主にあって喜べ
地上に生きるかぎり、私たちの生活にはさまざまの心配や苦しみ、また悩みは終わることがない。ある大きな問題が解決されたらどんなにいいだろうと思っていても、それが実際に解決されてもまた新たな問題が生じてくるものである。
それは個人的には病気や、家族の問題、また職業や経済的な問題、人間との関わり、あるいは将来の問題など、また一度目を外部に向けても、災害や飢え、貧困、あるいは戦争など世界の国々においてもつねに見られる。
どのような人でも、こうした何かの悩みをかかえている。それらがないという人がいるとしても、それはただ目先のことを考えているからにすぎないとか、何かが生じるその直前の状態である場合が多い。
そしてこれらの問題を自分の力で解決しようとしても、とうていできないというのを感じるからこそ、それが重い問題となり、心に暗い雲となってくる。
また、次々と生じる世界や日本の災害などに直面して、神などいないのではないか、と考える人もいる。
しかし、このような状況はいつの時代にもあった。神はその暗闇のただなかから、光を投げかけておられるなである。私たちは、ただ神を見上げることによってその光を受けることができ、この闇のただ中にあっても不思議な力と前方に輝く光を見ることができるようになる。
光を与えようとされるのは、神の愛のご意志なのである。
この光を受けるとき、私たちは悲しみのなかにあっても、ほかでは感じなかったある主の平安を与えられる。それが新約聖書で言われている、「主を喜ぶ」ということである。
苦しい出来事そのものを喜ぶことなど到底できないが、そこからの逃れの道、救いの道として神を喜ぶことができるという、まったく意外な道を神は備えられたのであった。
キリスト教の生命はそこにある。罪という暗闇や死に至る道程に呑み込まれそうになっても、そこから立ち止まって主を仰ぎ見るだけで、あらたなところに移されるのである。
主イエスは、「悲しむ者は幸いである」と言われた。なぜそんなことがあり得るのか、それはその悲しみの中から主によって喜ぶことができるからである。
涙のなかから仰ぐときにこそ、主の御顔を最もはっきりと見ることができる。
楽しいこと、遊びや飲食などに心が一杯になっているときには、そうした深い喜び、主がともにいて下さるというしみ通るような実感というのは決して感じられないのである。
この世は深い謎に包まれている。何の罪もないような人、貧しさにあえぐ人がさらに困難な目に遭って苦しまねばならないこともある。神がいるのになぜ、悪がはびこり、正義が踏みにじられているのかと、強い疑問の声をあげる人もいる。
しかし、主が私たちの魂の近くにきて下さり、主にある平安と喜びを感じたとき、初めて、主はたしかにこの混乱の世にも変ることなく生きて働いておられることを実感する。そしていっそう神などいないという世の人々の声は過ぎ去った風のように力なきものとして感じられる。
主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。(ピリピ 四・4)(*)
喜ぶというようなことは、命令されてできるのか、と不思議に思う人も多いのではないかと思う。およそ、喜べ、というような命令は考えられないことである。しかし、キリストを信じることの本質的な意味はいつどんな時にも喜ぶことができるような賜物を与えられるということである。それは高い目標であり、究極的な状況だと言えよう。
こうした主にある喜びは、別の箇所では、聖霊による喜びとも言われている。「聖霊の実は愛、喜び…」と言われている通りである。
この箇所についてある注解者はつぎのように記している。
あらゆるところで、またどんな状況のもとでも喜ぶ!
ここに、この手紙の基調がふたたび響いている。(一・4、一・18、二・17~18、三・1などを参照)そしてそれはこの手紙を読む信徒たちに、聖なる命令(divine imperative)として伝わってくる。
「喜ぶこと、自らを励ますこと、力付けること、元気を出すことなどは― キリスト者の理解するによれば―ほかの命令と同様な命令なのである。(カール・バルト)」
周囲の状況が喜びがあるかどうかを決めるのでない。主にあって、主との生きた交わりによって、信徒はいかなる状況のもとにあっても喜ばねばならないし、また喜ぶことができるのである。それゆえに、ここに使徒は繰り返し命じている。「喜べ!」と。(THE NEW INTERNATIONAL COMMENTARY ON THE NEW TESTANENT/ PHILIPPIANS 140P)
「福音」とは、「よき知らせ」というのがもとの意味である。よき知らせとは、喜びの知らせであるからこそよき知らせなのである。イエスが誕生したときにも、天使たちが讃美した内容はまず、第一に喜びであった。
天使は言った。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
今日、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。…」(ルカ福音書二・10~11)
また、主イエスも、迫害され苦しめられるということは、耐えがたいことであるのに、つぎのように命じられた。
…わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
喜べ。大いに喜べ。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ五・11~12)
しかし、そのような命令は、できないことを命じているのではない。敵を愛し、敵のために祈れということも、同様で、自然のままの人間はできないが、主イエスと深く結びつくことで可能となっていく。
同様に、この命令も、主と深く結びつくことによってのみなしうることであり、こうした命令は、主と深く結びついてあれ、ということを言い換えたものとも言える。
遠くの高い山々を見つめるように、私たちはこのような、困難のただなかにすら与えられる主にある喜びを思う。現状ではそれがとても経験できないという者であっても、見つめて求めていけばそうした天の国の喜びは必ず流れてくる。
(*)このパウロの言葉は、印象的な言葉であり、参考のために他の訳をあげる。
・汝ら、常に主にありて喜べ、我また言ふ、なんじら喜べ。(文語訳)
・Rejoice in the Lord always. I will say it again: Rejoice! (NIV)
・Freut euch im Herrn zu jeder Zeit! Noch einmal sage ich: Freut euch!(Einheits-ersetzung)
(このように、感嘆符をつけて、パウロの強い気持を表現しようとしている訳は英、独、仏、スペイン語など各種の外国語訳に見られる。)
語りかける神
人間の声、意見しかないようにみえるこの世にあって、神は生きて働いておられるゆえに、私たちが予想もできないような状況において、また思いがけない場所や時を選び、人を選んで、神は呼びかける。
去年、カナダに英語の学びに行った県外のある青年が、そこにおいて、キリスト信仰の重要さを深く感じる経験を与えられたということで、予定より早めに帰国して、二週間ほどということで私たちの徳島聖書キリスト集会の各地での集会(家庭での集会)に参加している。
こうしたことは本人もその家族もまわりの人も予想しなかったことであろう。
思いがけないことは、この世にはいくらでもある。しかしそれは私たちの予想を超えたよい方向へというのでなく、しばしば望んでもいないこと、予想もしないよくないことである場合も多いし、よいことと思えても、その後別の事情によってよくないことに変わってしまうことも多い。例えば、よい相手だと思って結婚してもひどい人間だったとか、子供が生れて喜んでいても、その子供に生涯苦しめられるとかいったことも多いと考えられる。
しかし、今も昔と変ることなく、神は人に対して必要なときに思いがけない呼びかけをされ、その呼びかけを受けた者は、いかに周囲の者がその経験を無視または否定しようとも動かされない精神の基盤を与えられる。
そしてその呼びかけに従っていくならば、あとで悪い結果になるということなく、必ずよい方向へと向かわしめるものなのである。
キリスト教の最大の使徒パウロは、キリスト教徒を迫害しているそのさなかにキリストからの呼びかけを受けて、キリストの使徒となった。ほかのヨハネとかペテロ、マタイなども、漁師や徴税人として仕事をしているそのときに、突然思いがけない呼びかけを受けたのであった。そしてこれらのことは、単に昔そんなことがあった、ということでなく、現在も生じていることなのであって、その預言ともなっているのである。
この世には思いがけない苦しみや悲しみがよく起こるし、新聞などでもよく報道されている。しかし、愛の神がなされる思いがけない呼びかけや喜び、あるいは平安などが現在も変ることなく、神の御計画にしたがって人々に与えられているということは二〇〇〇年の間、変ることがない。
私たちが開かれた耳と目を持っているなら、周囲のさまざまの出来事、それは個人的な出来事、周囲に起きること、あるいは風にそよぐ木々の音や雲の動きなど自然の風物なども、そこに神からの愛の呼びかけがあり、神の国へと招き、導こうとしておられるのだと感じられてくる。
聖書で言われている神は、愛の神であり、愛はつねに語りかけて止むことがない。
いのちの水
水はいのちを支えるものとして広く知られています。食物は食べなくても水さえあれば、一カ月ほども生きられるが、水がなかったら、三日ほどしか生きられないと言われています。
なぜ、水がなかったら生きていけないのか、それは水はからだに酸素や栄養分を運んでいるので、水が十分になかったらそれが運べないし、ことに脳に酸素が行かなかったらすぐにその働きは止まってしまい、それは心臓や肺の動きも支配している中枢が動かなくなるということであり、生きていけなくなるわけです。
水は、体全体に、養分を送り、酸素を送って支えていますが、それだけでなく、筋肉で生じた熱を全身に伝えたり、細胞内での複雑な化学反応なされるためにも水は不可欠です。また体内で不要となったものを排出するためにもなくてはならないものです。
また、私たちの目にする動植物もすべて水がなかったら生きていけないのであって、イスラエルのような乾燥した地域でも、古代からブドウやイチジク、オリーブなどが知られていますが、それらは地中深く根を降ろしてわずかの水分を取り入れて生きているのです。
さらに、地球全体を考えてみると、水は広大な海、川、そしてそれらが蒸発して雲となり、雨となって大地をうるおし、そしてふたたび、川や海に流れ…と循環して地球上の生物全体を支えています。
こうした極めて重要な性質ゆえに、古代から水は根源的なものだとみなされ、すでに紀元前六世紀のころにギリシャの哲学者、ターレスは、万物の根源物質(元素)は、水だと考えていたし、その後の哲学者たちもやはり水は根源物質とみなしたのです。
私たちに毎日身近なものとなっている、火曜日、水曜日といった曜日の名前のうち五つは、中国の五行説(*)からきていますが、そこにも古代中国の思想家たちも、やはり火や金(金属)とともに、水も根源的なもの、重要なものとみなしていたのがうかがえます。
この水の重要性は精神的な世界、目には見えない世界においても同様です。人間はふつうの水がなくては生きていけないけれども、精神的にも目には見えない水がなかったら生きていけないのです。
それは聖書の世界では古くから、旧約聖書の最初から強調されています。
ふつうの水と同様に、全世界に流れていくべき霊的な水があるということは、すでに創世記によっても預言的に記されています。
…主なる神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。
しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。(創世記二・4~6)
こうして、創世記の天地創造の記述のもう一つの伝承(*)によれば、創造の最初には渇ききっていた状況がまず記されていて、そこに最初の重大な現象として、水が地下から湧き出たということ、それによって地上の全世界がうるおされたというのです。
そして、さらに、つぎのような記述が続きます。
…エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。第一の川は…で、第二の川は、クシュ(エチオピアとも言われる)…第三の川は、チグリス、第四の川は、ユーフラテスであった。(創世記二・10~14より)
ここで言おうとしていることは、その重要な水はエデンをうるおしたのちに、四方へと流れだし、全世界をうるおしていったということなのです。古代文書において「四」という数は、全世界を象徴的に意味していたのです。
神が完全な園として造られたエデンの園を特徴付けているのは、全体をうるおす水であり、それが流れ出た水がさらに全世界へと流れて行ってうるおすというのです。
この記述から見てもいかに、水の重要性、それは神の楽園だけでなく、全世界へと流れてやまないものであり、世界をうるおし、生かすものだということが強調されているのです。
このような、万物を霊的に支える水があるということを、その創世記の著者は驚くべきことに今から三〇〇〇年近く昔にすでに知っていたのです。それは単なる哲学的考察とかいったものでなく、神からの直接の啓示でそのとようなことを知らされたからでした。
(*)創世記はいろいろのもとになる文書を組み合わせて構成されている。ヤハウエ資料による天地創造の記述では、現在の創世記の二章四節後半からがその始まりとなっている。そこでは、まず人間が創造されている。また創世記第一章から二章前半までは祭司的資料がもとになっていて、独特の荘重な記述になっている。このほかに、エロヒム資料というのがある。ヤハウエ資料というのは、神の名を使うときに、ヤハウエという名称を使っているからである。これは、紀元前九五〇年ころに書かれたと考えられている。エロヒム資料というのは、神の名を使うとき、エロヒムが用いられているからであり、紀元前八五〇年~七五〇年頃に北王国で書かれたとされている。また祭司的資料というのは、紀元前五八七年に、当時の大国バビロニア帝国が攻めてきて、ユダの多くの人々が遠くはなれたバビロンに捕囚として連れて行かれた後に、名の分からない祭司が神の霊を受けて書き記したと言われているもの。
さらにこうした啓示は、今から二五〇〇年あまり昔の預言者であった、エゼキエルも受けています。
…彼(み使い)はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。… 更に四五〇メートルほど行くと、もはや渡ることのできない川になり、水は増えて、泳がなければ渡ることのできない川になった。
…これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわち汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。
川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返る。…この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。(エゼキエル書四七・1~9より)
この心を惹く驚くべき記述は、神のいます神殿からいのちの水が湧きあふれ、それがたちまち大いなる川となり、世界へと流れ出ていくというのです。それは周囲のものにいのちを与える水であると言われます。
このような記述は単なる空想でなく、神がたしかに生じることとして、創世記の著者やエゼキエルという預言書に特別に示したということができます。
そしてそのことは一種の預言でもあったので、それはキリストによって成就されることになったのです。
これは、聖書においてはつぎのような箇所をあげることができます。
…祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ福音書七・37~38)
ここでは、とくに主イエスが特別に力を込めて強調していることが分かります。それは「最も盛大に行なわれる最後の日に」、とくに「立ち上がって、」しかも「大声で」というように記されています。
それはこのことが、キリスト信仰の中心にあるからです。キリストを信じることで何が与えられるのか、それは、ここで言われているような「いのちの水」が与えられて、それまでの魂の渇きがいやされ、さらに、周囲にもそのいのちの水が流れだしていき、まわりをもうるおすというのです。
そのためにこそ、キリストは十字架にかかり、私たちの罪を赦し、清めて下さったのです。
このいのちの水とは、神の聖なる霊、聖霊であるとこの箇所のすぐ後で言われています。
たしかに、キリストを裏切り、逃げてしまった弟子たちが再起して、力強くキリストの復活を証ししていき、キリスト教が世界に伝わっていったのは、まさにこのいのちの水である聖霊を受けたからでした。
このように、いのちの水としての聖霊は、キリストの福音を全世界に伝えていく原動力となりました。たしかに、キリストを裏切り、逃げてしまった弟子たちが再起して、力強くキリストの復活を証ししていき、キリスト教が世界に伝わっていったのは、まさにこのいのちの水である聖霊を受けたからでした。
このいのちの水については、もう一つとくに有名な箇所があります。
しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ四・14)
この主イエスの言葉は、さきほど引用したエゼキエル書の言葉がイエスによって霊的な意味で実現したということを示しています。
つぎの讃美歌はこのことを歌っています。
天つ真清水(ましみず) 流れ来て
あまねく世をぞ 潤せる
永く渇きし わが魂も
汲みて命に 帰りけり
天つ真清水 飲むままに
渇きを知らぬ 身となりぬ
尽きぬ恵みは 心のうちに
泉となりて わき溢る(讃美歌 二一七番)
この「いのちの水」の重要性は、聖書の最後の書である、黙示録にもその終りの部分で現れます。
天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。
川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。(黙示録二二・1~2)
このように、キリストの福音の約束する究極的な世界もまた、いのちの水の流れる光景として描かれています。
聖書の巻頭にある創世記から、黙示録に至るまで、神に動かされた人たちは、一貫していのちを与える水、神の聖なる霊が注がれる世界、その霊の満ちた世界があることを示され、それを人々に指し示したきたのです。
人間は水がなければ生きていけない。しかし、それは人間だけでなく、動物も植物も同じです。
主イエスは、「人は、パンだけでは生きられない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ福音書四・4)と言われましたが、それと同様のことが水についても言えるのです。
人間に特別なことは、口から入る水だけでは生きてはいけないのであって、神から与えられるいのちの水が不可欠です。どんなに口から入る食物や水があっても、心は満たされるということとは別です。日本は水は豊かに恵まれています。食物も同様で、学校給食や宴会場、コンビニなどから捨てられている食物はおびただしい量にのぼります。しかし、心が満たされているかというと決してそうではないは多くの人が感じているところです。
どんなにふつうの水があっても、心まではうるおされない。魂の深い渇きを満たすものこそは、キリストが与えて下さる「いのちの水」にほかならないのです。
すべてに打ち勝つもの
どのような困難や事故、苦しみにも打ち倒されず、かえってそうした困難を霊的な栄養として受け取り、より力を与えられて前進していく(勝利していく)ためには何が必要なのか。それについてはいろいろなことが言われてきた。
一般的には、そうしたことに対して、お金とか他人の助けも必要、だが根本的には、自分の意志や努力、考え方を変えることなどが、重要だと言われている。それはそれで重要なことには違いない。しかし、本当に苦しいときというのは、お金の力も助けとなる人間もいない、自分の考えすらまとまらず、またその意志すら落胆や苦しみのあまり、何をなす力もなくなってしまうのである。
聖書はまさにそのような勝利の道を随所に明確に指し示している。ここでは、ヒルティの著作からその聖書の示す道を彼の言葉で学びたい。
愛をもってすれば、あらゆるものにうち勝つことができる。(*)
愛がなければ、一生の間、自己とも他人とも戦いの状態にあり、その結果は疲れてしまい、ついにはこの世を嫌うようになるか人間嫌いにさえ行きつくほかはない。
しかし、愛はつねに最初は困難な決意であり、つぎには神のみ手に導かれてそれを行いうるまで長い間たえず学ぶべきものであって、愛は決してわれわれにとって自然に、生まれながらに備わっているものではない。
人が、愛を持ったときには、他のいかなるものにもまして、より多くの力ばかりか、より多くの知恵と忍耐力をも与えられる。
なぜなら、愛は永遠の実在と生命の一部分であって、これは、すべての地上のものとちがって、老化することがないからである。(「眠れぬ夜のために」下巻 一月九日の項)
(*)ヒルティのドイツ語原文では、Mit Liebeistalleszuuberwinden. 彼の墓碑銘に刻まれたラテン語では、AMOR OMNIA VINCIT. [アモル(愛) オムニア(すべて) ウィンキット(勝つ)]
・ここでいわれている愛は、もちろんこの世で歌やドラマなどでいわれている愛とは本質的に異なる、神の愛である。それゆえヒルティが言っているように、それはだれも生まれつき持っているものではない。聖書はこのことをはっきりと述べている。
あなた方も、私につながっていなければ、実を結ぶことはできない。(ヨハネ福音書十五・4)
霊(聖霊)の結ぶ実は、愛であり、喜び、平和…である。(ガラテヤ書五・22)
だれでもキリストに結びついていなかったら、愛という実を結ぶことはできないのである。それはキリストから、神から与えられるものだからである。
また、私たちは日々勝利していくか、敗北していくかである。その勝利のために、神の愛こそが不可欠である。ヒルティは、このはじめの短い言葉が、人生の結論的なものであったから、この言葉を墓碑銘に選んで、彼の墓にはこの言葉がラテン語で書かれている。なお、だいぶ以前に発行された白水社からのヒルティの著作集(全十二巻)の各巻の目次の手前のページには、その墓碑銘の部分が写真で取り入れられている。
ヒルティはとくに、「あらゆるものに」という言葉を強調している。それは人間の生活で直面する、孤独や誤解や中傷、不和、罪、心配や不安、病気、貧しさや他者からの軽視等々、私たちがそれらに出会うと怒ったり、落胆したり、憎んだりするようになるのはそれらに対して勝利できず、敗北したためであると言えよう。
勝利するとは、そうしたあらゆる不快なことに対して、その背後に神の御手を感じ、そうした不快なことやそれを起こした人間への静かな祈りを持つようになることであるし、神を見上げ、神からの無限の力の一端をも頂くことである。悲しむ者は幸いだ、との主イエスの言葉は、悲しみのままでいるのでなく、悲しみの中から神の力を与えられて、そこに大きな幸いがあるということであり、それこそ、その悲しみに勝利したということである。
この世の愛は、盲目にする。自分の子供だけ、自分の好きな人だけに向かうような感情をふつうは愛といっているが、そういう愛が激しくなるほど、相手しか見えなくなる。そしてひどい犯罪すら犯すことがある。
それに対して、神からの愛は、冷静に人間や事態を洞察するので英知を伴う。また、相手がひどいことをしてもだからこそ、そのような悪にとらわれた人間の魂がよくなるようにとの祈りを持つようになる。それゆえ、忍耐するようになる。
神は愛である、といわれるように、神の本質の一部であるからこそ、そのような愛はすべてに勝利する。最も奥深い妨げである、悪そのものにも勝利させる力があるゆえに、現在の苦難、災害や事故、病気などの苦しみや悲しみに打ち倒されず、最終的に勝利することができるのは、やはりこうした神からの愛によってのみ打ち勝つことができる。私たちはただそのような豊かな神の愛をわずかしか与えられていないことが問題なのである。
主イエスが、「求めよ、そうすれば与えられる」と約束して下さったのは、このような愛に対してもいわれているのである。人間の愛は、求めても与えられないことが多い。しかし、神の愛は、真実な求めに対しては必ず与えられるという約束なのである。
日々新たに
私たちは、日々老化している。五十歳を過ぎれば、そのことは、次第に実感されてくる。最初に感じるのは、視力の衰えであり、はやい人は、四十歳代から老眼の傾向が生じる。
しかし、ほかのことでも、若い間はそのことを感じないが、自分の体調だけでなく、まわりの人の状況などからも確実に衰えていくのを感じるようになる。
そのようなごく当たり前のことと全く違って、日々新しくされるということが聖書では言われており、しかもそのことが数知れない人たちによって実感されてきたのである。
主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っている。…
だから、わたしたちは落胆しない。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていく。(Ⅱコリント四・16)
使徒パウロが落胆しないといっているのは、復活の確信があったからである。そしてその復活とは、世の終わりのときだけに初めて生じるのでなく、すでにこの世に生きているときから、新しい命で生かされることによって味わうことができるようにされている。
そのことを、「私たちは日々新たにされていく」と言っている。
当時、使徒は、不信実な人たちから攻撃され、彼等は、パウロに対して本当の使徒でないなどと中傷し、パウロとコリントの集会の人たちとのつながりを壊してしまおうすずくような隠れた悪事が彼になされていた。
しかし、そのようなことがなされても復活のいのちにあふれているときには、気力を失うことがなかった。
落胆しない、そのことは、この言葉の少しまえにも、言われている。
主は、霊である。主の霊のあるところに自由がある。
わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていく。これは主の霊の働きによる。
こういうわけで、私たちは、憐れみを受けた者としてこの務め(福音を宣べ伝える務め)をゆだねられているのだから、落胆しない。 (Ⅱコリント三・17~四・1)
このように、繰り返し、「落胆しない」という言葉を述べている。パウロが生きていた時代にも、パウロでさえも気持ちをゆるめていたら落胆するようなことがたくさんあったからである。このような現実に直面しているただ中で書かれている。
現代に生きる私たちにあっても、たえずそのような状況に直面する。誰でもこの世で生きていく過程の中で、自分が思っているような方向や希望、期待から大きくはずれてしまうことがしばしばある。期待はずれどころか、全く予想していなかったような病気や事故、家族の問題、様々な苦難に逢って、落胆してしまう。
その落胆がひどいと生きていけなくなり、自ら命を断つことさえある。
このように落胆することがたくさんあるなかで、パウロはどのようにして力を得ていたのかが今日の箇所である。
「闇から光が輝き出よと命じられた神は、私たちの心の内にもその光を照らしてくださった。」 闇から光が出よという言葉は、創世記の最初のところにある。創世記の言葉をパウロは私たち一人一人の心の闇のなかに、またこの世の闇のなかに「光あれ。」と言って、光を下さる神のご意志を表していると受け取っていた。
人間の心は闇である。そしてその人間の集まったこの世も闇である。だからこそ、光あれと言っていただく必要がある。その光が与えられた。
この光が落胆することから立ち上がる力になる。私たちが落胆するときは、心は真っ暗な闇である。そこに光がなければ生きていけない。そうした光を与えて下さったとパウロは言っている。
この光をパウロは特に「キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光」とある。
神からの光が与えられたのである。その光によってキリストが単なる偉大な人間、というのでなく、神と同質のお方であり、キリストにあらゆる神の本質があるということがわかるようになるのである。
この光をパウロは、「宝」と言っている。彼は、かつてはキリストこそ、真理を妨げる最大の存在であるとみなし、そのキリストを伝えようとしているキリスト者たちを激しく迫害していたのであった。
神からの光が与えられなかったら、宗教熱心であった人でも、学問的に優れた人であっても、かえってキリストを迫害してしまう。当時、キリストを捕らえようとし、重い罪人だとしたのは、ユダヤ人のうちで宗教熱心とみなされる人たちであった。
現在の私たちは歴史のなかでキリスト者たちが、測り知れないよき働きを重ねてきたゆえ、たいていの人はキリストはすぐれた第一級の人間だと知っている。しかし、やはり神の光が与えられなかったら、そのキリストもただの過去の人、偉人の一人だとしかわからない。
天地創造のときの、「光あれ!」というのは実は、単に昔の宇宙の創造のときにだけ言われた言葉でなく、あらゆる時代に生きる人間に対して言われた言葉であった。そしてその言葉を受けるときには、私たちがどのようなみじめな者であっても、キリストのことがわかり、そのキリストからパウロがそうであったように、神の力を受ける。しかも永続的にである。
この宝が土の器に与えられている。(Ⅱコリント 四・7)
パウロは、自分に与えられた大いなる賜物を宝と言ってそれが、「土の器」に与えられたと言っている。宝とはすでに述べたように、神から与えられた光であるが、それは他のあらゆるよきものを含むと見ることができる。その光によってパウロは福音を宣べ伝えるという働きをも与えられた。そのような使命もまた大いなる宝であった。
そして、キリストがどういうお方であるかが啓示されたということは、キリストが自分のうちに住んで下さるという驚くべき事実、キリストの復活の力、キリストの愛、キリストから与えられる罪の赦し、そして日々の導きなど、すべてそれらを通してキリストが神の力をすべて持っているお方だと実感していったのである。
キリストにかかわるこうしたすべてが、「宝」であると言えよう。
主イエスご自身が、福音の真理を宝と言われている。
天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。
見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
パウロはこの主イエスのたとえで言われている、宝を見出したのであり、それゆえにイエスの言葉通りにすべてが不要となってその宝だけをしっかりと持ち、それをさらに宣べ伝えるために生涯を費やしたのであった。
また、次のたとえも同様な内容であって、この宝がほかのあらゆる地上の財宝にも増して人の魂を深く満たすということが示されている。
また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。(*)
高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。(マタイ福音書十三・44~46)
(*)真珠とは、新約聖書の書かれているギリシャ語では、マルガリテース(margarites)といい、これから、英語やフランス語などの人名としてよく見られる、マーガレット(Margaret)、マルグリット(marguerite)などができている。また、花の名前としても、マーガレットは広く知られているが、この言葉が「真珠」というギリシャ語に由来していて、主イエスのたとえに現れるということは知られていないようである。
ここでも、「宝」は真珠と言い換えられているが、内容的には似たことであって、神の地上の人々を導くその仕方(ご支配なさるその仕方)は、このような絶大な宝を見出すように導くのであって、一度その宝を見出した者は、自然にほかのものが要らなくなるのである。
パウロが、「宝」を与えられていると言ったのは、直接的には、キリストに神様のあらゆるよいものが与えられていることがわかる光のことである。キリストにすべてのよいものがあるとわかれば、愛であり、万能であるキリストに求めていく。そして愛であるキリストは与えてくださる。
キリストがすべてであるとわからなければ、罪の赦しもわからない。キリストが光であることがわかれば、罪の赦しも、十字架のあがないもすべてのことがわかる。
土の器
パウロはそのよう神から受けた良きものを「土の器」に受けている、と言っているところにとくに多くの人たちの心を捕らえてきた。土の器とは、汚れていることと壊れやすいということを示す。
自分はいつも清い心を持っているとか、自分は何事が生じても打ち倒されないとか自分で何でもやってきたなどと言って自分自身に強い自信を持っている人には、こうした宝は与えられない。
主イエスも、
「貧しき人たちは幸いだ。天の国はその人たちのものであるから」と言われ、「悲しむものは幸いだ、その人たちは慰められるから。」
と言われた。自分が弱く、貧しい者であり、悲しみに打ち倒されているような者であるということ、それは私たちが土の器であることにほかならない。この「宝」は強いと思っている人に与えられるのではなく、すぐに壊れるような、とてももろい者と自覚している人にこそ与えられる。
私たちは自分がとても弱くてもろいしぐらぐらしているから与えられないということではない。そのようなものこそまさに土の器なのである。
弱さと貧しさを知っているからこそ、幼な子のようにまっすぐに神を仰ごうとする。そのような心にこそ天の国が与えられると主イエスも言われた通りである。
この世では、よいもの、宝や賞のようなものは、立派だとされている者、能力のある者にしか与えられない。それが評価の高い賞であればあるほどそうである。国内での文化勲章、世界でのノーベル賞とかいった賞は、生まれつきの特別な才能とそれを発揮できる機会や環境、そして健康も恵まれた人が受けるものである。
それは十分な能力のない人や、病気で学校にいくこともままならないなどの弱い人たちには夢の世界でしかない。
しかし、そうした地上のどんな宝にもはるかにまさった宝、天の宝は驚くべきことに、「土の器」に与えられるという。
パウロのような意志の強靱な人であっても、実は自分は「土の器」なのであると深く自覚していた。この弱くてもろい、汚れた土の器であるのに、神の力をもらった、それは自分が獲得したものでなく、神から与えられた力であることを自覚するためであり、周りにも知らせるためであると知らされていたのである。
それゆえ、どのような苦しい状況にあっても、この宝を受けているので、最終的には滅ぼされないのである。
このようにパウロは自分が出会う様々な苦しみは、イエス様の苦しみをもう一度経験させていただいているのだという意味に受け取っていた。
「わたしたちは、いつもイエスの死をこの体にまとっている」と。
このように私たちが出会う苦しみは一つには主イエスの苦しみを私たちが少しでも同じように経験しつつ生きていくためであり、それは苦しみで終わるのではなく、「イエスの命がこの体に現れるため」なのである。
このことは、とくに繰り返し強調されている。
わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっている。イエスの命がこの体に現れるために。
わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされている。死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。
こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いている。(Ⅱコリント 四・10~12)
彼等にどうしてこのような苦しいこと、落胆するようなことが起きるのだろうか。それはイエスの死を自分たちも同じように経験して歩むためであったが、それで終わるのではなかった。
パウロはこのような激しい苦しみや誤解や中傷のなかで主に支えられて、いかなる困難があろうとも、またいかに死が近いような苦しみを受けようとも、それらを通して復活の命が与えられることを知っていた。
主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っている。(Ⅱコリント 四・14)
このように、地上で生きている間にもイエスの命があふれるほどに与えられ、肉体が死んでもイエスの復活の命がいただける。
この新しい命への確信が不動のものであったゆえに、ふたたびパウロはつぎのように言っているのである。
だから、わたしたちは落胆しない。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていく。(同四・16)
「外なる人」とは、自然のままの人間の体や記憶力などで、これはただちにわかるように、年とともに弱っていく。
しかし、「内なる人は日々新しくされる」と言う。内なる人とは何か。それはキリストによって新しく生れた魂であり、キリストと結びついている魂のことである。このことは、単にからだの老化を防ぐというのでない。肉体は老化していっても、イエスの光を受けているなら、苦しみにも喜びにも絶えずイエスの命が流れていくゆえに、その度に私たちの内なる人は日々新たにされ、また新たな力を得る。
そのことは、どのようにしてわかるか。
もし、私たちが、日々新たにされているなら、野草の素朴な花や、夜空の星の清い美しさとか、夕焼けや青い空、遠くのやまなみからの語りかけ、白い雲など、身近な自然に接して、たえず新たな感動を覚えるということになるだろう。
また、聖書の言葉が飽きてしまうということなく、以前に繰り返し読んだところ、よく知っている言葉であっても、あらたな霊的な何かを感じ、心が動かされるということによっても私たちは内なる人が新しくされていることを実感できる。
しかし、そうした感動があったとしても、現実の悪のはたらくこの世において、その悪に負けてしまうということがある。自然の美しさに感動しても、簡単に嘘を言うとか、他人にどのように思われるかをいつも気にしているとか、まず神の国と神の義を求めていかずに、安易なほうを選ぶなどがあるならば、それは本当に内なる人が新しくされているとは言い難い。
神の国は言葉ではなく力にある。(Ⅰコリント四・20)
このように、悪に対して負けないで、正しい道に立つということは、力がなくてはできない。勇気とは正義に向かう力であると、ギリシャの哲人が述べているが、日々新しくされていることは、周囲の被造物への感動とともに、悪に負けない力を日々与えられているということが不可欠になる。
このような、霊的な新しさは、旧約聖書のうちから一部の人たちは神から直接に示されていた。
主はあなたの罪をことごとく赦し
病をすべて癒し
命を墓から贖い出してくださる。
慈しみと憐れみの冠を授け
長らえる限り良いものに満ち足らせ
鷲のような若さを新たにしてくださる。(詩編一〇三・3~5)
新たにされるためには、まず私たちの心の一番奥深いところに潜む罪が明らかになり、それが赦され、清められねばならない。そうした後に、死の力から救い出され、さらに良きもので満たされる。その結果、鷲のような若さを新たにされるという。鷲はいつも力強いものの象徴として言われている。神によって日々新たにされることは、このように、力を日々与えられるということが含まれているのである。
疲れた者に力を与え
勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
主に望みをおく人は新たな力を得
鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。(イザヤ書四〇・29~31)
このイザヤ書には信仰によって日々新しくされるということがどんな意味を持っているのかが、はっきりと示されている。ここには、神からくる新しさとは、新たな力を絶えず与えられることだということが言われている。
日々新しくされた完全なお方は、主イエスであった。イエスは、どのような困難があろうとも、また周囲が無理解と攻撃であっても、たえず神からの新たな力を与えられていた。十字架につけられる前夜には、最後の重大な試練を乗り越えるために、全力を尽くして祈り、神の力を求めたことが記されている。
そうして日々新しくされ、新たな力を与えられる者には、直面する困難は重いものにみえるが、実際は軽いものだという。それに比べて与えられるものは、比較にならないほどの重みのある永遠の栄光だと記されている。(*)
私たちの直面する困難はときとして重く耐えがたいものがあることは、老年に近づいているものはだれでも知っているだろう。あまりの重さに心身ともに耐えられないほどに感じて、主よ、この命をとってください、そして身許に行かせてください!と、祈らずにいられないような状況にも陥ることがある。
老年でなくとも、事故や災害、ガンなどの病気、あるいは突発的な出来事のために、非常な苦しみと悩みにうちひしがれている人たちはいつの時代にも、数知れないほどにある。新聞やテレビに出てくるのはそうした苦難のほんの一部にすぎない。
しかし、そうした状況に置かれているすべての人に対して、その前方には、永遠の重みのある栄光が待ち受けているのだと聖書は告げている。
(*)旧約聖書において、栄光という言葉は、カーボードというが、それは、「重い」という意味を持っている。その動詞形は、カーベードであり、「重さがある」という意味の動詞。これは、英語のweigh は、「重さがある」という意味の動詞で、weight は、その名詞形であるのと似ている。パウロはこの言葉から、神の栄光というのを、「重みがある」という意味を感じながら受けとっていたのがうかがえる。
日本語でも、精神的な中身の乏しい人を、あの人は軽いとか、逆に小さなことで動じないし、さまざまの精神的な深みを持っている人を、重みがあるとかいうように使う。神は最も実質が豊かで無限であり、それはしばしば「岩」にたとえられる。そうした不動の重みのあるものが神の栄光だといえる。
人間はだれでも新しいものを求める。新しい家、新しい服、新しい友、新しい観光地等々、さまざまの新しいものを求める。
しかし、聖書の新しさはいままでみてきたように根本的に違う新しさである。
キリスト者は主にある新しさを、主からの光を受けた新しさを求める。
この新しさを受けた者は、人と競うことはもはや必要なくなり、毎日新しい力を受ける。
それによっていろいろなものが新しく見えてくる。空の星や野山の木々や草花など、自然のなかの小さなものに新しさを見つける。日々の人との出会いのなかにも、神様からの新しい意味を知らされる。
そうした日々の新しさとともに、神からの新しい力を日々受けて、落胆するような状況に陥っても、その神の力を与えられ、御国への道を歩ませて頂きたいと願っている。 (二〇〇五年元旦礼拝の聖書講話より)
「はこ舟」から「いのちの水」へ
「はこ舟」は今から五十年近く前(一九五六年)太田米穂よなお(故人)さんたちによって伝道と集会員の自由な聖書研究の二つの目的を合わせ持つものとして始められたものです。太田さんが一九六五年に逝去したのち、その後、すでに七十歳だった杣友(そまとも)
豊市さんが編集を受け継ぎました。そのときは、隔月に一度の発行でした。私が大学を卒業後、徳島に帰ってきたのはそれから三年後の一九六八年です。
それからも、「はこ舟」という題名で発行されてきました。これは、ノアの箱船に乗った人だけが救われたということから、救いの舟となるようにとのことで名付けられたようです。
「はこ舟」も一種の「船」であるから休憩するための部屋があるということから、「休憩室」という、ほかのキリスト教伝道誌にはない項目があったこと、また「編集だより」と書くべきところを、あえて、舟に関連付けて、「返舟(へんしゅう)だより」という造語を用いていました。これらも、かたい雰囲気になりがちなキリスト教の印刷物を少しでも親しみやすいものにしようという意図が最初に創刊した人の心にあったようです。そうしたことも、私が責任者となってからもそのまま継続してきました。
「はこ舟」は確かに、創刊以来、その題名のように多くの人たちを「はこ舟」に乗せて、神の国へと運ぶ役目を小さいながらも受け持ってくることができたと思われます。
しかし、私はかねてから伝道のための印刷物としての名称としては、「はこ舟」という題では何が書かれてあるのかイメージしにくいと感じてきました。聖書を全く知らないのがほとんどの日本人の現状ですから、「はこ舟」といっても、何のことかわからないという人、昔あった新興宗教のこととか、子供用の物語が思い出される人がいるくらいではないかと思います。
それで二〇〇五年より、「いのちの水」と改題することにしました。この題名の持つ意味については、今月号に書いてありますので参照してください。これからも、主が許して下さるならこの新しい「いのちの水」誌が続けられ、その名の通りに「いのちの水」を少しでも提供することができればと願っています。
ことば
(203)
老いゆく母を楽します
言葉知らぬにあらねど
明日知らぬ露の命
ただ、天の国の喜びのみを語るを
母は喜ぶか、喜ばぬか。…
さわれ主イエスよ、
君のみ言葉つゆ違わねば
まことの仕合わせ つきぬ喜びをこそ
母に賜うは君なるを知る
たとえわが家絶え果つるとも
君が御国は永遠に栄えん
(「祈の友」信仰詩集 48Pより 三一書店 一九五四年刊)
・この詩をつくった、内田 正規は、夫のいない二五年の生活を続ける母の一人子であった。母は唯一の望みとして内田が元気で働くことを望んでいたが、それもかなわず、息子は結核に伏せる身となった。母は病院の板の間に座って夜遅くまで、息子の入院治療のための金の工面する手紙を書きつつ、「お前が元気になったら自分はころりと逝くだろう」というのであった。
いかに苦しみが大きく、またこの世の安楽や楽しみは得られなくとも、主イエスがともにあるとき、この作者は、不思議な力を与えられ、その苦しみに耐えて希望を持ち続けることができたのがうかがえる。
右の引用は詩の一部である。この詩全体として悲しみが流れているが、その悲しみに打ち倒されない力をも与えられているのが感じ取れる。
内田は結核であった上に、耳も難聴であったため、当時の性能の著しくわるい補聴器を使っていたことが彼の書いたものにみえる。若くして病に倒れたが、二二歳のころから全国の結核患者の魂とからだの救いのために祈り始め、午後三時に祈り合う「祈の友」を形成した。通信誌を発行し、十年あまり主幹として祈りを深めたのち三三歳で召された。当時最も恐れられていた結核の病という闇のなかにキリストの光を見出した「祈の友」の祈りは七〇年を経て今日も続けられている。
(204)神に向かって旅を続ける人は、だれでも、一つの始まりから新しい始まりへと歩みます。
そしてあなたは、勇気を出して、自分にこう言い続けるのです。
「もう一度始めよ。失望は置き去るのだ。おまえの魂を生かすのだ!」(「信頼への旅」ブラザー・ロジェ著 一月一日の項より。)(*)
私たちは日毎の生活のなかで、しばしば信頼や期待が破られ、心ならずも間違ったことを言ったり行なったりしてしまう。そうした罪や、また不信の人たちからの攻撃、周囲のさまざまの暗い出来事などを思うと、意気消沈してしまう。しかし、そこからつねに私たちの前には、新しい道が続いている。
こうした自らを励まし、新しい始まりへと立ち上がろうとする心は詩編にも見られる。
…なぜうなだれるのか、わが魂よ
なぜうめくのか。
神を待ち望め。
私はなお、告白しよう
「御顔こそ、わが救い」と。(詩編四二・11より)
(*)ロジェは、テゼ共同体(修道会)の創始者。彼はスイスの改革派(プロテスタント)の牧師であったが、教派を超えた和解を生きる共同体への願いを持っていた。彼は一九四〇年にフランスの村テゼに住み始め、一日三回の祈りと労働の生活を始めた。その後プロテスタント教会の出身者が加わり、一九四九年にテゼ共同体
が始まった。まず迫害され苦難のただなかにあったユダヤ人難民をかくまい、孤児たちを迎え入れた。しだいに彼のまわりにはさまざまの人たちが集まってきた。ヨーロッパでは毎年一〇万人規模の大会が開かれるようになっている。讃美歌21には、テゼ共同体で生み出された讃美が十五曲も取り入れられている。そのうち、「グローリア」(38番)「共にいてください」(89番)などは私たちの集会でもよく用いてきた。
編集だより
今月もクリスマス集会で今年の参加者に贈呈された本についての感想などをあげておきます。
○樫葉 史美子著の「十字架のメドを通って」の本は、私の心に深く浸透しました。とくに、112Pの「私は幸福者」という短文のところです。
「 頭が鳴るように痛い、目まいがする。…呼吸困難、何も考えることができない。でもこれも恩寵です。イエス様だけ、単純に信じ、従うことしかできない幸いを感謝します。言葉を選び、文を練る余地もなく、ただ、イエス様とたたえてゆけるのみの喜び。起きて動けばへとへとになります。倒れてしまいます。じっと寝てイエス様をあがめるだけ。…
」
こうした文面を読んでいて、とても感動しました。身体的苦しみをすべて主の恵みと受け止めて讃美されている姿勢。何という信仰だろうと思わされました。肉眼では何も見えない信仰の世界ですが、信仰が本当に心や魂の支えになっていると価値観がこのように変るのかなと思いました。
苦痛のときには、いやして下さいと祈るのみの私に、この本は信仰者としてのあり方を示唆して下さった神様からのプレゼントだと思いました。…(四国の方)
○前号でも紹介した、北田 康広さんのCDを聴いた人から今月もその感想の一端をここに引用しておきます。
・…深い響きの歌声に奥様のピアノ伴奏もすばらしく、はじめての歌に、何度きいても美しいメロディーのなじみ深い歌といろいろ入っていて興味ふかく、またピアノ専攻だけあってピアノがすばらしく、北田さんの心が感じられました。
ピアノの曲の選曲がまたすばらしいと思いました。私もピアノをやっていたので、全盲の方がどうやってあんなにすばらしい域までになれたのだろうどうやって練習されたのだろうと思いました。…
暗い状況の中から北田さんを導き、証し人としてまた慰めや励ましを届ける人として尊く用いておられる神様を心から賛美します。これからも北田さんご夫妻が尊く用いられ良い活動が続けられますよう、お祈りします。(関東地方の方)
・…CDの曲はいずれもとてもよい曲ばかりで、CDのパンフレットの笑顔がとても明るく、イエス・キリストを見上げ、希望に歩んでおられるのを感じました。…バッハやヘンデル、ルターなど音楽を通して福音が静かに人々の心の中にしみ通っていくような気がいたします。よい音楽は神への祈りのように感じます。(四国の方)
○前月号の返舟だよりに引用した、読者の方からの来信を読んで、感想を寄せられた方がいます。
…『 改めて歌詞を見ながら聞くと、心の奥深くまでしみ込んでくるような、イエス様が手を握って「大丈夫だよ」と言って微笑んでくれているような気持にもなりました。…」(関東地方の男性)』
12月号の「返舟だより」でこの言葉を読んで、涙が止まりませんでした。
イエス様の「大丈夫だよ」との声が、私にも届きました。
キリスト者でありながら、不安も多くあって、私の将来を誰が見ても、明るいとは言えない状況のまっただ中にいますが、イエス様にすがろうという気持ちが改めて湧いてきました。
野村伊都子さんの詞にも感動しました。さわやかな詩です。
病者や障害者にしか出来ない役割があることを感じました。
生きて行けそうです。(四国地方の方)