巻頭言

聖霊の導きの下に祈りなさい。
神の愛によって自分を守りなさい。


(ユダの手紙2021より)



200512月 第539号・内容・もくじ

st07_m2.gif平和への道 st07_m2.gif神がそのわざをなされるときールツの歩みー st07_m2.gifイエスが来られた意味
st07_m2.gifことば st07_m2.gif祈りの家 st07_m2.gif休憩室
st07_m2.gif編集だより   st07_m2.gifお知らせ

 

st07_m2.gif平和への道

新しい年に、何より願うことは、平和である。国の平和、世界の平和、それらの根底にあるべき心の平和。
日本においては、かつての大戦争が甚大な悲劇を生じたことへの強い反省から、平和主義の憲法が与えられた。戦前は、 国を守るという言葉のもとで、軍備の拡張がなされ、そのあげくに戦争が生じた。
そのゆえに、軍備を持つというのとは異なる方法によって平和への道を歩むことになり、日本は六〇年間曲がりなりにもその道を歩んできた。
今後は、それを変えるのでなく、いかにその道を補強するか、堅固な道にするかということである。そのために、軍備にかかる莫大な費用の相当部分を、とくに外国の貧しい国々に人手と物資、技術などを提供することである。
最新鋭の護衛艦であるイージス艦一隻は、千四百億円もするし、戦闘機は一機百億円ほどもかかる。このような費用を、海外への青年の奉仕、あるいは貧しい国々を実際に体験する研修に送り出すための費用として、また、そうした国々の医療や教育、水道など、不可欠なものの援助に充当するといった道こそは、国を本当に守る道である。
平和は汗を流すことなくしては得られないとして、外国に軍隊を派遣することを主張する人がいる。しかし、同じ汗を流すにも、軍隊でなく、奉仕ということで汗を流していくならば、どこの国にも認められるようになるであろう。
爆撃機や潜水艦、兵隊などを送り出し、武器弾薬などを提供することによって国際紛争を解決しようとするのでなく、あくまで飢えや貧困、医療や水問題などの解決のための奉仕に経費をかけることを継続していくことである。
このように、武力を持たないと国の最高法規で規定した上で、他国への奉仕ということによってその平和への道を強固にしようというような道は、どの国も歩んだことがない。
現在の憲法第九条は、本来そうした道による平和を指し示しているのである。
このような社会的、国際的な平和の根底にあるのが、一人一人の人間の魂における平和(平安)である。
目に見えるものだけを重要だと思ったり、自分中心に考えたり、自分のことを正しいと自負したりする傲慢さを持っていたり、弱い者を抑圧、差別したり、 憎しみを抱いたりするなら、それは心の平和を持っていないことであり、そのような人間が権力を持つなら容易に社会的な平和を破って自分の欲望のために、他の民族を抑圧したり、反対意見の者を権力で封じ込めたりするであろうし、そこから戦争ということにもつながる。
聖書ではこうした社会的な平和の根源にある霊的な平和への道を明確に告げている。しかし、そのような平和はただ何もせずに来るものではない。確かに血と汗を流して与えられるものである。
しかし、軍隊による侵略、軍事行動という形での血と汗でない。
主イエスは、その険しい道を歩むことを選ぶ際に、血のしたたるように汗を流して祈り戦い、自ら十字架にかかって血を流された。まさに、血と汗によって真の平和への道を切り開かれたのであった。
たしかにそのような方法により、永遠の平和への大路が開通したのである。その大いなる道は、天の国へと通じており、いかなる人間も組織もその道を破壊することも縮小することもできない。

「私は道であり、真理であり、命である。」と主イエスは言われたが、それは、真の平和、すなわち武力とか権力をもってするまちがった道でなく、永遠の平和への大路の開通を宣言する言葉なのである。
こうした平和への道は、イエスより七百年ほども昔の預言書によっても啓示されていた。
これは直接的には、シオンへの道を示すものであるが、現在の私たちにとっては神の国への道を指し示すものなのである。

そこに大路があり、その道は聖なる道ととなえられる。(イザヤ書三十五・8

主イエスによって開かれたこの聖なる大路は、二千年の歳月を経ても変質することがない。ただし、それは主が言われたように、「入口は狭い門であり、細い道」である。
神を信じ、主イエスを救い主として受け入れるという狭い門がある。そしてまず神の国と神の義を求めていく細い道である。しかし、それは強固な道、永遠に破壊されない道であり、神の国へと続く道である。
そのような平和への道を歩む者こそが、人間の集りの平和、社会的な平和を人間の最も深いところから推進すると言えるだろう。そのような意味において、主イエスは、言われたのである。

平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ福音書五・9

 


st07_m2.gifイエスが来られた意味

わが国の大多数の人にとって、イエスがこの世界に来られた意味、などに関心はないだろう。しかし、実は逆にほとんどの日本人が、実はイエスが来られたことに関する記念日を祝っているのである。それがクリスマスである。
クリスマスというと十二月だけのことだと思われている。しかし、キリストがこの世に来られたこと、その意味については、いつの季節にも、否千年、二千年経っても変わらぬ重要な意味がある。
しかし、最近では、とくに日本ではクリスマスはキリストよりはるかに、サンタクロースやクリスマスプレゼントのことが思いだされる状況である。
しかし、クリスマスの行事のもとになっている聖書の記述はどうであろうか。クリスマスという言葉がいかに日本で広く知られていても、肝心の聖書でどのように記されているのかを正しく知っている人はごく少ないであろう。
クリスマスとは、その言葉の意味からしても、クリスト(Christ)のマス(mas)であり、キリストのミサなのである。(*)言い換えれば、キリストへの礼拝であり、毎日曜日にしている礼拝の特別なものといえよう。

*)ミサは、ラテン語ではmissa スペイン語では misa(ミサ) ドイツ語で Messe(メッセ)、英語では、mass(マス)という言葉になる。なお、キリストというのは、 ギリシャ語のクリーストスの日本語の発音であるが、外国語では、クリストという音になるのが多く「キ」と発音するのは日本だけである。

それゆえ、人間の誕生日のように、単に○月○日に生れた、おめでとう、といったお祝いの日ではない。クリスマスは、キリストの誕生を思い、キリストが私たちのために来て下さって、私たちに本当の幸いの道を開いて下さったことを感謝し、さらにこの世の至るところに広がる闇の世界に、主イエスよ、来てください、と祈り願う日なのである。
キリストが開いて下さった幸いの道とは何か、といえば、それは一言で言うと、人間をその罪から救い出す道を開いて下さったということである。そのことは、極めて重要なので、新約聖書の最初に置かれた福音書のはじめの部分に次のように記されている。

…マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。(マタイ福音書一・21

罪というのは、人間の魂の一番深いところでの問題であり、からだの病気や政治体制、環境問題、飢餓やテロの問題等々より深いところにある。病気がなくても、民主主義の国にいても、憎しみや差別はなくならない。教育でもなくならない。飢餓のない豊かな国であっても、やはりこうした心の問題は解決されない。
また、環境問題が解決されようともこの心の問題は解決されない。 環境が破壊されていなかった古代からずっと、人間どうしの争いや憎しみはあったからである。
それは自分中心の考えが深く宿っているからである。 このように、いかなる社会問題が解決されてもなお厳然と存在するのが、心の奥深いところでの、真実を欠いていること、高ぶりや自分中心の考え、愛のなさ、心の汚れ、不正、等々である。
それらを罪というがそうした根本問題の解決の道を開くために来られたのがキリストであった。
政治や科学技術、あるいは習慣や制度、それらは時代とともに次々と変化していく。いまいくら大問題だと思っていても、数年先にはほとんど忘れ去られることが多い。
人間がどんなに経験を積んでも、いかに天才的な学者であっても、またいかに文字もない未開の国の人であっても、あるいは死を間近にした重い病人であっても、すべての人間にとっての根本問題は、すでに述べたような意味での罪の問題なのである。
経験を積んだから罪がなくなることもないし、学問ができる、ノーベル賞をもらったからといって罪は消えることはない。新たな高慢という罪が生じることもある。
キリストが来られたのは、内なる悪、霊的な悪である罪からの救いのために来られたのであるが、そのこととつながっているのが、この世に至るところにみられる目に見える悪の支配、死の支配に打ち勝つ神の力を与えるためであった。
それは、新約聖書の最初のマタイ福音書に記されている。
イエスは、ヘロデ王の時代に生れた、とイエスの誕生の記述の最初に記されている。なぜこのことが冒頭に記されているのだろうか。ヘロデ王とは、どのような王であったか。
ヘロデは、十人もの妻があり、十五人の子どもがいた。しかし、その家庭は混乱の極みとなっていた。自分の王位がねらわれると恐れて、義母や叔父を殺し、その子や、最愛の妻の二人の王子の命も奪い、別の妻から生れた長男をもいろいろないきさつの後に殺し、みずからの最愛の妻をも疑ってその命を断ってしまった。
このような王であったから、新しい王(イエス)が生れたことを知らされると、赤子のうちに殺そうとしたが、エジプトに逃げてしまったため見つからなかった。そこで、その付近に生れた二歳以下の男の子を皆殺しにしていった。(マタイ福音書二・16
このような暗黒に包まれたような王のもとにイエスが生れたと言おうとしているのである。
生れた時からすでにイエスは闇の力との戦いに置かれていたのである。
悪の力のただなかに、イエスは生れた。それはいつの時代にも見られる悪の力そのものに勝利するために来られたということを指し示している。
いずれにしても、イエスの誕生は、決して単に甘い楽しいものでなく、暗く重い人間の現実の状況のなかに、光をもたらし、悪との戦いに勝利する道を指し示すものであった。

イエスの誕生については、もう一つ、ルカ福音書が記している。
マタイ福音書がヘロデ王の時代ということをまず書いているのに対して、ルカ福音書では次のように記されている。

…そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。…
人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
ヨセフもユダヤのベツレヘムという町へ上って行った。 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。
宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。(ルカ福音書二・17より)

ルカ福音書においては、二つの王権が対照的に記されている。それは、ローマ皇帝の王権と、キリストの王権である。
ルカ福音書においても、当時の支配者の名前が記されている。それは地中海を取り巻く広大な帝国であったローマ帝国の皇帝、アウグストゥスである。
これは、最初の皇帝で、キリストの誕生と同時代なのである。アウグストゥスは皇帝として豪華な宮殿にいて、当時としては世界を支配していると思われていたであろう。
そのような最高権力者と、イエスが対比的に記されているのである。
イエスは家畜小屋で生れた。家畜小屋とは、まっ暗で不潔な、家畜の排泄物などの臭いのするところである。 人間が生れる場所としては最悪のところであろう。
それとローマ皇帝が住む豪華な建物とは際立った対照がある。
ローマ皇帝は弱い者を支配し、抑圧することによってその領域を拡大してきた。
他方イエスは、家畜小屋のような最も貧しい人のいるところ、文字通り闇のただなかで生れた。これは、主イエスはどんな暗いところにいる人、貧しい人、あるいは人間扱いされていないような人のところにも来て下さるということを指し示すものである。
イエスは、年若くして十字架で処刑されたが、三日後に復活し、聖霊として弟子たちを動かし世界にその福音を伝えるようになった。
ローマ帝国は三百年近い間、キリスト教迫害を続けたが、福音の力によって、ついにキリスト教を認め、受け入れるに至った。
この福音書が書かれたときにはそのような数百年後のことは分かっていなかった。しかし、啓示によって著者はイエスこそ、真の王であり、ローマ皇帝の強大な支配権すらもキリストの力の前には何の力もないことを知っていたのである。
そのことから、さらに私たちは現実の世界でどんなに大きいように見えても、武力や国家権力、あるいは経済力等々、それらはみんな移り変わり、時が来たら消えていく。
しかし、キリストの力や、その力に支えられた言葉は決して消えることがない。主イエスが言われたように、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マタイ福音書二四・35)のである。
このように、イエスの誕生の記述は、マタイ福音書とルカ福音書の二つであるが、そのいずれにも、イエスは何のためにこの世に来られたのか、という意味が込められている。
マタイでは、悪の力のはびこるただ中に、悪との戦いに勝利するために、そして人間にそのような勝利の力を与えるために来られたことが記され、ルカでは、貧しさや弱さ、闇のただなかにて苦しむ人のために来られたということなのである。
このような意味があるからこそ、クリスマスはいつの時代にも、そして単に十二月だけのことでなく、つねに私たちにとって重要な意味を持ち続けていると言えよう。
悪に勝つ力が与えられること、主イエスが私たちの闇と貧しさ、そして弱さのなかに来て下さること、これだけあれば、だれもが満たされるのである。
それゆえに、聖書の最後にも記されている「主よ、来てください!」という願いはそのまま現代に生きる私たちの切実な願いなのである。

 


st07_m2.gif祈りの家

キリストは、柔和な愛のお方であるということは、全世界的に知られている。
しかし、ある時のキリストの言動は、そうしたイメージと大きく異なる。
それは、つぎのような記事である。

…それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。
そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』
ところが、あなたたちは
それを強盗の巣にしている。」(マタイ福音書二一・1213

主イエスは、自分が十字架刑に処せられることを知った上でエルサレムに入ったが、そこで出会った神殿での状況に直面したとき、このような激しい主イエスの言葉が出された。
なぜ、柔和なイエスがこのような激しい態度を表されたのか、私たちにはとても不思議なことに思える。新約聖書の主イエスの言動を記した内容を見ても、このようなことは他に見られない。
ここに主イエスが特別にこの問題を重視し、それゆえに異例の行動を示し、それによって周囲の人々にこの問題の重要性を刻みつけようとされたと考えられる。
しかし、これは、単に昔のイエスの時代の神殿についてだけ言われているのではない。とくに新約聖書における大部分の内容は、そのような、特殊な国のある時代にしかあてはまらないようなことでなく、誰にでも、またいつの時代にもあてはまることなのである。
「わたしの家」それは、ここでは神殿という特別な建物を指して言われている。それゆえに、そんなことは日本にいる自分たちには関係がない、と思い込む人が多い。
しかし、私たちそのものが、神の霊あるいはキリストがやどる神殿である、と言われているのである。

… 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり…(Ⅰコリント一・19より)

このように、神を信じ、キリストを救い主として受け入れた者は、その人のうちに聖霊が住んで下さっている神殿となっていると言われている。しかし、その重要なことを気づかずにいる者が多いために、パウロは「あなた方は、知らないのか」と、この重要な事実に気づかせるようにとうながしている。

…あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。(Ⅰコリント三・16

…わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。「わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(Ⅱコリント六・16

こうしたことは、旧約聖書の時代には、考えられなかったことである。神は人間と無限に離れた聖なるお方であり、その御前に出ることすら、裁かれ、罪のゆえに殺されると信じられていたほどであった。
イザヤ書の著者として重要な、預言者イザヤは、神の言葉を告げるべき者としてとくに選ばれたとき、神の御姿を見る、という特別な経験が与えられた。それをイザヤは喜ぶどころか、大いに恐れた。
「ああ、私は滅ぼされる!罪深い者なのに、神を見た。」(イザヤ書六・5より)


このように、新約聖書のなかで、繰り返し強調されているように、私たち自身が神の霊がやどる「神殿」なのである。
使徒パウロは、自分のうちにはキリストが住んでいることを特に重要なこととして述べている。

…生きているのは、もはやわたしではない。キリストがわたしの内に生きておられる。(ガラテヤ書二・20

その私たちの内なる神殿も、目を覚ましていなかったら、やはり祈りの家でなく、自分のもとに評判や金などを他者から集めようとする「強盗の巣」にすらなってしまう。
なぜ、主イエスは、両替人の机をひっくり返し、追いだすという特異なことをされたのだろうか。
それは、人間というものは、祈りが究極的な姿であり、信仰に関わる施設にはこのような祈りが中心に置かれていなければならないということを強く示すためであった。
祈りとは、神に向かう心であり、神からの賜物を受けることである。そして神から受けた力、愛、清さなどをまた周囲の人に分かとうとすることである。
御国がきますように、という祈りは、この双方を含んでいる。自分の魂のうちに、御国が来るとき力と平安が与えられ、神の愛が生れる。そして他者にも、周囲の社会にも御国がきますようにと祈ることは、まわりの人々についても最善を祈ることである。
こうした祈りがないところでは、キリスト者であっても、また何らかの宗教的施設であっても、その施設は宗教を利用して何かを集める、それは強い表現で言えば、主イエスが用いたように、盗みということになりかねない。
人間は神からよきものを受けて、それを分かとうとするか、もしくは、他者から自分へと集めよう(奪おう)とするか、の二つの方向のいずれであるかということなのである。
他者から評価されたいと願う心は、他者の評価を奪ってきたいという心である。
また、会社にしても、よいものを分かとうとすることが第一の目的でなく、いかにたくみに他者から収益を奪ってくるか、ということが第一の目標となりがちである。
学校時代に成績に一番の重きをおいて勉強に力を入れる、それも勉強で得た知識や技術を他者に分かつことが第一の目的でなく、やはりそれで安定した企業に就職して、多くの報酬を得たい、社会的な評価も受けたい、よい結婚をしたい、健康な生活をしたい…というごくふつうの願いが第一にあるだろう。
こうしたごく自然だと思われる願いにおいても、その心の奥にはやはり、何かを無理にでも自分のところに集めたい、奪ってきたいという心がある。
 このように見てくると、この世の印刷物やテレビ、雑誌などがいかに「祈り」とは無縁の世界であるかが浮かび上がってくる。それは「奪おう」とする意図が随所に見え隠れする。スポーツにしても、人々の支持と金を集めようとするし、オリンピックなどのような大規模なスポーツの祭典においては、莫大な金が集められようとする。実際そこから不当な巨額な金が一部の人によって奪おうとされることがよくある。
アジアの貧しい国々に日本の会社が出て行ってそこで、日本の工場を建設し、安い賃金で長時間働かせて商品を作る、またそこで日本の商品を売る、そして彼らの苦労して稼いだ金を得る、それは法律的に何ら問題のない商行為であっても、やはりどこか彼らの労働力とか長時間にわたる労働時間などを奪ってくるという側面がある。
かつて、フィリピンやインドネシアで生い茂っていた森林を日本の企業が材木として大量に購入し、ラワン材が次々と切り倒されて消失していったり、フィリピンで緑の山々がはげ山になっていったという事実がある。
こうしたことも一種の奪っていく行為である。
戦争というのは、奪うという行為の最たるもので、人間の命、家、財産、領土までも次々と奪っていく。
こうした自分が生きていくために、奪っていく行為は、動物はみんな持っている。それが自然の行動なのである。肉食獣はより弱い動物の命を奪って生きる。しかしより弱い動物はそのかわり繁殖が容易で、食物も草食獣のように、より簡単に見出せるようになっている。
また、大きい魚は、小さな魚の命を奪って生きる、その代わり小さな魚は大量に幼魚が生れるようになっている。
このように、他者から何かを奪って生きていくということは、動物の世界ではごく自然な営みである。
そのような動物的な状況は前述したように、人間にも多く見られる。宗教という人間特有の領域においても、「奪う」ということがしばしば生じていく。
そこから主イエスは、全く異なるあり方を力を込めて指し示されたのが、はじめに引用した記事である。
祈り、それこそはこの奪い合うという、動物にも人間にも共通して見られる姿からの脱却の道である。その祈りにおいてどのようなことを第一に祈るべきか、それを主イエスご自身が示されたのが、「主の祈り」と言われるものである。そこには第一に、「御名があがめられますように」、次に、「御国がきますように」という祈りがある。
これは、まず人間が神を人間とは全く異なる存在とみなし、あがめること、奪い合う姿から解放されるためにはまず聖書で言われているような、唯一の神を信じ、あがめることである。
そして、そのような神の御支配がきますように、と願って、神の国を受けることである。
イエスが十字架で処刑されてからは、いなくなったのでなく、目に見えない存在、つまり聖霊となられたゆえに、御国が来ますようにという祈りは、聖霊が来てくださいますように、という祈りをも含むものとなった。
祈りが私たちの生活の中心にあるかどうか、ある組織や集り、教会などの中心にあるのかどうかが、いつも問われている。
新聞、雑誌などいろいろな出版物やテレビ、ラジオ、ビデオやDVD、あるいはインターネットなど、それらは、何かを奪おうとする精神なのか、それとも、祈りの心があって、よきものを与えようとの意図があるのかどうかに分かれる。
書物や雑誌などにおいても、多くのものが、内容のよくないもので満ちている。それは、そのように内容を引き下げることによって、売れ行きを増やそうとすることであり、そこには読者から収益を盗もうとするような精神を含んでいる。
しかし、それが「祈りの家」そのものであるような書物もある。それが聖書である。聖書は巻頭から、ずっと祈りが満ちている驚くべき書物である。この書物だけが、「神の霊によって書かれた」と言える書物であり、登場人物や、聖書を書いた人たちの祈りがほとんどどの頁を開いても感じられる。
また、神の直接の被造物である、自然の風物もまた、祈りで満ちている。身近な草花、野草の花々も、そこには祈りが花開いているかのようであり、大木などはまさに、いかなる風雨にもかかわらず、祈り続けているようである。
夜空の星、夕闇に驚くべき明るさで輝く金星の光も、その光に祈りが託されているように感じるし、朝早いときの赤く大きい太陽や、朝焼けの空なども深い祈りをそこに感じさせるものがある。
 私たちの日毎の人間関係においても、相手から何かを奪おうとするか、あるいは祈りをもって関わろうとするかである。相手から愛や慰め、あるいは感謝やお返しを受けようとする心で関わっているか、それとも、祈りをもって、相手に良きものが神から与えられるように、と願い、祈りによって相手との関わりのなかに神が共にいて下さることを願っているか、である。
私たちの心が、「祈りの家」となるとき、それは主のみこころにかなうことであるゆえに、そこには不思議な祝福が注がれ、神がそのような祈りを聞き届けて下さるようになる。

 


st07_m2.gif神がそのわざをなされるとき ―ルツの歩み―

旧約聖書のなかで、わずか七頁にも満たない小さな書がある。創世記は九〇頁を越えるし、イザヤ書は一〇〇頁もの分量があるし、旧約聖書全体では一五〇〇頁にもなる分厚い書物であるから、ルツ記はごく小さな書である。しかし、このルツ記は重要な意味を持っている。
今から三〇〇〇年以上も昔、現在パレスチナ地方と言われているところに、ユダの国があった。そこでは飢饉が激しくなり、ある人が妻ナオミと二人の息子を連れて、外国(死海の南東部のモアブ)に移り住んだ。
しかしそのようにしてたどり着いた外国の地、モアブの地にて、その人は二人の息子を残して死んだ。
二人の息子はその後、外国人であるモアブの女と結婚した。ところがその二人の息子もまた、死んでしまった。
妻のナオミは、飢饉のゆえに住み慣れた祖国を離れて、遠い異国まで逃れていったのに、そこで夫が亡くなり、途方に暮れているときに、さらに二人の結婚していた息子たちまで、相次いで死んでしまった。
古代において、夫が亡くなり、その後に二人も続いて息子たちが亡くなるということは、特別な悲劇であり、それは神からの何らかの罰を受けているからだと思われたのである。しかも、息子たちの嫁は、外国人であり、自分の祖国に連れて帰ることもできないと考えられたから、なおさらのことであった。もし、息子の嫁たちが、同じイスラエルの民ならば、祖国に帰ってから結婚をさせて、夫の持っていた土地を確保することができると思われたが、異国の女であれば、当然その女たちは誰一人知り合いもいないイスラエルに行くことは考えられないことであった。ナオミは文字通り、すべてを失ってしまったといえる状況に置かれたのであった。
夫を失った女(やもめ)は、特別に社会的な弱者となった。昔は仕事というのは、農業、漁業などにしても機械がなかったゆえにほとんどが力を要するものであったから、男手がなければどうにもならない。

…支配者らは無慈悲で、…孤児の権利は守られず、やもめの訴えは取り上げられない。(イザヤ一・23

…彼らは弱い者の訴えを退け
わたしの民の貧しい者から権利を奪い
やもめを餌食とし、みなしごを略奪する。(イザヤ十・2

このような聖書の記述は未亡人たちが、特に弱い立場に置かれていたかを示すものである。

このように、ルツ記は、一人の女性の家族も財産も失われた絶望的状況から始まっている。
しかし、何一つ希望がないと思われる状況にあっても、神は人間の予想を超えたことをされる。
それは二人の異国の嫁たちが、ナオミに従って、誰一人知り合いもなく、差別されるであろうイスラエルに帰るナオミに従っていこうとしたことである。ナオミは故国に帰る道の途中で、自分について来てくれるのは嬉しいが、ユダヤ地方に帰っても嫁たちには何のよいことも期待できない、だから自分の里に帰るように、と諭した。
モアブの地を出発するときには、ナオミも傷心のあまりであろう、二人の嫁たちにあなた方は私について来なくていい、自分の国に留まりなさい、そうして新しい夫を見出しなさい、と諭すことはしなかった。
しかし、三人で故国に帰るその道すがら、二人の嫁の前途を思うと、自分のことばかりを悲しんでいてはいけない、この二人も不幸な自分の道連れにして苦しめることになるのだ、そんなことをしてはいけない、という気持ちに駆られた。

… ナオミは二人の嫁に言った。「自分の里に帰りなさい。あなたたちは死んだ息子にもわたしにもよく尽くしてくれた。どうか主がそれに報い、あなたたちに慈しみを垂れてくださいますように。
どうか主がそれぞれに新しい嫁ぎ先を与え、あなたたちが安らぎを得られますように。」ナオミが二人に別れの口づけをすると、二人は声をあげて泣いて、「いいえ、ご一緒にあなたの民のもとに帰ります。」(ルツ記一・810

ナオミは、自分は神からの恵みを受けるどころか、神によって不幸にされたと考えていた。それでもこのように、「主があなた方に良き報いを与え、慈しみを注いで下さるように、主が新しい嫁ぎ先を与えて下さるように」と願っていることでわかるように、神への信仰は捨てることはなかった。
この二人の嫁(ルツとオルパ)は、非常な困難が予想されたにもかかわらず、ナオミに従って行こうとした。
モアブの二人の嫁たちは、前途の多大な苦しみや貧しさが予想されるにもかかわらず、ナオミに従っていこうとするほど、ナオミを慕っていた。それを見ても、彼女が愛の深い女性であったのが分かる。
そのような真実な信仰深い女性であっても、すべてが奪い去られるということになったのである。それでもなお、ナオミは神への信仰は失わなかったし、モアブの二人の女、オルパとルツはそのようなナオミの信仰と真実を見て、異邦の国であるのに、ナオミに従って、祖国を離れようとした。
ナオミにしてみれば、彼女たちがついてきてくれれば心強いことであったろうが、途中でやはり自分中心でなく、神と他者中心に考えてみるとき、夫を失った二人の嫁たちを連れてくることはできないと考えたのである。
しかしルツは、前途の希望もなく、親しい人も一人もなく、どんな土地かということもわからないにもかかわらず、すべてを捨てて、ナオミについていこうとした。ここには、愛と神への信仰、そして神がきっと助けて下さるという希望があった。ナオミはすべてを失ったが、そのかわりこのようないつまでも続くものをしっかりと保持している一人の女が与えられたのであった。
目に見えるものは失われても、そしてその苦難や悲しみのただなかではわからなくとも、最終的にはこのように、神は必ずそれに代わるものを与えられる。
このような、姑思いの嫁は現代ではあまり見られないのではないだろうか。このような決断をさせたのは何であっただろう。 それは、自分の前途をまず考えるという自分中心の考えよりも、姑であるナオミへの愛によって決断したのである。
それはまた、ナオミとの今までの生活が、真実なものであったゆえに、嫁たちもその真実によって動かされ、遠い異国への何の希望もないところへと共に歩んで行こうとしたのだと思われる。
しかし、ナオミは自分が彼女たちを幸いにできることは考えられないと言って、さらに強く帰るように勧めた。
そのために、一人の嫁(オルパ)の方は涙を流して分かれを惜しみつつ故国へと帰って行った。
それを見て、ナオミはルツに、さらに勧めて「あなたも、自分の国に帰りなさい」と言った。このような状況となれば、いよいよルツはたった一人外国人として習慣も風俗も違っているうえ、親も友人も一人もおらず、万事において貧困と孤独、あるいは周囲の好奇の目にさらされての苦しい生活が待っているのであるから、それでは自分も帰ります、と言って帰ることになってしまうのが予測される。
しかし、ルツは違っていた。驚くべき決断をする。

…ルツは言った。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き
お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民
あなたの神はわたしの神。
あなたの亡くなる所でわたしも死に
そこに葬られたいのです。
死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」(ルツ記一・1617

ここには、人への真実とともに神への真実な心がうかがえる。ルツはモアブという偶像を神とする国に育った女であったが、ナオミたちとの生活によって、聖書に示されている唯一の神を信じるように導かれたのが分かる。
ルツがナオミについてユダの国に行ったとしても、何一つ希望が持てる状況ではなかった。まず、男手のいない中で、女が二人だけで生きていくのが大変であった。周囲からの差別や無理解があるだろうし、全くの異国における生活は万事が異なるゆえに困難なものとなるであろう。そうしたことはルツも十分に分かっていたはずである。
そのような困難な生活を、あえてナオミへの忠実とその背後におられる神への信仰のゆえにルツは選び取った。二つの道があるとき、どうすべきか分からないことはしばしばある。そのような時、より困難な方を選ぶときにそれが正しい道であった、ということがしばしばある。
より難しい道は、神を見つめ、神の導きと守りを信じなければ歩んで行けないからである。神にゆだねなければならないからである。そして神にゆだねる道こそは正しい選択だといえる。
ルツはまさにそのような、より困難な道を自らの決断で選び取った。
ここまでに現れる三人の女性たちは、それぞれ自分のことを中心に考える人でなかった。ルツとオルパたち嫁二人は、もし自分のこと、自分の幸いを考えたら、夫がいないのに、わざわざ外国まで行こうとは決して考えなかっただろう。しかし二人共まず自分でなく、義母のことを第一として、ついて行こうとした。
そして姑であるナオミも、自分のことを第一に考えると、二人の嫁に「私について来て助けてほしい」と願っただろう。ナオミは夫も息子二人にも先立たれ全くの孤独と貧困に置かれることが確実視されていたからである。
そうした困難が待ち受けているにもかかわらず、ナオミは自分のことより、嫁たちの前途を思って強く彼女たちに自分の国に帰るように、と勧めたのであった。
このように、三人共、自分中心でなく、他者のことをまず考えて行動しているのが分かる。
こうしたうるわしい心の動きは、聖霊の風が吹いているかのようである。
この世は自分中心であり、しばしば悪意や中傷、裏切りなどという暗い心が人間の内に巣くうことがある。そのようなものがふくらんでくるときに、戦争といった多くの人々が互いに憎み合い、殺し合うというような悲劇が生じる。
しかし、聖なる霊が風のように吹いてくるとき、人間のそうした自分中心の心は枯れ、愛の行動へとうながされていく。
ルツは真実な心をもって、義母に従い、異国へとたどり着くことになった。
しかし、そのようなルツが共にいても、ナオミの絶望的な暗い心は変わらなかった。長い孤独な旅を経てようやく故国に帰り着いたとき、町中の人たちは驚いた。そして「ナオミさん!」と声をかけてきた。それに答えた言葉がつぎのようであった。

…ナオミは言った。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。
出て行くときは、満たされていたわたしを
主はうつろにして帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ
全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」(ルツ記一・2021

このように、ナオミの心は、神によって自分は苦しめられた、と受けとっていたゆえにその苦しみや悲しみはなおさらのことであった。神は絶大なお方であり、その万能をもって自分を苦しめているのなら、どんな方法でもってしてもその苦しみから抜け出すことができない、と考えていただろう。
自分はかつてユダの国を出たときには、夫と二人の息子に恵まれていた。それは祖国の飢饉にもかかわらず「満たされていた」と言える状況であった。
しかし、それから十数年を経て、ナオミは、神が自分を「空ろなもの」にして帰らせたと言う。何のゆえか分からないが、神がその大いなる力をもって自分を苦しめ、三人の男手をすら奪ってしまわれた。
こうした何の光もなく、貧困と孤独が待ち受けているというその中に、神はルツという光を与えたのである。
ルツはかつてアブラハムがそうであったように、自分の愛する祖国や友人、肉親たちをすら捨てて、神を信じて姑の後に従って行った。
このナオミとルツという二人の地位も力も財産もなく、家族も失った女たち、そこから何のよきことも生じないと思われたであろう。しかし、神は人間のあらゆる予想を越えて、そうした貧しさや弱さのなかにその業を起こされるのである。

落ち穂拾い

ルツはそうした絶望的な状況のなかであったが、姑ナオミの故郷に帰ると、すぐに自分ができることを手がけようとした。それは収穫のときに、落ち穂を拾って生活を助けようとしたことである。現代の多くの者にとっては、落ち穂拾いというと、何のことか、分からないだろう。落ち葉拾いと同様なことと思うかも知れない。
しかし、これは聖書に記されている意外な記述に由来することである。

…畑から穀物を刈り取るときは、その畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。貧しい者や寄留者のために残しておきなさい。わたしはあなたたちの神、主である。(旧約聖書 レビ記二三・22

こうした貧しい人たちへの配慮が、数千年も前からすでにあり、当時の法律(律法)にこのように記されているということは、四百年足らず前の日本の状況
*と比べるとき、その大きな違いに驚かされる。

*)日本においては、貧しい農民たちから農産物を徹底して取り上げ、凶作であっても、厳しい取り立てが続いたために、生きることも難しいほどに追い詰められ、厳しい処罰を覚悟で一揆を起こしたりした。
江戸時代の島原の乱も、そうした農民への弾圧がもとにあった。年貢を納められない農民は、迫害を加えられ、妻・娘などは捕らえられ、水攻めなどを行ったり、あるいは、逆さにつり下げたりして苦しめた。さらに蓑踊りと称してミノを頭と胴に結びつけ、両手を後ろ手にして縛り、このミノの外側に火をつけて燃やしてもだえ苦しませたほどであったという。このようなきびしい年貢の取り立てによって農民生活が窮迫したあげく、逃散という捨て身の手段までとるほどであった。これは一つの村全体が団結して、耕作を放棄し、他の領内に逃げることであった。逃げ込んだところでも、監視も厳しく、耕作によい土地はすでに他人が住んでいるのであるから、一つの村全体が移住してきても、そもそも住む家も衣服も金もなく、農具もなく、種もなく、また開墾や耕作をゼロから始めなければならないなど、生活は困難を極めたのは容易に想像できる。


広い農地を、落ちた麦の穂を手で拾う、それは一日そのようなことを続けてもおそらく、わずかしかなかったであろう。しかし、貧しい農民はそのようにして何とか生活をしていったのであろう。
このルツがまず生活のために行なった落ち穂拾いのことを題材にしたのが、有名なミレーの「落ち穂拾い」という絵である。(*)聖書のなかには、穀物の収穫の際に落ち穂拾いができるように落ちた穂を残しておけ、との前述の戒めは記されているが、女性が落ち穂拾いをしている情景は、このルツによるものだけである。
それゆえミレーが、落ち穂拾いをする女性をテーマに描いたとき、このルツの姿が第一に浮かんだであろうことは、容易に推察できる。

*)ミレーの「落ち穂拾い」の絵は有名であって、この絵はたいていの人が学校教育の場で学び、一般の家庭でもよく飾られている。しかしこれを、「落ち葉拾い」と間違って受けとめ、落ち葉を拾っているのだと、思い込んでいる場合もある。

ルツは、まずこのように自分ができることをしていこうとした。悲嘆にくれているナオミの気持ちに引き込まれることなく、全く知人も親族もいない外国の地にあって、信仰によって与えられていることと受け取り、冷静に自らのできることを手がけていった。 ルツは、姑に向かって次のように言った。
「あなたの神は、私の神、あなたがどこに行こうとも、あなたが亡くなるときまで従って行きます。もしあなたを離れるようなことがあったら、主よ、どうか私を罰してください。」
これは、姑のナオミの信仰をそのまま自分の信仰とするということである。ナオミによって知らされた唯一の神への信仰は、ルツに宿って、行動する信仰へと成長していった。
ルツはナオミの故郷に帰って、姑に命じられることなく、自分から申し出て、「畑に行ってみます。だれか厚意を示して下さる方の後ろで、落ち穂を拾わせてもらいます。」と言ったのである。
ルツは場合によっては、異邦人ということで、差別されたりいじめられるかも知れないと予測していた。それゆえ、だれか厚意を示してくれる人がいるだろう、との期待だけで出かけたのである。このように、何の助けも希望をも持てない状況であっても、じっとしていることはなかった。姑から受けた神への信仰によって、まずできることへと一歩を踏み出したのである。
今まではそのような落ち穂拾いというようなことはしたことがなかったであろうが、夫を失った自分と、姑という二人の女が生きていくためのさしあたり唯一の道と思われたのがこの落ち穂拾いであった。
そうしたルツの信仰的な決断は、神によって祝福される。ルツは出かけて行って、誰か分からない人の畑で拾い始めた。
それが、たまたまナオミの親族の畑であった。
神を信じて、止まることなく、前向きに歩んで行こうとするときに、神はこのような思いがけない出会いや、助けを与えられるということは、私自身も幾度も経験してきたことである。
そのナオミの親族とはボアズという名で、信仰深い人であった。彼がその畑に来たとき、農夫たちにした挨拶の言葉は、「主があなた方と共におられるように」という祈りのこもったものであった。
そうすると、農夫たちも、また「主が、あなたを祝福して下さいますように」と言った。
このように、畑の持ち主も耕作する者たちも、互いに主が共にいることを願って、神の祝福を祈り合う、という祈りの共同体のような間柄であったのがうかがえる。
こうしたうるわしい人間関係のある人たちというのは、いつの時代にも珍しいことである。この特別なよい状況にあった人たちが耕作している畑に、たまたまルツは何も知らずにやって来たのであった。ここにも、真実な心で身近なこと、たとえいかに小さいことであっても、手がけていくところに、神の祝福の御手が臨むということを示している。
もし、ルツが落ち穂拾いというようなことをしようとしなかったら、このようなよい出会いはなかったからである。
ボアズは、ルツに目を留めて、それが自分の親族のナオミの嫁であるのを知って、特別に落ち穂を拾うことが容易にできるように配慮した。それに気づいたルツは、問うた。

…ルツは、顔を地につけ、ひれ伏して言った。「よそ者のわたしにこれほど目をかけてくださるとは。厚意を示してくださるのは、なぜですか。」(ルツ記二・10

このルツの姿には、自分が最も低いものであることを自覚しているのを示している。こうした自らを低くし、なすべきことを確実に手がけていく姿勢がここにも表れている。
ボアズは、ルツのことをすでに聞き知っていることを話した。

…ボアズは答えた。「主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。
どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。
イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」(ルツ二・1112

故国に帰ったナオミとルツは自分たちの苦しい生活のことで誰かに援助を願うということはしなかった。ルツはただ黙って落ち穂拾いという最も貧しい人たちのする仕事をしただけであった。それにもかかわらず、このようなよきことは本人たちの予想を越えて周囲に知られるようになっていた。隠れたことは現れないことはない、という主の言葉は、悪いことにもよいことにもあてはまることである。
ボアズも単に心のやさしい人間であったとは書かれておらず、神への信仰に生きる人であって、ルツに対しても、自分が何かをしてやろう、と言わず、「主が豊かに報いて下さるように」と神からの祝福を祈り願うのであった。
私たちが他の人に対する最善の持つべき心とは、このボアズの祈りの心である。これこそ、主イエスが教えられた、「御国がきますように」という祈りの心に一致するものである。
このように、ボアズの特別な、主にある厚意を受けたルツは十分な麦を拾い集めてナオミの待つ家に帰ることができた。
ナオミは、ルツが予想をはるかに越える多くの落ち穂を見て、驚いて目をみはった。ナオミは言った。

…「今日は一体どこで落ち穂を拾い集めたのですか。あなたに目をかけてくださった方に祝福がありますように」…
「どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように。」(ルツ二・1920より)

ボアズが、ルツに対して、神の祝福を祈り願ったが、ナオミもまた、ルツに示された特別な厚意を見て、神の祝福を心から祈り願っている。
このように、この書物において、ルツがまず、ナオミの神を私の神とすると固い決心をもって告げたことから始まり、ボアズが畑に来たときには農民とも主からの祝福を祈り合うことが記され、さらにボアズ、ナオミもその祝福を互いに祈るのであった。
そして、絶望的であったナオミはルツの毅然たる態度と信仰によって励まされ、新たな力を与えられて、立ち上がることができた。
そして今度は積極的に、ルツのためにその道を開こうとする。ナオミはルツのために、夜になって、ボアズのところに行かせ、いかに自分がルツの前途に対して強く願っているか、を実際の行動によって知らせようとした。
もしも、それが失敗すれば、ナオミもルツも苦しい立場になることをも覚悟の上であった。彼女はいわば非常手段ともいうべき思い切った手段をとって、ボアズが近親者であるゆえに、ルツに対して家を絶やさないようにする責任があることを知らせた。
このナオミのまっすぐにルツの前途を見つめた行動は、ボアズによって受け入れられ、適切な配慮がなされたのちに、ボアズ自身がルツと結婚することになったのである。
こうして、ルツは遠い異国に来て、誰一人知る者もない状況のなかで、ただナオミの信じた神を自らの神としつつ、姑への忠実という一点に集中した。
そこからナオミの暗く沈んだ心にも光が点火され、力がわき起こることになり、新しい道をナオミ自身が示され、たしかにそこから以前には予想もしなかった道が開けていった。
ルツはボアズと結婚し、子どもが生れたが、それは単にルツやボアズ、ナオミたちの家族問題にとどまらず、次に見るように、イスラエルの民全体、否、世界の歴史に重大な関わりを生み出したのであった。

…主が身ごもらせたので、ルツは男の子を産んだ。
女たちはナオミに言った。「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。…ナオミはその乳飲み子をふところに抱き上げ、養い育てた。
近所の婦人たちは、ナオミに子供が生まれたと言って、その子に名前を付け、その子をオベドと名付けた。オベドはエッサイの父、エッサイはダビデの父である。(ルツ記四・1317より)

ルツに子どもが生れたことについても、周囲の女たちは、主がなさったこととして、主を讃美した。ルツ記全体がこのように、神に向かうまっすぐなまなざしで満ちているのを感じさせるものがある。
この書物の最後の部分には、ルツに子どもが生れたことを記し、ダビデへとつながったことが特記されているが、さらに、最後の22節にも「…エッサイにはダビデが生れた」と書かれていて、ダビデがルツの子孫に生れたということが二回繰り返され、強調されている。ヘブル語の原文では、ルツ記全体の最後の言葉は、「ダビデ」という名前なのである。
こうした書き方は何を示すか、それは、ルツというすべてを失った異邦の女、神と人への忠実に生きた貧しい女から何が生じたか、それはダビデというイスラエルにとって最高の王につながったということを言おうとしているのである。
しかし、ルツの重要性はダビデ王につながったというだけで終わらない。それは新約聖書の最初の記述を見ればわかる。

…ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデをもうけた。…ダビデはソロモンをもうけ、…マリヤの夫ヨセフをもうけた。このマリアからイエスが生れた。(マタイ福音書一・516より)

新約聖書の最初に置かれたマタイ福音書はその冒頭に、一般的には無味乾燥だと思われる「系図」から始まっている。これはたいていの初めての聖書の読者の首をかしげさせるものである。何の意味があってこんな名前ばかり書いた系図が出てくるのか、と誰しもが思う。私も初めて新約聖書を見たときに不可解に思ったものである。
しかし、このマタイ福音書の著者は、ルツの重要性をはっきりと知っていた。
ルツとボアズとの結婚によって子孫にダビデが生れ、イスラエル史上に決定的な重要人物へとつながり、それがさらに、完全な霊的な王としてのイエスへとつながっていった、ということを示しているのである。
イエスは全世界の歴史にとって最大の大きな変動をもたらした人であり、神の子である。
こうして、誰一人注目もしない、異邦の女、どんな家柄か血筋なのかも分からない、一人の女性が、世界の歴史を動かす人物を生み出す基となったのだと言おうとしている。
それをなしたのが、神であり、神はそのようにして弱い者、取るに足らない者を用いて大いなることをなされ、歴史の流れに組み込んでいかれるのである。
ルツ記という書物は単なる嫁と姑の美談でない。
それは、神は弱き者、とるに足らぬ者を用いて、神の雄大なる御計画を実行されていくということ、さらに、主イエスがたとえで言われたこと、カラシ種のような小さなものが、大いなるものとなって、何十倍、何百倍の実を結ぶというような、聖書全体にわたるメッセージがそこにある。
このルツ記という書物では、ルツという一人の異邦人の女性が重要な役割を果たしているが、それはルツの子孫として生れた主イエスが異邦の世界、すなわち全世界に神の言葉を伝え、弱き者、苦しむ者への喜びのおとずれを告げることへの預言ともなっているのである。

 


st07_m2.gifことば

221)聖霊が花開く場としての集会
すべての信徒は、朝眠りから覚めたら、仕事にとりかかる前にまず神に祈る。それから仕事に取りかかる。神のことばの講話がある場合は、講話を行なう者を通して神に耳を傾けるのだと考えて、そこに出かけていくことを優先させる。
キリストの集会で祈る者は、その日の悪を避けることができる。神を敬う人は、講話が行なわれる所へ出かけていかないことを大きな悪だと思うものである。…
聖霊が花開く場所である集会に熱心に行くように各自が努める。…
家にいるときには、第三時に祈り、神を讃美しなさい。この時刻に他の場所にいる場合には、心のなかで神に祈りなさい。この時刻にキリストが木にかけられたからである。(「使徒伝承41」ヒッポリュトス著(「原典古代キリスト教思想史一」・159頁 教文館刊)

・ヒッポリュトスとは、紀元170年頃生れたとされ、古代から高い評価を受けてきたキリスト教思想家で多くの著作がある。

222)さあ、切符をしっかり持っ ておいで。
おまえはもう夢の鉄道でなしに、ほんとうの世界の火やはげしい波の中を大股でまっすぐに歩いて行かねばいけない。
天の川のなかでたった一つのほんとうの切符を決しておまえはなくしてはいけない。 (「銀河鉄道の夜」三〇三頁岩波文庫)

・キリスト者が受けた切符、それはイエスを主と信じる信仰であり、キリストの十字架によって罪赦されたという実感であり、そこから与えられる聖霊である。 聖書にも、「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」という言葉がある。(イザヤ書四三・2
宮沢賢治はキリスト者ではなかったが、「銀河鉄道の夜」という作品の中には、一九一二年のタイタニック号の沈没のときに歌われたという讃美歌「主よみもとに」が何度か現れたり、十字架に向かって祈る人たち、ハレルヤなど、キリスト教にかかわることが出てくる。

223)あなたが神の導きに身を ゆだねるならば、いろいろと計画を立てることを差し控えなさい。
あなたを前進させるすべてのものが、きわめて明白な要求、あるいは機会という形をとって、次々に、しかも正しい順序で、あなたを訪れてくるのである。
(「眠られぬ夜のために上 五月五日より」)

・聖書において、これは聖霊によって導かれる生活と言われている。私たちが神に心からゆだねるほど、不思議なこと、予想もしていなかったことが生じる。それはその程度の多少はあっても、思い切ってとるべき道を信じてゆだねる経験をした者は誰しも実感してきたであろう。

 


st07_m2.gif休憩室

○わが家のすぐ裏の山の斜面にあった竹が家に迫ってきていたので、伐採してもらったのですが、そうすると、そこからは、今まで竹藪で見えなかった四国山地の遠い山々、剣山に至る山並みが見えるようになりました。遠くの山々、ことに冬の雪を頂いた山々には厳しさと清さを伴う独特の美しさがあり、天の国へと思いを引き上げられます。
聖書には、実際の山でなく、目には見えない霊的な高い嶺(天)へと使徒パウロが引き上げられたことがされています。(新約聖書・Ⅱコリント十二章)
白く輝く山の連なりを見つめ、静かに流れる雲や大空に耳を傾けるとき、かつていた魂のふるさとからのおとずれを聞くような思いになります。

 


st07_m2.gif編集だより

来信より
○…一度四国の集会に行きたいと思っています。今日の無教会はあまりにも知的になりすぎて、私は何となく違和感を感じています。四国の方々の信仰に共感しています。もっと素朴に平信徒として信仰を守り、小さな隣人に働きかけてゆきたいと思っています。(九州の方)

○いつもテープを送って頂いてありがとうございます。お蔭様で私たち、家庭集会を開くことができ、とても喜んでいます。家庭にいながらにして、徳島の皆様の祈りや聖書講話を聞くことができ、本当に感謝です。 (四国の方)

○「主にあって」という言葉をもっと大切にしていきたいと思います。忙しいという漢字にあるごとく、心が死んでしまう時があります。 働くことが単なる慣習になってしまっているとき、よくこのことを感じます。「主にあって」なされる働きは決して無駄にはならない。 イエス様から目を離さずに生きていけます様に。絶えず神様に立ち帰ることが出来ます様に。 (関東地方の方)
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★二〇〇五年も多くの方々の祈りとご支援によって「いのちの水」誌を継続できたことを感謝します。 また、この「いのちの水」誌をみ言葉の伝道のために用いて下さる方々によってまだ福音を知らない方々、あるいは未知の方々にも届けられることもあり、主の御手の働きを思います。新しい年も、主の導きと祝福を祈ります。(吉村 孝雄)

 


st07_m2.gifお知らせ

○主日礼拝や夕拝のCD

従来は、カセットテープで希望の方々に郵送してきましたが、十一月より、CDでの配布を並行して行なっています。テープなら八~十本になりますが、MP3ファイルにしますと、一カ月分の主日礼拝(45回分)と夕拝(同)がそれぞれ一枚のCDに収められていますので、一カ月分の主日礼拝と夕拝全部収めても二枚のCDになります。 十一月分の主日礼拝なら、一枚のCDに五回分約八時間半の内容が含まれています。ただし、MP3ファイルでのCDはパソコン用です。(テープからCDに変更、あるいは新規にCD希望の方、あるいはCDについての問い合わせは吉村まで)

○一月一日午前六時三〇分より、例年のように、元旦礼拝があります。