2005年4月 第531号・内容・もくじ
キリストを証しするもの
私たちのふだんの生活では、「証し」といった言葉はあまり使わない人が多数を占めているだろう。しかし、聖書においては証しということは重要な意味を持っている。
ヨハネ福音書において、とくにこの「証し」という言葉が多く使われている。(*)
マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書を合わせてもわずか二回しか用いられていないのに、ヨハネ福音書では三十三回、ヨハネの手紙を合わせると、四十三回も用いられている。
なぜ、このように多くの「証し」をするという言葉がほかの三つの福音書と比べて格段に多く用いられているのか、それは、著者が証しということをとくに重んじていたからである。
ほかの三つの福音書では、主イエスが何を教え、何をなさったかということをできるだけそのままに書こうとする姿勢がある。ことに最初に書かれたマルコ福音書にはその特色がはっきりしている。
しかし、ヨハネ福音書は最後に書かれた福音書であるために、単に事実を書くということなら、すでに三つの福音書にあるので、それらを基礎とした上で、神からの聖霊による示しを受けたことが書かれているという特質がある。
それは、ヨハネ福音書の冒頭からすでにあらわれている。「はじめに言があった。言は神であった。…」ということは、イエスが行ったこととか、直接教えたこととは違って、著者のヨハネが神から啓示されたこと、聖霊によって示されたことを書いていると言える。
このことがすでに「証し」である。ヨハネが神の霊によって、キリストこそは、永遠の存在であり、万物の創造にもかかわり、現在も生きておられるといったことは、肉体をもっていたときのイエスが教えたことでなく、復活して天に帰った主イエス(復活したキリスト)が、教えたことである。
そしてそれを実際に霊の耳で聞き取ったゆえに、「キリストは永遠の存在であり、神と同質である」と証言しているのである。
ヨハネ福音書はこのように見てくると、著者が受けたキリストの証しで満ちている書であると言えよう。
キリストは光である、それが暗闇のなかで輝いている。暗闇は光に打ち勝たなかった。(ヨハネ福音書一・5)
これも、キリストがいかなるお方であるかという証言である。
そして、
わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。(ヨハネ一・16~17)
これも同様なキリストについての証しである。考えたことを議論したり、意見を言っているのでなく、ヨハネや彼と同様にキリストを信じるようになった人々が、ほかでは決して与えられなかった、深い恵みを受けたということなのである。
そのことを証ししているのが、この文である。
そしてそのようなキリスト者たちの証しがなぜ、神の言葉と言えるのか、と思われるかも知れない。
それは、人間の祈りや叫び、あるいは讃美を集めた旧約聖書の詩編が神の言葉として聖書に収められているのは、それが確かに人間の祈りや讃美であっても、その背後に神がおられて、神がそのような祈りや讃美へと導かれたのであるから、それらは単に人間のきままな考えや感情でなく、神のご意志、お心の反映であるとみなされるからである。
キリストのさきがけとして現れて、人々の心を神の方向へと向け変えることになったヨハネも、キリストのことを証言した。
ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」(ヨハネ福音書一・15)
さらに、このヨハネはキリストの本質を証言してつぎのように言った。
見よ、世の罪を取り除く神の小羊!(ヨハネ一・29)
この短い言葉は、一見なんでもないように見える。しかし、これは実に広く深い内容をわずかの言葉に凝縮したものである。罪とは人間がだれでも持っている深い不信実な情でもある。それがあるから、自然のままの人間は、主イエスが言われたような、「敵対する人を愛し、その人のために祈る」というようなことはだれもできない。自分中心に考え、思い、そして行動することが罪であるゆえ、そのような深いところにある罪の問題をきびしく扱う。
人間がどれほどそのような深い罪を持っているか、本人も分からない。自分はそんな罪など持っていないと思い込んでいても、ふとしたときにそれが現れ、自分の罪深さを思い知らされる。
聖書にもそうしたことは多く記されている。苦難の折り、敵対するものが次々現れてくるときには、ただ神に依り頼み、復讐とか憎しみなどの感情を相手に持つこともしないで、神の助けを祈り願う人であったが、そのダビデがそのような数々の困難のすえに王となって周囲の敵をも平定して安楽な生活となったとき、重大な罪を犯してしまった。ダビデは自分がそんな罪を犯してしまうとは夢にも思わなかったであろうと思われる。
また、新約聖書ではキリストの弟子ペテロのことも思いだされる。
主イエスが、まもなく自分が捕らえられ、十字架にかけられて処刑されると予告したとき、弟子のペテロは、自分は死ぬことがあっても、イエスに従っていくと、断言した。しかしそれはまもなく全くの偽りの言葉になってしまった。命がけで従うどころか、イエスが捕らえられたあと、あまりの動転のゆえに三度もイエスなど知らないと否認してしまったからである。
このように、人間は自分の限界、罪ということすら分かってはいない。それゆえ、自分の罪を取り除くということは不可能であるのがすぐに分かる。他人の罪を除くことなど到底できないのはなおさらである。
しかし、洗礼のヨハネは、キリストだけは、世の罪、すなわちあらゆる世界のすべての人たちの罪を取り除くことを確信していた。世の罪とは現在の世界に生きる人たちだけでなく、現在の生きている人々、将来の人間など一切の罪を除くことができるということである。何という大きなわざであろう。
驚くべきわざであり、これは人間がすることはありえないことである。
洗礼のヨハネは、そのことを自分の修行でも学問や他人からの教えでもなく、ただ神からの直接の啓示によって知ったのである。
さらに、そのヨハネの言葉にある、「世の罪を取り除く神の小羊」という言葉の後半のことも意味深い。「神の小羊」とは何を意味するのだろうか。
この一言を理解するにも、旧約聖書で「神に捧げられた小羊」というのがどんな意味を持っていたかを知る必要がある。聖書はたしかに、より正確に理解しようとすれば、旧約聖書が不可欠になる。旧約聖書において、小羊とは、次のような意味をもって記されている。
エジプトの奴隷の生活から解放されるという前夜の最後の食事としてとったのが小羊の肉であったが、その血を、家の入り口の柱と鴨居に塗った。それによって神のさばきが過ぎ越したという故事があった。これは、きわめて重要であったからこの月を正月とした。そして以後の歴史を通じてこのことが過越の祭として行われることになった。
キリストはまさにこの小羊の役割を果たして、信じる人が罪のために受けるはずの裁きを赦され、義とされる
ために来られたということを証言している。
…また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。(ヨハネ五・36)
このように、神ご自身が、イエスに特別な力を与え、神の子であることを証ししている。それは次に言われているように、イエスが行っている業によって示されている。
…しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。(ヨハネ福音書五・36)
このように述べて、主イエスのなさっている業(はたらき)は、神から来ていることを表していると言われている。
イエスの行った業、それはいろいろとあった。しかしそれは当時の人たちが、メシア(救い主)というものに期待していた業とはあまりにもかけはなれていた。それゆえ、イエスのことを証言した洗礼のヨハネですら、後になってイエスは本当に預言されていたメシア(救い主)であるのか、と大きな疑問を抱いたほどであった。
イエスはご自身の業の特質をつぎのように言われた。
…目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病(ハンセン病が多かったと思われる)を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
わたしにつまずかない人は幸いである。(マタイ福音書十一・5~6)
このように最も苦しむ人たち、さげすまれている人々、闇にある人たちが新しい力を与えられ、救われているという実体であった。このような何の権力も社会的な地位もないような、無視されている人間が生きかえったようになったといっても、そんなことで、国全体がよくなったり、ローマの圧政から救われるのか、といった疑問がだれの心にも根ざしてきたのであり、それが洗礼のヨハネですらそのような疑問を持つに至ったということである。
このように、主イエスの業は開かれた目を持った人にはたしかにそれが、神の業であるということを示すものであったが、当時の旧約聖書の学者たちも理解できなかった。そしてそのあげくにイエスを殺そうとまで考えるようになった。
さらに、主イエスは、つぎのように言われた。
…あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。(ヨハネ五・39)
ここで言われている聖書とは、旧約聖書のことである。旧約聖書は、キリストについて証ししているという。このことは、表面的に旧約聖書を読んでもとても気付かないことである。
しかし、何年も読み続け、いろいろと必要なことも学んだり、経験していくとき、次第にこのキリストの言葉が実感をもって感じられてくる。
このことは、新約聖書をよく読むと、主イエスだけでなく、パウロや他の弟子たちも旧約聖書がいろいろな意味でキリストを指し示していることが分かる。
例えば、旧約聖書の冒頭にある、闇と混乱のただなかに、「光あれ!」と神が言われたら光が生じた、という記述は、ヨハネ福音書で言われているように、キリストご自身がたしかに闇に輝く光そのものであったことを指し示すものである。
…言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光に打ち勝たなかった。(ヨハネ一・4~5)
また、マタイ福音書においても、光とはキリストのことであるとして、預言者イザヤの預言を引いて次のように記されている。
…暗闇に住む民は大きな光を見、
死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。(マタイ四・16)
また、使徒パウロも次のように述べて、創世記の記述はキリストにある新しい時代を前もって証していると
受け止めていたのが感じられる。
…「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えて下さった。(Ⅱコリント四・6)
また、創世記の終りのほうに、次のような記述がある。
ユダよ、あなたは兄弟たちにたたえられる。あなたの手は敵の首を押さえ
父の子たちはあなたを伏し拝む。
王笏(おうしゃく)はユダから離れず、
統治の杖は足の間から離れない。ついにシロが来て諸国の民は彼に従う。
彼は、ロバをぶどうの木につなぐ。
彼は衣をぶどう酒で洗う。(創世記四九・8~11より)
こうした文章は分かりにくいが、全体として言われているのは、つぎのようなことであろう。
ユダで表されるその子孫には特別な力と祝福が与えられ、その子孫から現れるメシアは、敵(悪)の力を支配し、王権が与えられ、世界の民がそれに従う。
そして、そのメシアの時代には、貴重なぶどうの木の実をロバに食べさせるほど、服をぶどう酒で洗うという象徴的表現で言われているほどに、豊かなめぐみのあふれる時代になる。これは、ヨハネ福音書の冒頭で次のように言われていることを、遠い昔から証ししていると言えるのである。
わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。(ヨハネ一・16)
このように、一見関係なさそうに見える箇所であっても、よく考えながら読むと、驚くべきことにそれらはキリストを証ししているのが浮かび上がってくる。
まだメシアのことなど、ほとんど誰も意識しないような時代にあっても、神から特別に引き上げられた人には、闇のなかにきらめく光を見るように、はるかな将来に実現させようとする神の御計画の一端、しかも本質的な内容の一端が啓示されるのがわかる。
旧約聖書がキリストを証ししているということは、詩編やイザヤ書にもしばしば見られる。
主イエスが最期に息を引き取る直前に叫んだ言葉、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ!」(*)(わが神、わが神、どうして私を捨てたのか!)という言葉は、そのまま旧約聖書の詩編の二二編の冒頭に現れる言葉である。
(*)エリ、エリは、ヘブル語。レマ、サバクタニは、アラム語。マルコ福音書では、エロイ、エロイ、となっていて、前の部分もアラム語。このように、旧約聖書の原語であるヘブル語や、イエスの時代に使われていたアラム語でこの主イエスの叫びが記されているのは、それほどに当時の弟子たちや人々の心にその叫びが深く刻み込まれたということであり、しかもその言葉が、イエスより数百年も昔の詩編の作者の叫びとまったく同じであり、その詩編がイエスのこの最後の叫びの預言となっている。
この詩編二二編は、ほかにも、人々があざける言葉なども、驚くほどイエスの十字架処刑のときの周囲の人たちのあざけりと共通している。
…わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い
唇を突き出し、頭を振る。
「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら
助けてくださるだろう。」(詩編二二・8~9)
これは、先ほどの「わが神、わが神、どうして私を捨てたのか」という叫びの後に現れる内容であるが、これは、次のように、新約聖書でキリストが受けた侮辱を予告するかのように似た内容となっている。
…そこ(イエスが十字架にかけられている場所)を通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。
「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」(マタイ福音書二七・)
さらに、詩編二二編にある、つぎのような小さいことに見える出来事すら、キリストの十字架のときに同様なことが生じているのに驚かされる。
…彼らは私をさらしものにして眺め、
私の着物を分け
衣を取ろうとしてくじを引く。(詩編二二・18~19)
これは、福音書の次のように記された出来事を預言するものとなっている。
…それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、
その服を分け合った、
だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。(マルコ福音書十五・24)
このように、詩という本来は個人の苦しみや嘆き、讃美や祈りを内容とするものが、キリストのことをそのまま指し示すものとなっているのである。詩編が書かれて数百年という歳月が経った後で、このように実際にキリストに関することが現実にそのように起こるということは、到底偶然とかいったものでなく、時間を超え、歴史の流れのなかで御計画をなされていく神の御手を感じさせることとなっている。
さらによく知られているように、旧約聖書のイザヤ書では、いろいろの箇所でキリストのことが預言されていて、全体としてキリストを証しするものとなっている。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い…。
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。…
彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの罪のためであった。
彼の受けた苦しみによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。…
わたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。…
彼は口を開かなかった。…
捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。…
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった。(イザヤ書五三・3~12より)
このような言葉が、実際にキリストの受難より五〇〇年あまりも昔にすでに言われていた。これはキリストの受難とその意味を深くとらえている。それは現代のキリスト者の心の深いところにある霊的な体験であり、またキリストを信じるに至ったのは、まさにこのイザヤの預言したキリストのことを信じて受け入れたからに他ならない。
これは、旧約聖書がキリストを証ししている、預言しているということのいくつかの例であるが、これら以外に全体としてみれば、旧約聖書は随所でキリストを指し示している、キリストのことを証ししているのが感じられる。
この世はまったく真実も愛も通用しないように見える場合も多い。武力や金の力、権力などで多数の人間を支配し苦しめることは、古来数知れない。またそれらとは全くことなるが、病気とか飢えによる苦しみや悲しみによってもどこに神がいるのか、と深刻な疑問を抱かせることも随所に見られる。
しかし、こうした混乱と闇と疑いのただなかで、一冊の書物が星のように輝いてきた。それこそ聖書であって、それはすでに旧約のときから今まで述べたように、キリストへとレンズで光を一点に集めるように、キリストのところへと焦点が合わされているといえよう。
ヨハネ福音書において、主イエスが、「聖書(旧約)はわたしについて証しをするものだ。」(ヨハネ五・39)と言われたのは、このような意味であった。
現在の私たちには旧約聖書とともに、キリストを直接に証しする文書である新約聖書が与えられている。それゆえ、このキリストの言葉は、そのまま全部の聖書についてあてはまることとなった。
そして新約聖書を知らされている私たちには、さらに聖書だけでなく、神の創造された自然の広大な世界もまた、キリストを証ししていると言える。
それは、キリストとは単なるよい教えを説いた人間というような存在でなく、神と本質が同じであり、神とともに永遠から永遠へと存在しているお方である。
…はじめに言があった。言は神であった。万物は言によって成った。(ヨハネ福音書一・1~3より)
ここでいわれている言とはもちろん、私たちがふつう使っている言葉という意味ではない。今から二〇〇〇年ほど前に、人間の姿をして現れ、イエスと名付けられる以前から、実は存在しておられたのであって、その永遠の存在を、ギリシャ語でロゴスという歴史的にも重要な意味深い語を用いたのである。
ロゴス logos とは、ギリシャ語では、哲学における最も基本的な用語の一つである。それは、理性、原理、言葉、理(ことわり)など多くの意味がある。
すでに紀元前五〇〇年頃のギリシャの哲学者であったヘラクレイトスは、「万物の生成はロゴスに従っている」(「ギリシア思想家集」32頁 筑摩書房)と述べて、万物の根源にある目に見えない法則のようなものをロゴスと言っている。
こうした考え方は、後の時代にも受け継がれていったが、ヨハネ福音書の冒頭の言葉は、このようなギリシャの最高の知性が考えていた宇宙の根源たるロゴスが、実はキリストであったのだと言おうとしているのである。
そしてそれに加えて、旧約聖書の冒頭からいわれているように、神の言葉が持つ、創造の力を重ね合わせたものとして、ロゴスという言葉を用いている。
こうした点から、キリストは単なるよい教えを説いた古代の教師というような存在ではなく、永遠の昔から存在していた宇宙万物の創造者でもあるというのが本来のキリスト信仰なのである。
これは、ヨハネ福音書だけでなく、ヘブル書にもやはり重要なので、その冒頭に記されている。
…この終わりの時代には、御子(キリスト)によってわたしたちに語られた。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造された。(ヘブル人への手紙一・2)
このように、キリストによって世界は創造されたということであるから、私たちの周囲の自然もまた、キリストの本質がそこに刻まれていることになる。
新緑の初々しさ、野草の繊細な美しさ、そして年月を経た樹木の堂々たる姿、あるいは、はるかに連なるやまなみの持つ静けさと力、そして、海の押し寄せる大波の力強さ等々すべてそれはキリストを指し示し、キリストを証ししていると受けとることができる。
私たち一人一人が、聖書の言葉やそれについての印刷物、文章などによって、それまでの神を信じない生活から根本的に変えられ、自分の罪深さを知り、そこからの救い主を知らされて新しい生活へと導かれていくのも、キリストの力であり、キリストを証ししている出来事である。
以上のように、ヨハネ福音書がとくに「証し」という言葉を多く用いているのは、実に多様なものがキリストを証ししているからである。それは、開かれた目をもって見るほど一層キリストを証ししているのに気付くようになってくる。
(*)「証しをする」というギリシャ語(動詞)は、マルテュレオー martureo というが、この言葉は、つぎのように、福音書によって著しく用いる頻度が違っている。
マタイ 一、マルコ0、ルカ一、ヨハネ 三十三、ヨハネの手紙 一〇
「証し」(名詞)というギリシャ語は、マルテュス martus であるが、これについても、ヨハネ福音書とヨハネの手紙で二十一回も使われているのに対し、ほかの三つの福音書を合計しても四回ほどである。
解放と導き
旧約聖書の出エジプト記十三章では、神の特別な導きが強調されている。イスラエルの民は、エジプトにおいて奴隷とされ、長い苦しみがつづき、滅びる寸前までいっていた。そこから神の大いなる御手によってその奴隷状態から解放され、目的の地を目指して導かれていく。
この章を一部抜き書きしてみると、それがいかに「導き」ということが繰り返し述べられ、また「力強い御手」が強調されていることに気付くであろう。
…モーセは民に言った。「あなたたちは、奴隷の家、エジプトから出たこの日を記念しなさい。主が力強い御手をもって、あなたたちをそこから導き出されたからである。主が、乳と蜜の流れる土地にあなたを導き入れられるとき、あなたはこの月にこの儀式(過越)を行わねばならない。
あなたはこの日、自分の子供に告げなければならない。『これは、わたしがエジプトから出たとき、主がわたしのために行われたことのゆえである』と。
あなたは、この言葉を自分の腕と額に付けて記憶のしるしとし、主の教えを口ずさまねばならない。主が力強い御手をもって、あなたをエジプトから導き出されたからである。
主があなたと先祖に誓われたとおり、カナン人の土地にあなたを導き入れ、それをあなたに与えられるとき、
将来、あなたの子供が、『これにはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『主は、力強い御手をもって我々を奴隷の家、エジプトから導き出された。…
… あなたはこの言葉を腕に付けてしるしとし、額に付けて覚えとしなさい。主が力強い御手をもって、我々をエジプトから導き出されたからである。」
さて、ファラオが民を去らせたとき、神は彼らをペリシテ街道には導かれなかった。それは近道であったが、民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれない、と思われたからである。
神は民を、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられた。
主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。
昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。(出エジプト記十三章より)
主の力強い御手(出エジプト十三・3)、それこそは聖書が一貫して述べていることである。聖書とは、そのことを証言している書物だと言えよう。アブラハムは自分の考えや希望、意志でカナンの地に行こうとしたのではなかった。それは、神の導きであった。神があらわれ、カナンへ行けと命じた。アブラハムがそれを信じて、その導きにゆだねたのが決定的なことであった。
ふつうには、自分で考え、行動することが一番重要だと考えられている。
しかし、それは神などいない、自分の考えが一番頼りになるといったことを前提としている。最善に導く神がいないのなら、当然他人の考えをもとにして生きることより、自分の考えを元にしなければならない。
だが、その自分というのが、いかに誤りやすく弱いものか、だれでも思い知らされるときがある。事故で、大怪我して動けなくなったら、ガンの末期になってしまったのが判明して自分がそれなら一体何ができるのか、自分の家族が道を誤ったと知って、その心を必ず変えるなどと言えるだろうか。
自分で考えて行動することが一番大切ということは、自分がいかに弱く頼りないか、また真実を見通すことができないか、未来のことも何一つ見抜くこともできない、明日のいのちもあるかどうか断言もできないほどに先は分からないのである。
そのことを知ったら、自分で考えて行動することが一番重要だとは到底言えないのが分かる。
聖書では、人間の弱さ、罪を深く見抜いているので、自分で考えてやると全く間違った道へと進んでいくことが最初から記されている。
それが、エデンの園で食べることを禁じられていた木の実を食べたということである。
自分の考えでやると、たちまち間違った方向に入り込むというのが人間の実体なのである。
そこから、私たちの常識と根本的に異なること、神の導きによって歩むことが極めて重要になる。
聖書ではその後、ノアもだれも神の裁きなど信じないただなかで神を信じ、神に導かれてその裁きに備えたので救いを得たのであった。
アブラハムはキリスト者にとっても重要な人物である。キリスト教の信仰の中心をなしている、信仰によって救われるということも、すでにアブラハムにおいて言われていたことで、それを使徒パウロが引用しているほどである。驚くべきことであるが、パウロよりも一七〇〇年ほども昔にすでにパウロがキリストから啓示された最も重要なことが預言的に啓示されていたのである。
その啓示は、神の導きに身をゆだねた結果として与えられたものである。もしアブラハムが現在のイラク地方で住んでいてそのままそこに留まることを選んだならそのような啓示も与えられなかったのであり、その後のヤコブやユダヤ民族もなく、神の言葉に生きる神の民もなかったことになる。
それはユダの子孫としてのキリストもなく、キリスト教もなかったことになる。
このように、導きに生きることは、極めて大きなことにつながる。
アブラハムに次いで、導きに徹底してゆだねた人物はモーセである。
彼においては、自分の考えや人間愛、あるいは自分の力で同胞のイスラエル人を助けようとしても全くそれは通用しなかった。かえって、直線距離でも四〇〇キロも遠くの地へと命がけで逃げていかねばならなかった。そこで自分の力のもろさと弱さを思い知らされたのである。そうした日々のなかで、神が現れ、神の導きに生きる歩みへと変えられていった。
モーセ自身が神に導かれ、かつてはそこで殺されそうになったところであり、そこから逃げてきたその恐ろしい場へと、今度は神の導きによってふたたび戻っていくことになった。
私たちは自分の考えでは逃げ出したいところであっても、神が導かれるときにはそこに向かっていくことができる。自分を憎む者であったらそのような者から逃げ出したいと思う。しかし、神に導かれるとき、そのような者のところにすら心は帰っていく。
導きにゆだねたとき、初めて神はその大いなる力を表し、その力を与える。導きにゆだねるとは、古い自分に死ぬことであり、心に誇るものを捨て、自分が頼るものを捨てることであるゆえ、主イエスが約束されているように「心の貧しいものは幸いだ、天の国は彼等のものである。」という言葉が成就するのである。
イエスよりはるかに昔であっても、この真理は変わらない。
神の導きにゆだねるとき、モーセは自分の考えで行動したときとは全く異なる力を与えられ、エジプトの王ですらどうすることもできないほどの権威をもって語ることができた。
そしてさまざまのいきさつの後にイスラエルの人々を導いてエジプトから出て行くことになった。
そのことを特別に重要なことであったから、詳しく記念すべきことが言われている。それが出エジプト記の一三章に記されている。
ここでは、繰り返し、神による「導き」という言葉、そして「力強い御手」ということが出てくる。そしてこの繰り返し強調されている言葉は、現代の私たちにもそのまま働きかけてくる。
私たちが必要としているのは、そのような導きと力強い御手であるからである。
神による導きが最大のもの、最も深い意味を語りかけるのは、奴隷の家から導きだされたということである。この出来事はずっと後世まで、数千年も記念され、覚えられているが、それは聖書に記されてている神とは、確かに奴隷の家から導きだす神なのである。
これは自分自身が一種の奴隷状態であったことを深く思い知らされたものは数千年の時間を超えて、深い共感を持つ。
私もかつては、目に見えないなにかに強くつかまれてどうしてもそこから逃れることができない、という実感があった。どんなにそこから逃げ出そうとしても、かえって深みに落ち込んでいく、というのをありありと思いだすことができる。ふつうの奴隷も逃げ出そうとしたらかえってより厳しい労役にさらされるだけであるが、それと似たようなものであった。
使徒パウロもモーセより千数百年も後の人物であったが、やはり自分が神に敵対する力(罪)の奴隷であることを痛切に思い知らされていた。
しかし、そこから解放され、今度はそうした闇の力と逆の、愛と真実の力に仕える身となった。それをパウロは、キリストの奴隷(ギリシャ語で、ドゥーロス
doulos )になったと言って、自らの存在を一言で言い表す肩書のように、彼の手紙の冒頭に用いている。
例えば、ローマの信徒への手紙の書き出しは、原文の順に訳せば次のようになっている。そのため、一部の英語訳聖書でも、slave (奴隷)と訳している。
パウロ、キリストの奴隷、呼び出されて使徒となった…(ローマの信徒への手紙一・1)
Paul, a slave of Christ Jesus,(The New American Bible)
Paulos doulos Cristou Iesou kletos apostolos… (ギリシャ語原文をローマ文字表記にしたもの)
このように、当時たくさんいた奴隷たちを表す言葉を、自分の肩書としてつねに使うようになったほど、パウロにとっては、それはキリストに結ばれた自分を簡潔に表す言葉なのであった。
ふつうの奴隷は、主となる人間に仕え、その命令通りに動かされる。また罪の奴隷というのは、目には見えない悪の力、罪の力に縛られて純粋な愛と真実の心で行うことができない。
しかし、キリストの奴隷というのは、そうしたあらゆる束縛から解放され、無限の愛と真実なお方であるキリストに結ばれ、キリストのいわれるままに動くことができる、その力をも与えられている魂の状態を表している。
キリストの奴隷、この特異な表現は、初めて接する者には、不可解な表現と感じるが、キリストという完全な愛のお方に全面的に結びつき、仕えていくことを、以前の罪の奴隷と際立った対照的な表現として、パウロはこのように言ったのである。
日本語訳では、キリストの「僕 しもべ」と訳されている。しかし現在で「僕 しもべ」といってもどんな人間なのかイメージがはっきりする人は少ないであろう。広辞苑では、「身分の低い者、雑事に使われる者」といった説明がなされている。また別の辞書では、「召使」とされている。
こうした訳語では、パウロが対照的にあげている、罪の奴隷か、キリストの愛のままに生きるキリストの奴隷かという二つのことが分かりにくくなっている。
出エジプト記を読むとき、それは遠い異国の三千年以上も昔のことだと思って、現代の私たちと何の関係もないと思いがちである。しかし、この出エジプト記の記事は、「奴隷からの解放」ということであり、使徒パウロがそのように受け止めたように、まさに自分たち一人一人の問題がそこにあるということができる。
人間はみんな奴隷である。何かの力のままに生きている。他人や国家の権力、あるいは金の力、また自分の欲望や自分中心という考え、それらはすべて罪が関わっているが、そうした一切の奴隷からの解放がキリストによってなされたというのが新約聖書のメッセージなのである。
人は罪など感じない、そのようなものに縛られてなどいないと言う人もあるだろう。
そのような人においても、人間の状態はどのような人であっても、極めて限定された、縛られたものなのである。それを次に見てみよう。
ある狭い範囲に縛られてそこから出られない、そうした状況は、この地上に生きるなら必然的に生じる。人間は地球や太陽の動くままに縛られてそこから出ることはできない。物体を投げあげても、地球の引力によってひき戻される。まさに地球に縛られているのである。
そしてその地球もまた、太陽に縛られて、決まった道筋以外を動くことはできない。
宇宙船に乗って出られるという人がいるかも知れない。しかし、あのような宇宙船などというものは、極めて不自由な、狭い空間に閉じ込められ、飲食もままならない奴隷状態といえる。狭い船内に持ち込んだ水や食糧が亡くなったらそれで終りであり、また精密機械の満ちた船内が何かの致命的な不具合が生じたら、そして人間の体調が狂ってしまっても、それですべて万事休すである。
一歩宇宙船から出るなら、そこは真空の、すべてが凍りつく世界であり、恐るべき死の世界である。
このように、私たち人間は空間的にみても、何かに縛られているのであって、この地上に生きるかぎり、地球と太陽にしばられて生きているのである。太陽の衰えとともに必然的に地球もその運命を共にせざるをえない。
このように、人間は内的にみても、外的に見ても、どこから見ても、つねに縛られた状況にある。
こうしたすべての縛られた状態からの解放はあるのだろうか。
先にあげた出エジプト記において、注目すべき記述がある。それは神がその愛する民を導くとき、あえて、地中海沿いの近道をとらせなかったということである。
エジプトから、乳と蜜の流れる地、カナンへは地中海沿いなら、三百キロメートル程度で、毎日五時間、二〇キロ前後歩くとすれば、わずか数週間で到着する距離なのである。
しかし、それをわざわざ遠い迂回路をとらせ、さらに砂漠のオアシス(カデシュ・バルネア)で長期間留まったりして、四〇年もの歳月を要して目的地に達するという、ふつうなら考えられないような導きがそこにあった。
…神は彼らをペリシテ街道には導かれなかった。それは近道であったが、民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれない、と思われたからである。
神は民を、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられた。(出エジプト記十三・17~18)
このような遠い距離を長い年月、困難な砂漠的の土地を歩ませ、数々の苦難を体験させるという、まわり道のようなことを神はあえてなされる。
現在の私たちにおいても、神は私たちを愛するといっても、簡単な道をあえて歩ませないことに気付く。それは病気であったり、人間の不和、や憎しみ、家庭の崩壊、大きな罪、戦争、飢えと貧困などなど、今も人間世界ははるかな迂回路をたどっている。
しかし、そのような困難な、はるかな道のりであっても、かつての出エジプトの民がそうであったように、それは必ずよき地、乳と蜜の流れるところすなわち神の国へと導かれるということははっきりとしている。
このような人間世界を導く、神の最終的な御計画は、再臨という言葉で表される。
キリスト教という信仰内容の中心的内容の一つであるキリストの再臨ということは、こうしたあらゆる困難や束縛をも解放するものなのである。
そのような世界はどのようなものか、それは時間をも空間をも超えたようなものであるゆえ、言葉では言い表すことができない。
それを聖書では新しい天と地といった表現で象徴的に表しているが、そのことはすでに旧約聖書のイザヤ書において預言として記されている。
…見よ、私は新しい天と地とを創造する。(イザヤ書五一・17)
そして新約聖書において、キリストの再臨ということが、はっきりと主イエスの言葉にも、使徒たちの言葉にも表れている。
… そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。(マタイ二四・30)
…しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいる。(Ⅱペテロ書三・13 )
救いの単純さ
しかし、主の御名を呼ぶ者は救われる。(ヨエル書三・5)
救いのために必要なことは何か、ここには、キリストより四百年ほども昔からきわめて簡潔にそれが述べられている。儀式も、組織や、お金、あるいは善行を積むこと、また人生経験や年齢等々それらはすべて、救いのためには不要なのである。ただ主の御名を呼ぶこと、主を信じ、主を仰ぐだけで救われる。
すなわち、本当の幸い、いかなることによっても壊されないような幸いはそのような単純なことから与えられるというのが聖書の主張である。
パウロが後に信仰によって救われると確信をもって述べ、それがキリスト教信仰として世界を動かすことにつながり、ルターが、信仰のみによって救われるという単純なことを根本に据えて、宗教改革という世界的にも重大な改革をなすに至ったこと、また内村鑑三の深く広範な影響力なども同様にこの一点から出発していた。
この重要な真理、それは旧約聖書から実は言われていたのである。このヨエル書という一般の人にはほとんど知られていない書、キリスト者でも心して読んだという人、少なくとも注解者をひもときながら、一句一句を考えながら読んだという人はごく少ないだろう。しかしそのようななじみの少ない書に実に重要な救いの根本が記されているのである。
そして同様なことは、イザヤ書にも、「私を仰ぎ望め、そうすれば救われる」(イザヤ書四五・2)と記されているし、さらにさかのぼって、旧約聖書の巻頭の書たる創世記にも、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記十五・6)とあり、聖書の最初からこのような救いに関する単純な真理は示されていたのである。
真理は数千年の昔から、深い大地の底を流れるように、この世を流れ続けてきたのである。
変えるべきもの、変えてはならないもの―国歌と平和憲法
最近は、憲法を改正すると称して、とくに第九条を変えようとする動きがある。しかし、太平洋戦争という数千万の人たちを殺し、あるいは傷つけた恐るべき悲劇の反省の結果としてつくられ、当時の日本人も喜んで受け入れた平和憲法はあくまで変えてはならないものである。
その理想に近づけようとするのが、日本人のとるべき姿勢なのであって、その特色をなくしてしまうなら、今後の歴史の歩みのなかで、日本は間違った流れに簡単に呑み込まれていく可能性が大きい。
歴史のなかで無数の人たちの犠牲をもとにして与えられたあるべき姿としての憲法を守るのが、日本人のつとめである。
さらにキリスト者としては、非戦平和主義というのは、人類の最も共通した真理の書である聖書にすでに数千年前からそれこそが最終的なあるべき姿であると記されているのを知っている。
キリストより数百年も昔に、イザヤ書でもすでにそうした非武装こそ本当の人間社会のあり方だと、示されているのである。弱い者への配慮の重要性もまた聖書ではそのような数千年も前からはっきりと記されているが、それと同様なのである。
戦争は弱い者を踏みにじり、また殺傷して弱者を多量に造り出す。そのようなことは間違ったこと、真理に背くことである。
変えるべきものは、国歌である。「君が代」は一体愛唱されるような歌であろうか。
戦前は明らかに現人神とされた天皇を讃美する歌として歌われてきた。
君が代は、千代に八千代にさざれ石の いわおとなりて 苔のむすまで
これは、「天皇の御代、天皇の統治が永遠に続いて、小さな石が、岩となって、苔が生えてくるまで」という意味で歌われた。
この、「君」というのを、「あなた」(you)だと思って歌え、などという説明を、以前教育委員会が指導したことがあり、学校教育でもそのように教えたらいいのだというように校長などが言ったことを覚えている。
しかし、クラスメートのだれかに向かって、「あなたの御代(時代)が永遠に続きますように、小さな石が岩となって苔がはえるまで…」などと一体だれが本気で歌う気になるだろうか。
この歌詞は岩石が風化するということを知らなかった、一〇〇〇年も昔の歌なので、科学的な見地から見ると、逆なのである。岩が風化して数千年もすれば小さな石(さざれ石)となるのであって、小さな石が自然に風化して岩になって苔が生えてくるということにはならない。
そして苔というのは、何も千代に八千代に(数千年)も経たなくても、日陰で湿っていたらじきに生えてくるのである。
このように、常識的に見ても、君が代、さざれ石が岩となること、苔が生えることなど一つ一つ心を込めて歌うなどしがたいことである。
しかもその上に、戦前の歴史的に侵略戦争に駆り立てるためにも悪用されたという負のイメージを持っているし、その上、歌詞それ自体が実にわかりにくい。意味のわからぬ言葉を、一生懸命歌え、などと強制的に命じても何のよいことも生じない。歌というのは、メロディーや歌詞が、人間の心のなにかに触れないなら歌う気持になれないものだからである。
このような理由から、その歌詞を考えるなら、これからの世代にも、到底、「愛唱される」ことにはならないだろう。
国歌こそ、音楽の専門家や国民の多数の意見を集約し、公募するなり、いろいろな方法を用いて、新しく作りかえる必要がある。これこそ、若い人から老人までだれでも、歌詞とメロディーを聞かせれば、どれがいいかは直感的にもわかるはずだからである。
そしてこうした議論によって、現在の「君が代」の歌詞の無意味なことが明らかになっていくだろう。
現在の他国の国歌は、戦争や勝利がテーマになっているのがしばしば見られる。しかし、そのような戦争の時代に生れた歌でなく、今後の世界の平和、グローバルな時代を見つめた、広い視野からの新しい国歌こそが求められている。例えば、今の平和憲法の精神を盛り込んだような国歌がこれからの世界に必要なのである。そのような国歌は日本の先進性を他の国にも指し示すことになるであろう。
真理は生きている
新聞やテレビにさまざまの世の中の悪や混乱がつねに報じられているからといって、真理の力が地に落ちたのではない。
それは見る目が私たちに欠けているだけである。
春になって、枯れたような木々から初々しい新緑が芽生えていくように、今も神は、枯れたような人間や世界に新しい命を吹き込み、世界のどこかで今も霊的な新緑が芽生えているのである。
私もかつては、自分自身の問題、この世のあまりの難問と苦しみに人間など無力でどうにもならない、と打ちひしがれていたのであった。それは枯れたようになっていた。
しかし、そこに神は突然、だれも予想しなかったことだが、その枯れ木に命を吹き込んで下さったのである。
その神のなさり方は、周囲の状況や時代の状況などとかかわりなく、ただ神のご意志であったとしか言いようがない。私がキリスト教などを欲していたわけでも、周囲のものがそのように仕向けたのでもなく、辺り一面に無神論の洪水のような状況のただなかで、私は神を信じ、キリストの十字架の死の意味が魂に深いところに入ってきたのである。
こうした経験は人知れず、現在も世界の各地で起こりつつある。
それは時代がどのように変ろうとも、神ご自身が無から有を生じさせる力をもってそのようになさるのである。
新緑の美しさ、それは神に由来する真理が今日もどこかで芽吹いていることの象徴でもあるのだ。
ことば
(208)愛というのは、力であって、使えば使うほどあふれてくる。泉のように汲めば汲むほど湧き出てくるし、使えば使うほど育ってくるものなのです。(「人間としてどう生きるか」渡辺和子著)
・ここで言う愛とは、自然のままの人間が持っている親子や友人、男女に生じる人間の愛でなく、神からの無差別的な愛を指している。人間的な愛は、この言葉に言われているような本質がなく、特定の人にだけ自分の感情を結びつけるために相手の態度で大きく左右されるし、裏切られたりすると憎しみになる。さらにこうした愛はそれを持てない人からのねたみを引き起こすことも多い。
神からの愛は、特定の人でなく、だれにでも及ぶ本質を持っていて、それゆえ主イエスは、隣人を愛せよと言われた。神の愛を受けるならそれが可能になるということである。
自分の近くに置かれた人、それがどのような人であっても、また自分の好き嫌いの感情で対処するのでなく、その人が最善になるようにとの願いの心が、神からきた愛だといえる。そのような愛については使えば使うほど、増えてくる。愛に限らず、神が持っておられる真実や正しさ、あるいは清さなども同様で用いるほど、自分の内にもまた相手や周囲にも増えるという本質がある。
キリストの愛はたしかに、無数の人によって用いられ、泉のように世界にあふれてきた。それが世界にキリストのことが伝わっていく原動力になっている。
編集だより
○この「いのちの水」誌も小さなものですが、多くの方が用いて下さって、キリストの福音、聖書の真理を知らせるために用いて頂いていることを感謝です。私自身、印刷物(本)によって初めてキリスト教のことを知ったゆえ、またそのときにごく短い箇所を読んだだけなのに、キリスト教の中心にある真理が私の内部に入り、そのときからキリスト者となりましたので、この「いのちの水」誌ももし神が用いようとされるなら、同様にごく短い文であっても、また不十分なものであっても福音を伝えることができることを思います。
文章の巧みさとかでなく、神の御手が働くかどうかだと信じていますので、そのことを祈って書いています。
来信より
○前月号の「キリスト者の確信」を読んで、ヨハネ伝十六章33節(*)は、イエス様が私たちに対して励ましていることを強く感じました。希望の言葉ですね。自分の罪が神の愛によって赦されるという実体験を持ち、善の力は必ず勝利するという強い確信を持たれたことが、私にとっては新鮮な言葉でした。(関東地方の方)
(*)「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
・今日頂いた杣友豊市さんの色紙に書かれた毛筆、「神にとって不可能なことはありません」を何回も何回も唱えているうちに、主にあっては、「私にとって不可能なことは一つもありません」…という言葉が浮かんできました。そうだ、がんばろう、神様が守って下さる、八四歳が何だ、…という気持になりました。(四国の方)
・…詩編の中に、旧約聖書と新約聖書と共通するものが流れていること、ルターでしたか、詩編は小聖書であると言ったとか、本当に詩編があって、旧約と新約のキリストが結びつくのを覚えます。(関東地方の方)
お知らせ
○キリスト教四国集会(無教会)締め切りが間近ですので、参加希望の方は、直接に、この「いのちの水」末尾の連絡先(吉村 孝雄)までメールまたは電話などで連絡ください。
・日時…五月十四日(土)午前十時~十五日(日)午後四時
・場所…徳島市 センチュリープラザホテル
・内容…聖書講話の主題は、「祈りと讃美」講師は、四国の香川を除く三県から一人ずつと、埼玉県の精神科医師。それと韓国の自然科学の大学教授。 証しあるいは、聖書の言葉についての感話は、北海道、四国三県、近畿からの参加者による。
ほかに早朝祈祷、さらに小さく別れての祈り会、特別讃美など。
・会費は全日程参加の場合、一泊四食付きで一万二千円。
・詳しいことを知りたい方は、ホームページのお知らせ欄を参照するか、問い合わせてください。
○ヨハネ福音書CD
私たちの徳島聖書キリスト集会で、二年八カ月ほどをかけて主日礼拝で学んできたヨハネ福音書の吉村 孝雄による聖書講話が、数度勝茂兄の御愛労によってCDに録音され、希望者に分かつことができます。一般の家庭用のCDラジカセで聞くことができます。CDは約五十本で、一本には一~二回分の聖書講話が収められています。各巻二百円、全巻CDブックの形で、価格は九千六百円(送料別)。購入希望者は、吉村
孝雄まで申し込んで下さい。 代金支払いは、この「いのちの水」の末尾にある郵便振替にて。
ほかに、杣友豊市文集や集会文集(「野の花」)、詩集(貝出 久美子、伊丹 悦子両氏のもの)なども購入できます。詳しいことは、ホームページをご覧ください。