時に「はこ舟」に勇気づけられてまた立ち上がることができます。神の愛がいろいろな形や方法でいつも変ることなく注がれていることを思います。
五月号の「休憩室」、若い頃に歌った「夏は来ぬ」のうたを懐かしく感銘深く感じながら自分の伴奏で一人歌いました。何もかも自然が輝いて見えました。 (関東地方の方)

○遠い遠い昔、「神曲」、「天路歴程」に感動しましたものの、未熟で不信仰で不消化でありました。ただいま、ほんの一部とはいえ、まるで深く再読しているようにいきいきと思い出しました。
クワイ河鉄道のこと、その当時のイギリス人捕虜の四名、生き残りの人々と日本人の和解運動がなされ、私も一度出たことがあります。戦争の恐ろしさと年を経ての和解の赦しの美しさを心から味わい感謝でした。 (関東地方の方)
○梅雨に入り、持病の耳鳴りが強く、激しく鳴り響きます。…毎月の「はこ舟」、「今日のみ言葉」それに集会だよりなどを楽しみに読んでおります。いろいろな方々の集まりで、そこでの雰囲気が伝わってきます。… (四国地方の方)