200510月 第537号・内容・もくじ

st07_m2.gifつばさの蔭に

st07_m2.gif神の言葉はつながれてはいない

st07_m2.gif悪の霊を追いだす力

st07_m2.gif平和主義の流れ

st07_m2.gif英知の言葉から

st07_m2.gif中国の詩から 山中月

st07_m2.gifことば巻頭言

st07_m2.gif休憩室

st07_m2.gif編集だより

 


st07_m2.gifつばさの蔭に

数々の問題や悩み、不安を抱える私たちを、なにが包んで下さるのか、生活に疲れた魂はそれを尋ね求める。
そのような人間の弱さに対して、古くから聖書は、神が鳥が翼の下に雛鳥を呼び寄せるような愛を表して下さることを知っていた。

神は羽をもってあなたを覆い
翼の下にかばってくださる。(詩編九十一・4

慈しみの御業を示してください。
あなたを避けどころとする人を
立ち向かう者から
右の御手をもって救ってください。
瞳のようにわたしを守り
あなたの翼の陰に隠してください。(詩編十七・78

神の愛は、いわば巨大な鳥の翼のようなもので、全世界のあらゆる苦しむ人、力なき人をその蔭に招き寄せて、その傷をいやし、新たな力を与えて下さる。
現実のこの世は、どこにも蔭のない、危険や困難に覆われているかのように見える。あるいは、自然の偶然的な出来事によって弄ばれているだけで、人間を守るものなどどこにもないように見える。
しかし、そうした表面的な状況の背後に、この詩の作者は、この世界を包む、神の大いなる翼、目には見えないけれども、たしかな守りがあることを知っていたのである。

 


st07_m2.gif神の言葉はつながれてはいない

人間の世の中においては、つねに何かにつながれ、あるいは縛られている。家族や学校、あるいは会社などどこかに属しているが、そこでも何らかのかたちで縛られている。私たち自身が、自分の罪や周囲の人々の考えや習慣、伝統などにとらわれている。
そして、人間の生活全体が、この地球という狭いところに縛られているのである。宇宙飛行士が宇宙を飛行したというが、地球のほんのわずか上空を飛んでいるにすぎない。地球の半径の二十分の一程度の高さ(地上からの高さ三百キロ程度)を飛んでいるにすぎないのである。
光の速さなら、わずか千分の一秒ほどしかかからない距離である。
そのような小さな地球のうちに縛られているのが、人間である。
また、私たちは肉体の弱さがあるゆえ、いつもある範囲内のことしかできない。荷物を運ぶことも、歩くこと、走ること、また睡眠時間もとらねばいけない。
そして、生きている時間も、せいぜい百年という時間内に縛られている。
また、真理に基づいて生きていこうとしても、さまざまのこの世の力が私たちを迫害し、そうさせないように働くことが多い。日本でも六十年あまり前までは、日本の方針を批判するだけで職業も辞めさせられ、逮捕されることもあった。天皇の批判などとうてい許されてはいなかった。
キリスト教が初めてヨーロッパに広がっていったときにも、迫害がなされ無実の罪であるのに、殺された人も多かった。キリスト者は絶えず迫害され、文字通り鎖につながれ、縛られていった。
このような、状況のもとで新約聖書はかかれたので、次の箇所もそうした背後の状況を思い起こさせるのである。

… この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれている。
しかし、神の言葉は(鎖で)つながれていない。(Ⅱテモテ二・9

ここで、パウロは、自分は鎖につながれ、何もできないようにされても、決してつながれることがあり得ないものがあるのを知っていた。彼の世界の各地でのめざましい活動は、そのような確信に支えられていた。つながれることのない「神の言葉」、それは、文字通り聖書の言葉であり、キリストの言葉であり、また生きて働きかける主の言葉であり、またそれに導かれて生きる人たちの働きでもある。聖書に表されている真理そのものなのである。
真理は単純である。その単純な内容をそのまま信じること、それによって新たな力が与えられる。迫害のゆえに鎖につながれたとき、もし神への信頼を堅く持っていなかったら、神に捨てられたのではないか、神などいないのではないか、などといろいろの疑いが生じ、不安にかられる気持ちになるだろう。
しかし、神の霊によって導かれていたパウロにおいては、いかに人間が縛られようとも、神の言葉はつながれることはない、という確信を持っていた。これは、主が彼に語りかけることによって得られた確信であっただろう。
どんな迫害も、時代の流れも、神の言葉を鎖でつないで、その働きを止めることはできない。日本においても豊臣秀吉が、キリスト教を禁じたのは、一五八七年で、それ以来、一八七三年(明治六年)まで、三〇〇年にわたってキリスト教は厳しく弾圧されてきた。
その迫害の様子は、すさまじいもので、これが人間のすることかと思われるようなひどいことをしたことが記録に残されている。
厳しい真冬のさなかに、キリストを信じる者(キリシタン)を裸にして一部が凍結している池に投げ込み、また引き上げて気を失うまでに苦しめる。 また、別府にある、地下から絶えず高温の熱湯が湧き出ている長崎の雲仙地獄でキリスト者たち苦しめる方法を考え出した。着物を脱がされ、首に縄をかけられて熱湯のなかに投げ込み、それを引き上げ、体中がただれた上で息絶えていった。(「長崎の殉教者」一九七頁 片岡弥吉著 角川書店 一九七〇年刊 )

…一六一四年十一月一日、将軍が駿河から大坂に向かおうとするに先立ち、八箇月ほど幽閉されていた七人のキリスト者たちは役人の前に引き出された。…彼らは手足の指を親指から初めて、切っていくなどという言語に絶する苦しみを受けた。
…暴君は、殉教者たちの指を切り、額に十字架の焼き印を押せと命じた。…まず十字架の烙印が額に押された。肉は骨まで焼かれた。ついで大路を引き回された。しかし、そのうちのある者が「もろびとこぞりて、主をほめたたえよ」を歌いだすと、引き回されている他の人たちもそれを共に歌いだした。その状況は、彼らが入ると信じていた、永遠の夕の如くであった。彼らは、安倍川(あべがわ)の岸に立てられ、両手の指を片方三回ずつ、六回で切り落とされた。そして突き転がされて脚を痛めつけられた。こうして、彼らは地面に倒されたままで放置され、しかも、だれも彼らをかばうことは禁じられ、傷の手当てをすることも禁じられた。しかし、夜になると、キリシタンたちが、この殉教者たちを引き取って、らい病者たちが生活していた洞窟へと連れて行き、傷を洗ってやった。ある者はその夜の間に息を引き取り、また別の者は翌日の明け方死んだ。(「日本切支丹宗門史」
*上巻 三五七頁 レオン・パジェス著 岩波書店刊 一九三八年初版 なお、一部わかりやすい表現にしてある。)

*)現著者レオン・パジェスは、一八一四年生れのフランス人。日本に関する膨大な資料を駆使して全四巻からなる日本史を書いたが、そのうちの第三巻の部分にあたるのが、岩波書店から刊行されたこの著作である。この書は、一五九八年から一六五一年までの、徳川家康、秀忠、家光らの時代のときにキリシタン迫害の実態を詳しく著述した。日本の宗教学者として有名な姉崎正治博士は多数のキリシタンに関する著作を書いたが、彼は「パゼスが、あれだけの著作を残しておいてくれなかったら、到底企て及ぶ事業ではなかった。この点については、パゼスの忠実細密な働きに対して篤く感謝の意を表せざるを得ない」と述べたという

それほどまでに苦しみを与えたのは何のためか、いろいろ理由はあげられているが、とくにそれはキリシタンたちが、いかなる権力者、たとえ領主や大名であっても、こと信仰に関するかぎり、そうした権力者たちの命令以上に、神の命令を重んじるというその姿が、いっそう当時の支配者たちをして、苛酷な弾圧へと向かわせたのである。 地上の何者よりも、まず第一に神に仕える、という姿勢はそれほどまでにこの世の権力者たちには驚くべきことであり、かつて彼らが経験したことのない何かを知らされたのであった。
こうしてありとあらゆる苛酷な拷問がなされ、かれらの信仰の息の根を止めようとした。それは、文字通り彼らを縛りつけ、彼らの信じていた信仰そのものをも権力という縄で縛りあげて、葬り去ろうとするものであった。
そして多くのキリシタンたちは殉教し、またあまりの苦しさに信仰を捨てるものも現れていった。そして三〇〇年の長い迫害によって、キリシタンは根絶されたかと思われるほどであったが、それでもなお、江戸幕府が倒れた一八六七年になってもなお、長崎県大村地方では、厳しい弾圧(木場村四番崩れと言われる)が行なわれ、一二五名が投獄された。そして夏着のままで獄に入れられたために冬の寒さと飢えに苦しめられ、三年ほどの間に半数近くが殉教の死を遂げていった。
このように三〇〇年ほども続いた迫害であっても、なお、キリシタンたちは根絶されずに残っていた。これは神の言葉はつながれることがないということの証しともなった。
これは、ローマ時代の長い迫害においても同様であった。コンスタンティヌス皇帝が、紀元三一三年に、ミラノ勅令を発布し、キリスト教を公認するまで、皇帝によってその厳しさの程度は違っていたが、三〇〇年近い年月にわたって、キリスト教の迫害が続けられた。
しかし、最終的にいかなる迫害もキリストの真理を鎖でつないで、その働きを止めたりできないことが歴史的に明らかにされたのである。
神の言葉はつながれない。それは神の言葉は神ご自身が支えておられるからである。悪は決して万能でなく、その背後で神が支配されている。それゆえに神の言葉はいかに悪の力が強大なように見えてもそれは一時的なのである。
どのような権力者も、時間の流れと共に消えていく。時間というものによって一時的なものとしてつながれていると言えよう。徳川幕府の権力が大きくとも、時間が経つとそれもある一時期の間だけのものであり、そこにつながれていたにすぎない、と分かってくる。
ローマ帝国の皇帝や、徳川幕府の権力者たちの支配の力が今日も続いているなどと、感じる人はだれもいない。
しかし、キリストの力、キリストによって語られた神の言葉の力は現在も続いている。二〇〇〇年前と同じく無限のエネルギーと力を持っている。私は自分がこのような力に直接に触れたのでなかったら、到底信じなかっただろう。しかし、若き日のあるとき、突然この驚くべき力に触れて生涯の方向が変えられたことによって、神の言葉の力は山のごとく不動であることを知らされた。
現在では、文明国といわれる国では、昔のように、単にキリストを信じているというだけで苛酷な迫害をするという国はほとんど耳にしない。
しかし、新たな思想や間違った解釈、学問と称する真理に背くような考え方によって、キリストの真理、神の言葉をその狭い人間の考えに縛っておこうとすることは随所でみられる。
三位一体ということ、すなわち神とキリストと聖霊の本質が同じであるという、キリスト教真理は、新約聖書のなかで数多くの箇所で明らかに、それを見ることができる。 しかしこの真理に対してもさまざまな人間の狭い考えでその真理を昔のものだ、と称して閉じ込めようとしたりするのは、現在でもよくみられる。
あるいは、復活などない、精神的なよみがえりのことなのだと言い換えようとする学者、また、十字架は罪の赦しなどでない、敗北なのだ、などと言い出す異端というべき宗教もある。
しかし、聖書で記されているこうした真理こそ、キリスト教の力の根源である。これらを信じないとき、長い目で見るなら、確実に永続的な力はうせていく。
神の言葉を人間的な意見や解釈に置き換えていこうとすること、それはそのような人間の考えの内側に閉じ込めよう、縛っておこうとすることである。
しかし、神の言葉はたしかに、縛られることはあり得ないのである。
「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない。」(マタイ福音書二四・35

 


st07_m2.gif悪の霊を追いだす力

聖書のなかには、現代の私たちが読んで違和感を持つような箇所も多い。そのような箇所は、一読するだけでもうあまり読まないということになる。
しかし、聖書、とくに新約聖書はどこをとっても一見あまり我々と関係のないような内容であっても、その奥に重要な内容が秘められていることがしばしばある。
つぎのようなもその一つである。イエスがユダヤ人の会堂で教えておられたときの記述である。

…人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。
ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。
「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。
人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」(ルカ福音書四・3136

現在では、悪霊とかそれを追いだすなどといった言葉は一般の人はほとんど使わないし、そんな現象を身近に見たことのない人が圧倒的に多いだろう。
しかし、悪の霊、あるいは汚れた霊とかサタンとか言われている、目に見えない悪の力というのは至るところで見ることができる。
新聞やテレビで報道される事件、一人や二人の人間が引き起こす特異な事件や国家的規模でなされる内戦やテロ、戦争などすべて悪の力がなしていることであって、繰り返し日常的に報道されている。そしてそのようなマスコミで取り上げられるのはほんの一部で、悪の力の働きは私たちの身近な家族や職場、近所などなど至るところでも見られる。
それどころか私たちの心のなかにもそのような悪の力がはびこり、それに負けているのが現状である。
私たちが人を嫌ったり、憎んだり、あるいは傲慢になったり、嫉妬や悪口を言い合うなどごく身近なところで日々生じていることも、その背後にはそれを抑えることのできない悪の力がある。
キリストの最も重要な弟子とも言える、ペテロは、三年も主イエスに従った人であったが、彼ですら、イエスが自分の十字架での処刑が近いこと、そして復活することなどを告げたとき、ペテロは「そんなことがあってはならない」と言ってイエスを諌めようとした。そのとき、主イエスは、「サタンよ退け、あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」と厳しく叱責された。このように、サタン(悪の霊)はごくふつうに見える考えのなかにも、心のなかにも入り込んでくる。このような厳しい基準で見るなら、人間はだれでも何らかのかたちで、悪の霊あるいは汚れた霊といわれる悪の力に支配されているということになる。
それゆえに、人間は純粋に他人のためとか真理のためなどといって生きることができないのである。他人のために純粋な気持ちでしている、といっても、もし相手が非礼なことをしたら、すぐに腹をたてたり、憎んだりすることになるのは、それはやはり自分へのお返しを期待する心があるからである。主イエスが、相手が自分にお返ししないから、憎むなどということは全くなかったのと比べると人間の不純さがすぐに分かる。
ここで言われていることは、主イエスは悪の力そのもの(悪霊)を追いだす権威を持っているということである。これは新約聖書において一貫して現れるテーマである。主イエスの働きのすべてはこの主イエスの比類のない権威、力が主題となっている。それゆえ、ルカ福音書においてもこのテーマがイエスがなさった最初のわざとして記されているのである。ここには、この世が悪の霊の支配下にあること、それゆえそれに負けて人間が悪に陥り、本当の幸いから遠く離れていく。主イエスはそのような人間の状況を根本から変えるためにこの世に来られた。
この世が悪の霊の支配にあることは、エペソ書2章にあるし、主イエスが来られた目的が、聖霊を注ぐことにあったのは、このようなことと関連している。主イエスは悪の霊、汚れた霊を追いだし、聖なる霊、清い神の霊を人間に与えるために来られたのである。
この世は、複雑なようで実は単純である。それは、神の霊と悪の霊のいずれに支配され、いずれに導かれて生きているかということである。
この箇所のような内容は、現在ではまるで私たちとは異質な世界のように見えるので、こうした箇所を引用する人は少ない。
しかし、このような記事がなぜルカ福音書やマルコ福音書で最初のキリストのわざとして特筆されているのであろうか。その理由は、人間にとっての根本問題の解決がそこにあるからである。
私たちが罪を犯し、人間関係が壊れ、争いや憎しみ、妬み、そしてそれが国家的規模となって戦争などがあるのは、すべてこうした悪の霊に支配されるからである。
そうしたすべては私たちからその根源を除き、聖霊を与えられることによって解決の道が開けている。
主イエスがこの世に来られたのは、単によい教えを与えるためでない。キリスト教という言葉が一般の人々には誤解を与えている。このキリスト信仰の根本は、○○しなさい、といったよい教えなのだ、というように受け止めていることである。 しかし、単なる教えはいくら受けてもそれを実行する力がなかったら何にもならないし、そんなことは聞きたくないという気持ちになるだろう。
しかし、キリスト信仰の本質は、力である。神の力そのものであるからこそ、人間ではどうすることもできない心の中の悪い思い、つまり憎しみや不正なこと、妬みや怠惰などなどの汚れた思いを追いだすというのは、力である。人間の力ではなく、神の力によってのみそれがなされる。
イエスがほかのあらゆる人間と根本的に異なるのは、そうした力を与えられていたところにある。それゆえにこそ、最大の力である死の力に対しても勝利して復活をされたし、人間の根源にある罪の力を滅ぼすこともできた。
この箇所はマルコ福音書とほぼ同様であるが、参考のためにマルコ福音書の部分をあげる。主イエスが汚れた霊に向かって、「黙れ、この人から出て行け!」と叱ると、ただちに汚れた霊が出て行ったという記述に続いて次のように人々の反応が記されている。

…人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」(マルコ福音書一・27

A new teaching--with authority!
New Revised Standard Version

主イエスが全く新しい、だれもかつて見たことも聞いたこともないようなお方であるという、その本質は、力と権威をもって語り、その力をもって悪の霊を追いだすことができるお方であるということであった。
学問しても、経験を積んでも、また家柄や財産、社会的地位などあっても、ここで言われているような力や権威は生れない。

…人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。(マルコ福音書一・22

主イエスの持っていた力と権威は神に由来するものであった。
その力によって私たちの罪が赦され、死の力をも超えて復活をされた。
単なる新説ではない、また面白いと言える教えでもない。聖書講義と称する長い時間の話しにおいて、いかに複雑な学問的な内容であっても、まるで力がないということがある。単にイエスとパウロの所説の相違とか、原文の解釈のさまざまの多様性を列挙して一つ一つ議論していくなど、それは知的賜物が与えられ、時間を費やせばできることである。しかし、そうしたことによっては、悪に打ち勝つ力は与えられない。
いかに人生経験を積んでも、それだけではそのような力は伴わないし、かえって世の中の悪に染まって懐疑的になり、幼な子のように神を仰ぐことをしなくなる、そして力を失っていく人も多い。
善き力の欠乏、そのことにあらゆる問題の原因がある。キリストはまさにその善き力をこの世にもたらすために来られたのである。
それが、悪の霊を追いだし、神の力と権威をもって語ることであった。
キリストが初めて弟子たちを遣わすとき、キリストの教えと同じようなことを教えるようにと派遣されただろうか。それは当然そのように言われたであろう。
しかし、キリストの十二弟子が初めてキリストから派遣されるとき、聖書に記されているのはそのような教えを忠実に語るように、との命令でなく、次のようなことであった。

…イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。(マルコ福音書十・1

このように、イエスがつねに考えておられたことは、人間を迷わせ、苦しませ、悪事へと誘う悪の力に勝利する力であったのがうかがえる。主イエスが教えられた祈り(主の祈り)には、「御国がきますように。」というのがある。御国とは、神の御支配であり、その御支配のうちにある善きものすべてを指す。それは悪の霊が追いだされ、代りに聖なる霊がきますように! との祈りに他ならない。
こうした悪の力(霊)は、どこにでも入っていく。キリストのわずか十二人の弟子の中にも入っていく。キリストのような完全なお方がリーダーであっても、それでもなお悪の霊は忍び込んでいく。
これが現実の姿である。それゆえ教会であっても、親しい仲間であっても、なおそこに破壊をもたらす力は存在する。そのようなことは、すでに旧約聖書にも記されている。

わたしの信頼した親しい友、わたしのパンを食べた親しい友さえも
わたしにそむいた。(詩編四十一・10

こうした現実だけならば私たちは前進する勇気をついには失ってしまうだろう。しかし、神はそのような現実のただなかに、主に従う者には、そうした悪の力(霊)を追いだす力を与えて下さったのである。
そしてさらに、悪の力を追いだした後に、聖なる霊を与えて下さる。
このことの重要性は、主の復活が最初に知らされたのは、十二弟子でも、パウロでも宗教学者でも指導者でもなく、どうすることもできない絶望的なほどに悪霊に支配されていた一人の女性(マグダラのマリア)であったことにも現れている。
彼女は七つの悪霊を追いだしてもらった、と特に記されている女性であった。

… イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。
悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、
ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。


これがキリストが来られた目的であることは、例えばマルコ福音書でもこのことが最初に記されていることからも分かる。

わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方(キリスト)は聖霊で洗礼をお授けになる。(マルコ福音書一・8

一般の人々は、キリスト教というと水の洗礼を思いだす。しかし、キリストの本当の目的は水による洗礼でなく、聖霊を注ぐことなのであり、最初にあげた、一見奇異に見える箇所、現代の私たちには全く関係のないように見える内容の奥に、当時だけでなく現代に至るあらゆる世界において、根本的に重要な問題の解決の道が示されているのである。

 


st07_m2.gif平和主義の流れ

現在の平和憲法を変えて、軍隊を持つと規定し、自国の防衛のため、また他国が起こした戦争に武力を用いて加われるよう、道を開こうとしている勢力が多くなりつつある。
聖書は武力を用いることが危険であることを遠い昔から説いている。「王は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ちなおして鋤とし槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。(旧約聖書・イザヤ書2章より)
イザヤとは今から二千七百年も昔の預言者である。日本では縄文時代であって、文字もなく、一切の書物もなかった原始時代のころだ。こんな大昔にすでに聖書では、武力による戦いを止め、戦力を持たないことが望ましいあり方であると記されている。これはおどろくべきことだ。「助けを得るためにエジプトに下り馬に頼るものはわざわいだ。彼らは戦車の数が多く騎兵の数がおびただしいことを頼りとしイスラエルの聖なる方(神)を仰がず、主を尋ね求めようとしない。(イザヤ書三〇章より)
 ここにも武力に頼ることの間違いが言われている。武力ではなく、目にみえない真実なお方である神に頼ることこそが、最善の道と記されている。
 イエス・キリストはこのイザヤからおよそ七百年の後に現れた。イエスを捕らえようと剣をもって来た者たちに対して弟子のペテロが剣を抜いて切りかかった。その時、主イエスは言われた、「剣をもとのところにおさめよ。剣をとる者はみな、剣によって滅びる。」この主イエスの精神はイザヤ書ですでに言われていることを明確にしたものであった。
そして世界の歴史において徐々にこの精神が浸透して、武力に訴えることをやめようとする傾向となってきた。例えば一七九一年のフランス革命後の憲法では「フランス国民は征服の目的で戦争に訴えることを放棄し、いかなる国民の自由に対しても決して兵力を使用しない」と決定された。
 また一九三二年のスペインの憲法においても、スペインが君主制から共和国となったとき、人民戦線政府の採用したもので、「国家政策の手段として戦争を放棄する」とされた。また同年のシャム憲法でも「国際連盟規約に反するような戦争は行わない」とする規定がなされたという。
 一九二八年の六三か国加盟の不戦条約(戦争放棄に関する条約)には、第一条に「締約国は国際紛争解決のために戦争に訴えることを非とし、かつその相互関係において国家の政策の手段として戦争を放棄することをその各自の人民の名において厳粛に宣言する。」とされた。
 また国際連合の基本的な原則の中にも「紛争はすべて平和手段によって解決すべし」とか「いかなる国の領土保全と政治的独立に対しても脅威または兵力行使に出たり、そのほか連合の目的に反する態度に出ることを避ける」と規定されている。
日本の平和憲法は、こうした流れの到達点といえる。これははるか昔から聖書のなかで言われていた平和主義が、憲法として制定されたものであって歴史的な意義を持っている。
日本の憲法は日本が自主的につくったものでないといって、変えようとする動きがある。しかし敗戦当時の日本の指導者が提出した憲法の草案は一体どんなものであっただろうか。一九四六年一月に出された日本側の改正案(松本案)の一部についてみてみよう。

・第三条 天皇は至尊にして侵すべからず。
・第十一条 天皇は軍を統帥す。
・第五七条 司法権は天皇の名において法律により、裁判所がこれを行う。

これを見ればこれらの内容は明治憲法と本質的に同じものだというのがうかがえる。例えば明治憲法の第三条の「天皇は神聖にして侵すべからず」とか第十一条の「天皇は陸海軍を統帥す」といった内容とほぽ同じであり、五七条の「司法権は天皇の名において法律により裁判所がこれをおこなう」などを比べてみてもわかる。裁判が天皇の名によつて行われるということから、どんなに不正な裁判が行なわれていったか考えても、何らの戦争に対する反省が成されていなかったのがはっきりとしている。 
 日本人がもし自主的に憲法を作っていたら、明治憲法とほとんど同じになり、あいかわらず天皇の絶大な力が残り、強い軍事力を持つことへの反省もなく、国民の基本的人権などということは到底保障されてはいなかっただろう。日本の歩みは全く違ったものとなっていたはずである。そしてあの太平洋戦争におけるおびただしい犠牲は空しかったことになる。
 天皇を神聖化して絶大な権力を与えたことから、あのような戦争での多大な犠牲となったのに、そのことに関して日本の指導者は全くわかっていなかったのである。
 これは太平洋戦争の末期、一九四五年の八月になってもなお、日本の軍部の指導者であった陸軍大臣は「一億まくらをならべて死んでも大義に生くべきである。あくまで戦争を継続すべきだ。」と御前会議で発言している。天皇のためにどこまでも戦え、日本が焦土と化してもなお最後まで戦争を続けるというのであり、全く国民の苦しみや悲しみを考えもしない発想であった。
 また日本に無条件降伏を勧告するポツダム宣言の受諾に関しても、当時の外相は「国体(天皇が日本の中心として支配する体制)の保持さえあればあらゆる苦痛も我慢する。」といった考えであった。無条件降伏を受け入れるという指導者たちも、それを拒否して戦うという指導者も、共通していたのは天皇制を最も重要なことだと考えていたことである。
 それゆえに、敗戦後において新しい憲法をつくるときになっても、天皇を中心に置く考えの根本は全く変わっていなかったのだ。
 私たちは現在の憲法が持つ平和主義はすでに見たように、長い人類の歴史のなかで、その到達点を示しているのであって、おびただしい犠牲を払って日本に与えられたものなのである。だからこそその平和主義を守り、軍事力を用いないで世界に貢献する道に徹しなければならないし、そうすることが日本独自の本当の国際貢献だと言えよう。

 


英知の言葉から

旧約聖書のなかに「箴言」と題する書物がある。しかし、現在のたいていの人にとって、箴言といってもその内容、イメージがつかめないのではないかと思われる。
キリスト者であっても、旧約聖書をわずかしか読まない者も相当いるようである。ある教会に所属するキリスト者が、旧約聖書の神と新約聖書の神は違うというようなことを言っていたのを聞いたことがある。このような人にとっては旧約聖書は単なる参考として読むだけであろう。
しかし、旧約聖書は主イエスが例えば荒野の試みにおいて、サタンを退けるときに旧約聖書の言葉をもってしたことを見てもその重要性はすぐに分かる。
また、隣人を愛せよ、という有名な言葉はたいていの人がイエスの教え、イエスが初めて教えた言葉のように思っているが、それは旧約聖書のあまり読まれない書物である、レビ記に記されている。
また、十戒(*)は単に映画で有名な過去の出来事でなく、現代のキリスト者にとっても、そのままあてはまる基本的な神のご意志が表されている。

*)十戒(じっかい)とは、モーセが今から二千数百年昔に、シナイ半島の高山で受けた啓示。神以外のものをつくって拝むな、ただ神のみを礼拝せよ、父母を敬え、男女の不正な関係を待つな、盗みをするな、安息日を特別に神に捧げた日とせよ、などなどの教えが含まれている。
この禁止命令については、その原文からすると、ふつうの禁止を表す表現でなく、「…しない」という否定を表す表現が使われているので、原文の本来の意味は、「あなたは、…偶像を礼拝することはないであろう。」という、神の期待の言葉であるともいわれている。(「聖書大辞典」キリスト新聞社などによる)


このように、旧約聖書は新約聖書の源流にあり、新約聖書の意味をより深く知るためにはなくてならないものである。また詩編のように、新約聖書にはごくわずかしか見られない、個人の深い感動、苦しみや悲しみ、賛美というものの集大成によって私たちは、神を信じた古代の人たちの心の深いひだにまで入ってその心を共に感じることができる。
箴言とは、古代の人たちが生きるうえでの、心の世界において成り立つ一種の法則というべきものを集めたものである。ここには、詩編と違って、個人の激しい感情や讃美、苦しみや悲しみの叫びというのはない。箴言にはそうした経験を通して成り立つと確定されるようになった精神世界の法則が書かれてあるといえよう。
箴言はあまり読まれない書物であるが、そこには私たちの信仰の心を耕し、明るくする言葉が随所にある。そうしたものから一部を選んでその意味を考えてみたい。

主を畏れることは知恵の初め。(箴言一・7

この言葉は、箴言の第一章の初めの部分にあり、全体の要約でもあるので、よく知られている。しかし、この重要な言葉において、肝心の「知恵」という言葉が、日本語の「知恵」という言葉のニュアンスとは相当にずれている。
日本語の知恵といえば、
例えばつぎのような用例を考えてみればそのニュアンスが分かる。
「知恵を付ける」というのは、他人にうまい方法や策略を授ける。入れ知恵をする。といった意味であるし、余計な知恵を付けるな、というように、よくないニュアンスでも使われる。さらに、小さな子どもが少し大人びたことを言うようになったら、知恵がついてきた、などとも言われる。 また、「知恵の輪」というのは一種の遊びであり、そのようなことにも日本語では「知恵」という言葉は使われる。
こうした「知恵」という言葉の使われ方が一般によく知られているために、聖書で「知恵」の初め、などと書いてあっても、大したことでないという感じで受けとられることが多いと思われる。
入れ知恵するなどというような、知恵の初めだと思ったら、それは有害なものですらある。
しかし、聖書でいう「知恵」というのは、そのようなこととは根本的に異なる意味を持っている。
新約聖書において、「知恵」と訳された原語(sophia ソフィア)がどのように用いられているかを見てみよう。

・イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。(ルカ二・40

ここでは、主イエスの精神的特質が、ただ一言「知恵が増した」ということで表されている。これは真理を直感し、見抜く力が増していったということである。

・人の子(イエス)が来て、飲み食いすると、「…徴税人や罪人の仲間だ」と言う。しかし、知恵の正しいことは、その(知恵の)すべての子が証明する。(ルカ七・35

ここでの「知恵」とは、キリストが与えられていた真理であり、キリストの働きやキリストご自身をも意味している。

・神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。
わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦された。これは、神の豊かな恵みによる。
神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、
秘められた計画をわたしたちに知らせてくださった。(エペソ書一・69

この言葉によって、「知恵」とは、神の秘められた計画(奥義)を知ることであるのがわかる。

このように、新約聖書において、「知恵」という訳語で表されている内容は、日本語の持つ「入れ知恵する」とか「知恵がついてくる」といったニュアンスとは根本的に異なるのがわかる。
それは、永遠の真理を知り、また見抜く霊的な力であり、一般の人には隠されている神の深いご意志やご計画をも洞察する英知のことなのである。
現在の日本語では、「知恵」というとき、「物事を適切に処理する能力」意味し、何かの問題において「知恵を働かせる」といったり、身の回りのことをいろいろ判断できるようになると、「知恵がつく」といったりする。そこから入れ知恵するなどという悪い意味にも使われる。
しかし、聖書での訳語である「知恵」はより適切には、「英知」というべきで、この言葉は、広辞苑などでは、「深遠な道理をさとりうるすぐれた能力」というように説明されている。

箴言は「知恵」の書である、というとき、この知恵という言葉を、日本語のニュアンスでなく、聖書の世界の特別な意味によって読まねば本来の意味がくみ取れなくなる。

「神を畏れることは、知恵(英知)の初めである。」というとき、物事の真理を深く知るためには、神を畏れることがその出発点となるということである。
しかし、現代の大多数の日本人にはこのようなことはまったく考えたこともないだろう。私自身も長い学校教育を通して、聖書でいうような英知というべきものは全く教えられたことがなかった。
学校教育で学び、大学にてさらに多く学ぶと、いろいろの書物に接するし、それによってさまざまの方面における知識はつく。しかし、英知は身につかない。最も価値あるものは何か、死によっても滅びない真理はあるのか、ないのか、あるとすればそれは一体何であるのか、この世の表面的な出来事を全体として支配し、導くような力はあるのか、私たちの人間そのものに宿る不信実、悪そのものはいかにして追いだすことができるのか…などなど、そのようなことにかかわる深い判断こそ、英知である。
神を畏れるとは、神を信じ、その神が万能であって、真実と正義をもって宇宙を支配されていることへのおそれ敬うことである。神に従えばよき報いがあり、背くなら、必ず何らかの裁きがあることを知っている心である。

英知は真珠にまさり、
どのような財宝も比べることはできない。(箴言八・11

このような、神の真理を知ること、それによって生きることは、いかなるこの世の宝にも勝る。私たちにとっての最大の宝は、神の真理を与えられることである。

英知ある人は、沈黙を守る。
誠実な人は、事を秘めておく。(箴言十一・1213より)

これは、この世の処世訓としての、「沈黙は金、雄弁は銀なり」ということとは違う。神の力と、神の愛を深く知っているとき、そしてその生きて働く神が私たちを導いてくださっていることを深く実感している者ほど、言うべきこと以外は、沈黙を守るようになるだろう。だれかの不当な悪口を聞いたりしたとき、また自分が不当なことを言われても、また間違った評価をされても、神が必ずそこに働いてくださり、時が来たら本当のことを明らかにして下さると、信じて待つからである。
これは、うっかり言えば問題が起きてかえって損をするといった、打算的な考えから、言うべきことも言わないということがじっさいは非常に多い。
しかし、聖書における沈黙の指示は、その背後に深い祈りの心がある。議論や説得ではどうにもならないことは多い。かえって対立を深めてしまうこともある。
そのような時、黙して神の力に頼り、神が働いて下さることを待ち望む。

私たちの日常の生活の中で、じっさいの人間関係や、テレビや雑誌などで、無用な言葉があふれている現在において、本当のよき言葉のはたらきも、箴言において言われている。

神に従う人の口は、命の泉。(箴言十・11

他者にとって災いの言葉は実に多い。その言葉によってなにかざらざらしたもの、汚れたものをその辺りに漂わせるような言葉が私たちの周囲にはあふれている。
人間は自然のままでは、主イエスが次の箇所で言われているように、よくないものが出てきてしまう。

…口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。 悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。 これが人を汚す。(マタイ福音書十五・1820

また、主イエスが神の力で、悪の力を追いだして人々をいやし、死んだような状態にあった者を新しい命に生きるようにしているのを見た当時の宗教的指導者が、イエスの力を、悪霊の力だと断定したとき、つぎのように言われた。

…蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。
善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。(マタイ十二・3435

人間の心には驚くべき悪の力が支配して、口から出る言葉もそのような神の真実を全面的に否定し、踏みつけるような言葉も出てくる。
しかし、主イエスは、人間の心がもしも清くされるなら、その心からは良きものが出されるようになる、その言葉はよきものをたたえ、神の国の香りを持つものになると指し示されている。
たしかに、ある人の言葉から命があふれているような、なにか清いものが流れ出てくるような言葉もある。それを聞く者に命を与えるような言葉がある。
私たちが、苦しみや悲しみのときに主に向かって祈り叫ぶとき、主は私たちに声にはならないような、静かな細い声ではげまし、私たちの悲しみを受けとって下さるのを感じる。こうした経験は本当にキリストを信じ、神に導かれている人ならその程度の多少はあれ、みな感じてきたことであろう。それがあるからこそ、信仰を続けていくことができるのである。
その意味で、生きて働くキリストこそは、私たちにとっての「命の泉」である。またそのようなキリストと深く結びついている人の言葉もまた、命の泉となるだろう。
次の主イエスの約束はこのようなことを指し示している。

… しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。
わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(ヨハネ福音書四・14

このように、キリスト(神)からいただくいのちの水を受けてはじめて、箴言で言われているように、「神に従う人の口は、命の泉」ということが成就するであろうし、次の言葉で言われているようなことが実現する。

人の口の言葉は深い水。知恵の源から大河のように流れ出る。(箴言十八・4

聖書は究極的な真実や正さの源である神を信じ、見つめる。それゆえに神のご意志に反することを罪と言って、罪がいかにして清められるかということを特別に重視している。次の言葉はそうした罪に関するものである。

背き(過ち)を赦すことは、人に輝きを添える。(箴言十九・11より)

自分に対して何らかの罪を犯したもの、悪口や不当なことをした者を赦そうとするか、それとも忘れようとするか、憎むか、私たちはつねにそのいずれかを取ることになる。
だれかが自分に不当なことをしたなら、それを憎むとか仕返すというのが多くの人の気持ちとなるだろう。そのようなときに相手に憎しみを持つなら、私たちの心からは輝きが失われ、醜いものが生じる。憎しみはそれを抱く本人に最も害を与える毒であるからである。
これに対して、もし私たちが相手を、主にあって赦すことができるなら、それは私たちの魂を美しくし、輝きを添える。 そしてさらに、主イエスが言われたように、その赦す心がさらに深くされて、相手の悪しき心がよくなるようにとの祈りを持って相手を見ることができるなら、その輝きはさらに強くなるだろう。
このような魂こそ、主イエスが言われた、「地の塩」なのだと思われる。
人間関係のもとは、不当なことをしてくる相手にどう向かうかということになる。それゆえ、主イエスも、弟子が、だれかが自分に罪を犯したら、どうすべきか、七回赦すべきか、と尋ねたのに対して、主イエスは、七回を七〇倍するまで赦せ、と言われた。これは、人間関係でたえず生じてくる憎しみや妬み、中傷などに対して、ふつうの人間的感情とは全く異なる方向からの対処を指し示したものであった。こうした主イエスの示す方向こそ、私たち自身も清くなり、相手もまた正される唯一の道なのだと知らされる。
箴言のこの短い言葉は、新約聖書のキリストによってさらに深い意味が与えられ、罪の赦しということの重大さがはっきりと示され、私たちが他者の罪を互いに赦しあうことができるように、自ら十字架にかかってまで、その道を開かれたのであった。

 


st07_m2.gif中国の詩から (山中の月)

山中月

わたしは 山中の月が、
明るく葉の落ちた林の上を照らすのを愛する。
月は、一人住む人の心を憐れむかのように
流れる光は、襟のあたりを照らす。
我が心の本来の姿は月のごとく、
月もまた、わが心のようだ。
心と月が二つながら相照らし、
清い夜をいつまでも相語らう。

我は愛す 山中の月
炯然(けいぜん)
*として疎林にかかるを
幽独の人を憐れむが為に
流光 衣襟(いきん)に散ず
我が心 本(もと) 月の如く
月もまた 我が心の如し
心と月と二つながら相照らし
清夜 長(とこ)しえに相尋ぬ

*)光輝くさま。

この詩を作った人は、中国の南宋の時代(一一二七年~一二七九年)の人で、姓名も分かっておらず、真山民と言われるが、その姓とされる「真」も推定される姓で、自分で「山民」を名乗っていたという。この詩には、自然のただ中で、木々や月の光との清められた交わりが歌われている。
月や樹木を創造された神を心に信じる者にとっては、この詩人のいう、心と月が相照らし、語り合うということがさらに深められ、そうした自然を創造した神からの光を受け、逆に自分の心を神に注ぎ、こうして神との霊的な交わりの世界を思い起こさせるものである。
罪深い私たちの心も、そうした汚れのまったくない自然のすがたに深く接するとき、それは神のお心の一端に触れることであり、それによって私たちは神との清い交流がはじまる。
私たちが星をじっと見つめるほど、星もまた私たちをじっと見つめるように感じられてくる。同様に、神を心を尽くして見つめるとき、神もまた私たちを見つめてくださっているように感じられてくる。
創世記において、兄から命を奪われそうになって、親たちのいるところを離れて遠く未知の土地へと旅立ったヤコブが、荒れ野のただなかで、驚くべき啓示が与えられた。それは天にかかる階段であり、そこを天使が上り下りしているのであった。
これは、ここで述べたようなことを指し示すものである。神からのよきものが天から下り、また私たちの思いが天へと運ばれていく、両者の交流というほかには代えがたい経験が与えられるということなのである。

 


st07_m2.gifことば  巻頭言

これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、
高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、
暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、
我らの歩みを平和の道に導く。(ルカ福音書一・7879

 


st07_m2.gif休憩室

○宇宙の広大さ

秋の空はことに澄み切って見えるときが多い。ことにこのところ、夕方には南西の空に金星の目を見張るような輝きが私たちを見つめているし、日が暮れてからしばらくすると、今度は東の空から赤い大きな星(火星)が私たちを見つめています。
そしてそうした特別に明るい星以外に、無数の星たちが輝き始めます。この星たちはどれくらい遠いところからその光を送っているのか、知れば知るほど宇宙の広大無限に比べて、人間のいかに小さいかを知らされます。
宇宙という言葉で連想する夜空の星はどのくらいの距離なのか。
夜空に見える恒星のうちで、最も近い星はケンタウルス座アルファ星ですが、それは光の速さでも四・四年もかかる。これは、四十兆七千億キロメートルにもなる距離です。
このような想像できないような遠い星が、宇宙にある最も近い恒星です。そして太陽系を含んでいる銀河系宇宙のとなりにある、肉眼でも辛うじて見える星雲は、アンドロメダ星雲であるが、そこに至る距離は、二百三十万光年もあります。
光が四年あまりかかって到達する距離でも、私たちは到底その長さがわからないほどであるのに、その光が二百三十万年もかかって到達する距離というのは、もはや我々には漠然としたとてつもなく遠いという感じしか分からない。
しかもそのような星雲が無数に宇宙にあるというのです。
このような広大無限のような世界が宇宙なのであるが、神はそのような宇宙そのものを創造されたのであって、いかに無限に壮大なお方であるかが感じられます。
そのような神が小さな人間一人一人を愛をもって見守り、導いて下さるということは、奇跡のようなこととして感じられるのです。
昔は、巨大なビルもなく、また、車の走行がもたらすおびただしい微粒子状のゴミや、排気ガスもなかったので、大気の透明感は現在とは到底比較できないものがあったと思われます。
そのような澄み切った大気のなかを貫いて輝く金星は強い霊感を与えるものとなったであろうことは容易に考えられます。
じっさい、聖書の最後の書である黙示録には明けの明星としての金星が、主イエスを象徴するものとして現れます。

…わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。(黙示録二二・16

明けの明星の輝きを見て、そこに主イエスがその光の背後から語りかけているように感じたからこそ、このように記されているのだと思われます。
自然の何にも汚されない清さと光は、このようにはるかな昔から人間に神の世界や神の言葉を暗示し、指し示してきたのです。
現代は都会ではますますこのような心を惹く星の姿はなくなってしまいましたが、そのときでも、霊の星たるキリストは、いっそうの輝きを、求める人に明らかにしていくことでありましょう。

○秋の野山

私は山を歩く時間は近年ではほとんどなくなってしまいましたが、県の内外をキリスト教の集りで聖書講話のために移動
るので、その時に車を降りて付近にある野草を見付けて調べることがあります。
山間部では、ヤマシロギク、シラヤマギク、ノコンギク、ヤクシソウ、リュウノウギク、シマカンギクといった、野菊の仲間が一〇月も下旬になると次々と咲き始めます。これらは花の美しい野草がなくなりつつある最近であっても、少し山路をいけば見出すことができます。
山の緑一色を、その山道を飾るようにこれらの可憐な野菊たちが咲きます。
私たちの御国への道においても、このような白や黄色、あるいは青紫などさまざまの色合いの花が咲いています。それはよき書物との出会いであったり、各地での新たなよきキリスト者たちとの出会いや、罪深い人間の働きが祝福されて、意外なところで新たな働きをする人が与えられたり、小さな印刷物がどこを通っていったか、新たな人が読者として加えられたりします。
こうしたことはすべて、日々の私たちの歩みの道における野菊のようなもの、香りあり、周囲につねに神のお心をあふれるように語り続けています。

 


st07_m2.gif編集だより

○来信より
・私はキリストを信じて四十年近くなりますが、復活のことがなかなか分かりませんでした。聖霊を与えられているにもかかわらずです。しかし、「いのちの水」誌により、私の内に与えられている聖霊は、キリストの復活の御霊なのだと知らされたとき、復活は私にとって確かなものとなりました。感謝いたします。(関東地方の方)

○ 今月は、予期しないことが生じたり、集会関係の仕事がいろいろとあったため、また体調も十分とはいえなかったために、「いのちの水」誌を仕あげることがなかなかできず、遅れて発送することになりました。 十分な校正もできなかったので、思わぬ誤りもあるかとおもいます。 このような土の器にも主が真理を注いで下さり、それを用いて下さることを願っています。