2005年3月 第531号・内容・もくじ
キリスト者の確信 | 復活の重要性について |
内なる真珠 | 復活したらどうなるか |
神はわが力、わが岩(詩編46編より) | ことば |
編集だより | お知らせ |
確信の必要性
この世で生きるときに、持っているべき確信がある。それは正しいこと、善きことは必ず悪に最終的に勝利するということである。
表面的に見れば、この世はそれと逆の状況になっているように見えることが多い。
真実を求めて発言したり、行動したりしても、権力や金の力によって押しつぶされるということはよく見られる。弱い立場にある者が、強い立場の者に苦しめられ、ときには命さえ奪われるということも歴史のなかでは繰り返し見られてきた。
しかし、そうした表面における出来事だけでなく、目に見えないところでの出来事がある。
正義とか悪とかいうことは、その本質は目には見えない。それゆえ、善が悪に勝利するというときも、それは目には見えない世界のことなのである。実際、主イエスが地上に生きているとき、捕らえられ、悪の力によって無惨にも殺された。それは目に見える世界では、どう見ても善の敗北だと見える。
しかし、敗北したはずのキリストの弟子たちは、それからしばらくしてから、目ざましい力を与えられ、迫害を受けつつも、世界へとキリストの福音を伝えるようになっていった。そして全世界にキリストの信仰は広がっていった。
それは、目には見えない世界において神の力が悪に勝利したからである。
そのことは、主イエスが、最後の夕食で、捕らえられる直前に語ったと伝えられてきた言葉に示されている。
「あなた方は、この世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」(ヨハネ福音書十六・33)
この預言的な言葉を裏付けるように、キリストが処刑されて以来も、キリストとその真理は敗北して消滅することなく、ずっと二千年の間、人々の心のなかで勝利し、信仰を受け継ぐ人たちが続いてきた。
善が悪に勝利するという確信は、論理や科学では得られないことである。学校教育でいかに多くの学びをしたところで、この単純で奥深い確信は与えられない。
この確信はまず自分の内なる悪である罪が神の愛によって赦されるという経験をしてはじめて善の力が悪に勝利するのだということが実感できる。
そこから、この世界全体においても、善の力が悪に勝利するというのを信じることができるようになる。善の力とは、神の力にほかならない。そのような万能の神であり、あらゆる悪に最終的に勝利される神を信じるかどうかで私たちの歩みは大きく異なってくる。
キリスト教のシンボルである十字架は、罪の力に神が勝利して下さったことであり、復活は、死の力にも勝利されたことを指し示すものである。キリストの福音とは、そのような勝利の力を信じる者にはだれでもその力が与えられる、ということなのである。
復活祭(イースター)
キリスト教で最も重要な祝日は、復活祭です。主イエスは、十字架で殺されたけれども、三日目によみがえって、死に勝利する力を持っていることを実際に示し、さらに神のところに帰って神とともにおられ、聖霊というかたちでいつも信じる人とともにおられるようになっています。
その重要性のゆえに、復活のことは、新約聖書のほとんどの書物にあらわれます。
四つの福音書はすべてキリストの復活を記しています。とくに最後に記されたヨハネ福音書には、日本語訳で、四ページにわたって詳しく書かれています。
使徒言行録では、復活からその記述が始まり、復活があったからこそ、弟子たちが力を与えられ、復活のキリストそのものである聖霊が注がれて、キリストの伝道が始まり、最大の使徒パウロもその聖霊によって、アジア(小アジア)、ヨーロッパ(ギリシャ)へと送り出されました。
新約聖書の他のところで、どのように復活のことが記されているか、その一部を次にあげてみます。
…わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。
イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。(ローマの信徒への手紙四・24~25)
…最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと…(Ⅰコリント十五・3~4)
…罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――
キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。(エペソ信徒への手紙二・5~6)
…キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。(ピリピ 三・21)
…キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。(コロサイ書二・12)
…この御子(イエス)こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒り(神の裁き)から私たちを救って下さる方です。(Ⅰテサロニケ一・10)
…イエス・キリストのことを思い起こしなさい。私の宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。(Ⅱテモテ二・8)
…死者の中から最初に復活した方、地上の王たちを支配される方、イエス・キリストから恵みと平和があなた方にあるように。(黙示録一・5より)
以上は一部にすぎません。これを見てもわかるように、新約聖書の全体にわたって、キリストの復活はその根本をなすことになっているのがうかがえます。
それに対して、クリスマスのもとになっているキリストの誕生のことは、マタイとルカの二つの福音書だけにしか記されていないのです。このことからも明らかなように、クリスマスよりも、復活祭の方が、聖書的にみても、信仰上からみてもはるかに重要なものなのです。そしてクリスマスが祝われるようになったのは、キリストの死後三百年以上も経ってからでした。
パウロが指摘しているように、もしキリストの復活がないのなら、キリスト者の信仰も空しく、いのちがけでキリストのために生きることも無意味になってしまうわけです。(Ⅰコリント十五・12~)
復活のキリストがおられるということは、本当かどうか分からないことを信じているというのでなく、私にとっては動かすことのできない事実であり、真理となっています。
私自身は誰からもキリストのことをすすめられたのでもなく、全く突然に偶然的にみえること、古書店での一冊の本を立ち読みしたことからキリスト者となったのですが、これはまさしく、復活したキリストによってそのように信じるようにうながされたのでした。
復活などということは、最も信じがたいことだと一般的には思われるのですが、私自身はその復活のキリストが私の魂に触れて下さったことからキリスト信仰を持つようになったわけで、それが以後の人生の決定的な分かれ目となりました。
このように重要な、キリストの復活であるために、キリスト教の最も重要な祝日として最初から重んじられてきました。キリストの復活が日曜日であったために、日曜日を「主の日」(黙示録一・10)として集まり、礼拝を捧げるようになったのです。最初のうちはユダヤ教の土曜日の安息日と主の日(日曜日)を二つ守っていたのですが、後に土曜日の安息日の内容が、日曜日の主の日に統合されて、日曜日を主の日として守るようになったのです。
旧約聖書で、主の日というと、裁きの日という意味で使われており、新約聖書でも主イエスの再臨の日として用いられることがあるので、それと区別するために、日曜日のことは、主日(しゅじつ)という言い方を用いています。日曜日の礼拝を主日礼拝というのはそのためです。
このように重要な復活祭ですが、一般にはクリスマスよりはるかに知られていません。それは復活という、信仰の中心に直接に関わる内容で、キリストを信じない人にはなじめない祝日と言えるからです。それに対してクリスマスは、誕生というだれでもなじみやすいこと、プレゼントやサンタクロースなど、子供にも、また信仰を持たない人にも親しみやすいことが結びついているからでもあります。
また、復活祭の決め方も、「春分の日の直後にくる満月の次の日曜日」といった分かりにくい決め方になっていて、毎年日が変る移動祝日となっていることもいっそうなじみにくいことになっています。
しかし、復活の重要性は、毎週の日曜日が世界的に休みとなっていることで、歴史的に刻みつけられてきたと言えます。日本人で、日曜日が休みになっている理由が、キリストの復活によっているということをどれほどの人が知っているでしょうか。大多数の人は知らないと思います。私自身、キリスト教を知るまでは、日曜日が休みであるのは当然のように思っていて、それがキリストの復活が日曜日にあったから、主イエスへの礼拝の日として、世界的に休むようになった、などとは考えてみたこともなかったし、周囲の誰一人そんなことは言わなかったのです。
神は人間の思いを超えて、働かれる。それは世界の時間の数え方(西暦)も、キリストの誕生をもとにして数えているし、毎週の不可欠の休みである日曜日も、キリストの復活をもとにして生れていることを考えてもわかります。
このようにして、歴史のなかで、キリストの大いなる力が、世界を導いてきたのを感じさせられます。私たちも求めよ、さらば与えられん、との主イエスの約束によって、そういう大きな翼のように私たちを覆っているキリストの力を受けることができるわけです。
内なる真珠
黙示録には、世の終りにすべての悪が滅ぼされることが記され、その時、天から下ってくる神の都がさまざまの宝石でたとえられている。
…都は神の栄光に輝いていた。その輝きは、最高の宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。…
都の城壁は碧玉で築かれ、都は透き通ったガラスのような純金であった。
都の城壁の土台石は、碧玉、サファイアとエメラルドなどのあらゆる宝石で飾られていた。
…また、十二の門は十二の真珠であって、どの門もそれぞれ一個の真珠でできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。(黙示録二十一・11~21)
このような描写は、あまりにも現実離れしているように思えて、軽く読み流すことが多いのではないかと思われる。しかし、現実の悪が横行し、醜いこと、戦争や、飢餓、貧困、病気など、目をそむけたくなるようなことが、至るところであるこの世において、黙示録の著者には、それと全く異なる神の国の世界が示されたのである。
これは、ヨハネが神から直接に示された究極的な世界である。人間の言葉では到底表現できない有り様が、宝石のたとえで言われている。それは、永遠性、美、強固さ、透明さ、清さといったものである。宝石だからこそ、そのような特質を持っているのであり、それゆえに宝石のたとえで言われている。
「都は透き通ったガラスのような純金であった」という。金属はすべて不透明なものであって、金、銀も同様である。しかし、それがあえてガラスのような透明な純金だと言われているのは、何ものによっても汚されない清さと純金の持つ永遠性や美で包まれているということを表している。
これは、人間の前途に最終的に何が約束されているかということが、ここに記されている。
このような、驚くべき宝石のたとえは、黙示録の記者が独自に示されたのでなく、すでに、旧約聖書続編のトビト書に見られる。
エルサレムのどの門も、
サファイアとエメラルドで、
そのすべての城壁は、
高価な宝石で飾られる。
エルサレムのもろもろの塔は、黄金で
その壁は純金で造られる。
エルサレムの通りは、
ルビーでちりばめられる。(旧約聖書・続編トビト書十三・16-17)
このトビト書の記述を見れば黙示録との共通のものがあるのはすぐに分かる。トビト書は、紀元前一七〇~二〇〇年頃に書かれたとされているので、黙示録よりも二五〇年ほど前の書物である。黙示録の著者も神にとくに引き上げられた人物であり、このようにかつての文書に霊的な刺激を受け、そこからまたあらたな啓示を受けて書いたと考えられる。
エルサレムという具体的な都市の名が用いられているが、これは象徴的なものであって、完全に清められた、霊的な神の都を表している。だから、黙示録ではそのようなエルサレムは、「天から降ってきた」と記されている。
そしてこのような象徴的な神の都エルサレムは、現代に生きる私たちにも部分的にせよ実現すると言えよう。
そのことを、次の讃美歌は表している。
一、主を仰ぎ見れば 古きわれは
移し世と共に 疾く去りゆき
我ならぬ我の 現れきて
見ずや天地ぞ 改まれる
二、美しの都 エルサレムは
今こそ降りて われに来つれ
主共に在せば 尽きぬ幸は
きよき河のごと 湧きて流る(讃美歌三五五番)
私たちが、罪赦されて主を仰ぐだけで、まわりの天地が新しくされたように感じるし、さらに、天からの神の都、神の清い霊で包まれたもの、それは神の国といえるが、そのような霊的なものが、私たちの魂の世界へと流れ込んで来ると歌われている。
そのときに私たちの心の世界に訪れるのが、天のエルサレムであり、黙示録やトビト書の著者が神から直接に示されたような、美と清らかさ、そして強固さ(永遠性)に満ちたものだと言えよう。
主イエスも人間に与えられる究極的真理を、宝石のたとえで言われた。
…高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。(マタイ福音書十三・46)
この高価なる真珠とは、聖書の真理であり、聖霊であり、キリストご自身である。もし、私たちが主イエスを信じるなら、主イエスは私たちの内に住んで下さる。それは、私たちが高価なる真珠を内に宿すことと同じである。そのことをより詳しくさまざまの宝石のたとえで表しているのが、黙示録などの記述であり、そこで言われているような、数々の宝石でできた都が、私たちの内に宿ることでもある。
これは単なる想像の世界でも、夢物語でもない。非現実的なことを言っているのではないのであって、それはだれの心にも生じるたとえようもない現実を、可能なかぎり言葉で表そうとしていることなのである。
使徒パウロは、このようなことを、次のように述べている。キリストこそは、黙示録などで言われているあらゆる宝石の永遠性や美、清さなどをすべて持っておられる方だからである。
キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる。(ピリピ 三・21)
復活したらどうなるか
死は終りではない。キリスト教では死後に復活するということは、根本的に重要なことである。復活がないのなら、キリストも死んだままであり、比類のない純粋な愛と正義の御方もわずか三年の伝道で、ローマの権力者やユダヤ人の指導者たち、さらに人々からも見捨てられ、弟子たちにも裏切られ、無惨に殺されてしまった、ということになる。
それは最大の悲劇であり、そのようなことだけが事実であるなら、この世はまったく絶望的なものとなる。いかに私たちが善きことを目指し、行動によってもそれを証し、純粋な愛をもって生きても、もし最後は周囲からも誤解され、中傷され、死んでいくだけだ、善などというものは伝わらないのだということなら、何のために善いことを目指していかねばならないのか、そんなことは一切意味がなくなってしまう。
だからこそ、新約聖書で、キリストの最大の弟子といえるパウロが、次ぎのように述べている。
…キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄である。
…キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになる。…(復活もなく、この世だけの希望しかないなら)わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者だ。(Ⅰコリント十五・14~19より)
仏教や神道では、死後は不安定な、人間に災いなどを与えるような恐ろしいものになるとみなされているからその霊魂をしずめるためにさまざまの法事や死者へのまつりごとがなされている。
仏教では人間の死後はたとえ生きているときにはすぐれた人であっても、魂は非常に不安定であって、生きている者にたたりや、災厄をもたらす恐ろしいもの。不自然な死に方をした者はことに大きな災いを生きている人間にもたらすと信じられ、だからその霊魂を安定させて、人間に危害を加えないようにするために子孫が祀りをしなければならないとされる。そのような祀りごとによって霊魂が次第に安定してきて、その期間が死後33年から50年とされてきた。法事ということや各家庭での仏壇に食物などを備えるしきたりもこうした観念から続いている。しかしこれはもともと仏教でなく、日本人独特の神道的な考え方がもとになっている。それと仏教とが組み合わさったもの。日本に伝わるもとの中国の仏教では三回忌までしかなかったのに、日本では、その後に、七回忌、一三回忌、一七回忌、二三回忌、二七回忌、三三回忌などと次第に増やされていった。仏教は日本にきてからこのように、時代とともに法事の数が増やされ、現在も増え続けて五〇回忌が言われるようになったのは、今から五〇年ほど前、一九五五年頃からという。「日本の仏教」(渡辺照宏著・岩波新書)「仏教のしきたり」(ひろ・さちや著)などより。
要するに現代も日本の多くの家庭で行なわれている死者へのまつりごとは、死んだ人の霊魂への恐れからしていることであり、それは原始的な宗教感情が今も続いているということになる。
七月に現在では、観光の祭として有名な京都の祇園祭も、もとはといえば、平安京ができて七〇年ほど経ったころに都で疫病が大流行して、それが恨みをもって死んだ人の霊が祟っているのだとされ、その霊をなだめ、しずめるために始まったものである。
全世界を愛と正義をもって支配されている神がいないということになれば、さまざまの霊的なものがうごめいているということになり、それらに対する恐怖が自然なものになってくるのは必然である。
しかし、キリスト教では、死後はそのような恐ろしいものになったり、生きている者にたたったりするようなものではなく、生きていたときのその人の心が何を見つめていたのか、そのうえでどんな言動をしてきたのかといった観点から、神の御前で裁きをうけるとされている。
神はそれぞれの行いに従って報いられる。
忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命を与え、
真理ではなく不義に従う者には、裁きを行なわれる。(ローマ書二・6~8より)
ただし、「行い」といっても、それは心のうちでなされることも含んでいる。例えば、十字架でキリストが処刑されたとき、その横でやはり十字架刑にされた重罪人の一人は、その最期のときに主イエスに立ち返ったが、それによって主から「あなたは今日、パラダイスにいる」との言葉を受け、裁かれることなく、救いに入れられることが示されている。そのような重い犯罪人は、処刑されるまでの行動といえば、神から厳しい裁きをうけるようなことであっただろう。しかし、息を引き取る間際であっても、心からの悔い改め、主イエスに帰依することによって、その悔い改めという「行い」によって救いへと入れていただけるということなのである。
このようにただ、神とキリストの力を信じ、キリストの十字架によるあがないを信じて、悔い改めるというだけで、裁きを受けることなく、救いをうけるというのが、キリスト教の根本にある。
肉体が死んだ後には人はどうなるのか、それについては昔からいろいろと想像されてきた。人間の意見や想像はじつに千差万別であるが、このことについて聖書はどのように記しているのかを調べてみたい。
その際、すでに述べたように、真実や正しいこと(その究極的な存在が主イエス)に全く背き続けて、嘘をいったり、人を欺いたり生命を奪って何ら悔い改めもないような人間については、どのように言われているか。
イエスにつながっているとは、イエスの本質である、神に根ざす真実や正しさ、あるいは愛につながっているという内容を含んでいる。
それゆえそのような真実などに意識的に、背きつづけるならばそのような人間の心は次第に枯れていき、心の中のよいものが焼かれていくということは容易に推察できる。
実際、私たちの周囲においても、ひとをいじめたり、間違ったことをしたり、快楽を追求ばかりしているような人の表情には冷たいもの、人を射すような何かがにじみでてきたり、その眼にも暗いものが宿ってくる。これは内なる善きものが、焼かれ、枯れていくということにあてはまると言えよう。
わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。(ヨハネ福音書十五・6)
この言葉は、生きているときのこともすでに象徴的に表しているが、死後のことも含んでいると考えられる。この言葉は、表面的にキリストを信じていますという人だけが救われて、キリストを信じていなかった人はすべて焼かれるのだというような意味にとる人もいる。
しかし、主イエスは、別の箇所で「主よ、主よという者がみんな救われるのではない。」と明白に言われたのであって、言葉だけで主を信じていると言っている人がそのまま救いに入るとは言われていない。
ヨハネ福音書は全体としてとくに霊的なことを強調して記されているので、ここで書かれていることも人間そのものについての記述だと受けとることができる。「わたしにつながっている」ということは「永遠的な(神の)真実や愛につながっている」という意味をも含んでいるのであって、そうした真実や愛を受け入れないなら当然その人の心のなかは暗く、枯れていくことになる。
またほかの箇所でも死後のことを暗示する表現がある。
世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもはそこで泣きわめいて歯ぎしりする。(マタイ十三・49~50)
あるいは次のような記事もある。
「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、
その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。
やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによってアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、アブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。
そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』
しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。(ルカ十六・19~25)
このような記事は、愛好されて読まれるといった箇所ではない。
しかし、こうした箇所によって、もし私たちが生前に真実なものと結びつこうとせず、この世的な快楽に身をゆだねて生き続けるとき、地上に生きている時からすでに心は荒れて枯れていくが、死後もそのようなことが確実に生じるということを感じさせられる。
このように、悪をなし続けた者が死後において裁きを受けるということは、聖書に限らず、さまざまの宗教において言われていることであって、聖書のこうした記述は特異なものではない。
こうした厳しい裁きを受ける死後の状況に対して、もし私たちが自分の罪を知り、悔い改めつつ、神とキリストの真実と愛に心を向けるとき、ただそれだけで私たちは全く異なるところにと導かれるということは、すでに述べた、十字架の上でイエスと同じように処刑された重罪人への約束でもうかがうことができる。
どんなにひどいことをしてきた人間でも、ただキリストに心から向かうというだけで、かつての重い罪も赦され、さらにいろいろの苦行や善行を重ねたりせずとも、ただちに「キリストと共に楽園にいる」と約束されている。
これは、ただ信仰によって救われるのであり、水の洗礼とか善行や、何かの組織に加わったりといった条件など全くないということがはっきりと示されている例である。
そしてここで、死後は「キリストとともに楽園(パラダイス)にいる」
と言われている。パラダイスとはどういうところかについては説明されていないが、確実なことは、「キリストとともにいる」という言葉によって、救いの十分なる確証を与えられているのである。
さらに聖書はもっとはっきりとしたことを死後のことについて私たちに指し示している。
それはヨハネ福音書において、永遠の命ということが特に強調されているが、永遠の命が与えられるならば、私たちの死後も当然その延長上にあって完全な命が与えられることになる。永遠の命とは単に長い命というのでなく、神の命を指す言葉だからである。
御子(キリスト)を信じる者は永遠の命を得ている。(ヨハネ三・36)
死後も裁かれず、この地上にあるうちにすでに永遠の命を与えられる。それは神の命であるゆえに死後も朽ちることなくその命は続く。死後はどうなるのか、という問いかけに対して、ヨハネ福音書では、信じる者は神の命を受けて死ぬことのない存在に変えられると言っている。
はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。(ヨハネ五・24)
このようなヨハネ福音書の表現に対して、最大の使徒パウロはどのように死後の命を表しているだろうか。
私にとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは益なのです。この二つの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。(フィリピ一・23)
このようにパウロはこの世を去る、すなわち死によってキリストと共にいることを念頭においていたのがうかがえる。死んだらどうなるのか、それは神と同じ存在となっておられるキリストとともにいることなのである。
キリストは霊的存在となっているのであるから、キリストとともにいることが許されるということは、私たちも死後は霊的な存在となる。
このことについて、パウロはかなり詳しくのべている。
当時の人たちのなかに、復活などといっても眼には見えないではないか。そんなものはない、と強く主張する人たちが多く現れた。今も昔も同じである。 それに対してパウロは、つぎのように説明している。
…しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれない。
…(からだにも)天上の体と地上の体がある。…
死者の復活もこれと同じである。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、
蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する。
つまり、自然の命の体で蒔かれて、霊の体に復活するのである。自然の命の体があるのだから、霊の体もあるわけである。…(Ⅰコリント十五・35~44より)
復活などないという人たちへの反論は、このように、神はわたしたちに自然のままの体だけでなく、霊の体を与えられた。私たちの復活のときには今の肉体がそのまま復活するのでない。そうでなく、目には見えない霊のからだとなって復活するというのである。
その典型的な例は、イエス・キリストである。主イエスは、十字架で殺され、この世からいなくなったと誰もが思った。しかし、キリストは神のような霊のからだとなって今も生きておられる。使徒パウロも、生前のキリストには出会ったことが記されていないが、復活のキリストに出会い、根本から生きる方向を転換することになった。私自身もその霊のキリストによってまったく関心のなかったところから、復活されたキリストの僕へと強い御手で引き出されたのであった。
そしてさらにパウロは私たちの死後の状態は単にキリストとともにいるだけでないという。
キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる。(フィリピ三・21)
このように述べて、キリストを信じる者の死後とは、驚くべきことであるが、神と同質の存在となっているキリストと同じ形に変えられるというのである。復活されたキリストは、神と同じ万能であり、永遠の支配を持っておられる御方である。そのようなキリストと同じような栄光ある形に変えられるというようなことは、ふつうに考えればおよそ信じがたいことであり、どんなに修養など努力しても到底そのような変化などは起こりようがないと思われるであろう。
しかしそれほどまでに、神が私たちに与えようとされている恵みは測り知れないということなのである。すでに私たちは心の汚れや真実に反する数々の思いや行動によって本来は滅ぼされるべき存在であったのに、それをただキリストの十字架を信じるだけでその滅びから救い出されるという。
死後はどうなるのか、それに対して、「キリストの栄光あるからだと同じかたちに変えられる」と言っているのである。
それはキリストが神の力をうけているように、神のもとにあるあらゆるよいものが与えられるということであり、それは、地上で人間が味わうことを許されているよきことの完全なものが与えられるということでもある。
私たちは地上で生きているかぎり、罪を犯したり、弱い存在であるにもかかわらず、神への悔い改めと、神を仰ぐ心だけあれば、死後はキリストと同じ、栄光あるからだにしてくださる。
それゆえに、夫婦愛、兄弟愛、友人やキリスト者同士の愛など、神によって清められたような愛がすでに地上生活ではじまっていたら、それが完全なかたちで与えられる、成就されると信じることができる。それゆえ、私たちは死後に、かつて先立って召された人たちと会うことができると信じることができるのである。
私たちはだれでも次第に老齢化していく。そしていろいろの病気や孤独という恐ろしい苦しみが増えてくる。あるいは職業も退職してなくなり、することがないということのためにも苦しまねばならなくなる。そのようなことは、二〇代、三〇代のときには考えてもみなかったであろう。
そうして、だれもが確実に死を迎える。死の前には苦しい病気、耐えがたいと思われるさまざまの病気を経てからようやく死に至る場合が多い。そして、死後は、暗い、不気味な世界に行ってしまうとか、生きている人の祀りごとがなかったら荒れ狂う霊となってたたるとか考えられている。
死後の命も地上の命の延長上にあると漠然と思う人も多いし、いや何にもないのだ、一切が無になるのだ、と人間の浅い考えや想像で断定的に信じている人も多い。
しかし、死んだらそれで終わりといった世界が本当なら、なんとそれは空しいことであろう。
それなら私たちの人生などというものは、無に向かって進んでいるのだ。それを本当に突き詰めて考えるとき、人生に目的もなく、すべて死によって崩れ去っていく夢のようなものとなってしまう。
このような死後の世界と、キリスト教が指し示す死後の世界はいかにかけ離れていることであろうか。
私たちは現在の世界が闇であるのに、死後もさらにその闇がもっと深い闇へといくのではないのである。ただ、真実な神とキリストを信じること、仰ぎ見るだけでそうした闇でなく、光に包まれた死後の世界へと導いて頂けるのである。そして、神と同質のキリストが持っておられる完全なよきもの(栄光)を持ったような存在に変えられるのである。
誰にも壊されることのない、そして必ず与えられる消えない希望がここにある。
主イエスこそ我らの希望。栄光とこしえに神にあれ。
神はわが力、わが岩(詩編四六より)
キリスト者の戦いとは、目に見えない悪の力との戦いのことである。この世には、至るところにそうした戦いが生じる。一人一人の心の中に、家庭や職場の中に、あらゆる人間関係の中に、また病の苦しみや死の近づいたとき、いっそうそのような悪の力が迫ってきて、それまでの信仰とか理想とかを突き崩そうとする。
こうした戦いのときに何より重要なことは、私たちが神によって固く立っているかどうかということである。このことにおいてとくに有名なのは旧約聖書の詩編四六編である。
神は私たちの避け所、そして私たちの力。(*)
苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
わたしたちは決して恐れない
地が姿を変え
山々が揺らいで海の中に移るとも
海の水が騒ぎ、泡立ち
その高ぶるさまに山々が震えるとも。
(*)「力」と訳された原語(オーズ)は、新共同訳では、「砦」と訳しているが、口語訳、新改訳、関根訳などもすべて「力」と訳しているし、大部分の英語訳でも「力」(strength)、ギリシャ語訳旧約聖書でも、デュナミス(力)と訳している。
この詩において、神は避け所であり、力であり、助けであると言われている。私たちに常に必要なもの、そして正しい道、本当の幸いへの道を歩むために最も重要なことは、つまづき、倒れる私たちを常に助け、悪から守って下さる力である。悪の攻撃から身を守るための避け所なのである。
この詩の作者にとって、神は○○せよ、と教えを迫ってくる姿でなく、正しく道を歩むときの決して欠くことのできない存在、不動の岩のようなお方なのであった。
この詩の作者は、自分の周囲がいかに混乱し、また世界において山々や海などに大いなる異変が生じようとも、という大きな視野に立ち、天地創造のときにまでさかのぼって見つめている。なぜ、この作者はこのような不動の確信を持つことができたのか。それは、神がともにいるという実感が深くあったからである。そしてそれと結びついているのが、天地創造の時の神が自分をも支えて下さるという確信であった。人間がなにかに頼るとき、それがもろいものであればあるほど、そのようなもろいものに頼ったなら、頼る者も共に倒れてしまう。
この作者の心にはっきりと現れたのは、最も重大な異変が生じたときである。それは地震や大波、天災のようなものであるかも知れない。
そのようなことが大規模に起これば起こるほど、私たちはそれまでの信仰も揺らぎそうになる。神がおられるならどうしてこんなことが生じるのかと。
しかしこの詩の特に心に残るところは、いかなる大きなことが生じようとも、決して動かされることのない、作者の強固な信仰の姿である。
私たちの心は海の水のように、少しのことで揺れ動く。人間はそのようなものでそこからどんなにしても不動の確信など生じないとあきらめている人も多いかと思われる。
天地創造の神を見つめ、その万能の力を実感していなければこのような信仰は生れないだろう。人間の信仰がどこまで固くされるか、それをこの詩は指し示している。
このような海の水の混乱と動揺を極めた状況は、この世の現実を思い起こさせる。
次の段落で、この詩は一転する。
川とその流れは、神の都に喜びを与える。(*)
いと高き神のいます聖所に。
神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。
夜明けとともに、神は助けをお与えになる。
すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。
神が御声を出されると、地は溶け去る。
(*)「川」を新共同訳は、「大河」と訳しているが、この原語 ナーハールは、ユーフラテスのような大河をも意味することがあるが、普通の川をも意味する。ほとんどの英訳では、river と訳されている。関根訳、新改訳、口語訳も「川」と訳している。
ここでは、それまでの海の荒れ狂うような状況とは大きく変わって、静かな川の流れの光景が歌われる。
同じ水の集まりでも、このように、全く対照的に並べられている。古代人にとって海の水は人間や船を飲み込み、底知れない深い闇を思わせるものであった。とりわけ、嵐のときには、猛烈な力をもって荒れ狂うので、船などひとたまりもないほどになる。
しかし、もう一つ、全く別の水があり、それがここに言う神の都に喜びを与えるものである。
神の都、それはエルサレムのことであるが、この町は、標高八百メートルほどの山の頂上の台地にある町であって、川は流れてはいない。
それにもかかわらずこの詩の作者は、豊かな川の流れを啓示されたのであった。それは旧約聖書の最初から言われているエデンの園から流れていると記されている川をも思い起こさせる。
エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。(創世記二・10)
また、預言書にもこのような流れが、エルサレムの神殿からあふれ出るという内容が見られる。
…彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。
…川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。(エゼキエル書四七・1、9)
このような記述は、一見したところ、一体何の意味があるのかと、心に残らないかも知れない。
しかし、これは聖書の最初からずっと一貫して示されてきた、いのちの水のことなのである。
この有名な詩の作者もまた、そのいのちの水をまざまざと示されたゆえにこのように詩に組み込んだのである。
山の上の台地、そこには、少し下ったところに泉があって水が時々あふれ出るというところはある。しかし一つの川もないようなところであるにもかかわらず、この詩の作者には大いなる川の流れを見ることができたのである。
いかなる敵が取り巻いても、また天地異変が生じようとも決して恐れない、という強固な信仰だけなら、心は硬化してくるかも知れない。それは冷たく、固い信念に終わるかも知れない。
それがさらに道をそれると、預言者を迫害したり、キリストも同様に迫害された。
強固な信仰をうるおす、いのちの水が流れているのでなかったら、信仰も恐るべきものとなる。
「川とその流れは、神の都に喜びを与える」という一言は、その意味で重要なものを持っている。
神はその流れのある都にともにおられる。夜明けとともに助けを与えて下さる。それは神の助けがそれほどまでにすみやかだと言おうとしている。
この詩は内容的に三つの部分に分かれているが、第一の部分は、天地創造の神であるゆえに、自然や宇宙のどんなことが生じようとも恐れないという確信を見ることができる。
自分の足元だけを見るのでなく、広く天地を創造し支配されている神を見つめること、それがこの詩人の確信の根拠の一つとなっていたのがわかる。
しかし、このような記述から、この詩が作られた状況が穏やかな世界のなかで作られたと思ってはいけないのであって、それは次のことでわかる。
すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。
神が御声を出されると、地は溶け去る。(七節)
周辺の国々からはしばしば攻撃がなされ、そこに住む民には危険が迫ってくることが繰り返し生じた。そのような危機的な状況であっても、神はいのちの川を流れさせ、多くの支流によってそこに住む人たちをうるおし続ける。そして確かに人々を守られる。
敵の攻撃がいかに大きくとも、神の一声で「地は溶ける」という。しかし、このような表現を私たちは使うことがないから、何を意味しているのか分かりにくい。これは、神の声によって強固と見える大地が震えること、何の力もなくなってしまうことを意味していると考えられる。
「溶け去る」と訳されている原語は、ムーグであり、これは、つぎのように「震えおののく」と訳されている箇所がある。「土地の住民は皆、我々のことで震えおののいている。」(ヨシュア記二・24)
国々が騒ぎたち、攻撃をしてくるということは歴史のなかでは常に生じてきたことであった。そしてそのたびに国の支配者は恐れ、武力で対抗し、周辺の国々に頼ろうとしたり、恐れにとりつかれることが多く見られた。しかし、神はいかなる事態となっても常にその守りの御手をそこにおいておられるというのがこの詩の作者に示されたことであった。
それは、歴史の流れの中での神の大いなる働きを作者が実感していることがこの詩の第二の部分に記されていることからもわかる。
国々がいかに攻撃を加え、危機に陥って滅びようとすることがあろうとも、神の都には一貫して神のいのちの水が流れ、歴史の混乱にまきこまれずに支えられているのである。
こういう詩編の記述は、現代の私たちにとっては、神を信じる人々、そしてその集まりが、いのちの水によってうるおされるさまを描いていると受けとることができる。
…万軍の主はわたしたちと共にいます。
ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。
私たちの住んでいるこの天地、それを支配する神は、また、長い時間の流れのなかにおいてもその支配を持ち続けておられる。
「万軍の主」という表現はこれも現代の私たちにはわかりにくい。「万軍」と訳された原語は、創世記二章
一節では、「すべて」という語と合わせて用いられ「万物」と訳されている。
万軍の主という表現は、すべてを支配されている主、万物をその支配下に置いて、それらをご自身の悪との戦いの軍として用いる主という意味がある。そこから、この表現は、「全能の主」という意味にも使われることになった。(*)
万軍の主(神)という表現は、聖書においては、とくに預言書などに多く、三〇〇回以上も用いられていることからもわかるように、旧約聖書の神に呼び出された人たちにとって、神とはいかなる神かを明確に表すことのできる表現であった。
それは万物を創造し、それゆえに現在もすべてを支配する神、悪と戦う神、といった力ある神を表す言葉であったのである。そしてそのような神は決して現在は無縁になったのでなく、今の私たちにおいても、そうした力ある神への信仰がいつも求められているのである。
(*)「万軍の主」という言葉は、現代英語訳聖書にも、The LORD Almighty という訳も見られる。(New International Version 他)
しかし、どの訳語も不十分ということで、現代の代表的英訳聖書の一つも、原語のまま、Yahweh Sabaoth(ヤーヴェ・ツェバーオース)としている。(New Jerusalem Bible)
主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。
主はこの地を圧倒される。
地の果てまで、戦いを断ち
弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。
「心を静めて知れ、
わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。
万軍の主はわたしたちと共にいます。
第三の段落では、未来に向けた作者のまなざしが感じられる。世の終わりを見つめ、神は最終的に何をなされるのかということを常に聖書を書いた人たちは思い描いていた。いかに現実の世の中が、混乱と不正がうずまいていても、またいかに人間の努力や武力などでできないことであっても、神はその全能の力をもって最終的には必ずよき世界を造られるという啓示である。
神はこの世界の悪の力を最後には圧倒し、神のご意志に背く人間同士の権力争いの道具である武力を断つ。このような、世の終わりにおける平和については他の預言者たちも同様に啓示されていた。これは現実の武力や権力、そして貧困や病のあふれる状況をみているだけでは決して生れることのない見方である。まさしくそれは人間社会や思想などとは全く異なるところから、光線のように投げかけられて生れた見方である。
終わりの日に
主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい…
主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。(イザヤ書二・2~4より)
この詩は最後に、人間の力で解決しようとかいう考えを捨て、心を静めて神に向かうことをすすめている。心をむなしくして神を仰ぐとき、そうした宇宙や歴史、そして将来をもすべてその御手のうちに置かれて支配されている神の絶大なる力を実感してくるからである。そのような神の力は、必ず、国々に知られ、あがめられることを予感していた。
そしてこの詩が作られてから数千年を経て、確かに現代の世の中もいかに混乱があろうとも、そこで心静め、人間の力を捨てたところに、この詩人と同様な、神への固い信仰と、いのちの水にうるおされた人たちが世界に現れ続けているのである。
最後の節に、作者の確信はふたたび繰り返されている。
…万軍の主はわたしたちと共にいます。
ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。
この言葉の意味を現代の普通の言葉にわかりやすく言いなおすと次のようになる。
「全能のゆえに、宇宙万物を支配し、悪と戦う主は、我らと共に永遠にいて下さる。
歴史を通じて無数の人たちに信じられてきた神こそは
、私たちをあらゆる危険から守り、悪の力から救って下さる。」
ことば
(207)人を説得しようとすれば、あなたはまず彼らに物質的「利益」を示すか(これはよくない方法である)、それとも彼らの心を獲得するかでなくてはならない。
これをなしとげる最上の道は、神に聞きいれられる祈りによることである。なぜなら、神はどんな人の心をも、その時どきに、以前とはまるで別物に変えることができるからだ。しかもこの心の変化は不思議なほど突然で、しかも決定的なことがある。
いずれにせよ、あなたはある人のため真剣に、くり返し祈ることもしないで、その人に絶望することがあってはならない。(ヒルティ著眠られぬ夜のために下 二月十九日の項)
Wenn Sie Menschen uberreden Wollen,so mussen Sie ihnen entweder materielle "Interessen"zeigen,was ein schlechtes Handwerk ist ,oder ihre Herzen gewinnen.
Der beste Weg hiezu ist ist das erhorige Gebet; denn Gott kann jedes Herz von Stunde tu Stunde zu etwas andern, als dem bisherigen gewinnen, und diese Ubergange sind oft merkwurdig plotzlich und entscheidend. Jedenfalls verzweifeln Sie an keinem Menschen bevor Sie Gott ernstlich und wiederholt fur ihn gebeten haben.
・他人の心を獲得する、それは金や物を与えることで最も容易にできる。しかし、それは一時的なものであり、不純なものがそこにとどまるから、そのようにして獲得した心などは、すぐに変質する。
また相手の気持を惹くような言葉や行動で相手を得ようとすることも多い。それもまた一時的なものにすぎない。
しかし、神が働いて相手の心を変えるときには、それは永続的なものとなる。私たちはそのために祈るという道が与えられている。
編集だより
○「はこ舟」から「いのちの水」という名前に変更されたことについて、関東地方の読者から、次のような来信がありました。
「救いの舟より、"いのちの水"へと導かれた、御誌のその深い意義に感銘深く読ませていただきました。この混乱の世にあって、一人でも多くの人が、真のいのちの水を求めて、主に立ち返り、主の御栄光があらわれますよう、お祈り申し上げます。」
私たちが何よりも必要なのは、主イエスが言われた意味での「いのちの水」だと言えます。
○来信より
・いのちの水を毎日いただけて、本当にありがたいですね。「いのちの水」無しには、生きていけないですものね。「野の花」(集会文集)に託された一つ一つのメッセージを重く、ありがたく読ませていただきました。苦しんでいる方、悲しんでいる方、その中から主に従うことを学んだ方々の御言葉は、本当に感謝だと教えられました。(関東地方の方)
・「いのちの水」誌、毎号御送りいただきありがとう御座います。五二九号「災害をどう受けとめるか」を読ませていただきました。
「今回のような事態が生じたから神がいないとかいう言う人もいる」について、確かに天災はもとより、不条理な人災、あるいは先の太平洋戦争に国民を指導していった政府を戦争当時は何故裁かれないのか等々。不満に思った人間の心を思います。
私の所属集会は、関東大震災によって当時鎌倉の自宅が倒壊して、乳飲み子を含む2人のお子様を残して最愛の夫人を失われた先生が、ペシャンコになった家の前に座って思い悩んで居られたとき、「神は愛なり」とのメッセージを受けられ、伝道生涯に入るべく神様に強要されて聖書講義を始められた集会で御座いました。
「聴講自由」のこの集会に、先生の晩年の集会に参列してお話を聞くことが出来ました。その後、先生のご著書により導かれました。多くの人がこの先生によって信仰に入れられ著名な聖書学者、伝道者も輩出されました。マルコ十三・7~8 に、地震、戦争などが生じるとあり、それと共にイエス様が大いなる力と栄光をもって来臨され、地の果てから天の果てまで四方から選ばれた人々を集められます。
不条理に見えるこの世の出来事、無慈悲と思はれる御仕打ちにも、再臨の遅れにも、そこに神様のご計画があることを思います。「福音は凡ての人に説かれねばならない」がその理由の一つであると思います。(関東地方の方)
・…詩編の中に、旧約聖書と新約聖書と共通するものが流れていること、ルターでしたか、詩編は小聖書であると言ったとか、本当に詩編があって、旧約と新約のキリストが結びつくのを覚えます。(関東地方の方)
・今日頂いた杣友豊市さんの色紙に書かれた毛筆、「神にとって不可能なことはありません」を何回も何回も唱えているうちに、主にあっては、「私にとって不可能なことは一つもありません」…という言葉が浮かんできました。そうだ、がんばろう、神様が守って下さる、八四歳が何だ、…という気持になりました。(四国の方)
お知らせ
○第三二回 キリスト教四国集会(無教会)が次のような日程、内容で行われる予定です。
四国集会という名称ですが、従来から、京阪神あるいは、中国地方、関東地方からの参加者もあり、どなたでも自由に参加できます。部分参加も可能です。
ある地域や特定の先生の流れを汲む人たちだけが集まるのでなく、多様な人たちが、ともに主の御前に集められ、ともにみ言葉を学び、讃美し、祈りを捧げ、主にある交流をも深めることができますようにと願っています。
今回のテーマは「祈りと讃美」で、これは、聖書に記されているように、どのような時にも、祈りかつ讃美できる信仰を与えられるようにとの願いから生れたものです。
参加希望者は、申込書に必要事項を書いて郵送するとともに、会費 一万二千円(一泊四食付き)を郵便振替で送金して申し込んで下さい。申込書がない場合は、下記まで電話、FAX、E-mailなどで連絡くださればお送りします。なお、遠隔地からの参加の場合に、前日や15日(日)の宿泊が必要な方は、直接に会場のホテルに、四国集会の参加者だと告げて申し込んで下さい。
・申込先 〒773-0015 小松島市中田町字西山91の14 吉村 孝雄
・電話 050-1376-3017 ・FAX 08853-2-3017 ・E-mail:pistis7ty@ybb.ne.jp
・郵便振替番号 〇一六七〇ー六ー五六五九〇
・日時 五月十四日(土)午前十時~十五日(日)午後四時
・会場 徳島市 センチュリープラザホテル (電話 〇八八ー六五五ー三三三三)
・プログラム
五月十四日(土)
九時 受付
10時~10時40 挨拶 開会礼拝
聖書講話 聖書における「祈り」と「讃美」 吉村 孝雄(徳島)
10時50~11時40 証し(1)
黄木 定(山形)、 大塚 寿雄(北海道・札幌市)
11時50~13時50 昼食 自由時間
13時50~14時20 讃美の時間
全体での讃美、手話讃美、コーラス他
14時20~14時50 聖書講話
旧約聖書における祈りと讃美 原 忠徳(高知)
14時50~15時20 聖書講話
新約聖書における祈りと讃美 冨永 尚(愛媛)
15時20~15時50 会場準備
15時50~17時50 自己紹介・近況報告
18時00~19時30 夕食・自由時間
19時40~21時00 証し(2)
甲藤 浩三(高知)、那須 容平(大阪府高槻市)、鳥羽 勝(東京都多摩市)
21時~ 有志(若者)の交流会
五月十五日(日)
6時30~7時00 早朝祈祷会 グループ別
7時30~9時00 朝食、自由時間
9時00~9時20 讃美の時間 (2)
9時30~10時20 証し・聖書の言葉に関する感話(3)
勝浦 良明(徳島)、宮田 咲子(大阪狭山市)、
10時30~11時40 主日礼拝
(題 未定) 朴 ワン(韓国)
新約聖書における祈りと讃美(その2) 関根 義夫(埼玉)
11時50~13時20 昼食・自由時間
13時20~14時50 グループ別感話と祈り会
15時00~16時00 閉会集会
・各地方からの感想
・次回開催県より
○なお、前回の徳島での開催のときと同様に、前日から宿泊の方、また会が終了した15日も宿泊する方がおられる場合には、希望によって自由な交流の集まりを持っています。