20058月 第535号・内容・もくじ

st07_m2.gif待ち望む

st07_m2.gif旧約聖書における神の愛

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st07_m2.gif創世記における最後の言葉

st07_m2.gifことば

st07_m2.gif編集だより

st07_m2.gifお知らせ


st07_m2.gif待ち望む

今年は梅雨においてもほとんど雨が降らず、水不足が次第に深刻なものになっている。科学技術がいくら発達しても雨のようなきわめて身近なものもどうすることもできない。水こそは、生活に不可欠な最も基本的な重要性を持つものであるけれども、台風や梅雨前線のような大量の雨を降らすことなど人間の技術ではもちろん不可能なことで、ただ、待つしか方法がない。
これは心の問題、霊的な問題においても同様の側面がある。単に知識を覚えたり、技術を習得するのは強制したり、一定の時間をかけて訓練すればだれでも次第に身についてくる。
しかし、人間そのもの、その魂が新しくされるような重要なことは、どのように強制しようともできないことである。それはただ、神の御手が望むのを祈り、待ち望むしかない。
神の力、神ご自身そのものとも言える聖なる霊についても同様で、復活された主イエスも次のように言われた。
「エルサレムを離れず、前に私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」(使徒言行録一・4
主イエスは、世を去る前に自分が十字架にかかって処刑され いなくなるがその代わりに、聖霊を与えるという約束をされていた。
そして、共に集り、祈りをもって待ち望んでいた人々に時が来て、聖霊がゆたかに注がれたのである。
私たち自身が新しく創造されること、この世が神の国へと変えられること、復活のこと、悪が滅んで善が勝利すること、この世の苦しみや悲しみからの究極的ないやし…等々、重要なすべてのことについて最終的に神がすべてを成就されると信じつつ、私たちは待ち望む。

 


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その神こそは、永遠に生き、愛し続ける神、
唯一の神であり、唯一の法、唯一の源である神、
そして唯一のはるかな、聖なる結末。
その神に向かって、すべての被造物が動いていく。
(テニソン著 「イン・メモリアム」の最後の節)

The God,which ever lives and loves,
One God,onelaw,one element,
And one far-off dvine event,
To which the whole creation moves.

・この詩の作者、テニソン(一八〇九年生れ)は妹の婚約者でもあり、無二の親友であった友人が若くして急死し、それが強い動機となってこの長編詩を作った。テニソンはブラウニング、ワーズワースらと共にイギリスを代表する詩人の一人。
この詩では、得難い親友を失って深い悲しみや絶望的な感情にとらわれていた詩人が、次第に信仰に基づく希望を与えられ、愛の神への信仰に導かれていく過程が歌われている。
なお、この詩の序文は、「つよき神の子、朽ちぬ愛よ」ではじまる讃美歌として取り入れられている。(讃美歌二七五番)
この詩は、一五〇ページほどにもなる、長編詩の最後に置かれた一節である。この最後の部分は、この詩のよく知られた序文(*)とともにイギリスの代表的詩人の一人とされ、桂冠詩人となったテニソンが何をこの詩において歌おうとしたかがはっきりと示されている。

*)この詩は、Strong Son of God,immortal Love,(強き神の子、不滅の愛よ)… という言葉から始まっている。

神とは永遠に生きておられる存在であり、しかも単に生きているのでなく、それは愛し続けて生きている存在だということ。そしてその神こそは、宇宙における唯一の神であり、人間の歩むべき真理(法)そのものであり、あらゆるものを生み出す源である。
さらに、この世界はどうなるのか分からない偶然的なものでもなく、自然に消滅するのでもなく、輪廻のような繰り返しでもない、明確な結末がある。それは聖なる結末を持っている。
万物は神に向かって動いているのである。
深い悲しみと絶望感が色濃くにじんでいるこの詩が最後にはこのような確信で終わっていることに驚かされる。
ここに引用したこの長編詩の最後の部分は、聖書のつぎのような箇所を詩的に表現したものである。

・すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられる。(エペソ書四・5
・こうして、時が満ちるに及んで、…あらゆるものが、…天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられる。(エペソ書一・10より)
・すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている。(ローマの信徒への手紙十一・36

このような詩に接するとき、日本の詩(和歌、俳句など)に全く見られない雄大さと深さがたたえられているのに気づかされる。永遠の神によって触発された魂はまた、永遠的な真理の歌を歌おうとするのがわかるのである。

アサギマダラ

アサギマダラという蝶は
その小さな羽根で
こんなにはるばる空をとぶという
神様に言われたとおりに
疑わないで飛んでいく
花に羽根を休めても
立ち止まらずに飛んでいく
大雨の日も風の日も
荒れ地の上も、山中も
神様は、必ず守ってくださるのだと
疑わないで飛んでいるのだ(貝出 久美子 詩集「天使からの風」より)

・二〇〇四年一〇月一七日に小松島市の日峰山からマーキング(しるし付け)をした上で放たれたアサギマダラが、直線距離にして約七百七十キロ離れた鹿児島県喜界町の喜界島まで飛んでいたことが同年一〇月三〇日に確認された。こうした実験は各地で最近は行なわれている。この蝶は平地では私は見たことはない。四国なら夏に剣山の標高一七〇〇メートル前後の花にいるのをよく目にする。わが家は低い山にあるが、一年に一~二回程度見かける。ひらひら、ゆらゆらとその美しい羽根をゆっくりはばたかせながら飛ぶので、このようなマーキングの証拠がなかったらそんなに遠いところまで飛んでいくなどとは到底信じられないだろう。この蝶はアメリカ大陸でも数千㎞を渡るので知られている。 すぐ近くの山々でいくらでも花はあるにもかかわらず、なぜこのような長距離を飛んでいくのか、驚かされる。 強い風が吹いたらどこを飛んでいるのか分からなくなるだろう。海の上では海に風や雨でたたきつけられるかも知れない。数多いチョウの中でもとりわけゆったりと飛ぶチョウが何故このような遠距離を飛んでいくのだろうか。
神から与えられた不思議な力によって、支えられまた導かれて飛んでいくようだ。
人間が神の国に達するというのもどこか似ているところがある。この弱くて歩みの遅いもの、しばしば罪のゆえに逆戻りしたり、泥沼に落ち込んだりするもの、そのようなものがどうしてはるかな神の国、清い世界に到達することができるのだろうか。
ただ、神からの力とつばさを与えられ、不思議な力によって導かれるとしか言いようがない。

 


st07_m2.gif旧約聖書における神の愛

聖書において、「愛」が言われるときには、ほとんど新約聖書の内容からである。主イエスの「隣人を愛せよ、敵を愛せよ、まず神の国と神の義を愛せよ」、という言葉や、「人間の罪の赦しのために十字架にかかって血を流し、いのちをささげたほどの愛」といった言葉などがまず思い浮かぶであろう。
また、ヨハネ第一の手紙にある「神は愛である」、使徒パウロの手紙にある、「いつまでも残るものは、信仰と希望と愛である。そのうち最も大いなるものは愛である」という言葉なども必ずあげられる言葉である。
しかし、旧約聖書の神も新約聖書の神も同じであるゆえ、新約聖書の神の本質である愛は旧約聖書にも随所に記されているのであるが、一般的には旧約聖書は義の神、裁きの神というように受けとられていることが多い。
しかしこれは大きな誤りである。ちょうど、アメリカの大統領がイラク戦争を旧約聖書の戦いを持ち出して正当化したように聖書のある一部を取り出すと大きな間違いをすることがある。旧約聖書では神が戦いを命じている。しかし新約聖書においては、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」、と言われているほどである。武力をもって敵を攻撃し、滅ぼせなどとは全く言われていないのは新約聖書を見れば明白なことである。
それと同様に、旧約聖書というと義の神、裁きの神というイメージしか浮かんでこない、という人が多い。それは聖書そのものの内容を深く知らない、ごく表面的に一部を読んだだけ、あるいは他人が書いているものをそのまま鵜呑みにしているからである。
旧約聖書の最初の書である、創世記にも神の愛ははっきりと記されている。というより聖書の巻頭に置かれたこの書は聖書全体のメッセージともなっているのである。
聖書の最初におかれた創世記には、まずこの世には完全な闇と果てしない混乱とがあったことが記されている。そしてそのただなかに、神が「光あれ!」と言葉を出された。それによって、深い闇の中に光が現れ、神の言葉に従って混乱の極みであった暗黒世界が秩序あるものとして整えられていった。
これは人間の心の状態を映し出している。私自身、この箇所はキリスト者となる前には、現在の自分とか世界とは何の関係もない古代の話だと聞き流していたであろう。実際、私の大学時代、キリスト者となって間もない頃、親しかった理学部の友人にこの創世記の話を少ししたが、彼は「古代の神話だね!」といって笑って聞き流したのみであった。
しかし、この創世記の最初に実は聖書全体のメッセージが凝縮されているのである。この世は闇であり、何が正しくて歩むべき道なのか、まるで分からなくなった無数の人たちの群れがある。そうした闇と混乱のただなかに光が差し込むとき、まったくそれまでと異なる状況が訪れる。
闇にあるときにはどう考えたらいいのか、この深い悩みと苦しみからいかにして脱することができるのか全く分からなかった。そして周囲の友人や親、大学の教師たちもそのような答えはまるで持っていなかった。そこから私は引き出されたのであった。それは光が闇に閃光のように差し込んだのであり、この世を貫いている真理の流れが初めて感じられるようになった。
そこに深い神の愛を実感した。それまではどんなにしてもその恐ろしい闇から抜け出すことができず、どんな人間もどうすることもできなかった闇から救い出して下さったのは、人間の愛でなく、神の愛そのものであった。
キリストのはたらきもまさにそのような闇から救いだすことであったし、そのためにこの世に使わされたのである。
このように、聖書の冒頭にある有名な言葉、闇と深い淵、あらゆる混乱のただなかに「光あれ!」と言われて、そこに光が存在しはじめた、という記述は、聖書全巻を貫く神の愛を宣言しているものなのである。
人間の苦しみや悲しみはいろいろな場合に生じるからだれでも何らかの形で持っている。愛する者が奪われた、人から認められず、愛されず無視されたり見下される、差別される、貧困や病気、物質的には豊かであってもなすべきことが分からない、希望がない、生きる支えがない…等々。そのようなときには心に闇があり、考えるべきこと、生きるべき道が混乱して分からない、ということである。生きていく力もなく、そのような気持ちにもなれない、という状況である。
「光あれ!」という聖書の最初に出てくる言葉は、そのようなあらゆる状況から導き出すものと言えよう。
愛とは苦しみや悲しみの中においてこそ、いっそう深く感じるものであり、そのように光を与える神の愛が全巻の最初のところに与えられるところに、聖書が愛をメッセージとしているのが浮かび上がってくる。

次に、旧約聖書における神の愛は、導く愛というかたちではっきりと示されている。
創世記で重要な人物は、アブラハム、ヤコブ、ヨセフたちである。これらの人物はさまざまの困難を経て、すべてよりよきところへと導かれていったのであり、その導きのなかで、神の愛を深く知らされていった人たちであるが、 そのような、神の生きた導きによって神の愛を知らされていくということは、現代の私たちにも常に経験されることである。
アブラハムは最初は現在のイラクの南部地方に住んでいた。そこから導き出されて、遠いカナンの地へと旅立った。それは、その長い旅路を導かれる過程で、当時は誰も知らなかった唯一の神を知らされ、その目的地においての生活において深く神を知らされて生活するためであった。
これは私たちにおいても、自然のままの状況においては神も知らず、歩むべき道や目的地も分からないままであったのを、唯一の正しい道へと導かれることの重要性を示している。
周囲の人々は唯一の神がおられるなどと全く知らなかったのに、アブラハムはとくに選び出されて唯一の神を知らされた。彼にとって、それは驚くべきことであったし、そのことに深い神の愛を知らされたのである。
愛というのは、長い期間にわたって持続しているものほど真実な愛である。人生の数々の波の中、嵐が吹きつける中で一貫して自分に注がれている愛を受けていくときに、その深い愛をいっそう感じるようになる。
導きのうちに実感する愛はそのようなものである。それはこの世でふつうに言われている愛のように一時的なものと本質的に異なるものだと言えよう。
アブラハムは文字通り全く未知の世界へと導かれ、距離的にいっても、はじめに住んでいたカルデヤのウル(現在のイラク地方で、ユーフラテス川の河口に近い所)から、目的地のカナンまで千五百キロ以上あり、さらにエジプトまでも飢饉のときには旅立っていったが、それは全体では二千キロを越えるような距離である。砂漠のような乾燥地帯においてこのような長い距離を移動し、さまざまの困難に直面しつつ、アブラハムは神の導きを実感していった。その長い歩みのなかで神が個人的に親しく語りかけ、本当の歩むべき道を指し示したのであった。
アブラハムの孫にあたるヤコブにしても、兄からいのちを狙われるといった危機的状況のなかで、遠くへ親もとを離れて旅立っていった。その過程で、彼は自分自身の欠点にもかかわらず、神が現れ、天に通じる階段が現れ、天使が上り下りしているのを見るという得難い経験を与えられた。ここにも一人で未知の土地へと歩むものを、愛をもって見守り導く神の姿がはっきりと表されている。
そして目的地に着いたのちにさまざまの苦労を経て、妻にも恵まれ子供も次々と与えられて、それが結果的に神を信じる大きな民族のもとになったのである。
その後、ヤコブの子供のヨセフが兄弟たちの悪意により、隊商に売られ、遠くエジプトに連れ去られた。彼は、家族から引き離され、ただ一人エジプトで生活することになった。彼は勤勉で英知に富んだ人間であったが、悪しき女に謀られて牢獄に入ることになった。そのような苦境にあっても神は一貫してヨセフを導き、その苦しみのただなかに大いなる業をなし、ヨセフはただ神からの啓示によって、となり人の悩みを解決し、牢獄から出ることができた。その後もやはり神の英知を受けていたので、エジプト王にも認められるようになり、政治の最高の地位にまで上ることになった。しかしヨセフはそのようなことによっても傲慢になることもなく、神のしもべとして歩んだ。そのとき、かつて自分を殺そうとまでし、外国の商人に売り渡してしまった兄弟たちが飢饉のために食物を求めてエジプトにやってきた。そして、弟のヨセフに出会った。兄弟たちはかつての弟がそのような高い地位にあるとは夢にも思わなかった。ヨセフは兄弟たちが悔い改めているかどうかを調べようと考え、彼らを試みた。そうした過程で、兄弟たちのなかのユダは深く悔い改め、自分がどんなに苦しむことになっても、末っ子や年老いた父のことを考えるという姿勢があるのがはっきりとし、かつそのような苦しみに遭うのはかつての自分たちのヨセフへの罪のゆえだと気づいたのであった。
このようにして、兄弟たちはかつての罪を悔い改め、和解も与えられ、長い間会うこともできなかった父との再会をも果たすことができたのである。
創世記の最後の部分で、ヤコブは次のようにヨセフを祝福して言っている。

…わたしの生涯を今日まで
導かれた牧者なる神よ。(*
わたしをあらゆる苦しみから
贖われた御使いよ。
どうか、この子供たちの上に
祝福をお与えください。(創世記四八・1516より)


*)「導かれた牧者(なる神)」の原文は、「養う、草を与える、飼う」といった意味の動詞の分詞形が使われている。参考のため、英語訳のいくつかをあげておく。(なお、詩編二三編の、有名な、「主はわが牧者」という箇所にもこの箇所と同じ動詞の分詞形が使われている。)

The God who has been my shepherd all my life to this day,
NIV,NRS
The God who has led me all my life long to this day,
RSV
The God which fed me all my life long unto this day,
KJV

このように、私たちを長い人生を通して一貫して導き、生かし、霊的な養分を与え、導いていくところにヤコブは生涯を通して働く神の愛を感じ取っていたのである。
ここから、私たちは詩編二三編の有名な詩が実はそのような導く神の愛を内容としていたのに気づくのである。

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく
わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。(詩編二三編より)

神の愛の内に置かれている人であっても、苦しみや死に瀕するような艱難に直面することもある。その点で、安楽や苦痛のないものを与えようとする人間の愛と大きく違っている。
 しかし、そうしたすべてを通して神は導かれる。敵対するものが周囲にいて苦しめることもある。しかしそのような状況にあってもなお、霊的には満たし、力を与えて下さる。
そしてよきものであふれさせて下さるという。生涯自分に恵みを与え、慈しみを注いで下さる。そこに確かな愛がある。
こうした導きの愛は、旧約聖書の預言書である、ホセア書にも、「私は愛のきずなで彼らを導き…」(ホセア十一・4)と記されている。 (参考 I drove with a harness of love, Moffat訳)
このような導きの愛こそ、出エジプト記や、サムエル記などの歴史書にはっきりと記されている。出エジプト記は、エジプトの奴隷となっていた民がいかにして神の導きの愛を受けて、エジプトから脱出し、砂漠地帯をいかにして、神が導き、助けたかが記されている。
また、旧約聖書の後半部を占める預言書はどうか。それは、間違った道を歩もうとする人々に対して、預言者を遣わし、何とかして正しい道に引き戻そうとする、神の愛の現れと言える。
ユダの人々は神の言葉を知らされているにもかかわらず、神に背きまちがった道を歩もうとした。それゆえ、神は預言者エレミヤを遣わし、人々の間違いを指摘し、神に立ち返るように繰り返し教えた。しかし人々はまったくそれを意に留めず、背き続けたためについに、エルサレムは焼かれ、略奪され、多くの人たちが殺され、多くが遠く離れたバビロンへと捕囚となって連れて行かれた。
しかし、そのような悲惨な事態となっても、なお、神は人々を愛して、その捕囚も永続的なものではないと言われた。

…それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。
そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。
わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、
わたしに出会う、と主は言われる。
わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。(エレミヤ二九・1114より)

このように、数々の困難や危険な状況に陥ったのは、決して単なる裁きではない。そうした厳しい状況を通って罪を知り、本当の悔い改めに至るようにとの神の愛が背後にある。
預言書というと、正義の神が人々の現状を見て警告し、厳しく裁くことを書いてあると思われていることが多い。しかし、エレミヤは神の深い愛を一貫して告げたのであった。

…しかし、見よ、わたしはこの都に、いやしと治癒と回復とをもたらし、彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す。
そして、ユダとイスラエルの繁栄を回復し、彼らを初めのときのように建て直す。
わたしに対して犯したすべての罪から彼らを清め、犯した罪と反逆のすべてを赦す。(エレミヤ書三十三・)

かつての背信行為にもかかわらず、時がくれば、神は彼らを赦し、繁栄を回復させる、そしてすべての罪に赦しを与えるという。 このような神は愛の神であって、決して単なる裁きの神ではない。
次に、神の愛は、旧約聖書の詩編にしばしば表されている。

詩編の最初に置かれている詩は、つぎのような内容である。

ああ、幸いだ
悪しき者のはかりごとに従って歩まず…
主の教えを喜び
その教えを昼も夜も心にとどめる人…
そのような人は、流れのほとりに植えられた木のようだ。
時が来れば実を結び、その葉もしおれることがない。(詩編第一編より)

これは、悪に従うのでなく、真実の神に従うときに豊かな恵みが約束されていることが全体の詩編の総括のようにして語られている。一見したところでは、神の愛がここに言われているとは感じられないという人もあるだろう。
しかし、本当の幸い、心の深い満足や喜びが、生まれつきの健康や能力、あるいは境遇や血筋といったことでなく、ただ「主の教え(神の言葉)を喜び、それを絶えず心に持つ」ところにある、ということは、万人にとって、特に弱い立場に置かれている者にとっては大きな福音である。
 というのは、このようなことは、本来だれでもできることである。 大きな会社の経営とかスポーツで優勝、音楽で演奏会をする、学者になる…等々は、だれでもができるわけでは決してない。ごく一部であるし、生まれつきの知能、能力とか天分といったものが大きく影響する。それらができるものほど幸いだ、というのなら、生まれつき、幸いな者とそうでない者が決まっていることになる。それではそのような能力のない者は幸いから見捨られたようなものである。
私たちの幸いは、神の言葉への心の態度によって決まる、という、本来なら考えたこともないようなところに、幸いの中心を置くということは驚くべきことである。
 人間の社会ではどんなに真実にしていたからといって報われるとは限らない。不信実なものがかえって多くの報酬を受けたり、もてはやされたりすることも多い。
ただ、神の言葉を喜び、それをいつも心にかけているだけで、私たちは魂がうるおされ、よきものがそこから生れる、それは神が私たちを愛して下さっているからであり、ここに神の愛がある。
神に従わない、言い換えると不信実で悪に加わるなら、当然よきことはない。これは聖書にかぎらず、常識的にも当然のことである。しかし、神の言葉を心にいつも愛し、喜んでいるだけで、金では買うことのできないよいものが与えられる、心がうるおされるといったことは、この世では考えられないことである。
それは神からくる祝福であり、神の「いのちの水」が与えられることであるから、神などないという人には、経験できないことになる。
また、詩編においては、次のように、非常な苦しみにある状況から救い出されたという経験が多く記されている。

…主よ、憐れんで下さい。
私は嘆き悲しむ。
主よ、癒して下さい。
私は恐れおののく。
主よ、いつまでなのか。
主よ私を助けて下さい。
私は嘆き疲れ、夜ごとに涙はあふれる…。
苦しみのゆえに私の目は衰え、
私を苦しめる者のゆえに、老いてしまった。

主は私の泣く声を聞き、
私の嘆きを聞き、
主は私の祈りを受け入れて下さる。(詩編六編より)

この詩に表されているような耐えがたいと思われるような苦しみや悲しみから救い出されるという経験、それが詩編の中心にある。そのような苦しみは人間によっては救われない。どうすることもできない。それができるのは、神であり、神の愛である。
人間が協力して一つの仕事をなし遂げるということはよくみられる。一般的に会社などでの仕事とは大体そのようなものであるし、チームで力を合わせて行なうスポーツとか器楽演奏、演劇なども同様である。しかしそこには互いに愛があるかというと、そのような仕事と個々の人間への愛ということとは別であって何の関係もないということが多いだろう。
医者や看護師にしても、病人の苦しみや悲しみをいやすことも部分的、あるいは表面的にしかできない。ガンの重度の患者の痛みや苦しみを薬で一時的に弱めてもその患者や家族を包む絶望や不安や悲しみといったものはどうすることもできない。
苦しみや悲しみが大きいほど、人間はますますどうすることもできなくなっていく。しかし、神はまさにそのような人間が手を触れることのできないような深い苦しみや悲しみに御手を差しのべて下さる。
それが神の愛である。
この詩においても、人間が自分の悲しみや苦しみを聞いてくれた、人間がいやしてくれた、というのでなく、神だけがその祈りを聞いて下さり、その深い悲しみのもとをいやして下さるという経験がある。

この「いのちの水」誌にも何度か取り上げてきた、次の有名な詩はどうであろうか。

天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。
(詩編十九・23より)

これは、一読しただけでは、神の愛とはとくに関係がないと思う人が多いだろう。
しかし、これは星や月など天体や大空のさまざまの雄大で美しい姿が神の御手のはたらきを示している、というだけではない。星や、夕焼けや白い雲、青い空といったものだけでなく、野草の清い美しさやとくに大きい樹木の祈るような姿、それらは神がいかに絶大な力を持った存在であるかを示すとともに、神の人間への愛をも示しているのである。
私たちが、闇に苦しみ、人間の汚れに心が痛むとき、「人間から離れよ、ここに神の国の美しさや清さがある、それに接して心を癒されるように」と私たちを導こうとされているのが自然の美や力なのである。
私自身、かつて人間の罪や汚れのなかでどうにもならないとき、しばしば山を歩いた。山の世界のもつ清さと揺るぐことのない姿、ところどころの野草などにどれほど心が癒されたことであろうか。山々の連なりのただなかに身を置くとき、大きな見えざる手に包まれるような、人間世界の汚れがすべて洗い流されるような気持ちになったことは幾度あっただろう。
物言わずただ沈黙をもって、その存在を続けている山々が実は目には見えない神の大きな愛の表現であると感じたのであった。

… 昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう。(同35

このような表現も、神がさまざまの手段を用いて、その真理を人間に伝えようとされていることが暗示されている。このように真理が絶えず世界に伝えられようとするのも、人間が闇のなかにあり、真理を知らず歩んでいる状態であり、そのような人間の現実に向かって心を注ぎだそうとする神の愛の表れなのである。

主イエスも言われた、

…あなたがたの天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、
正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる…。(マタイ福音書五・45より)

この言葉には、敵対するものも、神に従おうとする者にも同じように包み込む神の愛を指して言われている。主イエスは神がそのような御方であり、ご自身もその神のお心をそのままに行なう御方であった。そして太陽が万人を照らし、雨がすべての人に同様に降るのも、神の愛を指し示すものだと言われた。
このように、自然の現象のなかにも、よく見つめるときにはそこに神の人間への愛が込められており、神の愛を何らかのかたちで指し示すものとなっている。
これが旧約聖書に収められた詩集(詩編)と他の国々の詩集との大きな違いである。他の詩集、中国や日本、あるいはギリシャなどの古代の詩集は、自然を歌うものや、苦しみや悲しみを歌うもの、男女の普通の愛情の歌、戦いを主題としたものなどいろいろあるが、どれにおいても、神という永遠の存在からの人間への愛などというものを見出すことはできない。それはそのような神がおられることを知らないのであるから、当然だと言える。

そしてこのように愛によって導く神は、人々を最終的に神の国に導くためには、まったくそれまでの方法とは異なる道を新たに導入して下さった。それが、イザヤ書の五三章にある。
神が特別な人をこの世に遣わし、その者に他の人間の罪を担わせ、そしてそれらをすべて担って誤解と中傷のただなかで殺されていくという、かつてない道がそれであった。そこにはいかなる方法をもってしても、人間を救い出そうとされる神の愛がある。
このように闇に光を与える神は、またいかに歩むべきか分からない人間を導き、その罪を赦し清めつつ、導いていかれる神である。そしてその愛に応えることなく背き続ける人間に対してさえも滅ぼしてしまうことをせず、さらに全くあらたな道を備えて下さったのであった。
そしてこの愛が実際に歴史のなかで現れたのが、イエス・キリストであり、その十字架による罪のあがないであり、復活であった。
このようにして旧約聖書における神の愛は、はじめはイスラエル民族に示されたのであったが、そのまま新約聖書のキリストにおける神の大いなる愛、全世界をうるおす愛へと流れていくのである。



st07_m2.gif創世記における最後の言葉

創世記という書物は、その書名が「世界の創造に関する記述」という内容のように思わせるために、ほとんど聖書を読まない人には、天地創造のことが書いてあるのだと思われている。
しかし、創世記の全体では五十章あるが、そのうち天地創造のことを書いてあるのは、わずかに最初の一章と二章の二つの章だけである。
これを見ても創世記が天地創造のことを書いた記録だというのは間違いであることはすぐに分かる。それでは創世記とは何が目的なのか、その主たる内容は何であるのだろうか。
ここでは創世記の最後の章をとくに取り上げてこのことを考えてみたい。

 創世記の最後の章の内容には、二つの重要な内容が記されている。
 それは、「罪の赦し」と、「究極の目的地を目指す」ということである。
 ここではまず、罪の赦しということについてどのように扱われているか、見てみたい。
 創世記は全体で五十章あるが、そのうちの十四章もの分量はヨセフについての内容が記されているし、ページ数でも三分の一にも及ぶ分量になっている。このことだけを見ても、とくに重要視されているのがわかる。
 ヤコブ(*)の子供であるヨセフは子供のときに、兄弟たちに憎まれ殺されそうになったが辛うじていのちは助かったものの、遠いエジプトに連れて行かれた。
その後、無実の罪で牢獄に入れられたり、神からの特別な力を発揮してそこから出ることができたり、いろいろの驚くべきことがあって、ついにエジプトの王に次ぐ、高い地位にまでなった。

*)遠い昔のことで、確実なことは言えないが、ヤコブはキリストより、千五百年以上昔に生きた人だと考えられている。ヤコブの父がイサク、その父がアブラハムである。

 そのころ、ヨセフの兄弟達が住んでいるカナンの地(現在のパレスチナ)に飢饉が起こった。神がヨセフに示した預言によって、エジプトには食料があった。兄弟達は、ヨセフが権力者となっているとは夢にも思わずに、はるばる食料を求めてエジプトにやってきた。
 兄弟たちがエジプトにやってきたとき、ヨセフは彼らが自分の兄弟たちだと直ちに分かった。しかし、ヨセフは直ちに自分の身分を明かすことなく、彼ら兄弟がかつての罪を悔い改めているかどうかを、最大の関心をもって調べようとした。
その結果、兄弟たちはかつての自分たちの罪の重さを知り、その罰として苦しみを受けるのだと気付いていることがヨセフにはわかった。
そうして兄弟たちを父親のヤコブとともにエジプトに呼び寄せ、彼らの生活を支えた。歳月は過ぎ行き、 ヤコブが地上のいのちを終えたときに、兄弟たちは、ヨセフが父親のヤコブが生きていたから助けてくれたのであって、実際にはヨセフはまだ自分たちを赦していないのではないかと不安に思って、赦しを願った。

…お願いです。どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの罪を赦してください。」これを聞いて、ヨセフは涙を流した。…(兄弟たちは)ヨセフの前にひれ伏して、「このとおり、私どもはあなたの僕です」と言うと、
ヨセフは兄たちに言った。
「恐れることはない。わたしが神に代わることができようか。あなたがたはわたしに悪をたくらんだが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださった。(創世記五十・1720より)

このように、罪の赦しの問題が、創世記の長い書物の最後に現れる。ここにも聖書の基本的な特質が見られる。兄弟たちが、かつて殺そうとしたヨセフに心からその罪の悔い改めをして、「どうか、私たちの罪を赦して下さい。!」と願ったことは、そのまま、無数の人の心の願いである。
正しい道から大きくはずれてしまった、その罪はその当時はそれほど深く分からなかったとしても、後になってからどうしても消すことができない魂の重荷となってくる。そしてその罪の重荷を背負って生きていかねばならなくなる。そのような魂に、「あなたの罪を赦す」とのはっきりとした声を聞くことは最大の慰めとなり、励ましとなる。
そして悪を受けた者にとっても、相手がそのように心から悔い改め、赦しを乞う姿は最もよろこばしいものになる。
ヨセフにとっても同様であった。兄弟たちの悔い改めの心を知ったとき、エジプトという大国の最高権力者の地位にあった人が、「涙を流した」と記されている。これはつぎのように新約聖書において、一人の罪人が悔い改めるとき、天において大きな喜びがあると記されているのと同様である。

…言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない(と思っている)九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(ルカ十五・7

言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」(ルカ十五・10

このように、真の悔い改めは最も神に喜ばれるものであるが、そのような悔い改めをした者は、自分がどのように扱われてもかまわないという気持ちになる。それは兄弟たちの次のような言葉にも現れている。

…やがて、兄たち自身もやって来て、ヨセフの前にひれ伏して、「このとおり、私どもはあなたの僕です」と言った。(創世記五十・18

ここで「僕」と訳されている原語は、「奴隷」をも意味する。現在の日本語では「しもべ」といってもどんな類の人間なのか、イメージが浮かびにくい。どこにも「しもべ」などという職業の人はいないからである。
しもべとは、召使というのと同じ意味であるが、古代においては召使というような一応人権も認められている人だけでなく、しばしば奴隷を意味していたと考えられる。
それゆえ、「私どもはあなたの僕です」という部分は、英語訳でも次のように、「奴隷」(slave)と訳しているのも多い。

We are here as your slaves.
NRS, NJB,NAB 他)

真に、悔い改めた魂は、自分のためには何をも要求しなくなる、それは自分の罪の深さを知らされたゆえ、本来ならば厳しい裁きを受けて滅んでしまって当然だと感じるからである。兄弟たちも、もう、自分たちは、奴隷同様となってもかまわないと、いうほどにかつての罪を深く知らされたし、その罰としてどんなことを受けても当然だと感じるほどであった。
このことは、新約聖書の有名な放蕩息子の記事と共通したものがある。放蕩息子も、父親から受けた財産を遊びに使い果たし、豚のえさででも生きていくほどになって死ぬほどの苦しみに陥った。そうなって初めて自分の罪を思い知らされ、父親のところに帰ろう、自分は息子の資格もない、奴隷のような雇い人として扱ってくださってもよい、という気持ちになったのである。
ヨセフの兄弟たちは自分が本当に赦されているのかと、不安になった。あまりにひどいことをした兄弟たちであったからである。犯した罪が重いとき、本当に赦されているのか、赦されるのかと不安になる。赦された確信がなかなか与えられないことがある。
それゆえ古代においても、高価な牛を殺してその血を注いで罪の赦しの確証を得たかったのである。大きな犠牲をはらって初めて罪が赦されるというのが実感であった。菊池寛の「恩讐の彼方に」
*というのもそうした気持を描いている。

*)江戸時代の中頃に、父を亡くし、母との貧しい生活のゆえに誤って人を殺した男が、その罪の償いをしようと、耶馬渓の危険な道にトンネルを掘り始めた。長い苦しい時間のはじまりであった。その作業がおわりに近づいた頃、殺された人の息子がそこに来て、仇を討とうとした。しかし村人に説得されて見張るうち、一緒にかつての仇とともにトンネルを掘り始めた。そして三十年もの歳月ののちに、ようやくトンネルが完成した。それはひとえに、罪の償いのためであった。

しかし、どんなに苦行をしても、それで他人のいのちを奪ったという罪はつぐなえるだろうか。そのいのちは二度と帰ってはこないのであるし、その人が殺されたことによって破壊された家族の苦しみや痛みはいかにしても元に戻ることがないからである。
すでに赦しを与えられという気持ちはあったが、どうしても確信が与えられなかった兄弟たちが、ヨセフに心から赦しを求めることによって、ヨセフは彼らの悔い改めの心をくみ取り、赦しの確証を与えた。
 赦されない者は、恐れる。 そのためヨセフは兄弟たちに「恐れるな」といった。そして神は赦しを受ける者、赦すものを祝福して、「すべてをよきに変える」と言った。ここにすべてを良きに変えていく神の万能があり、神の愛がある。
 それは人間では決して不可能なことである。 人間がいかに悪事をたくらんでも、神を信じるものには、それらの悪を善に変えられるのである。赦そうとする神に代わって、私がどうしてあなた方を罰したりするだろうか、とヨセフは言ったのである。
ここに赦しの重要性がある。赦しを受け、赦すことの重要性である。新約聖書においてもペテロが、何度赦すべきかと問うたが、主イエスは七回を七十倍まで、といわれた。赦すことをしないとき、私たちも神から赦されず、心に平安はなく、神の国の賜物は与えられない。
 このように、創世記の最後の部分に、罪の重さを感じ、悔い改める魂に深く心動かされるヨセフの心が記されているが、これは主イエスの心、神の心を反映したものである。悔い改めこそ、神が最も喜ばれることなのである。

創世記の最後の章は、この罪の悔い改めと赦しが大きな意味を持つことがその背後に記されている内容となっている。
 それと並んでこの終りの章には、重要なことが言われている。それは真の祖国へのまなざしということである。
ヨセフの父、ヤコブはアブラハム以来の先祖の地を一貫して見つめてきた。それゆえに、死のときにも、そのアブラハムからずっと続いている信仰の人の流れのなかに置いてもらうことを最後の願いとした。
人間の最後の言葉は、何であるのか、誰しも関心のあるところである。
ヤコブの最後の言葉は、自分をエジプトでなく、先祖のアブラハムが埋葬されているカナン地方の洞穴に葬ってほしいということであった。
これは何でもないことのように見える。しかし、聖書においてはエジプトというのは特別な意味をもっている。このヤコブが死ぬときには息子のヨセフはエジプトの王に次ぐ、高い地位にある者となっており、どこにでも立派な埋葬をしてもらえる状況にあった。しかし、そうしたことには全く目もくれずに、信仰の人アブラハムが埋葬されたところを希望した。エジプトから自分の遺骸を運んで神の約束の土地であった、カナンの地へと運ばれることを最後の言葉としたのである。

 そして、この願いはヨセフにも共通して流れていった。ヨセフの最後の言葉、これは、長い創世記の最後の言葉でもあるが、ヨセフは息子たちにいつかカナンの地に導かれて帰るときが来る。そのときに、自分の骨を携えていって欲しい、ということであった。
 このようにヤコブ、ヨセフは、共にどのような状況であっても、最後まで本当の目的地を見つめ続けるまなざしを持っていた。
 単に遺骨を神の約束の地に持ち帰って欲しいというのでなく、ここには、究極的な祖国をつねに見つめて生きる姿が表されているのである。私たちはさまざまの事情のもとでこの地上に生きている。清い心などかき消されるような状況にあったり、苦しみのあまりもうこの世にいたくないという気持ちになったりする人もある。
 あるいはこの世の快楽や人間的なさまざまの誘惑に負けて、見つめるものを見失っていくことも実に多い。
 そのような中でも、どんなことがあっても私たちは究極の祖国(ultimate Homeland)を見つめ続けることこそ、永遠の祝福を受けるための最も大切なことである。
 創世記の最後のところで、ヨセフが自分の遺骨を、ヤコブと同様に、神の約束の地へと持ち帰って葬って欲しい、と強く希望したのは、彼のまなざしが、この世のいかなる安楽や地位、名誉にも関わりなく、神の約束を見つめていたことを示している。
ヨセフにとっては、神の約束の地といっても、子供のときに兄弟たちから殺されそうになったあげくに、隊商たちに売り渡されたのであって、それ以来何十年という歳月はエジプトで生活していた。ことにそのうちの後の少なくとも十五年ほどは、エジプトでの王に次ぐ最高の権力を与えられて、自由で豊かな生活をすることができていたと考えられる。 そのような富も権力も健康をも与えられていたエジプトでの生活はきわめて満足すべきものだったと言えよう。
 しかしそれでもなお、ヨセフはそうした物質的な豊かさに惑わされることなく、彼の霊のまなざしは、つねに神にあり、神の約束された地に向けられていたのである。
 創世記の最後に表れるヨセフの言葉が、つぎのようであった。
「神は必ず顧みて下さる。そのときには私の遺骨をエジプトから携えて、神の約束の地カナンへと持ち帰るように。」
 このヨセフの遺言が実現されたのは、それから数百年も経った後のことであった。ヤコブやヨセフの子孫たちがエジプトでめざましく増え広がり、それとともにヨセフの偉大な働きを知らない王が起こって、イスラエル人の類のない力に恐れて、彼らを滅ぼそうとするようになった。そこから長い迫害がはじまり、イスラエル人は絶滅の危機に陥った。そのようなとき、神がモーセを遣わして、人々を救い出すことがなされた。
 そのとき、ようやくヨセフの遺骨がエジプトから、カナンの地へと運ばれたのであった。

… 神は民を、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられた。イスラエルの人々は、隊伍を整えてエジプトの国から上った。
モーセはヨセフの骨を携えていた。ヨセフが、「神は必ずあなたたちを顧みられる。そのとき、わたしの骨をここから一緒に携えて上るように」と言って、イスラエルの子らに固く誓わせたからである。(出エジプト記十三・1819

ヨセフは、息を引き取るときに、「神は、必ずあなたたちを顧みてくださる。そのときには、わたしの骨をここから携えて上るように」と言った。それは神が歴史を導く神であるということを、神からの直感で知らされていたのである。今すぐでなくとも、たとえ数百年後であろうとも、神はその万能の御手をもって、イスラエルの民族を動かし、エジプトを動かし、世界の歴史の流れのなかで神を信じる民を用いてその業をなさっていく、そのような壮大な歴史を導く神、を示されていたのであった。
 神はヨセフを導いた、驚くべき出来事を起こして、殺されそうになり、遠くに一人売り渡されて絶望に瀕する状況になった。にもかかわらず、神はそれらすべてを導いて最善にされた。それはヨセフの生涯を通じての経験であった。
 しかし、神の導きは決して特定の個人にだけ起こるものではない。それは一つの民族、国家をも導き、支配しておられるのである。
 創世記の最後の章は、一見単なる遺言とか兄弟たちの罪の赦しを願うだけの記事のように思われがちであるが、実はこのような深い意味と、大きな展望をもって記されている。
 そして、罪の赦しの重要性、個人と世界を導き、歴史を導く神は、キリストによって世界に啓示され、現代に生きる私たちにも同じようにその真理が迫ってくる。創世記というはるかな古代、数千年前に記された文書に流れている真理は、いまも流れ続けているのである。

 


st07_m2.gifことば

214)我、ここに立つ。私はこうするより他ない。神よ、私を助けたまえ!
Hier stehe Ich.Ich kann nicht anders. Got hilffe mir.
(R・ベイントン著「我ここに立つ」聖文社 234頁 )

・宗教改革者、ルターがドイツ国会で審問されたとき、自分の書いた書物を間違っていたと認めるかどうかを迫られた。ルターに対して激しい敵意を持った人たちもいる中で、ルターは、次のように語った。
「私は聖書と明白な理性によって確信するのでない限り、私は教皇と教会会議の権威を認めない。…私の良心は神のみ言葉にとらわれているのであるから。 私は何も取り消すことができないし、取り消そうとも思わない。なぜなら、良心に背くことは正しくないし、安全でもないからだ。」
その後で言われたと伝えられている言葉が、ここで引用した言葉である。
私たちは、「我、ここに立つ」と言えるほどの強い基盤をもっているだろうか。私たちは一体どこに立っている、といえるだろうか。 また、日本人の代表が集まった国の政治は、どこに立っているのか、あるいは、代議士たちもどこに立とうとしているのだろうか。
唯一の神を知らないときには、だれでも、自分の利益、自分の考え、特定の人間、あるいは金や地位の力、組織等々の上に立っている。しかしそれらがいかにもろく弱いものであるか、それは生きていく過程のなかで、思い知らされることである。
旧約聖書の詩編において、しばしば「神はわが岩、わがとりで」という言葉が表れる。それは不動の土台を知っていて、私はここに立つ、ということが確言できるひとの言葉である。

215)(神の)摂理は倒れた者を起こし、くずおれた者を立ち上がらせるために、千もの手段を持っている。ともすれば我々の運命は冬の果樹のようにも見える。その憐れな様子を見るとき、このこわばった大きい枝やぎざぎざした小枝が次の春にはふたたび芽を出し、花咲き、それから実をつけることができようと、だれに考えられるだろう。しかし、我々はそれを期待している。我々はそれを知っているのである。(「ウィルヘルム・マイステルの遍歴時代」第一巻12章より ゲーテ著 筑摩書房 世界文学体系 411頁)

・これは第一巻の最後の言葉であり、著者がこの言葉に特別な重要性を与えているのがうかがえる。人間は突然、事故や災害、病気に会い、または人間関係が壊れたりして、もう将来は絶望的だ、幸いは永久に去ってしまったと思われるような事態に直面することがある。
しかし、冬の枯れたように見える樹木はまた芽を出し、花咲き、実をつけることができる。
人間の世界も同様で、いかに人間の考えでは苦しく悲惨なように見えても、万能の神は我々の到底想像もつかないような手段を持っておられ、私たちを導かれる。 それを、あるかどうか分からないが単に信じるというのでなく、「知っている」という。知っているからこそ、確固とした希望がある。そのような希望こそ、聖書に言われている、いつまでも続く希望、決して壊れることのない希望なのである。

 


st07_m2.gif編集だより

来信より
○…いのちの水は旧新約を伏流水となって流れており、時と、ところに応じてあふれだす、との言葉が大変新鮮に響きました。また、本誌七月号には、「あなたの平和は大河のように、恵みは海の波のようになる」というイザヤ書の言葉が引かれ、旧約聖書における「平和」とは、完全にされ、満たされた状態を意味しているため、いつかあふれ出して周囲に流れていく大きな河のようなものとの説明に感慨深くありました。
…キリスト者は平和をつくるために各自が器に応じた活動をされていますが、大切なことは、まず、自分が新しく創造されること、キリストにより、「神との間に平和を得」るものとさせていただくことを自分の問題として受け止めております。(七月の東京での集会に参加した方からの来信)
○…戦後60年を迎えましたが、最近は戦前復帰の風潮がみられ、憲法改悪など右傾化を憂えます。貧しくとも、平和を作り、愛する日本国、独立国でありたいものです。(北海道の方)
○ヨハネ福音書の講話CDはやさしい言葉で、深くわかり易く、真理の言を説き明かして下さり、感謝して聴き、歩ませて頂いております。徳島の集会の様子、四国から吹いてきます霊の風を感じながら…(関東地方の方から)
・ヨハネ福音書CDは以前にも紹介しましたが、吉村 孝雄による聖書講話の録音をCDに記録したものです。これは私たちの日曜日の集会で二年八箇月ほどをかけて学んだテープからCDに収めたものです。ふつうの家庭用のCDラジカセで聞くことができることもあって、希望者が多くありました。 パソコンではさらに取り扱いが便利で、途中で聞き直すこと、ある箇所のつづきを聞くなどが、簡単にできます。従来のカセットテープでは百巻にも達する分量となり、取り扱いは面倒で保存も大変ですが、CDでは、それらが一冊のブック状のケース(幅8cm×奥行15cm×高さ28cm)におさまるために便利だという側面もあります。なお、先に購入申込された分については元になるテープが見つからず、若干の欠けた部分がありましたが、それを現在補充したものを作成中です。それが完成すればさきにお届けした方々にも追加のCDをお届けしますが、そのための費用は不要です。県内の申込者の方々にはそれが完成してからお届けする予定です。

 


st07_m2.gifお知らせ

○前月号で紹介した、伊丹悦子詩集「朝の祈り」、今月紹介した貝出久美子詩集「天使からの風」などを希望、あるいは複数部を追加購入される方は吉村(孝)まで申込んで下さい。
「朝の祈り」は一冊1300円、貝出詩集は一冊150円です。いずれも送料は当方負担します。
○第32回四国集会の記録ができました。郵送分は来月号にてお届けできると思います。
○現在でも時々、5月に行なわれた第32回キリスト教四国集会
(無教会)のテープ10巻の申し込みがあります。これは送料共で1500円です。
○九月二十三日(金)祝日ですが、この日に高知市で「祈の友」四国グループ集会が開催されます。問い合わせは、高知市の福家 真知子姉。電話088-845-6098 どなたでも参加できます。