2005年5月号 第533号・内容・もくじ
すべてを持つ
新約聖書のなかには時々、とくに初めて読む人にとって、驚くようなこと、そんなことがあるはずがないと思われるような表現がある。
キリスト者はすべてを持っている、という次のような箇所もその一つであろう。
…(私たちは)悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべてのものを持っている。
(Ⅱコリント六・10)
世の人たちが苦しみ、まちがった方向に向かって歩み、さまざまの罪を犯して互いに苦しめあっている。そのような現状を見てパウロは深い悲しみを持っていた。それは「哀しみの人」と言われた主イエスも同様であった。しかし、そのような悲しみを持ちつつも、深い喜びを同時に持っていた。それはこの世から来るのでなく、上から、天の国から来るからであった。
また、何も持たないようであるにもかかわらず多くの人たちの心を豊かにし、神の賜物によって満たすようにと導いた。
そして権力や金、持ち物は何も余分に持たないようであるのに、「すべてのものを持っている」ということができた。それは、神の国の目には見えない賜物を受けたときには、実際にそのようにすべてを持っている、与えられているという実感を与えてくれるのである。
逆に、いくらこの世の宝である権力や金や名声を持っていても、神の国にある目に見えないよきものを知らないときには、心のなかに深い空白があってそれを埋めることができないという感じが残るであろう。
このような天の国の宝こそ、主イエスが真珠にたとえたのであった。
…高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。 (マタイ福音書十三・46)
それほどに天の宝、神の聖霊は大いなるものであり、人間に深い満足を与えてくれるものなのである。そのようなものをこそ、求めるなら必ず与えられる。
「求めよ、そうすれば与えられる。」(マタイ七・7)という有名な言葉の意味するところはこの天の宝が与えられることを意味しているのである。
低きを歩む
人は、できるだけ、高いところ、目立つところ、人からほめられ、注目されるような歩みをしたいと願う。何かでがんばる、立派な持ち物、車や家、あるいは服を着たい、成績ができるようになりたい、スポーツでも遊びでも人の上に立ちたい、などなど子供から老人になるまで、ほとんどだれでもがそのような願いをもっていると言えよう。
しかし、主イエスは逆に最も低いところを歩まれた。それは生れたときにも、家畜の飼料入れの中で生れたし、伝道の出発点においては、罪人でないにもかかわらず、罪を犯した人間と同じように、汚れたものと同じ低いところまで降りて行かれ、その汚れを清めるための水の洗礼をバプテスマのヨハネ(*)から受けられた。ヨハネは、イエスが罪のないことを知っていたゆえに、「私こそあなたから洗礼を受けるべきなのにどうしてあなたが…」、といぶかった。
(*)バプテスマのヨハネとは、イエスのさきがけとなった人物。バプテスマ(洗礼)を授けていたので、バプテスマのヨハネ、洗礼のヨハネと言われている。
最後の夕食のとき、主イエスは、弟子たちの足を洗うという意外なことをされた。足は汚れた大地を歩くので汚れている、それに触れて洗うということは最も低い地位である奴隷のすることであった。主イエスは弟子たちの足を洗うという奴隷のようなところまで降りて行った。
主イエスが弟子たちの足を洗おうとしたとき、弟子のペテロは、驚いて「私の足など決して洗わないでほしい」と言った。
最後の道であった十字架への歩み、それは最も重い犯罪人の受ける刑罰であった。主イエスは全く罪もないにもかかわらず、そのような重い罪人と同じところまで降っていかれた。
主イエスの歩みは世の人の歩みとは全くことなる最も低いところを歩む道であった。
そしてそのような道は、限りなく高い天の国へと続いていたのである。
第32回 キリスト教四国集会(無教会)について
祈りと讃美というテーマについて
五月十四日(土)~十五日(日)の二日間、徳島市において、第三十二回の四国集会が行われました。今回は、「祈りと讃美」というテーマが与えられ、それに従って聖書講話やグループ別の集会も行われました。
それは聖書にあるとおり、どのようなときにもキリスト者は祈り、感謝し、主にあって喜び、主を讃美する、というのが目標であるからです。
無教会の百年にわたる歴史のなかで、各地で数々の聖書講習会とか講演会、全国集会などが行われてきましたが、「祈りと讃美」という主題でそのような特別集会が行われたということは、私はいろいろな印刷物においてもかつて見たことがありません。
しかし、聖書には祈りと讃美は、きわめて重要であり、聖書全体にみられるものです。祈りはキリスト者の呼吸であり、讃美は聖書の神を信じる者にとって、自ずから湧き出る泉のようなものと言えます。祈りも讃美もない、キリスト者というのは考えられないことです。
しかも、祈りと讃美は神を信じ、主イエスを救い主として信じることができるようになった者はだれでもできるように導かれます。
祈りと讃美を通して私たちはキリストと交わり、神の国へとさらに導かれていくのです。全国集会などでは、一部の知的な訓練を受けてきた人だけを念頭において、無学な庶民などまるで、講話者の頭にないと思われるような、長時間の研究的な聖書講義なるものがしばしば行われてきました。
祈りと讃美は初めての人も、まだ信仰のない人も、何十年の信仰の経験がある人も、また所属している教派が違ってもだれでも、どこでも一致して祈り、讃美することができるのです。
そして祈りと讃美によってかつて、使徒言行録にあるように、牢獄に鎖でつながれていても、なおその鎖を断ち切る力を与えてくれるのです。 ここでいう牢獄や鎖を象徴的に受け止めるなら、私たちはこの世の闇の力に閉じ込められ、目に見えない鎖のようなもので縛られている状況です。
しかし、祈りと讃美はそうした鎖を断ち切る力があるのです。
今回の集会は内外の闇の力が押し迫るとき、私たちにとって最も必要な神の力を受けるため、それを伝える力を与えられるために、少しでも祈りと讃美の重要性を指し示し、参加者に上よりの力が与えられ、悪の力に打ち勝つことができるようにとの願いが込められています。
今回は、このような目的のために、各プログラムの前後には従来よりやや長めの黙祷の時間をとり、二日目の午後には、グループ別集会のときにも後半で祈りの時間をとくに設けました。
また、讃美を多様な讃美集から採用し、特別讃美として、手話讃美、コーラス、独唱、讃美を体で表現する讃美の踊り、10人ほどが次々に讃美する特殊なかたちの讃美など、讃美歌だけでなく、讃美歌21、新聖歌、リビングプレイズなど多様な讃美集を用い、全体では30曲ほど用いたのです。
聖霊の風
今回の四国集会で、これまでの四国集会とは違って、とくに多くの方々から言われたのは、四国集会全体に、「聖霊が感じられた」ということでした。
私自身も確かに、この世の会合とはまったく異なるある目には見えない何かにひたされているという感じを受けたし、聖霊の風が柔らかく吹いていると言える状態でした。
それは、二日間のプログラムにおいて、時間を大きく越えるものは皆無であったし、どれもほぼ時間通りに終えられ、ゆったりとした主にある交わりのときが与えられ、会場のあちこちで、主の名によって集まっての交わりがなされていました。「二人三人、私の名によって集まるところには、私はいる」という主イエスの約束の言葉の通り、あちこちに主がおられ、聖なる霊が包んで下さっていたように思われたのです。
み使いらも、神の民も 無限の愛をほめたたえて
天に響かせ地に満たせよ 聖霊来たれり (新聖歌四一六より)
さまざまな障害者の参加
そのようにある種のあたたかい何かを感じた方が多かったようですが、それは神の一方的な恵みであり、絶えず満たして下さろうとする神のわざに他ならないのですが、一つには多くのハンディ(障害)をもった方の故でもあったと思います。
視覚障害者の方々は、全盲五名、弱視四名の九名が参加され、聴覚障害者の方は三名、肢体の障害を持たれた車椅子または歩行器での方は二名、知的障害者は二名で、十六名の障害者の参加がありました。さらに、かつて心の病となって入院されたことがあるが、現在は退院されている方も何人かおられました。
重いからだの障害を持った方の参加は、集会全体の雰囲気を真剣なものとし、重みのあるものにしてくれます。軽薄に流れようとする傾向をおのずと引き締めることにつながるのです。元気な者たちだけの集会はともすれば一種の遊びや娯楽的な方向に進み、あるいは学問的な知的に優れた人たちだけの集会は、一般のごく普通の庶民が加われない何かがかもしだされることも多いのです。
遠隔地からの参加
今回の四国集会は、今までになく多方面の方々が参加されました。外国人としては、韓国から、朴さんと、徳島に住んで三年ほどになる若い女性(ご両親がイギリスと、イタリアの人)、それから北海道から三名、九州二名、沖縄から二名、関東地区からも七名、中国地方からは六名ほど、近畿地方からも十数名の参加がありました。こうした四国外の遠いところからも参加されたのはどうしてなのかといえばそれはキリストが招かれた、引き寄せたのだと言うほかにはありません。
私どもとは全く会ったこともない、沖縄の若い方が、私どもの集会のホームページを見て参加を決め、だれも知った人もいないにもかかわらず、参加されました。
もう一人、やはり沖縄からはるばるこの徳島での四国集会に参加された方がいます。
また、北海道からは、全盲でしかも透析を徳島に来てからも受けなければならないような方もご夫妻で参加されましたが、この場合は、昨年の夏に、私が北海道の瀬棚郡に聖書講話のために出向いたときに、同行した全盲や弱視の方々との出会いからでした。
東京からは、やはり私たちのだれも会ったことのない人で、私たちの集会のテープを聞いて礼拝をまもっている人が初めて参加されました。
このように、遠いところであるにもかかわらず、不思議な力で招き寄せられた方々が参加されましたが、そのような遠隔地からの参加者は時間もエネルギーや費用も多くかかるために真剣な心で参加されたと思います。その主にある熱心がまた四国集会全体によき影響を与えていたと感じます。
幼な子たちの参加
今回の集会では、小学校四年以下のこどもが(生後九ヶ月の乳児を含めて)、五名ほど参加しました。そのうち三名は二日間参加しましたが、そうした幼な子たちの参加はいわば天使が加わったようなところがありました。
新約聖書のなかに、人々が祝福の祈りをしてもらおうと、子供たちをイエスのもとに連れてきたことが書いてあります。しかし、弟子たちはわずらわしいこととみなして、こどもの親たちを叱ったのです。
しかし、主イエスは「子供たちを来させなさい。私のところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」といわれて、子供たちを祝福されたのです。(マタイ福音書十九・13~14)
大人も子供も、八〇歳を超えた高齢者、若人たちも、また重度の障害者も軽度の障害者も、健康な者も、さらに、日本人だけでなく外国の方も含めて、老若男女さまざまの人たちがキリストの名のゆえに一つに集まり、大きな家族のように交わることができるのは、まさにそれは神の恵みであり、神のわざであると感じたことです。(
今回は、何人かの子供も含めて、全体では152名の参加者がありました。)
聖書における祈りと讃美
一般的に言えば、宗教というイメージで連想されるのは、祈りや願いということであろう。困ったときの神頼みという言葉もあるし、映像などでも教会などでの祈りの風景がよく見られる。
そして病気や事故など難しい状況に追い込まれた時にはいろいろな宗教の人が勧誘に来ることが多い。
このようなことから、自分にはそんな願い事を宗教に頼る気持などない、という考えの人には宗教そのものに関心がないと言われることもしばしばである。
しかし、聖書においては、祈り、願いとともに、讃美という側面がある。それは一般の人には分かりにくいことである。困った時にはだれでもそれが深刻な状況であればあるほど、何かにすがりたくなる。その意味で祈りということは、自分はするつもりがなくとも、そのような心情は理解できる人が多いだろう。
しかし、この悩み多く、悪のはびこる世の中、さまざまの問題が内外に満ちている中にあって、どうして神を讃美できるのか、全く不可解だというのが多くの人の気持だと思われる。
ここに聖書の信仰が一般の理解を超えたものであることが示されている。
祈りとは、神への願いであり、神からの言葉を聞き取ろうとすることであり、神の霊にいわばひたされている状態でもある。新約聖書で、次のように言われているのもそうした意味での祈りである。
…これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子(キリスト)の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい。(ルカ福音書二一・36)
…絶えず祈れ。すべての事について、感謝せよ。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。(テサロニケ第一の手紙五・17~18)
これらの聖書の箇所において、「絶えず祈れ」と言われているのは、絶えず何らかの願い事をせよ、という意味ではなく、絶えざる神との霊的な交わりを持ち続けよ、という意味である。
神を信じない人にとっては、そのような対話や交わりはあり得ないので、祈りは何か困ったときの願い事といった意味であり、また形式的に葬儀などのとき手を合わせるということが祈りのようになっている。
しかし、すでに述べたような意味における祈り、すなわち神との対話、交わりは、聖書において、当然のことながら旧約聖書の最初にある創世記から現れる。
…その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」
彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。…」(創世記三・8~10)
神は言われた。「…取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」(創世記三・11~12より)
しかし、この聖書における最初の祈り(神との対話)は、ここに引用したように意外にも真実な神への赦しを乞うものでもなく、願いや感謝ではなく、神から逃げようとする人間の言い訳であり、罪をさらに重ねるものとなった。
ここに、人間の祈り、神への語りかけというものがいかに誤りやすいかが象徴的に示されている。このあと、創世記で続いている記事においても、弟の命を奪うというような重い罪を犯したカナンという男のことが書かれている。彼もそのような取り返しのつかない罪を犯したとき、神からの呼びかけがあった。そのときにも、カナンは、悔い改めることなく、自分を神のまえに罪を犯したものとせず、心をかたくなにするばかりであった。
こうした祈り(神との語り合い)の最初の記述はいかに人間が間違っているか、罪深い存在であるかを示すものとなっている。
そしてさらに、その後も数々のあやまちが人間の側からの神への願いのなかに入り込むことになった。その願い事を、神に対してせず、神でも何でもない偶像に対してすら行うようになる者が多く現れていった。
そしてそれを正しい神への祈り、悔い改めの祈りとなすために、後の時代に預言者が神から遣わされることになる。
しかし、そうした神へのかたくなな姿勢がまず記されているがそれと並行するように、神への正しい祈り、呼びかけ―「主の名を呼ぶ」こともなされるようになる。それは、創世記第四章の最後の部分に初めて現れる。
…主の名を呼び始めたのは、この時代のことである。(創世記四・26)
主の名を呼ぶとは、人々が主ご自身を仰いで、神の本質たる力や清さを願い、全能の存在に向かって心を注ぎだしていったことを意味している。
つぎに、聖書で神への祈りが暗示されているのは、大洪水のなかから救われたノアの記事のなかである。真実なものに背きつづける人間たちが洪水によって滅ぼされたあと、水が徐々にひいていった。ノアは箱船から出て、最初にしたことが、周囲の景色を見ることでなく、神への祭壇を築いてささげものを神に捧げることであった。このとき、ノアは祈りをもってしたであろうがその祈りの言葉は記されてはいない。
聖書において信仰の父とも言われる、重要な人物であるアブラハムから、詳しい信仰の歩みが記されている。アブラハムについても、神が彼に呼びかけた言葉は、有名である。
あなたは、生れ故郷、父の家を離れて
私が示す地に行きなさい。
私はあなたを大いなる国民とし
あなたを祝福し、名を高める。
祝福の基となるように。…(創世記十二・1~3より)
このような大いなる祝福の言葉を神から聞き取るということは、アブラハムが深い祈りの心をもっていたことを示している。しかし、アブラハムからの神への祈りの言葉は記されておらず、アブラハムが神の言葉に従って故郷を出発し、長い旅路を経て目的地にようやく着いて後、つぎの記述がみられる。
…アブラムは、…天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。(創世記十二・8)
主の御名を呼ぶとはすなわち、祈りである。
このように聖書では信仰の人の祈りの原型が「御名を呼ぶ」という表現でなされている。その後の祈りもその内容の本質は、結局はこの「主の御名を呼ぶ」ということだとも言える。
しかし、創世記においても、アブラハムのような重要な人物であり、信仰の模範となるべき人であるが、それでも、彼の神への語りかけとして最初にその内容が具体的に記されているのは、神の祝福の約束への疑問であった。神がアブラハムへの祝福の報いを告げたとき、彼は、「私には子供がないのに何を下さるのか」という疑問の言葉が、アブラハムの最初の神への言葉として記されている。(創世記十五・2)
それに次いであげられているのは、やはり土地を継ぐことへの神への問いであり(同十六・8)、神がアブラハムに老齢になっているが子供が与えられるという約束について信じないでそれを笑ったという記述である。(創世記十七・17)
このように、意外なほど聖書の最初の創世記ではアブラハムのような信仰の人であっても、そして神が繰り返し大いなる神の約束や祝福を告げているが、アブラハムの側からは、神への感謝や喜び、あるいは讃美というものが記されていない。
それはアブラハムの子孫であるイサク、ヤコブ、ヨセフに関する詳しい記述においても同様である。
神からの語りかけや命令は記されていても、それを受ける人間の側からの神への生き生きした感謝や讃美は創世記には現れないのである。
讃美の生れるところ
それでは、聖書における讃美はどのようなところから生れているだろうか。
旧約聖書で初めて神への讃美が現れるのは、アブラハムやヤコブたちになされた個人的な出来事でなく、イスラエル民族全体の最大の出来事があったときであった。それは長いエジプトでの奴隷の生活から、神の力を受けたモーセによって導きだされ、前方は海、後ろは敵の精鋭部隊が大挙して襲ってくるという、絶体絶命のときに神の力が現れ、海に道が現れ、滅びのなかから救い出されたときであった。
苦難から、共同体がともに助けられた経験こそ、聖書における神への讃美のもとになったのである。このようなことの中にも、聖書の信仰のあり方が、個人にとどまるのでなく、神を信じる人たちの群れと共に歩むという姿を見ることができる。
ずっと後のキリストの時代になって、「キリストを信じる人たちの群れは、キリストのからだである」という驚くべき表現がなされ、主イエスご自身も、「私の名によって二人、三人が集まるところに私はいる」といわれたのはそうした信じる人たちの共同体の重要性を指し示すものであるが、それは讃美を生み出した最初の記述が共同体の救いであったことと関連していると言えよう。
…モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。
主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる威光を現し馬と乗り手を海に投げ込まれた。
主はわたしの力、わたしの歌
主はわたしの救いとなってくださった。この方こそわたしの神。
わたしは彼をたたえる。わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。
主こそいくさびと、その名は主。
主はファラオの戦車と軍勢を海に投げ込み
えり抜きの戦士は葦の海に沈んだ。…
主よ、神々の中に
あなたのような方が誰かあるだろうか。
誰か、あなたのように聖において輝き
ほむべき御業によって畏れられ
くすしき御業を行う方があるだろうか。…
女預言者ミリアム(*)が小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた。(出エジプト記十五・1~21より)
(*)このミリアムという名前は、後に新約聖書の時代にイエスの母の名前のマリアと同じであり、英語のメアリー、フランス語のマリーなどにもなって広く知られ、世界で最もよく知られている女性の名前となった。
これが、聖書の中で神への讃美が表れる最初の記述である。
主こそはわが歌。主と結びついているとき、私たちの内には自ずから歌が生れる。主に向かっての歌である。ここで分かるように、最初の讃美は、踊ること、体を動かして全身で表すことと結びついていた。(*)それは当然であった。心からなる喜びや感動はからだ全体で表すようになるからである。
(*)言葉から見ても、歌うことと踊ることの関連は、コーラス(合唱)という言葉にも見られる。この言葉は、語源はギリシャ語の コロス(choros) であるが、この言葉は、もともとは「(輪になっての)踊り」という意味であり、そこから現在のコーラスという言葉が生じている。また、バッハの曲にもよく見られるコラール(ドイツのプロテスタント教会の讃美歌)という言葉もここから出ている。
このように言葉の上からも歌うことと踊ることは本来は分かちがたく結びついていたのがうかがえる。なお、踊るというギリシャ語の動詞は、コリューオー
choreuo 。
聖書における最初の記述ということは、それが現在のキリスト教世界においておびただしい讃美歌や聖歌、さらにバッハやヘンデルほかのキリスト教音楽があるが、それらあらゆるキリスト教音楽の最初がこの歌だということになる。
なぜこの出来事が讃美の最初になったのか、ここには、はっきりとした理由がある。それは、滅びから救い出されたという決定的な体験である。
人々はエジプトで長い年月にわたる奴隷の生活を強いられ、しかも子供が生れたら男の子はナイル川に投げ捨てて殺せと、命じられ民族としても絶滅の危機に瀕していた。
そのような危機のなかに神がモーセを遣わし、数々の驚くべきわざを神の力によってなし、それでもエジプト王はイスラエルの人々を解放しようとしなかったために、神ご自身が特別な方法を用いて人々を解放することになった。
そのような長い苦難の後に、ようやく解放され、モーセに導かれて「乳と蜜の流れる地」に向かっての長い旅を始めた。しかし、まもなく、エジプト軍が大挙して襲いかかってきた。そのとき前方には海が広がり、絶体絶命という状況であった。人々は救い難いような状況に直面して、こんなことなら、エジプトでいたほうがましだ、我々を死なせるつもりか、といって激しくモーセに迫ってきた。
このように状況ではたしかにふつうの方法では助かることはない。しかし、モーセはそれほどの危機に直面し、人々の殺気だった激しい動揺のただなかにあって、神への信頼を貫くことができた。
…モーセは民に答えた。「恐れるな。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見よ。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。
主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静まっていなさい。」(出エジプト記十四・13~14)
この確信に答えて神は、驚くべきわざをその御手によってなされた。このような神の守りとその万能を固く信じるところに、神への讃美が生じる源泉がある。
自分たちを滅ぼそうとする、敵が神の力によって滅ぼされたこと、そのときに神の力をまざまざと体験したということが、今も全世界に響きわたるキリスト教の賛美という大河のみなもとになった。
そしてこの讃美はだれに向かうのかと言えば、それは神である。ふつうの歌は自分の気晴らしとか、他人に聞いてもらおうとして歌うものが多い。
詩編と讃美
旧約聖書のハート(心臓)とも言われる、詩編は、まさに祈りと讃美の結晶である。
詩編こそは、祈りと讃美の融合した最も高い内容を持っている。それゆえに、主イエスの最も苦しいとき、最後の危機的な状況において、詩編二十二編の冒頭の言葉がそのまま叫びとなって現れたのである。
それは、「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」(わが神、わが神、どうして私を捨てたのか!)という激しい苦しみの中からの叫びであった。そしてこの詩のタイトルとして、「"暁の雌鹿"に合わせて。賛歌」という指定がある。このような恐ろしい苦しみからの叫び、それが、どうして歌になるのか、と疑問に思う人もいるだろう。
それは、当然である。一般の人々にとって、歌とは楽しいときに歌うものというイメージが強い。だから悲しいとき、ことに人が亡くなったときのキリスト教での葬儀に参加した人から、「人が死んだというのにどうして歌など歌うのか」と、とても不思議そうに言われたことが何度かある。
しかし、聖書においては、楽しいから歌う、心がうきうきしているから歌うというものではない。
最初の神への讃美は、敵に追いつめられ、もう滅ぼされるという危機一髪の状況からの救いのときに自ずから生れた。それは、楽しいとかいった感情でなく、魂を揺り動かすような深い感動から生れたのである。
そのような神への激しい心、深い心の動きこそが詩編の中心にある。それゆえそれは苦しみの心であっても、悲しみや、神への懇願、また神のわざやみ言葉の力への感動など、広い範囲の内容が含まれる。それは楽しいから歌うというのでなく、神が人の心を動かし、それが言葉となり、さらにそれを多くの人が共有して体験をともにするために歌われるようになっているのである。
人間的感情からの歌でなく、背後に神がおられて神がそのような苦しみや悲しみ、喜びや感謝という神に関わる数々の心の感動をつづらせ、歌わせているのである。
さきほどの、エリ、エリ、ラマ、サバクタニ(わが神、わが神…)という叫びも、そのような絶望的にみえる状況に置かれてもなお、そこにも神の御手があるのだ、そして最終的にはそこから救い出されるのだという意味が込められている。そのような耐えがたい苦しみをも通って、神は救いへと導かれるという驚くべき神のわざがそこにある。その神のなさることへの深い感動があるゆえに、詩となり、讃美となって後の時代の人たちにも受け継がれていったのである。
詩のかたちになると、私たちに不思議な働きをして心に残ることがしばしばある。
例えば、「カエルが古い池に飛び込んで水の音がする」などという文ならだれにとっても何の印象もなく、そのまま流れ去っていく。しかし、「古池や かわず飛び込む水の音」という五七五の言葉をもって俳句になると、にわかに余韻を与え、そこに込められた著者の宗教的あるいは哲学的な思いまでも感じられてくる。
詩という形になればこのように、単にふつうの文で書いたより以上に多くの人の心の部屋にとどまり、共有されることが多くなる。
それがさらに適切な曲がつけられるといっそうその詩は豊かになり、幅ひろくなり、今度は詩の言葉を十分に理解できないものにすら伝わっていくことがある。
おそらく日本において最もよく親しまれている讃美歌といえる、「いつくしみ深き友なるイエス」(讃美歌三一二番)についても、それが次のような詩のみでは到底多くの人に伝わらず、また感動も与えなかったであろう。
いつくしみ深き 友なるイェスは
罪とが憂いを とり去りたもう。
こころの嘆きを 包まず述べて、
などかはおろさぬ、負える重荷を。
適切な詩にふさわしい曲がついて、その詩は一段と時代や場所を越えて共感できるものとなり、人々の心に響くようになる。
音楽はそれ自体、人の言葉とはちがった人間の魂の深いところに届くことがあるからである。そのような音楽の意義は古くから言われている。
旧約聖書でもつぎのように、音楽がとくに悪の霊を追い出す働きがあることが記されている。
…ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が安まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた。(Ⅰサムエル記十六・23 )
また、古代中国の代表的な思想家である孔子にも次のような音楽についての言葉がある。
子曰く 、詩に興り、礼に立ち、楽に成る。(「論語」泰伯第八)
孔子は言う、正しい詩によって、その言葉がわかりやすく、繰り返し歌っている間に、心が動かされる。そしてそのような、よい詩によって善を好み、悪を憎む心を奮い立たせる。
礼によってそれが安定する。
さらに、音楽によって完成する。音楽は人の心を養って汚れたものを追い払い、正しいことがわかり、愛がわかり、人間の正しいあり方に従うように仕向けるからである。(中国の学者、朱熹1130~1200 の集註 しっちゅう による説明より。)
このように、人間のあり方、性格という奥深いものを完成させるのが、音楽であるというほどに孔子は音楽の重要性を知っていた。
そして、詩を学ぶことの重要性をつぎのように述べている。
子曰く、何ぞかの詩を学ぶことなきや。詩はもって興すべく、もって、観るべく、もって群すべく、…多くの鳥獣草木の名を識る。(「論語」陽貨第十七・9)
ここでも、孔子は、詩が、人の心を興す、つまり感動させ奮い立たせるということを第一にあげている。さらに、「観る」とは、詩にはさまざまの人間のことが書かれているから、人の考え、感情、昔のしきたり、文化も見ることになるというのである。そして「群すべく」というのは、詩によって心が耕され養われるために、他の人とも和らぎ交わることになる。そして当時の詩はそこで歌われている内容が広く鳥獣草木の名の学びにもなると説いている。(ここでの詩とは中国最古のいまから三千年ほど昔の詩集である詩経を指している。)
こうした詩の持つ意味については、本質的な点で聖書の詩篇にもあてはまるといえよう。
聖書の詩を正しく読むときには、たしかに私たちの心は動かされ、心に波紋がひろがり、弱っていた心もしばしば奮い立つ。数千年という時間を越え、国や民族、国土を越えて、聖書の詩は私たちの心に流れ込み、そこで枯れていたものを生かし、立ち上がらせる力がある。主イエスが十字架上で最後の激しい苦しみのとき、詩編の言葉のままで、叫び、祈ったということ、それはいかに詩編の言葉が主イエスの心に最後まで存在し続けたかの証しである。
そしてその詩編の言葉が唯一の天への絆であるかのように、その一点に主イエスはその苦しみをゆだねた。
このような音楽の重要性については、やはり中国の歴史家である、司馬遷がその大著「史記」のはじめの部分に、数千年前の皇帝とされる、舜(しゅん)について次のような記述を残している。
… 舜は、指導者階級の者たちの子供たちに、音楽を教えさせることにした。そして「詩は人のこころを述べるもの、歌は、詩のことばを長くしたのもので、…高低の音がよく調和すれば、神も人もこのためによく調和するのである。」(「史記 五帝本記第一」筑摩書房 世界文学体系 第五巻より)
このように、詩と音楽とは深く結びついていることを述べた上で、正しい音楽それ自体が、人間と神が一つになることを助けるのだと知っていたのがうかがえる。
詩編や預言書を見れば、深い祈りがそのまま神への歌となっているのに気付く。さきほどの詩編二二編は全体の一五〇編の詩のなかでも、とりわけその苦悩が激しいことが記されており、「わが神、わが神、どうして私を捨てたのか」に始まる必死の祈りであり、叫びである。
しかも、そのような厳しい内容の詩がそのまま賛美となっている。この詩のタイトルとして、「"暁の雌鹿"」に合わせて、賛歌。…」とある。そして実際この詩編二二編の著者は激しい苦しみと苦悩の後に、そこからの絶望の淵からの救いを体験し、大いなる讃美が生れている。
私は兄弟たちに御名を語り伝え、
集会のなかで神を讃美します。
主をおそれる人々よ、主を讃美せよ。(詩編二二・23~24)
こうした苦難の叫びとか苦しみがいやされ、讃美となる。
…声を合わせて主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパ、シンバルなどの楽器と共に声を張り上げ、「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と主を賛美すると、雲が神殿、主の神殿に満ちた。(歴代誌下五・13)
ここには、心を合わせ、声を一つにして主に讃美することによって、雲が満ちたという。これは、神が間近に迫り、神の力で包まれたということを意味している。神への心からの讃美は、神を近くに引き寄せる力があることを示している。
…主に従う人よ、主によって喜び歌え。主を賛美することは正しい人にふさわしい。
どのようなときも、わたしは主をたたえ
わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。(詩編三十四・2)
このように、神の大きな御手のうちに入れていただいたとき、私たちの心は、神の大いなる力とそのわざに心が開かれ、それに対する深い感動のゆえに、讃美が生れるようになる。どのようなときにも、主をたたえることができる。絶えることなく、讃美が歌えるということは、何にもまして素晴らしいことであろう。というのは、神の偉大さや愛、苦しみが襲いかかるときですらそれが実感できるとき、神への讃美が生れる。
旧約聖書には、エジプトにおける長い年月にわたる苦難があり、そこからようやく解放されるが、さらに敵に追い詰められ滅ぶ寸前になって神の力によって救い出され、そこから、初めての神への讃美が始まる。
それまでは神に従うということ、神の呼びかけに従うということがあったのみであって、ノアにしても、アブラハムやヤコブ、ヨセフのような劇的な歩みを与えられた者であっても、神への讃美は生れなかった。それは一つには時間が必要だということである。神を知ったとは、神を信じるようになって罪の赦しを実感したことである。次に、神に導かれ、み言葉に聞くことが続く。そして数々の苦しみを通って、忍耐を経て、希望へと結びつく。そこに讃美が生れる。
新約聖書の祈りと讃美
そして、主イエスも、最後の夕食の後、もうこれから捕らえられ、十字架にかけられ、侮辱され恐るべき苦しみを受けねばならないことを知っていたその直前においても、讃美をもって夕食の会場を後にした。
…一同は讃美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた。(マタイ福音書二六.30)
そしてそこからゲツセマネでの祈りへと続いていった。
また、使徒パウロは迫害を受け、捕らえられて衣服もはぎ取られ鞭打たれ、厳重な監視のある牢獄に入れられ、足にも足かせをつけられた。
驚くべきことにそのような状況に置かれても、パウロたちは真夜中ごろでも讃美を歌い、祈っていたとある。
…群衆も一緒になって二人を責め立てたので、高官たちは二人の衣服をはぎ取り、「鞭で打て」と命じた。
そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。
この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。
真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。…(使徒言行録十六・22~25)
そしてそこに神の驚くべきわざがなされ、パウロたちは解放されることになった。
このように新約聖書においても、祈りと讃美は深く結びついているのがわかる。
現在の混乱した状況にあって、私たちの魂を正しい場へと引き戻すのは、神の言葉と結びついた、祈りと讃美なのである。しかもそれは、難しい議論や学問、講義などと違って、まったくキリスト教を知らない人や悩める人、病の人、学問的なことは分からない人、どんな人にとっても本来共に持つことができるものである。
祈りと讃美によって私たちは神の愛を受け、神からの力をいただくことができる。まだ信仰を持っていない人も讃美の歌によって励まされ、神の清い霊的なものに近づく助けとなるのである。
私自身が、初めてのキリスト教の集会で、自分がもっていた心の問題と何の関係もない、ヘブル語がどうの、ヤハウエ資料がどうのという講義などは全く心に残らず、かえってそこで歌われていた讃美が祈りのこもったものであったために、心に深く残されたのを思いだす。
私たちが悪の力に負けないでそれに打ち勝つために、最も必要なのは、真剣な祈りである。そのことは、すでに述べたように、主イエスが捕らえられ、鞭打たれ、ののしられ、ひどい侮辱を受けてそのあげくに十字架につけられるという恐ろしい状況に向かう直前に、何をなしたか、と言えば、それはゲツセマネにおける血の汗がしたたり落ちるとまで表現されているような真剣な祈りであったことからもわかる。
そこでサタンの力に勝利したのであった。
主イエスの深い祈りは、三年間の短い伝道の日々においても、つねに持たれていた。しばしば夜を徹して祈ったということが記されている。
弟子たちの上にも主イエスのまなざしは常にあり、彼等の信仰がなくならないように祈ったと言われている。
そのような祈りによって主イエスの三年間の伝道の生涯は支えられ、十字架の死はその祈りの延長上にあった。
さらにイエスの死後、弟子たちは主の言葉に従って祈りをつづけていた。そこに聖霊がはげしく下り、それまでの恐れにおののいていたような態度から一転して、命がけでキリストの復活を証ししていく人間となった。
ここにも、祈りが中心にあるのがわかる。
十字架による罪の赦しを受け、復活のキリストである聖霊を注がれたこと、そこから新しい時代の讃美が泉のように生み出されることになった。
使徒パウロは、そのことをつぎのように書いている。
…霊に満たされ、 詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。
そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。(エペソの信徒への手紙五・18~20より)
聖霊に満たされるとは、言い換えれば、ヨハネ福音書で「ぶどうの木」とたとえられるキリストに深くつながることである。
…わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。
人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。(ヨハネ福音書十五・5)
ここで言われている「豊かに実を結ぶ」、それは神への感謝と讃美が生れてくるということも意味している。キリストが宣べ伝えられるようになって、まもなく厳しい迫害の時代が来る。そこでは苦しめられ、飢えたライオンのような猛獣にキリスト者が襲われ、大群衆の前で死に至る様が繰り広げられていった。
そのような時代に記された、聖書の最後の書物である黙示録には、そのような悪の力が神に裁かれることが象徴的な言葉で記されている。
そしてそのただなかで、天上では大いなる讃美が神に捧げられる。
…彼らは、昼も夜も絶え間なく言い続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、
全能者である神、主、
かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」(黙示録四・8より)
私たちの目に見える世界の状況がどうであろうとも、聖霊によって神に感謝し、讃美することができるように
していただけるという約束が聖書に記されている。それはどんなに雲で空が覆われていようとも、その雲のかなたには、太陽の光が変ることなく輝いているのと同様である。
そのような絶えざる祈りと讃美を目に見えるかたちで、私たちのまわりに備えて下さった。それが、自然の世界である。樹木は、それが大木であるほど、いかなる風雪にも揺るがずに黙して立ち続けてきたことを示すと同時にそれは祈りの姿を私たちに指し示すものとなっている。また野草の花たちは、土から生じた弱いものでありながら、その色彩や花の姿、かたちによって神の素晴らしさを思わせ、神への讃美がそこに感じられる。
うるわしい夕焼けも壮大な神への讃美であり、波の打ち寄せる姿はそのまま讃美である。
神は、私たちの身近なところに、祈りと讃美のすがたを日々現して下さっている。それは私たちをどのようなときであっても、祈り、讃美することのできるものへと導こうとされている神の御心の現れなのである。
ハレルヤ、
新しい歌を主に向かって歌え。
主の慈しみに生きる人の集いで讃美の歌をうたえ。(旧約聖書 詩編一四九・1)
元号の問題性について
現在は、グローバルな時代である。どこかの国で大きな事件が生じたら、ただちに全世界に伝わる。インタ-ネットを用いれば、世界の現在の状況についての情報はいくらでも手に入る。こうした国際的な時代にあるにもかかわらず、日本しか通用しない、そして日本しかやっていないようなことがある。
それが、一世一元制度である。天皇一代の間にただ一つの元号を用いて改めないことである。この制度は、一八六八年九月八日の改元の詔(しょう・天皇の言葉)によって制度化された。
それまでは、元号はあったが、それは天皇が死んだら変えるというのでなく、一人の天皇の在世中でも地震、暴風、火災、飢饉、戦乱などの特別な出来事の生じたとき、あるいは逆にめでたいことがあれば変えるということがしばしば行われた。
例えば、一八四六年から一八六七年の二〇年間に、弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応などと七回も変えている。これは、アメリカからペリーが来て動揺しているので、政治が安泰となるようにということで、安政と変えた。しかし安泰とならないので、万延とした。さらに井伊直弼が殺害されたので、すぐに一年で文久と変えた。それでもまた動揺が続くので元治と変えさらに、喜びが応じるようにと、慶応とするなどと、実に気まぐれで、迷信的であった。
このように明治より前の元号は天皇の時間支配と迷信との合体したものであった。しかし、明治時代になって、最初に制度化したことの一つが、この一世一元制度なのであった。
このようなことをなぜ、考え出したのか、それはふつうの人間にすぎない天皇を現人神としてまつりあげ、その天皇への忠誠を強制していくために、時間を考える際にいつも天皇の名前を用いるように仕向けて、天皇の支配を人々の心にしみ込ませ、その天皇の権威によって自分たちの支配を安定化するという目的のためであった。
そのような意味では、靖国神社が、天皇が戦死者を神として拝んでくれるのだと称して、天皇と関連させて戦争への反対を封じ込め、政治支配がやりやすいようにする道具として用いたというのと本質は同じなのである。
徳川幕府を倒したのは、かつては身分の低い武士、しかも年齢も若い人たちが中心となったが、彼等だけの力ではかつての自分たちの主君である大名に命じたりすることは到底できない。しかし、天皇を現人神としてしまえば、自分たちの意見をも、天皇の名によって布告することで、大きな力を持たせることができるというわけである。
こうした全く政治的な発想から一世一元制度も取り入れられたのである。
このような一世一元制度は、世界では、中国では明・清両朝で行なわれていただけで、ほかにはどこにもなく、今日では世界で唯一なのである。(*)このようなことは、世界の常識から考えても、まちがったことであるにもかかわらず日本ではそれが官公庁、学校、病院などではあたかも正式であるかのように用いられているという奇妙な状況となっている。歴史のなかの悪名高いヒトラーのような独裁者でも、年を数えるのに、自分の名をもって年を数える基準にしようなどとはしなかったのである。
(*)中国では漢の武帝が元号制度を始めた。その後、十六世紀になって明の洪武帝のとき、一世一元制が作られて、次の清朝においても続けられた。しかし、辛亥(しんがい)革命で一九一二年に中華民国が成立して、清朝が倒れると元号制度は、皇帝の支配の象徴であったから当然廃止された。それに対して日本では天皇の支配が一九四五年に終わったにもかかわらず、今もなお一世一元制が続いている。
世界には数々の特別な制度を持つ国があるが、なぜ、このような一世一元制度は日本だけなのであろうか。
それは、一人の人間が生きているか、死んだのかということをもとに全国民の時間を考えるということは、だれが考えても不合理なことであるからである。例えば、徳島県で飯泉(いいずみ)という人物が知事になったとたんに、それ以後の全文書の日付を飯泉元年とか二年とかに変えるというようなことをだれが考えるであろうか。そんなことを命じたら、そのようなことを言い出した人間の常識が疑われるだろうし、たちまち猛反対を受けるであろう。
ところが、日本国全体が、そのようなことをしているのである。天皇が変った途端に、それ以後は全文書の日付を変えているのだ。これは実に無意味で間違ったことなのに、天皇というのが結びつくと、途端に事の善し悪しが見えなくなるのは不思議なことである。
これは例えば病院に長期入院している人がいつからそういう状況かを知ろうとするときとか、何かの有効期間とか、過去からの時間の経過、歴史とかを考えるときには極めて不便となる。例えば、昭和六二年から、平成一五年までといっても、ほとんどの人にとっては、何年間なのか直ちには分からない。
また、平成十六年などといって、インタ-ネットで世界に発信しても外国人は何のことか分からない。世界には全く通用しないからである。
年齢にしても、大正十二年生まれだといわれても、大正、昭和、平成と数えねばならないので、一体何歳なのか、たいていの人にとってはすぐには答えられない。しかし、一九二三年生まれだと言えば、直ちに年齢は分かる。
現在の天皇も当然死が訪れるときが来る。その時には元号が代わり、一切の公文書、印鑑などもすべて変更され、そのために要する費用や事務的なエネルギーは非常に大きいものとなる。
そして、全世界で通用しないし、どこにもやっていないこの一世一元制度を事実上学校教育でも強制しているが、そのようにして一体何の利益があるのであろうか。
それは何もないのである。だからこそ、敗戦後まもなく日本学術会議(*)が創立された一九四九年の翌年五月の総会で、「元号廃止、西暦採用について」という決議を採択しているのである。その理由としてはつぎのことがあげられていた。
1)科学や文化の立場からみて元号は不合理である。…西暦は何年前、何年後ということが一目してわかるうえに、現世界のほとんど全部において使用されている。元号を用いているのは日本だけにすぎない。歴史上の事実でも、今から何年前にあるかを容易に知ることができず、世界の歴史上の事実が日本の歴史上でいつごろに当たるのかをほとんど知ることができない。…天文、気象などは外国との連携が緊密で世界的な暦によらなくてはならない。したがって、元号は、非合理的、非科学的、非文化的である。能率のうえからいっても、文化交流のうえからいっても、すみやかに西暦を採用することが適当である。
2)新しい民主国家の立場から言っても、元号は適当ではない。元号は天皇主権のひとつの現れであり、天皇の統治を端的に表したものである。…新憲法の元で、天皇主権から国民主権に代わった現在では、元号を維持することは、意味がなく、民主国家の概念にふさわしくない。
(*)日本の科学者,研究者の内外に対する代表機関として1949年に設立された。学術会議は,その第1回総会で「これまでわが国の科学者がとってきた態度について強く反省し,今後は,科学が文化国家ないし平和国家の基礎であるという確信の下に,わが国の平和的復興と人類の福祉増進のために貢献することを誓うものである」との声明を採択した(一九四九年一月二二日)。
このように、純粋に学術的に考えても、元号を用いることが何の長所もなく、間違ったことであるのは明らかにされていたのである。
それにもかかわらず、官公庁や学校で元号を事実上強制のようにしているのは、何の目的か。それは単に人々を天皇と結びつけようとしているのにすぎない。
このような考え方は最近、憲法や教育基本法を変えようとする人たちが口癖のように言う、日本の伝統、文化を重んじるということにつながっているのである。
こんな不可解なことはない。日本人にも、外国人にも一世一元制度を使って何の益もないことを、日本の伝統などというのなら、そんな伝統は無意味な伝統だと言わねばならない。
平成十六年とかいう言い方は、(平成)天皇の支配(統治)の十六年目という意味なのであって、天皇が絶対的な権力者であった戦前においては、支配者にとっては、天皇の名をしみ込ませる都合のよい表現であった。平成というのは、現在の天皇の死後の贈り名(諡)であるから、時間を言うのに、事実上、天皇の名によって言っているということになる。
自分の年齢を昭和○○年と言わねば、ぴんとこないという人が多数を占めているのは、この一世一元制度が目的としたことが達成されているということである。すなわち、天皇の名前が日本人にしみ込まされた結果このように、自分の年齢や出来事を言うにも、天皇の名前を言わないではおれないようにされてしまったのである。
最近の教育現場で、「君が代」を強制しようとする考えがますます強くなっているが、この考えと、一世一元制度を強制する考えとは、天皇という存在を、日本人のに植えつけようとすることにおいて共通であり、同じ土壌の上にある。
しかし、本来あるべき姿は、天皇のような単なる人間に若い生徒たちの心を結びつけるのでなく、教育基本法が述べているように(*)、真理と正義を愛する人間、真理そのものに心が結びつく人間の育成こそ重要なのである。
(*)教育基本法 第一条 真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
こうした方向を明確にするためにも、日常的にそのことを意識していくためにも、平成という元号でなく、世界共通の西暦を用いるべきなのである。
四国集会に参加して
○今回、四国集会に行く事を迷っている時に与えられた御言葉が「安心して行きなさい。あなたがたが行く道は主が見守っておられます。」-士師記18:6-でした。
この御言葉によって決断すると、不思議な事に全ての必要が神様によって整えられました。神様の約束通り、旅中にあっても集会の最中にあっても神様が側にいて下さり、一人ではないことを強く感じることができ、とても平安に満たされていました。
やはり、神様には神様の時というものがあり「神のなされることは皆その時にかなって美しい」という御言葉は真実だと実感しました。
神様は美しいと感動し、また出会ったみなさんのかっこつけない、正直な信仰に心うたれました。本当に感謝しています。
これからも良き交わりが持てるよう、皆さんの上に絶えず祝福と平安があるようにと祈ります。(沖縄からのTさん)
○四国集会に 参加させていただき 皆様とお会いでき また お話を聞く事が 出来て本当によかったです ありがとうございました。 徳島は27年ぶりでしたが 吉野川が やはり印象的でした。(四国の方)
○四国集会では大変お世話になりました。参加出来た喜びの余韻に未だ浸っています。集会のメンバーに喜びを伝えまくっております。多くの人が感じましたように、私も、2日間、聖霊に満たされた集会であったと、実感しました。主は、私のうちにも内在してくださったと、はっきり言うことが出来ます。
まず四国集会に導かれたことから始まって、「人」の中にイエスさまだけしか見えなかったことです。
また、思いがけず、徳島聖書キリスト集会の集会場まで連れて行ってくださり、感謝でした。主に遣わされた方(*)によって、増築され、多くの人々が集められて、祈りと賛美をささげる場所を拝見して、やはりここは天国、天の国だと思いました。
四国集会で祈りと賛美の回数が多かったことは、徳島の集会ではごく当たり前のことなのだと教えられました。ほんとに信仰は賛美と祈りに尽きる。難しい講義を聞いたり話すのが集会ではないことを、この目で確かめてきました。
勝浦さんにお目にかかれたこと、生きた信仰の証をお聞きできて、自分がなんとちっぽけな人間か思い知らされました。…
障害者の方々全員とはお話できませんでしたが、皆様のことを祈りに覚えて参ります。(関東地方の方)
(*)集会員で、建築関係の仕事をしているNさんによって集会場が増築されたことをさしています。(編者注)
○この四国集会の数日、神様にもみくちゃにされた感じで、でもそのおかげで今朝は清々しく脱皮できた感じです。神様はすごい! 四国集会のうえに神様が豊かにお働きくださり、感謝します。(四国の方)
○今回、四国集会への参加について、Tさんが○○さん(今回初参加した人)に呼びかけてくれて、本当に、本当に良かったです。その方は、「四国集会の最初はとても緊張して、カチンカチンだったけれど、夜には心もだんだんほぐれてきて、夜中に目が覚めたとき、何でこんなにうれしいんだろう、って、喜びいっぱいになりました。」と、話してくれました。
Tさんが、一人一人のことを覚えていて、呼びかけてくれたように、私も、もっともっと一人一人のことを覚えて、呼びかけていこうと思います。
こんな新しい思いが与えられ、感謝です。(近畿の方)
○この二日間の大いなる恵みを感謝しております。心を込め 祈りを込めて全てのことを準備してくださってほんとうに素晴らしい四国集会だったと思います。お独りお独り心から喜びを持って主を賛美しておられたことが伝わってきましたし,私も心から満たされています。(四国の方)
○ホテルの窓から見える眉山(びざん)。美しい新緑が私たちと一緒に主を賛美しているようです。
二日目になって気がついたことなのですが、この集会は障害がある人もない人も、同じように集会運営をしています。それがとても自然体なのです。また手話通訳があふれていることも新鮮でした。
賛美は二日間で30曲ほど歌っています。賛美歌、新聖歌、讃美歌21、こどもさんびか、リビングプレイズなど実に多様な歌集を使用しています。
二日目は賛美のひとときで始まりました。証しの時間もあり、脊髄損傷で人工呼吸器なしには生きられない方のお話がありました。彼の「いま幸せです」というその方にキリスト信仰の生きた実物を感じ、信仰がとても励まされました。
主日礼拝がその後引き続き行われました。聖書講話(説教)が二つあり、韓国からの方が旧約聖書を、埼玉からの精神科医師が新約聖書から話をされました。
二日目午後の部はグループ別に分れて感話と祈りの会です。後の部は幾つかの小グループに分れて、感話と祈り会です。私は和室の部屋でした。10人程度が集まり、それぞれ今回の集会で得たことなどを述べます。私は聖霊の風が吹き抜ける暖かい雰囲気が嬉しかったことと、若者が多いので、これからも四国では若者が集まれる機会を作り続けて欲しいと話しました。
写真は(*)、四国集会最後のイベント、閉会集会での賛美の様子です。閉会集会では全国各地から代表の方々が選ばれて、一人二、三分の感想。そして次回開催地である愛媛県の方のあいさつ。
最後に賛美をして、主催集会である徳島聖書キリスト集会の吉村孝雄さんのお祈りがありました。
これで今回の四国集会のレポートは終了。このような記事を書く気持ちを与えてくれた主に感謝。集会への道を備えてくれた主に感謝。集会を同じ信仰の者同士の交わりの場としてくれた主に感謝。若者の会を立ち上げてくれた主に感謝。そしてみこころの全てにアーメン!
(鳥取県、佐藤明さんのホームページ「一粒のぶどう」より、許可を得て転載。(*)ホームページには写真が入っています。編者注。)
○今回は天気にも恵まれて 素晴らしい集会に参加出来感謝しています。大変お世話になりました。
一杯お土産を頂きました、そしてイエス様の福音に与ることの素晴らしさを目の当たりにしました。
私もいろいろ見習いたいと思って帰りました。
今度の集会で皆さんに四国集会のことを報告します。
私の頭の中には古い不便な時代の記憶がありましたが、今度参加して古い壁がなくなりました。
色々奉仕していただきました皆様に感謝します。
それから徳島の水は美味しかったです。(九州の方)
○母も弟も四国集会に参加できた事は大変よかったみたいで後でみんなでいろいろな出来事やお話の内容を話し合いました。また生後九カ月の乳児を同伴していましたが、その乳児を皆様が受け入れてくださりとても嬉しかったです。東京の難しい講義中心の集会ではとても子連れ参加は困難だと感じていただけに感謝に思います。
今回の集会でその乳児が賛美歌のメロディーにあわせて声を出していたのにびっくりしました。一緒に賛美していたのでしょうか?(他にも気付いた人が何人か声をかけてくださいました。マタイ二十一・16の言葉を思い出しました。)(東京の方)
○神様の祝福に満ちあふれた素晴らしい四国集会、さまざまなこまやかな配慮が行き届き徳島の集会のかたが大変な準備を祈りをもってなされてきた事がわかります。感謝です。
来年も1人でも多くのかたが参加して交わりが持てますように、ますます神様の栄光を示す場となりますようにお祈りしております。(東京の方)
○四国集会では、同じ信仰の仲間と時を共に過ごすことで、エクレシアをより強く実感することができました。難しかった集会参加が、○○さんを通して主が働かれることで可能となったこと、○○さんと主に感謝しています。
集会では、特に賛美でエクレシアを感じることができたことは、感謝でした。また若者の会も非常に恵み多い時間でした。同じ無教会というキリスト教信仰を与えられて生きている同時代のクリスチャンがいるということ、そのことを知ることができて私は非常に励まされました。(中国地方の方)
○本当にテーマどおりで、恵まれました。徳島の方々の熱い祈りと準備、当日の奉仕を心から主に感謝します。(近畿地方の方)
○聖霊に満たされた四国無教会キリスト教大会をありがとうございました。徳島聖書キリスト集会の教友のお一人お一人の愛によって、身の震えるような喜びと恵みに満ちた素晴らしい時を過させていただきました。
札幌に帰った今も、打ち寄せる波のように喜びの余韻に浸っています。
また、徳島市の集会場での交流会(*)は、徳島の信仰の原点、神との交わりの場であるので、そこでの賛美と感話会はいっそう徳島を身近にしました。神に栄光を帰すと共に皆様の上に神の祝福がありますようにお祈りします。主にあるご平安を。(北海道の方)
(*)四国集会が終わった十五日の午後七時三十分~十時三十分まで、徳島聖書キリスト集会場で、その日も会場のホテルで宿泊する方々の自由参加で十四名ほどの交流会が行われました。(編者注)
○四国集会でたくさんのクリスチャンの兄弟姉妹と出会えたこと感謝です。
色々と気にかけていただき、ありがとうございました。
日曜日、集会後、友人の教会にも参加しました。
そこに来ている若者にも、今回の四国集会がどんなに素晴らしかったかを話しました。
勝浦さんや鳥羽さんの奥さんや、障害をもった方が、神様と共に生き、今が一番幸せとおっしゃっていたことが本当に印象的でした。
自分の信仰のあり方、祈り、讃美のあり方を考えさせられました。
本当にありがとうございました。(近畿からの参加者)
○待ちに待った四国集会本当に恵まれました。
親しい人々に再会でき 力いっぱい 賛美と祈りの時が もてました。それにしても大変な準備
お疲れが 出ませんでしたか。…(中国地方の方)
○二日間イエス様と共に聖霊に満たされ良き讃美と祈りの時を与えられ感謝でした。ありがとうございました。細部にいたるまでいろいろなご配慮をありがとうございました。感謝です。
(同行者も)帰りのバスの中でずっと「よかったなあ、よかったなあ。」とふりかえりつつ話していました。
…これからもこの罪の多い私たちですがイエス様に支えられて信仰のともし火をもやしつづけていけたらと祈ります。(近畿の方)
○今回の四国集会のように主の御恩恵に満ち溢れた集りはかつて無かった! と感じるほどに、写真を見ながら感激を思い起こしております。復活のキリスト・イエスがともにいてくださったからと存じます。…(四国の方)
ことば
(209)祈りは力である。また、祈りは働くことである。私たちは生きて働く神に向かい、行動へと送り出される。…祈りは、ことばを最高に用いることである。(フォーサイス著 「祈りの精神」26頁 )
・祈りは、神からの力を与えられ、その力によって働くことへとうながされる。神はむだには力を与えられないからである。そしてそれが小さな行動であっても、そのことを通じて新たな力を与えられる。
人間の言葉の最もよき使い方は、祈りだと言われている。神に向かう言葉、人への愛のこもった祈りこそは、言葉が最高に用いられていると言える。
編集だより
○キリスト教四国集会
徳島での四国集会のときに今まで使ってきた会場が使えなくなり、一年間、会場を探し決定することから始まって祈りをつづけてきた、キリスト教四国集会(無教会)が、多くの人たちの祈りと支えによって無事終わることができました。
多くの人たちの祈りが集められた特別集会には、いつも何か新しいこと、予想していなかったことが起こされてきましたが、今回も私たちの予想もしなかったような神の恵みのわざを起こして下さいました。
それは参加者があるとは思われなかった、遠い沖縄から二名の方が参加されたり、北海道の旭川や札幌からも参加していただくことができたこと、インタ-ネットや私たちの集会の主日礼拝などのテープだけで関わりのあった方が東京から参加されたり、若者の会に十七名ほどもあつまって若い人たちの独自の運営でなされたこと…などなどです。
○「祈りと讃美」このことは、いつでもどこでもできることです。そして信仰をまだ持っていないひとですら何らかの祈りのようなものを持っています。手紙などでも、「健康を祈ります」などと書くのも、祈りということがそれほど人間に深く結びついていることの現れです。
しかし、そうした心の表面での祈りから始まって、本当の祈りはどこまでも深いものがあります。見える世界を越えて、はるか雲のかなた、天空のかなたにまで通じる祈りもあるわけです。
幼な子のような心でまっすぐに神に信頼して祈る心に、神は天の宝を与えて下さり、そこに本当の讃美が生れると言えます。
主よ、私たちをそのようにどこまでも真実で深い祈りと、神への讃美の心へと導いてください。
○来信より
何か、目に見えない檻の中に自分はいて、脱出しようと遠くに行ってもその檻は、さらに先にある。もがけばもがくほど、縛っている目に見えない糸は、くもの巣のようにさらにきつく絡みつく、以前はそんな感じだったのを、四月号の文章にひどく共感しながら思い出しました。
渇き、私も朽ち果てる寸前でした。導き、支えてくださる神の強いみ手を思います。(四国の方)
お知らせ
○四国集会のテープ、ビデオなど
今回の四国集会のテープ、ビデオなど希望の方は、編集者(吉村 孝雄)宛てに申込をしてください。テープは十本前後で千五百円(送料込み)、ビデオは120分 VHS で 二~三本で、送料とも、二千円です。
○ヨハネ福音書CD
なお、四月号に掲載した、ヨハネ福音書CDは、送料を書いてなかったので問い合わせがありましたが、送料込みで一万円です。(私たちのキリスト集会で、約二年半ほどをかけて学んだ記録です。一般のCDラジカセで聞くことができるもので、CD約五十枚です。)前月号で紹介してから十名余りの方々から申込がありました。四国集会があったため送付には少し待っていただかねばなりませんが、近いうちに発送予定です。