20057月 第534号・内容・もくじ

st07_m2.gif真理の共鳴

st07_m2.gif縦と横のつながり

st07_m2.gif教会という訳語について

st07_m2.gif金持ちと神の国

st07_m2.gif神の裁きについて

st07_m2.gif聖書における平和について(とくに旧約聖書の平和)

st07_m2.gifWONDERーFULL

st07_m2.gif休憩室

st07_m2.gifことば

st07_m2.gif編集だより

st07_m2.gifお知らせ



st07_m2.gif真理の共鳴

七月下旬から一週間ほど北海道や東北、東京などのキリスト者の方々とともに聖書を学ぶ機会が与えられた。その交わりを通して、真理はさまざまの場所で、いろいろの人たちによって保たれ、いのちを与えているということを感じた。
これはかつて私たちのキリスト集会に参加していた、韓国や中国の人、あるいは南アフリカの人たちにも言えることで、聖書の真理、キリストの真理を心の内にしっかりと持っているときにはおのずから初めて会う人たちとも旧友のような感じがする。
それは信じる人、相互のうちにいますキリストが同じであるからである。人間の精神の一番奥深いところで同じものを持っているときには、無理に合わそうとしなくとも、おのずから一致するものがある。
音叉の共鳴ということがある。同じ振動数の音叉なら、近くで鳴らした音叉の振動が、もう一つの音叉にも伝わり、鳴り始める。これは考えてみれば不思議なことで、音とは空気中の酸素や窒素などの分子の振動である。その極めて小さいものの振動が空中を伝わって、鉄でできた別の音叉を振動させるなどとはちょっと考えただけではおよそ起こりそうもない現象である。しかし、振動数が少しでも異なる音叉なら共鳴は生じない。
私たちが同じキリストを信じるとき、初対面であっても、不思議と共鳴し始めるのである。
その共鳴のもとは天にある。天の国のいのちの水が私たちに注がれるとき、私たちの魂は天の国のことに共鳴し始める。
私たちを取り巻く自然の世界は、大空の青いひろがりや真っ白い雲、夕日や朝焼けの美しさ、樹木の沈黙して風雨にさらされつつたち続けるすがた、可憐な野の花など、すべてそれは人間の意志とは関係なく存在している。人間が存在する前からそれらはある。それゆえ、そのような自然の風物は神のご意志、神の清さと愛を映し出している。
私たちが罪赦されて、いくらかでも神のお心、聖霊を受けるときには、そうした身近な自然も私たちの魂と共鳴し始めると言えよう。
祈りとは神の心との共鳴である。神の愛や真実が私たちの心と響き始めるとき、私たちは長く、かつ深く祈ることができる。そして私たちの心のうちにさらにその共鳴の響きを強めて頂くことができる。


st07_m2.gif縦と横のつながり

私たちはまず神との関係、縦の関係を深め強めたいと願う。あらゆるよきものは神から来るからである。祈りもそのことを第一の目的とする。
私たちのなすことも、祈りのうちに、神を見つめてするとき、神からの賜物である力や清さ、愛や平安が与えられ、それは、この世の何にも代えることができない。
主イエスも夜通し祈られたことが記されている。
しかし、それにもかかわらず、私たちはまた横のつながり、とくに信じる人同士とのつながりや交わりによって大いに強められ、励まされる。そしてそれによってさらに神への感謝や神のわざについて新たに目が開かれる思いがする。
私たちがすべての創造主である神をしっかりと見つめている限り、横のつながりはさらに私たちを豊かにし、それらすべてのことを支配なさっている神への気持も強められるのである。
キリストを信じる者の集り(エクレシア)は、キリストのからだ(*)であるという。

*エペソ書一・23、同五・23、コロサイ一・1824などを参照。

この深い意味を持った表現は、いかにキリストを信じる者同士の集りが重要であるかを示すものである。
キリストの集会(エクレシア)の中にいるとき、キリストのからだとして一つに結ばれているのであって、一人の体において血液が全身に流れてからだ全体を保つように、主の名によって共に集まるときには、互いにキリストの霊的な力や賜物が交流しあって、互いによきものが与えられるのである。そしてその集会が祝福されたものであればあるほど、ひとつのからだとして、一つの部分が痛めば、ほかの部分(人)も共に痛み、ある人が主にある喜びを与えられれば他の人たちもともに喜ぶことになる。

 


st07_m2.gif教会という訳語について

 前の文で用いた「エクレシア」とは、聖書では「教会」と訳されているが、原語は、エクレシアで、ek(~から)と kaleo(呼ぶ)から成っている。それゆえ、エクレシアとは「呼び出された者の集り」というのが元の意味。そのため、この語は、一般的な人々の集会や、議会のように正式な招集を受けた集りを意味する。
新約聖書においても、このような一般的な意味で使われている箇所もあるが(使徒言行録十九・32など)、そこから、とくに、「神から呼び出された者の集り、キリストの集会」という意味で用いられるようになった。
なお、日本語では「教会」と表されているが、これは中国語の表現を、そのまま取り入れたものである。使徒行伝、基督、耶蘇、路加なども同様に中国語の表現である。基督とはキリストのことで、中国語では、チートゥーと読む。「耶蘇」はイエスのことで、イェースーと読み、「路加」はルカのことで、ルーチアと読む。
中国語では「会」という語は、「集会」「会議」を意味するから、「キリスト教の集会」という意味で、「教会」と訳されたと考えられる。
しかし、現代では、一般の人にとって教会というと、「このあたりに教会はない」といったように使われるから建物を連想することが多く、教会という原語の本来の意味は、「キリストを信じる者の集り、集会」であることが知られていない。無教会では、「○○教会」という用語を使わず、「○○集会」と言うのは、こうした原語の意味を汲んでいるからである。

 


st07_m2.gif金持ちと神の国

金持ちは神の国に入れないのか、ということについて福音書につぎのように書かれている。

一人の金持ちの男がイエスのところに来て「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのか」と尋ねた。イエスが「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」と言われたところ、その男が、「殺すな、盗むな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛せよ」というような教えはみな守ってきた、と言った。そしてさらに、「まだ何か欠けているのだろうか」とイエスに尋ねるほどであった。そこでイエスは「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施せ。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」と厳しく言われたところ、この青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。
このとき主イエスは、
「金持ちが、神の国に入るより、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい。」 (マタイ十九・24
と言われたのである。
これを読んで、自分とは関係ないことだと思う人が大部分だろうと思う。金持ちとは、何億もの金を持っている人、大会社の社長とか一部の政治家を思いだす人もあるだろう。自分はふつうの人間だからそんな金持ちの話しは関係がないと、思ってしまうのである。
しかし、そもそも金持ちとは、どこに基準を置くのかで全く違ってくる。日本にいて、華やかなスターとかプロ野球選手、大会社社長などと比べて自分は金持ちでないなどと考えていても、世界全体を視野に入れてみるとき、日本人はほとんどが、大金持ちの部類に入ってしまう。
そうすればもし、この主イエスの言葉をあてはめるなら、日本人はほとんどみんな神の国に入れないことになる。そんなことは誤りであるのは直ちにわかる。
聖書においても、金持ちであっても神の国に入れていただいたという例がある。

…ザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。
イエスを見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。
それで、イエスを見るために、いちじく桑の木に登った。…
イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。…そして、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。」(ルカ福音書十九・19より)

この記事のように、金持ちであったが、それを全部売り払わなければ神の国に入れない、救われないとは言われなかった。金持ちではあったが、主イエス自らがとくにザアカイを呼んだのであった。そして主に呼ばれたザアカイは喜んで直ちに主イエスを受け入れた。そして主はただそれだけでザアカイが救われたこと、すなわち神の国に入れられたことを告げた。
このように、金持ちとは一体だれのことなのかということ自体、だれもはっきりとは言えないし、金持ちだからといってただちに神の国に入れないということは聖書そのものも言ってはいないことなのである。
それならば、この箇所の本当の意図はどこにあったのだろうか。
それは、この金持ちの青年が、律法(神の命令)は何でも子供のときから行ってきたという気持を持っていたからである。律法とは、偶像を崇拝してはならない、唯一の神のみを礼拝せよ、隣人を愛せよ、殺すな、不正な男女の関係を持つな、盗むな、偽りを言うな、父母を敬え、などたくさんある。これらをすべて子供のときから守ってきたということは表面的には言える人もいるかもしれない。
しかし、神だけを敬うということは、果てしない内容を持っているのであって、どんな時でも神ご自身の本質である真実や、愛、絶対の正義、清さ、などなどをいつも最も重要なものとして尊重してきただろうか。そんな人がいるだろうか。人間はどんな人でもとくにまだ信仰的に深められていないときには、たとえキリスト者であっても、自分中心に考えている。他人が困っていても、それを助けることなどほとんどできない。わずかの時間やエネルギー、金などを使うのが精一杯である。神を第一に敬うということは、神の本質である愛や正義を第一にするということになり、それは具体的には出会う人間が誰であっても、相手に対して愛や正義を第一にして交わるということである。
そのようなことは到底できるものではない。まず自分が会いたい人、行きたい場所に行こうとするし、休みや娯楽を求めることは誰にでもある。それはしかし、愛や正義とは何の関係もない。
父母を敬うということにしても、それが全部できているなどとは到底言えない。敬うということも深く考えたら奥がいくらでもあるからである。
隣人を愛せよ、という戒めも愛というのはどこまでも深いから、どのように隣人のために尽くしたとしても、それでその隣人への愛が完全であったなどとは到底言えない。主イエスの言葉のように、友のために命をも捨てるほどの愛まで深まるからである。
このように、もし真剣に神の戒め(律法)を行おうとするなら、全部子供のときから守ってきた、などと到底言えるものではない。子供など、そもそもこうした戒めの深い意味は理解できないからである。
しかし、ここで現れた金持の青年は、こうした神の戒めの深い意味を考えようとせず、全部子供のときから守ってきたと、言い切ったのである。
このような、心に「持っている」という状態、自分は律法を行なってきた、という誇りがこの青年にあった。このような誇りこそ、最も神が退けられる。自分は金を持っているという意識以上に、自分は道徳的にもすぐれている、ほかの者はだめだ、といった意識、それこそ、心の内に「持っている」状態である。
金持となって、生活に不自由がないと、このような傲慢な考え方に傾きやすいと言えよう。
行いや学校の成績、社会での勤務先、地位、家柄や持っている車や家、そうしたものを持っているという意識があればあるほど、神の国には入れないと言われている。地位や経済的豊かさ、あるいは家柄がよくても、それらが神の前では何の意味もないと知っていればいるほど、神の国には入りやすいということになる。
ザアカイは、金持ちであったが、それらによっては深い心の満足が得られないことを思い知らされていたのがうかがえる。だからこそ、多くの人々を不思議な力で引き寄せているイエスという人物に特別な関心を抱き、なんとしてでも会いたい、見たいと思ったのであろう。もし彼が、地位や金で満足して高ぶる気持があったら、そもそもイエスにどうしても会いたいなどという気持が起こらなかったと考えられる。子供のように、木に登ってまで、イエスを見たい、という切実な願いはイエスによって直ちに知られていた。そしてそのゆえにイエスは多くの群衆が取り巻いているにもかかわらず、みんながローマ帝国の手先であり、汚れているとして見下していた取税人をとくに見つめられ、呼び出されたのであった。
何かを持っていても、それに満足したり、誇ったりするのでなく、それは自分のものでなく、神からゆだねられたものと受けとっているときには、神は私たちに目を留め、呼びかけて下さる。

 


st07_m2.gif神の裁きについて

新約聖書の世界では、キリストの愛、神の愛が中心であるから、裁きなどはない、と思う人もいる。
しかし、愛が最も重要なものとして記され、また神の愛はすべての人に及ぶからといって神の裁きなどないということはない。新約聖書においても、はっきりと神の裁きは記されている。つぎの箇所はキリストの言葉としては、最初に現れる裁きに関する言葉である。

あなたがたは地の塩である。
だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。
もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。(マタイ福音書五・13

地の塩とはどういう意味か。それは塩があると腐敗するのを防ぐこと、わずかの塩で味わいをひきしめ、よくすることである。主イエスがこのことを教えられた当時、弟子たちはまだ主イエスを神の子として十分に信じることもできないし、十字架にかけられて処刑され、復活するといったキリスト教の根本の真理も受け入れることができない状態であった。これはとても不十分な状態だった。しかしそれでもなお、主イエスは「あなた方は地の塩である」と言われた。それは、人間がどれほど完成しているかでなく、人間が完全な賜物である福音を受け、キリストに不十分ながら従っていこうとするだけで、地の塩になりうるというのである。
私たちの行動ではなく、私たちの内にいますキリストのゆえに、また信じて受けた神の言葉のゆえに、地の塩と言われている。
しかしそうした地の塩という状態であっても、そこで私たちが油断して神の言葉を捨て、人間的な考え、自分中心の考えになるとき、私たちは塩気がなくなった、ということである。そのような場合には、「外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられる」と言われている。
これはまさに裁きである。最もよきものを受けたにもかかわらず、その大いなる価値を捨てて、別のものを、真実でないもの、偽りのものを一番よいものとして取っていくようなときには、神から捨てられるというのである。
このようなことは、他の有名な箇所においても述べられている。

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。(ヨハネ福音書十五・56

このぶどうの木のたとえは、キリスト教世界では特によく知られた内容である。この主イエスの言葉のゆえにぶどうがキリスト教ではしばしば用いられるし、現代でも絵や写真、カットなどでよく見かける。
そしてたしかにぶどうの木は、厳しい乾燥地帯においても成長して、実ができるとその外観も美しく、水分も多く、甘みもつよい果物として貴重なものである。キリストの教えも連想され、食べてよし、また果実を踏みつぶして密閉しておくと、自然に発酵して、ぶどう酒という長くもつ飲み物となる。
そのゆえにこのぶどうの木のたとえも農村ののどかな風景、美しい色に熟したぶどうの実を連想させるのどかな情景がある。
しかし、このことはこのたとえが厳しさを含まないのではない。それは、この後半を見れば直ちにわかることである。もし私たちがキリストにつながっていないならば、投げ捨てられ、枯れるだけでなく、火に投げ込まれ、焼かれてしまう、という。これは裁きである。こんな裁きがあるはずがない、などと思う人が実に多い。
しかし、このことは至るところで見られる事実である。 例えば、私たちが真実そのものの御方であるキリストから離れ、嘘をつき続けるなら、すぐに人から信用されなくなる。あるいは、互いに愛し合え、との戒めに背いてだれかの悪口、中傷を続けるならそのような人間は警戒され、真実な友はいなくなるのは確実である。そしてその人自身、心に平安がなくなっていく。
私たちが、愛や真実に反する思いを持っていれば必ず、心のさわやかな喜びや平安はなくなる、という日常的に経験できることがまさにこのヨハネ福音書で言われていることなのである。
愛や真実そのものであるキリストと結びついていないなら、人間は自分中心となり、他者への愛や祈りがなくなり、平気で他人の悪口や中傷をし、心は汚れていく、それがまさに、「外に投げ捨てられ、枯れていく」ことである。心のなかのよいものがなくなり、心が枯れていくのである。そして最終的に火で焼かれてしまう。人間も実際、そのような真実に反することを続けていく人生を送れば、最後はその人間そのものが死によって焼かれて消えていく。
神に結びついた人間は、たとえ肉体が死んでも、キリストに似たすがたによみがえる、と約束されていることと何と大きな差ができることであろう。
また、つぎのようにも言われている。

わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。
雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。(マタイ福音書七・2627

主イエスの言葉、例えば、「となり人を愛せよ、悪い者に対しても敵視したり、憎むな。かえってそのような人間のために祈れ」といった精神に反して、身近な者を憎んで、自分の好感が持てる人だけを大事にするといった狭い心を持ち続けていたら、何か大きな悩みや苦しみが生じたら、そのような狭い心では到底対処できず、その困難な問題に打ち倒されてしまう。
神の国と神の義をまず求めよ、と言われているのに、まず金とか自分の利益を求めていく生き方を続けていけば、心に堅固な柱となるものが生れないから、大きな苦しみが襲いかかるときには、たちまち動転してどこに安らぎの場があるのかもわからず深い闇に落ち込んでしまうであろう。

最近、いろいろの犯罪があり、小学生ですら他人の命を奪うような驚くべきことまで生じている。それもみな、相手に対してよき心を持とうとせず、憎しみという力に身をゆだねてしまったこと、言い換えれば、キリストの教えのように「まず神の国と神の義」を求めなかったゆえに、心が枯れて、倒れてしまった姿に他ならない。これらは聖書の言葉の真理性を示すものである。
しかし、キリストの山上の教えなど、到底実行できないとはじめからあきらめてしまう人も多い。また、裁きとして、火で焼かれるなどというのはあるはずがない、などと反論する人もいる。というより、大多数がそのように考えるからこそ、新約聖書を心を入れて読もうとする人がきわめて少数であり続けているのであろう。
しかし、その山上の教えにある、「隠れたところにおられる、父なる神に祈れ」(マタイ六・6)とか、「地上に富を積むのでなく、天に富(宝)を積め」(同六・19)などということは、本来だれにでもその程度の多少はあれ、できることである。それは何も特別な善行とか、社会的に目立つことではない。神への祈りの心、身近な人のために祈ること、感謝の心を持とうとするだけでも、天に宝を積むということになるからである。

次のような箇所も、神の裁きについて言われている。

主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。(ルカ福音書十九・26

これは一見とても不可解な言葉である。この言葉だけを読む人は、これは現代の社会的状況を言っているのだとまちがって受けとる人もいる。資本家のように持っている者はますます豊かになって、アジア・アフリカの貧しい人たちは一層貧しくなっていくことを述べているのだと思うのである。
しかし、この主イエスの言葉はそのような社会的問題を単に説明するような意味とは全くことなる。これは、 神の国を求めていく心を持っている人は、ますます与えられていくが、神を信じない人、信じているとしても、真剣に神の国を求めようとしないならば、すでに与えられているよきものまでも失っていくということを述べているのである。
ここにも裁きがある。神の国とは神の御支配であり、神の御支配のうちにあるものであるから、それは真実なもの、清いもの、敵対する人、悪いことをしかけてくる人への祈りの心といったものである。そのような心をもって求め続けていく人にはさらに清いもの、真実なものが与えられるということである。
求めよ、そうすれば与えられる、という有名な言葉も同様な真理を述べていると言えよう。裁きとは、何か、絵で見るように、死んでから地獄に投げ込まれる、といった形で想像している人が多い。しかし、本来のさばきはそのように死後初めて生じるのでなく、今も至る所で、生じていることなのである。私たちの心の世界で、また周囲の人間、社会の出来事はそのことを日々実感することができる。
主イエスが、次のように言われたのも裁きが未来のことでなく、今すでになされていることを示している。

彼(キリスト)を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。(ヨハネ三・18

この世で最も真実でしかも神の力を持っている御方、死の力にも打ち勝つ御方を信じないとき、その御方から来る最善のものを拒むことになってしまい、この世で最善のものを受けられなくなる。それがすなわち裁きである。
愛とか正義、真実などといっても、どこにそのようなものを完全なかたちで持っている人がいるだろうか。完全な愛とは、無差別的にいかなる悪人にも、遠くの人にも、近くの人にも及ぶものである。そして一時的なものでなく、永遠的である。今の刻々にも無数の人に同時に及ぶような愛、そのような愛を人間が持つことなどはあり得ないことである。しかし、キリストだけはそのような愛を持っておられる方である。それゆえに、キリストの愛は全世界におよび、今も無数の人たちに何にも代えがたい感動を与え続けている。
私自身、この世で受けた最も真実な力、愛の力は、キリストを信じるようになってから経験した。それまで受けたいかなる人間の愛とか真実なども、魂に迫ってくる力や人間そのものを根底から変革する力において到底比較にならないのを知った。
だからこのような大いなる御方を退けること自体が大きな裁きをすでに受けていると感じざるを得ない。そしてキリストをそのように最善の御方であると信じるかどうかは、各人に任されているのである。自分で信じない方を選ぶとき、信じれば得られる計り知れない宝を自ら拒むことであり、神の裁きとは、その最初において、各人の選択、決断がかかわっている。
さらに、この世の最善のものを信じないで、裁かれた者にとっても、そこからいつでも大いなる恵みの世界、赦しの世界へと移されることができる。それはすでに旧約聖書から繰り返し言われているように、ただ、神を仰ぎ望むだけでよいのである。

… 地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。(イザヤ書四五・22

そのような意味において、地上の生活における神の裁きは、単なる罰でなく、真理に立ち返らせようとする神の愛の現れでもある。しかし、もし私たちが長い人生があるにもかかわらず、立ち返ろうともしないときには、その裁きもまた続くであろう。
そうならないように、私たち自身もつねに神に立ち返り、また身近な人が神とキリストを知るようにと願うものである。

 


st07_m2.gif聖書における平和について(とくに旧約聖書の平和)

アメリカの大統領がイラク戦争などを旧約聖書を用いて正当化することがあった。 そのため旧約聖書では戦争が肯定されているのだと、安易に考える人がいる。
ここでは、とくに旧約聖書において、平和とはどのような意味で言われているのかについて考えてみたい。
聖書においては平和ということは、随所に記されている。聖書とは平和をもたらす書物であるからそれは当然と言えよう。
しかし、聖書のはじめの部分には深い意味における平和ということは見られない。それは、復活とか、一夫一婦制とか、悔いた砕けた心こそ、最も神が喜ばれる捧げ物であるというようなことがやはり聖書のはじめの部分には見られないのと同様である。
普通、平和とは戦争がない状態を言うことが多い。旧約聖書のとくにヨシュア記やサムエル記などの歴史の部分では、神ご自身が、戦うことを命じられ、ペリシテ人、アマレク人たちを打ち破るべきことが記されている。旧約聖書においては、神が戦争のない状況を初めからは示していないのがわかる。
しかし、預言書においては武力によって戦うことは、一時的なことであり、究極的なあり方は、そうした武力が全くなくなることが指し示されている。

終わりの日に
主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。
国々はこぞって大河のようにそこに向かい
多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。…
…彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。(イザヤ書二・24より)

これは今から二千七百年ほども昔の書である。戦乱の時代のただなかに、このようにはっきりとさまざまの国民が唯一の神の真理に向かって流れ込むように、引き寄せられることが象徴的に記されている。現実の世界がいかに荒れていて、平和への希望などないようであっても、そうした外的状況と関わりなく究極的真理は示される。ここに聖書の深い意味がある。
新聞やテレビ、雑誌の評論をいかに多く読んでもそのような視点からの記述は全くない。聖書の永遠性、独自性はこうしたところにある。
平和という原語は、旧約聖書が書かれたヘブル語では、シャーロームという。この言葉の動詞の形はシャーレームであり、これは次の箇所に見られるように、「完成する」「満たす」、「完全にする」といった意味を持っている。

…こうして彼は神殿を完成した。(列王記上九・25

このことからも、その名詞形である、平和(平安)が、完全にされた状態、満たされた状態という意味を含んでいるのがうかがえる。
日本語で「平和」という言葉は、「戦争がなく穏やかなこと」という訳語のみをあげている国語辞書もあるように、社会的な状態、人間が争いのない状態を連想する。
しかし、「平安」と言えば、「無事で穏やかなこと」という意味で、普通には社会的な状況よりも個人的な心の状態をあらわす。
旧約聖書においても、後半の部分にある預言書には、平和というのは、単に「戦争がない状態」といった消極的な表現でなく、神によって完全にされた状態、満たされた状態を暗示している箇所がある。それは旧約聖書でも後期に書かれた文書に多い。

…わたしの戒めに耳を傾けるなら
あなたの平和は大河のように
恵みは海の波のようになる。(イザヤ書四八・18

平和が大河のようになる、といった表現はたいていの人にとっては耳にしたことがないであろう。すでに述べたように、平和とは戦争がない状態といったイメージで理解していることが大多数を占めていると思われるからである。戦争のない静かな状態というのと、このイザヤ書で言われているような、大きな川のように流れるもの、ということとはまったく異なるニュアンスがある。
この訳文で、「大河」と訳されているが、原語は、普通の川をも意味するナーハールである。ここでは、とくにユーフラテス川に代表されるような大きな河を意味していると考えられて、大河と訳されている。
平和が川のように、というのはどういう意味なのか、それはこの原語の意味から浮かび上がってくる。旧約聖書において、平和とは完全にされた状態、満たされた状態を意味しているゆえに、それはとどまることなく、あふれだすものであり、周囲に流れていく大きな川のようなものなのである。
戦争がない状態、あるいは一時的に病気や争いのない個人の心の平和といっただけでは、それはあふれて流れだすようなものとはなり得ない。自分の家族の平和がいくらあっても、それは周囲にその祝福は流れだしていくこととは直接に結びつかない。かえって、家庭の分裂に悩み、家族の深刻な病気や罪があるときには、家族の平和を楽しんでいる家庭とは近づきたくないという気持になるだろう。特定の平和な仲むつまじい家庭というのは、闇に苦しむ家庭を持つ人には妬みや嫌悪の対象にすらなりかねない場合がある。
しかし、聖書で言われる平和の究極的な姿は、このイザヤ書にあるように、西アジアで知られる大河、ユーフラテス川のような大いなる流れであり、それはとどまることがなく、流れ続け、周囲をうるおし続けるものなのである。
こうした類のない平和の内容は、まさに神からの直接の啓示によって知らされたのである。こんな壮大な平和があるとはだれも考えて思いつくようなことではない。イザヤ書、とくに後半部にはこのような他では見られない、深くて広大な内容が多く見られるが、それはキリスト以前の人類の歴史のなかで、特別に深遠な内容を持っていると言えよう。
私たちのうち、誰がこのような大河のように流れてやまない平和を知っていたか、そんな平和は現実の社会にはどこにも見られない。かえって、戦争と混乱と貧困は随所で見られたはずである。人間の歴史とは戦争の歴史であると言えるほどであるのは、身近な日本の歴史を調べてもわかる。古事記、日本書紀にでてくる伝説上の日本武尊(やまとたけるのみこと。古事記の表記では倭建命)にしても、彼の生涯は戦争そのものである。
旧約聖書においても同様で、アブラハムやヨシュア、ダビデ、ソロモンといった人たちも戦いから免れることはできなかった。ソロモン以降の歴史も絶えざる戦いがあった。
そうしたのちにアッシリアや新バビロニア帝国という大国との戦いに破れ、滅ぼされ、あるいは捕囚となってしまう。そうした後にも、またアレクサンダー大王の各地での戦い、その後にも次々といろいろの地方で戦争が生じている。
このように、人間の歴史は実に戦いと動乱の歴史とも言える。しかしそのようなただなかにあって、イザヤ書では、そのような戦争という混乱の地平の彼方に、はっきりと驚くべき平和を神から示されたのであった。
いかに混乱と不正、憎しみのうずまく戦争があろうとも、そのかなたには神ご自身が大いなる平和をもたらすのであって、それは何人も止めることのできない、大河のごとくであった。
人間の作った平和とは、個人的な平和にせよ、民族や国家の平和にせよ、妥協や駆け引きの産物であることが実に多い。それゆえそのような人間的な平和はとてももろいのである。
次に「恵みは海の波のようになる」と言われているが、これもまた、普通には見られない表現である。ここで恵みと訳されている原語は、ツェダーカーであり、「正義、義、公正」という意味の語である。
信仰によって義とされるという有名な箇所の元になっている、旧約聖書の箇所、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記十五・6)というところで用いられているのが、このツェダーカーである。
これは旧約聖書では一六〇回ほども使われている重要な言葉である。なお、この語とほぼ似た意味を持っている、ツェデクという語も一六〇回ほど使われているから、これらの言葉は合わせると三二〇回ほども使われている。
新共同訳では、この正義をあらわす言葉が、「恵み」と訳されているが、外国語訳を含め、ほとんどの訳は、原語に即して、「正義、義」と訳している。

あなたの正義は海の波のように…(新改訳)
あなたの義は海の波のようになり…(口語訳)
義は海の波のごとく…(関根訳)

人間の正義といっても、それは罪赦され、神からの恵みとして与えられる正しさであるから、新共同訳では「恵み」と訳していると考えられる。
いずれにしても、この箇所は、もとは神の民たるイスラエルの人たちの平和や義が川のように、また海の波のようになるというのである。もし彼らが神に聴き従っていたら、そのようになったであろう、という意味と、今後もし聞き従うならば、そのようになるという約束が重ね合わされて表現されていると考えられる。
この表現には、絶えずあふれてやまないもの、押し寄せてとどまるところがないという豊かなものが感じられる。
イスラエルの民とは、新約聖書の時代になって、実際のイスラエルの民族でなく、神を信じる人は霊的なイスラエル民族であるとされるようになったから、現代の私たちにとって、こうしたイザヤ書の言葉は、そのまま、神の民となった私たちに向けて言われていると受け止めることができるのである。
海の波とは、遠くから繰り返し押し寄せてくるものであって、神によって罪あるものが正しいとされる恵みがあとから後から押し寄せてくるというのである。
こうして流れてやまない平安の流れや打ち寄せるように絶え間なく与えられる義ということは、現状からは到底考えられないものであっただろう。それどころかどんなに平和を求め、義を求め、恵みを求めても得られないで戦いや混乱にまきこまれて滅びていくというのが多くの人たちの実感ではなかったか。
「山の彼方の空遠く」という詩も、そのような哀しみのこもった内容を持っている。

山の彼方(あなた)の空遠く
幸い住むと人のいふ。
ああ、われひとと尋(と)めゆきて、
涙さしぐみかえりきぬ。
山のあなたになお遠く
幸い住むとひとの言ふ。 (カール・ブッセ、上田敏訳)

Uber den Bergen, weit zu wandern

Sagen die Leute, wohnt das Gluck.

Ach, und ich ging im Schwarme der andern,
kam mit verweinten Augen zuruck.
*
Ueber den Bergen, weit weit druben

Sagen die Leute, wohnt das Gluck.


これは幸福というものが、身近にないこと、非常な努力をして求めても、時には気の合った人とともにそうしたよきものを目指していっても結局はそんな理想的な幸福をつかむことはできないというのである。身近なところに幸福はなく、探し求めてもやはりないのだ、という悲哀の情がある。
これは翻訳の巧みさと、物哀しい調子が日本人に受けてこの詩は学校教育でも紹介されていて、私も頭のなかに残っている。
しかし、このような詩を読んで励まされるという人はまずいないのではないか。私自身も何ら力付けられることもなく、何か不可解なものを感じただけである。
これと、部分的に似た内容を持っているものとして、「青い鳥」の物語もよく知られている。
貧しいきこりの子の兄妹チルチルとミチルは「青い鳥」を探しに出かける。「思い出の国」「夜の宮殿」「未来の王国」などを探しまわるが、どこにも「青い鳥」は見つからない。ようやく自分たちの家に帰ってきたとき、すべては夢だったことがわかる。そして「青い鳥」(幸福)は家で飼っていたキジバトだったことを知る…
このメーテルリンクの物語を読んで、力を受けたり希望を与えられた人はいるだろうか。幸福は身近なところにある、などと言われて、家でいつも飼っているハトだとか、庭とか、日毎の食事、与えられている健康だ…などなどといわれて、本当にそうだと実感して、自分は究極的な幸福を見付けたと永続的に感じ続けることができるだろうか。そのように頭で考えて永続的に幸福を感じ続けられるなら、だれでも幸福だと思うだろう。
しかし、実際はそんなに簡単に幸福だという実感は与えられないのは誰もが知っていることである。
なぜかと言えば、そのような幸福は自分で考えて、身近なものが幸福なのだと言い聞かせて一時的に頭で納得するだけだからである。内から溢れ出るものでないからである。人間が自分の頭で考えて納得したといっても、別の大きな問題、病気や事故、家庭の問題、職業上の失敗などが生じたらたちまちそのような頭で考えた幸福などは消え去ってしまう。
真の幸いは、「山の彼方の空遠くに尋ねて」も、身近なところにあるのだと自分で自分に言い聞かせたところで、得られないのである。
聖書においては、本当の幸い、揺るぎない幸い、本来だれにでも与えられる幸いは、神が私たちの魂の内に新しく創造して下さるものである。そのとき、渇ききった心の砂漠にも、水が流れ、花が咲き始める。

…そのとき、見えない人の目が開き
聞こえない人の耳が開く。…
荒れ野に水が湧きいで
荒れ地に川が流れる。
熱した砂地は湖となり
乾いた地は水の湧くところとなる。…
そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれる。(イザヤ書三五・58より)

永遠の平和が訪れる神の時がある。それは「そのとき」といわれている。旧約聖書では、「主の日」とか「終りのとき」といった表現で預言書によく現れる。
これは世界にそのような「時」があるということであるが、私たち一人一人においても、そのような「時」がある。私自身も、それは二十一歳のときに初めてそうした経験の一端を与えられたのである。それまでの私の心の世界は、まさに荒れ野であり、水のない渇ききった状態であったし、この世の幸いをあちらにあるか、こちらにあるのかと、尋ね探していたのであった。しかし、どこにもない、といった暗い気持があった。それはさきにあげた、ブッセの詩や青い鳥の話に通じるものがあった。
しかし、実際にそのような影のような幸いでなく、実体がある幸いを知らされたのである。それ以来いろいろと心を暗くし、悩み、倒れそうになることもあったが、たしかに荒れ野であった心に水が流れだしたという実感を持ち続けて今日に至っている。
山の彼方にもなく、また単に身近なものをそうだと思い込むことでもない。神ご自身が私たちの魂の奥深いところに、いのちの泉を作り出して下さるとき、そのとき初めてこれこそがこの世の幸福なのだと、実感することができる。
聖書は実に不思議な書物である。二千五百年以上も昔に書かれた旧約聖書の内容が、さんざん苦しんだあげくに出会った聖書の真理によって初めて理解できるようになったのである。そしてそのようなことは、学校教育をいくら受けても与えられなかったものであった。
そしてこのように、流れてやまない良きものというのは、聖書ではいろいろの箇所で見られる。何度か以前にもあげたことのある、最も有名な次の詩にもそれは示されている。

主はわが牧者、私には乏しきことがない。…
わたしを苦しめる者を前にしても
主はわたしに食卓を整えてくださる。…
わたしの杯を溢れさせてくださる。
命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追いかけて来る。(詩編二三より)

この詩の作者が言おうとしているのは、主なる神が自分とともにあり、導いて下さるようになったとき、内にはあふれる泉が与えられたのと同様であり、乏しいと思うことがなくなったということである。たとえ敵対する者、苦しめる者が現れてもなお、神はそうしたことにかかわらず、大いなる恵みを与え魂を満たして下さるという。しかも、神の国の恵みと慈しみという他では代えがたいもの、最大の賜物が自分が必死に探して求めるというのでなく、自分の後から追いかけてくる、という驚くべき実感を記している。
これは、最初にあげた、平和が大河のように流れてやまない、恵みが海の波のように力強く自分に打ち寄せてくる、といった表現と共通したものを持っている。
聖書においては、究極的に私たちに約束されているものは、それが無限に豊かで、満ち満ちたものであるからあふれでるもの、流れだしていくものとして言われている。それは聖書の最初にある、創世記のはじめの部分にすでに記されている。
エデンの園という人間に与えられるものが象徴的な表現をもって記されているが、そこでの特徴は、あふれでる水、周囲に流れだす川の流れということである。
エデンの園はおそらく、禁じられた実を食べたということだけが、クローズアップされている。しかし、それはたしかに聖書全体にとっても、極めて重要なことであるが、マイナスの側面であって、エデンの園にすでに約束されたこと、預言されていることのよき内容のことはどうもあまり知られていない。
エデンの園が大いなる水源であって、そこから流れ出る河はこのように、あふれでる水をたたえたもの、そしてそれが近くだけを流れる小川のようなものでなく、全世界をうるおす大河となっていることは、たいていの人が気づいていない。
このイザヤ書で言われているように、神が約束する平和とは、大河すなわちユーフラテスの川のようにあふれ、流れてやまないものなのである。平和というと静かなもの、流れるというイメージとはまったく異なるものとして私たちは受けとっている。しかし、聖書においては、平和を語るときでも、自分だけにとどまっているような平和でなく、溢れ出て周囲をうるおすものと言われている。こうしたつねに溢れ出てやまないという真理の特質は、詩編十九編の有名な箇所でも言われている。それは、真理が音もなく、溢れ出ていくということである。

天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう。(詩編一九編より)

この詩において、昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送るという。それは人間がどのようであっても、夜も昼も絶え間なく、真理を送り続けているというのをこの詩の作者は啓示されたのである。この世界の中心にいわば目には見えない心臓のようなものがあって、心臓が体全体に昼も夜も血液を送り続けているように、真理を送り続けているのである。
そして、神の国の響きは地上の世界の腐敗や混乱にもかかわらず、常に全世界に送られている。星や太陽、あるいは大空の青いひろがりや白い雲、夕日や朝焼けの美しさ、力強さなどすべての神の創造のわざそのものが
絶えず神の本質を伝え、語っているというのである。
ここにも真理というのは溢れ出るもの、世界へと絶えず流れ出ていくものであることが記されている。それを抑えたり、せき止めてその力をなくそうとしても到底できないのである。
このように、溢れ出るほどの豊かさをたたえたものこそが、聖書に約束されている平和である。それは、当然新約聖書にゆたかに見られる。旧約聖書は新約聖書において実現されることの預言とも見られるのであるからこれは当然のことといえよう。
こうした溢れ出るものがとくにヨハネ福音書において強調されている。

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ福音書四・1415

この水、普通の水を飲んでも魂の渇きはなくならない。この水、とはふつう人間が求めるものを象徴的に述べているのであって、物や金、人間などどんな目に見えるものによっても深い心の平安は与えられないということである。
しかし、キリストが与える目に見えない水によって、人間は最終的な平安を与えられる。旧約聖書のシャーロームという言葉が持っている意味、完全にされた状態、すなわち満たされた状態を与えられる。
私たちが自分の考えで無理に、身近なものが幸いだ、と思い込もうとしてもそれは一時的なことであって、到底、深い永続的な満足はない。
私たちが深く満たされるのは、私たちの魂の内に「泉」がうまれることによってである。そこからは絶えず天の国のよきものがあふれてくるのであるから。キリストの言葉はそのような、人間の与えられる究極的な賜物を示している。
このいのちの水こそは、主イエスが最後の夜に語ったと伝えられてきた次の言葉へと結びつく。

わたしは、平和(平安)をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。(ヨハネ福音書十四・27

このように見てくれば、旧約聖書から一貫して預言されてきた、流れ出る平和、満ちあふれるよきものは、聖書の最初から告げられ、ずっと旧約聖書をも流れ、そして新約聖書のキリストによってそれが成就されているのが分かる。
そこから、このような内なる平和を確固として与えられたものは、武力によってあるいは敵意によって、敵を討ち滅ぼそうとはしなくなる。相手にもいわば宇宙に流れているいのちの水が流れ込むように、そして泉が相手の心に生れるようにと祈るようになるであろう。
それが、主イエスや使徒パウロが教えた、「あなたの敵を愛し、迫害するもののために祈れ」ということであった。内なる泉からあふれる流れは敵対するものにも流れだすというのである。
この現代の闇の世にあって、私たちはそのような泉がまず私たちの内に生れ、それがあふれだし、周囲の人々にもそれが流れていくようにと祈るものである。
この世は悪が満ちているし、それが次々と純真な若者の心にも流れ込んでいくように見える。しかし、そのような世であるからこそ、神の国にその源がある、いのちの水が存在し、だれにでも求める者に与えられることを証ししていくことを願っている。


st07_m2.gifWONDERFULL

なんて不思議なこと
あなたは漆黒の天に星を
ちりばめられたと同じやり方で
わたしたちのこころにも宝玉を
ちりばめていかれます

ときにそれは
石火のよう
まだ誰も知らない方法で発火し
しずかな確かさで
あたりを照らし 満たします

わたしは
終り近くなった人生の途上で
そのことに気付き
黙って大きく目を瞠る

(伊丹悦子詩集「朝のいのり」より。)

 


st07_m2.gif休憩室

○北海道の植物
北海道南部の日本海側にある、瀬棚(奥尻島の対岸)というところで、瀬棚聖書集会が三泊四日で開催されました。そのうちの一日、夕食前の短い時間でしたが、生出正実(おいで)兄が近くの小高い山にある灯台まで車で案内して下さいました。徳島とは全く異なる涼しい海からの風、波、野草などに触れることができました。百年以上前に、函館から舟でこの地方に初めて本州からの人々が定着して、漁業や酪農などをはじめたときの困難さが偲ばれ、長い冬の厳しい気候と、店も医者もなく、食物の生産だけでも並大抵のことでなかったと思われます。 普通なら生活はできないような状況のなか、そうした人々も不思議な力に支えられて、今日の状況へと続いてきたのだと思います。
人間の出会う戦いは、自然との戦い、外部の人間との戦い、そして自分自身との戦いという、三つの戦いがありますが、北海道のような寒さの厳しく、長い期間続く土地においては、自然との戦いも現代の私たちには想像もできない困難なものであったと思われたことです。
そうした北国の生活の厳しさとは関わりなく、自然の、ことに植物の可憐な姿は神の人間への愛の配慮のように思われました。
海岸から切り立った崖に風に揺られて咲いていた薄黄色のキバナカワラマツバ(黄花河原松葉)、それは厳しい風の吹きすさぶところですが、そこでも夏のわずかの暖かいときに成長し、花を咲かせています。また、四国では見られない、オニシモツケという、小さな白い花をたくさん茎の先に咲かせる大型の野草、それからやはり白い花を多数つけるヤマブキショウマも時折車窓から見かけることができました。
またその四百メートル余りの山地付近で、ヨツバヒヨドリが咲いていたのも印象的でした。この植物は徳島県では、標高二千メートル近い剣山に近い山でわずかに見られる程度で、徳島では高山植物という感じを持っていました。ほとんどだれも目にとめる人もいない北国の山地で、こうした花は神の国を映すかのように咲いていたのです。
また、森林帯では、ところどころに大型の特徴ある葉をつけるホオノキが見られ、これは二十~三十メートルの巨木にもなるもので、これも四国では少ないのですが、北海道、東北ではあちこちに見られました。
それから、北海道の山あいの道で目立つのは、大型の植物です。ヨモギもオオヨモギが方々にあり、それは高さが二メートルほどにもなり、葉も大型です。イタドリも、オオイタドリといって、葉も四国で見るのよりはるかに大きく、草丈も二メートル~三メートルほどにもなっています。さらに、ウバユリもオオウバユリがよく見られます。それは全体に大型ですが、花も1020個も付けるので、四国のウバユリと違って元気に満ちた姿として感じられるものです。

 


st07_m2.gifことば

212)信仰とは、神へ向ってひたすら努力することではなく、神に己れをゆだねることである。…そうすれば、万事が順を追うてまったくひとりでに行われる。まず、青々とした畑、つぎに、実りを約束する穂、やがて、実った見事な穀物、そして生涯を無駄でなく、立派に過ごしたあとで、最後に安息のための収穫。「神を愛する者たちには、すべてのことが益となる。」(*)(ローマ人への手紙八・28)。
このことを信じる人にとっては、普通の意味での「幸福」や「不幸」の観念は、もはや存在しない。(ヒルティ著眠られぬ夜のために上七月一五日の項)
・確かに、もし私たちがすべてのこと、―病気や家族の不和や死別、事故、職業上の困難などいろいろのことをも、私たちが神の愛と万能を固く信じ続けるかぎり、すべては益と変えられていくと信じることができるなら、神はそうした信仰を祝福し、実際にそのようにして下さる。これこそ、道のないところに新しい道を開き、水のない荒れ地に水をあふれさせて下さることである。

213)ハイジはクララに問いかけた。
「星はどうしてあんなに輝いて私たちを見下ろしているのか知っている?」
「知らないわ。どうして?」
「それはね、お星さまは天国に住んでいて、神さまは何でも私たちのためによくして下さることを知ってるからよ。こわがったり、苦しんだりしないで、何でも最後にはよくなるのだって信じて、喜んでいなさいと、言っているのよ。
だから私たちは神さまにすっかりお任せして、いつまでも心にかけて下さるようにお祈りすればいいのよ。」
(ヨハンナ・スピリ著 「アルプスの少女ハイジ」角川文庫 二四二頁)

Why do you think the stars twinkle so brightly at us? asked Heidi.
"I don't know.Tell me" Clara replied.
"Because they are up in Heaven and know that God looks after us all on earth so that we oughtn't really ever to be afraid,because everything is bound to come right in the end.That's why they nod to us and twinkle like that. Let's say our prayers now Clara,and ask God to take care of us."
「ハイジ」の物語は、アニメになってテレビでも広く親しまれてきた。私はそのアニメはわずかしか見てはいないが、愛らしい登場人物と美しい山の風景によって心のなごむ内容であったように思う。しかし、その子ども向けのアニメでは、この物語の中に深く流れている神への信仰がほとんど削除されている。
著者のスピリは、牧師の娘で、ハイジの物語を原作の訳で読むと、著者が何とかしてこの本を読む人たちにキリスト信仰を伝えたい、という情熱と、アルプスの自然への深い愛が伝わってくる。
ここに引用した箇所も、上の「ことば(212)」の(*)の聖句(信じる者にはすべてが益となる)をわかりやすく言ったものである。
なお、著者の墓には、次の聖句が刻まれているという。
主よ、われ今なにをか待たん。
わが望みはなんじにあり。(詩編三九・8
So now, Lord, what am I to hope for? My hope is in you.
星や山々、草木など自然のさまざまのものは神が創造されたものであり、そこには神の私たちへの愛、その万能の力や美などさまざまのものが刻まれている。
著者が、ハイジに託して述べているのは、神と心がひとつに結ばれるほど、周囲の自然の世界からも、私たちへの神からの生きたメッセージが実感されるということであり、自然を通し、そして神の言葉を用いて、読者に語りかけているのである。

 


st07_m2.gif編集だより

○北海道、山形、東京などでの集会。
七月十五日(金)~二十一日(木)まで、北海道や東北、東京などで、み言葉の真理の一端を語る機会が与えられました。北海道南部の日本海側にある、瀬棚郡の瀬棚町(奥尻島の対岸)というところでの聖書集会は、今年で三十二回を迎えるもので、参加者は酪農をしている人たち(一部に養豚)が主体でした。参加者は部分参加の人や子供も含めて三十人近い人たちが参加していました。そのなかには、日本キリスト教団の利別教会の相良牧師、教会員二名も含まれています。
金曜日の夜から開会式と自己紹介、翌土曜日には私は午前と午後の二回の聖書講話、利別教会の相良牧師は「信仰の継承」ということで話されました。日曜日には私が利別教会で、「平和は大河のように、義は海の波のように」と題して四十分ほどの聖書講話を受け持ちました。午後は、牧師の講話のつづきと信仰の継承ということについての座談会、夜は、感話会、交流会がなされました。土曜日の座談会では、「平和と宗教」というテーマで話し合いがありました。
平和ということについての、聖書そのもののメッセージは何か、武力を用いる戦争は新約聖書の内容にいかに反しているか、イスラム教(コーラン)の問題点、戦争は人間の自分中心という本質(罪)から生れるということなど、話しました。瀬棚聖書集会のように、幼児からその両親、さらにその親にあたる各世代が共に集まって聖書中心の集りがもう三十年以上も続けられてきたということのなかに、不思議な神の支えと導きを感じます。
札幌での集会は、19日(火)の午前10時~2時ころまでで、平日にもかかわらず、二十五名ほどの集会となりました。地元の札幌以外に、会場から三五〇キロも離れた釧路という遠隔地からもご夫妻で参加された方、苫小牧市からも、六名、旭川からも一名が参加され、北海道の各地集会と私どもの集会の三名との合同集会といったかたちになりました。
盛岡では、スコーレ高校の田口 宗一さんご夫妻のご協力もあって、事故で車椅子を使う障害者となった主にある友を訪ねることができましたが、現在の生活だけでなく今後も大きな困難が待ち受けていることを思い、主によるさらなるいやしと導きを祈りました。
山形では、初めて山形聖書集会の方々との集会でみ言葉を語り、その後の夜遅くまでの話し合いを通じて主にある交流を与えられました。
またその翌日は、東京の八王子市の永井宅では十三名の方々が集められ、足立区の越川宅においても七名ほどの家庭集会が行なわれました。
初めての方、また「いのちの水」誌を通して関わりのあった方、全国集会や「祈の友」、あるいは四国集会に参加された方々もおられて、ともにみ言葉を学び、交流が与えられました。
さまざまの地域で、いろいろなキリスト者の方々と出会い、ともに祈り、聖書を学び、讃美し、主を信じる者としての交わりが与えられることは本当に幸いなことと感じました。パウロも、顔と顔を合わせて会う、ということを願っていますが、そのことの重要性を感じ、すべての行程のなかに主が働いて下さり、この世の交わりとは異なるよきものを与えられました。

 


st07_m2.gifお知らせ

○特別集会のお知らせ
八月二七日(土)に、静岡から西澤 正文兄が他の数名と共に来徳され、二十八日(日曜日)の主日礼拝の聖書講話を担当して下さいます。前年までは、石川 昌治兄が来徳されていましたが、体力の衰えのために今年から西澤兄に交代されることになりました。主が守られ、祝福された集会となりますように。

○本文にも紹介しましたが、集会員の伊丹 悦子さんの詩集「朝のいのり」が出版されました。挿絵は、去年のクリスマス集会にも参加されたことのある、,木村代紀氏。発行 美研インターナショナル。発売 星雲社 定価 一三〇〇円。

○全国集会
今年の無教会(キリスト教)の全国集会が、十月八日(土)~九日(日)に東京の青山学院大学で行なわれます。テーマは、「今、生きるとは―キリストにある愛のはたらき―」です。今年はとくに、発題や意見発表や讃美に例年より多く若い人も加えられています。発題としては六名がそれぞれ三〇分を与えられて、テーマに沿って、愛と性、愛と伝道、そして神の愛をもたらすために不可欠な信仰についても、信仰と政治、教育、福祉、職業とのあり方を内容とする発題がなされる予定です。
また、翌日の午後のグループ別集会では、それらの発題についてより深める話し合いがされ、その後、「私の信仰と、意見」として五名が語ることになっています。
なお、一日目の夜は、パイプオルガンによる讃美の夕べというのも自由参加のプログラムとして組まれていること、主日礼拝には、聖書講話の前に讃美による礼拝を初めて三〇分組み入れているのも新しい内容です。
期日…108日~9日(日)
8
日 受付開始 12時 開会 13時 閉会 2030
9
日 受付開始 830分  開会9時 閉会 17
会場…青山学院大学 青山キャンパス内・ガウチャーメモリアルホール(記念礼拝堂)